悪趣味な子だった。小学生の時たまたま寺の墓場で遊んでいたら、ある墓の暗闇が見えたのだ、それが死に対する恐怖の始まりだった、それなのにその頃小学校の図書館でむさぼり読んだのは、「雨月物語」「太平記」などおどろおどろした本が多かった、オカルト映画にはまる人と同じ心理だったのだろう。
その反面、同じ頃に読んだのは中学生向きに書かれた「太閤記」だった、出世の頂点に立ったところで終わるので気持ちの良いサクセスストーリーだった。
どこが良いかというと、信長の元で城持ち大名になって尾張の田舎で百姓をしている母を迎えに行くシーンだ、(どこのお殿様が来たのかと母や妹が土下座している前に立って声をかける、顔を上げた母が秀吉を見て驚く)ここは思わず涙が出るほど感動して、何度もこの本を読んだものだった。
中学生の時は図書館のお姉さんに憧れて、毎日のように通った、
この頃は冒険ミステリーやノンフィクションに興味をもって「幻のレムリア大陸」だとか「バミューダトライアングル」、太平洋戦争の「零戦」「加藤隼戦闘隊」「撃墜王坂井三郎」「戦艦大和」など戦記英雄伝に胸を躍らせていた。
同級生に才女が居て、全国の綴り方コンクールで1位だか3位だかになった女子と入選した女子が居てすごい刺激を受けた、この頃から自分も書いてみたいと思うようになったようだ。
終戦間もない頃、親父が裸一貫で興した家だったので、小学生低学年は家の中にあるものと言えばラジオと親父の手作りの蓄音機くらいのもの、神棚も仏壇も無くミカンの木箱に両親の戒名を貼り付けてあるだけ、神も仏も信じない親父だった。
当然、本を買ってもらえるような余裕ある家庭では無く、しかし幸いな事にもう一人の爺さん(父には父が2人いるので)は「屑いお払い=今は廃品回収業という」をやっていたので、そこに行くと驚くほどの量の本が無造作に投げ捨てられていた、ただし小学生向きの本などほとんど無かった、そんな中に裸体ばかり描いてある本が何冊かあった、ませガキはそれが欲しくて爺さんに「くれ!」と言ったら「それは俺が大事にしている本だからやるわけにはいかん、ほかのを持って行け」と言われた、その本は西洋のルネッサンスの立派な宗教画や美術全集だったのだ、今言う「エロ本」とは違う、爺さんの名誉のためにもあえて言う。
小学校一年生の時初恋、近所の同級生で学校が終わると、その子の家に遊びに行った、両親は県職の転勤だったから、そこそこの生活レベルだった、ゆえに目がパッチリまつげが長く、ふっくらあかね色のほっぺと唇の彼女は本を買ってもらっていた、彼女に「貸して」って頼んで「いいよ」と言った「魔法のじゅうたん」は55年以上たつ今でも鮮明に覚えている、多分私が初めて出会った本だったと思う。
昭和20年3月10日 東京
調布飛行場から東の方向、東京の空が真っ赤に染まっている
「今日の空襲は、いつもとぜんぜん規模が違う」
仲間の通信兵が言った
「石川、どうも浅草や城東区一帯がやられているようだ」
「悪運の強い親父だから、爆弾くらいで死にゃあしない」
とはいうものの、母を思うと多少は胸騒ぎを覚えるのだった。
この夜、緻密に計算された東京空爆作戦はアメリカ側から見れば、してやったりである、日本軍の探知機や情報網を攪乱させて、実に鮮やかに東京に至った、空襲警報は爆撃が始まって五分以上も後に、鳴り出す始末だった。
それでも、帝都周辺の高射砲陣地は大隊長の命令一下、久我山をはじめ各中隊が連携し一斉に砲撃を開始した。
米軍B-29の大編隊はル.メイ司令官の無謀な命令で高度2000mという低高度からの焼夷弾爆撃は(アメリカ軍にとって)予想以上の大戦果を上げた、反面、日本軍の高射砲と迎撃戦闘機の攻撃で海上不時着も含め、およそ十五機ほどの未帰還のBー29があったという、戦争とはいえ、はるか世界の果てまでおくられて、大虐殺の片棒を担がされた上に戦死してしまった二百名近いアメリカ人の若い兵士もまた哀れではある。
