神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

晩愁 城の平と南アルプス

2016年11月29日 19時59分06秒 | ドライブ

駆け足の秋は遠くに去って行った

もう冬が来たかのように、激しいみぞれ混じりの雨

今年は紅葉も色づかず、戻り来る鮭も少なく、太平洋回りのイカモ皆無に等しかった

今年の秋は、本当に寂しい秋だった

だから秋晴れの一日の風景だけが目に焼き付いている

 

城の平と八ヶ岳

 

城の平と南アルプス


(I Can't Get No) Satisfaction

2016年11月28日 20時32分15秒 | 音楽

人間いまの暮らしに満足したらおしまいだ

いつでも三分の腹ぺこ状態が呆けない秘訣、この世の中には知らないこと

経験したことが無いこと、いっぱいある、大事なのは60過ぎても好奇心

「満足できない」それが最高の生き方

今年は人手不足になって実行できなかったけど、人でをそろえて来年は

自由な時間を作って、日本の見たいところを見て回る

これが来年の近い

アイキャント ゲット ノ- サティスファクション

「満足なんかできないよ」

 


日本の歴史 おさらい⑰ 最終回

2016年11月27日 18時32分24秒 | 日本史

日本2000年の歴史もこれで終了となる

中国4000年、韓国は5000年の歴史があるという、中国の4000年はわかるが、韓国の

5000年は?

歴史とは政治体制、人物、最高権力者を時系列で並べて解説するものである、日本に当てはめれば

政治体制は朝廷政治-武家政治-帝政-民主主義(資本主義、自由主義)であり

最高権力者は天皇-藤原氏-平氏-源氏-北条氏-足利氏-豊臣氏-徳川氏-天皇-国会(国民)

