今年は異常な大雪で、自宅の駐車場は1mも雪が溜まったままで帰れない
P子は毎日「おとうさんに会いたいよ~」って泣いてるって女房殿が言ってた
ようやく快晴になって、久しぶりにP子にご対面
まるでワンちゃんみたいに、私について歩いている、どこに行くにもついてくる
ニャーニャーと甘えてついてくる、座れば足下で寝ているし、こりゃあ惚れられちまったぜ!
お気に入りの南向きの窓、日差しがあって暖かい
「おとうさん!」
今年は異常な大雪で、自宅の駐車場は1mも雪が溜まったままで帰れない
P子は毎日「おとうさんに会いたいよ~」って泣いてるって女房殿が言ってた
ようやく快晴になって、久しぶりにP子にご対面
まるでワンちゃんみたいに、私について歩いている、どこに行くにもついてくる
ニャーニャーと甘えてついてくる、座れば足下で寝ているし、こりゃあ惚れられちまったぜ!
お気に入りの南向きの窓、日差しがあって暖かい
「おとうさん!」
好き嫌いは多い方だった
肉は全てダメ、野菜も玉葱、長ネギ、レタス、アスパラ、セロリ・・・嫌い
天丼、カツ丼、見ただけでうんざり
ところがどうでしょう、10数年前から牛肉が大好物になり、豚肉も脂身以外は好きに
そしてアスパラ、セロリも食べるようになった
さらにさらに、キャベツやレタスをマヨネーズで小丼一杯完食出来るようになった
玉葱も辛み抜きした、生サラダで小丼一杯平気になった
カツ丼、天丼も食べたくなる日がある、カツ丼や親子丼の玉葱は平気に
最近は玉葱は味噌汁以外は美味しく食べられるようになった、でも長ネギは相変わらず苦手で
ラーメンやソバの生葱以外は食べることが出来無い
こうして今は、大概の食材は食べることが出来る、まずい味付け以外ならば
どうして急激にこうなったのかは不思議だ、関係ないと思うが「薬師堂」の馬油をずっと前から愛用している
その製品に梅肉を練った「とろみ」がある、あれは「嫌いな野菜も食べられるようになる」というキャッチフレーズ
だったと思うが、あれを1ヶ月ほど試用したことがある、あれからじゃ無いかと思うのだ
だがそんなに急激に味覚が変わるものだろうか? 精神的な面が多いのか、食わず嫌いが解消されたのか
不思議だが、現実なのだ。
しばらく安定していた父の容体が、4日前くらいから食欲がなくなり
見た目にも辛そうな感じであった
しかし定期検診の日も「病院に行かんでもいい」と頑固に言い張り、迎えに来た妹を帰した
しかし昨日の昼頃から、息が荒くなってきたので「今日は日曜だから、明日あたりかかりつけへ
連れて行って見てもらおう」と妹と約束したのだった
夕方5時、ヘルパーさんが来て「長男さん、たいへんですよ血中酸素の濃度が危険水準です」
普通人なら90以上、母が入院したとき80、そんな数字が70しかないという、血圧も90-55
脈拍も多い、すぐに妹に「病院へ連れて行くからすぐに家に来い」と電話、妹も夕飯の支度中だったが
息子に任せて入院支度をして30分後にこちらに来ると言うことになった
それより、受け入れ先の市民病院への連絡が先、日曜の夕方でもあるしちょっと心配だが
すぐに受付が出たので名前を言ってから、「症状は?」と聞くので、症状よりもヘルパーが調べた
数値を言い並べたら「ちょっとお待ちください、医師と代わります」
医者に数値を行ったら、「分かりました、それは緊急を要するのですぐに来てください、どのように来ますか?」
妹の車でと言いかけたが、医者が慌てるくらいだから、それでは手に負えないだろう「救急車要請します」
「そうですね、それがいいですね」
すぐに119番へ、最近は順番待ちがイヤだから救急車を頼むなどという横着者が多々横行するので
救急も慎重に問うてくる、だからこちらも病院同様数値を並べた、その電話の傍らでヘルパーさんが「67に下がりました
、ああ今度は55です!」と悲痛に叫ぶ、それが救急の耳に届くみたいで「直ちに向かいます」
平生の3分の一で問診終了
父の体に震えが来ている、急激に悪化してきた、ヘルパーを見て気が緩んだのか本当に急激だ
約15分後、妹と救急車が同時に到着した、私が同乗して病院へ、およそ10分で到着
待合室で待つこと30分、「夕飯を食いそびれたなあ」と妹と話していたら医者に呼ばれた、レントゲン写真を見せて
「肺炎悪化ですね、最高濃度の酸素で対応していても、最低レベルの血中酸素濃度しかありません、かなり
悪い状況です、これだけで無く心臓やさまざま過去の病気もありますし、最悪のことも少しすみにおいてください」
