かつて文庫で読み、映画化されると聞いていた「死にゆく妻との旅路」を観てきた。いつもの最寄駅前の映画館では上映されず、迷った挙句、夫に背中を押され、都心まで一人で出かけた。往復だけで3時間半以上かかってしまった。(往復で文庫2冊読み終えた。)
やはりどうしようもなく重かった。
そして、帰宅後、再び、文庫を読み返してみた。
1999年3月から12月の間に起きた実話で、新聞記事にもなった。
その後、2000年秋に月刊「新潮45」に2号にわたって手記として掲載され、大きな反響を得たが、大幅な加筆修正が加えられて文庫化するまでには数年を有した。殆ど宣伝もなしに口コミで15万部売れたという。1947年生まれの清水久典さんの書だ。
不運が重なった上に膨らんだ4000万もの借金を抱えながら、親族から薦められるも自己破産を拒む。金策も尽き、車を走らせる先々で職探しをするが、52歳という年齢に阻まれる。手にしているのはなけなしの50万だけ。手術は済んだが、早ければ3ヶ月後には再発すると医者から言われている大腸癌の妻と2人、9カ月間272日、6000kmをワゴン車で走り、生活したいわば逃亡生活の記録だ。
そして妻は、夫が友人から分けてもらう漢方薬を飲みつつも、夏を過ぎた頃に再発し、徐々に衰弱していく。それでも夫と2人でいたい、と激痛の中、病院に行くことをひたすら拒み続ける。やがて車中で妻は死に至る。夫は「保護者遺棄致死」で逮捕される。
その間に妻はあれほど嫌がった病院で解剖され、葬儀も終わってしまう。20日後に不起訴処分となり、夫は改めて妻が亡くなった時のままの=枕のくぼみもそのままの=ワゴン車内に閉じこもり、号泣する。迎えに来ていた一人娘がバンのガラスを割り、父を現実に引き戻す。夫の苦渋の顔のアップで暗転というものだ。
For Hitomi Shimizu(1958-1999)というエンドクレジット。
私よりわずか3歳年上なだけなのに、もう亡くなって12年近く経つのだ、と息苦しくなった。
帰宅して改めて本を読みなおし、映画が細かい部分についても、とても事実に基づいて撮影されたことがよくわかった。
よせばいいのに、どうも自分と重ねてしまう。
もちろん違うところの方が沢山ある。
が、齢が離れた夫婦であること、妻が再発進行がんであること、アイスクリームが好きであること、など同じ点を探して自分に引き寄せてしまう。
唯一救われるのは、清水さんがその後、妻のことを大切に思い続けながらも、娘の家族たちとともに前を向いて生きていることだ。
やはりとても他人事とは思えなかった。
こんなに大変な思いをして都心まで観に行き、こんなに重たい気持ちになるなんて、とちらりと思ったけれど、それでも、私は夫や息子と少しでも長く一緒にいるために治療を続けなければ・・・と改めて思わせてくれた作品だった。
今日は勤務する大学の合格発表日だった。悲喜こもごもの毎年の風景だ。
大学入学は決して人生の目的ではないし、仮に第一志望にご縁がなかったとしても、本人が気持ちを切り替えて、別の大学に進んでそこでの学生生活を有意義に過ごすことが出来るか、またはもう一年頑張るという選択をして努力を続けることができるのか、そちらの方がよほど大切なことだ。ひと様のお子様に対しては、そのようなアドバイスも出来るのだが、こと、これが自分の息子の話になった時、冷静に、そして暖かくそう言ってやれるのかどうか。
中学受験の厳しい結果を、今回の高校入試によりようやく受け入れることが出来るようになったほど、ダメ母だった私だ。3年後は、少しは成長していると良いのだけれど・・・。そして何より3年後にも元気で世話が焼いていられることを望みたい。
前にもこのブログで書いたが、一昨年の秋にⅣ期の肺がんが見つかり、抗がん剤治療を続けておられた、Мさんのご主人が昨夜遅く亡くなられた、という連絡があった。
葬儀は近親者のみ、とのこと。覚悟はできています、と気丈なメールをくださっていたМさんは、年が明けてから介護休暇をとっておられたが、1カ月ほどご連絡がなく、案じていた。ホスピスに転院する手続きはした、とおっしゃっていたけれど、転院は叶ったのだろうか。
最愛のご主人を亡くされたМさんの悲しみはいかばかりだろうか。
