神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

明治維新の整理(19)

2018年01月31日 21時08分49秒 | 明治維新の整理

越後戦線では長岡城がとったりとられたりの攻防が繰り広げられていた

しかし多勢に無勢、長岡城は再び官軍の手に落ちた、そして長岡藩の家老、河井継之助は

重傷を負い、家来に運ばれて越後と会津を結ぶ難所六十里越えを越えて会津に向かって

敗走していった。 しかし只見の村において河井はついに力尽きて亡くなってしまった。

この男も生きながらえば、新しい日本の一翼を担う力量があっただけに惜しい事であった

こうして日本国の人材が志し半ばで倒れていく例はいとま無い。

吉田松蔭、高杉晋作、久坂玄瑞、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、・・・・

だがまだ戦いは続いていた

 

今は只見線と平行して走る国道252号線のルートとなっている六十里越、私も河井と

逆ルートで会津から長岡に行った事がある。 只見川に沿った谷間の道は曲がりくねって

途中、只見ダム、田子倉ダムを経て高度をどんどん上げていく、そして要塞のようなスノーセットが

ひときは高いところに見えてくる、ここまで登ってきてはじめて「どえらいところに来てしまった」という

後悔の念が沸いてくる、だが本当の六十里越えはトンネルの更に上にあるのだから、敗走する

長岡藩士の心中やいかにと思うのであった、また途中の寂しい只見の村で僅かな広がりを見せる

田園、そこに河井継之助終焉の地の文字があった。

しかし小藩ながら官軍の攻撃を4ヶ月も足止めした長岡藩の奮戦は後世に語り継がれている。

 

会津の地は、大軍に攻められると不利な場所だ、なぜなら会津盆地から放射状にいくつもの街道が

広がっている、すなわち完全に守るためには兵を多くの地区に分散しなければならない

仮に兵が4000人いたとして城を空にしても八カ所を守備すれば一カ所あたり500人しか割り当て

出来ない、そこに敵が1000人、2000人と押し寄せてくれば不利は明らかだ

しかも一カ所が破られれば、そこに敵が殺到するから、全ての戦線から城に退却することになる

さもなければ挟み撃ちにあって全滅するからだ。

 

会津を守る重要な地がある、会津若松の南東およそ50km白河口、ここに白河城がある

僅かな官軍が占拠したが会津軍は取り返して、ここに反戦運動をして藩主を困らせた頑固な筆頭家老

西郷頼母が大将となって仙台兵などと守備していた、その数は2000前後だろうか、それがなぜか

浮き足立ち、わずか数百という官軍に追い立てられて、白河城を捨てて会津に敗走してしまった。

会津軍対官軍の緒戦にしては、あまりに不甲斐ない会津軍であった、官軍はここを占領したことで

攻め方のアイテムがいくつも増えたことになる、一方会津軍は守る場所の選択肢が増えてますます不利になった

 

太平洋沿岸、茨城県と福島県の境に北茨城市がある、そこに平潟港という港がある、昔は足の踏み場もないほど

アンコウが獲れた、私も若い頃、真冬にこの町の民宿に泊まってアンコウ料理を満喫したことがある

この平潟に官軍が上陸した、そして磐城平藩をを攻めて降伏させ、三春に進軍すると三春藩は戦わずに官軍に

恭順した、この裏切りで会津藩はますます不利になった、そしてその勢いで主力軍が不在の二本松城を攻めた

老人と女と少年しかいないという二本松城は瞬く間に落城、二本松少年隊の悲劇が会津の白虎隊の悲劇と同じく

今に伝わっている。

ここで官軍は会津か仙台かどちらを先に攻めるか軍議を開いた、結局最初からの目標であった会津を攻めることに

決定した。

会津若松城は猪苗代湖の西、広々とした会津盆地の真ん中にのっぺりと建っている、城の周りは堀が巡らされ

守りは固い。 堀の外側には家臣達の屋敷が四方八方に広がっている

敵がここまで来たときは籠城戦しかないので、会津軍は四方へ兵を出して要所で敵を待ち受けていた

会津は盆地なので、どちらから来ても峠を越えることになる、だから峠の上で守れば有利に展開できる

 

