神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

あづみの国営公園

2019年10月30日 19時24分37秒 | ドライブ

突然、女房殿のお誘いを受けて信州穂高の「国営あづみの公園」まで行ってきました

曇り空も次第に晴れて、暑くも無く、寒くも無く、絶好のドライブ日和

途中、穂高近辺の蕎麦通りで10割蕎麦を食べました、お値段も良かったけど美味しかった

山菜おろしも別注で食べました、キノコ大好きなので満足

理屈をいうと「蕎麦が美味い」というのがわからない

ラーメンが「美味い」というのはわかる

蕎麦にほのかな甘味を感じることはある、だからといって「美味い」は違う

なぜ蕎麦を食べた瞬間「うん! 美味い」と言ってしまうのか?

ほのかな甘味、良い香り、つるりとした食感、ほどよい硬さ

たしかに蕎麦つゆをつけない方が(おいしい)

でもつゆ無しでザルを一つ食べれば、途中で飽きるだろう、だから蕎麦つゆも必要だ

美味い、まずい途評価出来るのは蕎麦つゆだろう、これは明らかに美味いまずい

塩っぱい、甘いがわかる、勿論好みもあるだろう

そばにワサビやネギを薬味として添える、あれも淡泊な蕎麦の味に変化と刺激を

つけるためだと思う

本当は薬味をつけたら蕎麦の薄い味や香りは消えてしまうのでは無いだろうか

天然ワサビの新鮮な辛みを味わうために蕎麦を食べる・・・かも・・・主役はわさび

そんな事は無いか?

どうして「美味い」って言ってしまうのだろう・・・何がうまいのだろう?

今日の10割蕎麦は「美味かったなあ」

 

国営あづみの公園  シルバー料金で210円で入れた、とってもリーズナブル

松川のあづみの公園も、この券で入れるのだ

今日は平日でシーズンオフでもあるので、退屈していたらしい職員のおじさんと20分くらい

昔の暮らし談議で楽しみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安曇野は大王ワサビ園があるようにきれいなわき水が豊富な土地です

アルプスから流れ出した伏流水が安曇野を潤しているのでしょうね

ものすごい水量です

そういう点では黒部川を中心とした扇状地の富山県東部も同じかも知れません

でも海岸と内陸の違いや気候風土の違いで全く違った水の利用をしているのでしょう

 

 

 

 

 


韋駄天 ハマって寝不足

2019年10月29日 15時27分12秒 | 映画/ドラマ/アニメ

何でって? それは毎回毎回仕事の都合で見ることが出来ないので

撮りだめしてるからです

その他にも映画をたくさん撮りだめして、閑なときに一気に見てしまう

録画はコマーシャルなどを飛ばせるので時間を有効に使える

で! 韋駄天にたどり着いたときには10話分くらいたまっていました、それを

2話くらいずつ見ていたんだけど、最後に近づいたら一気に4話分見てしまいました

「前畑頑張れ!」あたりですかね

このドラマが始まって間もなく「くっだらない」って半年近く、見なかったんです

でも全編録画だけはしてあったので、「意外と面白い」というブログでの評判を聞いて

見始めたら、案外面白い

結局、最初は何を言いたいのか作者の意図がわからなかったからでしょう

落語と金栗四三の関連性の無いドタバタ劇、名前は知っていても全然有名じゃ無い

織田信長とか豊臣秀吉みたいに、その人生やエピソードがわかるから歴史ドラマは

面白い、この韋駄天は時代も近代だし、大河歴史ドラマのジャンルに入らない

 

