神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

直虎の時代

2017年09月17日 18時04分20秒 | 戦国時代

信長や家康の伝記のような小説はたくさんあるが、農民雑兵を主人公にした小説はあまりない

深沢七郎の「笛吹川」はそんな中でキワだった作品だ

毎日毎日、田畑を耕し家族が粗末な一つ屋根の下で貧しく暮らす農民一家

だが1500年代の日本中が戦乱の時代に平和な暮らしなど無い

百姓という立場は領主に命を握られている弱い立場だ

家族総出で米を作っても、ほとんど全部領主に持って行かれる

農民は僅かな米や、大部分は雑穀と葉野菜での食事

ある日突然、領主からの召集で組頭の配下として戦争にかり出される

粗末なすり切れた胴丸を裸の上に巻き付けて、粗末な槍一本で兵隊としてかり出される

数日分の干し飯をもっての参陣、いわば数合わせ、あるいは楯、所詮は百姓足軽

敵方の最前線の百姓足軽と、戦いの最初に槍で殴り合う役目だ

百姓同士が最初に殺し合うなんて悲しい、というのは今の時代の人間が思うこと

多分当時の人は、死ぬことについてそれほど面倒な理屈は持っていなかったのではないだろうか

この世に未練を持つほどの楽しみや財産があるわけでも無く、むしろこんな暮らしから逃れる

死の方が身近じゃ無かったんだろうか。

せいぜい家族への未練くらいだっただろう、だがあきらめが染みついて居る生活では

それすら無かったかもしれない

戦争にかり出されて死んで戻る(体は戻れない)ことは日常茶飯事のことだった

だからどの家も子だくさんだ、3人や5人が戦死しても一人位は家に生き残る

たまたま秀吉の様に気のある男が、出世して百姓生活から逃れるという「大志」を抱くくらいだろう

 

村には手が無い、足が無い、片目しか無いなんて障碍の農民がたくさんいただろう

領主が保証してくれるわけでも無く、死に損の痛み損だ

戦争に出てみても、どこへ向かうのかなんてわかるまい、学校教育など受けていないし

江戸時代ならともかく、この時代には農民の大部分は文盲だ、まして地理など知るよしも無い

せいぜい自分の村と周辺の村くらいしか知らないし、今の様に旅行をするわけでもない

生まれた村で一生暮らし、嫁いで隣村へ行くくらいがせいぜいだ

だから戦争はある意味、命がけの旅行の楽しみだったかもしれない

戦争ではぶんどり自由であった、勝ちさえすれば敵の村に押し入り、生活物資や財産を強奪できる

逃げ遅れた老人は殺し、女を奪い、女子供を戦利品の奴隷として戦地で奴隷商人に売って金にする

そんな狼藉だけを楽しみに戦争に行く、領主も褒美として狼藉に目をつぶる

なにか良いことが無ければ命がけの仕事などできるものか

戦争に負けて敵に村を蹂躙されれば、逆の立場になる

男どもは殺され、娘を奪われ、妻と子供は売られてしまう、恐ろしい時代だ

 

井伊直虎の場合はどうだったんだろうか、直虎は百姓では無い、領主である

それもある程度影響力を持つ領主だ、一つの地方の長である

昔たくさんあった、○○県**郡の郡長くらいのレベルだ、5つくらいの寒村の長である

城とは言えぬ位の砦が5つあると思えば良い、そして5人の村長がいて

直虎は村長会の会長と言ったところか

しかし直虎に属す小野村の村長は、静岡県全域と直虎たちの愛知県三河地方を治めている今川家の

役人を兼ねている、それは直虎の井伊家を監視して報告する役目なのだ

井伊家の家来で有りながら、今川家の公のスパイを兼ねている嫌な奴なのだ

もっと大きな視点で見れば、井伊の様な郡長は周辺にいくらでも居る、だから井伊家は特別な存在では

ない、そしてこの辺りの郡長はどこかの県知事クラスの大名に属さなければ生きていけない

井伊家は東海道最大の今川に属している、だが今川の家臣ではない、一応は独立した存在だ

今川クラスの大名はこの周辺では松平家(徳川家康の若いとき)、織田家、武田家がある

今川と武田が当時は有力大名で、織田はそれより若くて小さい、松平は織田の子分程度だ

松平はこの間までは今川の家臣だったのだ、それが織田信長が今川義元を討ち取ったことで独立したのだった

独立するとすぐに織田信長と同盟を結んだ、同盟と言っても桁が違う、日本とアメリカの様な関係だ

それでも織田が味方になったおかげで安心して今川の領土を侵略する事が出来る

それで狙われたのが井伊の領土だった、隣の郡長はとっくに松平に寝返って先鋒として井伊を攻めてきた

結局井伊の領土は寝返った郡長に乗っ取られた、今現在井伊の領土は消えてしまった、ただ人はいる

跡継ぎも直虎も有力な家臣も家来もみんな生きている、これからどうやって井伊家は再興するのだろうか

 

 

 

 

 

 

 