ただごとではない空襲の様子に、中隊では爆撃対象の地域から入営している兵隊にそれぞれの家に向かうよう二十四時間の休暇を出した。
「石川一等兵はただいまより休暇に入ります」
三月十日午後四時、タケルは調布の兵舎を離れ京王線で新宿まで行き、そこからは省電に乗り換えて上野に向かった、この時両親への土産のつもりで軍靴の中や鉄兜に米を入れて行った、この時点ではさほどの危機感を感じてはいなかったのだ。
混乱する電車は容易に進まなかったが五時頃に、ようやく上野駅までたどり着いた、驚いたことに上野から遠く筑波山が見えた、今まではビルの林で決して見えない山なのだが、上野からは一面の焼け野原でビルの焼け残りが点在するだけで筑波山まで見渡せたのだろう。
「こりゃあひどい!」
と言ったのはタケルではない、隣に降り立った兵隊である、タケルより幾つか年上のようである、階級は上等兵。
「さて、一体どっちに向かえばよいのか?」
兵隊は途方に暮れている、(田舎の人間なのか?)と思った
「上等兵殿はどちらまで行かれるのでありますか?」
「城東区の砂町へ行きたいのだが、なにしろ広島、三島と勤務して三年近く戻っていないので、この状態では全く方向がわからず困っているのだ」
「わたしは亀戸でありますから案内致します」
「おお、あんたは亀戸か、それは助かる、同郷でもあるし、もう兵隊は忘れて普通通りに話していこうではないか」
「そうでありますか」
「だから、もうそれはやめて・・・」
「わかりました、失礼致します」
二人は上野駅から市電の通りを田原町に向けて歩き出した、そして浅草が近づいてくると、そこはビルだけが残り、あとは何もかも焼けてしまった絶望の町になっていた、そして白煙のくすぶる町の跡を避けて、まだこれだけいたのかと思う程、手荷物一つない人々が今夜のねぐらを探しているのか、電車道を歩いている。
歩いているうちに、タケルの気持ちがだんだん重くなってきて口数が減ってきた、一緒に歩いている兵隊も同じように黙り込んだ。
ここに来るまでにもすでに多くの遺体を見てきた、戦争には参加していたものの、これほどの惨状に出くわしたのは初めてである、雷門の前には浅草の電車駅があって仲見世が浅草寺の境内に続いていた、しかし今は、そんな風景が一変して一面がれきの山になっている、なにもかも黒く焼けただれて、ぺしゃんこに潰れまだ煙をくすぶらせて延々と続いている、雷門2丁目の市電浅草駅は何度もセイを訪ねてきて降りた駅だ、猛熱のせいか、それとも押しつぶされたのかひしゃげて曲がって凄い惨状だ。 密集した家並みはすべてが瓦礫の山となり手を付けられない、この下にも大勢の人々が押しつぶされたり、焼け死んだりしているかも知れない。
仲見世から境内を抜けて行けば、その先は玉枝やセイが住んでいる象潟なのだが、だが今は薄暗くなって、何処がどこなのかさっぱりわからない、連れを道案内しながら亀戸の両親の安否を探ることの方を優先しなければならない、あんな活発な玉枝の事だ、きっとセイ叔母さんたちと連れだって逃げたに違いない、今だってこうして長い列の中から突然「タケルさん!」と大きく目を見開いて駆け寄ってくるかも知れない、そう思うと、タケルの目は急にきょろきょろと落ちつきなく辺りを見回し始めた。
その様子に気付いたのか、上等兵が
「どうかしたのか?」と問いかけた
「この辺りには親戚があったものですから、ちょっと気になって」
「それじゃあ、立ち寄ってみてはどうだ」
しかし、この状況を見るに付けタケルは真実を知ることが怖かったのである
「いえ、それよりも両親が心配なので先を急ぎましょう」
と、急に早足で歩き始めた。
黒こげになって小さく縮んだ遺体を、トタン板に乗せて運ぶ人たちが二人の横を通り過ぎていった。
それから闇がせまる電車道をぐんぐん歩いて、とうとう福神橋にたどり着いた、もう途中もそうだったが、ここも一面の焼け落ちたがれきの山でやはり焼けこげた遺体が闇の中に放置されていた。