ところが、こうして見てくると見えてきた、これは2020年の東京オリンピックに

至るまで、先人達がどれだけの苦労と涙と汗を流してきたのかということを、

「ああ東京オリンピックね」とさらりと流してしまう人々に知ってもらいたいがための

ドラマなんだ

1940年、嘉納治五郎らの血のにじむような努力で欧米オンリー、白人至上主義

の時代に、アジアに初めて持ってくることに成功した東京オリンピック

それは戦争のためにまぼろしのオリンピックと消え去り、金メダルを目指した

若い選手達も鉄砲を持たされて戦場に立ち、そして何十人ものオリンピアンが

無念の戦死をした

平和の祭典で戦うはずの世界の若者が、戦場で殺し合った非情な時代

それは生き残った者たちによって、東京オリンピックの実現が動き出し

ついに私が中学二年生の1964年に実現したのだった

そして私が古希を迎える節目に再び東京オリンピックが開催される

ここでマラソンと競歩が札幌開催というIOCの突然の発表

東京都民、都知事小池百合子氏を驚かせた

「東京がどう言おうと考えようと、IOCの決定は変わらない」

韋駄天ドラマは今日もまだ続いている


同級生旅行リポート 最終回

2019年10月28日 10時51分01秒 | 旅行 関東.東海

いよいよ2日目が始まる

今日の運転は「ますやん」に任せて、私はゆっくりさせていただきます

それで朝食からビールをいただきます

ますやんは、出発当初からマスクをして「風邪引いた」と言っていた

「風邪引いて飲めんから往復運転するわ」というのを私が遮って

「とんでもない!風邪引いている人間に運転はさせられん」と私の運転で出発したのだ

「あんたインフルじゃないの、嫌だようつしちゃ」と女性陣にもさんざん言われていた

でも出発して昼食頃には元気になってビールなど飲み始めたのだった

それで今日の運転を託したら「おれが運転するンか?」だって

強引に運転を任せて私は飲み始めた、朝からご馳走でもう一宴会出来そうなくらい

食事が終わって廊下の郷土の飾り物を写真に撮っていたら仲居の若いおねえちゃんが

「写真撮りましょうか}と寄ってきてくれた、この宿の女将さんを始めみなさん物静かで

影のようにお世話をしてくれているので居心地が良い

ロビーでコーヒーをいただいて、いざ出発! まずは給油しないとね

まずは蔵王温泉街から下り、上山を目指す、途中の集落は行けども行けども渋柿の

木が続いている

「このあたりの熊は幸せだね、食べ物豊富で」なんて無責任なことを言いながら行くと

やがてスタンドを発見、軽油が140円 「おいおいレギュラーより高いぞ」

しかしもう燃料切れギリギリだから入れるしか無い

すると、すらりとした美人系の30歳前後のおねえさんが「いらっしゃいませ」と出てきた

男達は喜んで「軽油130円で、おねえちゃん拝観料10円だから140円なんだよ」

などとデリカシーの無い事を言って喜んでいる

再出発、国道に来たらすぐスタンドがあって軽油は124円、一同「......」

やがて米沢方面に続く高速道入口前で長井方面へ右折、ここから113号線に入って

小国を経て荒川峡をくだり日本海へと向かう、途中の景色は1日目に掲載したとおり

ビールを飲む手を止めた、高速道と違ってトイレが道の駅しかない、コンビニもあるが

団体で入るところでも無いので飲物は自粛だ

そんな中、大きな道の駅「飯豊」に到着、建物の中は地場物でいっぱいだ、特に

果物が凄い、ブドウにリンゴがいろいろな種類どっさりと並び、観光客でいっぱいだ

レジは列になっている、玉葱も10kg位の袋売りで売っている

ここでも女性陣は買い物三昧、私も山形産の巨峰に似た横文字のブドウ一箱と帽子を買った

この道の駅の前の国道には左右数キロにわたって桜並木が続いている、今は紅葉して

赤い桜並木だ、春には素晴らしいピンクの街道になるんだろうなあ

トイレでドライバーM氏と一緒になった、手を洗いながらM氏

「わしゃ秋田へしょっちゅう運送で来てたんやが、いつもここで仮眠して、ここで顔洗ったり

歯を磨いたりしたもんや」

このM氏、高校時代に私が告白して振られた時、もう一人のMくんと我が家に慰めに来てくれた

一人である(このいきさつは何度か掲載した)

卒業後、自衛隊に入り、防衛庁に勤務したが東京が嫌でやめて民間企業に入社して課長職

まで行ったところで不況になり、課長級全員自主退職と言うことでやめてなんと長距離運送の

ドライバーに転身、いまも現役で近距離輸送をおこなっているのだ

 

谷間を抜けて平野部に出てきた、もう新潟県の北端、村上、岩船だ

ここの岩船港鮮魚センターで昼食を予約してある、ところがカーナビ予約が作動しない

とりあえず岩船港に到着して電話で連絡とりながら、なんとか到着した

このメンバーには村上に住んでいたT美もいたが、まったく地理不案内で「役に立たないなあ」と

みんなに冷やかされていた、その夫も数年前に60台で亡くなったのだ、でもこうして

仲良しメンバーと飲んだり、旅行したりして傷心を癒やしている

センターに着く前に、海上に島が見えた「佐渡?」と誰かが言った「違うよ、佐渡は左だしもっと大きい」

「粟島だな」と私と誰かが同時に言った

人口310数名の粟島は粟島浦村として自治しているが、新潟県で人口増加した数少ない自治体だ

二人増えたとか

村上から定期航路があるらしい、すぐ側に見えて泳いでも行けそうだがセンターの人に聞いたら

ジェットホイルでも1時間以上かかるとか? ほんと?

さしみ定食で昼食を済ませて出発(写真逆さまで失礼)

曇りなので行程は順調だ、余裕で笹川流れの船着き場に到着

この船で遊覧する

 

 

