神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

今夜の西郷どん

2018年09月23日 21時11分34秒 | 映画/ドラマ/アニメ

「西郷どん」もいよいよクライマックスの江戸攻めのシーンになって参りました

江戸城無血開城は、西郷隆盛と勝海舟の腹芸合戦だけと思っていたら、その前に前段として

幕臣山岡鉄舟の官軍陣営に単身乗り込み、西郷に勝海舟との面談交渉

今夜の大河では、切腹を楯にして西郷を説得した

これは西郷が当時敵対していた長州藩を説得する為に単身、長州軍営に飛び込んだ逆バージョン

(第一次長州征伐)

 

その山岡が勝に出会う伏線として、西郷の命令で江戸各所で放火をして暴れて、庄内藩に

捕らえられた益満休の助の活躍がある

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幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)、大男である.

体格、年齢、今で言えば、ダルビッシュ有だと思えばいい

幕臣のダルビッシュ有が、敵方の本陣へ「総大将西郷隆盛閣下にお目通り願いたい!、拙者は

朝敵の徳川家臣山岡鉄太郎である!」と大声を張り上げると、西郷の家来、薩摩武士が

「賊め、殺されに来たか」と色めき立つ、当時としては大男、しかも北辰一刀流の免許皆伝

肝っ玉も据わっている。 ぎょろりと見回せば、さすがの薩摩武士もたじろぎ

その時、ダルビッシュの横にいたサムライが「儂じゃ儂じゃ、西郷どんに取り次いでたもせ」

「なに!、おっ、おぬしはますきゅうではないか、生きておったのか・・・」

以下、薩摩弁、江戸弁ともに標準語に訳す

「総督、たいへんでごわす、ますきゅうが幕臣の山岡とやらをつれてきもした、総督に面会

したいといいとりますが」

「なに、ますきゅうだと、あやつは死んでおらんかったのか、生きておったのか、よし会おう」

西郷が出て行くと、そこに益満休之助、にこにこと笑っていた

「生きておりもした、もうしわけなか」「何を言うか、さすがはますきゅう、よくぞ帰った」

「あっもし・・・」大男が西郷に声をかけた、ダルビッシュ並みの山岡と西郷初対面

「おはんが山岡さんか、なるほど山の如く大きな人じゃ、それで幕臣がなんのようかな」

「まずはこれを、ご覧くだされ」手紙を一通

「おっ、これは勝先生の・・・・・」手紙を食い入るように見入って、一息

「山岡どの、ますきゅう、まずは中で茶など」

誰も中に入れず、3人で密室に入った

 

