神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

京都旅行2日目 一転「彦根城」へ

2017年09月29日 16時01分10秒 | 旅行 関西・近畿

「明日は8時半に出発しよう」と言ったら、全員が「9時がいい!」

今日は四条大宮のホテルから二条城まで歩いて行きます

歩くのは平気と思いましたが、昨夜も1時間ほど京都の夜散策で歩き

その前日は山道を2時間歩き、そしてまた・・・・・

旅行社は20分くらいですと言ったが、道不案内で35分くらいかかり大幅に時間ロス

しかも今日は雲一つ無く、京都盆地特有の焼ける様な暑さ

汗が流れて、顔からも吹き出し放っておくと目に入って痛い

途中「餃子の**」があった、これについてちょっとエピソード

まだ旅行社担当と打ち合わせしていたとき、この担当者Aくんは入社して初仕事

ここに入る前は学生時代も含めずっと京都暮らしだったと言うことだ

京都で介護の仕事をしていたが、故郷の親の仕事を次ぐために戻ったが仕事が少なく

経験のない旅行社に入社したとのこと

だが京都は詳しい、それで夜の京都でおすすめはと聞いたら「餃子の**」も

一つのおすすめだったので「ああ、社長殺人事件のあれだね」と物騒なことを言ったら

がっかりした声で「ああ~ ここでは**は、その程度の認知度なんですね・・・・・・」

京都では(ソウルフード並みの扱いとか)

 

さてようやく着いた二条城、今回が4回目かな? お決まりの撮影禁止

足が痛くて、そして暑くて二重の苦しみだ、それでも中はひんやりしていて気持ちよく

また平らで木製だからようやく足が楽になった

二条城は城と言っても戦争用ではなく、徳川将軍の京都の別荘御殿といった感じ

主に外交の場であった様だ

急いで見て外に出た、ここからホテル経由で梅小路駐車場までタクシーで行く

ホテルで預けた荷物を受け取り、駐車場へ行き降車しようとしたら厳つい警官がやってきて

「ここで駐車するな!!」と運転手に高圧的に怒鳴った、運転手は下手に出て「すぐに降りますから」というが

「だめだ!もっとずっと前へ行って停まれ」まったく話にならない、目の前にわが家のバスがあるのに、

暑い中遠くから歩けという

後から来た仲間のタクシーも同じように言われて我々の10mほど前まで行ってしまった

私のタクシーは叱られたところから5m位で停まった「大丈夫ですか?」と言ったら、「いいですよ無視無視

急いで降りましょう」と強引に停車、警官がこっちにむかいかけたら3台目がやってきて、そっちへ行った

「世界の観光都市京都なのに・・・・これじゃ」聞こえる様に言ったが気にも留めない

確かに暑い中での孤独な仕事、苛つくのも無理ないか

なんとかバスに乗り、今度は近くの東寺観光だ。 一泊駐車4000円(11時乗車)

またまた私の出番、若い連中はまったく都市の中を走る気が無い、また走らせたくも無い

京都市内を走って見て昨日から感じていたことが3つある

1は意外に一方通行が無い、神戸や新潟市などではこれに悩まされた

2は道路の一番左がバス専用なのは、都市では当たり前だが、そのレーンは一般の駐車場と

化していること、また乗降の際にはまことに便利が良い、特に置き場に困るマイクロバスは

3は京都人の最悪の交通マナー、これには驚いたな。 私はマイクロバスで東京、千葉、横浜

新潟、富山、金沢、大坂、神戸、名古屋と都会はほとんど走ったけれど京都は酷い

マイクロで京都市内を走るのは2回目で、前回は少しも感じなかった

堀川通りだったかな?4~5車線の広い通り、右折で待っていて矢印になって発車しようとしたら

まだ対向車線から完全赤信号無視で3台も突っ込んできた

二車線の道路では路駐1台が邪魔をしていて右車線に入るとき、楽々譲ってもらえる車間にも

関わらず(京都以外の町では)、無理矢理(俺の車線だ!)みたいに外側から割り込み追い越しだ

どうやって二車線に3台入ったのか今も謎だ

 

東寺に着いたら反対車線だった、ぐるっと大回りして九条大宮線に出て考えた、南禅寺の豆腐懐石は

時間厳守で11時45分に入らなければならないと念を押されている

果たして何十分で南禅寺に着くんだろうか? そう思ったら東寺観光はパスしかない

初めての東寺はまたしても見送りだ

旅行社の行程表では、東寺の後に青蓮門院門跡観光も入っている、へえ~~無理

東寺から南禅寺まで30分予定だが、だいたいそれで間違いない、なのにどうして

時間が足りない???