但し、政治的な最高権力者の上には世界でも希な、建国以来の一系伝承である天皇家が存在する

日本の年号と同じく、天皇家の血脈は続き、今に至っている、しかし今後の男子の直系は秋篠宮家に

一人だけで、今後の天皇の継続について論議が交わされている。

ともあれ日本の歴史を語るには、天皇と為政者の力関係、あるいは出来事を知ることが重要である

日本の歴史の転換点には必ず、天皇及び皇子が登場する、大化の改新、平氏の滅亡、建武の新政

戦国期の上杉謙信の尊皇、織田信長の天皇利用、徳川家康の公家諸法度制定、幕末の攘夷、明治維新

2.26事件、終戦の玉音放送

昭和という時代は昭和20年を境にして全く異なった昭和時代が展開される、戦前の軍国主義時代は

まさに戦争一色の時代だった。

終戦後からは戦争及び軍隊色が払拭されて、グローバルな経済戦争の時代が展開された

昭和20年、日本国は米国に占領されると共に、国家経済は破綻した、いやほぼ破綻した

国民は草木の根をかじるような貧しさの中で、それでも日本人のたくましさか器用さか根性か再び

経済活動が始まったのは終戦直後からである、貧しさになれているアジアの中で、破綻からすぐに

貪欲に富を追った国は日本だけであろう。

中国も朝鮮も貧しさから、順調な経済活動に至るのにずいぶん長い年月がかかっている。

昭和30年代には、自動車が普及しだし、昭和39年には東海道新幹線が走り、東京オリンピックが開催

された、戦争で主権を失い、空襲で100にも及ぶ都市が焼き尽くされ、交通網も工場もバタバタになった

それがわずか20年足らずで世界の人を集めて「おもてなし」ができるオリンピックを開催するだけの

経済力とインフラ整備ができたのだ、恐るべし日本

そして高度成長期に入り、国民の所得は「倍増計画」どころか10倍にもふくれあがった、さらにバブルが

始まると、アメリカを買うほどの金を持ち、世界一豊かな国になったように見えた、だがそれは風呂の泡

だった、まさに「水の泡」、日本経済は一気に冷え込み、一流銀行、一流証券会社、一流損保会社、

一流商社が次々に破綻した。

あれ以来、平成28年の今日まで日本の経済は低水準で推移している、所得も増えるどころか減るばかり

かっては世界一と言われた個人所得も、今はベスト20位にも入れないほど落ちぶれた、昨日見た池上彰さん

の番組では日本人の所得は360万円だとか言っていた、年間所得100万円以下のワーキングプアも

何十%いると聞く。

産業構造も戦前は大きな割合を占めた農業、漁業、林業従事者がたいへんな勢いで減少している

仕事がキツい上に、都会のサラリーマンに比べても収入が少なすぎる、漁業は収入が良いが天候と魚の

気まぐれで収入が安定せず、船や漁網の経費がバカにならない、農業の機械もその通りだ。

逆にIT、芸能産業、マスコミ関連、スポーツ界は華々しく華やかに、そしてセレブと言えばこの業界が

圧倒的に多くなった、確実に都会と田舎、産業別の収入格差が大きくなり出している。

加えて少子高齢化、非結婚者の増加、離婚の増加と、それによるシングルマザーの増加、世界の中でも

異常に低い出生率、年金受給の不安、若者に聞くともう年金はあきらめている人がいる、さりとて

異議を申し立てようという思いももっていないようだ、あきらかに日本人の質は変化している。

貧しさに慣れた若者、バブルの再燃をあきらめたバブル世代、なぜこんな事を書くか、今が最新の

日本史を我々自身が実行しているからだ、こんな様々な小さな出来事が数十年後に歴史として語られる

「平成の不況時代」と書かれるのか、「少子高齢化結婚できない時代」があったと書かれるのか

「所得格差が著しい時代であった」「年金の受給を巡り各地で暴動が起きた」はたまた「第三次世界大戦参戦」

「**年ぶりに外国と交戦が行われた」と記されるのか「東証35000円突破!」「出生率1.5到達」なんていいね

20年後まで生き延びて、追記された日本史を見てみたいものだ

 

                     おわり

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑯

2016年11月26日 14時36分50秒 | 日本史

北朝鮮がソウルに攻め込んだとき、町の中央を流れるハンガンの橋を爆破するのは

戦略上、重要であった、ここで北朝鮮軍を足止めできれば、韓国、アメリカの軍は再編して

体制の立て直しができるからだ、ところが予想外の不意打ちで、軍と市民がごっちゃになって

撤退となったため、軍を優先的に渡河させる必要があった、そのため多くの市民は河の北側で

足止めされた、しかし北軍の侵攻は早かった、戦車を先頭に攻め寄せる。

市民が渡りきらないうちに橋は爆破された、多くの市民が犠牲になった。

それでも北軍は河のあちこちから渡河してきた。

結局、韓国軍は南に追い詰められ、大統領はプサンに臨時政府を移した、テグ、プサンが孤立しながら

なんとか戦線を保っている、ここが落ちれば大統領を始め要人は、日本に逃げ延びるしかない。

この時、補給線が伸びきった北朝鮮軍に対し、マッカーサー将軍は米軍の西海岸上陸作戦を実行

しようとしていた、問題はどこに上陸するかであった、結局インチョン(仁川)に決まったが危険な賭

であった、だがこの作戦は成功した、意外にも北朝鮮軍が少なかったのだった。

これによって北軍は分断された、そして南側の北軍は逆に包囲されてしまった。

今度は北軍の敗走が始まり、米英韓軍(国連軍)はソウルを奪還し、更に北朝鮮の首都ピョンヤンも制圧

、さらに北へ北朝鮮軍を追い詰めた、ところが今度は北朝鮮軍に中国から中国人民軍が支援に大軍を

送り込んできた。

これで戦線は38度線あたりで膠着状態に成り、やがて休戦協定が結ばれて、今日に至っている。

北朝鮮と韓国の戦争は67年間いまだに続いているのだ、休戦しているだけである、お互いに

相手の国の存在を認めていない、自国を敵が不当に武力占拠しているという事になる。

この戦争には日本の哨戒艇が機雷の撤去に参加したと言うことだ。

この戦争では、駐留米軍が朝鮮に行くことで、日本の防衛力が希薄になる、そこでアメリカ主導で

日本人で編成された「警察予備隊」という軍備を持った組織を作った。 <軍隊>とは言わない、

アメリカが作った憲法を僅か5~6年でアメリカ自ら破ることになるからだ、これが後に「自衛隊」となる。

世界でも数本の指に入る軍備を持っているが憲法上、日本軍ではない、戦闘を行うにしても、いちいち

国会に於いて審議して、憲法を代えるか、憲法解釈を代えなければ一発の弾も攻撃してくる敵に向けて

発射できない、これはあきらかに軍隊ではないのだ、先日ようやく「かけつけ警護」とかの法律ができて、

海外の邦人や一緒に警備する外国軍が攻撃されたときにはそれを援護するための発砲が認められた

ばかりだ。

 

昭和20年の終戦から、日本では深刻な食糧不足が始まった、食料は国が統制して配給制にする

食料生産ができない都会はいくらお金があっても食料が不足する、国の配給だけでは生きられない

田舎の農家に買い出しに行く、現金だけでなく、豪華な着物などを持って行って交換してもらったりする

せっかくこうして持ってきた米や野菜は、警察に見つかれば没収されてしまう。

警察官でも闇米を食べて生きている時代なのに・・・

さらに海外に出ていた兵隊たちが続々本土に帰還してきた、そして結婚、あるいは家族の元へ

一気に子供が生まれ始めた、食糧難の折り、この子らを育てていくのは容易でない、たいへんな時代

が始まったのだ。(団塊世代の誕生)

この頃は貨幣価値が凄いスピードで下落していった、異常なインフレだ(ハイパーインフレ)