「勝先生の文では山岡殿の紹介しか書いてありません、子細は本人から聞くようにとのこと、

山岡殿は勝先生の信頼が篤いようですな、ところで、ますきゅう何故生きて居る?」

「西郷どん、そりゃあなか!ははははは!、こうして生きて居るのも、勝先生と山岡くんのおかげじゃ

実は山岡くんとは古くからの友でござるよ、彼は幕臣なれど勤王の志士でござって、早くから、かの

清河八郎くんと共に、我らも攘夷運動に奔走しておった、ところが幕府の中で勤王運動をやるなど無謀なことで、

それが元で清川くんは殺害されてしまうし、山岡くんは蟄居じゃった」

「なるほど、珍奇な御仁ではあるようだ」と西郷は納得する、益満もうなずいて「わしが庄内藩に捕らえられて、

(これでこの世とも、おさらばじゃ)と覚悟を決めたのだが、存外、庄内武士というのが話がわかる連中での、

『武士は相身互いでござる、まして薩摩武士とあれば、我らが処断すべきものではない、とりあえず幕府に

お引き渡しいたす』と言ってすぐに首を切ると言うことはされなんだ、しかも丁寧に扱ってくれての、わしも

ちょっとホロリとしたのじゃった」一息つき

「そして、たまたまこの山岡くんが儂が捕らえられたことを聞きつけて、牢を訪れ『陸軍総裁、勝阿波守の

使者である速やかに罪人、益満某の身柄、お引き渡し願おう』と大声で言うものだから牢番も役人も驚いて

すぐに身柄を引き渡した

外に出てから『陸軍総裁とは大ボラ吹いたものよのう山岡』と言ったら、『何を言うか、それは本当の話じゃ、

今日からおぬしは勝先生宅で居候となるんじゃ』というではないか、これには驚いたが、それは本当であった

勝先生とお会いして、先生の見事な姿に感銘した、また勝先生が西郷どんをひどく信頼していて褒めよるから、

それにも驚いたのじゃ」

「そうして居候をしているうちに、今度の事じゃった、勝先生が『益満殿、いよいよお国のために役に立つときが

きたようだ、おまえさんに案内してもらい、この山岡さんを西郷さんに引き合わせて頂きたい』そう言われて、

訪ねて来たのです」

益満休之助の話しを聞き終えて、西郷が口を開いた

「なるほど事情はよおくわかりもした、では山岡さん、あんたの話しをききもそ、じゃっとん慶喜の助命だけは

勝先生の願いであっても、これだけは聞き入れることは出来もさん、それだけは言っておきますよ」

すると山岡は落胆もせず

「勝先生は、慶喜公一個の助命など考えてもおられません、勝先生は西郷先生に日本国の助命をお願いせよ

と申された」

「日本国の助命?」

「さよう、日本国の助命でござる、そしてそれを出来るのは、西郷先生唯一人だと申された」

「ふ~m・・・・・・」

「江戸を戦場にすることは、即ち日本国の滅亡である、なぜなら落ちぶれたと言え幕臣数万は健在である、

官軍が攻め込めばたとえ慶喜公が停めようとしても、彰義隊を中心に江戸に火をかけ、官軍を大混乱に

陥れようとする輩は必ずいるはずまた大江戸100万の市民も未だ、慶喜公びいきでござる、それに、いろは48組の

江戸火消しの団結は固く、頭の新門辰五郎以下みな勝先生をお慕いしております、勝先生も官軍乱入の折には

、『日本国の滅亡なり!新門、火消しに放火を頼むは筋ではないがその時は是非たのむ、江戸も、徳川も、薩長も

あるものか皆灰燼と帰す、きれいさっぱりとな、日本国滅亡の門出じゃ』と新門におっしゃられたそうです。」

「さすが勝先生じゃ、じゃどん我らも、それくらいは決心してここまでやってきた、江戸が火の海になろうと恐れる

ものではごわはん」

山岡の脅しも西郷には通じそうも無かったが

「西郷先生、勝先生がそれほど浅い考えだとお思いか?」

「なに・・・・?」

「先生、よおくお考えなされよ、勝先生の願いは滅亡にあるのではございませぬよ、今や慶喜公が頼りにされているのは

高橋泥舟殿と勝先生のお二人だけでござる、勝先生は幕府陸軍の総帥を任じられております、いまや形は無いとは言え

フランス国が勝先生に『我らが幕府を支援いたします、武器でも船でもいくらでもお貸ししましょう、まだまだ幕府の力は

朝廷方にひけはとっていません、我が国と力を合わせれば、勝つことも可能です』と言ってきました、だが勝先生は

『ありがたき申し出でありますが日本国のことはいかになろうと日本人同士で処理する所存故、お気になさらず』

と断り申した」

「・・・・・・」

「西郷先生、先生だとて同じでありましょう、エゲレス国からの甘い話しを先生は蹴られたでありましょう」

「うぅ・・・・・・それをどうして知っておる!」

「勝先生が、風の便りに聞いたようでございますよ、『西郷、さすがに希代の愛国者じゃ』と申してもおりました、

西郷先生!国を思うのに幕府も朝廷もありましょうや!、われら日本人が住む国は、この国の他にござらんのでは?、

江戸が火の海になり幕軍の全てが死に絶え、江戸100万市民が流浪の民となる、勝利した官軍は慶喜公の首ひとつとって