もう肌寒いので乗客はわれわれだけかと思ったら30名ほどいた、そして出航

ガイド放送が始まった、それによるとこの航路は義経の都落ち伝説に因むのが多いことがわかった

奇岩のいくつかに因んだ伝説があり、解説してくれた

義経の都落ちについて書くと、平家を滅ぼした源氏であったが、この戦の最前線で大活躍した

義経は都でもてはやされ、朝廷の覚えもめでたく国内最高のスターに上り詰めた

しかし鎌倉の片田舎に幕府を開いた兄、源頼朝は、義経が朝廷のバックアップで征夷大将軍の

自分をないがしろにして、さらに地位を奪われるのではないかと危惧して、ついに疑心暗鬼に

陥り、義経追討の命令を出した

義経は恋人の静御前とも別れて京を逃れ、弁慶などの100人力の家来数名を伴って、昔、平氏から

逃げ隠れて子供時代を過ごした奥州平泉の藤原氏を頼って落ち延びたのだった

日本各地に義経の逃避行伝説があり、特に有名なのが石川県の安宅の関守り、富樫の人情話だ

義経は平泉で藤原氏の息子の裏切りで死ぬが、豊臣秀頼の九州落ちと同様に、北海道に落ち延びて

さらに大陸に渡ってチンギスハーンになった、という話しまで発展する

なんどかここで書いた明治初期のイギリスの女流冒険家イザベラ.バードの記述にも北海道の

アイヌでアイヌの人たちが参拝する義経を祀った場所の話しが出てくる。

さあ出航です

義経一行は、笹川流れを船で進んだが、義経は逃げるのに頭がいっぱいでこの景色に気がつかず

家来が先行する義経を呼び戻したので「義経の戻り岩」だとか

この下の景色にはちょっとHに見える場所があるので、気を張り詰めた義経に家臣がそれを言うと

義経もどっと笑って明るい顔になり、一行は船の上でひょうきんな格好をして踊り酒盛りを楽しんだとか

あるいは大波を避けて逃げた洞窟とかいろんな解説があった

これは「恐竜岩」首の長い大きな恐竜が座って海水を飲んでいる姿、首の部分ポールが邪魔している

 

このほか屏風岩、地震で壊れためがね岩、獅子岩などいろいろあった

そしてあらかたを見て、帰路に入り沖合へと船がむかうと、突然カモメの群れが船に近づいて来た

すぐそばまで飛んできた、平行して飛んでいる

 

なんと観光用に餌付けしているのだった

船内に「カモメを捕まえないでください」という張り紙があったので???と思っていたが、これだったんだ

でも楽しい時間になった、帰路を退屈させない作戦だ、なかなかやる

でも観光船が冬休みになったらカモメは自力で魚をとれるのか少し心配になった

粟島を背に、船は港へ戻る、カモメがまだ追ってくる

 

楽しい旅行も終わって故郷へむかう、新潟市に入って、大河「阿賀野川」を渡る、まだここから2時間以上かかる

夕食は回転寿司で済まして、午後8時無事に故郷に到着しました

                                             おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 


同級生旅行リポート 3

2019年10月27日 19時54分37秒 | 旅行 関東.東海

蔵王お釜近くにはレストラン&土産物センターがある

ここで「ふくろう」の瀬戸物の置物を見つけて2種類購入、ふくろうの縁を感じた

レストランの上には神社もある

燃料が乏しいが帰りは下りばかりなので少し安心、まだ10Lはあるから最低でも

50kmは行ける

宿までとうとうスタンドを発見出来ず、そして今夜の宿を発見、玄関につけて

例のドライバー氏Mに「フロントでスタンドの場所を聞いてきてください」とお願い

みんなは荷物を下ろして外で待機している

Mが戻ってきた、そして「なにや~、ここじゃないがな!」

「え~? どういうこと」 「隣の宿なんやて! 恥書いたがや」

そういえばパンフでは我々の宿は2階建てのユースホステルみたいだった、でも

ここのホテルは5階建てくらいで大きいから、少し変な気はしてた

でもカーナビはここにつれて来たのだった

「ところでスタンドは?」と聞くと

「それどこじゃあ、ありゃせんわい! 恥ずかしゅうて聞くどころじゃないわ」

もっともなお話、それで隣に見える宿に移動した、3階建ての

「季の里」という宿です

小さいけれど明るくて素敵なロビー

すぐに番頭さんらしきおじさんが、お出迎え

スタンドの件を訪ねたら、今日は休みなので明日入れる方が良いとのことだった

外観は?みたいな感じだったが、玄関を入ると独特の雰囲気のフロント

大勢客が居るわけでは無いが暖かみと賑わいを感じる

なんだろうこの安心感は

至る所にこんな飾りがあって、おもてなししてくれる

これはトイレの中の飾りです

お風呂、内湯は沸かし湯で、外から引いている水には温泉成分が

溶け込んでいるとのこと、でも温泉では無い

だが駐車場の端にある平屋の小さな建物には、源泉掛け流しの温泉が引いてある

とのこと、楽しみだ

これが外湯

早速風呂に入った、我々以外の客はいない、10名ほどでいっぱいになるお風呂だ

そして宴会時間となった

団体は我々の他にいないような雰囲気、あとは少人数や二人客ばかりのようだ

一時間ほど、静かに語りながら食事を楽しんだ

お料理は東北ならではの具だくさんで量もそこそこ多め、板前さんの腕が良いのは

料理のセンスを見るとよくわかる、これは満足点だ

 

東北地方の料理は素朴で派手さが無いが心がこもっている

味良し、質も量も素材も、すべてにおいて素敵なのです

やはり料理には真面目さと真心がたいせつだと思わせてくれる数々でした

 

さて一時間過ぎたところでカラオケと踊りのショータイムのはじまり

いつもの如く、衣装替えから始まり、カラオケも絶えない、カラオケはこの部屋だけ

部屋は広々して踊りを踊るのに最高だ

でも料理がよすぎる、ほんとうに美味しいし色合いも良い

そして最後に恒例の高校三年生をスクラム組んで歌った、万歳三唱で閉めた

 