数百円というお金は、結構な金額であったが、それが5年も経つと100分の1以下に下落してしまった

最初に土地家屋を買っておいた人は幸いだったが、現金で持っていた人は大損をしたようなものだ。

 

この朝鮮戦争で日本の景気が沸騰した、隣国の戦争で景気がよくなったのだ

戦争とはおびただしい弾薬と食料の消耗と補給、そして輸送を産み出す、あるいはけが人と治療、

戦死者の処理、様々な分野が活発化する。

そして昭和27年4月28日、日本は再び「独立国日本」として世界に認められた、同時にアメリカとの間に

日米安全保障条約(安保)が結ばれた。

東西冷戦の中、日本は自由主義陣営の一員として再スタートをした。       つづく

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑮

2016年11月26日 10時52分57秒 | 日本史

戦前の天皇陛下の存在の重みは、アメリカによって作られた「新憲法下」の「象徴天皇」とは

まったく違う。

日本は昭和20年8月15日連合軍が提示した無条件降伏を受け入れた、そして9月2日

米国戦艦「ミズーリ号」において降伏調印式を行った、これによって日本は独立国の地位を

失い、連合軍の占領下に置かれることになった、これは「煮ようが焼こうが勝手にしろ」状態なのだ

無条件降伏とは、言われるがママにするという最悪の受動態

太平洋戦争の敗戦で、もっとも日本の政府や軍部が懸念したのは降伏後の天皇陛下に対する

連合軍の扱い方であった、もし「戦犯」にされた場合、あるいは裁判にかけられるなどは到底

日本国民が許すことのできないことであった。

連合軍にとって、天皇が今度の戦争の最高責任者と考えるのは自然であった、しかし戦争の

終結に際してあれほど勇敢で勇猛で、自らの死さえも顧みず国家のために自殺的戦死を遂げる

国民、そして過激な軍部をぴたりと制して、一糸乱れぬ整列で戦勝国を招き入れたのは、天皇陛下の

玉音放送のただ一声であった。

捕虜や各界の日本人知識層などからも天皇陛下の人柄や国民感情も連合軍は聞き取りをしただろう

その結果、天皇を裁くのは日本人にふたたび反抗なり、暴動なり、あるいはゲリラ戦がおきるのではという

懸念を持ったからだろう、むしろ国民を押さえるには天皇の力が不可欠と考えたかも知れない。

天皇家をそのまま存続させ、但し今までの国家主権を「国民の象徴」とすることで手を打ったということだ

これで国民や軍、政治家は胸をなで下ろした。

連合軍(主にアメリカ軍)がマッカーサー将軍を先頭に日本に駐留した、連合国では日本の占領にあたって

ソ連、中国、英国、米国など戦勝国が日本列島を分割統治するという案があったとは歴史書などに

書かれている、だがアメリカはそれを許さなかった、アメリカ一国が日本に対する戦勝国なのは明白だった

インドシナ半島やマレー半島、インドネシアの戦いではイギリス、オランダ軍を追い払い、中国戦線では

終戦時点では優勢に戦争を進めていた、ソ連とは戦っていなかったが、日本の敗戦濃厚なのを見届けて

満州、朝鮮に攻め込んで略奪と殺戮を行っただけで戦勝国の権利を得た。

もっとも血を流さずに大きな利を得たソ連は、千島列島、樺太、今何かと政治課題になっている北方4島

を戦利品として日本から奪った。

しかしもしソ連が北海道を、中国が東北地方を分割統治していたら、今の日本は朝鮮戦争どころではない

混乱に陥っていただろう。

 

連合軍はまず日本軍を武装解除したあと解体した、日本軍は消え去った、占領はしたが政治機構は残した

あくまでも政治のトップは日本人に任せた、アメリカは日本政治のトップを管理するだけにとどめた、その方が

日本を統治するのに楽だったのだ、日本の官僚機構は今も昔も世界水準だ。

最初に行ったのは戦争を主導したと思われる政治家や軍人の逮捕だった、その後、極東軍事裁判を行い

陸軍の東条英機元首相などが絞首刑に処された。

この裁判の中では、原爆で一般市民を大量殺害した事についての反論があったが「勝利国が敗戦国を裁く

裁判である」と一蹴される場面もあったという、 無条件降伏の意味を知らされた一場面だった。

この裁判に先駆けて、国外ではそれぞれ現地で軍事裁判が行われ、その方面の戦争責任者や戦中地元民

を迫害した罪で多くの兵が現地で死刑にされた。

それから一部分に大きな力を集中させるのは危険と考えて、財閥解体を行い、大会社を分割した、大地主の

持つ田畑も小作人に分け与えさせた(農地解放)、ソ連から帰国した捕虜は社会主義思想に洗脳を受けていた

のでソ連の影響を恐れて「赤狩り」と称して共産党の影響がある人たちを取り締まった。

これはアメリカ本国でもおこなっていたのだった、1950年代に朝鮮戦争が始まるとより厳しくなり、地方の

大きな工場などでもレッドパージという声が聞かれるようになった。

昭和22年5月3日、日本国憲法が発令された、これは平成の今、世界の実情に合わないと自民党が憲法改正

を働きかけ、野党が反発しているのは皆さんもご承知の通り。

この新憲法は、日本は再軍備をしない、戦争をしない、国民が主権者である、自由平等を守る

国民の権利と義務などが盛り込まれている

この昭和20年から25年の間には日本の敗戦の影響で東アジア、東南アジアに大きな動乱が相次いだ

中国大陸では国共合作が終わり、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍が戦闘を再開した、国民党は