有頂天になっても我が国の民と富の多くは失われ、兵力もまた幕軍の減った分だけ日本国としては弱まる。 かって越後の

上杉謙信公の二人の息子が越後一国をかけて国を二分して景勝公が勝ったけれど、謙信公以来の最強軍団も力を失い、

あわや信長公のたかだか一軍団にも押される始末となった、今は信長公どころかメリケン、エゲレス、フランス、オロシア

などが日本国の富を分割して分捕ろうと隙が出来るのを、舌なめずりして見ております、官軍が勝ったとて国は間違いなく

弱まる、官軍勝って国滅ぶのは火を見るより明らかでござる、ずばり申しましょう

勝先生の願いはただ一つであります、江戸城総攻撃をやめてもらいたい、そうすれば勝先生が命をかけて江戸城を

開城させます

幕臣にも抵抗させません、勝先生はそうもうしております、どうかご一考願いたい、この通りでござる」

山岡は大きな体を小さくかがめ、深々とお辞儀をした。

「よーおくわかりもした、この西郷、勝先生のおこころ頂戴いたす、江戸総攻撃は中止いたしましょう、じゃっとん

無条件というわけにはいきもはん、条件を書いてきますからしばし、お待ち願おう」

ついに勝と山岡の熱い心は西郷に響いた、西郷が示した幕府の降伏条件は慶喜公の処遇について修正が必要

であったが、それ以外は問題なく進み、勝と西郷が江戸において確認の為の会談を行い、江戸城は無血開城された

とき1868年4月の事であった、徳川慶喜は寛永寺を出て、故郷の水戸城に戻り蟄居した。     

 

 

 


ファンビンビンが行方不明

2018年09月22日 08時31分25秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国

中国青島出身の美人女優「ファンビンビン」が4ヶ月行方不明のニュース

日本なら警察の大捜索が始まるが。中国では全く気配無し

中国のテレビや新聞ではまったく報道されず無視、日本のテレビの方がよほど報道している

数億円の脱税容疑で当局に拘束されているというのがネット上の噂、彼女に関する情報や写真が

ネットからどんどん削除されているという、いくら脱税でも、日本では考えられないことだ

日本やアメリカでも出演してそうとう稼いだらしい、日本のウーロン茶か何かのCMにもでている

知らない人が多いと思うので、無理矢理説明すれば、綾瀬はるか+北川景子+(若いときの)松坂慶子÷3

みたいな感じ。  目が大きくて鋭く、小顔、冷徹な表情と妖艶な美しさを演ずると最高の女優

中国歴史上唯一の女帝「武則天」を若い娘時代から演じ、他にも世界三大美女と言われる「楊貴妃」も演じた

 

20年くらい前から、例に漏れず私も女房殿も韓流にはまり、テレビドラマに夢中になっていた

それだけで足りず、韓国旅行を始め、どうせならとハングル文字を覚え、韓国語にも興味を持ち

漢字をハングル読みすることで単語が増え、韓国の町中の看板や注意書き、案内板も読めて便利になった

相変わらずヒヤリングは苦手で、もっともっと勉強が必要と思った矢先に、従軍慰安婦やら竹島やらで

イミョンバク、パクウネと親日大統領と思われていた大統領が2代、相次いで日本により攻撃的な政策を

行った、これですっかり熱は冷め、韓国旅行も韓国ドラマも勉強もやめてしまった

 

そんなある日、東京銀座のビジネスホテルで、早朝目が覚め寝付けなくなってテレビをつけた

中国歴史ドラマをやっていた、台湾ドラマと思ったが中国ドラマだった

素晴らしい中国美女が2人、一瞬で目を奪われた、それがファンビンビンだったのだ、中国大河ドラマ「武則天」

家に戻ってから、毎日録画して最後まで見た

こんな影響もあって、今度は中国語の勉強を始めた、中国は広いので地域毎では全くの外国語と同じで

上海と北京ではまったく言葉が通じない、それで標準語を中国全土の学校で教育をはじめたのだ

広東語では16ある発音も、標準語は4つになった、だがその4つさえ満足に発音出来ず、話すのはあいさつ程度

でやめた、それでも台湾で少し言ってみたら、「この人、北京語を話せる」と言われて逆に恥ずかしい思いをした

でもそこまでだね、すぐにボロが出る

それで書く方と読む方で行くことにして富山の中国人留学生に頼んで、一年に2~3回中国語で手紙を送ってもらい

それを読み解いたりしていたら、次第に読解力がついてきて、返事もネットを利用しながら文章を書くことが少し

出来るようになった

中国の漢字はどんどん画数を減らして簡素化してきている、それに比べて台湾漢字は日本の漢字と比べても

画数が多くて書くのと覚えるのがたいへんだ

中国へは行ったことが無い、台湾はこれからも行きたいところだが、中国本土の漢字ではダメなのが多いので

せっかく覚えた文字も台湾では役に立たない

これからはスマホの翻訳ソフト利用が良いのか?でもまだるいし、誤訳も起こる、そして相変わらずヒヤリングが

ダメではなかなか難しい、もう少し気合いを入れて取り組むか!