会津藩では国の危機と言うことで15歳から60歳まで藩士を年齢別に編成して、それぞれ白虎隊や朱雀隊

などと名付けた。

そして会津の武家の妻や娘も勇敢にも娘子軍を編成して、敵に気取られぬよう男装をして長刀(なぎなた)を得物に

戦場に出て戦ったのである。

こんな守備体制をひいていたが官軍の攻撃は性急で、しかも会津軍の弱いところを攻めてきたため、守備体制が

整わぬうちに防御線を破られてしまった、そのために橋を落として官軍の進行を遅らせることも間に合わず

みな城に向かって逃げ出した、城下に住む武家の家族にも城内に入るようにと伝えられた

だがそれ以上に官軍の足は速かった、飯森山に陣取っていた白虎隊などは到底間に合わず、そこで待機した

城下も混乱を極めていた、もはや城内に入るには間に合わぬと知った女子供だけの家族(男達は戦場にいる)

は、死後に裾が乱れてはならぬと自ら足を縛り、こどもを短刀で突いて、女達同志で相手の胸や喉を突き合って

自害した。 家老西郷頼母の家族は一家6人だったか互いに突き合って自害したが、有名な話しが残っている

西郷家に官軍の武士が入ると凄惨な状況に思わず目を背けた、が、若い娘が一人死にきれずに、苦しい息の下で

目も見えなくなったのか「そこのお方は敵ですか味方ですか?」と問うたそうだ。

その官軍の兵士は情けある男だった、「安心なさい、味方です」と答えた

すると若い娘は「ああ良かった、どうかお情けを、私を刺して早く楽にしてください」と言ったそうだ

武士は胸に迫るものがあったけれど「わかった」と言って、娘を抱き起こしとどめを刺してやったという。

こんな悲惨な家族は会津城下の武家屋敷のあちらこちらであったと言うことだった。

お城の攻防戦が始まる前から、こうした非戦闘員の犠牲者がたくさん出た、これだけで会津戦争がいかに異常な

戦争であったかわかる、薩長は何が何でも会津を攻め落として松平容保の首を取らなければ維新は終わらないと

考えている、会津藩士にしてみれば、そのようなことをさせるわけにはいかない

他の城の攻防では決してあり得ないことが、絶望した会津藩内では行われたのだった、これは会津魂の教育が

女性にまで浸透していたからだろう、先の大戦での日本軍に「生きて虜囚の辱めを受けるな」という戦陣訓があった

そのことによって玉砕という集団自殺が絶望の島で相次いで行われ、未来ある若者を100万もむざむざ意味なく

殺してしまった、またサイパン島や沖縄では女性達の集団自決もあったのだ、会津でもそれに先駆けること

およそ80年前集団自決は行われていたのだ。

星亮一さんお著書を読むと、会津戦争による会津人の悲惨な末路がこれでもかと書かれている

西郷家に入った善良な官軍兵士ばかりではない、盗人、強姦魔のたぐいの兵がごまんといた

 

戦国時代の戦争と戊辰戦争の違いは何だろう、戦国時代の戦争は略奪戦争だ、敵の国を奪い、手柄をたてた

部下には領地を分け与える、領地には百姓がついている、百姓はモノそのものだ、いや働き蟻か

米を作って取り上げられ、飢え死にしない程度に雑穀や野菜を残してもらうくらいだ。

雑兵は敵の領民や女子供を捕らえてそれを市場で売る、この人達の家族縁者が金を払って引き取りに来る

なんともあきれた話しだが、こんな余録がなければ足軽達は命がけで戦場なんかに来ない。

もし殺されてしまえば防具から刀に衣服、みんなはぎ取られてしまう、それもまた戦利品として売却して

雑兵の稼ぎになる、戦場は一種の経済活動の場なのだ、これが戦国時代の戦。

だが明治に入っておこった戊辰戦争は戦国時代とは違う、敵の土地を奪う戦争でもなく、奴隷を得る戦争でもない

上部の連中には大名政治と封建時代を終わらせて、新政府を作るという大義名分と目的がある

しかし雑兵にはそんな大志はない、そして領地を得るわけでもない、20歳前後の若い身空で

遙々九州や山口県からやってきたのは何のためなのか、褒美と言えば略奪と強姦これしかない

これは戦国時代と何ら変わらない、だが戦国時代のように敵将の首を取っても何の足しにもならない、ひたすら

敵の男どもを殺して、敵方の商家や豪農、武家屋敷、町屋に押し入り、物品や金銭を奪い、若い娘を襲う

襲われて殺された娘や奥方の屍が屋内にも野外にも転がっていたという、敗れた国の民は悲惨である

こんな狼藉も幹部等は見て見ぬふりだ、それが雑兵の唯一の褒美だとわかっているからだ。

この無法ぶりが会津に住む人々に「薩長憎し」という感情となって100年以上経っても許す事が出来なかった

という話しは聞いたことがある、この話しは何かに似ていると感じる人もあるかもしれない。

 