それから部屋に戻って、暫く休憩後、同室の3人で外の風呂へ行った

誰も入っていない、6人ほど入ればいっぱいの湯船、なめてみたら塩分がある

すぐに肌につるつる感がきた、硫黄分も含んでいる

熱い!うん熱い ここは我慢してじっと入っている、半身出したり入ったり

でも体はあまり温まらない、湯は熱いのに汗もさほど出ない

ところが着替えて外へ出た頃から体がポカポカと温かくなってきた、これは凄い

厳選の効果か?、他の7人はとうとう外湯に来なかった

部屋に戻ってからマッサージを頼んで一時間じっくりやってもらった、私だけだった

 

周辺の景色も素敵

翌朝は6時前に起きて、また3人で外湯へ行く、玄関先で他の客と一緒になった

我々が入ってすぐ、追いかけるように3人組が入ってきた、若い人たちだ

狭い湯船ゆえ、すぐに話しが始まった、彼らは広島の大企業に勤める30代の

仲良し、4泊五日のレンタカーでの東北温泉巡りだそうで、明日は山寺.平泉

最後は青森まで行くそうだ、蔵王にはスキーでもう何十回も来ているとのこと

このメンバーの中に金沢出身者がいると言うことで、我々に随分と親近感を

持ってくれた、36歳独身、優良企業勤務、お嫁にいかがでしょうか?

「広島は雪が無くていいね、金沢には戻りたくないだろ?」と聞いたら、広島も山間部は結構降るし

市内でも海岸部でもたまに降るらしい、「雪の宮島って聞いたことありませんか?」と聞かれ

そういえば聞いた気もする、それに大山が冬遭難も起きるほど雪が深いことも

聞いたことがある

スキー場も中国山地にはたくさんあるらしい、こうして知らない土地の人と語り合う

のも旅の楽しみである

私が外で写真を撮っていたら、彼らが交代で写真を撮っていた4人組だった

「4人一緒にとった方がいいだろ、私が撮ってあげますよ」

彼らは喜んで、「もしそちらへ行ったら寄るかも知れません」と言って別れた

気持ちの良い若者達だったが、話しの中で我が町出身の若者も同じ会社にいると

言っていた

さあ、今日は曇りだけど一日持ちそうだ、荒川峡沿いに北上して新潟の岩船胎内

をめざし、笹川流れで遊覧船に乗るのが峡のメインイベントだ

 

            つづく

 

 

 

 


同級生旅行リポート 2

2019年10月26日 20時37分57秒 | 旅行 関東.東海

23日朝、曇り空、待ちかねた同級生旅行の朝だ

吉本級の超スタープレーヤーN子が療養のため不参加になって3年

更にスター見習いのY子は97歳の義母が急に亡くなって欠席に

横綱、小結を欠いた今年のメンバーは男6女4、いつもは女性が多いのに

今年は逆になった

この男性メンバー6人全てが大型免許所持、全員がタバコを吸わないという

偶然似たものメンバー、しかも全員イケメンときているから、女性陣はたまらない(はず)

メンバー参加には厳しい掟がある、「メンバーよりいい男、いい女は入れない」

これがルール

 

さて7時半出発、運転手はやっぱり私だった、北陸道で最初のポイント会津.喜多方へむかう

出発してからもずっと曇り空が続き、上越インターを過ぎるとなんだか怪しい黒い雲

そのうち雨が当たり始めた、予報は曇りのち晴・・・あれれだ

しかし新潟市に近づくと次第に晴れてきた

喜多方はラーメン店が200軒くらいあるらしい、そんな中で今回のラーメン店は大きな駐車場が

あって、観光バスも2台入っていた、こう書くとドライブインのイメージだがその反対

この店は、市内一だか県内一だかの酒問屋だった建物をそっくりそのまま使っているのだとか

土間だけ作り直したそうだ、文化財とか言ってたきもするが..

中庭もあって、なかなか趣がある

一店一店に異なった味わいがある喜多方ラーメン、この店の自慢はチャーシューと販売もしている自家製麺

なのだそうです

醤油ベースのまろやかであっさりとしたラーメンです、ラーメンの前に、こんなお弁当が出てきました

酒の肴にこれはいい、イナリもついていて小腹を満たすに丁度よい

確かにチャーシューはとろとろで美味しい、販売もしています

いよいよ喜多方から米沢へ向かいます

京都大阪、名古屋などは戦国時代から幕末にかけて英雄伝説が多いところですが、越後高田から長岡

会津、米沢にもローカル的な英雄伝説が多くあります

戦国時代には春日山城の上杉謙信が超有名ですが、謙信の姉の息子、景勝が跡目争いに勝って

越後の盟主となった

しかし豊富な金を産出する越後を、秀吉に取り上げられて、かわりに会津、米沢.庄内120万石という

天下3位の領地を与えられた

明治維新の戊辰戦争では会津は上杉ではなく、会津松平家が治めていた、しかし京都守護職として

新撰組を配下にして薩長の浪士を多く捕縛殺害したため最後には朝敵とされて新政府軍から

見せしめ的な理不尽な攻撃を受けた

そんなとき越後長岡藩は会津藩と助け合って新政府軍と戦った、長岡は城を落とされたが取り返す

という荒技をみせて小藩の意地を貫いた

再び落城した後、会津へ落ち延びる途中で長岡藩の家老、河井継之助は会津坂下付近で落命した。

赤穂藩家老の大石内蔵助と像が重なるのである

 

