長野市街の南部を流れる犀川、これより西は小諸、上田方面からの千曲川に合し
新潟県に入って信濃川と名を変える。
犀川と千曲川が合流するあたり、川中島と称する場所で450年ほど前に、越後春日山の上杉謙信(長尾政虎)軍と
甲州、信濃を治める武田信玄軍が激戦を行った
いずれも、後に天下をほぼ手中にする魔王織田信長が一目も二目も置いた戦国時代最強の
龍虎、大鵬/柏戸戦、栃錦/若乃花戦に匹敵する名勝負。
今日は武田方の最前線、海津城跡の本丸跡に立ち、思いをはせる。
北側右奥には、謙信と信玄が切り合った八幡原、左手奥には信玄が最初陣取った茶臼山
西には「鞭声粛粛夜河を渡る」の雨宮の渡し、後方南には敵中深く謙信が陣取った妻女山
中世の犀川はこの広い平地を気ままに流れていたのでしょう、今よりはるかに広い川幅
海津城というくらいだから、城のすぐ近くまで天然堀のように川が流れていたのでは?
沼地もあったりで兵が3000も詰めれば1万くらいの攻城軍では容易に落ちまい。
謙信は、茶臼山の信玄はいつもの如く戦意なしと見て、海津城を横目に見て、敵方の陣地深く入り込み妻女山に上がった、これで謙信は自ら退路を無くし、信玄も甲州への退路が謙信に塞がれそうな状況になる、これでは一戦交えるしかあるまい。
だが信玄は数的に優位だから少しもあわてない、一方神憑りの謙信は数より気魄で戦う武将だからいっこうに数の差を不利などと考えていない。
いつも巧みにかわす信玄と今日こそ決着をつけてやると思っての深入りだ
妻女山に登ってみた、今は車で簡単に行ける
謙信がいたあたりには御堂があった。山は行動が不便だと思ったが、意外と道が縦横に張り巡らされている、今のように車などないから人さえ通れば、けもの道でもいざというときは
抜け道になる、しかも行動は平地から見えず、隠密裏に事は運ぶ。
それは信玄も謙信も知っているから、互いに行動を起こした、だが謙信の方が一歩先に行動を起こした、情報スピードの差だったのか、これで信玄は未曽有の危機に陥る。
甲越軍記、烈戦功記などでは通説になっている前半は越後勢勝利、後半は甲州勢勝利で川中島から越後勢を追い払った甲州勢の総合勝利ということで、越後勢の混乱敗走をこれでもかと書きまくっている。
・・・が、上杉家御年譜では越後勢が息をもつかせず一気加勢に信玄を追いたて、御幣川で
越後の武将、荒川伊豆守が信玄に三太刀あびせて浅傷を負わせ、信玄は雨宮の渡しから蔵品谷というところまで逃げ延びていったとある。
甲州勢は僅かを残し、打ち取られ、捕縛され、あるいは溺死したということで、こちらは越後勢がほぼ99対1くらいの勝利を収めている。
海津城本丸よりアルプス展望