「ここが明治通りです、ここをまっすぐ南下して行けば亀戸の駅を通って砂町に出ます、わたしはこの先の香取神社の近くなのでここで失礼します」
びしっと背筋を伸ばして上等兵に敬礼した、すると相手も兵隊の顔になって
「ご苦労様、ほんとうにありがとう」と言って敬礼を返して、そこから去っていった。
聞いた話では、十日のアメリカの爆撃は砂町あたりが最初の目標地点で、特に被害が甚大だったらしいと言うことだった、あの上等兵も家の辺りに着けば愕然とするのではないかと思った。
すぐに北十間川土手の自分の家のあたりにたどり着いた、そこはまだくすぶり続けていた、もう家の形をしていない、小さな家だからすぐに人がいるかいないかはわかった、もちろん逃げ出した筈の東吉とイチの姿は見えず、とりあえずはホッとしたがまだ生死がわからぬうちは安心できない、何しろあちらこちらに空襲で亡くなった人たちの遺体が転がっていて、遺体を回収する人たちの動きも足取り重く一向に進まない状況である、もう夜になり人影も少なく、辺りの人間と言えばみんな遺体となっている人々であった。
もう今日は捜索出来る状態ではなかった、(さて今夜はどこに行けば寝ることが出来るのか)、全神経を集中させて考えた、そしてようやく思いついたのは、今も在職扱いになっている田町の岡田製作所だった。
市内電車は完全に全滅していたが若さに任せて歩いた、それでも省電(国電=山手線)はところどころ動いていた。
タケルの考えは正解だった、金杉町の辺りも焼かれてはいたが、岡田製作所は無事で更にタケルが働いていた芝浦の分工場周辺は全く無傷であった。
突然のかずの訪問に、岡田社長はたいへん喜んで歓待してくれた、夕飯をごちそうしてくれて、遠慮がちに一夜の宿を求めたタケルに
「何をいまさら水くさいことを言う!」と活を入れて事務所の二階の部屋を提供してくれたのである。
翌日はつもり積もった話しているうちに時計は午後一時近くを指したので社長に礼を言って、調布に向かったのである。
3月13日 人生で一番、長かった日
帰営した翌日、「石川一等兵に、明日午前五時より午後五時までの、十二時間の特別休暇を与えるので両親の捜索にいってこい」という心遣いの命令が出た。
翌日、早速に隊を出発して亀戸にたどり着いた、家の前まで行くと十日とはうってかわって多くの人が出歩いていた。 しかし相変わらず東吉とイチの姿はない、近所の至るところに迷子札のように「行方不明」や「無事」をやってきた関係者に知らせるべく立っていたが、石川の家の跡にはそれがなかった、それでようやく(これは、まずいことになったのでは・・・)という心細さがわき上がってきたのである。
すると
「おや!あんたは東吉さんのところの、タケルさんではないかい」
声をかけてきたのは、右隣の家の加藤さんであった
「両親には会えたのかい?」
「いえ、まだ姿が見えないのであります」
「そうなのか、わたしらも十日以後は会っていないからなあ」
と加藤さんは目を落として、ため息をついた
「何か、手がかりはないでしょうか」
タケルが、藁をも掴む気持ちで問いかけると
「そうだねえ、あの日は南の方から火の手が上がってきて、消火をしたがとても手に負えるものじゃない、次々に爆弾は落ちてくるし熱くて息苦しくて、一緒に防空壕に入ったんだが人が大勢で、東吉さん夫婦と外に出て香取神社に行ったんだが、そこもどんどん人が増えてきて、そのうちそこにも爆弾が落ちてきて燃え上がるし、風はどんどん強くなってくるでとてもいられなくなって、また逃げ出したんだが、そこで別れてしまった。