どうせなら英語も一緒にやれば能率が上がるのでは無いだろうかと思う。

 

9月の雨で露草がいっぱい咲いた

  

 

 

 


みょうがをいただきました

2018年09月21日 08時24分39秒 | 料理を作る・食べる

友だちのつーくんから、とても大きくて立派な「みょうが」をいただきました

今年は猛暑2ヶ月、9月は長雨と異常気象で、ほとんどでなかったそうですが

最近、少し出来たので持ってきてくれたそうです

一般的には、スライスして素麺や味噌汁の具、刺身の妻などで食べますが

酢漬けや、味噌漬けにもしますね

私は子供の頃から今まで酢が苦手で、湯豆腐のポン酢くらいしか食べることが出来ません

でも酢はとても体に良い成分(アミノ酸でしたか??)が含まれているので挑戦します

大部、嫌いなものも食べられるようになってきたので、みょうがを甘酢に漬け込んで食べようかと

思っています

どうすれば出来るかやったことが無いのでわかりませんが、縦半分に切って、さっと湯通しして

沸騰させた熱々の甘酢の中に放り込んで、冷めるまで置いておこうかなと思っています

週明けには、つーくんの影響を受けて黒ニンニク作りにも挑戦します

 


立派な栗もらった

2018年09月18日 15時43分52秒 | 季節と自然/花

自家用程度の畑をやっている社員が栗をたくさん持ってきてくれました

みんなでわけて、いただきました

ツヤの良い、なかなか立派な姿の栗です

栗ご飯にしようか、蒸してそのまま食べようか


カートハウス

2018年09月16日 09時16分31秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

カートとのライフパターンは、あの朝食だけで正常に戻りました

今朝5時すぎ、外でネコの威嚇し合う声が聞こえてきた ライバル出現か?

この付近で見かけたのはカートを追いかけ回していた、成ネコの虎猫一匹だけ

こいつだろうか? 今朝は姿を見ていない。

カートはまだ2~3歳くらいの少年なので喧嘩となればひとたまりも無い

急いで玄関を開けたらやってきた、いつも通り朝食を食べて出て行った、外は小雨

7時半に仕事に行こうと思って玄関を開けたら、座り込んでじっと中を見ている

かなり意識している、家の中に入りたい気持ちがまざまざと感じる、だが今一歩人間を信頼出来ない

昨日から、カートの頬のあたりをツンツン出来るようになった、嫌がらない・・嫌がっているかな?

但し、一回限りで後ずさりする、もう怒ったり、威嚇したり、噛む心配は無くなった

今日も写真撮るのに30cmまで近づいた、20cmにしたら2~3歩下がった

距離感は段々近づいている

捕獲は簡単な段階に来ているが無理はしない、ここまで作った信頼感、慌てず急がず、秋の終わりくらいまで

なるままになっていこうと思う

カートの家

今朝の朝食

味噌汁は信州飯山のエノキとナメコ,

レタスも飯山産、ご飯は「駿河湾のしらす炊き込み」の素で作った

 


半島国家と島国国家の政権

2018年09月15日 21時41分48秒 | 日本史

日本人は大和朝廷、京へ遷都、鎌倉時代、、秀吉の大坂政治、江戸時代、いかなる場所で、いかなる者が

政治を行っていても、この国は日本(倭)であり、住民は日本人(倭人)で2000年続いてきた

 

中国も4000年間、大陸の中原は国名が唐、宋、明、中国と代わっても、住民は漢が政権を取って以来

ずっと漢民族である

 

だが半島国家は小さいけれど、統一した国名も統一した民族名も不明で何と書いて良いかよくわからない

韓民族というが、朝鮮民族という名もある、韓は半島の三国時代以前に馬韓、辰韓、弁韓の三韓という

のが半島の南縁にあった

そして日本に統合された1910年以前に大韓帝国が少ない年数存在した、だがそれ以外で韓という国名

民族は聞かない

韓は韓国語で「ハン」と読む、これは恨「ハン」に通じ、朝鮮人の心の根には「恨」が潜んでいると言う人も居る

日本の国民音楽「演歌」は、語りから始まった楽曲と言うが、青江三奈、森進一に代表されるように夜が似合う

男女の甘いムード歌謡「艶歌」、その逆の人生の底辺を語る「怨歌」は「恨」に似ている。

 

 