ネコの楽しみを奪ったら・・・・

2017年09月17日 08時48分17秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

遊びたい盛りの1歳、お相手はBossだけ Bossはいつも大迷惑

Peeの目はいつもキョロキョロ、いたずらの種を探す

窓際のテラス、タンスの上、置いてある手軽な物体は全て下に落とす

鳩時計、鳩が出てくるとどうやって捕まえようかと目が光る

得意技は懸垂移動、1m位なら懸垂で横移動する

先日、2階の部屋へ行ったら何かをそばえている(トカゲ?)まさか

今度は咥えてまた離す、「あれ!ヤモリだ」

以前から、夜になると小虫を狙って窓に張り付くヤモリをずっと狙っていた

だが相手は磨りガラスの外側に居る、とても無理と思っていたのに間抜けなヤモリが

窓のヘリに近づきすぎて捕まった様だ

尻尾を切って逃げようとしたが目もくれず、本体を襲ったのだろう

ネコは残酷だ、今はもう見かけないが昔のネコはしょっちゅうネズミを捕まえてきて

散々もてあそんで挙げ句に殺した

ともあれ、ここに女房殿が来たら、想像するだけで恐ろしい

Peeが離した途端、ネコを抱え上げて廊下に出して戸を閉め、ヤモリを窓から屋根に

逃がした、のそのそとヤモリは歩いて行った、まだ致命傷は負っていなかった様だ

ヤモリは「家守」と思っている、可愛くて友達にしたいくらい、逃がして良かった

素早く動くトカゲはセコいから嫌だが、ヤモリはのんびりで心が和む

戸を開けたらPeeは夢中で探し回っている、明らかに怒っている、とても怒っている

私に敵意を感じているほどだ

「ヤモリは良い人なんだよ・・・だから許してやろう・・・」なんて言っても聞き入れない

なんとかだまさなければ・・・・・・・・

 


日本の歴史 幕末の大逆転

2017年09月13日 14時25分03秒 | 日本史

日本人がもっとも活動的だった時代はいつだろうか

歴史ドラマで人気がある時代は、活動的な時代だったと言えるだろう

戦国時代と幕末が双璧だ、そのあとは明治時代だと思う

戦国時代は日本中が都道府県、市町村単位で一つの国家を形成して戦い

次第に勝者が膨らんで大きくなっていった時代だ

そして最後の信長、秀吉、家康で日本に平和が訪れる

そして250年後に家康が築いた徳川幕府を倒して、天皇を頂点とした政治体制を

作った革命の時代が幕末だ

幕末は戦国時代と違い、徳川幕府を廃し天皇主体の政治復活(尊皇)、徳川幕府の政治継続(佐幕)

、天皇を頂点としながら徳川を含めた大名による合議制国家(勤王、公武合体)の3つの勢力が

争った時代だ。

公武合体の証として、皇女和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻が行われた

これとは別に外国船が相次いで交易を求めて日本にやってきたが、それらを追い払って鎖国を

続けるという攘夷思想、外国と交易を始めようという開国派にも別れている、だからより複雑だった

幕府閣僚でも開国派、攘夷派に別れ、勤王思想であっても開国と攘夷に別れている

また地方大名もその通りであった。

日本の治国システムは世界に類を見ない独特なものである

まず神話時代に天から下りてきた神様の子孫が日本各地に住んでいた蛮族を滅し

あるいは従えて大和において日本の大部分をを平定し「天皇」となった。

それ以来日本の主として今日も続いている

天皇家は「いかなる権力者も侵してはならぬ存在」としていつ時代にも政治権力者すら天皇家を

滅ぼす行為を行わず、逆に保護してきたのである。

天皇家に勇猛な天皇が現れ、幕府と戦ったときでも、常に為政者側は争う天皇に対し、別の系統の

天皇を擁立して旗印とした。

武家は天皇の家来であり、将軍は天皇に任命されて北の夷敵を征討するための存在というのが

建前で会った。

だからいかなる権力者であっても天皇の上位にはなれず、ならず、その下という位置で国政を

行った。

戦国時代がおわり、徳川の天下になると三元政治になった、すなわち天皇の下に徳川将軍が有り

日本全体の統治者として徳川将軍があり、それに従う300近い大名という地方国家が存在して

それぞれに独自に独立採算制の政治を行っていた。

中国は大昔からアジアの盟主を自認していた、その最高権力者は日本の天皇と同じく帝として存在した

それは日本で言う将軍と同じ立場であるが「帝」と称した

なぜかと言えば、中国は大アジア(日本の戦時中の八紘一宇と似た考え方)の盟主であり、周辺の国

「朝鮮半島や日本、東南アジア、北方の民族」は、かってに臣下と見なしていたからだ。

王の中の王という立場の帝、だから中国は隋、唐、宋などが滅ぶ度に全く違う血筋のものが帝になった

これが日本の天皇との違いである。(因みに中国の属国という長い歴史が続いた朝鮮半島では、最高権力者は

つねに中国の臣下であるから帝を名乗ることが出来ず王という名称に甘んじた、北方民族「蒙古、女真族など」

に従ったときもやはり王であった)