わたしらは福神橋の派出所に逃げ込んだのだが、やはり熱くて我慢できず、川にでも飛び込もうかと思って外に行ったら、もう川に飛び込んだ人がずいぶんといたしかし入った人は、流される人、沈む人ととてもみていられない、これはダメだと言うことで、炎に追われるように必死で一か八か吾嬬町の方に渡り、猛火の中を走り抜けたら急に火の手がなくなって助かったんだよ、あれは本当に不思議な感じだったね、どうゆうわけか向島の一部だけがぽっかりと、火災からの空白地帯になっていたんだよ、それから西の加藤さんの家も誰だかは行方不明なんだが、加藤さんと奥さんは福神橋の派出所の中でとても逃げられないと観念して熱さに耐えながら念仏を唱えていたら、それも奇跡的に助かったということだった、だから東吉さんたちだって、きっとどこかで生きているからあきらめずに探してみなよ」
それから、タケルは亀戸から北十間川の河岸から錦糸町方面まで探し回り、それ風の遺体を確かめながら歩いたが、どうにも埒があかなかった。
探しながら見る風景は、どこもかしこも悲惨などという言葉では言い表せない程で、それは体験した者でなければ決して語り尽くせないだろう。
北十間川に浮かぶ無惨な遺体を消防団の人たちなのだろうか、長い鳶口などで引き寄せては陸にあげて並べていく、それは人の尊厳を失った一個のずぶぬれの固まりとして、引き上げる人々も一日中同じ作業を続けるうちに無表情無感情になっていき遺体は物のように無造作に増えていくのだった。
まだこの遺体のように姿形が人であるのはましな方で、道路には炭化した遺体が点在して転がっており、それを道路脇に集めている無表情な人々もまた悲しい姿であった。
救護所の所在を聞いて、両親の名前を言って尋ね歩いたが、どこにも該当する遺体や生存者はいなかった、後日の結果でも姓名の知れた遺体より姓名の知れない遺体の方が数倍も多かったのである、だから死者の数はわかっても姓名不詳の人が圧倒的なのであった。
隅田川に流されていった遺体は、東京湾にも流れだしやがて沈んでしまう、また直撃弾を受けて四散した人は、この世に形さえ残らなかったのだ、そして防空壕共に土中に埋まった人たち、防空壕の土の中に閉じこめられたまま亡くなった人たちも永遠にその姿は消えてしまうだろう、あまりに罪深い仕業である。
錦糸町公園は遺体置き場となっていて、周辺から陸続と犠牲者が運ばれてきて積み上げられていく、そして大きな穴を掘ってそこに遺体を葬っていた。
タケルは出来る限りのことをしてみたが限界であった、疲れ果てていたが、彼にはもう一つやらなければならない事があった。
タケルは浅草に向かった、隅田川をわたると前方に松屋デパートが孤高の王者の如く見えてきた、松屋にも防空壕があった、そのそばを通った時、思わず、尻込みをした。
防空壕の口はぽっかりと空いていたが、その穴一杯に詰まっているのは、中から這い出てきた人々の末路であった、力尽きたその遺体は大きく口を開いて、右手をまっすぐに伸ばし、もう一方の手は喉元にあった、それは猛火と酸欠とに苦しむ断末魔の表情であった、その人の周辺も同様に苦しみ抜いた末に息絶えた人々の顔が、その恨みの行き場を求めているかのように見えた。
何よりも悲惨なのは、この人たちの死に様であった、もがき苦しんで折り重なるこの人たちは壕の中で蒸し焼きになったのである。
タケルの脳裏からは生涯この光景が消え去ることはなかった、人が人である尊厳など無に等しいことをこの時知った。
こんな残酷な殺人を犯した連中はグアムやサイパンで今この時間うまそうにアメリカンコーヒーをすすりながら手柄話に華を咲かせているのだろう、人間などと威張っているが、所詮人間も野獣ではないか。
焼け崩れて原型をとどめない浅草の街を迷路道を探すように歩く、遺体をのぞき込みながら一歩ずつ、また一歩と緩い歩みでセイの家らしい方向に向かっていった。
浅草区は、隣接する下谷区や川向こうの深川区と並び人口の密集地帯である、家と家の間が狭く、びっしりと詰め込んだような状態で並んでいる、アメリカ側から言えば大部分が木と紙の家屋であるから、まさに燃やし尽くすには最小のエネルギーで足りる格好の獲物だったのだ、橋を渡っていても、おびただしい遺体が浮かび、あるいは漂っている、それを警察や警防団などの人々が鈎に引っかけては岸に寄せてすくい上げていた。