中国国民に評判が悪く、次第に共産党の支配地域と支持者が増えて行き、ついに1949年蒋介石は軍と共に

台湾に渡って、中華民国とした。 当初台湾の先住の人たちと激しい摩擦対立があったという。

大陸の中国は中華人民共和国と成り共産党国家となって今に至っている。

朝鮮半島は日本の敗戦でアメリカとソ連が南北半分ずつ統治した、北には戦争中、ソ連に逃げていた

金日成らが戻ってきて、ソ連の指導を得ながら北朝鮮の経営に乗り出した、そのため北朝鮮は

社会主義国家になった。

南朝鮮は李承晩がアメリカの影響下で大統領となった、こちらは資本主義国家の歩みを始めたので、

南北朝鮮は自由主義国家と社会主義国家の対立の縮図になった。

1948年、朝鮮半島の2カ国が独立した、南朝鮮は韓国(大韓民国)と国名を改めた。

韓国初の大統領となった李承晩(イ・スンマン)は昭和27年に、李承晩ラインという

日本海の国境線を一方的に交渉なしに設定して軍隊を駐留させた、それが今日の竹島問題として残っている。

その他のアジアでもインドネシア、インドを始め次々と独立を果たしていく。

1950年6月、突如として北朝鮮軍が国境を破って韓国に攻め寄せた、韓国の首都ソウルは瞬く間に占領

されてしまった、装備も士気も圧倒的に北軍が勝っていた、韓国の大統領等は水原方面に逃げた。

 

                                                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑭

2016年11月24日 08時54分23秒 | 日本史

この戦争で日本が世界に誇る兵器がいくつかある、東アジアの資源乏しい日本が

どうしてこれだけの兵器を作ることができたのか不思議に思う。

おそらく国家予算の何割かを軍事費に充てたからこそできたのだろう。

(今は予算の1%以下である、これを10%にすれば今の10倍の兵力になると言うことだ)

常に外国軍隊の脅威にさらされているところでは、国家予算の半分近くまで軍事費に使う国もあるようだ

日本軍の優れた兵器は、まずは零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、3000kmにも及ぶ航続力、素早い旋回能力

戦争中期までは、世界最強クラスの戦闘機でアメリカの戦闘機さえ歯が立たなかった

酸素魚雷 航跡がわかりずらい魚雷、姿も見せずに突如艦船を撃沈する

イ-500型潜水艦、偵察水上機を格納できる超弩弓の潜水艦、アメリカ本土まで行って砲撃したらしい

戦艦大和、戦艦武蔵 世界最大の戦艦、主砲の46センチも世界最大、日本では不沈戦艦と信じていた

しかし華々しい戦果もあげぬうちにアメリカの航空機によって2隻とも轟沈した

こんな兵器と日本人の根性、精神力、器用さ、不器用さ、国民性で4年近くも白人国家を敵に回して戦ったのだ

司令官や戦争指導者に敬意は持たないが、ここまで頑張った下士官や、招集された一般市民兵士には

心から敬意を表する。日常生活と家族を置いてきた、数百万人の平凡で善良な市民が国家守護のため命を

なげうったのだ。

沖縄戦は初めて日本国内で一般市民が住む地域での戦争である、しかも島である故に逃げることもできない

紛れもなく一般市民は戦闘に巻き込まれて命を落とす、日本軍が中国で行った市街戦、あるいは田舎の集落

での戦闘、あるいはアメリカが1960年代にベトナムで行った戦闘、これらはみな沖縄戦と同じだ。

そもそも沖縄はその昔、独立国の王国だった、しかし朝鮮同様、強国に囲まれた小国故に独立を保つのが

たいへんだった。 沖縄は琉球と言った、江戸時代には日本と清国の両方に朝貢して独立を保っていた

しかし幕末、日本の薩摩藩(鹿児島県)に併合されてしまった。

ともあれ沖縄戦については様々な記録が残っている、映像も残っている、それは沖縄県民の受難と、そこに

送り込まれた兵士たちの血みどろの戦い、この戦争で長崎、広島、東京、横浜、名古屋などの市民と同様に

もっとも悲惨な目に遭った人たち、この亡き人々の受難でようやく戦争は終わったと言って良い。

沖縄は3ヶ月の戦闘でアメリカが占領した、以来、昭和47年までアメリカの占領下に置かれた沖縄、そして今も

県の多くの地域がアメリカ軍の基地になっている現実、まだまだ沖縄の戦後は終わっていない、そしてそれは

今も数々の問題として政府と対立している。

 