 

明治天皇の親である孝明天皇はかたくなな攘夷思想であったから、初期の勤王、尊皇の志士や

勤王大名は当然攘夷派であった。

しかし長州毛利家や薩摩島津家のように、一度外国と戦争をした藩は、もはや日本人の今の武力では

欧米の奴隷になるという危機感を持ち、積極的に欧米に近づき、欧米の文明や兵制を取り入れて強国化を計った

徳川幕府にも勝海舟や小栗上野介などのような開国思想の幕臣がいて、アメリカを訪問してアメリカの

文明を目の当たりにしている。

しかし外国に出ない幕臣の親玉は、天皇の権威を恐れて攘夷派を装っているが、アメリカの武力をも恐れ

曖昧な態度に終始した、それが天皇にばれて幕府は頼りにならぬと思われてしまった。

一方、外国船と戦った長州、薩摩には絶大な信頼を寄せた。

徳川家も井伊直弼が筆頭家老で権力を振るううちは安泰だったが、御三家の水戸徳川家の脱藩浪士に

殺害されると一気に幕府の力が落ちた。

そもそも徳川家は、将軍家とそれを補佐する御三家が力を合わせてこそ盤石だったのに、14代将軍を

紀伊徳川家と、水戸徳川家から一橋家に養子に行った一橋慶喜とが争ったことで有力大名と

幕閣の協力体制が崩れ、徳川家の力は弱まった

この頃、幕府を倒して天皇政治を早急に実現しようと考えていた急進派は長州藩であった

長州藩は吉田松陰の先見的な教育を受けた下級武士団が保守的な上級武士団を凌いで

藩主毛利公を抱き込み、藩を自由に動かしていた。

代表的な藩士は、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文、井上馨

山県有朋(一部後の名前)などで多彩な革新武士集団だった

一方、薩摩藩や土佐藩も下級武士団が力を持ち、精力的に活動したが、両藩共に藩主(殿様)の

力が強く、長州藩のようには力を発揮することが出来なかった。

特に土佐藩は武市半平太がリーダーとなって藩主に取り入ったが、藩主が信頼する大物

吉田東洋を暗殺したため、結局は切腹させられて土佐勤王党は壊滅した。 

それ以前、土佐藩に見切りをつけて早々に脱藩したのが坂本龍馬と中岡慎太郎であった

彼らは土佐一藩など頼りにせず、京に出て全国の脱藩勤王浪士と倒幕を企てた。

こうした倒幕を企てる勤王浪士に対抗して、徳川幕府も会津藩松平家を京都の守護職に充て

治安維持の任務に就かせた、その先鋒として働いたのが新撰組である。

彼らは切り捨て御免の殺人集団として勤王の志士たちは恐れた。

一方、浪士方にも人斬りという異名をとる殺人者が居た、土佐の岡田以蔵と

薩摩の田中新兵衛、中村半次郎、肥後の川上彦斎が特に有名である、彼らは幕府方や

彼らの主義に反対する者を上からの命令で次々と殺害した。

彼らに命令した者には志半ばで倒れた者もあれば、維新を成し遂げ明治の元勲となった者も

いる。

こんな中、あせった長州藩は軍を動かして天皇を頂こうと、京都御所に

攻め込んだが、警備の会津藩と応援に駆けつけた薩摩藩によって撃退されて長州(山口県)に

逃げた。

徳川幕府は怒って、近隣の大名に命令をして長州を攻め、首謀者を切腹させて藩主親子に詫びさせ

謹慎させて引き上げた、ここまでは幕府の権威は生きていたのである。

長州は意気消沈していたがあきらめてはいなかった、ただ反撃の方法が見つからない

そこに現れたのが坂本龍馬だった、彼には世界に乗り出す日本という大きな野心があった

しかし母体の土佐藩は動かず、結局他人のふんどしを借りて相撲を取るしか無い

そこで長州と薩摩という2大雄藩を利用しようと考えたのだ

龍馬はあちらこちらに顔が利くという特技がある、頭も度胸も良い、薩摩藩で重い役を任されている

西郷隆盛に近づき、禁門の変以来、犬猿の仲であった薩摩と長州を同盟させるという離れ業を成し遂げた

これで一気に倒幕気運が高まった、戦うのは長州、薩摩は後方支援で最新の武器と軍艦を長州に

送った。

幕府は長州の不穏な動きを見て、再び大軍を長州征伐に送った、しかし薩摩と長州が手を結んだことに

気づかなかった、幕軍の主力となるはずの薩摩が無断欠席、幕府は長州周辺の鳥取や福岡の大名に

長州を攻撃させたが瞬く間に敗れた、しかも大坂に居た将軍家茂が20歳の若さで急死した

それで幕軍は総崩れとなった。  こうして徳川幕府軍と薩長中心の倒幕軍の形勢は逆転した。

間もなく倒幕軍は京を目指して進軍していく。

 

*確かな資料ではありません、個人的なうろ覚えにつき文頭には「たぶん」

文末には「だと思う」をつけてお読みください。