紅葉の名所と聞いて期待してきた大峠であったが、まったくの空振りだった

そしてあっけなく米沢に到着、ここで初めての観光「上杉神社」

上杉謙信公、景勝公など代々が祀られて居る(墓所は別地)

謙信はカリスマ的ワンマンタイプだが、景勝は軍師直江兼続に采配を任せる二人三脚タイプ

そんな三人の銅像があった

上杉景勝は1600年の関ヶ原の決戦で敗れた石田方西軍に味方したために、命は助けられた

ものの120万石の領地を取り上げられて米沢30万石に減らされた

その後、15万石に減らされ、戊辰戦争では会津藩と共に新政府軍に敵対したが恭順

明治まで続いた。

 

さて米沢の後は高速道で上山まで走り、そこから蔵王のお釜まで行く

天気は最高、お釜がくっきり見えそうな予感、山も色づいている気がする

くねくねと上っていく、まだ20kmもある

メンバーの中に長距離トラックの現役も居るので、このあたりも詳しいから助かる

私も3度目のお釜だが、同級生とは初めて、また違った楽しさがある

中腹あたりがようやく色づいていた

お釜へのリフト乗り場に着いた、私が昔来たときここからスキーリフトに乗って

上がったのでここで駐車しようとしたら、現役ドライバー氏が

「まだ上へいくんや、お釜のすぐ隣につくさかい」

半信半疑で走り出した、燃料計がかなりEに近づいていて、少し不安でもあるが

すると料金所が・・・「なにや? わしきたときには、こんなもんなかったがなあ?」と

ドライバー氏

ともあれ全員がリフトに乗るより安いだろうと納得して進んだ、間もなく到着

「こんだけ走るのに金とるんか!」さすがトラック野郎は激しい

そかし彼が言ったとおり、お釜のすぐ側まで来たのだった

そしてお釜はくっきりと見えた、気温は13度、少し肌寒い

 

さて、今夜の宿、蔵王温泉へむかう、どんな宿だろうか,楽しみだ

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


同級生旅行リポート 1 

2019年10月25日 19時29分38秒 | 日本の城

同級生が名古屋で営んでいる「うどん」を一度食べに行こう、というところから始まった

同級生旅行も、今回で16回目になるだろうか

名古屋うどんと、京都の紅葉ということで11月に始まったのが、そのまま10月.11月と

定着した

今回は山形の蔵王温泉に泊まり、蔵王のお釜を見て紅葉も楽しもうという企画

コースは1日目が北陸道を新潟市から磐越道に入って、会津若松から喜多方へ

喜多方から峡谷の目が覚める紅葉という国道121を大峠を越えて米沢へ

米沢から蔵王に入る

2日目は蔵王温泉から長井を経て、国道113号を下り、新潟県の坂町に出て村上を経て

景勝笹川流れで遊覧船に乗る、そして日東道~北陸道で帰郷というコースだ

 

第1回目は紅葉が目的なので順序は逆になるが2日目の「荒川峡」の紅葉写真をアップ

します

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく


戦艦武蔵に続いて、航空母艦加賀、赤城が相次いで発見された

2019年10月22日 06時48分13秒 | 昭和という時代

昭和17年(1942年)6月、日米太平洋戦争のさなかミッドウェイ島近海で

日米の航空母艦群同士の戦闘が行われた

日本は前年12月8日、ハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ艦隊を急襲した、これが

日米太平洋戦争の開始だった

日本軍はこの翌10日、マレー半島沖合でもイギリスが誇る巨大戦艦「プリンスオブウェールズ」と

巡洋戦艦「レパルス」を航空機によって攻撃、二隻とも撃沈した、航空機対軍艦の初めての戦闘は

航空機の圧倒的勝利に終わった

日本は大陸での陸軍の戦闘に加えて2方面での戦争を開始したのだった

 

真珠湾攻撃では、アメリカ海軍の主力戦艦数隻に大打撃を与えた、これによって制海権を

握ったかに思われたが、航空母艦は一隻も真珠湾にはいなかった

またこれを探査攻撃することも時間的に不可能だった、そのとき見逃した航空母艦群

とのミッドウェイの決戦になったのだった

しかし日本は敵艦隊の発見に手間取り、攻撃方法を爆弾か魚雷か決められないでいた

ようやく敵空母を発見したときには攻撃機は爆弾をつけていた、急いで魚雷に積み替え

ようとしたとき米軍の攻撃機がいち早く飛来して攻撃を開始した

戦闘機が迎撃に飛び立つ、米軍の護衛戦闘機と激しいバトルが始まった

しかし甲板が広く、戦艦のように多くの機関砲も装備していない航空母艦は丸裸同然

唯一艦載戦闘機の護衛だけが頼りだ、しかし敵も多くの戦闘機で襲来している

戦闘機同士の戦いの合間を敵の攻撃機や雷撃機は航空母艦を狙って攻撃している

次々と甲板に爆弾が命中して、日本軍の主力大型航空母艦「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」