会津軍は若松城に閉じこもり、攻め寄せる官軍に発砲したり、時に打ってでたりを繰り返す

その度に死者は増えていく、城外にうち捨てられた会津兵の遺体はそのまま捨て置かれて腐乱していく

自決したり暴行された女の遺体も同様に晒されている、城外は地獄絵図だった。

「八重の桜」の八重も女だてらに鉄砲を官軍に向けて撃ちまくっていた、鉄砲師範の娘だけはある

時に会津兵が敵の隙を見て城外に突撃する、そこに長刀の男装した娘子軍も加わって切り込んだ、

これは勇ましいことではあるが、飢えた狼の中に子ウサギが飛び込んでいくようなモノで、

薩長土佐の百戦錬磨の足軽達は喜んで「殺すな殺すな、生け捕りにせよ」と言って獲物に向かって行く

こうした娘子軍の婦女子は、会津藩幹部の婦女子が多かった、故に捕らえられた挙げ句自決した者も

あったのだ、哀れと言うほかは無いが、会津武士にとって領内の婦女子を守れないふがいなさに地団駄

踏んだ者も多かったことだろう。

だが会津の武士社会ではこうした結末であったが、会津の領民は会津藩に同情しなかった、会津藩の

政治は領民にとって良い政治ではなかったということだ、また会津武士も(主に雑兵と思うが)官軍同様に

敗退の際にも領民などに乱暴狼藉を働いていたと言うから、どの軍にしても雑兵は常識など通用する

レベルでなかったことがわかる。(無理矢理数あわせに連れてこられた農民やごろつきが多かったのでは?)

 

会津軍の中には城内に入らず、外に出てゲリラ化して官軍を襲う部隊もあった、家老の佐川官兵衛率いる

部隊もその一つだった、彼らは随分と官軍を悩ませた。

「会津若松城が燃えている」飯森山の白虎隊はそう思った、15歳から19歳の少年で編成されている白虎隊

会津藩の中でもっとも年少の軍隊である

浄火が燃えている煙を見て、城が落城したと勘違いした少年達は絶望して、互いの胸を突いて自決した

そんな中、自ら咽を突いたが死にきれず蘇生した隊士、飯沼貞吉は生き残り明治、大正を生き抜き、白虎隊の

最期を語り続けた。

約1ヶ月、城は落城しなかった、しかし同盟軍は次々に降伏した、頼りの仙台藩、隣の米沢藩も降伏した

残るは薩長のターゲットとされていた会津(福島)と庄内(山形)の2藩だけとなった。

会津城は落ちなかったが天守閣にまで官軍の砲弾が命中して穴だらけになって屋根が傾いていた

城中では官軍の砲弾にすっかり慣れて、砲弾の処理が上手くなったという話しさえある、しかし援軍が無くなった

今、最期の一兵まで戦って全滅するか、降伏するかの2つしかなくなった、そして天守閣に白旗が挙がった。

 

会津藩は徳川慶喜が恭順を示したときから同じく恭順の意を官軍に伝えた、だが官軍は許さず、何が何でも

攻め滅ぼすと息巻いた、これは憎しみもあるが見せしめにしようという意図もあったのだろう

だから徹底的に破壊と略奪を行い、城下の婦女子を暴行してそれでも手が出ない会津武士に充分悔しい思いを

させたことで、薩長の腹の虫が治まったと見える、だから降伏を許したのだろう、だが最期の仕上げがある

薩摩長州のかっての下級武士の足下に、徳川親藩の松平の殿様に土下座させ、侘びを入れさせる、これほど

薩長にとって愉快痛快は無いだろう、殿様という絶対権力者に恥をかかせる、悔しい思いをさせる、それで溜飲を

下げる、それがこの戦争の目的でもあったのか。

会津藩は徹底して痛めつけられた、そして再度言うが、この時の悔しさを100年以上持ち続けていた

それでも「チェスト関ヶ原!」、関ヶ原の屈辱を薩長は250年持ち続けた、会津はまだ半分越えたところだ。

 

