神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

日本の歴史 おさらい⑰ 最終回

2016年11月27日 18時32分24秒 | 日本史

日本2000年の歴史もこれで終了となる

中国4000年、韓国は5000年の歴史があるという、中国の4000年はわかるが、韓国の

5000年は?

歴史とは政治体制、人物、最高権力者を時系列で並べて解説するものである、日本に当てはめれば

政治体制は朝廷政治-武家政治-帝政-民主主義(資本主義、自由主義)であり

最高権力者は天皇-藤原氏-平氏-源氏-北条氏-足利氏-豊臣氏-徳川氏-天皇-国会(国民)

但し、政治的な最高権力者の上には世界でも希な、建国以来の一系伝承である天皇家が存在する

日本の年号と同じく、天皇家の血脈は続き、今に至っている、しかし今後の男子の直系は秋篠宮家に

一人だけで、今後の天皇の継続について論議が交わされている。

ともあれ日本の歴史を語るには、天皇と為政者の力関係、あるいは出来事を知ることが重要である

日本の歴史の転換点には必ず、天皇及び皇子が登場する、大化の改新、平氏の滅亡、建武の新政

戦国期の上杉謙信の尊皇、織田信長の天皇利用、徳川家康の公家諸法度制定、幕末の攘夷、明治維新

2.26事件、終戦の玉音放送

昭和という時代は昭和20年を境にして全く異なった昭和時代が展開される、戦前の軍国主義時代は

まさに戦争一色の時代だった。

終戦後からは戦争及び軍隊色が払拭されて、グローバルな経済戦争の時代が展開された

昭和20年、日本国は米国に占領されると共に、国家経済は破綻した、いやほぼ破綻した

国民は草木の根をかじるような貧しさの中で、それでも日本人のたくましさか器用さか根性か再び

経済活動が始まったのは終戦直後からである、貧しさになれているアジアの中で、破綻からすぐに

貪欲に富を追った国は日本だけであろう。

中国も朝鮮も貧しさから、順調な経済活動に至るのにずいぶん長い年月がかかっている。

昭和30年代には、自動車が普及しだし、昭和39年には東海道新幹線が走り、東京オリンピックが開催

された、戦争で主権を失い、空襲で100にも及ぶ都市が焼き尽くされ、交通網も工場もバタバタになった

それがわずか20年足らずで世界の人を集めて「おもてなし」ができるオリンピックを開催するだけの

経済力とインフラ整備ができたのだ、恐るべし日本

そして高度成長期に入り、国民の所得は「倍増計画」どころか10倍にもふくれあがった、さらにバブルが

始まると、アメリカを買うほどの金を持ち、世界一豊かな国になったように見えた、だがそれは風呂の泡

だった、まさに「水の泡」、日本経済は一気に冷え込み、一流銀行、一流証券会社、一流損保会社、

一流商社が次々に破綻した。

あれ以来、平成28年の今日まで日本の経済は低水準で推移している、所得も増えるどころか減るばかり

かっては世界一と言われた個人所得も、今はベスト20位にも入れないほど落ちぶれた、昨日見た池上彰さん

の番組では日本人の所得は360万円だとか言っていた、年間所得100万円以下のワーキングプアも

何十%いると聞く。

産業構造も戦前は大きな割合を占めた農業、漁業、林業従事者がたいへんな勢いで減少している

仕事がキツい上に、都会のサラリーマンに比べても収入が少なすぎる、漁業は収入が良いが天候と魚の

気まぐれで収入が安定せず、船や漁網の経費がバカにならない、農業の機械もその通りだ。

逆にIT、芸能産業、マスコミ関連、スポーツ界は華々しく華やかに、そしてセレブと言えばこの業界が

圧倒的に多くなった、確実に都会と田舎、産業別の収入格差が大きくなり出している。

加えて少子高齢化、非結婚者の増加、離婚の増加と、それによるシングルマザーの増加、世界の中でも

異常に低い出生率、年金受給の不安、若者に聞くともう年金はあきらめている人がいる、さりとて

異議を申し立てようという思いももっていないようだ、あきらかに日本人の質は変化している。

貧しさに慣れた若者、バブルの再燃をあきらめたバブル世代、なぜこんな事を書くか、今が最新の

日本史を我々自身が実行しているからだ、こんな様々な小さな出来事が数十年後に歴史として語られる

「平成の不況時代」と書かれるのか、「少子高齢化結婚できない時代」があったと書かれるのか

「所得格差が著しい時代であった」「年金の受給を巡り各地で暴動が起きた」はたまた「第三次世界大戦参戦」

「**年ぶりに外国と交戦が行われた」と記されるのか「東証35000円突破!」「出生率1.5到達」なんていいね

20年後まで生き延びて、追記された日本史を見てみたいものだ

 

                     おわり

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑯

2016年11月26日 14時36分50秒 | 日本史

北朝鮮がソウルに攻め込んだとき、町の中央を流れるハンガンの橋を爆破するのは

戦略上、重要であった、ここで北朝鮮軍を足止めできれば、韓国、アメリカの軍は再編して

体制の立て直しができるからだ、ところが予想外の不意打ちで、軍と市民がごっちゃになって

撤退となったため、軍を優先的に渡河させる必要があった、そのため多くの市民は河の北側で

足止めされた、しかし北軍の侵攻は早かった、戦車を先頭に攻め寄せる。

市民が渡りきらないうちに橋は爆破された、多くの市民が犠牲になった。

それでも北軍は河のあちこちから渡河してきた。

結局、韓国軍は南に追い詰められ、大統領はプサンに臨時政府を移した、テグ、プサンが孤立しながら

なんとか戦線を保っている、ここが落ちれば大統領を始め要人は、日本に逃げ延びるしかない。

この時、補給線が伸びきった北朝鮮軍に対し、マッカーサー将軍は米軍の西海岸上陸作戦を実行

しようとしていた、問題はどこに上陸するかであった、結局インチョン(仁川)に決まったが危険な賭

であった、だがこの作戦は成功した、意外にも北朝鮮軍が少なかったのだった。

これによって北軍は分断された、そして南側の北軍は逆に包囲されてしまった。

今度は北軍の敗走が始まり、米英韓軍(国連軍)はソウルを奪還し、更に北朝鮮の首都ピョンヤンも制圧

、さらに北へ北朝鮮軍を追い詰めた、ところが今度は北朝鮮軍に中国から中国人民軍が支援に大軍を

送り込んできた。

これで戦線は38度線あたりで膠着状態に成り、やがて休戦協定が結ばれて、今日に至っている。

北朝鮮と韓国の戦争は67年間いまだに続いているのだ、休戦しているだけである、お互いに

相手の国の存在を認めていない、自国を敵が不当に武力占拠しているという事になる。

この戦争には日本の哨戒艇が機雷の撤去に参加したと言うことだ。

この戦争では、駐留米軍が朝鮮に行くことで、日本の防衛力が希薄になる、そこでアメリカ主導で

日本人で編成された「警察予備隊」という軍備を持った組織を作った。 <軍隊>とは言わない、

アメリカが作った憲法を僅か5~6年でアメリカ自ら破ることになるからだ、これが後に「自衛隊」となる。

世界でも数本の指に入る軍備を持っているが憲法上、日本軍ではない、戦闘を行うにしても、いちいち

国会に於いて審議して、憲法を代えるか、憲法解釈を代えなければ一発の弾も攻撃してくる敵に向けて

発射できない、これはあきらかに軍隊ではないのだ、先日ようやく「かけつけ警護」とかの法律ができて、

海外の邦人や一緒に警備する外国軍が攻撃されたときにはそれを援護するための発砲が認められた

ばかりだ。

 