年齢も年齢だし、私たち兄妹もとっくに心構えだけは出来ているから驚かないが、・・・という気持ちになる
看護婦に呼ばれて処置室に入った、酸素マスクと点滴、哀れな老人の姿だが「凛とした」プライドのオーラは失っていない
「常に他を制す」あのオーラだけが父を支えている、あれがあるうちは健在なはず
看護婦に手を焼かせたらしく、私に助けを求めてきた、私が手をさすったり、マスクをはずそうとするのをいさめたり
しているうちに寝た、看護婦が来て、「やはり身内の方だと違いますね、私たちではlこうなりません」
部屋の用意が出来て個室に移った、ここで両手にミトンをはめられ、おしっこは管で、そして点滴
昨日までとは全く違った入院生活が始まる、またストレスがたまるんだろうな
周囲に敏感なので個室を希望した、インフル流行で面会もママならぬと言う、弟も来るといったが容体に変化がない間は
来ても会えないからと断った
この冬を乗り切れるのだろうか? 母が亡くなって半年、24日は母の誕生日、どうなんだろうか?
ピョンチャン五輪、羽生(はにゅう)くん66年ぶりのフィギュア2大会連続優勝
一方、将棋では羽生(はぶ)竜王が、14歳の天才中学生棋士藤井5段に敗れる波乱
もっとも藤井くんは羽生さんに今回で2勝1敗で勝ち越しだとか、これでこの大会の
決勝進出が決定、勝てば6段昇進なんだそうだ
勝った方の羽生くんは4ヶ月前にケガをしてオリンピック出場を危ぶまれたが、さすがに委員会は
前回金メダルの大スターを外すことはしなかった、羽生くんもこれに答えて圧倒的な勝利を収めた
しかも宇野くんとの1.2フィニッシュ、、今大会初の金メダル獲得だった、これでメダル獲得は9ヶ
このほかにも小平さんの500m、高木さんのチームパシュートなどにも金メダルの期待がかかる
しかし羽生くんの、あの絶対的な自信はどこから来るのだろうか、23歳とは思えない堂々とした宣言
「ぼくはオリンピックを知っていますから」流行語か?
それは「勝ち方を知っていますから」に他ならず「自分は元五輪チャンピオン」
「前回のフリーの失敗に対するリベンジ」と、自分自身以外に敵はいないという宣言、並みの選手が
こんな事を言えば総スカンだが、羽生くんが言うと、皆納得する
この時間帯、我が店では2組が宴会をしていた、ところが一組の部屋では全員がテレビに釘付け
もう一組も半分くらいの人がロビーに出てテレビの前で大盛り上がり、こんなのも珍しい
瞬間テレビ視聴率もどれだけになったのだろうか、しかも宇野くんも逆転で銀メダル、日本が最高に盛り上がった
時間帯だった。
例年通り、わが家の「ホワイトベル」雪うさぎは2月になると咲く
真っ赤なジャコバは12月にあっという間に満開になってあっという間に終わった
こちらは次々に開花していくので1ヶ月半ほど楽しむことが出来る
小さな蜂をお歳暮に頂いたのを、ここまで育てた、今年で6年目になる
このうすい白ピンクの色が何とも言えない
大好きな自然色だ
山形県で4m30cmだとか、もっとも我が町も山間部の山の上の村では3m50は
あるだろう
さて昨日の雪には驚かされた、朝15cm程だったのにみるみる積もって10時にはわが新車は
ご覧の通りになってしまった。 ドア部分だけ雪をのけたがすっぽり雪にくるまれていたのだ
屋根には50cmの新雪
駐車場の除雪をするため、移動しなければいけない、ようやく雪の中から引き出したが、この有様
買って以来、まだ一度も市外へ出たことが無い
そして除雪が始まった
今日は、数日ぶりに青空が出てきた、予報でも一日晴れわたり気温も10度まで上がるらしい
新車慣らし運転にひとっ走りしてこようかな、越後の豪雪地帯を見に行くのも良いかもしれない
一日走れば上州まで足が伸ばせるだろう、関越道の交通止めも解除との情報も入ってきた
ストレス発散! レッツゴー
しろ雪の 降り積もって行く路を
ギシギシという音を足裏に感じながら
歩いていると 心は童心に還っていた
雪にも様々な顔がある、みぞれ混じりの冷たい雪 横から激しく顔に叩き付ける凍える雪
空からふわりふわりと舞い降りる天使の雪
今朝は、そんな天使の雪の中を会社まで歩いてきました
なんだか少し嬉しい気分で歩いていました
体もポカポカ、途中で動物病院の前を行きすぎて現実に戻りました
Pネコの4日間の入院費用払ってきました、動物を飼うのも
バカになりません、保険がない分、人間よりはるかに高い・・・・!