一方、同じように標的にされた庄内藩は全く別の扱いを受けていた

庄内藩は日本海側有数の湊町を持ち、交易も盛んであったから豪商があり商業が発達していた、そのため

軍隊も長州並みの近代装備を持っていた、近隣の東北大名では太刀打ちできないレベルの差があった

庄内藩は連戦連勝、しかし庄内藩以外の同盟軍は会津も含め全て降伏してしまった

ついに庄内藩も降伏するしか無くなった。 庄内に乗り込んできた官軍は薩摩の西郷隆盛の部下、黒田清隆で

あった、黒田は西郷の意を含んでいた、そして降伏の儀式をかたどおりすませると態度を変えて庄内藩主

酒井忠篤に「酒井殿、此度の貴下の戦ぶりまことに見事でござった、孤軍奮闘とは貴家のことをいうのだろう」

と大いに持ち上げ、「貴家の戦後処分についてはわが薩摩は寛大に臨もうと思っている、じゃとん長州の大村益次郎は

強行な処罰を求めちょる、これさえ押さえてしまえば安泰でござる」と含みを持った言い方をした。

薩摩藩邸を焼き打ちした庄内藩であるから、会津同様の重い処分を覚悟していたので意外な言葉に藩主以下

驚いたのであった。

そして会津、庄内の2藩に官軍の判決が下った

「重罪人松平容保は罪一等を減じて死罪は許す、会津藩取り上げ、奥州斗南にて新領を与える」

「罪人酒井忠篤は、無罪とし庄内藩も安堵いたす」

紆余曲折あったけれど最終的にはこのような処分になった、だが会津藩が得た、斗南は過酷な寒冷地で

作物も育たない貧しい土地だった、そこに武士が農民として開拓しなければならなかった、多くの家族が脱落し

多くの家族が酷寒の地で亡くなったのは大河ドラマ「八重の桜」に詳しい。

庄内藩は最終的にはとがめ無しですんだ、それが西郷隆盛の情に依るものであることが後日知れた

酒井公を始め、藩士皆が西郷に感謝の念を持った、「戦争は江戸で終わったのじゃ、それより北は余分なこと」

と、奥羽の戦争を嫌っていた西郷であった。

西郷に感謝した庄内藩士は藩主や家老が藩士を引き連れて山形から遠く鹿児島まで訪ねて西郷の教えを

乞うたと言うことだった、そして西郷に信服した若い藩士2名が西南戦争で西郷軍に加わって戦死している。

庄内酒田に西郷を祀った「南州神社」があると去年庄内酒田の人と飲む機会があったときにお聞きした。

 

そして庄内鶴岡市と鹿児島市が姉妹都市だとネットで見た。 事実なら山口県萩市と福島県会津若松市の

険悪な関係と正反対になる。

会津攻めの最高責任者が誰かは知らないが、西郷であったなら、あのような惨い仕打ちは無かったのではないかと

思う、誰が会津戦争の指揮をとったのか?、軍の最高司令官は公家であるが、実際の戦闘指揮は武家である

総司令官西郷隆盛のあとを長州人大村益次郎が次いだのは至極当然だと思う、会津憎しは薩摩より長州の方が

遥かに強いからだ、最初から会津戦争は復讐戦だったのだ。

こうして奥羽の戦争は終わり、残るは江戸湾から発した海軍総裁榎本武揚率いる幕府海軍の軍艦数隻

平潟港に行き、そこから仙台に、そこで幕府の敗残兵、大鳥圭介、新撰組副長、土方歳三などを積み込み

宮古湾で嵐に遭い艦隊はバラバラになり、ついに北海道函館まで行き、そこで上陸、五稜郭に立てこもり

官軍と戦闘になった、そんな中で土方歳三は壮烈な戦死を遂げる

残された写真を見るとスマップ並みのハンサムで男らしい長髪のイケメンである

榎本は官軍の黒田清隆に説得されて降伏、生き延びて新政府の大臣なども務めた。

近代日本に欠かせない世界的な視野を持った男であった、もはや日本人同士が戦う時代は終わっていた

だが、その後も職を失った士族が全国各地で蜂起して崩壊していった、それは新政府がで来た後の内紛でもあった

長州では前原一誠(長州藩)、佐賀では江藤新平(佐賀藩)、九州全土を半年にわたって戦った西南戦争では

西郷隆盛(薩摩藩)みな、明治維新の官軍の指導者で、新政府では参議(大臣)になった人たちばかりだった

西南戦争を最期に国内戦争は終わるが大村益次郎、大久保利通、伊藤博文、など新政府の指導者も次々と

暗殺によって命を落とした(伊藤は朝鮮人によって暗殺された)

そして日清戦争、日露戦争、朝鮮併合、ロシアとの局地戦、日中戦争、アジア太平洋戦争へと日本は対外戦争に

はまっていく。                                おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


寒い! 雪降り! 凍結!いつまで?