昭和20年の終戦から、日本では深刻な食糧不足が始まった、食料は国が統制して配給制にする

食料生産ができない都会はいくらお金があっても食料が不足する、国の配給だけでは生きられない

田舎の農家に買い出しに行く、現金だけでなく、豪華な着物などを持って行って交換してもらったりする

せっかくこうして持ってきた米や野菜は、警察に見つかれば没収されてしまう。

警察官でも闇米を食べて生きている時代なのに・・・

さらに海外に出ていた兵隊たちが続々本土に帰還してきた、そして結婚、あるいは家族の元へ

一気に子供が生まれ始めた、食糧難の折り、この子らを育てていくのは容易でない、たいへんな時代

が始まったのだ。(団塊世代の誕生)

この頃は貨幣価値が凄いスピードで下落していった、異常なインフレだ(ハイパーインフレ)

数百円というお金は、結構な金額であったが、それが5年も経つと100分の1以下に下落してしまった

最初に土地家屋を買っておいた人は幸いだったが、現金で持っていた人は大損をしたようなものだ。

 

この朝鮮戦争で日本の景気が沸騰した、隣国の戦争で景気がよくなったのだ

戦争とはおびただしい弾薬と食料の消耗と補給、そして輸送を産み出す、あるいはけが人と治療、

戦死者の処理、様々な分野が活発化する。

そして昭和27年4月28日、日本は再び「独立国日本」として世界に認められた、同時にアメリカとの間に

日米安全保障条約(安保)が結ばれた。

東西冷戦の中、日本は自由主義陣営の一員として再スタートをした。       つづく

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑮

2016年11月26日 10時52分57秒 | 日本史

戦前の天皇陛下の存在の重みは、アメリカによって作られた「新憲法下」の「象徴天皇」とは

まったく違う。

日本は昭和20年8月15日連合軍が提示した無条件降伏を受け入れた、そして9月2日

米国戦艦「ミズーリ号」において降伏調印式を行った、これによって日本は独立国の地位を

失い、連合軍の占領下に置かれることになった、これは「煮ようが焼こうが勝手にしろ」状態なのだ

無条件降伏とは、言われるがママにするという最悪の受動態

太平洋戦争の敗戦で、もっとも日本の政府や軍部が懸念したのは降伏後の天皇陛下に対する

連合軍の扱い方であった、もし「戦犯」にされた場合、あるいは裁判にかけられるなどは到底

日本国民が許すことのできないことであった。

連合軍にとって、天皇が今度の戦争の最高責任者と考えるのは自然であった、しかし戦争の

終結に際してあれほど勇敢で勇猛で、自らの死さえも顧みず国家のために自殺的戦死を遂げる

国民、そして過激な軍部をぴたりと制して、一糸乱れぬ整列で戦勝国を招き入れたのは、天皇陛下の

玉音放送のただ一声であった。

捕虜や各界の日本人知識層などからも天皇陛下の人柄や国民感情も連合軍は聞き取りをしただろう

その結果、天皇を裁くのは日本人にふたたび反抗なり、暴動なり、あるいはゲリラ戦がおきるのではという

懸念を持ったからだろう、むしろ国民を押さえるには天皇の力が不可欠と考えたかも知れない。

天皇家をそのまま存続させ、但し今までの国家主権を「国民の象徴」とすることで手を打ったということだ

これで国民や軍、政治家は胸をなで下ろした。

連合軍(主にアメリカ軍)がマッカーサー将軍を先頭に日本に駐留した、連合国では日本の占領にあたって

ソ連、中国、英国、米国など戦勝国が日本列島を分割統治するという案があったとは歴史書などに

書かれている、だがアメリカはそれを許さなかった、アメリカ一国が日本に対する戦勝国なのは明白だった

インドシナ半島やマレー半島、インドネシアの戦いではイギリス、オランダ軍を追い払い、中国戦線では

終戦時点では優勢に戦争を進めていた、ソ連とは戦っていなかったが、日本の敗戦濃厚なのを見届けて

満州、朝鮮に攻め込んで略奪と殺戮を行っただけで戦勝国の権利を得た。

もっとも血を流さずに大きな利を得たソ連は、千島列島、樺太、今何かと政治課題になっている北方4島

を戦利品として日本から奪った。

しかしもしソ連が北海道を、中国が東北地方を分割統治していたら、今の日本は朝鮮戦争どころではない

混乱に陥っていただろう。

 

連合軍はまず日本軍を武装解除したあと解体した、日本軍は消え去った、占領はしたが政治機構は残した

あくまでも政治のトップは日本人に任せた、アメリカは日本政治のトップを管理するだけにとどめた、その方が

日本を統治するのに楽だったのだ、日本の官僚機構は今も昔も世界水準だ。

最初に行ったのは戦争を主導したと思われる政治家や軍人の逮捕だった、その後、極東軍事裁判を行い

陸軍の東条英機元首相などが絞首刑に処された。

この裁判の中では、原爆で一般市民を大量殺害した事についての反論があったが「勝利国が敗戦国を裁く

裁判である」と一蹴される場面もあったという、 無条件降伏の意味を知らされた一場面だった。

この裁判に先駆けて、国外ではそれぞれ現地で軍事裁判が行われ、その方面の戦争責任者や戦中地元民

を迫害した罪で多くの兵が現地で死刑にされた。

それから一部分に大きな力を集中させるのは危険と考えて、財閥解体を行い、大会社を分割した、大地主の

持つ田畑も小作人に分け与えさせた(農地解放)、ソ連から帰国した捕虜は社会主義思想に洗脳を受けていた

のでソ連の影響を恐れて「赤狩り」と称して共産党の影響がある人たちを取り締まった。

これはアメリカ本国でもおこなっていたのだった、1950年代に朝鮮戦争が始まるとより厳しくなり、地方の

大きな工場などでもレッドパージという声が聞かれるようになった。

昭和22年5月3日、日本国憲法が発令された、これは平成の今、世界の実情に合わないと自民党が憲法改正

を働きかけ、野党が反発しているのは皆さんもご承知の通り。

この新憲法は、日本は再軍備をしない、戦争をしない、国民が主権者である、自由平等を守る

国民の権利と義務などが盛り込まれている

この昭和20年から25年の間には日本の敗戦の影響で東アジア、東南アジアに大きな動乱が相次いだ

中国大陸では国共合作が終わり、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍が戦闘を再開した、国民党は

中国国民に評判が悪く、次第に共産党の支配地域と支持者が増えて行き、ついに1949年蒋介石は軍と共に

台湾に渡って、中華民国とした。 当初台湾の先住の人たちと激しい摩擦対立があったという。

大陸の中国は中華人民共和国と成り共産党国家となって今に至っている。

朝鮮半島は日本の敗戦でアメリカとソ連が南北半分ずつ統治した、北には戦争中、ソ連に逃げていた

金日成らが戻ってきて、ソ連の指導を得ながら北朝鮮の経営に乗り出した、そのため北朝鮮は

社会主義国家になった。

南朝鮮は李承晩がアメリカの影響下で大統領となった、こちらは資本主義国家の歩みを始めたので、

南北朝鮮は自由主義国家と社会主義国家の対立の縮図になった。

1948年、朝鮮半島の2カ国が独立した、南朝鮮は韓国(大韓民国)と国名を改めた。

韓国初の大統領となった李承晩(イ・スンマン)は昭和27年に、李承晩ラインという

日本海の国境線を一方的に交渉なしに設定して軍隊を駐留させた、それが今日の竹島問題として残っている。

その他のアジアでもインドネシア、インドを始め次々と独立を果たしていく。

1950年6月、突如として北朝鮮軍が国境を破って韓国に攻め寄せた、韓国の首都ソウルは瞬く間に占領

されてしまった、装備も士気も圧倒的に北軍が勝っていた、韓国の大統領等は水原方面に逃げた。

 

