神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

帰ってきたPねこ

2017年12月27日 16時42分01秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

朝6時に新聞を取りに外に出た。

昨夜は新潟、北陸は60~100cmの降雪という予報だったが幸いなことに、我が町は1cmの積雪すらない

そのかわり海岸特有の西風が吹き荒れています 、これで年内の根雪はないだろう

 

Peeねこの容体は予想以上に悪く、結局3泊4日の入院点滴成生活になった

昨夜、家に戻ると「にゃーにゃー」と泣きながら玄関にお迎えに出てきた

4日ぶりに見たPeeは痩せていた、女房殿に聞いたら腎臓に障害があるネコだと言うことがわかった

それを承知でこのネコとつきあってあげてくださいという医院の添え書き

1歳半で4回ほど入院したPee、それでも元気が回復して走り回っている

15日ごとにしばらくは注射が必要、寒さ対策にこたつを買ってきた、早速潜り込んだのはキャバリアのボスが

先だった

 

 


Pねこ一泊入院

2017年12月23日 21時37分49秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚

楽しい後には、へこむことが待っている

ここ数日、父の食欲が落ちてきて、加えて気持ちの落ち込みが著しい

「一人」だとか「寂しい」とかの言葉が頻繁になってきた

今日も、「みんな居なくなった」と言うから、「そうだね(妹)は嫁に行ったし、(弟)は新潟に住んでるし

誰も居なくなったね。 結局、バカだ何だって言っても、あんちゃんだけは傍に残ったね」

と言ったら、「そうだな」とうなずいた

「一人で寝るのか・・・」と自分の現状をしみじみ言うものだから、「おれだって一人だよ」と言った

「だけど、1日に3人もヘルパーが来るなんてそう無いよ、苦労して稼いだからできるんだよ」と励ました

そうしたら、にんまりと笑って、「よかったな・・」

「そうだよ、一生懸命やったからだよ」

また嬉しそうな顔をした、それから「母ちゃんは、どこに居る?」いつものお決まりのセリフ

「もう死んだよ、夏には1周忌だよ」と正直に言ったら

「そうか、バカな奴め」、精一杯の悲しさ隠し

「一人で寝るんだな」とまた言った、「そうだよ、だけど老人ホームに行けば、同じような年の人は大勢いるけど

そこには行けないだろ・・・?」

「ああ、おれには無理だ、うちがいい」「そうだろ、じゃ夜くらい我慢だよ」

「ああ」

 

Pねこも5日前からすっかり調子が悪い、最初の日は吐いた

翌日から、それは収まったけど何も食べなくなった、通じも僅かしかなく固い

今日はもうストーブに前でぐったり寝ているだけ、いつもの腕白が全く影を潜めて、たまに恨めしそうに

「にゃー」と訴えるようにか細く泣いている

こんなネコを見ると泣きそうになってしまう、まだ1歳半なのに、本当にわが家へ来たときから、ケガと病気と

手術の連続、本当に可哀想なネコなんだ

今日は旗日、明日は日曜日、月曜日まで持つんだろうか・・・・・・・心配になって、一か八かで獣医の奥さんに

(ボランティア仲間)電話をしてみた

そうしたら3歳姉様の彼女、「明日は午前中だけするから、旦那に聞いてみるね」

「じゃあ様子も見たいから、昼頃までに連れてこれますか、今夜点滴するかもしれないし」と言ってくれたので

「ありがとうございます、連れていきますからお願いします」

「あなた、だってさ消えてしまう命を助けたんだもの、いい事したんだから、私らも手伝わなきゃ」

本当に良い人、良い人たちに自分は恵まれて居るなあと感動した今日でした。

Pねこ無事に帰ってきてほしい。

 

いよいよクリスマスだね、25日には40人ほどでパーティをします

  


戦国時代を地味に派手に駆け抜けた真田一族と上田

2017年12月23日 08時25分35秒 | 戦国時代

信州が好きだ

一番行くのは上田だ、菅平から下る、群馬嬬恋から言ったり、あるいは諏訪から大門峠を下ったり

あるいは松本からの143号で峠越え、麻績から修那羅峠を越えて青木村経由

小淵沢から佐久を経由、高崎から上信道、軽井沢から18号、蓼科-立科-御牧経由

長野から新地蔵峠越え、様々な山道が峠を越えて上田に集まってくる

この町に住んでいた90歳の老夫婦が毎年1~2回我が宿にくるようになって

親しくさせていただいてから尚更に好きになった町だ

見えられると我が町の名所を車で案内したものだ、雪がほとんど降らない上田故、冬の雪が舞う日に

ドライブしたら目を点にして体験できない風景に見入っていた

長野駅まで送っていったこともある、おじいさんは写真を撮って、それを新聞広告のチラシに貼り付けた

手製のアルバムを作って2度ほど送ってくれた

そのおじいさんも10年ほど前に94歳で亡くなった、亡くなる前年まで家の宿に来ていたから丈夫な

人だった。 案外わたしは幅広い年代層と友達になれるようだ

 