沖縄が占領された、沖縄の砲台になるために片道燃料で出撃した日本の最後の星「戦艦大和」もあえなく鹿児島沖で

米軍攻撃機によって、数千名の乗組員と共に轟沈して海底深く沈んでいった。

鹿児島県の飛行場は神風特攻隊の前線基地として、毎日10代20代の若者が飛行機に爆弾を積んで片道燃料で

沖縄に押し寄せた数百、千の敵艦に体当たり攻撃を仕掛けた、しかし度重なる特攻機に慣れたアメリカ軍は待ち構え

ていてゲーム感覚でこの無謀な特攻機を打ち落としたという、パイロットもほとんどひこう経験の無い未熟練者であり

ほとんど米艦に命中することはなかった、特攻も終盤は犬死に等しかった。

それでも軍部は最後の一兵まで戦うと「本土決戦」を真剣に考えていた、まさか押し寄せてきた数千隻のアメリカ艦船が

元寇の時のように、神風によって兵士もろとも荒らしの海で消え去ると考えたわけでもあるまい。

本土決戦を行えばアメリカ兵100万人と差し違えるという計算があったとか、しかしそのために3000万人以上の日本

国民が滅亡する、だがそれ以前にアメリカ爆撃機が連日、自由気ままに日本に侵入して都市という都市を無差別爆撃

した、富山市などのように全て焼き尽くされたところもある、50以上の都市が爆撃され、8月には1週間で広島と長崎に

原子爆弾が落とされた、たった一発の爆弾でそれぞれの市民10万人以上が殺された、そして2世3世まで放射能の

後遺症で苦しみ死んでいった人もいる。

いつまでも降伏せず抵抗する敵国への見せしめの大量虐殺、脅し、ようやく日本のリーダーが連合国の無条件降伏を

受諾してこの戦争は終わった、しかし中国大陸の陸軍はなぜ負けたのか理解できなかった、まだまだ互角以上の戦闘

を行っていたのだろう。

だがソ連軍が攻め寄せてきた満州や朝鮮では、敗戦にかかわらず悲惨な日本国民の受難が続いていたのである

亡国となった日本の政府はこれらの哀れな国民に何ら救いの手をさしのべることができない、ドイツ軍による

ユダヤ人狩りと同じ事が、降伏一週間前に不可侵条約を一方的に破棄して攻め込んできたソ連によって

行われていたのだ、民間人は暴行され殺され、投降した兵士は60万人もシベリアへ不法に連行され、酷寒の地で

奴隷のごとく過酷な作業に使われて6万人以上がその地で亡くなったという、それは昭和25年頃でも続いていた

同じ捕虜でも米英に捕らわれた捕虜とは天と地ほどの境遇の差がある。

こうして歴史をおさらいしながら、昭和20年からは気が重くなってくる、19年までとは戦争の様子ががらりと変わり

それは戦争と言うより、一方的な日本人へのホロコーストに思えてくる、もはや戦争ではない、それにも関わらず

なぜ政府は降参しなかったのだろう。自殺教唆としか思えない意味も無い特攻で多くの未来ある若者を

殺してしまった。

天皇陛下をお守りするため信州松代に巨大な地下要塞を建設して、飛行機など最終決戦兵器も各地に温存して

本土に200万、大陸に100万の日本軍が健在だと意気をまく

まだまだ軍は、やる気はあったのだ、だがアメリカは空から日本軍より国民をターゲットにして戦争を終わらせた

お手上げだった

 

                 つづく

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑬

2016年11月23日 15時11分26秒 | 日本史

昭和19年11月ついにサイパン、テニアン、グアムの米軍基地からB-29が日本爆撃に

飛び立った。 今は日本人の若者たちがビーチで楽しんでいるが約70年前にはサイパンでは

多くの日本人が民間人が戦争のために亡くなった、乱暴なアメリカ軍がやってくる恐怖で婦女子は

岬の断崖から身を投げたのだ。

日本がこうして押しまくられている頃、ヨーロッパ戦線でも日本の同盟国ドイツとイタリアも連合軍に

東西から押しまくられていた、西から米英中心の軍、東からはソビエト軍がドイツの

占領地を次々に解放していった。

 