朝鮮とか朝鮮人というのが一般的でもっともわかりやすいが、朝鮮とは1392年に高麗の将軍、イ.ソンゲが

高麗王家を皆殺しにして滅ぼした易姓革命で作った国家で、その国名は大陸の宗主国「明」に選んでもらったのだ

という。 朝鮮、朝鮮人というのはここが起源だから、それ以前には半島には朝鮮も朝鮮人も存在しなかった

今は半島の北半分は朝鮮で(北朝鮮とは韓国を南朝鮮と区別する時の便宜上の言い方)

南半分は韓国になっている(韓国では朝鮮を朝鮮と言わず北韓と呼ぶ、朝鮮という言い方は嫌いとのこと)

国際的にはコリアと呼び、サウスコリア、ノースコリアとなっている

先のピョンチャン冬期オリンピックでも半島全図の統一旗をかかげチーム名(国名)も統一コリアだったと思う

コリアは高麗の英語読みだと思う。 この半島に相応しい統一表記があるとすれば高麗、高麗人が一番

良いのかもしれない。 半島人には高麗の原型、高句麗がもっとも華々しくもっとも大きな国家の時代だった

高句麗は大陸の隋が滅ぶほど勇戦し、唐とも互角に渡り合っていた強国であった。

 

 

それぞれの政権の流れ

日本  天皇による直接政治-藤原氏の摂関政治-天皇及び院政-源氏~北条氏の鎌倉幕府政治

-後醍醐帝の短期帝政ー足利氏の室町幕府政治-戦国乱世-豊臣氏による政治-徳川幕府

ー明治維新王政復古ー東亜.太平洋戦争敗戦.アメリカ主導の民主主義政治のはじまり

 

朝鮮半島  古代朝鮮-新羅.高句麗.百済の三国時代ー新羅ー高麗ー朝鮮ー日本併合時代

ー日本敗戦で独立ー朝鮮戦争の結果、朝鮮と韓国の二国時代

 

日本人の起源は北方、朝鮮半島、南方から渡ってきた様々な民族の混じりが長い年月の間に原日本人と

なって、やがて南からやってきた倭によって淘汰され、新日本人(大和民族)となったのではないだろうか

そして畿内に天皇を中心とした朝廷を構えて政治が始まった

 

半島では南に原半島人の三韓民族、南東部に新羅、南西部に百済、北半分に高句麗が有り、三韓は

新羅に統一される

三国はそれぞれに王が居て、王政国家であるが、高句麗は今の北朝鮮に旧満州を加えた、広大な国家であった

民族も、おそらく純粋な半島人では無く、半島人種や満州族、北方の遊牧民、漢民族、あるいは西方のアジア系、

海岸部の民族、沿海州方面の民族など多彩な集合体あるいは混血だったのでは無いだろうか。

やがて、漢民族の唐の支援を受けた新羅が、百済、高句麗を滅ぼして半島の統一国家を完成させたが

満州から遼東半島は唐に帰属して、現在の北朝鮮南部と韓国を合わせた程度の国家になった。

新羅金王朝の誕生、新羅の歴史は長いが、統一新羅は約250年続いて高麗王、王権に譲位する

新羅が統一国家となった頃、滅びた高句麗の一族大祚榮が、唐と新羅の間で支配者が定まらず混沌としていた

旧高句麗の地を次第に奪って「渤海国」を建国した、その領土は、今の北朝鮮北部~ロシアの沿海州に広がる

広大なものだった

新羅と唐は対立もあったが、主に友好的で有り、渤海と対立していたので、危機感を感じた渤海は倭国(日本)に

使者を送って友好を求めた、倭国もこれに答えて友好関係を結んだ

百済がまだ健在で新羅と戦っているときも倭国は友好国の百済を応援して援軍を送っていた

一方で倭国は唐にも遣唐使を送って友好を維持していた

このように7世紀~10世紀は、半島と倭国は大陸も含めた大きな土壌の中で、戦争や友好による深い繋がりを持っていた

 

日本は12世紀の終盤まで天皇中心の朝廷政治が行われていたが、平清盛が後白河天皇に取り立てられてから、

武家の地位が一気に上昇して、1192年には貴族化した平氏を滅ぼして源氏(源頼朝)が鎌倉に幕府を開き、実質的な

政権運営を始めた

武家政治の始まりである、朝廷貴族政治、あるいは帝政から遥かに身分卑しき者だった武家に政権が移ったのは驚くべき革命

といえよう。

 