の4隻が相次いで沈没した

一方、間一髪舞い上がった日本軍の攻撃部隊も敵の航空母艦を一隻撃沈して母艦に

戻ってきた、しかし彼らがたどり着くべき母艦の姿は海上には無かった

彼らは行き場を失い、燃料が切れると次々と海に墜落していった、航空母艦だけで無く

ベテランパイロットが乗った航空機までもが全滅してしまった

日本は開戦半年で重大な敗戦を喫してしまった

しかし日本海軍には強力な戦艦群が無傷のまま残っている、まだまだ敗北の意識は無い

いずれ敵討ちのための海戦をおこなう決意をあらたにしたのだった

しかし、アメリカは戦艦同士の砲撃戦を避け、航空母艦を主力にした米軍航空機対日本戦艦

の作戦に切り替えて、航空母艦と攻撃機の増産を開始した

もはや日本海軍のお家芸、日露戦争の日本海海戦で大敵ロシア海軍を100対0で打ちのめした

艦砲対決の再演は夢となったのだった

米軍の護衛戦闘機の防弾装備も格段に改善され、しかも馬力のある重戦闘機を大量に製造

したので抜群の旋回能力で米軍戦闘機を餌食にしていたゼロ戦も、こうした重戦闘機に

歯が立たない

日本の戦闘機は旋回能力と速度を航続力を重視したから軽量で装甲がが薄いので次々に

撃墜された、もはや初期の米戦闘機F4FやカーチスP40などとはレベルが違う敵になった

グラマンF6F ロッキードP38 ムスタングP51などが髙防御重装備、且つ時速600kmを

超える高速で戦場を飛び回る

護衛戦闘機が無い日本艦隊は、急降下爆撃機ダグラスドーントレス、水平雷撃機アベンジャーに

襲われて次々に海底へ沈んでいった

フィリピンレイテ湾に突撃していった戦艦武蔵、沖縄に片道燃料で乗り込もうとした戦艦大和も

次々と撃沈された

 

近年、アメリカの沈没船捜索チームが次々に日本海軍の沈没艦の発見に成功している

戦艦武蔵も発見され、今度は5000mにもおよぶ深い海底で空母赤城、空母加賀の二隻の

姿を発見したそうだ

数千の乗組員、そして航空機と共に沈んでいった航空兵、80年近く経ったいまでも彼らの

骨一つ戻ってくることは無い

平和なこの時代にかっての敵国国民に発見されていかなる思いであろうか

敵も味方も互いに面識も無く、個人的には恨みも憎しみも無い人間同士

それが戦争というリングの中に放り込まれて憎しみを糧に闘志をたぎらせ、敵を殺すという

英雄行為に仲間同士の連帯感、血の絆に酔いしれるようになる

運動会でさえ、あるいはスポーツでさえ相手を打ち負かそうと一瞬獣のような殺気をもつ

瞬間がある

人間はまだまだ獣の本能を失ってはいない、ひょうひょうとした無慈悲なポーカーフェイスで

戦場に挑むアメリカ兵、闘志をむき出しにして銃を掲げるイスラムの戦士

日本だけが遅れてしまったのか、それともヒューマンとして最先端を日本人が走っているのか

それはわからない

中国が航空母艦を持つようになって、我が国もヘリ母艦を改良して航空母艦化した、その二番艦が

奇しくも加賀である、一番艦は太平洋戦争当時の航空戦艦日向と同名、どちらもかっての

航空母艦に匹敵する大きさだそうだ。

 

 

 