路上には見飽きる程、一面黒こげの遺体が集められ、また転がっていて何とも言えない死臭なのか、焼けこげた人肉の臭いなのか異臭を放っている。
松屋デパートの横の電車道を隅田公園に沿って上っていきながら見渡すと、対岸は先月下旬に玉枝と最後に過ごした思い出の場所なのだ、それを思っただけでまぶたが熱くなってきた。
隅田公園もまた逃げ場としては格好な場所らしく、結果ここでも大勢の人が爆撃の犠牲者となって、今日は数え切れない死者の遺体置き場と化している。
言問橋詰めから更に電車通りを歩き、焼けこげた電車の脇を通って、今は消えた市街地を吉野町方向に歩いて行く、焼け崩れた街を吉野町の乗り場で左に折れると、焼け落ちた富士小学校のあたりに着いた、そこを超えれば象潟署と浅間神社があってその近くにセイと玉枝の家がある。
激しく焼け落ちたといえ、しょっちゅう通った場所は何となくわかるもので、とうとうたどり着くことが出来たのである。
けれど、セイの家らしい焼け跡には何もなく、それでも落ち着いて見渡すと、誰もいない焼け落ちた残骸の中に幾つも棒のようなものが立っている、そこに書かれた文字に近づいて読んだ瞬間、心臓が突然激しく太鼓のように打ち頭から血がひいて青ざめ気が遠くなっていく感覚に襲われた、かろうじて持ちこたえたけれど、ひざががくがくと震えて止まらない。
体の力がどんどん奪われていく脱力感、人目がなければ叫びたかった、泣けるものなら泣きたかった。
板は何枚も立っていて、その一つには「植村セイ行方不明」その隣の板には「中森玉枝行方知れず 父」と書かれていた。
(死んでなんかいない、絶対生きている)そう思う反面、今日一日中見てきたむごい死体の数々が浮かんできた、(あの黒こげのむごたらしい遺体がセイや玉枝だったら)、考えただけで頭が破裂しそうになる、悔しさ、怒り、そして絶望的な気持ちになる。
心が強くなったり、弱く崩れそうになったりの繰り返しで、さすがの強気のタケルも倒れそうなほど疲労感にさいなまれているのだった。
四人の身内を訪ねてきて、ただの一人も会えないとは・・・いくら大勢の人が亡くなったと言っても生きている人の方が数十倍も多いのだ、そんなバカなことがあって良いものだろうか? おれは運の悪い人間なのだろうか? 悪夢を見ているようだ
みんな物陰に隠れて意地悪をしているんじゃないか? そんな考えが真実のように思えてくる、気が遠くなってふわふわと体が浮いていく感じになった。
耳の奥がじんじんと鳴り始めて、「キーン」という金属音が頭の中を駆けめぐっている、急に吐き気をもよおして、たまらず、がれきの端に倒れ込んで一気にもどした。
それが原因なのかどうなのか、まぶたから涙がにじみ出てきて止まらない、血の涙が出てきたような錯覚に襲われて思わず袖で頬の辺りをぬぐったが、それはやはり当たり前の涙だった。
タケルは放心状態になって立ち上がれない、すっかり足が萎えてしまって立とうとするとふるえが来る。
「おい!セイの甥御だろう!」 突然背後からしゃがれた声が聞こえてきた、男とも女ともつかぬその声に驚いて振り向くと、それは東吉が言っていた(千束のばばあ)だった。 セイがこの婆さんの仲介で結婚したことはタケルも承知していたし、その後セイの家で一度だけ会ったことがあったのだ。
「セイを探しに来たか」
と千束の婆さんが言った
「見つからない」
力無く言った
「アメリカの奴ら浅草から焼きはじめやがった、吾妻橋から浅草寺一帯が火の海になって富士小学校に逃げた人は、みんな死んだ、千人も二千人も死んだ、プールの中だけで千人も死んだらしい、むごいことだ」
「・・・」
「寝首をかくという言葉があるが、あいつらのやったことはまさにその言葉の通りだ、みんな寝静まって戦争を忘れられる唯一の時間にやって来て爆弾を落として人を焼くなど人間がやる事じゃない、みんな地獄に堕ちれば良いんだ」