半島では9世紀の末になると新羅の貴族政治は乱れ、弱体化した。地方で2つの強力な勢力ができた、それぞれが後百済、

後高句麗を名乗って新羅の領土を侵略した、特に南部でできた後百済は直接的に新羅を攻撃して、ついに新羅の都を攻撃した。

一方、後高句麗では専制的な指導者クンエを部下の王権(ワンゴン)が討って、後高句麗の指導者となった

風前の灯火の新羅王は、ワンゴンに政権を委譲して新羅救援を要請した。 ワンゴンは要請に応えて、後百済のスンホン軍を

撃退した

その後は後高句麗と後百済は一進一退の戦闘を繰り返していたが、後百済の王スンホンは、息子の反乱で別腹の

息子たちを殺され自らも命の危険にさらされた。 なんとスンホンが選んだ道は仇敵だったワンゴンに救いを求めたのだった

ワンゴンは快く応じ、スンホンの案内で簡単に反乱軍を壊滅させた。 スンホンはワンゴンの後高句麗の半島統一を認めた

ワンゴンも親の年齢のスンホンを手厚くむかえて生涯の面倒を見た。

こうしてワンゴン(王権)は高麗王国を宣言して、新羅に代わる統一王朝を完成させた、936年の事である。日本では次々と

天皇に娘を妃として送り込む権力者藤原氏による摂関政治の真っ只中であった。

 

この頃、半島の北の満州付近では渤海が遼に滅ぼされ、遼は金に滅ぼされ、金はモンゴル族の元に滅ぼされた

元は大元国と名乗って、その騎馬軍団を南方に進めて、唐のあとにできた中華大陸の宋を攻めて滅ぼした

同時に半島の高麗にも攻め寄せて数十万を虐殺し、王族をはじめ数十万の民を捕らえて元へ送った

高麗の王子を元風に洗脳して高麗に送り返して王位を継承させた、王名も元風のものに変えさせて隷属させて

支配した。

これは元がヨーロッパまで攻め込んで人類史上最大の領土を得たのち分裂して、弱体化するまで続いた

1274年、1281年の二回、元は高麗軍や宋の降伏軍を先頭に大軍で海を渡り、日本の九州博多に攻め込んだ

このときの日本の為政者は源氏のあとを継いだ執権北条氏(北条時宗)であった、元の降伏命令に従わず九州武士団は

勇敢に戦って、二度とも撃退した、元の大軍は二度とも運悪く海上で大嵐に遭遇して壊滅的な損害を被った

しかし北条時宗はこの時の心労などがたたって30数年の若さで亡くなった、そして鎌倉北条幕府も次第に弱体化して

1334年、王政復古を目指す後醍醐天皇と、尊皇の士の軍によって滅んでしまう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カートゲーム?

2018年09月14日 08時29分26秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

今朝は5時前に目が覚めてしまい、ちょっと中途半端になってしまった

カートには毎朝5時半前後にエサを与えるが、彼は外で待っていて、待ちきれないとねだる

今朝は、とても5時半までは待てないから、エサを用意して、いつでも食べられるように戸を少し開けて

電気をつけてもう一度寝た

・・・6時20分目が覚めた、「食べたかな」と下へ下りて行ったが、まったく食べてない

カートの住みかを除いたら、居た。 寝ていないで立っていた

7時頃、玄関を見たがエサはそのまま、車庫を覗いたらカートはいなかった

出勤するまで、やはり食べていない・・・近くに姿は無い・・・・ちょっと心配

 

毎朝のエサやりはカートのゲームだったんじゃないだろうか

例えば将棋、エサは将棋の駒や将棋盤で、カートが興味を持っているのは駒や盤でなく、対局者の私だった

のかもしれない

今朝来てみたら、会いたい対局者が居なくて、将棋盤と駒だけがそこにあった。

がっかりして帰って行った・・・・そんな気がしてきた

 