                                                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑭

2016年11月24日 08時54分23秒 | 日本史

この戦争で日本が世界に誇る兵器がいくつかある、東アジアの資源乏しい日本が

どうしてこれだけの兵器を作ることができたのか不思議に思う。

おそらく国家予算の何割かを軍事費に充てたからこそできたのだろう。

(今は予算の1%以下である、これを10%にすれば今の10倍の兵力になると言うことだ)

常に外国軍隊の脅威にさらされているところでは、国家予算の半分近くまで軍事費に使う国もあるようだ

日本軍の優れた兵器は、まずは零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、3000kmにも及ぶ航続力、素早い旋回能力

戦争中期までは、世界最強クラスの戦闘機でアメリカの戦闘機さえ歯が立たなかった

酸素魚雷 航跡がわかりずらい魚雷、姿も見せずに突如艦船を撃沈する

イ-500型潜水艦、偵察水上機を格納できる超弩弓の潜水艦、アメリカ本土まで行って砲撃したらしい

戦艦大和、戦艦武蔵 世界最大の戦艦、主砲の46センチも世界最大、日本では不沈戦艦と信じていた

しかし華々しい戦果もあげぬうちにアメリカの航空機によって2隻とも轟沈した

こんな兵器と日本人の根性、精神力、器用さ、不器用さ、国民性で4年近くも白人国家を敵に回して戦ったのだ

司令官や戦争指導者に敬意は持たないが、ここまで頑張った下士官や、招集された一般市民兵士には

心から敬意を表する。日常生活と家族を置いてきた、数百万人の平凡で善良な市民が国家守護のため命を

なげうったのだ。

沖縄戦は初めて日本国内で一般市民が住む地域での戦争である、しかも島である故に逃げることもできない

紛れもなく一般市民は戦闘に巻き込まれて命を落とす、日本軍が中国で行った市街戦、あるいは田舎の集落

での戦闘、あるいはアメリカが1960年代にベトナムで行った戦闘、これらはみな沖縄戦と同じだ。

そもそも沖縄はその昔、独立国の王国だった、しかし朝鮮同様、強国に囲まれた小国故に独立を保つのが

たいへんだった。 沖縄は琉球と言った、江戸時代には日本と清国の両方に朝貢して独立を保っていた

しかし幕末、日本の薩摩藩(鹿児島県)に併合されてしまった。

ともあれ沖縄戦については様々な記録が残っている、映像も残っている、それは沖縄県民の受難と、そこに

送り込まれた兵士たちの血みどろの戦い、この戦争で長崎、広島、東京、横浜、名古屋などの市民と同様に

もっとも悲惨な目に遭った人たち、この亡き人々の受難でようやく戦争は終わったと言って良い。

沖縄は3ヶ月の戦闘でアメリカが占領した、以来、昭和47年までアメリカの占領下に置かれた沖縄、そして今も

県の多くの地域がアメリカ軍の基地になっている現実、まだまだ沖縄の戦後は終わっていない、そしてそれは

今も数々の問題として政府と対立している。

 

沖縄が占領された、沖縄の砲台になるために片道燃料で出撃した日本の最後の星「戦艦大和」もあえなく鹿児島沖で

米軍攻撃機によって、数千名の乗組員と共に轟沈して海底深く沈んでいった。

鹿児島県の飛行場は神風特攻隊の前線基地として、毎日10代20代の若者が飛行機に爆弾を積んで片道燃料で

沖縄に押し寄せた数百、千の敵艦に体当たり攻撃を仕掛けた、しかし度重なる特攻機に慣れたアメリカ軍は待ち構え

ていてゲーム感覚でこの無謀な特攻機を打ち落としたという、パイロットもほとんどひこう経験の無い未熟練者であり

ほとんど米艦に命中することはなかった、特攻も終盤は犬死に等しかった。

それでも軍部は最後の一兵まで戦うと「本土決戦」を真剣に考えていた、まさか押し寄せてきた数千隻のアメリカ艦船が

元寇の時のように、神風によって兵士もろとも荒らしの海で消え去ると考えたわけでもあるまい。

本土決戦を行えばアメリカ兵100万人と差し違えるという計算があったとか、しかしそのために3000万人以上の日本

国民が滅亡する、だがそれ以前にアメリカ爆撃機が連日、自由気ままに日本に侵入して都市という都市を無差別爆撃

した、富山市などのように全て焼き尽くされたところもある、50以上の都市が爆撃され、8月には1週間で広島と長崎に

原子爆弾が落とされた、たった一発の爆弾でそれぞれの市民10万人以上が殺された、そして2世3世まで放射能の

後遺症で苦しみ死んでいった人もいる。

いつまでも降伏せず抵抗する敵国への見せしめの大量虐殺、脅し、ようやく日本のリーダーが連合国の無条件降伏を

受諾してこの戦争は終わった、しかし中国大陸の陸軍はなぜ負けたのか理解できなかった、まだまだ互角以上の戦闘

を行っていたのだろう。

だがソ連軍が攻め寄せてきた満州や朝鮮では、敗戦にかかわらず悲惨な日本国民の受難が続いていたのである

亡国となった日本の政府はこれらの哀れな国民に何ら救いの手をさしのべることができない、ドイツ軍による

ユダヤ人狩りと同じ事が、降伏一週間前に不可侵条約を一方的に破棄して攻め込んできたソ連によって

行われていたのだ、民間人は暴行され殺され、投降した兵士は60万人もシベリアへ不法に連行され、酷寒の地で

奴隷のごとく過酷な作業に使われて6万人以上がその地で亡くなったという、それは昭和25年頃でも続いていた

同じ捕虜でも米英に捕らわれた捕虜とは天と地ほどの境遇の差がある。

こうして歴史をおさらいしながら、昭和20年からは気が重くなってくる、19年までとは戦争の様子ががらりと変わり

それは戦争と言うより、一方的な日本人へのホロコーストに思えてくる、もはや戦争ではない、それにも関わらず

なぜ政府は降参しなかったのだろう。自殺教唆としか思えない意味も無い特攻で多くの未来ある若者を

殺してしまった。

天皇陛下をお守りするため信州松代に巨大な地下要塞を建設して、飛行機など最終決戦兵器も各地に温存して

本土に200万、大陸に100万の日本軍が健在だと意気をまく

まだまだ軍は、やる気はあったのだ、だがアメリカは空から日本軍より国民をターゲットにして戦争を終わらせた

お手上げだった

 

                 つづく

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑬

2016年11月23日 15時11分26秒 | 日本史

昭和19年11月ついにサイパン、テニアン、グアムの米軍基地からB-29が日本爆撃に

飛び立った。 今は日本人の若者たちがビーチで楽しんでいるが約70年前にはサイパンでは

多くの日本人が民間人が戦争のために亡くなった、乱暴なアメリカ軍がやってくる恐怖で婦女子は

岬の断崖から身を投げたのだ。

日本がこうして押しまくられている頃、ヨーロッパ戦線でも日本の同盟国ドイツとイタリアも連合軍に

東西から押しまくられていた、西から米英中心の軍、東からはソビエト軍がドイツの

占領地を次々に解放していった。

 