信濃という国は日本で4番目の面積をもつ県だ、大きな県は戦国時代には大きな力を発揮する

静岡の今川、愛知岐阜の織田、関東一円の北条、新潟の上杉、福井の朝倉、中国地方の毛利などいとまが無い

ところが、信州長野という所には、そうした大大名が存在せず、郡単位で中小大名が争っていた

そこに山梨の武田信玄が攻め込んできて各個撃破したのだ

信濃豪族の諏訪、小笠原などが連合軍で迎え撃ったが、それぞれがプライド高く力の集合体になり得なかった

長野県民は理屈っぽくて頑固、妥協が嫌い、堂々巡りの討論が好きで個性が強いため結論に至らないと隣接他県民が言う

当時もそうだったのか一応信濃守護として松本に小笠原氏が存在していたが、国内を統一する力は無かった

あの上杉謙信でさえ、現在の新潟市以北の新潟県は完全に支配できず、反乱が絶え間なくおきていた

とにかく国が大きすぎるのだ、なのに地域支配のシステムが完成していない

それを上手く機能させたのは織田信長だった、彼の先進的な頭脳は現代でも通用するだろう。

 

諏訪氏などは殺された挙げ句、娘は武田信玄の(当時は晴信)妾にされて男子を産み、それが武田家を滅ぼしてしまう

武田(諏訪)四郎勝頼になるのだが。

越後一国はほぼ信濃一国に匹敵する面積を有する、ここには上杉(長尾)が居て、反乱は起こるものの統一国家で

あったから、五分の戦いで武田の進行を信州川中島で止めていたのだった。

それで武田信玄は太平洋側に侵略経路を変えて代替わりして弱体化した今川を併合し、相変わらず統一できぬ

中信、南信を併合し、まだ弱かった德川家康の三河を蹂躙して織田信長と対峙したのだった

しかしパワーのあった時代を、上杉謙信との戦に費やしすぎた、織田を攻める頃には老いて病持ちになっていた

結局、戦に勝って病に負けた、そして一方の上杉謙信もまた大酒飲みがたたって脳梗塞を患って死んでしまった

恐怖の竜虎が相次いで病死して、命拾いしたのは織田信長と德川家康である、その後、この連合軍は武田を滅ぼし

上杉を包囲した。

武田勝頼が弱体化したのは長篠の戦い、ここで武田信玄の元で活躍した老臣達が相次いで討ち死にしたのだった

それから7年後に武田が滅ぶ

この長篠の戦いでは、武田家の家臣、真田兄弟も討ち死にした

真田は信州真田郷で勢力を張っていた、すぐ近くには上田の強力な豪族村上氏が城を構えている、たびたび小競り合いを

していたが村上氏は甲州の武田氏と手を結んで、真田の本家海野一族に攻めかかった

 

真田の真田本城は上田市街から菅平に向かって伸びる道路からすぐ近くに遺構がある、行って見たことがあるが

山城と言うほど急でもなく、ただ形態は山頂の長尾根に伸びている山城特有の構造だ

だが平らな山頂から谷に向かって下りていくようで、あまり山城という感じがしない、普通は下から上に登って行くが

ここは山頂の大地から下っていくのだ、不思議な感じがする

ライバル村上義清の山城「葛尾城」は堂々とした尾根続きの山城だ、ちょっと真田城はちゃちい

上信道坂城Pからは葛尾城を真横から見ることが出来る、大きな尾根だその先が千曲川に45度ほどで落ち込んでいる

このパーキング去年までトイレだけのPだったが、最近コンビニが出来て賑やかになった

このPで周辺の山城を遠望しながら1時間ゆっくりするのが楽しみだったが、コンビニが出来てからはせわしくて長居

できなくなった。

 