取り急ぎお悔み電報をお送りして、少し落ち着かれた頃に、共通の友人とお線香をあげに行かせて頂こうということになった。合掌。
やはりどうしようもなく重かった。
そして、帰宅後、再び、文庫を読み返してみた。
1999年3月から12月の間に起きた実話で、新聞記事にもなった。
その後、2000年秋に月刊「新潮45」に2号にわたって手記として掲載され、大きな反響を得たが、大幅な加筆修正が加えられて文庫化するまでには数年を有した。殆ど宣伝もなしに口コミで15万部売れたという。1947年生まれの清水久典さんの書だ。
不運が重なった上に膨らんだ4000万もの借金を抱えながら、親族から薦められるも自己破産を拒む。金策も尽き、車を走らせる先々で職探しをするが、52歳という年齢に阻まれる。手にしているのはなけなしの50万だけ。手術は済んだが、早ければ3ヶ月後には再発すると医者から言われている大腸癌の妻と2人、9カ月間272日、6000kmをワゴン車で走り、生活したいわば逃亡生活の記録だ。
そして妻は、夫が友人から分けてもらう漢方薬を飲みつつも、夏を過ぎた頃に再発し、徐々に衰弱していく。それでも夫と2人でいたい、と激痛の中、病院に行くことをひたすら拒み続ける。やがて車中で妻は死に至る。夫は「保護者遺棄致死」で逮捕される。
その間に妻はあれほど嫌がった病院で解剖され、葬儀も終わってしまう。20日後に不起訴処分となり、夫は改めて妻が亡くなった時のままの=枕のくぼみもそのままの=ワゴン車内に閉じこもり、号泣する。迎えに来ていた一人娘がバンのガラスを割り、父を現実に引き戻す。夫の苦渋の顔のアップで暗転というものだ。
For Hitomi Shimizu(1958-1999)というエンドクレジット。
私よりわずか3歳年上なだけなのに、もう亡くなって12年近く経つのだ、と息苦しくなった。
帰宅して改めて本を読みなおし、映画が細かい部分についても、とても事実に基づいて撮影されたことがよくわかった。
よせばいいのに、どうも自分と重ねてしまう。
もちろん違うところの方が沢山ある。
が、齢が離れた夫婦であること、妻が再発進行がんであること、アイスクリームが好きであること、など同じ点を探して自分に引き寄せてしまう。
唯一救われるのは、清水さんがその後、妻のことを大切に思い続けながらも、娘の家族たちとともに前を向いて生きていることだ。
やはりとても他人事とは思えなかった。
こんなに大変な思いをして都心まで観に行き、こんなに重たい気持ちになるなんて、とちらりと思ったけれど、それでも、私は夫や息子と少しでも長く一緒にいるために治療を続けなければ・・・と改めて思わせてくれた作品だった。
今日は勤務する大学の合格発表日だった。悲喜こもごもの毎年の風景だ。
大学入学は決して人生の目的ではないし、仮に第一志望にご縁がなかったとしても、本人が気持ちを切り替えて、別の大学に進んでそこでの学生生活を有意義に過ごすことが出来るか、またはもう一年頑張るという選択をして努力を続けることができるのか、そちらの方がよほど大切なことだ。ひと様のお子様に対しては、そのようなアドバイスも出来るのだが、こと、これが自分の息子の話になった時、冷静に、そして暖かくそう言ってやれるのかどうか。
中学受験の厳しい結果を、今回の高校入試によりようやく受け入れることが出来るようになったほど、ダメ母だった私だ。3年後は、少しは成長していると良いのだけれど・・・。そして何より3年後にも元気で世話が焼いていられることを望みたい。
前にもこのブログで書いたが、一昨年の秋にⅣ期の肺がんが見つかり、抗がん剤治療を続けておられた、Мさんのご主人が昨夜遅く亡くなられた、という連絡があった。
葬儀は近親者のみ、とのこと。覚悟はできています、と気丈なメールをくださっていたМさんは、年が明けてから介護休暇をとっておられたが、1カ月ほどご連絡がなく、案じていた。ホスピスに転院する手続きはした、とおっしゃっていたけれど、転院は叶ったのだろうか。
最愛のご主人を亡くされたМさんの悲しみはいかばかりだろうか。
取り急ぎお悔み電報をお送りして、少し落ち着かれた頃に、共通の友人とお線香をあげに行かせて頂こうということになった。合掌。