アメリカ軍の次の攻撃目標は硫黄島であった、見過ごしても良いような小さな島だがこの島にある

守備隊が邪魔だった。

アメリカ軍が東京を爆撃する場合、サイパンから東京を往復すると5000km近い

B29の航続距離だと何かトラブルが起きれば爆撃後にサイパンまで戻れない可能性がある

しかもこの距離は直線距離で硫黄島の近くを通る、すると発見されて本土では迎撃態勢がいち早く

形成されてしまう、護衛戦闘機はとても行ける距離でなく、だから硫黄島を大きく迂回する必要があった、

そうするとまさにぎりぎりなのだ、燃料がぎりぎりで不時着も多かった。

この島さえ占領してしまえば、アメリカにとって日本のどの都市でも楽々爆撃できるようになる。

佐渡島の10分の1程度の島で最高地点の擂鉢山が170mあとはほぼ平坦な感じの

溶岩台地である、飲料水は自噴していない。

硫黄島の日本軍守備隊は2万数千、サイパンを落とした米軍がまもなく大艦隊と上陸部隊で

攻撃に来るのは目に見えている、そのため守備隊長の栗林中将の命令一下、未曾有の溶岩台地

穴掘り作戦が始まる、硫黄島の名が示すとおり西ノ島の成り立ち同様、海底火山の噴火でできた

島だ、これを掘削して長大な防御陣地を作るのは容易ではない、だがみんなやり遂げた。

栗林中将は温厚で家庭思いで筆まめな人柄であった、またアメリカ通でもあった、その人柄は

彼のことを書いたノンフィクションを読めばよくわかる。

戦場に在っては冷静沈着で気配りが行き届き、部下思いである、日本の封建的な訳のわからない

司令官、指揮官が多い中で栗林中将は代表的な名将だった、また敵にも尊敬される人だった。

そして部下にはオリンピックの馬術で金メダルを取った西中佐もいる、彼の死を惜しんだ敵国の

アスリートたちも多かっただろう。

勝ち負けだけ決めるなら、戦争ではなくスポーツでも良いわけだ、だが戦争には複雑な破壊と

死を伴う麻薬的快楽要素が潜んでいる。

静けさが漂う硫黄島に8万の上陸兵、海を覆い尽くした艦船、おびただしい爆撃機、爆弾と艦砲

射撃が島の形を変えるほど降り注いだ。

もともと森も林もない裸の島だ、攻撃するには楽である、日本軍の反撃はなく、敵兵の大半が

陣地と共に埋もれてしまったと思われた、数万の兵が上陸した、物資が海岸に山積みになった

そこに猛烈な日本軍の砲弾が飛び込んできた、あっという間に数百の犠牲者が出た、時間と共に

犠牲者は増えていく。

栗林中将の果敢で緻密な作戦により逃げ場のない、縦4km横8kmの小さな島の陣地で、支援の

飛行機も艦船も戦車もない栗林師団は3倍の敵兵と、圧倒的な艦船と飛行機と砲撃に堪えながら

1ヶ月もゲリラ戦で持ちこたえ、結果的にはほぼ全滅したが戦死と負傷の合計ではアメリカ軍の方が

日本軍より多かったのだった、栗林中将こそ軍人としても人間としても最高のナイスガイだと思う。

3月9日の午後、この島で10万の日米両軍が死闘を繰り広げる頭上をグアム、サイパンなどから

数百機のB29爆撃機が東京目指して飛び立った、そして3月10日零時過ぎ、寝静まった東京に

油をまき散らし、それからおびただしい数の発火材の焼夷弾をばらまいた、今までの空襲は中島

飛行機工場などの軍需施設を狙ったが、今回は明らかに非戦闘員の住宅地狙いだ、それも低空飛行

で確実に命中させていく、一夜にして東京の半分、下町地区が焼き尽くされ10万人以上の市民が

焼き殺され、防空壕に逃げた人々は蒸し焼きになった、隅田川は関東大震災以来またしても溺死体で

溢れた、翌日からは黒焦げの遺体やズブ濡れの遺体が隅田公園や浅草寺、錦糸公園などに積み上げ

られた、悪魔の仕業としか言えない残虐な行為だった、この作戦を指揮した米空軍の将軍には戦後日本

から最高の勲章が贈られた。

1週間前にはフィリピンもアメリカが制圧した、マッカーサーは発言通り「戻ってきた」のだった。

そして勝ちに乗じたアメリカ軍は日本の前線防衛基地の台湾を無視して、4月1日沖縄に上陸した、悲劇の

沖縄戦の始まりだった。                         つづく

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑫

2016年11月22日 22時46分13秒 | 日本史

昭和17年はミッドウェイの大敗北があったが、フィリピンを占領するなどまだまだ互角の戦いを続けていた

南の島々を次々と占領した日本軍に対して、アメリカ軍が最初に反撃したのはガダルカナル島であった

この島を巡って、互いが何度も上陸戦を敢行してとったりとられたりを繰り返した

またこの島の周辺では、そうした上陸部隊の作戦遂行を助けるために日米の海軍の海戦もたびたび起こった

東京都の約2.5倍の島を巡って半年間の攻防が行われたが、作戦の失敗で日本軍は2万人ほどの兵を失い

多くの艦船と飛行機も失った、何よりもベテランパイロットを消耗したことで今後の航空戦の劣勢を招いた。

またガダルカナルでの兵士の死亡原因は戦闘より飢え死にとマラリアなどの病死の方が多かったと言うことだ

この島を含めたソロモン群島の周辺は、今も船(軍艦)の墓場と言うほど多くの艦船が浅い海底に沈んでいる。

日本海軍と航空隊はこの島の争奪で消耗しきったと言って良い、このあとの補充がつかない日本と、豊かな

原材料と大きな工業力を持つアメリカ、この差が戦争の行方を決定づけた。

翌18年初頭、ガダルカナルの軍は撤退してガダルカナル奪取の作戦は完敗に終わった

 

18年4月には連合艦隊司令長官の山本五十六が飛行機で戦地視察中にアメリカのP38戦闘機の編隊に

待ち伏せされて戦死した、日本の暗号がアメリカに知られていたらしい、既に諜報戦でも日本はアメリカに

負けていたのである。 山本の戦死は国家にとっても海軍にとって大損失であった。

 

ガダルカナルを日本軍があきらめると、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの連合軍は、ソロモン群島や

南洋の日本軍基地に対して次々と攻撃をかけていった、北方のアリューシャン列島でもアッツ島、キスカ島の

奪還作戦を行い取り返した、キスカ島では劣勢の日本軍が密かに脱出に成功したが、アッツ島の守備隊は玉砕

した これから終戦まで各地の戦場で日本軍の「玉砕」「万歳突撃」「神風特攻」が繰り返し行われるようになって

いく。

9月には最大の島ニューギニアにもアメリカ軍が上陸、戦闘の末日本軍は撤退する、こうして南太平洋の島々は

連合軍の占領地域が広がっていった。

これからの連合軍の侵攻作戦は台湾、フィリピン、グアム、サイパン方面となる。

アメリカ軍の主力は、屈強なベテラン航空隊が存在するラバウル島などは爆撃だけにとどめ、占領しない方針に

転換、そして次の目的地フィリピンの奪還に向けて作戦を進めた。

そのため、包囲されたラバウル航空隊は全体的な作戦から取り残され、上空にやってくる敵機を追い払うだけの

仕事になり、少しずつ消耗しながら終戦を迎えることになる。

 