アメリカ軍の次の攻撃目標は硫黄島であった、見過ごしても良いような小さな島だがこの島にある

守備隊が邪魔だった。

アメリカ軍が東京を爆撃する場合、サイパンから東京を往復すると5000km近い

B29の航続距離だと何かトラブルが起きれば爆撃後にサイパンまで戻れない可能性がある

しかもこの距離は直線距離で硫黄島の近くを通る、すると発見されて本土では迎撃態勢がいち早く

形成されてしまう、護衛戦闘機はとても行ける距離でなく、だから硫黄島を大きく迂回する必要があった、

そうするとまさにぎりぎりなのだ、燃料がぎりぎりで不時着も多かった。

この島さえ占領してしまえば、アメリカにとって日本のどの都市でも楽々爆撃できるようになる。

佐渡島の10分の1程度の島で最高地点の擂鉢山が170mあとはほぼ平坦な感じの

溶岩台地である、飲料水は自噴していない。

硫黄島の日本軍守備隊は2万数千、サイパンを落とした米軍がまもなく大艦隊と上陸部隊で

攻撃に来るのは目に見えている、そのため守備隊長の栗林中将の命令一下、未曾有の溶岩台地

穴掘り作戦が始まる、硫黄島の名が示すとおり西ノ島の成り立ち同様、海底火山の噴火でできた

島だ、これを掘削して長大な防御陣地を作るのは容易ではない、だがみんなやり遂げた。

栗林中将は温厚で家庭思いで筆まめな人柄であった、またアメリカ通でもあった、その人柄は

彼のことを書いたノンフィクションを読めばよくわかる。

戦場に在っては冷静沈着で気配りが行き届き、部下思いである、日本の封建的な訳のわからない

司令官、指揮官が多い中で栗林中将は代表的な名将だった、また敵にも尊敬される人だった。

そして部下にはオリンピックの馬術で金メダルを取った西中佐もいる、彼の死を惜しんだ敵国の

アスリートたちも多かっただろう。

勝ち負けだけ決めるなら、戦争ではなくスポーツでも良いわけだ、だが戦争には複雑な破壊と

死を伴う麻薬的快楽要素が潜んでいる。

静けさが漂う硫黄島に8万の上陸兵、海を覆い尽くした艦船、おびただしい爆撃機、爆弾と艦砲

射撃が島の形を変えるほど降り注いだ。

もともと森も林もない裸の島だ、攻撃するには楽である、日本軍の反撃はなく、敵兵の大半が

陣地と共に埋もれてしまったと思われた、数万の兵が上陸した、物資が海岸に山積みになった

そこに猛烈な日本軍の砲弾が飛び込んできた、あっという間に数百の犠牲者が出た、時間と共に

犠牲者は増えていく。

栗林中将の果敢で緻密な作戦により逃げ場のない、縦4km横8kmの小さな島の陣地で、支援の

飛行機も艦船も戦車もない栗林師団は3倍の敵兵と、圧倒的な艦船と飛行機と砲撃に堪えながら

1ヶ月もゲリラ戦で持ちこたえ、結果的にはほぼ全滅したが戦死と負傷の合計ではアメリカ軍の方が

日本軍より多かったのだった、栗林中将こそ軍人としても人間としても最高のナイスガイだと思う。

3月9日の午後、この島で10万の日米両軍が死闘を繰り広げる頭上をグアム、サイパンなどから

数百機のB29爆撃機が東京目指して飛び立った、そして3月10日零時過ぎ、寝静まった東京に

油をまき散らし、それからおびただしい数の発火材の焼夷弾をばらまいた、今までの空襲は中島

飛行機工場などの軍需施設を狙ったが、今回は明らかに非戦闘員の住宅地狙いだ、それも低空飛行

で確実に命中させていく、一夜にして東京の半分、下町地区が焼き尽くされ10万人以上の市民が

焼き殺され、防空壕に逃げた人々は蒸し焼きになった、隅田川は関東大震災以来またしても溺死体で

溢れた、翌日からは黒焦げの遺体やズブ濡れの遺体が隅田公園や浅草寺、錦糸公園などに積み上げ

られた、悪魔の仕業としか言えない残虐な行為だった、この作戦を指揮した米空軍の将軍には戦後日本

から最高の勲章が贈られた。

1週間前にはフィリピンもアメリカが制圧した、マッカーサーは発言通り「戻ってきた」のだった。

そして勝ちに乗じたアメリカ軍は日本の前線防衛基地の台湾を無視して、4月1日沖縄に上陸した、悲劇の

沖縄戦の始まりだった。                         つづく

 

 

 

 

 

 

 


