古郡廷治さんの「あなたの表現はなぜ伝わらないのか 論理と作法」(中公新書)を読んだ。
いま、世界中で求められている能力、資質の第1位はEffective Communication(効率よく自分の考えを伝え、よい効果を生み出す能力)だという。それは人間関係を築くにも、関係修復にも必要な技術、と帯にある。
「伝わらない」「誤解される」の原因を究明する書という。“コミュニケーションの原義は「共有する」こと。困難な状況を打開するにも、他人とよりよい関係を築くにも、共有することから始めなければならないことは誰にも明らかだろう。何をどう伝えれば効率と効果が期待できるのか。刻々と変化するメディアを十全に活かすヒントが満載”との触れ込みで、手に取った。
こうしてブログを書くようになって、しみじみ実感していることは、理解されやすい文章、独りよがりでない文章を書くのは難しい、ということだ。いつも読んでくださっている方は、これまでの状況がわかっていてくださるから、まだ差し引いてくださるかもしれないけれど、初めて読んでくださった方にとってもわかりやすく、端的に、というのは、やはりとても難しい。
私は読むこと、書くことは好きだし、書くことで伝えることはそれほど苦にならないのだが、一方、人前で話すことは大の苦手だ。早口なのがどうしても治らない。意識してゆっくり話そうとしているし、こと再発してからは、かつてに比べて歩く速度も大分遅くなっているので、喋るスピードも以前よりは遅くなっているかもしれない。恥ずかしながら、仕事でいくらでも機会があるにもかかわらず、話し方が上達しないのはひとえに訓練が足りないということに尽きるけれど。それに比べて人の話を聴くことは不得意ではない、と思っている。
そういう私は、この本のまえがきの「感情の伝達や意思の疎通のうまい下手は、個々人の性格や人格、経験、知識や文化などに大きく依存する。この意味では下手な人が上手になる王道はない。これらの資質や才覚は一夜にして得られるようなものではない。その一方で、何をどう使い、どのように伝えるかは技法の問題でもある。この点では、話し、書き、伝えることが下手な人にも、適切なメディアを使う術と、どう振る舞い、どう会話するか、どのように文章を書くかなどの作法を会得すれば、短期間で意思の疎通がうまく図れるようになる道はあるといえる。」の部分に救われる。
特に最終章である補章「電子メールによる伝達をどう考えるか」には考えさせられた。
今やメールなしでは仕事も友人との約束等も成り立たなくなりつつある。が、やはり、どんなメディアによるコミュニケーションにおいても、意思の伝達の原点は「思いやりの行為」にある、と筆者は言う。私も基本的には相手が不快に思ったり、いやだと思ったりすることはしないこと、「相手を思いやる」気持ちの大切さは同じだ、と思う。手軽で簡便な通信手段であるからこそ、なおさらその気持ちが必要なのだ。
著者は、大学院生等との課題提出においてのやりとりのメールをいくつか例に出しておられるが、そういえば、先日、私が勤務する大学のある教員が、「あまりにびっくりしたので・・・」と転送してくださったメールがあった。要約すれば「忙しくて先生の授業に出ていなかったので、試験日がわからなかった。掲示も出ていなかったので、私用を優先した結果、試験が受けられなかった。他の科目もかなりまずい状況なので是非単位が欲しい。何とかしてほしい。課題を出してくれれば出来るだけ努力します。」という学生からの泣きのメール。
それにしても教員に対して、いきなりメールで、しかも私用を優先したので・・・と堂々と書いてくるところが驚くばかりだ。
メール送信ボタンを押す前に、果たしてこのメールは本当に送ってよいものなのかどうか、今一度読み直して欲しい、と願うとともに、果たして自分が知らず知らずのうちにまさかそんな失礼なことをしていないよな、と改めて背筋が冷たくなってしまった。
今日は啓蟄。昨日までに比べ、暖かい日だった。また来週はお天気が崩れるようだけれど、やはり一雨ごとに確実に春が近づいている。木々の芽ぶきを感じるのも間もなくだ。一月足らずでお花見が出来ることが今から楽しみだ。