どこかで時間が狂っている、そうだ二条城ですでに40分時間が押していた、そこから

狂ってしまったのだ

南禅寺前「順正」で湯豆腐コースの昼食。 

    

 

  

 豆腐がこってりと甘い、やはり違う

ここでも生湯葉が美味しい、このお店は二度目だ、前回は投入のスープの中に

豆腐と鳥肉が入っている湯豆腐だった。

刺身と、天ぷらも出た、結構お腹がいっぱいだ、さて南禅寺見学、誰も門を入ってから動かない

暑さと朝からの歩きでみんなへばっている、それじゃと言うことで「彦根城見学にするか?」

と言ったら全員が「それが良いです」、急いで出発だ、これで帰宅は1時間半遅くなるな・・きっと

 

彦根までまた私の運転は続く、しかし・・・・・・・・・・・・疲れのせいか・・・眠い・・・・・・やばい

ついにパーキングに入って若者と交代「もういやだ! おれは寝る!」

「彦根に入ったらお願いします」などとぶつぶつ言いながら交代したがしらんぷりだ

そのまま彦根城まで運転させた。  

さて問題はまたしても駐車場だ、三年ほど前に観光バスでここに来たときは大型の専用駐車場が

あったので、大手門近くの案内所にいた若い職員に聞いたら、「この近くにはありませんねえ???」

と心細い返事、いろいろ言ったがらちがあかない、運転手だけ残してみんなここで降りた

あとで運転手から聞いたら、どこかのおばちゃんが明快に大型駐車場を教えてくれたそうだ

しかも若造に聞いた場所から100m、石垣を2カド曲がっただけのところだった

ありゃアルバイトだな、観光管理者さん、もっとましなのを配置してください

 

今や「直虎」で注目の彦根城、ところが幕末の井伊直弼、家康配下で彦根城の大名になった虎松こと

井伊直政、そして井伊直虎の関係は意外とわからない人が多い

まあ直虎はなかなか資料も少ない人でいわば伝説の女性(男説もある)

井伊直政は家康が信頼した人物で、家康の四男「松平忠吉」を補佐して戦場を駆け回った

忠吉は直政の娘婿でもある

しかしお互い勇敢で、関ヶ原の戦(1600年)では薩摩の猛将、島津の決死の突撃に正面からあたり

数で劣る島津を追いかけていき、島津軍副将の島津豊久を討ち取った

しかし直政も忠吉も、島津得意の奇襲戦法「退(のき)鉄砲」に当たり負傷した、それが元で二人とも後に

若死にしている。

しかし井伊家は、取り潰し、領地替えが多かった江戸時代を250年間変わらず彦根を守った

これは家康が西の大名の反乱や攻撃に備えて、もっとも信頼が置ける直政に託したのだった

ところが明治維新、徳川四天王で真っ先に官軍に味方したのは井伊家だったという

もっとも徳川御三家さえ、本家の滅亡を見て見ぬ振りして戦わなかったのだから時の流れという物か

 