雪の話しはやめようと思ったけど、まだまだでした、今朝も40cmの積雪、でも雪国としては
少ない方です、越後や北陸各地の都市でも1~2m、山間地では4m越えも
明日はバレンタインディ、例年にない雪のバレンタイン、ロマンチックな恋人の雪の夜も
どこかであるんでしょうね。
おはようございます。
またも「大雪注意報発令」、今朝起きて外に出たら積雪は10cm、さほどでなく安心したが
まだまだ降り続いているので、明日の朝までにどれだけ積もるのか心配である、とにかく30年以上前の
雪国に逆戻りした。 温暖化伝説は簡単に覆されてしまった
それにしても、この数年で天気予報の精度が見違えるように良くなっている、これは驚きだ、革命と言って良い
「フグを食べるときは、天気予報を見ながら」と言われたくらい、当たらなかった天気予報
それが今では90%以上の精度で当たる、3日先くらいでもかなりの精度だ
「気象衛星ひまわりの画像」という言葉がよく出てくる、やはり地球を知るには宇宙から見るのが一番良い
天文学にしてもハップル望遠鏡が宇宙から観測するようになって、格段の精度で遠い宇宙までクリーンな画像で
見られるようになった。
遠い遠い銀河もたくさん発見され、太陽系外の惑星も次々に発見されている。
恐竜の謎と同様に宇宙の謎もどんどん暴かれ、新説が本屋に並ぶ
世界に貧困と欲望が絶えない限り、戦争は無くならない、世界中が競って恐竜や宇宙の研究に没頭出来るような
平和な世界になってもらいたいが、それは不可能だろう。
昨日は本家の葬儀でのおときで、いろいろはなしをしたのだけれど、親の戦争体験の話しもでてきた
例のYくんも、自分の母方の祖父がアジア・太平洋戦争でビルマのインパール作戦に従軍したと言った
ところが祖父はほとんど戦争の話しをしようとしなかったと言うことだった
よほど残酷で辛い体験だったのだろうと言う
ところが、その隣に座っていたNさんも「うちの親父もインパール作戦に参加した」と言って
「おれは婿養子だから詳しいことは何も聞いていないが、yottinさんは、親父と親しかったから知ってるよ」
ということになり、でしゃばりyottinはまたしても口を挟むことに
以前もブログで書いたが、大概の人は忘れただろうから、もう一度書きます
今朝6時、偶然にNHKでインパール作戦の証言ドキュメンタリーを放送していた
昭和19年4月インド方面から米英の連合軍が日本が占領していたビルマを奪還するため攻勢をかけてきた
それに対して日本軍の牟田口司令官が逆攻勢を提案、補給困難であるという参謀達の言葉を押し切って
強引に作戦を遂行した、補給計画の無い短期決戦勝利という精神論だけの計画だった
10数万の日本軍が3方向からインドのインパール制圧に向かった、そのもっとも北方の軍団にN家のおじさんも
参戦していたのだった。
北方軍は第31師団、そのなかでも勇敢で経験豊かな第58連隊(越後)高田連隊に所属していた
中国との戦争時は、中国軍も日本のどの部隊と戦っているかには敏感だったらしく、新潟や東北の部隊は
強く勇敢な部隊であることを知っていて、逃げ腰の戦闘を行い、大阪とかの部隊だと弱いとみて果敢に攻撃を
仕掛けてきたそうだ。
そんな高田連隊はインパールの北方コヒマを占領する為に出動、ここはインパールへの中継地点でここを
押さえればインパールを日干しに出来ると作戦司令官は考えたようだ
2000mの深い山中を旧式の大砲などを分解して兵士達が担いで登って行く、それだけでもたいへんな苦行であった
牛に物資を運ばせるが、言うことを聞かず谷間ではすくんで動かず、無理に歩かせると物資もろとも牛は谷底に
落ちていくと言った有様だったようだ
それでも、コヒマを占領することに成功した、だが米英の強力な大軍が重装備&近代兵器で反撃してきた
日本軍には武器弾薬、大砲の弾、食料医薬品、あらゆるものが不足してくる、補給を要請しても「精神力で戦うのが
日本軍の伝統だ」と牟田口が言って、ほとんど送らなかったそうだ(番組より)