大相撲 久しぶりに横綱大関が強い

2016年11月23日 09時21分30秒 | 大相撲

大相撲九州場所もあと残すところ5日、今場所は横綱.大関が安定している

横綱はここまで3人で27勝3敗と横綱相撲を取っている、大関も琴奨菊だけが負け込んで

いるが、あとの3人は22勝8敗でまずまずだ

今場所の意外!は大関れべるの横綱鶴竜が全勝で来ていることだ、しかし今年一年は

そんな場所だった、今まで角番の連続だった日本人2大関が相次いで優勝を果たし

しかも綱取りの大騒ぎに、しかし自力がないのと30歳を超えていることもあり、どっちも

もとの角番大関に後退した、鶴竜もこの流れに乗れば、もしかしたら優勝かもしれない

しかし初場所では多分4敗5敗することになるだろう、せめて今年最後に優勝して3横綱

全員が優勝で終わって欲しい。

1年の総括とすれば①意外な大関の優勝相次ぐ②白鵬に衰えの陰③自力ある力士の転落と

復活が繰り返される、遠藤、照の富士、逸ノ城、大砂嵐④期待の若手成長 正代 御嶽海

石浦⑤ベテラン大暴れ 勢  嘉風 隠岐の海 高安⑥十両に期待の星 佐藤 小柳

⑦日本人力士の10年ぶりの優勝⑧やっぱ期待は稀勢の里か!

来年の楽しみは①稀勢の里の綱取り②正代と御嶽海への期待③佐藤、小柳がどこまで成長するか

④照の富士、逸ノ城、大砂嵐の復活 こんなところかな

今場所の〆は横綱の優勝で終わりだね

 


日本の歴史 おさらい⑫

2016年11月22日 22時46分13秒 | 日本史

昭和17年はミッドウェイの大敗北があったが、フィリピンを占領するなどまだまだ互角の戦いを続けていた

南の島々を次々と占領した日本軍に対して、アメリカ軍が最初に反撃したのはガダルカナル島であった

この島を巡って、互いが何度も上陸戦を敢行してとったりとられたりを繰り返した

またこの島の周辺では、そうした上陸部隊の作戦遂行を助けるために日米の海軍の海戦もたびたび起こった

東京都の約2.5倍の島を巡って半年間の攻防が行われたが、作戦の失敗で日本軍は2万人ほどの兵を失い

多くの艦船と飛行機も失った、何よりもベテランパイロットを消耗したことで今後の航空戦の劣勢を招いた。

またガダルカナルでの兵士の死亡原因は戦闘より飢え死にとマラリアなどの病死の方が多かったと言うことだ

この島を含めたソロモン群島の周辺は、今も船(軍艦)の墓場と言うほど多くの艦船が浅い海底に沈んでいる。

日本海軍と航空隊はこの島の争奪で消耗しきったと言って良い、このあとの補充がつかない日本と、豊かな

原材料と大きな工業力を持つアメリカ、この差が戦争の行方を決定づけた。

翌18年初頭、ガダルカナルの軍は撤退してガダルカナル奪取の作戦は完敗に終わった

 

18年4月には連合艦隊司令長官の山本五十六が飛行機で戦地視察中にアメリカのP38戦闘機の編隊に

待ち伏せされて戦死した、日本の暗号がアメリカに知られていたらしい、既に諜報戦でも日本はアメリカに

負けていたのである。 山本の戦死は国家にとっても海軍にとって大損失であった。

 

ガダルカナルを日本軍があきらめると、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの連合軍は、ソロモン群島や

南洋の日本軍基地に対して次々と攻撃をかけていった、北方のアリューシャン列島でもアッツ島、キスカ島の

奪還作戦を行い取り返した、キスカ島では劣勢の日本軍が密かに脱出に成功したが、アッツ島の守備隊は玉砕

した これから終戦まで各地の戦場で日本軍の「玉砕」「万歳突撃」「神風特攻」が繰り返し行われるようになって

いく。

9月には最大の島ニューギニアにもアメリカ軍が上陸、戦闘の末日本軍は撤退する、こうして南太平洋の島々は

連合軍の占領地域が広がっていった。

これからの連合軍の侵攻作戦は台湾、フィリピン、グアム、サイパン方面となる。

アメリカ軍の主力は、屈強なベテラン航空隊が存在するラバウル島などは爆撃だけにとどめ、占領しない方針に

転換、そして次の目的地フィリピンの奪還に向けて作戦を進めた。

そのため、包囲されたラバウル航空隊は全体的な作戦から取り残され、上空にやってくる敵機を追い払うだけの

仕事になり、少しずつ消耗しながら終戦を迎えることになる。

 