18年になると国内では食糧事情も悪くなり、米や味噌などの日用品は配給制になった、また国家の非常事態であり

個人の自由は最小限に制限され、工場などは閉鎖、軍需工場の生産だけに重点が置かれ、国民は国や自治体の

命令で軍需工場の労働に配属された、国民の生活はどんどん窮屈になっていく

戦死者が増えるに従って兵の補充のため、18年秋にはとうとう、これからの日本の頭脳となるべきエリート大学生

にも徴兵が発令され(学徒出陣)優秀な頭脳の持ち主が一兵卒として銃剣を与えられて戦地に送られていった。

こうした南洋諸島の相次ぐ敗戦とは裏腹に、満州から中国、インドシナには強力な陸軍が百万以上存在していて、

連日有利に戦争を遂行していた、その鼻息は荒く、インドを襲いイギリス軍を追い払いインドを独立させようという、

インパール作戦の試案ができあがっていた。

19年の3月にはインパール作戦が開始された、これと競うように中国大陸の日本軍は、中国中南部を縦断してインド

シナに達する大作戦を決行した、このように大陸の陸軍は、太平洋の海軍や島々で苦戦する陸軍と異なり意気は揚々と

していた。

インパール作戦は補給の困難から食料弾薬が思うように調達できず夏には撤退が始まった、しかし連合軍の追撃は

激しく日本軍は退却路に5万からの兵の屍を置いていくことになる、後にこの街道の悲惨さから「白骨街道」と名が付けら

れた程だ、因みに父の従弟も、この作戦に参加して両足を砲弾の破片が貫通、手榴弾で自決を迫られたが戦友に助け

られて英軍の捕虜になった後、無事に帰国できた。

インパール作戦は大敗北で失敗に終わったが、中国大陸縦断の作戦は予想外の勝利で完遂した(大陸打通作戦)

しかし19年の戦局に於いて諸手を挙げて喜べる勝利はこの一戦くらいで、他は負け戦の連続、しかも玉砕が相次いだ

6月にはマリアナ沖海戦で日本海軍は虎の子の航空母艦3隻を失う敗北を喫した、ミッドウェイ海戦同様艦載機も

大被害を被った、続いて7月8月にはグアム、サイパン、テニアンの3島が相次いで玉砕、アメリカ軍が占領した、ここを

占領した意味は大きい、B-29が東京や名古屋などの都市を燃料補給なしで、ぎりぎり爆撃できる距離だからだ。

だがアメリカ軍は本土爆撃は急がず、次の拠点確保のためフィリピン、台湾、沖縄をターゲットに爆撃を開始した。

どこに上陸するか予測がつかず、日本軍は各島に兵力を分散配属するしか無かった、そのため集中的に攻撃できる

米軍より常に兵力的不利が続いた。

豊臣秀吉が小田原北条攻めの時、関東一帯に散らばる北条の支城を一つずつ落城させていった状況と同じである。

10月になって米軍の次の攻撃目標がフィリピンであることが明らかになった、フィリピンは日本と同じ島国でそれぞれの

島に米軍は上陸作戦を開始した。

レイテが占領されると日本海軍は残った戦艦などを動員して、レイテ湾に攻撃を仕掛けた、その中には世界最大の

巨艦大和型二番艦「戦艦武蔵」も参加していた、しかし不沈戦艦と言われた武蔵も魚雷と爆弾を雨あられのごとく

艦に受けて轟沈した。

またしても日本海軍の大敗北、レイテ突入戦は失敗に終わった、それは日本海軍の制海権を失ったことでもあった、

これ以後、太平洋はアメリカ軍の制海権、制空権下におかれて日本の艦船は相次いで攻撃され沈められた。

特に悲惨なのは台湾や沖縄に向けて、兵員や物資を積んだ輸送船団が潜水艦に襲われて沈むことである、船団は

集団で行くが、目的地に到達できる船は半分にも満たず、敵と戦う前に海の藻屑と消えた兵士の数の方が、戦闘の

戦死者より多くなった。 私の身の回りでもこうした輸送船乗りが2人いるが、いずれも運良く生き延びたのだが同僚の

艦船が撃沈されるのを嫌と言うほど見てきたと言っていた。

日本軍は艦船不足、飛行機不足、燃料弾薬不足、兵員不足、熟練兵不足となり、いよいよ正攻法では米軍に勝てなく

なった,そこで考え出したのは精神力と愛国心だけが武器の「神風特攻隊」、飛行機に片道燃料と爆弾を積んで敵艦に

体当たりする戦法である、誰が考えたのか、もはややけっぱちのヒステリック戦法である、人命第一の米軍では思いも

つかない人命軽視の作戦、人間消耗品作戦だ、これを断れば「腰抜け、非国民」の罵声と鉄拳が飛んできそうだ。

全ての特攻隊員が、御国に命を捧げられて喜んで体当たりしていたとは思えない、修羅場をくぐった兵隊体験者でも、

特攻はやるべきではないと語る、こうした攻撃はただ若者を殺すだけでこの時点ではもはや、敵艦の1隻や2隻沈めても

戦局に何ら影響ないところまで来ていたのだから。

どこでこの戦争をやめるのか、不思議なことに戦争をやめようと言うべき人が誰だったのか、未だにわからない、誰も

それを言い出すことができない雰囲気があり、国民にも軍隊にも政治家にもマスコミにもやめる勇気をもつ指導者が存在

しないのが当時の日本だったのだ、そのため死なずとも良かった人たちが、このあと終戦までの1年足らずで100万人

以上死ぬことになる。

                              つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑪

2016年11月21日 18時20分14秒 | 日本史

日本の歴史の大きな転換期は2000年の歴史の中で何度かあった

①平安時代から鎌倉時代への転換、朝廷政治から武家政治へ転換期(武家の台頭)

②日本中が戦場になった戦国時代、③江戸時代から明治への移行、武家政治から資本主義の欧米化

と帝国主義への転換、そして④帝国主義から敗戦によって民主主義への転換

今まさに、帝国主義の崩壊につながる戦争が始まろうとしている。

昭和20年の敗戦時点では結果的に日本は世界の大半を相手に戦争をした形になっているが

(日本に「駈け込み宣戦布告」した国は南米の小国まで数十カ国あるというから負ければ袋だたきに遭う

の典型的な例である)

大きく系統立てて考えれば、①満蒙、中国大陸からインドシナ半島にかけての陸戦

②太平洋での島伝いの攻防戦と海戦及び航空戦の2つに大別され、

言い換えれば陸軍の戦争と海軍の戦争、あるいは対中国.英国戦と対アメリカ戦とも言える。

経過を見て行くにはこうした二つの路線別に見る方がわかりやすい

すなわち陸軍はすでに大陸で対中国戦を昭和11年以前から始めていた、一方海軍は昭和16年12月8日に

ハワイ真珠湾攻撃、10日のマレ-沖の2方面で戦争を初めて開始したのだ、その差は5年以上ある。

日本の領土拡大の傾向が次第に中国からさらに南に下っていくと、アメリカは日本との貿易協定を破棄した

そして資源に乏しい我が国を締め付けるように鉄原材料などの輸出を止めた。。(ABCD包囲網)