表門からそこそこの勾配の石段を登って行く、幅は相当広いので歩きやすい

もう良いかな・・と言うところで本丸に到着する

彦根城は今回で4回目くらいだと思う、本丸天守が国宝である

内部は松本城と同様で現代風な手は加えられていない、せいぜい階段の滑り止めと手すりが今風

大坂城、名古屋城、会津若松城などコンクリートの博物館では戦国の世を忍ぶことは出来ないが

彦根城はほぼ垂直な木の階段が、2層にわたって残っており、女性などはスカート厳禁

そうでなくても恐る恐るの上り下りになる

櫓とその石垣は長く美しい、さすが国宝である、時間が無く宝物などを見る余裕は無かったが

大名庭園の玄宮園を見てきた、以前紅葉の時期に一度来たが、又見たくなった

近江八景をイメージした庭園なのだそうだ

関ヶ原の戦いで德川方が勝利し、この地にあった石田三成の居城、佐和山城と18万石の領地を

井伊直政は得たのだ、しかし佐和山城を廃し、彦根城を築城したという。

幕末の徳川幕府を一手に引き受けて活躍したが、強引な手法で多くの志士を殺め、大名を謹慎させたため

水戸浪士に襲撃されて命を落とした、井伊大老(彦根藩主 井伊直弼)の像

さ~て帰りましょ

帰りは福井の尼御前SAで18時夕食、みんなラーメン食ってるけど、福井は越前蕎麦がうまいのだ

おろし蕎麦をさっぱりといただいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


なぜか5時間かかる京都

2017年09月27日 15時41分28秒 | 旅行 関西・近畿

理論上は3時間半でつく京都も、休憩しながら行けば4時間、実際には5時間かかる

いつもタイムスケジュールが詰まってしまうのが京都だ

大きな原因の一つは、市内の渋滞、東京の方がよほどスムーズに走られる

今回は会社の旅行で、コースも旅行社に依頼したので型どおりの観光ツアーになった

1日目

彦根で近江牛の昼食-金閣寺-仁和寺-嵐山ドライブ-ホテル-食事後自由行動

2日目

二条城-東寺-青蓮院門跡-南禅寺(豆腐懐石)-帰宅

これが旅行社コースだったが、旅はそんなに甘くない、相次ぐ変更でどうなった

昼食は彦根のキャッスルリゾート&スパにて近江牛セイロ弁当です

駐車場から彦根城が見えます

赤の三段重ねの蓋に井伊家の旗印が

三段重ねの中は   湯葉がおいしい

 

うなぎ

これがセイロ牛

京都最初の観光は金閣寺です、駐車料金500円なり。  入場券は金閣寺のお札です

金閣寺は3回目ですが、前回女房殿と来たときは人は多かったけれど、ほとんど日本人

今回はほぼ中国人、それにアジアの方々、白人さん、イスラム圏の方も居ます

大声で騒いでいる若者の一団が居ます、(また**人か!)と思って見ると、それは日本の若者でした

がっかりしました・・・・・・明らかに日本人の民度は落ちています。

続いて仁和寺です、駐車場1000円

広い境内に、ほとんど観光客は居ません。  静かです、落ち着きます

アジア系の観光客は全くと言って良いほど居ません、団体ツアーからは外れているのか断っているのか

白人がぽちぽち居ます

別料金で「御殿」に入ります、お庭が素敵です、各書院のふすま絵が渋くてとても良い

「写真撮ってよろしいですよ」というのも嬉しい

子供が一人、ばたばた廊下を動き回っていましたら、観光客の一人が「あれはダメだよ!帰ります」と言って

戻っていきました、たしかにこの静けさの中で気持ちはわかります。

   

 

 

 

 

 

 

 

国宝の金堂  修理中?

 

このあと嵐山ドライブで時間調整と書いてありますが、そんな時間の余裕はありませんので急遽ホテルへ向かいます

これが面倒で、ホテルから駐車場までは徒歩で30分とかで新撰組屯所あとなんか見ながらプラプラ来れば

だそうですが・・・私に余力はありません

若いのに駐車場回送を任せて、私は部屋へ行きます、今回は全員ツインルームに一人ずつゆったりです

夕食はホテルのレストランで京懐石とのこと、丁寧な盛りつけですが、まあ普通でしたね。

京料理の雰囲気はなかったかなあ、でもみんなお腹いっぱい食べたって言ってましたからOKですね

新鮮なお刺身がでました

 

 

完食かな? みなさん

 

 

次回、夜の散歩につづく

 

 

 

 

 

 

 


今日の日本海 越中.越後国境

2017年09月24日 16時50分02秒 | ドライブ

越中、越後国境の知られていない名所探求に行ってきた

思いがけない難所、思いがけない素晴らしい仏像との出会いがあった

今日はその1 「天下の険 親不知の奇跡のブルー日本海」と越後最西端の集落

玉の木の災害跡からの日本海展望写真

 

玉の木は昭和40年代に山崩れが起きて、国道8号を越え海岸まで行き、民家を

飲み込み数名の犠牲者が出た

その跡地は児童公園になり、山はコンクリートで補強された

その中腹からの景色

 

 

 

そして親不知の奇跡のブルーをご覧あれ

 

 

 

明日からは1泊2日で京都に行ってきます

 

 

 


キノコの季節がやってきた

2017年09月23日 06時34分54秒 | 季節と自然/花

今朝は道路が濡れて、小雨も降っていた

けれど東のどんよりとした空の合間に太陽の、光だけが神々しく輝いている

四方に雲の切れ間が有り、青空が見える

今日は曇り、昼頃一時的に晴れという予想だ、雨は朝だけらしい

 