2018年01月31日 15時14分45秒 | 季節と自然/花

こりゃあ災害ですね、いったいいつまで凍える寒さが続くのか

車がすっぽり埋まる雪がやむのか・・・・で、昨日の朝も雪降りでうんざり

車は駐車場から出られず、歩くには道が悪すぎる、寒い朝の雪道を40分歩くなんて

まっぴらごめんのすけ。

この冬3度目のタクシー通勤、弟は昔、会社持ちで新幹線通勤をしていたからそれに比べたら

可愛いいもの。

久しぶりのお客さんが見えた、町から15km入った山間地に住む大規模農家の親父さん

地区の区長さんでもある

標高400mの世帯数15戸ほどの村で、ただ一軒だけ越冬居住をしている人だ

こんな時代になったから、その一軒だけでも市の除雪車が車道確保してくれる、

積雪量を聞いたら2.2mだという、過去の最高は5m50cmだとか

 

わが家は、またしても古びた水道管が破裂、この冬2度目で三カ所破れた

最初の二カ所は休業中の店の水道なので停めておけば問題ない

しかし今日は自宅の方の水道管、これを止めると生活が出来なくなる

ところが配管が複雑すぎて、しかもコンクリートの下に潜っていたり、床下だったり

配管した上にトイレを作ったりと、切り貼り好きの父の悪癖が今になって現れた

配管屋の親父に電話したら「明日行くよ」と言うから、「それで結構だよ、風呂も我慢しりゃあ良いし

トイレも一晩我慢するだけだから・・・どうせ女房が困るだけだし」と嫌みを言ったら

「わかったわかった、息子が帰ってくるから、それから行くよ」と来てくれた

この管が大元なのか末端なのか、それで工事の規模が大いに違ってくる

水を出してみた、切った配管の上から水が出れば大元、下から出てくれば末端、まさに一か八かだ

「万歳!下からだった」これで30分の工事で終わった、これが逆ならコンクリートの床を割り

土を掘り出し、トイレを破壊して、廊下から調理場まで配管し直しになる

大きな儲けだった、ホッとした時間だった。

だけど越後、北陸はたいへんなことになっている、能登の輪島と越後佐渡島で各1万戸が断水した

この冬に水も自由にならないなんてつらすぎる。

 


明治維新の整理(18)

2018年01月30日 09時17分38秒 | 明治維新の整理

官軍は北陸道、中山道、東海道3つの軍団が京を発して北上している

東海道は西郷隆盛が大将となって進んだが、心配の種だった桑名藩、尾張藩の抵抗もなく

あっさりと駿府(静岡)に達した、そこで箱根という東海道きっての難所が待っていた

ここに幕府方が防御陣地を構築して待ち構えたなら、官軍は負けないまでも手痛い損害を被っただろう

実際、幕臣の主戦派だった小栗上野介は、小田原城から箱根にかけて防御線を構築すべしと主張したが

恭順を示した慶喜によって罷免され、上州の領地に戻った。

その後、官軍に捕らえられた小栗は斬首された、この人は頑固な主戦派で、あったけれども開明的な

思想を持ち、生きていれば新しい日本の役に立てる人物だったと言われている

また、徳川家の埋蔵金伝説には必ず登場する人物でもある、彼が幕府の軍資金を運んで隠したらしい

という噂がある。

かって豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めたときにも北条方は伊豆から箱根、小田原一帯に城や砦を

構えて抵抗したのだった。

関東の僅かな佐幕藩が活動的に戦闘を行ったが、味方の裏切りが続いて退却していった、そんな中で

勝海舟の使者、山岡鉄舟と西郷隆盛が駿府で話し合い、その後難なく品川まで進軍した官軍

品川田町の薩摩藩邸で西郷と勝が膝詰め談判の末、江戸の無血開城がなった。

その時、勝は会談後、外に出ると薩摩藩士の官軍が両脇を取り囲み、憎しみに満ちた目で勝を睨んでいた

そこで勝は「西郷さんと談判が終わった、だがどう転ぶかはわからないよ、もし決裂したら、おまえさん達と

戦場でまた会うことになるよ、そんときゃあ、おまえさん達の銃剣が、オレの胸を刺すだろうよ、いいかい

これがオレの胸だよ、よおく見て覚えておきな」と啖呵を切って、悠々と通っていったという。

 