さらに石油の輸出も完全に止めてしまった、日本はこうした資源を得るためにも南方の国や島を制圧する

必要性が出てきた

現在に置き換えれば、北朝鮮に対する経済制裁、またロシアに対する経済制裁に似ている。かって経済封鎖で

戦争を余儀なくされた我が国が、今は包囲網側に加わっているのは皮肉である。

宣戦布告前にハワイのアメリカ艦隊を爆撃したため、だまし討ちの奇襲という印象がアメリカ国民に広がり

それが対日戦争エネルギーに転換された、たしかに通告の担当者のもたつきでそのようになったらしい。

真珠湾攻撃隊の司令長官山本五十六は戊辰戦争で新政府軍と戦った、長岡藩士の息子として育った人物だ。

まだまだ軍隊では、明治の藩閥がものをいう時代で、いわゆる「賊軍」扱いの出身者がここまで上り詰めるとは

そうとうな人物であったと思われる。

今や、山本五十六がこの戦争に反対していたということは通説になっている、それは彼がアメリカの国力を

熟知していたからだそうだ、だから短期決戦で大勝利を収め、日露戦争のように第三国の仲介で勝利の印象の

うちに戦争を有利な条件でやめてしまおうという考えだったと言われている。

ところが真珠湾奇襲は大成功(軍事評論家には中途半端で小成功と評する人も少なからずいるが)したし

マレー沖の海戦でもイギリスの巨大戦艦と巡洋戦艦を撃沈という成果を上げ、空挺部隊が油田地帯に降下して

占領するなど大勝利が連日報道されると国民はすっかり「行け行けムード」一色になり、ここで戦争をやめれば、

日露戦争で勝った時、賠償金をもらえなかったといって起こった国民の暴動なんて比較にならないほどの事態が

起きただろう、とにかく獲れる領土は全部獲ってしまえくらいのお祭り騒ぎである。

昭和17年には今のベトナムやミャンマー(ビルマ)からオランダ軍やイギリス軍を追い払い占領したし、

インドネシアもオランダ軍を追い払って、オーストラリアさえ脅かす位置まで日本軍は進出した。

白人支配のアジア植民地を同じ東洋の日本人が解放したというので、当初は喜んで歓迎する国が多かったようだ。

フィリピンはアメリカが統治してマッカーサーが君臨していたが、ここも日本軍が上陸占領したのでマッカーサーは

撤退した、その時言い残したとされる「アイ シャル リターン」は流行語大賞が当時あれば、ランクインしていただろう。

こんな具合で陸軍も海軍も順調な滑り出しだったのだが、

翌昭和17年4月、突如東京など3都市がアメリカの爆撃を受けた、太平洋に航海してきた空母ホーネットからの16機

の爆撃機の奇襲だった、戦争大勝利と思っているのに東京が爆撃されたのだ、しかも16機は撃墜されること無く日本を

横断して中国大陸へと飛んで行ってしまった(大陸で大半は不時着や墜落したらしいが)

これは日本にとってショックだった、アメリカの戦艦は真珠湾で葬ったが航空母艦は一隻も損傷していない、その1隻に

仇討ちをされたのだった。

ようやく日本海軍はアメリカの残存空母を叩く必要を感じた、2ヶ月後の17年6月、ハワイに近い、太平洋中央部の

ミッドウェイ島に向け、日本軍は航空母艦4隻を中心に島の爆撃と米艦隊への攻撃を企てて出撃。

数的にも、熟練度でも勝る日本軍であったが、索敵の遅れと、作戦の混乱で空母4隻全てがアメリカ空軍によって撃沈

されてしまった、そのため攻撃後無事に帰還した日本軍の航空機も降りる空母が無いため、次々に自爆した、全機が

海の藻屑と消えた、この中にはベテランパイロットも多く含まれ、重大な人的損害を出した。

アメリカ軍の空母損失は1隻にとどまり、アメリカ軍の大勝利に終わった。

これが対米戦争の大きな転換期だった、日本海軍の勝利はわずか半年だけであとは戦局に影響がない小さな勝ちが

何回かあっただけで、どんどん押し戻されていく。

こうなると国の豊かさが勝負を左右する、アメリカは空母や戦艦、航空機の増産体制に入った、日本も補充のための

艦船や飛行機を作るが、その数は10分の1程度でどんどん差が開いていく。

開戦当初は日本軍のゼロ戦が軽い機体で、軽業のように飛びアメリカ機の後に回り込んでは撃墜していたが、人命

第一のアメリカ軍は次第に飛行機を大型化させて、機体の防御に力を入れた飛行機の増産を始めた、そのためゼロ戦

の弾が命中しても容易に墜落しなくなった、逆にエンジンも馬力が大きく、スピードでも上昇能力でも日本機を上回り、

ますますアメリカ軍機は空中戦でも優位に立つようになってきた、そこに数の差が加わって、日本機1機に米軍機2機で

攻撃するという戦法がとられると、手の討ちようが無くなってきた。

一方、航空機対軍艦の戦闘でもアメリカのレーダーや弾薬などの装備開発は日本を凌駕するようになった

日本の高角砲(高射砲)の弾は一定の高さで爆発して、その破片で敵機を傷つけ撃墜するが、アメリカのものは敵機を

熱感知して近くに来ると爆発するので命中精度がまったく違うようになった。

だから日本の艦船はアメリカの航空機に撃沈され、日本の航空機はアメリカの艦船の高角砲で打ち落とされるという

またレーダー射撃もアメリカの得意技になり、もはや日本の操縦技術、砲術、精神力で勝っても、機械の力で負けて

しまう時代に突入したのだった。

ミッドウェイで制海権を有利にしたアメリカはガダルカナル島に進駐している日本軍に対して上陸作戦を開始した。

                                                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑩

2016年11月20日 17時16分13秒 | 日本史

1914年日本は欧州で勃発した第一次世界大戦に参戦した

日本はイギリスと同盟していたため、イギリスの敵国、ドイツが中国にを持っていた青島(チンタオ)を

攻撃して、ここを占領した。

翌年、青島を占領したことに伴って中国に対し、青島の権益を今までドイツと結んでいたのと同じように

「日本にドイツの権益を譲ること」「大連、遼東半島の99年間租借延長」などと言ったような中国不利の21箇条

の条約締結を求めた。(対華21ケ条)

中国を代表する権力者、政治家で軍人の袁世凱はこれらの要求を拒んだが、結局押し切られてしまった

中国国民はこれに激怒し、中国国辱の日として制定していつまでもこの屈辱を忘れまいとした。

このあたりから現代に通じる中国の日本嫌いの原点があるのだろうか。 もちろん1910年に日本に飲み込まれた

朝鮮は尚更だろう。

第一次大戦で勝利者となった日本は、青島の権益と大連などの租借延長、さらに南洋諸島の統治権を得た

これにより日本の実質的な領土はニューギニアの手前まで広がり、南太平洋に大きくせり出した。

さらに中国の中央部にくさびを打ち込んだ形になった、これによって中国は日本の侵略、第二の朝鮮化を懸念

またアメリカが日本の太平洋進出に警戒感を持ち始めた、イギリスやロシアなどの列強も日本の軍事力の巨大化

を警戒しだした、これがアメリカとの戦争の伏線になったのかも知れない。

太平洋戦争まであと25年、中華民国との戦争、満州事変まであと15年、日本は戦争の道をひたすら突き進んでいる

1918年(大正7年)には社会主義革命に成功したソビエトに対して、アメリカ、イギリスなど欧米各国と共にシベリア

出兵に参加した、その兵数は他の同盟軍を圧倒する規模であった。

しかも各国軍が撤退したあとも、日本軍はソビエト(旧ロシア)の樺太、沿海州、そして満州国境から撤退しなかった

だがこの行為は国内の評判もよくなく、ソビエトからは恨みを買い、多数の戦死者も出てまったく良いところがない

戦争であった。

 