セイの縁談をまとめた、いわば仲人である千束の明神婆さんは激しい怒りをぶちまけた。
「セイはどこへ行ったのだろか?、学校が近いだけに心配だが、あの子が死ぬだろうか?、おれはそうは思わない、どこかで生きてるだろう・・・セイのことだ」、
こんな老人が生きているのに若い玉枝やセイが死ぬはずはないと思いたかった。
思いついたように婆さんが言った
「(浅草)公園は見てきたか? 死んだ人は皆そこに集められていると言うことだ、本願寺は焼け落ちなかった、もしかしたらそこに元気でおるかもしれないぞ行ってみろ」
「わかりました、行ってみます」
腰抜けのようになっていたタケルは急に元気が戻ってぴょんと立ち上がると、一目散に浅草寺に向かって歩き出した。
浅草寺もまた空襲で焼き尽くされていた、歴史的文化財もことごとく焼け落ちていた、しかし浅草神社は無事であった。
公園内にはどこよりも多くの遺体が運び込まれていた、積み上げられた遺体は人と言うより固形物を積み上げてあるかのようだった。
おびただしい遺体の数に圧倒されて、仮にここに積み上げられていたとしてもわからないと思った。
やはり救護所でもセイと玉枝の名前を発見することは出来なかった、もしかしたら二人は一緒に避難して一緒に災難に遭ったのではないだろうか、思うことすべてが悲観的であった。
あきらめて境内を去ろうとしたとき賽銭箱に何かが貼ってある、改めて見るとそこには「御本尊無事」と書かれていた。
その瞬間、タケルの胸の中に何とも言えぬ悲しみと同時にやるせない怒りがこみあげてきた、その日以来タケルは「神も仏も信じるものか」という頑なな心を持つようになった。
「昭和男一代記/タケル」
昨日はいきなり出鼻をくじかれた
春に向けての新企画プランのホームページアップ、ブログ人へデーターの閲覧、どちらもまったくストップして繋がったのは夜だった
最先端を行くネット通信のトップさえ混乱させてしまう人々は昼夜問わずパソコンの前に張り付いてキーボードをたたき続けているのだろう、1970年前後に薄暗い下宿の2階で安保反対のアジビラをガリガリと書いていた国立大の学生とダブル
ビルゲイツが世界一、孫正義が日本一の資産家と発表された、いかにネットが社会を席巻しているか、世界の主要産業になったかを表している
ネットは生産物が画面の中にだけ存在する産業、製造業とは全く異なる、だが今や全ての産業(製造、金融、経済、軍事、遊びなど)を制圧している、小さな商店さえパソコン無しではやっていけなくなっている、セキュリティに無関心な女子中学生もスマホを手放せない
夢開く時代に見えるか? 最後は華々し人間社会の崩壊に続く確率の方が高い気がする
社会は確実に土いじりよりも、神の世界へ入り込む努力をしているように見える、ネットはあらゆる方向に向かって無限に拡大拡散を始めた、総合的に統監出来る人間は存在しない、専門分野がそれぞれに走り出し制御不能になっている、危険なのは原発だけでは無いということだ、とんでもない世界が出現しようとしている。
「ジャコバ=デンマークカクタス(雪うさぎ)」最初は10cm程の小さな鉢植えだったのが2度にわたって大きな鉢に植え替えて今年で5年目、毎年1月末頃には見頃になる、最初の写真は一昨年の1月末のもの、ところが今年は1月末どころか2月に入ってようやく芽が出てきた程度で誠に遅い、もう咲かないのかと思うほどだったが、ようやく2月下旬に花が開きだした、下の写真は今年の3月3日、今年は本来の白っぽいうすピンクに戻ったが花数が少なく、例年の4分の1程度しか咲かない、一昨年の花は赤が強く別種のようだった。
今年は育て方を間違えたのだろうか?、それともこの10年で最も積雪量が少なかった気候の影響だろうか、色は本来の可憐で上品な薄ピンクに戻ってくれて嬉しいが、そろそろ根が弱ったのだろうかちょっと心配だ、今年は丁寧に面倒を見ていこうと思っている。