いま、世界中で求められている能力、資質の第1位はEffective Communication(効率よく自分の考えを伝え、よい効果を生み出す能力)だという。それは人間関係を築くにも、関係修復にも必要な技術、と帯にある。
「伝わらない」「誤解される」の原因を究明する書という。“コミュニケーションの原義は「共有する」こと。困難な状況を打開するにも、他人とよりよい関係を築くにも、共有することから始めなければならないことは誰にも明らかだろう。何をどう伝えれば効率と効果が期待できるのか。刻々と変化するメディアを十全に活かすヒントが満載”との触れ込みで、手に取った。
こうしてブログを書くようになって、しみじみ実感していることは、理解されやすい文章、独りよがりでない文章を書くのは難しい、ということだ。いつも読んでくださっている方は、これまでの状況がわかっていてくださるから、まだ差し引いてくださるかもしれないけれど、初めて読んでくださった方にとってもわかりやすく、端的に、というのは、やはりとても難しい。
私は読むこと、書くことは好きだし、書くことで伝えることはそれほど苦にならないのだが、一方、人前で話すことは大の苦手だ。早口なのがどうしても治らない。意識してゆっくり話そうとしているし、こと再発してからは、かつてに比べて歩く速度も大分遅くなっているので、喋るスピードも以前よりは遅くなっているかもしれない。恥ずかしながら、仕事でいくらでも機会があるにもかかわらず、話し方が上達しないのはひとえに訓練が足りないということに尽きるけれど。それに比べて人の話を聴くことは不得意ではない、と思っている。
そういう私は、この本のまえがきの「感情の伝達や意思の疎通のうまい下手は、個々人の性格や人格、経験、知識や文化などに大きく依存する。この意味では下手な人が上手になる王道はない。これらの資質や才覚は一夜にして得られるようなものではない。その一方で、何をどう使い、どのように伝えるかは技法の問題でもある。この点では、話し、書き、伝えることが下手な人にも、適切なメディアを使う術と、どう振る舞い、どう会話するか、どのように文章を書くかなどの作法を会得すれば、短期間で意思の疎通がうまく図れるようになる道はあるといえる。」の部分に救われる。
特に最終章である補章「電子メールによる伝達をどう考えるか」には考えさせられた。
今やメールなしでは仕事も友人との約束等も成り立たなくなりつつある。が、やはり、どんなメディアによるコミュニケーションにおいても、意思の伝達の原点は「思いやりの行為」にある、と筆者は言う。私も基本的には相手が不快に思ったり、いやだと思ったりすることはしないこと、「相手を思いやる」気持ちの大切さは同じだ、と思う。手軽で簡便な通信手段であるからこそ、なおさらその気持ちが必要なのだ。
著者は、大学院生等との課題提出においてのやりとりのメールをいくつか例に出しておられるが、そういえば、先日、私が勤務する大学のある教員が、「あまりにびっくりしたので・・・」と転送してくださったメールがあった。要約すれば「忙しくて先生の授業に出ていなかったので、試験日がわからなかった。掲示も出ていなかったので、私用を優先した結果、試験が受けられなかった。他の科目もかなりまずい状況なので是非単位が欲しい。何とかしてほしい。課題を出してくれれば出来るだけ努力します。」という学生からの泣きのメール。
それにしても教員に対して、いきなりメールで、しかも私用を優先したので・・・と堂々と書いてくるところが驚くばかりだ。
メール送信ボタンを押す前に、果たしてこのメールは本当に送ってよいものなのかどうか、今一度読み直して欲しい、と願うとともに、果たして自分が知らず知らずのうちにまさかそんな失礼なことをしていないよな、と改めて背筋が冷たくなってしまった。
今日は啓蟄。昨日までに比べ、暖かい日だった。また来週はお天気が崩れるようだけれど、やはり一雨ごとに確実に春が近づいている。木々の芽ぶきを感じるのも間もなくだ。一月足らずでお花見が出来ることが今から楽しみだ。