雨の軽井沢へ

2018年09月11日 19時28分09秒 | ドライブ

茶道教授と日本舞踊師範という大姉御と軽井沢へレッツゴー

朝からというか、昨日から結構な雨降りで、「明日行きますか?」「軽井沢は小雨だから行きますよ」

風の盆をドタキャンされたばかりだから、雨なんかに負けていられない、絶対行くぞ!と行く気満々の私

雨の高速を飯山インターまで飛ばして、国道に下りて、117号の道の駅へ

女性は、お買い物も一つの楽しみだから、ここでどっさりと野菜や桃を買い込んで二人は大満足

再び高速に戻って、一路軽井沢へ、相変わらず雨は降っているが長野付近からは小雨に

ところが、軽井沢は結構な雨降りで・・・・・

小雨になったり、大ぶりしたり、とりあえずは駐車場に行かないことには始まらないので駐車場探し

軽井沢駅から真っ直ぐ北に延びるメインストリートを行って、少し左に折れたところで駐車場に入った

傘を差せば、それほど気にならないくらいの降りだったので散策に、舞踊師範は80歳なのでちょっと

心配だったが、やはりかくしゃくとした方だから、心配することは無かった

まずはランチ、当てずっぽうで来たから探しながら歩いた、すると神戸牛の看板を見つけた

「少し贅沢してステーキでも食べますか」「はいはい」となって、その前に靴やさんを見つけたので

そこに入ってから行こうと言うことになった

メンズ専門店で、山積み販売ではなく数十足の靴が丁寧にディスプレーされている、ちょっとオシャレな

店、そしてメードインジャパンが気に入った

女子店員に尋ねたら「私、入ったばかりでわかりません、すみません」

すぐに店長らしい若い男性が出てきて、商品説明をしてくれた、とてもわかりやすく説明してくれたので

気に入って2サイズ履いてみた、片足だけで「これいいね」と言ったら

「両方履いてみてください、足は左右違いますので」そうか、この対応もとても気に入った

26cmを選んで歩いて「これがちょうどいい」、茶道教授が怪訝な顔をしているから「どう?」

「おかしいわよ、ちょっと大きくない?ギシギシ言ってるし、もう少し小さい方がいいんじゃ無いの」

「そうかなあ、指一本ちょうど入るし」と言ったら、店長が「指一本は少し大きいですね」

それで25.5cmにしたら、やはり歩きやすかった、ちょうどセールでなんと半額に、

ランチ代がでた

それから、ステーキレストランへ「どこが玄関なの?」

なんとそこはレストランで無く、肉屋さんだった、そこで茹でトウモロコシを売っているのも面白い

仕方なく「どこかお父さんのおすすめの、美味しいレストラン知りませんか?」と店主のおじさんに

聞いてみた、すると「あるよ、車で送るから乗ってください

思いがけぬ軽井沢の親切、雨も次第に大きくなってきたので、とても助かった

一般車は交通止めの道路から裏道に入って「これは天皇陛下がテニスしたコートだよ」

「こっちへ行けば万平ホテル」などとプチ観光案内もしてくれて、万平通りの林の中をどんどん行く

そしてついたところは営林という中華店だった、お礼を言って中に入った

ガラス張りの外は緑で、席数も多く雰囲気もある、メニューを見たら料理を選んで組み合わせる

コースと、内容が決まっているコースがある

ランチコースは3800円だったかな?、それ以外はコース料理で13000円まで数コースあった

その中の一つのコースを注文した。 いろいろある中華麺だけでも良いし、シューマイなどの単品も幾つかあった

女性同士のお客さんが次々に入ってきて、だいたいが中華麺の昼食のお客様で、コースは我々だけだった

軽井沢まで来て、ラーメンだけで帰るのもなんだしね

味は全体的にさっぱりした薄味だが、スープのおいしさや、肉の柔らかさが際だった上品な味わい

この頃は強い味に慣れていたので、胃に優しくとてもさわやかで美味しかった

フカヒレスープ

     

 

  

さて2時をまわって店が中休みに入る、送ってもらったのはいいが、帰りは考えていなかった

外はものすごいどしゃ降りになっていて、レストランの女性と話しをしていたが「道路が川になったのは

私も何年かぶりで見ます」と驚いていた

タクシーを読んでもらったが、駐車場の名前がわからない

女性運転手といろいろ話し合って、ようやく方向が定まり、無事駐車場に着いた

帰路はせっかくなので有料のハイランドウェイの森林地帯を行く、そして小雨だったので白糸の滝に立ち寄った

私は今回が4度目になる

 

 