5年後の大正12年の正午、突如として東京を中心とした関東一帯が激しい地震に見舞われた

一時は治まったかに見えた地震だったが、その後、各地から火災が発生、瞬く間に東京は火の海になった

特にひどいのは隅田川の両岸一帯で浅草、両国、深川、日本橋などで電車は脱線、浅草名物のビル「浅草十二階」が

真っ二つに崩れ落ちるなど建物の被害もひどかった。

隅田川にかかる橋も避難者もろとも焼け落ちて、隅田川は死体で溢れた、特に悲惨だったのは本所被服省跡地だった

この川沿いの広場が安全と多くの人が避難してきた、その数数万人、ところがここに恐ろしい火砕の渦巻きが発生して

焼き尽くした、ここで焼死した人は10万人以上と言われる死亡者の約半数5万人近い人数だと言うことだ、横浜でも

4万人が犠牲になったという。

今は、この地に震災慰霊堂ができて、昭和20年の東京大空襲の犠牲者と共に祀られている。

翌々年病弱だった大正天皇が崩御されて、時代は激動の昭和に移る

昭和は関東大震災の影響などがあって銀行の不良債権が増加して、国内は金融大恐慌で始まった

続いてアメリカの証券業界の悪化などで世界恐慌が始まり、世界中が深刻な不景気に襲われた

東北では冷害が毎年のようにおこり小作人を苦しめました、借金がかさみ貧しさに打つ手が無く

娘を都会の芸者置屋などに売る小作農も少なくなかったようです、この時代を描いた高倉健主演の「動乱」

では吉永小百合さんがそういう娘を演じました。

日本ではこうした経済状況下で多くの人が仕事からあぶれ出ました、

そうした中で昭和6年には満州で日本管理の満州鉄道が爆破される事件が起きました、満州にある日本軍

(関東軍)は中国国民党軍の仕業として攻撃しました。 これにより関東軍は満州を軍事占領しました

この鉄道爆破事件は後年、日本政府も知らない関東軍独断の陰謀であることが明らかになりました。

翌年、日本は占領した満州を独立国として承認した、満州帝国として清王朝最後の皇帝だった溥儀が

満州国の皇帝となった、あきらかに日本の傀儡であった。

こののち、日本の大不況で苦しむ人々を満州に渡らせて開墾する方策がとられ、満蒙開拓団が募集された

およそ27万人が開拓団として渡った。

満州帝国を承認したのは日本ただ一国で、国際連盟加入国のことごとくが日本の独断横暴と避難した。

国連は日本に対して満州からの撤退を決議したが、それを不満とする日本は1933年(昭和8年)国際連盟から

脱退した。

昭和11年(1936年)には2.26事件が起きた、こうした農村の疲弊が腐敗した政治が原因である

という思いもこの事件の一因である、そのため総理大臣を始め大臣を襲撃、総理は襲撃を免れたが、大蔵大臣

内大臣などが殺害された、反乱を主導したのは青年将校でおよそ1500人の兵が反乱軍となって鎮圧された。

首謀者の青年将校等は銃殺刑に処せられた。

 

昭和12年には中国北京あたりで日中両軍が戦闘を始めて、日中戦争が本格的に開始された

この頃まで中国国内では共産党軍と国民党軍が内戦状態だったが、そこに日本軍が攻め込んでくると言う

複雑な戦争状態であった、しかし国民党軍と共産軍は同じ中国人としてまずは日本軍を国内から追い払う

と言うことで一致して休戦、共同で日本軍に対峙することを決めた(国共合作)

これにより日本軍は2方面の中国兵と戦うことになったが、直接戦った相手は国民党軍が多かったらしい。

日本は国内の恐慌不景気、国際面での孤立、中国との戦争、ロシアの脅威といった多くの問題を抱えながら

孤独な戦争に突き進んでいった、戦争は軍によって主導され政治家の力では止められないところまで

来ていた。                                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑨ 

2016年11月19日 18時39分49秒 | 日本史

1900年、20世紀の始まりは清国の動乱で始まった

もはや日本史を語るには東アジア情勢を知らずして語ることはできない

それはもっと大きな意味では欧州の情勢を知らなければ東アジアの歴史を語ることができない

もはや東南アジアは世界の動きに組み込まれてしまったのだ、60年前までの鎖国平和は夢

 

西太后、清国9代皇帝の妃で、10代皇帝同治帝の母であったが、同治帝が若くして亡くなり

甥が11代光緒帝となった、しかし政治の実権は西太后が握り、朝廷内の女王として他を寄せ付けぬ

威厳と権力を備えていた。

しかし光緒帝が経験をつんでいくにつれて対立することが多くなった、西欧化を目指す皇帝に対し

西太后は西欧諸国排除の保守的思想が高まっていった、だから義和団の変は西太后の意志と

一致、ついに列強に宣戦布告して、その中心的役割を果たすに至った。

北京にいた外国人は公使館などに立てこもって抵抗した、押し寄せる義和団は20万ともいわれる

ついに欧米日の8カ国連合軍が順次北京に攻め上ってきた、近いと言うこともあるが日本軍と

ロシア軍が圧倒的に多かったという、1900年ついに北京で戦闘が始まる。

数で勝る清国軍、義和団であったが近代装備の連合軍の前には烏合の衆でしかなく敗戦敗戦

ついに主導者の西太后と光緒帝は西安に逃げた。

この戦争で北京城の宝物は攻め込んだ各国によってかなりの数が強奪された。

日本はこの戦いに参加したことでますます存在感が増していった。

 

同じ頃、朝鮮でも平穏な日々はなかった、李氏朝鮮26代王、高宗の父、大院君イ.ハウンは

高宗の妃、閔妃と勝ったり負けたりの朝廷内抗争を繰り広げていた

政治体制は相変わらず保守的であったが、閔妃はロシアに傾いていた、大院君はそれに対抗して

真意はともかく日本よりであった。 そんな事情で南下するロシアと朝鮮に干渉する日本はついに

1904年激突した、日本が世界最強の陸軍を持つロシアとの戦争に踏み切った一つには、日英同盟が

結ばれたことが考えられる。

世界の一流国がバックアップすることは日本にとってとても力強いことだった、イギリスにしても欧州での

強国同士の争いの中、ロシアの尻尾を日本に噛みついてもらって、頭を日本に向けてもらえば欧州での

ロシアの脅威が減る。

海軍の黄海海戦、日本海海戦、陸軍の203高地など旅順の攻撃戦、奉天会戦などを2年にわたって

戦った、日本海海戦が圧勝だった以外は、いずれも互角あるいは日本軍の損害が大きかった、しかし

結果は常に日本の勝利でロシア軍は満州に向けて撤退していった、さらにロシア国内では労働者階級の

不穏な動きもあって、戦争に集中できない事情もあった。

すでに予備兵力も戦争資金も弾薬も底をついていた日本にとって、ロシアのやる気が無い今が手の打ち所

だった、アメリカの仲裁で日露は戦争終了の条約を締結した。

日本は樺太の半分を得た、ほかに満州経営の権利と、大韓帝国(朝鮮)での主導権を得た、しかし国家資金

が底をついていたがロシアからは1円の賠償金もとることができなかった、もし交渉が決裂して戦争継続と

なれば日本の敗戦は明らかだからだ、しかし事情を知らない国民の中には政府をののしって暴動を起こす

ものもいた。

ともあれ欧米から黄色いサルと蔑まされていた黄色人種の日本人が、世界最強のロシアに勝ったことは

十両力士が横綱に勝ったほどの衝撃だったろう、これによって有色人種のリーダーたちが影響された

清国では1911年孫文等によって辛亥革命が起きて、異民族の満州人が造った清王朝は崩壊して、

中国人による共和制政府「中華民国」が誕生した、そして孫文が大統領に就任した。

 