わが家のパートさんが「ナメコ」を店にナメコを持ってきてくれた

さっそく従業員の昼食の味噌汁に作った

ナメコは傘が開いていないものを上とするようだが

私はこのような、肉厚で大きめの傘が開いている方が食感的に好きだ

これからはナメコを始め、いろいろな地物のキノコが出てくる

同時に素人の(私も)キノコ食中毒も多発する

先日ゴルフに行ったが5種類ほどのキノコがコースや林に出ていた

全て食べられないものだと思うが、わからない

 

昔は、ミミタケが大好きだったが、原因不明の死者が何人か全国で出てから自粛となり

私も気分的に食べないでいる。 貝割れと同じだが貝割れの無実は証明されて食べている

こんな状況だとミミタケはきっと山でたくさん自生しているだろうな

好きな人は、今でもたくさんとってきて食べている様だ

 

山にはこれからクマも出てくる、今や危険動物のクマ、襲われる人が後を絶たない

クマとイノシシと中毒には、みなさんくれぐれもご注意を

 


馬刺しのすき焼きで親睦

2017年09月22日 06時47分29秒 | 料理を作る・食べる

昨日は長野県岡谷市のボランティア団体を訪ねて諏訪湖まで行ってきた

10月の共同ボランティアの打合せ会議だった、片道3時間半

帰ってきたら23時をまわっていた...お疲れ!

「夕食を用意しました」というので弁当を想像していたら、なんと先方は懇親会モードで

居酒屋で思いがけない料理攻めに遭ってしまった

さすがに車でもあり酒は遠慮させてもらったが、満腹だった

信州地物の特徴ある料理でもてなしていただいた

 

馬刺しは信州の定番だが、馬肉のすき焼きは初めての経験

鯉の甘煮、肝がなんとも柔らかく美味しい

携帯ピンぼけが残念


親戚づきあい

2017年09月20日 16時27分11秒 | 知人・友人

母が亡くなって一ヶ月が過ぎた

それでもたまに香典が届く

昨日は福島県の三春から届いた

母が亡くなる少し前には、父に美味しい桃を贈ってくれた人

つながりはわかるけど、贈ってくれた本人とは面識が無い

父は「ああ・**子か」というから、きっと会ったこともあるんだろう

この家は、私の祖母の腹違いの弟が戸主だった家で、すなわち父から見れば

叔父さんの家なのだ

この三春の叔父さんは、父の人生の曲がり角でしばしば出てくる人なのだ

もう亡くなって久しい

私も、義祖父と祖母の法要を、父が浅草の日輪寺で営んだときにお会いしている

小柄で静かな人だった

で、この**子さんは、叔父さんと名字が違うから嫁に行ったのだ

まさか93歳の父の、従妹とは思えないから、多分私の又従姉妹なんだろう

又従姉妹の代になっても贈り物や年賀状、そして香典まで送ってくれるというのは希だ

きっと父が過去にそれだけのことをしてきたからなんだろう

父は、この叔父さんと格別に親交が深かったらしく、自分の人生を語る毎にしばしば

登場する

中国と戦争をしていた昭和12年~13年頃、叔父さんの部隊が中国から上野に凱旋してきた

その時、母(私の祖母)が父を連れて上野駅に会いに行った、それが初めて父が叔父さんに

会ったときだったらしい。

父の叔父さんの部隊は会津若松の歩兵第65連隊、何かと日中摩擦の種になっている「南京事件」に

深く関わっていた両角部隊だと最近知った。

軍という絶対権力が、善良な市民を強制的に鬼にも変える

いかにも東北人と言った無表情で無口な人であった 

 

この家とわが家の関係と言えば、この家の男子が、私の祖祖母に婿入りしたことから始まる

それは明治35年頃の話し、今から約120年前の事である

その因縁が今も繋がっている

「いとこの代になったら縁を切る」という言葉を法事の度に聞くことが多くなった

いとこと言えばせいぜい50年60年くらいのつきあいだ

120年も続いていることは素晴らしいことだと思う。

 

 

 

 

 

 


9月 秋の朝

2017年09月20日 06時29分41秒 | 季節と自然/花

出勤 6時に家を出た

空は9月 秋の朝

雲がさわやかだ  そして朝日が昇る

   

 

海も山も 秋

 

 

 

 

 

 

 

思わず口ずさむ高校時代に歌った ジ.アニマルズの歌

ゼアリィザハウス インニューオリン ゼイコールライジンサン

エン イッツビ~ンザ リュインオブメニィヤングプアボーイズ

エン ゴッド アイムノーゥ アイムワン


僕は幸せになりたいです

2017年09月19日 19時35分46秒 | どうでもいいこと

最後の願いは「幸せになりたい」

いつもそう思っている

「幸せになる」

どういうことかなあ?