それから鬼押し出しを通って、長野街道へ出て、途中寄り道サプライズで「愛妻の丘」へ二人を連れて行った

ここは嬬恋村の雄大なキャベツ畑の中野小高い丘、田代池とその向こうに浅間山が麓から見えるロケーション

残念ながら小雨模様の今日は、浅間山が隠れて見えない

まだまだキャベツがたくさんあったが、とれすぎたのかどうなのか廃棄したようなキャベツがたくさんあった

丘の上の鐘を鳴らして、大学生風の若い男女10数名が「***おまえが好きだ!」などと一人ずつ交代で

叫んでいた、叫ぶ度に笑い声、若いというのは素晴らしいと思う歳になってしまった

鳥井峠を越え、その先で上田へ下りるか、菅平へ上るか

迷ったが、時間が5時でもあり、高いところは霧が良くかかっているので、結局上田から高速に乗ることにした

午後7時、故郷に戻ると、御婦人二人はお礼に夕食とお酒を振る舞ってくれるという

町なかの居酒屋で10時まで飲んで喰って話し、別れがたく、今度は私が二人をスナックへ招待して

結局、11時半頃まで飲んだが、スナックもお客が退けてカラカラだったので、ママに従業員の女の子も

みんな呼んで一緒に飲んだ、よくよく考えたらハーレム状態だった、大姉御2人の他にママ、従業員2名

さっき飲み食いしてきた居酒屋の従業員女性、女性6人に男は私一人、鼻の下を伸ばして飲んでいた

一人のおねえさんは従業員では無く、ママのネイルを担当している美容師兼ネイリストだった

至福の宵、「ああ、今日は幸せな一日だった」

 

 

 

 

 

 

 


カートネコの朝食

2018年09月09日 16時49分28秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

今日が良く見える日と、雨の音が頭の中を支配してな~んにも考えていない日とがある

今日はそんな雨の日で、早朝、私が階段を下りる音を聞きつけて

腹を空かしたカートネコは「もう待ちきれん」とばかりに後ろ足で立ち上がり、ガラス戸に腹をくっつけて

体を右に左に必至に動かしているのを、内側から見ると、なんとも滑稽で愛おしくもある

この頃は、車庫の中に安定したねぐらを見つけ、すっかり落ち着いたカートネコは

その動きもずいぶんと余裕を持って、そして緩慢になった

生活サイクルも家を持って変わったようだ、ほとんど車庫の中の毛布の上で過ごしている

今までは、日中は暑いから、露天駐車の車の下で過ごし、夕飯を食べると縁の下に入って休む

最近は、ほとんど車の下に居ることはなくなった、そしてジメジメした縁の下から解放されて

快適なベッド暮らしだ

10月からは何度か旅行に出る、2泊もある、この間のエサやりが一つ問題になってくる

朝5時半の朝食習慣をつけたことを今になって悔やんでいる、カートにとってそれが生活パターンとして

組み込まれているから、8時過ぎまで食事があたらなくなったときの反応が心配だ

方法を考えなければならない・・・・毎日少しずつ遅らせてみようか?

 


台風一過 姨捨SA

2018年09月05日 20時50分51秒 | ドライブ

この度の台風被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます

異常気象が異常で無くなってきた感があるこの頃、どこに居ても同じような災害に遭う危険があります

皆様方、日頃から心がまえして危機に備えましょう。

 

さて台風一過、絵に描いたような快晴で気温もグングン上がり、昼前に信州でも31度を超えた

そんな中、予定通り信州ドライブに出たがムッとする暑さである

おろおろしても何だし、長野道「姨捨SA]で二時間ほどのんびりしてきた

ここは信州名所「田毎の月」である、棚田には小さな田が幾重にも重なり、その一つ一つに映る月の見事さが

歌われている

今日は暑い真夏の晴れで、とても9月の季候では無いが、色とコントラストのの鮮やかさはへぼの私でも絵になりそうだ

このSAは600mほどの高台にあって、眼下の千曲川の緩やかな谷沿いに、戸倉上山田温泉方面から、更埴、長野市

の町並みが望める美しい場所である

レストランで昼食を食べながら、今日は心地良い風が吹く日陰のベンチに座り時間を過ごした

 

 

 

 

影の面白さ

 

リンゴの実も大きくなって色づきを待っている

棚田

真綿を裂いて広げたような雲が面白い

   

 

 

 

 

   

帰路は上山田温泉に通じる山越えの道を行ってみよう、初めての道を行くのは心がワクワクする

 

信州特有の九十九折りの曲がりくねった上り下り、涼しげな林が続く気持ちの良い道

上信道「野尻湖P」 ナウマン小象のお出迎え