日本と朝鮮の関係も時間を戻してみよう、大院君イ.ハウンが、王妃閔妃と激しい対立をしていたことは

冒頭で書いたが、日本軍は朝鮮に介入するため大院君を利用した、閔妃を別にすれば朝鮮に影響力を

もつ最高の人物である、この人物を巻き込んで日朝の兵士軍人、大陸浪人と呼ばれる人たち、役人、

一部民間人が王宮に乱入して、閔妃を殺害した、1895年のことである。

この事件は日本政府の方針や命令でなく、朝鮮にいた彼らが独断で断行したことと言われている。

日本でこの事件の裁判が行われたが、殺害の下手人の特定は今も不明だそうだ。

 

閔妃が亡くなったことで、もはや日本に不利な朝鮮の政治家は皆無になった

ロシアに戦争で勝った事により、欧米の日本に対する評価はあがり、今や東の果ての劣等民族

という認識から完全に脱却できた、それにより東アジアでの日本の地位、既得権などに対して

異議を唱える欧米列強はなくなり、朝鮮、満州では日本が行うことはほぼ認められるようになった。

そのため、朝鮮に対して朝鮮王朝ではいつまでも清国の影響下のイメージがあるため、独立国を

印象づけるために国名を、大韓帝国として朝鮮王高宗は皇帝に就任した。

長い間、清国など中国の属国として皇帝を名乗ることが許されず、皇帝の臣下を表す「王」の名乗り

だった朝鮮、それが日本が清国を破ったことで、独立国に格上げされ、中国皇帝と同等になったのだ

しかしそれは日本が推し進めた政策であった、朝鮮の自力ではなく、大韓帝国の皇帝も所詮は

日本の傀儡でしかなかった。 こんな事から始まり1年ごとに大韓に対する日本の締め付けが厳しく

なっていった、治安も政治も軍事も取り上げられて、日本に吸収されていった、大韓国民にも祖国を憂う

志士はいる、僅かながらも日本に抵抗する者が入り、その代表的な事件が朝鮮人安重根による伊藤博文

暗殺であった、伊藤博文は日本初の総理大臣、そして朝鮮総督も務めた、長州藩の下士として育ち

吉田松蔭の松下村塾で学び、明治維新の立役者の一人となった、かれもまた日本の志士だった

伊藤は朝鮮併合に消極的だったという、その彼を殺害したことで併合が進んだという説もある

そして1910年についに大韓帝国は世界から消滅した、日本に併合されたのだ。

こうして東アジアの地図は20年前と比べるとずいぶん変わってしまった、日本は台湾、朝鮮、満州、樺太

まで領土に加えていた、朝鮮は地図から消え、大陸には清国は無く、代わりに中華民国が現れた。

東アジアの激動は新たな時代に入った。                     つづく

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑧

2016年11月18日 20時28分57秒 | 日本史

薩摩武士団の反乱「西南戦争」が終わって8年後、1885年(明治18年)日本初代の

総理大臣が誕生した、長州出身の伊藤博文である。

薩摩の代表者であり、新政府の担い手だった2代巨頭、西郷と大久保、西郷は「西南戦争」で大久保が

送った新政府軍によって明治10年に自害、その大久保も翌年、襲撃されて死んだ。

薩長の政治勢力は長州にいささか傾いたようだ。

1885年ともなると、もう新政権も要領を得て、次々に新しい日本ができあがっていく、ここまでくると

江戸時代のような日本国内だけですむ話ではなく、否が応でも欧米との競争が強いられる。

世界とまでは行かないがステージは東アジア、この中で日本のスタンスがどうなるのか、その努力が必要

となる、東アジアレベルで見ないと、日本の歴史が語れないほど時代は進んだ。

日本に比べ、欧米化ができなかった清国と朝鮮国は欧米諸国の格好の餌食になった。

満州人が中国人の国家「明国」を滅ぼして中原に侵略国家「清国」を造って250年近い、この頃には

国内各地で中国人による反乱が起きている、そして北方の強大なロシア帝国が清国の北方の領土を

侵略している、一方南方の領土インドシナ半島の清国の属国もフランスなどの欧州の強国に横取りされた

イギリスは既にアヘン戦争で香港を始め駐留している。

弱まった清国は「眠れる獅子」と言われながら実は満身創痍の病気の獅子であった、それでも日本より強力な

艦隊をもっていて強そうな外面は保っていたのである。

 

その清国の保護国である朝鮮王朝は建国以来500年になろうとしていた、こちらもすでに王朝の力は衰え

王様一族とヤンバンと呼ばれる貴族政治家だけが栄華をむさぼっていた、そのためこの国でも民衆が蜂起し

また若手の革新的なヤンバン青年は朝鮮も日本のように欧米化しなくてはという危機感を持って運動した

しかし政権からみればそれは反逆に等しく、弾圧を加えた、そのため彼らは日本に亡命したり戻ったりして活動を

続けた、しかし主導者のキムオッキンは暗殺され、他の者も殺されたり投獄されて、朝鮮の近代化はならなかった

こんな情勢の中で、朝鮮半島は火種の元になってきた、朝鮮国内で東学党の乱がおこると、鎮圧のため清国に

軍隊の派遣を求めた、清国軍が朝鮮に渡ると、日本は「清国と日本は互いに朝鮮への派兵はしない」という

天津条約の裏を突き、日本も朝鮮に軍隊を送った、結局これが開戦の引き金となった、1894年日清戦争が朝鮮で

勃発、日本は強く、瞬く間に袁世凱率いる清国軍を撃破して進軍を続けた。

また海上では大型軍艦をもつ清国北洋艦隊に、東郷平八郎率いる帝国海軍が攻撃、巨大戦艦2隻撃沈を含め

ほぼパーフェクトの勝利を収めた、翌年にはわずか8ヶ月の戦闘で清国は日本に降伏した。

李鴻章との降伏条件を決めた下関条約を締結、日本は国家予算の数倍の賠償金を受け取ったほか、台湾、遼東半島

などの割譲、朝鮮を清国は干渉をやめて独立国とすることなどを約束させた。

清国の敗北で、清国の威厳は地に落ち、欧米列強はますます清国の国土を蹂躙するようになった。

朝鮮は日本のもとで国内政治をするような形になり、宗主国が清国から日本に移っただけであった。

しかしこの条約にフランス、ドイツ、ロシアの三国からクレームがついた(三国干渉)

「清国に遼東半島を返還しろ」という高飛車なものだった、日本にはこの三国を相手に押し切る力はまだまだない

泣く泣く、返還したのだった、それをロシアはちゃっかりと清国から借り受けて挑戦経営の足がかりにしようとした。

1900年、北京で欧米列強の進駐に対して清国人の武力暴動が起こった(義和団の乱)バックでは西太后が糸を

引いているらしい。                    つづく