結局、有名な真田幸村のおじいさんにあたる、真田幸綱は本家の海野氏らと上州群馬に落ち延びて関東管領上杉氏の

大番頭、長野氏の居候となる。

中山道海野宿は観光地として昔の街道の町の姿を見せてくれる、上田の東、上信道東部湯の丸インターで下りて坂道を

南に18郷に出て右折、しばらく行くと海野宿入口で左折、千曲川に沿って行くと海野宿に着く

そこの神社に海野氏、真田氏ら滋野一族の成り立ちが書いてある。

国を追われた真田氏に再起の時が来る、長野氏を大将にして管領上杉軍が真田の故郷小県郡に兵を進めた

この時すでに、武田、村上は敵対関係にあり、諏訪、村上の連合も曖昧になっていた

真田幸綱も長野氏に従って本領奪還に燃えて出陣したが成果なく、思い切って仇敵の武田氏を尋ねて武田氏の家臣となった

信州を狙う武田の力を借りて、旧領小県を取り返すつもりだった、武田にしても小県の地理に詳しい真田は重宝した

ところが武田晴信(信玄の若い時代)は砥石城攻めで百戦錬磨の村上義清に大敗して甲府に逃げ帰った

再び上田を攻め上ったが、またしても大敗、重臣を討ち死にさせてしまった

ここで真田幸綱が大活躍、なんと計略で村上の葛尾城を乗っ取ってしまった、これで形勢逆転、武田の猛攻で

村上氏は越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)を頼って落ち延びた

こうして真田氏は武田氏の重臣として取り立てられ、旧領の小県、上田平を領土として取り返したのだった

さらに武田氏の上州攻めに活躍して吾嬬渓谷に沿った険しい地域を手に入れ、一族重臣を配していった、そして

その領土は上州沼田まで広がる。

このあたりは先日も走って見たが、狭い谷間の所々に集落が出来る適度な平地があり、またその先は狭い渓谷になっていく

こういった山岳地帯を住処として生涯を過ごす人々にとって、こうした狭い谷間の国も都なのだろう

その地を死守するためにどれだけの地を流したことか

東海や近畿の開けた豊かな平地で暮らす人たちには想像もつかぬ山国の暮らし、直虎の地、井伊谷もまた真田の庄

同様にその地で生まれ育った人々が死守した土地、狭い土地を必死に守る純朴な人々の地に見える

 

上州(群馬県)は関東管領上杉氏の力が弱まり、西から武田、南から北条が攻めてきて草刈り場となった

たまらず、管領上杉憲政は越後の長尾景虎(謙信)を頼みに逃げ延び、関東管領職を景虎に譲り、上杉の姓も

与えた、こうして関東管領上杉謙信が誕生した

清廉潔白、無欲の男、そして権威主義者の謙信は上杉憲政という雲の上の人に頼られて感激した、そして

武田、北条の賊徒を追い払い、上杉憲政を関東に安住させるべく越後から出兵する

真田は上田から沼田まで版図を広げた祖、真田幸綱が亡くなり、後を継いだ真田信綱は弟昌輝と共に武田勝頼

に従い、設楽が原の織田、德川連合軍と戦って討ち死にした

そして、養子に出ていた三男昌幸が戻って真田家を継いだ、この昌幸が父の幸綱譲りの策士だった

力も人数小さな戦国大名にとって頼るのは生き残るための知恵、昌幸は主家武田氏が滅んだ後、必死に生き残りの

道を探って北に南に駆け巡る、それは安定した権力者家康などから見れば滑稽でコウモリのような小賢しい人間と

映っただろう

織田信長や越後の上杉、最高権力者秀吉、時には家康や北条とも和睦、終始背後に巨大権力者の威を借りて、その領土を

宿敵北条や德川から守ってきた、そして僅かな兵で地形を利用して、宿敵德川軍を敗退させた昌幸だったが

1600年、関ヶ原の戦いで德川軍に対抗した石田軍に味方したため、信州上田の戦で数万の德川秀忠軍を

足止めさせた、しかし石田があっけなく敗れ敗戦側となり、次男幸村と共に紀州に流され幽閉された、そこで死亡

長男は德川四天王の本多忠勝の娘を娶り、德川方として参戦した、この功によって家康が憎んだ真田昌幸は

処刑されず紀州幽閉で済んだという

 