願っているのに「幸せの姿」が見えない

どこに居るんだろう「幸せ」 どんな顔をしているんだろう「幸せ」

 

お金が「幸せ」なんだって時々思う

だって万能の力  何だって手に入る

お金か! 幸せって! そんなものだったのか「幸せって」

どこにも、誰にもあるじゃん そんなの

そんなの「幸せじゃ無い」

 

あああ 「幸せ探しって面倒くさい」

だけどね「幸せになりたいんだよね」

幸せってなんだろう・・・・・・・どこかですれ違っているんだろうね  きっと


ジェット気流

2017年09月18日 19時06分42秒 | どうでもいいこと

最近は父の三食毎に作っているので、毎回ヘルパーさんとも会って話す様になった

一日三回、同じ人が来ることもあれば、全部違う日もある

台風18号はさすがに大型だった、九州上陸前から遠く離れた我々の地域にも強い南風が吹き

今日の深夜に激しい風と共に通過していった

幸い我が地では少しの被害も無かった様だ

台風が過ぎ去り、雨が降り続けたが午後からは青空が顔をのぞかせた

関東や太平洋方面では30度越の真夏日になったらしいが、こちらは26度ほどで風も吹き

過ごしやすい午後であった

今日はヘルパーさんと台風について少し語りながら仕事

ヘルパーさんが「なんでいつも沖縄や九州まで来ると、方向を変えて日本に来るんでしょうかねえ?」

と待ってましたの質問、淺学にもかかわらず、もう得意になって説明を始める私

「ジェット気流というのがあって、それが台湾の方から日本に向かって吹いています、旅客機に

負けないくらいのスピードだから、台風はそれに乗って日本に来るんですよ。

まあ大きな川が流れていて、そこを越えることが出来ないで日本に流されてくる様なものですね」

「へえ! そうなんですか」と驚いた様な顔をするので、ますます調子に乗って

「日本が戦争に負けそうになった頃、日本中がアメリカに爆弾で焼かれたので、一矢を報くいんと

コンニャクを貼り合わせて風船を作って爆弾をぶら下げ、このジェット気流に乗せてアメリカを

爆撃するという計画で、いくつも飛ばしたんですよ。 ジェット気流は日本からアラスカ、アメリカと

流れていますからね、そしていくつかはカナダまで飛んで、森に落ちて火災を起こし、ハイキングの

子供が何人か死んだとか・・・・・成果はそれだけだったみたいですね」

「へえ~、そんな事があったんですか、初めて聞きました・・・いつ頃の話しですか?」

「・・・・・? 戦争中の話しです」

「そうなんですか・・!」

「黄砂が中国で発生して韓国から日本まで飛んでくるんだから、毒ガスを中国が飛ばせば韓国も

日本も簡単に全滅しますよ」

「あら怖い!」

「もっともそんなことをしたら北京も大連も青島も全滅しますから・・・・やりませんよ」

 

ジェット気流と偏西風が同じかどうかは知らないけれど、海外旅行というと東経120度~140度の

間を南北に移動するだけのせいぜい三泊五日が限界の私は、このジェット気流をいつも体感する

行きは遅く、帰りは早いというが、時差があるので本当のところはわからない

台風がジェット気流に乗るというのも、なんだか不思議な気がする

そもそも台風とは何なんだろう、雲? 低気圧って何なんだろうか 雲? 

気圧が関係しているのはわかる。 ブラックホールと同じ原理? よくわからん???

簡単に口で言うけれど、理論的に語れと言われると浅学がばれてしまう

まずはそんな高度な人とは話さないことだね。

 

 