都会のネズミ 田舎のネズミ

2019年10月21日 09時12分20秒 | 病気と健康

ネット、テレビの格段の技術革命によって今や都会と田舎の情報量の格差は

大きく是正された

しかし情報は情報であって、実践とは異なる、例えば六本木の高級レストランの写真や

メニューをネットで見て「**レストランの**料理は高いけど最高だよ」とは誰でも言える

でも遠く田舎に住む者にとっては写真を見た感想でしかない

東京に住んでいる人は、そこそこの収入があれば、会員制でも無い限り

いつでも、そのレストランに行って食べることができる

しかし田舎に住んでいたら、収入が都会の平均以上であっても、暇な時間と交通費

宿の心配をしないとなかなか出て行けず、ましてや何度も行くというわけには行かない

時間的余裕と東京に長期滞在出来る経済力や地位が無いと無理なのだ

しかも、そうしたオシャレでリッチなレストランは大都市に集中している

それは顧客来店頻度の差によるものだ、ここに田舎と都会の決定的な違いが出てくる

情報量は田舎でも都会でもかなり均等に近づいている、しかし現実に利用出来るのは

都会に住む人間が圧倒的に多いわけで、それは都会人のある意味ステータスでも

あるのだ

大都市圏に出て行った高校時代の同級生は、当時は私より遥かに田舎の山村人

だったのだが、同級会などで帰ってくると「田舎はのんびりできていいなあ~」などと

言う、こっちは(おまえに田舎者扱いされたくないわ)と思うけど口には出さない

だけどよく考えてみると、都会に価値観を置くのか、田舎の価値観を満喫するのかは

個々の考え方であって、それを実践して胸を張っている人はたくさんいる

こんな事をいちいち取り上げるのは自分の心の狭さをしらしめているだけなのだ

田舎と都会では文化教養のジャンルも異なってくる

都会ではすぐれたアーティストの芸術や美術、音楽、芸能(一流芸人の)に触れるチャンスが

とても多い

田舎では歴史文化、伝統芸能、民謡、祭り、自然造形、遺構、神事にまつわる文化に

触れることができる

田舎には田舎の楽しみ方があって、田舎同士のネットワークも最近は多くなってきた

例えば古代の歴史に関連する神様を通じてのネットワークとか、中世の商取引があった

地域同士のネットワーク

街道を結ぶネットワーク、同じ産物を通じたネットワーク、同じ災害を経験した地域の

ネットワークなど多種多様に及ぶ

都会は流行に敏感で次々と新しい情報が一ヶ月前の古い流行に覆い被さっていく

めまぐるしい世界

田舎はゆっくりとした時間が流れている世界、ときとしてそれは住民の性格と同化して

めまぐるしい都会人に席巻される

日本ではいかなる国民も住みたい場所に住むことができる、だから田舎からの人口

流失が止まらない、それはなぜか・・・やはり都会に憧れる若者が多い証拠だ

いかに田舎の自然の良さを言ったところで、田舎には若者を留め置く魅力がないのだ

4畳半一間の安アパートに住んでいても都会が良いのだ。

田舎生活を満喫する人は本当に田舎が好きな人ばかりだ、でもそれは現状を見れば

少数派だと言うことがわかる

最近の法要状況を見ていても、都会に住む中年世帯が、生まれ育った田舎の空き家に

数日滞在して、菩提寺で法要を営んでまた都会に帰って行くパターンが増えた

仏壇は田舎の空き家で寂しく、そしてたまに帰ってくる子供達を暗い部屋で待っている

いずれこの都会に住む息子夫婦も年老いて、子供達は離れていき、田舎の家も墓地も

始末に負えなくなる

「墓じまい」が流行語になるのでは、と思うほど急速に増えている

変わっていくのは都会の流行ばかりでは無い、日本人の暮らしや当たり前の生活、伝統

伝承まで変わっていく

葬式もゆっくり変わり始めている、お墓や仏壇は減っていくばかりだろう、海に灰を撒いてくれ

大好きな山に灰を撒いてくれ、葬儀も墓地も必要ないという団塊世代もあらわれてきたようだ

都会にいても、田舎を持つ在民は最後に故郷を思い出すのかも知れない

父も年老いてから生まれ故郷の話しをポツリと語ることが多くなった、田舎生まれの田舎暮らしの

私は都会への憧れを思うけど、故郷を思うことは無い、故郷に住んでいるのだから

田舎のネズミが都会で暮らす、都会のネズミと競争しながら暮らして都会のネズミ化に成功

したもの、失敗して傷心のうちに人生を失った者、都会になじめず田舎に戻った者

様々なネズミ人生がある

純情な田舎ネズミは、狡猾な都会の大ネズミに敵わない、支配されている

世の中は都会ネズミの意向で動いている、地方の都市ネズミには、それでも都会ネズミに対抗する

パワーがある、明治維新が江戸政府を破ったように、それは民主主義の今でも平和裏に

起こる可能性はある

そしてそれが新たな都市文化を産む、結局同じ事が繰り返すだけなのだ

小さな一匹の田舎ネズミの卑屈な心など吹けば飛ぶ、田舎ネズミは田舎でひっそりと

小さな幸せを探して生きているのがお似合いなのだ

 

 


愚図な男だな

2019年10月20日 18時29分11秒 | 心 思い

いよいよ水曜日から同級生旅行だ、ワクワクする

月曜、火曜の二日間は忙しいことになりそうだ、明日は経理事務所と決算の打合せ

そしていない間の宴席の献立作りと材料の仕入、それと説明もしなけりゃ

遊びに出ると言うことはプレッシャーでもある、完璧なフォローをしておかないと

気が気でないことになる、出てしまえば何もできないのだから

 

きっとまた運転手なのだろうから、それなりの覚悟も必要だ

治ったとは言え、まだ腰の疲れが完全にとれたわけでも無い、あれから諏訪へ行ったり

長野へ行ったり、東京にも行ってきたけど腰は痛まなかった

それでも万一に備えて、明日また整体へ行って血流と骨のゆがみを正してもらう

髪も結構伸びてきたからカットしてもらおうかな、先日美容院のママから飲むおさそい電話が

あったのでついでに「カットしてもらおうかな~」って言った

美容院で髪をいじった経験は一度も無いから、これもワクワクかな

 