真田親子が流されて14年後、德川家康は豊臣家を滅ぼすために大坂城を攻めた

豊臣方も浪人や関ヶ原で敗れた大名や豪傑を集めた、真田幸村も紀州を脱出して大坂城に入城して侍大将として

数千の兵を指揮する事になった

冬の陣は攻めあぐねた德川軍が和睦、しかし油断した豊臣軍の隙を突いて大坂城の守りの要である外堀を埋め立て

総曲輪を破壊した、これによって大坂城の防御力は90%低下したので、家康得意の野戦に豊臣方は引きずり出された

こうなると兵力が少ない豊臣方に部がなく各個撃破されて大将達は次々討ち死に

真田幸村は家康本陣めがけて突入して家康をあと一歩まで追いつめたという話もあるが、真実は?だが討ち死にしてしまった

 

長男、真田信幸は信州松代に十万石を得て、幕末までその地で移動もなく250年続いた

真田の里、上田から北に向かって地蔵峠越えの自動車道路がある、峠を越えるとつづら折りの山道が続き

松代に下りて行く。 松代は長野市だが真田領の城下町の風情が今も残っていて観光地になっている

城下の道場を見に行ったとき、凜々しい女性が的場で弓の稽古をしていた

凛と張り詰めた空気で、急いでその場を離れた 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Pねこ騒動

2017年12月17日 20時30分07秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

夜10時前、今日は1日忙しく働き尽くめて帰宅した女房殿から電話が入った

「Peeが、どこにもいないよ、ずっと探したけど・・・・・・・」と

「今、行くから」

この二日間ほど元気のない父も心配だが、Pねこも心配だ

でもおかしいな、昼過ぎに行ったときは鍵のかかった二階の窓際でひなたぼっこをしていた

家に戻って、女房殿に「どこも鍵の開いている所はなかった?」と聞いてみても

「全部かけてあるよ、出る場所なんかないでしょ」

「それじゃ間違いなく家の中のどこかにいるはず」

呼んでも「にゃん」とも返事がない、どこを探してもいない、ご飯は昼に与ええたままで食べていない

Bossに聞いても何も教えてくれない

悪いことがよぎる・・「トイレに落ちて流れていったかな?」まさか、水洗トイレの穴から流れ出るなんてあり得ない

お風呂の浴槽に浮いてるんじゃないだろうか? 湯は張って無くてからっぽ

大好きな下駄箱の中? いない

ベッドの下かな? いない   押し入れに入った? クローゼットの中は? どこにもいない

呼んでも 呼んでも返事がない (おかしいな?どこへ行ったんだろうか)

たった三部屋の小さな家だから、探すのは簡単なはずなのにいない

二人でサンルームを探したけどいない、女房殿はもうぐったりでソファでBOSSを従えて座ってしまった

私はもう一度女房殿の10畳の寝室に行って、ベッドから鏡台に足をかけて、洋ダンスの上を覗いてみた

タンスの間に挟まって死んでいるかもなんてイヤな想像をしながら

「にゃー」小さな声が聞こえた、とぼけた声でもういちど「にゃー」

あれ! 赤外線ヒーターの空箱の中から聞こえる、のぞき込んだら発泡スチロールの間からPeeの顔

「この奴!こんなところにいたのか」確かに天井から20cmの空箱に入り、断熱材に埋もれていれば暖かい

Peeも寒さ対策を自分なりに考えたんだな

こいつも爺さん同様2日間元気がない、あきらかに体調不良、返事もしないしいつもの甘噛みもしない

20分くらい経ったら1階のわれわれ夫婦の居間に降りてきた、ニャーとも言わず石油ストーブの前に

座ってしまった、ずっとストーブとにらめっこしたまま動かない

日課にしているBossとの格闘もする元気がない、Bossは今夜は平和に暮らせる

ちょっと心配だけど動物には自然治癒の力がある、ここは見守るしかない。

 


孫悟空

2017年12月11日 08時27分49秒 | 映画/ドラマ/アニメ

テレビ録画で中国映画「西遊記」を見た

特殊撮影を駆使してスピード感と迫力ある映画だった、「三国史」などもそうだが

中国は共産主義で面白みの無い国という印象があったが、なかなかに面白い

タブーと思っていた、セクシー的な場面もあるし、なにしろ美人女優が多い

最近まで見ていた「武則天」も素晴らしい美人女優であった

この三藏法師も女性的な美しい男優だ、最初は臆病で情けない三藏法師だったが

困難に会い続けるうちに、逞しさを身につけていき、最後に仏法の極みを会得する物語

 