18年になると国内では食糧事情も悪くなり、米や味噌などの日用品は配給制になった、また国家の非常事態であり

個人の自由は最小限に制限され、工場などは閉鎖、軍需工場の生産だけに重点が置かれ、国民は国や自治体の

命令で軍需工場の労働に配属された、国民の生活はどんどん窮屈になっていく

戦死者が増えるに従って兵の補充のため、18年秋にはとうとう、これからの日本の頭脳となるべきエリート大学生

にも徴兵が発令され(学徒出陣)優秀な頭脳の持ち主が一兵卒として銃剣を与えられて戦地に送られていった。

こうした南洋諸島の相次ぐ敗戦とは裏腹に、満州から中国、インドシナには強力な陸軍が百万以上存在していて、

連日有利に戦争を遂行していた、その鼻息は荒く、インドを襲いイギリス軍を追い払いインドを独立させようという、

インパール作戦の試案ができあがっていた。

19年の3月にはインパール作戦が開始された、これと競うように中国大陸の日本軍は、中国中南部を縦断してインド

シナに達する大作戦を決行した、このように大陸の陸軍は、太平洋の海軍や島々で苦戦する陸軍と異なり意気は揚々と

していた。

インパール作戦は補給の困難から食料弾薬が思うように調達できず夏には撤退が始まった、しかし連合軍の追撃は

激しく日本軍は退却路に5万からの兵の屍を置いていくことになる、後にこの街道の悲惨さから「白骨街道」と名が付けら

れた程だ、因みに父の従弟も、この作戦に参加して両足を砲弾の破片が貫通、手榴弾で自決を迫られたが戦友に助け

られて英軍の捕虜になった後、無事に帰国できた。

インパール作戦は大敗北で失敗に終わったが、中国大陸縦断の作戦は予想外の勝利で完遂した(大陸打通作戦)

しかし19年の戦局に於いて諸手を挙げて喜べる勝利はこの一戦くらいで、他は負け戦の連続、しかも玉砕が相次いだ

6月にはマリアナ沖海戦で日本海軍は虎の子の航空母艦3隻を失う敗北を喫した、ミッドウェイ海戦同様艦載機も

大被害を被った、続いて7月8月にはグアム、サイパン、テニアンの3島が相次いで玉砕、アメリカ軍が占領した、ここを

占領した意味は大きい、B-29が東京や名古屋などの都市を燃料補給なしで、ぎりぎり爆撃できる距離だからだ。

だがアメリカ軍は本土爆撃は急がず、次の拠点確保のためフィリピン、台湾、沖縄をターゲットに爆撃を開始した。

どこに上陸するか予測がつかず、日本軍は各島に兵力を分散配属するしか無かった、そのため集中的に攻撃できる

米軍より常に兵力的不利が続いた。

豊臣秀吉が小田原北条攻めの時、関東一帯に散らばる北条の支城を一つずつ落城させていった状況と同じである。

10月になって米軍の次の攻撃目標がフィリピンであることが明らかになった、フィリピンは日本と同じ島国でそれぞれの

島に米軍は上陸作戦を開始した。

レイテが占領されると日本海軍は残った戦艦などを動員して、レイテ湾に攻撃を仕掛けた、その中には世界最大の

巨艦大和型二番艦「戦艦武蔵」も参加していた、しかし不沈戦艦と言われた武蔵も魚雷と爆弾を雨あられのごとく

艦に受けて轟沈した。

またしても日本海軍の大敗北、レイテ突入戦は失敗に終わった、それは日本海軍の制海権を失ったことでもあった、

これ以後、太平洋はアメリカ軍の制海権、制空権下におかれて日本の艦船は相次いで攻撃され沈められた。

特に悲惨なのは台湾や沖縄に向けて、兵員や物資を積んだ輸送船団が潜水艦に襲われて沈むことである、船団は

集団で行くが、目的地に到達できる船は半分にも満たず、敵と戦う前に海の藻屑と消えた兵士の数の方が、戦闘の

戦死者より多くなった。 私の身の回りでもこうした輸送船乗りが2人いるが、いずれも運良く生き延びたのだが同僚の

艦船が撃沈されるのを嫌と言うほど見てきたと言っていた。

日本軍は艦船不足、飛行機不足、燃料弾薬不足、兵員不足、熟練兵不足となり、いよいよ正攻法では米軍に勝てなく

なった,そこで考え出したのは精神力と愛国心だけが武器の「神風特攻隊」、飛行機に片道燃料と爆弾を積んで敵艦に

体当たりする戦法である、誰が考えたのか、もはややけっぱちのヒステリック戦法である、人命第一の米軍では思いも

つかない人命軽視の作戦、人間消耗品作戦だ、これを断れば「腰抜け、非国民」の罵声と鉄拳が飛んできそうだ。

全ての特攻隊員が、御国に命を捧げられて喜んで体当たりしていたとは思えない、修羅場をくぐった兵隊体験者でも、

特攻はやるべきではないと語る、こうした攻撃はただ若者を殺すだけでこの時点ではもはや、敵艦の1隻や2隻沈めても

戦局に何ら影響ないところまで来ていたのだから。

どこでこの戦争をやめるのか、不思議なことに戦争をやめようと言うべき人が誰だったのか、未だにわからない、誰も

それを言い出すことができない雰囲気があり、国民にも軍隊にも政治家にもマスコミにもやめる勇気をもつ指導者が存在

しないのが当時の日本だったのだ、そのため死なずとも良かった人たちが、このあと終戦までの1年足らずで100万人

以上死ぬことになる。

                              つづく