信州が好きだ
一番行くのは上田だ、菅平から下る、群馬嬬恋から言ったり、あるいは諏訪から大門峠を下ったり
あるいは松本からの143号で峠越え、麻績から修那羅峠を越えて青木村経由
小淵沢から佐久を経由、高崎から上信道、軽井沢から18号、蓼科-立科-御牧経由
長野から新地蔵峠越え、様々な山道が峠を越えて上田に集まってくる
この町に住んでいた90歳の老夫婦が毎年1~2回我が宿にくるようになって
親しくさせていただいてから尚更に好きになった町だ
見えられると我が町の名所を車で案内したものだ、雪がほとんど降らない上田故、冬の雪が舞う日に
ドライブしたら目を点にして体験できない風景に見入っていた
長野駅まで送っていったこともある、おじいさんは写真を撮って、それを新聞広告のチラシに貼り付けた
手製のアルバムを作って2度ほど送ってくれた
そのおじいさんも10年ほど前に94歳で亡くなった、亡くなる前年まで家の宿に来ていたから丈夫な
人だった。 案外わたしは幅広い年代層と友達になれるようだ
信濃という国は日本で4番目の面積をもつ県だ、大きな県は戦国時代には大きな力を発揮する
静岡の今川、愛知岐阜の織田、関東一円の北条、新潟の上杉、福井の朝倉、中国地方の毛利などいとまが無い
ところが、信州長野という所には、そうした大大名が存在せず、郡単位で中小大名が争っていた
そこに山梨の武田信玄が攻め込んできて各個撃破したのだ
信濃豪族の諏訪、小笠原などが連合軍で迎え撃ったが、それぞれがプライド高く力の集合体になり得なかった
長野県民は理屈っぽくて頑固、妥協が嫌い、堂々巡りの討論が好きで個性が強いため結論に至らないと隣接他県民が言う
当時もそうだったのか一応信濃守護として松本に小笠原氏が存在していたが、国内を統一する力は無かった
あの上杉謙信でさえ、現在の新潟市以北の新潟県は完全に支配できず、反乱が絶え間なくおきていた
とにかく国が大きすぎるのだ、なのに地域支配のシステムが完成していない
それを上手く機能させたのは織田信長だった、彼の先進的な頭脳は現代でも通用するだろう。
諏訪氏などは殺された挙げ句、娘は武田信玄の(当時は晴信)妾にされて男子を産み、それが武田家を滅ぼしてしまう
武田(諏訪)四郎勝頼になるのだが。
越後一国はほぼ信濃一国に匹敵する面積を有する、ここには上杉(長尾)が居て、反乱は起こるものの統一国家で
あったから、五分の戦いで武田の進行を信州川中島で止めていたのだった。
それで武田信玄は太平洋側に侵略経路を変えて代替わりして弱体化した今川を併合し、相変わらず統一できぬ
中信、南信を併合し、まだ弱かった德川家康の三河を蹂躙して織田信長と対峙したのだった
しかしパワーのあった時代を、上杉謙信との戦に費やしすぎた、織田を攻める頃には老いて病持ちになっていた
結局、戦に勝って病に負けた、そして一方の上杉謙信もまた大酒飲みがたたって脳梗塞を患って死んでしまった
恐怖の竜虎が相次いで病死して、命拾いしたのは織田信長と德川家康である、その後、この連合軍は武田を滅ぼし
上杉を包囲した。
武田勝頼が弱体化したのは長篠の戦い、ここで武田信玄の元で活躍した老臣達が相次いで討ち死にしたのだった
それから7年後に武田が滅ぶ
この長篠の戦いでは、武田家の家臣、真田兄弟も討ち死にした
真田は信州真田郷で勢力を張っていた、すぐ近くには上田の強力な豪族村上氏が城を構えている、たびたび小競り合いを
していたが村上氏は甲州の武田氏と手を結んで、真田の本家海野一族に攻めかかった
真田の真田本城は上田市街から菅平に向かって伸びる道路からすぐ近くに遺構がある、行って見たことがあるが
山城と言うほど急でもなく、ただ形態は山頂の長尾根に伸びている山城特有の構造だ
だが平らな山頂から谷に向かって下りていくようで、あまり山城という感じがしない、普通は下から上に登って行くが
ここは山頂の大地から下っていくのだ、不思議な感じがする
ライバル村上義清の山城「葛尾城」は堂々とした尾根続きの山城だ、ちょっと真田城はちゃちい
上信道坂城Pからは葛尾城を真横から見ることが出来る、大きな尾根だその先が千曲川に45度ほどで落ち込んでいる
このパーキング去年までトイレだけのPだったが、最近コンビニが出来て賑やかになった
このPで周辺の山城を遠望しながら1時間ゆっくりするのが楽しみだったが、コンビニが出来てからはせわしくて長居
できなくなった。
結局、有名な真田幸村のおじいさんにあたる、真田幸綱は本家の海野氏らと上州群馬に落ち延びて関東管領上杉氏の
大番頭、長野氏の居候となる。
中山道海野宿は観光地として昔の街道の町の姿を見せてくれる、上田の東、上信道東部湯の丸インターで下りて坂道を
