東京の感染数が次第に減ってきている、これがほんとうの数字なら
とても良い兆候だ、全国的にも感染者ゼロが多くなってきた
今日は日曜で、午前の地元ショッピングモールは東京銀座よりも
ずっと人が多かった
優良な県の自粛解除がおこなわれる可能性が出てきた、まずは
集団感染の可能性が少ない小売業などから解除になりそう
当然ながら50名、100名を同時に収容する私のような店は、まだまだ
解除にはならないでしょう・・・一番最初に仕事がなくなり、一番最後に
解除される、「こんな商売もう嫌!」・・・・・と言いたいが
それはじっとこらえて、どうせここまで来たら10日も1ヶ月も同じ事
開き直って楽しくやろう!
深刻に考えて、神経を集中して打開策を考えたって名案なんか
すぐに浮かんでこない・・・・そう言う意味ではもうポンコツ頭
笑うポンポコリンで笑うしかない・・・ならば大声で笑う
家の中で縮こまってばかり居るから、たまたま足を伸ばしたときの
気持ちよさ、そうかストレッチも良いなあ
ファンキーミュージックに合わせて踊るのも良いかも
「ファンキーファンキーブロードウェイ! いぇ!」
どうせバカ頭バカになって踊ろう、カラオケも随分歌ってないなあ
仲間とも飲んでいないなー、 一人で飲んでもつまんねぇや
さて暇が出来た日は仕事を忘れて、家を出て、車に乗って
何をしに行こうか・・・・・・
料理作りも面白いけど、毎日毎日これじゃやりきれない
朝5時に起きて、ワールドニュースを見たり、撮りだめの映画を見たり
そして6時半に魚市場2カ所をまわり、魚屋仲間と挨拶、情報交換
8時に店に行って、毎日2人ずつ交代出勤の社員が出てくる10時まで
溜まった事務や、営業作戦を考えたり,ブログチェックをしたり
10時から調理場に入り、その日の仕事をする
社員が帰る17時から一人で「ボ~」っとしながら電話番を20時までして
あとは警備会社に任せて帰る
家に戻って晩酌しながら夕飯を食べて、それから愛犬のご機嫌伺いをして
それから部屋でテレビを見ながら眠りに落ちてしまう
22時頃目が覚めて、重い重い体をなんとか起こして、それからお風呂に入ると
今度は覚醒して目がぱっちり空く、それで一杯飲みながらテレビを見る
今は撮り置きの中国歴史ドラマ2本を見る、そして24時、ようやく電気を消す
そんな決まった日常を一日も休まず続けている
そんな決まり切った時間の中でも読書だけは毎日続けている
一日10ページだけの読書、たった5分だけの読書、それでも2ヶ月で1冊くらいは
読み終わる
この頃は「古代からの日本の内戦の歴史」「武士の起源」についての2冊を併読
している
もう秀吉だ謙信だという戦国戦記は読みあきた、新しいネタは早々出てこない
ずっと前から考えていたのだった、私の血がつながっている祖父(戸籍上は他人)
が調べて書き残した我が家の歴史には、鎌倉時代(北条時賴の時代)に祖という
人物が表れる
三浦三崎の藤原系の武士で、同地の武士の娘と恋愛をして許されず、はるか
下野国(栃木県)の那須まで駆け落ちして、その地を開墾して名をあげたという
その地で8人の男子をもうけて7家の分家と共に栄えて、氏の長者となって
様々な伝説が伝わっている
祖父が大正年間に調べたものだが、地元の歴史ではこの人物は更に300年
遡って900年代早々の延喜年代に確かな名前が表れる
我が家は、その本家から300年ほど前に分家してその分家の嫡流として
私で15代目とか16代目なのだそうだ
祖母が結婚するとき(婿取り)には本家の奥さんが祖母を本家の養女と
して、本家並の結婚式をしてくれたという、これは祖母が、その母(私の祖祖母)
の再婚でママ父の籍に入っていたからで、本家は、本来の籍(分家)に祖母を戻して
いわゆる「お家再興」を助けてくれたのだ、「家」を重視する時代ならではの話しだ
だが父の代で、その由緒ある家を廃して、今の姓の家を受け継いだのだった
なぜ「武士の起源」を呼んでいるかと言えば、頼朝と関係が深い三浦一党
から別れて那須で一家を興し、地域の有力者となり地方地頭を務めた先祖が
そのときは既に大地主だったわけだが、果たして身分は武士なのか農民
(小作ではない)なのかを調べたかったのだ
田舎武士はその地から身分低き者どもが荒くれとなって徒党を組み、
やがて朝廷の出張所である管領や公方の用心棒的
役割を与えられて、やがて源平などの武士となった」というのが説が主流だった
だが「武士の起源」を調べてみると、武士の起こりはその元は、朝廷にあり
天皇が多くの子を成し、庶子も多く、それらを京の朝廷で面倒見切れなくなり
各地に食い扶持を与えてあるいは役職を与えて広まったという
だから当時は武士という職業はなかったが、その祖は乗馬と弓射に長けた
身分ある者だったということだ
それが時代と共にその地に永住して一族を増やし在地勢力となり、都からくる
役人(国司など)と手を組んだり,脅したりして税をごまかし、狼藉を働き在地勢力
として強大化していったという、まさに京から遠い地方はやりたい放題だった
それは8世紀から10世紀以前のことで、まだ朝廷に権威があった頃は、前九年の役
後三年の役、あるいは平将門の乱や藤原純友の乱を鎮める事が出来た
けれどこうした反乱を起こすだけの力を持つ豪族や(武士団)がすでに地方にあったのだ
だがそれらは武士とは呼ばれず、最初に武士として呼ばれたのは朝廷をあるいは
天子を守る者たちだった。
いずれにしろ武士は田舎の貧しい階層から発生したのではなく、天皇の子孫から
発生したのであって、天皇家の外戚で栄華を極めた藤原氏、天皇の子孫である
平氏、源氏を武士が名乗るのは当然だった
我が祖も藤原氏というのは、藤原一族だからすごいだろ!という意味ではなく
武士で在るからにはそれらのいずれかの流派なのは当然だったのだ
武士などというが特別なものではなく、人口も少なかった昔では国民の半分武士
、半分農民という位ではなかっただろうか、武士が珍しい特別な存在ではなかった
だろう、現代でも公務員の給与手当年金総額と税収を比べれば、昔の公務員である
武士の数が農民と同数でも不思議ではないだろう。