孫悟空が面白い、いかにもサルという細かな動きが面白い、強いがひょうきんだ、まことによく出来ている

白骨夫人という妖怪が敵なのだが、前世では村人によって惨い死に方をしたため人間を恨み

妖怪として転生して、町の子供をさらって生き血をすすると怖がられている

実はそれは無実であった、子供をさらって生き血をすすっているのは業病に冒されていた国王だった

しかし妖怪は妖怪、ご飯を食べて生きているわけではない

白骨婦人は永遠に無敵の妖怪として生きるため、三蔵法師の生気を吸い取って永遠の命を得ようと企む

それは孫悟空によって打ち砕かれてしまうのだが、呪いの言葉を残して200年の命を終えようとする

だが三蔵法師は、輪廻転生においてこの妖怪を人間界に、愛ある人として、生まれ変わらせようと願う

だが妖怪を人間に生まれ変わらせるためには、自らの命をも絶たなければならない

ここで人間への恨みに満ちたまま死んでいく白骨夫人をほおって天竺への旅を続け

ありがたい経典を得たとしても、それは本当の喜びではない

彷徨う魂一つ救えないで、経典を得たとて何の役にも立たない、何の救いにもならない

その時、三藏法師は真理に目覚めたのだった

三蔵法師はためらいもせず、孫悟空に自分を撃ち殺すように命ずる

涙ながらに孫悟空は師匠を如意棒で撃ち殺してしまう

魂の世界に入った三蔵法師は、その熱い愛で白骨婦人の恨みに満ちた魂を浄化するのだった

白骨婦人の恨み、怨念が消えて清浄された魂となり、その恐ろしい表情は安らぎに満ちた穏やかな

顔に変わった、そして彼女は微笑みながら人間界へ転生して行くのだった

中国や韓国にはこうした輪廻思想が日本より多く見受けられる、テレビドラマでもそれは多い

 

阿弥陀仏の救いによって、三蔵法師の彷徨う魂も、孫悟空に背負われている石仏となった三藏の

亡骸に戻ってくるだろう

それを信じて、孫悟空、猪八戒、沙悟浄、白馬の白龍の4妖怪は天竺に向かって歩き続ける

よく考えたら、この妖怪達は人間並みの姓をもっていたんだ

孫は私の知り合いの中国人留学生の姓だ(スンと発音する)

猪、とか沙という姓もありそうだ

それはともあれ、こんな娯楽映画だがいろいろ考えさせられる

*いかに軟弱な人生を無為におくっていても、人にはここ一番の勝負どきがあるということ

*いかなる悪人にも情状酌量はある、汝の敵を愛せよ

*人を変えたければ、まず自ら変わらなければならない

*得意技の一つも身につけておけ、芸は身を守る

そうそう、私が仲良しだった30歳年上のおじいさんKさん(故人)は建具屋さんだった

小学校卒業と共に職人の世界に入った、戦争が始まり兵隊にとられた

終戦と共にソ連軍に連行されてシベリアへ抑留され強制労働

みんなろくな食事も与えられず、マイナス30度40度の酷寒の氷の世界で重労働させられて

6万人以上も戦後に関わらず殺された

そんな中、このKさんは建具職人という特技があったため、暖もとれる屋根の下で建具作りを

命じられ、外勤の重労働を免れた、まさにこれこそ芸が身を助けた例である

*地位ある人間が最も正しく見えるけれど、その裏で悪事を働くこともままある、人を地位や権力で

正義だと鵜呑みにしてはならない

 

 

 

 


キリスト教のこと

2017年12月05日 07時09分33秒 | 宗教

昨日、録画しておいた米映画「天国の奇跡」を見た キリスト教の宣伝みたいな映画だが

女の子の病気をテーマにした、ほのぼのとする映画でもあった

神様の存在を純粋に信じていた少女に奇跡が起きて、難病が治癒するという単純なストーリー

神の存在など全く信じないジャーナリストは最愛の娘を癌で失ってしまう、それが伏線になっている

少女の魂はあの世に行って、神と対話し、そして生き返る

 

私の血縁の祖父は、私の祖母の家(茨城県)に婿として入り、父が生まれた

しかし血縁の祖父は父が2~3歳の時に、祖母と、祖母のの義父と折り合いが悪くなり離婚して出て行った

血縁祖父はそこで、わが家と縁が切れてしまったのだが、東京へ出て再婚し世田谷の成城に間借りして住んでいた

戦争が激しくなって生まれ故郷のこの町に、着の身着のままで帰ってきたのだ

その再婚相手は山形出身の人で、敬虔なプロテスタントであった

東京はともかく、この田舎町にも小さな教会があったが、血縁祖父の再婚相手はすぐに通いだした

しかし田舎町故、信者も少なく彼女は教会の中でも経験者として重宝され、今も牧師さんは彼女を開拓者と

賞賛する。

彼女はもう亡くなって30年くらいになるだろうか、豪雪の冬だった

彼女が亡くなる前に残した言葉は「**さん(病弱な自分の一人息子、彼女は息子を「さん」付けで呼んでいた)