南に18郷に出て右折、しばらく行くと海野宿入口で左折、千曲川に沿って行くと海野宿に着く
そこの神社に海野氏、真田氏ら滋野一族の成り立ちが書いてある。
国を追われた真田氏に再起の時が来る、長野氏を大将にして管領上杉軍が真田の故郷小県郡に兵を進めた
この時すでに、武田、村上は敵対関係にあり、諏訪、村上の連合も曖昧になっていた
真田幸綱も長野氏に従って本領奪還に燃えて出陣したが成果なく、思い切って仇敵の武田氏を尋ねて武田氏の家臣となった
信州を狙う武田の力を借りて、旧領小県を取り返すつもりだった、武田にしても小県の地理に詳しい真田は重宝した
ところが武田晴信(信玄の若い時代)は砥石城攻めで百戦錬磨の村上義清に大敗して甲府に逃げ帰った
再び上田を攻め上ったが、またしても大敗、重臣を討ち死にさせてしまった
ここで真田幸綱が大活躍、なんと計略で村上の葛尾城を乗っ取ってしまった、これで形勢逆転、武田の猛攻で
村上氏は越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)を頼って落ち延びた
こうして真田氏は武田氏の重臣として取り立てられ、旧領の小県、上田平を領土として取り返したのだった
さらに武田氏の上州攻めに活躍して吾嬬渓谷に沿った険しい地域を手に入れ、一族重臣を配していった、そして
その領土は上州沼田まで広がる。
このあたりは先日も走って見たが、狭い谷間の所々に集落が出来る適度な平地があり、またその先は狭い渓谷になっていく
こういった山岳地帯を住処として生涯を過ごす人々にとって、こうした狭い谷間の国も都なのだろう
その地を死守するためにどれだけの地を流したことか
東海や近畿の開けた豊かな平地で暮らす人たちには想像もつかぬ山国の暮らし、直虎の地、井伊谷もまた真田の庄
同様にその地で生まれ育った人々が死守した土地、狭い土地を必死に守る純朴な人々の地に見える
上州(群馬県)は関東管領上杉氏の力が弱まり、西から武田、南から北条が攻めてきて草刈り場となった
たまらず、管領上杉憲政は越後の長尾景虎(謙信)を頼みに逃げ延び、関東管領職を景虎に譲り、上杉の姓も
与えた、こうして関東管領上杉謙信が誕生した
清廉潔白、無欲の男、そして権威主義者の謙信は上杉憲政という雲の上の人に頼られて感激した、そして
武田、北条の賊徒を追い払い、上杉憲政を関東に安住させるべく越後から出兵する
真田は上田から沼田まで版図を広げた祖、真田幸綱が亡くなり、後を継いだ真田信綱は弟昌輝と共に武田勝頼
に従い、設楽が原の織田、德川連合軍と戦って討ち死にした
そして、養子に出ていた三男昌幸が戻って真田家を継いだ、この昌幸が父の幸綱譲りの策士だった
力も人数小さな戦国大名にとって頼るのは生き残るための知恵、昌幸は主家武田氏が滅んだ後、必死に生き残りの
道を探って北に南に駆け巡る、それは安定した権力者家康などから見れば滑稽でコウモリのような小賢しい人間と
映っただろう
織田信長や越後の上杉、最高権力者秀吉、時には家康や北条とも和睦、終始背後に巨大権力者の威を借りて、その領土を
宿敵北条や德川から守ってきた、そして僅かな兵で地形を利用して、宿敵德川軍を敗退させた昌幸だったが
1600年、関ヶ原の戦いで德川軍に対抗した石田軍に味方したため、信州上田の戦で数万の德川秀忠軍を
足止めさせた、しかし石田があっけなく敗れ敗戦側となり、次男幸村と共に紀州に流され幽閉された、そこで死亡
長男は德川四天王の本多忠勝の娘を娶り、德川方として参戦した、この功によって家康が憎んだ真田昌幸は
処刑されず紀州幽閉で済んだという
真田親子が流されて14年後、德川家康は豊臣家を滅ぼすために大坂城を攻めた
豊臣方も浪人や関ヶ原で敗れた大名や豪傑を集めた、真田幸村も紀州を脱出して大坂城に入城して侍大将として
数千の兵を指揮する事になった
冬の陣は攻めあぐねた德川軍が和睦、しかし油断した豊臣軍の隙を突いて大坂城の守りの要である外堀を埋め立て
総曲輪を破壊した、これによって大坂城の防御力は90%低下したので、家康得意の野戦に豊臣方は引きずり出された
こうなると兵力が少ない豊臣方に部がなく各個撃破されて大将達は次々討ち死に
真田幸村は家康本陣めがけて突入して家康をあと一歩まで追いつめたという話もあるが、真実は?だが討ち死にしてしまった
長男、真田信幸は信州松代に十万石を得て、幕末までその地で移動もなく250年続いた
真田の里、上田から北に向かって地蔵峠越えの自動車道路がある、峠を越えるとつづら折りの山道が続き
松代に下りて行く。 松代は長野市だが真田領の城下町の風情が今も残っていて観光地になっている
城下の道場を見に行ったとき、凜々しい女性が的場で弓の稽古をしていた
凛と張り詰めた空気で、急いでその場を離れた