旅と言えば・・・そうだね・・・・この歳まで仕事をしているなんて夢にも思わなかったから

未だに僕には老後も余生も無い

もうダメだね、若い頃の夢なんて結局ほとんど実現していない

今さらだから諦めている・・・いろいろあるね アメリカや欧州旅行 それから富士登山や

南アルプス縦走 もうどれも実現しないだろう

アメリカには行く気にならない、そんな歳になったんだ ヨーロッパも興味が無くなった

イタリアとドイツは行きたかったんだけど、あの地中海というのを見たかった

どうも横に移動するのが面倒だ、だめだめと言いながらニュージーランドとバリ島とかは

諦めていない、行くかも知れない

山はもう登れない・・・そう思う

いまだ行ったことが無い北海道、結局思いきりだけなんだけどね、自分を縛っているのは

自分なんだから

そう言う意味では人生、失敗人生だったかもね、自由な人間だと子供の頃から思っていたのに

一番保守的な人間だった

このまま年老いていくのも悔しいから、どこかでやらなくっちゃ(なんて言っているからダメなんだ)

「いつかいつか」で行ったためしがない

やらなきゃ」では無くて「やる!」じゃないと まあ「勝手に言ってろ、あんたにや愛想尽きたよ」

さて私の70台は、どんな人生になるのやら・・・・・「愚図だからな」天国で親父が笑ってらあ


あさ~~~~ 復活! 初サンマを食べた

2019年10月19日 19時51分59秒 | 料理を作る・食べる

なぜか朝になると元気が回復する、「ドラクエ」みたいに

朝、魚市場でサンマと子持ちアユと袋牡蠣と地物の1kg台の甘鯛3匹買った

サンマは昼の従食だ、この秋の初物、三陸の生サンマ

子持ちアユも好きだ、買って酒の肴にする

海辺の人間は「川魚が嫌い」というのが結構多い、でも私は川魚大好きで

信州へ行くと、岩魚の塩焼き、アユの塩焼きを見つけると必ず食べる

焼きたてが旨い

新潟県と福島県の県境、新潟の大河「阿賀野川」が国道49号線と平行して流れている

阿賀町という町がある

津川町、鹿瀬町、三川村、上川村の4自治体が合併してできた町、本当は阿賀野町に

したかったのだろうが下流の阿賀野市(安田町、水原町、京ヶ瀬村、笹神村)に先を越された

感がある(あくまでも私の推測)

ともあれこの阿賀町に板前修業時代の一番の兄弟弟子が住んでいる

同じ日に入店して、学年も同じなので双子弟子と言った方がいい

この家の裏に豊かな水量を蓄えて悠々と流れる阿賀野川がある、阿賀野川ライン下りも

おこなわれているくらいだから大きな川だ

ここでアユが捕れる、川カニもとれる、今はどうか知らない

もう20年以上前に彼の家でアユを食べさせてもらった、20cm位はある大きなアユだった

喜んで食べるものだから3匹も焼いてくれた

 

同じ頃、彼の家で一晩泊めてもらったことがある

前の晩はたまたま帰っていた彼の一歳年下の弟と3人で深夜まで飲んだ

弟は筑地の超一流の料亭で修行して、新潟市の格式高い料亭の料理長になった男

で、目から鼻に抜けるスカッとした男前だった

そして朝になった、「おい! おい!」と相棒が私を起こした

時計を見たらまだ5時だった

「どうした?」寝ぼけ眼で聞いた

「堤防が切れっけ、出前さげにいかんばならん、一緒に来てくれ」

外は雨が強く降っている、何が何だかわからないまま彼について外に出た

二人でワゴンのバンに乗って国道を行き、途中から山の中に入った

この町は所々に集落が点在している

阿賀野川の支流の川の土手道に出た、消防団が警戒していた

「ここはダメだっけ、あっちさまわれ」

「**なにいってがや!おれだべさ!」

「おっ!**さんだけぇ わるいわるい、通ってくれ」

消防団長もやったことがある相棒だけに村では顔が広い、土手道を通してもらった

急いで器を回収してさっきの土手に戻った、しかし

「**さん、もう行けねぇ、堤防が切れた、**をまわって行ってくれ」

遠回りをして家に戻った、途中の阿賀野川は泥水が出て今にも溢れそうだった

朝食を食べてから相棒が「カニのかごさ流されるといけねっけ、とりにいかんばならん

一緒に行くか?」

家の裏はもう阿賀野川で、畑を抜けると杉林があって、細い道が川岸に続く

杉林のあたりから水がヒタヒタと足下にあたる

「だめだ!かごはあげられね!、帰るぞ」

堤防がない、ジワジワと水位が上がっていく、でも相棒は慌てない

「こんげ・・・つぁ たまにあるんさ」

川よりも10m位は高いのだろうか、家までは水は来ないという

 

それから10年も経った頃だろうか、土砂崩れがこの近くでおこり、国道も水浸しになった

そんな災害もあったのだ

彼の家も村も被害はたいしたことは無かったようだが、別の地域では土砂災害に見舞われた

 

今日は夕方から我が町も雨が降り始め、今はそうとうな量の雨が降っている

風はさほど無いので不快な音はしないが、先日の台風では山間部で土砂崩れが起きた

長野の災害地では気がきでは無いだろう

年々災害の度が高まっている,今までの常識では想像もつかない災害が自然現象が起きている

10mの津波が、突然30mの津波になったり、風速50mの風が吹いたり、45度の気温に

なるとか、そのくらいまで想定しないと対策が後手に回る恐れさえ・・・・

 

サンマを食べる話しが脱線した・・・・あまり脂が無くて期待はずれだった

再挑戦だな