を頼みます」だった

彼女は癌で亡くなったのだけれど、苦痛と闘うのを見た人が「痛くない?大丈夫?」と聞くと

「天国で神様に会えるのだから、痛さなんか我慢できるよ」と山形訛りで言っていたという

あの映画の少女と全く同じだと思った

あの映画のハイライトシーンの一つに、モネの「睡蓮」の絵がクローズアップされる

少女は吸い込まれるようにその絵の虜になる、それは後日彼女が行った天国そのものだった

私は国立西洋美術館で「モネ展」を見た、だがもしかしたら「コロー」だったかもしれない

記憶がごちゃごちゃになっている

モネを見たのは女房殿の父親だったかもしれない、画集を見せてもらった気がする

睡蓮の咲く、小沼の風景と色彩は確かに不思議な安らぎの世界を映している 

 

キリスト教にもきらびやかで荘厳な貴族宗教カトリックと、アメリカ開拓移民等の間に起こった

形式を簡略化した大衆宗教プロテスタントという大きな違いがある2つのキリスト教

日本の朝廷や武家の永遠の安寧を願うに寄与した禅宗、戒律も修行も厳しい世界

文盲で宗教もない救われぬ大衆を簡単な経文で救おうとした門徒(日蓮宗、浄土宗、浄土真宗など)

旧教、新教の構造としては似ている

*言葉と知識不足による謝りはお許しください

戦後間もない東京隅田公園での「蟻の町のマリア」と讃えられた北原怜子さんは、上流家庭の娘だったが

戦後溢れた浮浪児たちの暮らしを守ろうとしてバタヤ集落に身を投じた

我が身を振り返らず、苦しむ人々に愛をもって接する心こそキリスト教の本来の姿

彼女はカトリック信者だった

血縁祖父の妻は、プロテスタントだった、私も彼女を知っているが、まさにプロテスタントだった

血縁祖父の頭は、ずば抜けて良く、親戚の間では「良い家柄に生まれれば、校長先生か学者にでもなれただろう」と

言われていた。 残念ながら生涯をリヤカー一台での「ぼろ買い」、今で言う廃品回収業で終わった

その妻は「あねさんかぶり」をしてリヤカーの後押しをしていたのだ

そんな貧しい暮らしだったが、回収した百科事典や美術書を読みあさり、地域の山に埋もれた古道の石碑を

探し当てて碑文を収集したりして、その修学欲を満たしていたのが血縁祖父だった

わが家の(別れた妻の)1200年に及ぶ家系を調べたのも血縁祖父だった、その1000字ほど書き残した文を

頼りにネット時代を活用して私がそこに出てくる名前の一人一人を徹底的に調べ上げて250年前までを

明らかにしたのだった、全ては血縁祖父のその一文にある。

「おまえは、祖父にそっくりだ」と父はよく言ったものだ、それは決して褒め言葉ではなく、生涯働き続けた父が

貧しく、しかし気楽に生きた血縁祖父に対する罵詈雑言であった。

明治のジョンレノンそっくりな血縁祖父は、その再婚妻のもとで俄プロテスタントになった、一人息子には

プロテスタントの洗礼を受けさせて信者にした。

血縁祖父には全く宗教観はないから、偽プロテスタントを誰も信じない、大ホラフキまではいかないが、

出来ないことを「ほらを吹く」とだれも信じなかった

 

キリスト教の葬儀は、神道同様、神に召されて天に昇る「めでたい日」なのだ

うちの店でも結婚式にはチャペル式(チャペルはないが簡易的に設ける)の場合、牧師さんを頼んで式を挙げた

勿論、新郎新婦の98%は俄信者である。

同じ司祭者でも、カトリックは神父さん、プロテスタントは牧師さんと呼び方が違う

結婚式の時の笑い話

私が、牧師さんに「新婦(しんぷ)さんは*****?」と問合せをしたら、牧師さんが勘違いして

「私は神父(しんぷ)ではありません、牧師です!」