Nおじさんの体験談でも、それを語っていた
「敵さんは毎日、雨あられのように大砲を撃ってくるんだが、こっちは弾一つ無いので隠れて耳を塞いでるしか無い
そしてたまに、砲弾が送られてくるんで、さあやるぞ!と張り切って一発撃つと、敵陣地から10発100発とおつりが
飛んでくる、こりゃたまらん、こっちの居場所を教えるために撃っているようなもんだから、撃つのをやめてしまった」
いかに敵味方の補給の差が大きかったことがわかる、食料にも事欠いたようで
「たまに偵察を命じられる、敵陣地に向かって草むらの中を歩伏して行くのだが、そのうちに体や手にごつごつと何かが
当たる、見るとそれはパイナップル、いそいでポケットに詰め込んで、もう偵察どころでは無い」
ところがNおじさんにも運の尽きがやってきて
「敵さん、これでもかとこっちに砲弾を撃ち込んでくる、こっちは逃げるだけで、そのうち近くで砲弾が破裂した、すると
立っていたのに足の力が抜けて、前のめりにグズグズと倒れ込んでしまった、おかしいな?と思って違和感のある足を
触ってから手を見たら血がべったりさ。 やられた!と思ったが痛くはなかったなあ、衛生兵がやってきて見てくれた
『N、貴様は運が良いぞ、破片は右腿から左腿まで貫通しておる、足の中で止まれば足は腐って切断、もう少し下に当たれば
皿がメチャクチャになって、直に死んだろだろう、運の良い奴だ』と言われた」
「運が良かろうが歩けんのだから、どんなものなのか・・・それからは毎日寄ってくるハエをおうのが仕事だった、
冗談じゃ無いぞ、これがたいへんだ、あっちのハエは繁殖力が強くて傷口に卵を産むとすぐに孵化して蛆になる
その蛆が傷口からどんどん奥へ入っていくんだ、その痛いこと、おれは大丈夫だったが、かかとの中に蛆が入り込んだ
奴は泣き叫んでいたよ」
だんだん日本軍の戦場は悲惨な状況に落ち込んでいく、敵も迫ってくる
「ある日、部隊が転進するという事になった、歩けないおれはどうするのかと思っていたら兵隊がけが人に何かを配っている
俺の両手にも一つずつ握らせた、見たら手榴弾2ヶ、敵が来たら一つ敵に投げて残りで自決しろと言うことだった
捕虜にはなるなと言うことだ。 部隊は撤退していった、おれたちけが人は取り残されて、おれは木にもたれて座っていた
時々手榴弾が破裂する音が聞こえてくる、重傷者が自爆したんだろう・・・・・おれはなんだか心細くなってきて
(これでおれも死ぬのか)と思ったら情けない気持ちでいっぱいになった、だがまだ死ぬ気にはならないでじっとしていた
それから、どれくらいたったか知らないが誰かが『Nはどこおるか?』と大声でおれを呼んでいる、『ここだ』と返事を
したら馬を引いた兵隊が二人来て、オレを馬に乗せた。 傷口が馬の胴に擦れてとびあがるほど痛いので『痛い痛い』
と叫んだら『無駄口は言うな!』と怒なり飛ばされたので我慢して、いったいどういうことだと聞いたら、兵隊は
『おまえは果報者だ、中隊長殿が[Nはどこか?]と聞いたので『Nは傷病兵につき、置いてきました』と言ったら
[それはいかん、ただちに戻って連れてこい]という命令だ』、それで合点がいった、中隊長殿はおれと同郷で何かと
気をかけてもらい可愛がってもらった、だから中隊長には足を向けて寝ることができないんだ」
こうして命拾いしたNおじさん、しかし終戦と共に部隊丸ごとビルマで武装解除されてイギリス軍の収容所に入った
終戦と共に各地で日本軍は武装解除されたけれど、もっとも悲惨だったのはソ連に降伏した部隊で50万人以上が
捕虜として酷寒のシベリヤへ送られて強制労働をさせられ、長い人で5年以上も抑留、5万人以上疲労凍死させられた
だがNおじさんが収容された、イギリス軍はさすがに紳士のお国柄で直接は日本人を管理せず、収容所内に
日本軍の組織をそのまま維持させ、日本人に日本人を管理させる軍隊システムを継続させた、こうすればイギリスは
日本軍のトップ一人だけ管理すれば良いので効率的である、こうして英日互いに楽な収容所生活であったようだ