直虎の時代

2017年09月17日 18時04分20秒 | 戦国時代

信長や家康の伝記のような小説はたくさんあるが、農民雑兵を主人公にした小説はあまりない

深沢七郎の「笛吹川」はそんな中でキワだった作品だ

毎日毎日、田畑を耕し家族が粗末な一つ屋根の下で貧しく暮らす農民一家

だが1500年代の日本中が戦乱の時代に平和な暮らしなど無い

百姓という立場は領主に命を握られている弱い立場だ

家族総出で米を作っても、ほとんど全部領主に持って行かれる

農民は僅かな米や、大部分は雑穀と葉野菜での食事

ある日突然、領主からの召集で組頭の配下として戦争にかり出される

粗末なすり切れた胴丸を裸の上に巻き付けて、粗末な槍一本で兵隊としてかり出される

数日分の干し飯をもっての参陣、いわば数合わせ、あるいは楯、所詮は百姓足軽

敵方の最前線の百姓足軽と、戦いの最初に槍で殴り合う役目だ

百姓同士が最初に殺し合うなんて悲しい、というのは今の時代の人間が思うこと

多分当時の人は、死ぬことについてそれほど面倒な理屈は持っていなかったのではないだろうか

この世に未練を持つほどの楽しみや財産があるわけでも無く、むしろこんな暮らしから逃れる

死の方が身近じゃ無かったんだろうか。

せいぜい家族への未練くらいだっただろう、だがあきらめが染みついて居る生活では

それすら無かったかもしれない

戦争にかり出されて死んで戻る(体は戻れない)ことは日常茶飯事のことだった

だからどの家も子だくさんだ、3人や5人が戦死しても一人位は家に生き残る

たまたま秀吉の様に気のある男が、出世して百姓生活から逃れるという「大志」を抱くくらいだろう

 

村には手が無い、足が無い、片目しか無いなんて障碍の農民がたくさんいただろう

領主が保証してくれるわけでも無く、死に損の痛み損だ

戦争に出てみても、どこへ向かうのかなんてわかるまい、学校教育など受けていないし

江戸時代ならともかく、この時代には農民の大部分は文盲だ、まして地理など知るよしも無い

せいぜい自分の村と周辺の村くらいしか知らないし、今の様に旅行をするわけでもない

生まれた村で一生暮らし、嫁いで隣村へ行くくらいがせいぜいだ

だから戦争はある意味、命がけの旅行の楽しみだったかもしれない

戦争ではぶんどり自由であった、勝ちさえすれば敵の村に押し入り、生活物資や財産を強奪できる

逃げ遅れた老人は殺し、女を奪い、女子供を戦利品の奴隷として戦地で奴隷商人に売って金にする

そんな狼藉だけを楽しみに戦争に行く、領主も褒美として狼藉に目をつぶる

なにか良いことが無ければ命がけの仕事などできるものか

戦争に負けて敵に村を蹂躙されれば、逆の立場になる

男どもは殺され、娘を奪われ、妻と子供は売られてしまう、恐ろしい時代だ

 

井伊直虎の場合はどうだったんだろうか、直虎は百姓では無い、領主である

それもある程度影響力を持つ領主だ、一つの地方の長である

昔たくさんあった、○○県**郡の郡長くらいのレベルだ、5つくらいの寒村の長である

城とは言えぬ位の砦が5つあると思えば良い、そして5人の村長がいて

直虎は村長会の会長と言ったところか

しかし直虎に属す小野村の村長は、静岡県全域と直虎たちの愛知県三河地方を治めている今川家の

役人を兼ねている、それは直虎の井伊家を監視して報告する役目なのだ

井伊家の家来で有りながら、今川家の公のスパイを兼ねている嫌な奴なのだ

もっと大きな視点で見れば、井伊の様な郡長は周辺にいくらでも居る、だから井伊家は特別な存在では

ない、そしてこの辺りの郡長はどこかの県知事クラスの大名に属さなければ生きていけない

井伊家は東海道最大の今川に属している、だが今川の家臣ではない、一応は独立した存在だ

今川クラスの大名はこの周辺では松平家(徳川家康の若いとき)、織田家、武田家がある

今川と武田が当時は有力大名で、織田はそれより若くて小さい、松平は織田の子分程度だ

松平はこの間までは今川の家臣だったのだ、それが織田信長が今川義元を討ち取ったことで独立したのだった

独立するとすぐに織田信長と同盟を結んだ、同盟と言っても桁が違う、日本とアメリカの様な関係だ

それでも織田が味方になったおかげで安心して今川の領土を侵略する事が出来る

それで狙われたのが井伊の領土だった、隣の郡長はとっくに松平に寝返って先鋒として井伊を攻めてきた

結局井伊の領土は寝返った郡長に乗っ取られた、今現在井伊の領土は消えてしまった、ただ人はいる

跡継ぎも直虎も有力な家臣も家来もみんな生きている、これからどうやって井伊家は再興するのだろうか