Nおじさんの話しも、収容所の話になるとまるで落語だ、もともと楽天的なおじさんだったから、あまりインパール作戦の
話しを悲惨には語らない、だがNHK番組では戦死した兵隊3万人以上に対して飢え死に、病死した兵隊は4万人以上
だったという、マラリア、アメーバー赤痢、餓死が多かったという、参加兵の半分が死に、退却路は死んだ兵隊の遺体
が散乱して白骨街道と米英軍は名付けたという。
補給無視の精神論だけの牟田口司令官の作戦があたら10万の若い命を無駄死にさせたという結果になった
牟田口は終戦後も生き延び、戦犯としても軽い刑ですまされ77歳の豊かな生活で天寿全うした。
Nおじさんも牟田口と同じような年齢で他界した、故郷に帰ってきてからは戦争での身体障害者と認定され、毎年1回
フリーパスのJR旅行に夫婦で行くのを楽しみとしていた。
今日は本家の親父さんの葬儀があって行ってきた、父とは従兄弟で86歳だった
この本家の親父さんは10人兄弟で、うち2人が子供のうちに亡くなり男4女4が成人した
そして今回、親父さんが亡くなり、男4全員亡くなった、ところが女4は全員生きている
女の命強さがよくわかる。
さてこの親父さんの父親は、私の爺さんと兄弟と言うことになるが、この兄弟もまた10人
近く居るのだ、だから葬儀も一族だけで40人近く集まった。
私の父達はこの本家の親父さんと「いとこ世代」だいたいが80歳を超えていて、生存歳年長は
94歳、次いで私の父が93歳だ、まだ6~7人、いとこ世代が残っている
今度本家を継ぐ長男は、私と「またいとこ世代」ということになり年代では40~60代が多い
いまやここが今回の葬儀を仕切ったわけだ。
このまたいとこ、これまた数十人いるわけだ、顔と名前は知っているが地元に居ても日常的な
つきあいがほとんど無い人が多い。
おときの席で隣に座ったYくんもそんな一人で、私より10歳くらい若いのかな?
けっこう地元紙を賑わす名物男だというのは知っていたが、内容は知らなかった
私の父の生い立ちを聞いてきたので、あれこれ話すうちに戦争の話になり、お互い戦争マニア
(アジア太平洋戦争)であることがわかり意気投合、急に盛り上がった
そこから話しは歴史、この本家の家の先祖はどんな人?という疑問をYくんが言い始め、実は
私は、その話を祖父が書き残していて覚えていたから
「ああ、それなら知ってる、武蔵国比企郡**村の生まれで『**の徳右衛門仲政』というのが先祖」
「ええ~~!出身は関東出身!どうしてこっちに来たんですか?」
「古河公方、関東管領の家来で・・多分足軽じゃない?、川越夜戦で北条氏康に負けて上杉謙信(長尾景虎)
を頼って逃げてきたときに一緒に来て帰農したらしい」
すると別のまたいとこが「北前船であちこちと商売していたと聞いたことがある」と言ったので
「それは、こっちに逃げて来たずっと後で、秀吉の重臣堀久太郎が越州を治めたときに、先祖は塩問屋の
免許をもらって商売を始めたと言うことだよ」
Y氏これを聞いて大喜び、本家の新世帯主に「この話知ってた?先祖は武士で塩問屋をやっていて・・
世が世なら大金持ちだったかも・・・・知ってた?」
本家氏つれなく「しらん・・」それでおわり、興味があるかないかで大違い、猫に小判だ
このY氏、なぜか縄文時代マニア、縄文人の日本海航海を実証するために縄文人が乗ったと言う丸木舟を作り
700kmの航海を実体験して成功したという強者(つわもの)
「なぜ?」と動機を聞いたら、自分の家の田畑に家を建てようと掘り返したら縄文土器などが次々と発掘された
それから興味を持ったらしく、今は縄文人見習いとして日々研究に没頭している男なのだ
私が持っている「先祖のものと伝承がある兜と、本家の伝承を書いた書きつけをもって今度彼の工房を訪ねる
約束をした。 これも仏様のお導きだと感謝している
我が父とYくんの父とは従兄弟同士だが犬猿の仲だった、だがその子供同士はこうして意気投合、時代なのかね?