一方、中山道を進んだ官軍は途中で幕府に忠誠を誓った小藩のささやかな抵抗はあったが、者ともせず

進んだ、そして新撰組より早く、官軍は甲府城に入った、そのため負傷していた近藤勇以下の元新撰組は

野外で戦うことになり、官軍の圧倒的な攻撃に敗れて関東目指して落ちていった、しかし大将の近藤は

捕まり打ち首に処されて首が晒された、京都で多くの勤王浪士を殺戮し続け、鬼と言われた新撰組局長

近藤勇もここに生涯を閉じたのであった。

勝利した官軍は敗走する幕軍の残兵を追って、北関東へと進んで行った

 

北陸道を行く官軍は加賀の前田も抵抗せず、むしろ先導役として参加したので越中、そして越後へ進み

佐幕色強い越後でも最初の高田藩が官軍側につき先導、ついに長岡の手前までやってきた

長岡藩牧野氏は徳川家の幕臣であった、藩は傑物と評判の高い家老、河井継之助が率いている

河井の考えは中立であった、そのため官軍の幕舎へやってきて、「城下の通り抜け自由でござるが、お味方

いたしませぬ」と言った

官軍はこれから阿賀野川の深い渓谷を大軍で会津目指して進んで行くことになるので、もし会津の抵抗に

会っているとき、後から長岡兵に襲われれば袋のネズミとなってしまうので、これを恐れ、長岡藩に降伏して

会津への案内をせよと高飛車に言った。

交渉は決裂し、中立を望んだ長岡藩は仙台藩などから協力を求められていた「奥羽越列藩同盟」への参加を

決意した、これによって越後、及び福島以北の20数藩が同盟を結んで、会津藩、庄内藩の処罰撤回を官軍に

求める事になった、同盟軍の中心は東北の大藩、伊達政宗公以来の仙台藩伊達60万石。

最初は会津、庄内を許して欲しいという願いから作った同盟だったのに、あまりにも官軍の参謀達の高圧的な

振る舞い、また東北領内での婦女子への乱暴などが目に余り、官軍参謀を仙台藩が殺害したために、ついに

戦闘状態になってしまったのだった。

会津軍と仙台軍は長岡藩の応援に兵の一部を送った、官軍は苦戦の末に長岡城を占領した、ところが長岡藩は

なんと再び、長岡城を急襲して奪い返した。

奥羽では官軍に味方する久保田藩(秋田)、越後新発田藩などに対して、越後村上藩と連携した庄内藩が攻撃

庄内藩は江戸での戦闘経験もあり実戦向きだった、連戦連勝。

 

江戸では江戸城が官軍に引き渡されて、徳川慶喜は故郷の水戸に戻って恭順謹慎している

勝と西郷の約束は果たされたかに見えたが、上野の山に幕府の旧臣「彰義隊」2000前後が砦を構えて立てこもり

抵抗を示した。 総督の西郷は勝が責任を持って解散させるという約束を信じて、攻撃を踏みとどまっていた

ところが勝や山岡が説得に言っても「腰抜け! 裏切り者! 薩長の犬!」などとののしられ聞く耳をもたない

薩摩が攻撃しないことに不満をもった長州軍は大村益次郎が率いて彰義隊に攻めかかった

「しまった、始まってしもうた、こうなれば我らも攻撃せざるをえまい」後れをとった西郷の薩摩軍は、失態を晴らす

ためにあえて一番守りの固い敵陣に攻めかかった、夕方までには彰義隊は敗れてちりぢりになって水戸方面や

宇都宮方面に敗走していった。

宇都宮城や日光付近でも激しい戦闘があったが、官軍が勝って、旧幕軍や新撰組残兵らは会津目指して落ちて

行った。

官軍は長岡から会津方面、白河口、郡山方面、そして日光口からも攻め上っている 、いよいよ会津城をめぐる

戦闘が始まろうとしている

     つづく

 


勝海舟の120年前の予言

2018年01月29日 14時23分39秒 | 時代検証

「氷川清話」、明治30年頃の勝海舟語録集

明治維新を生き抜いた英傑の言葉にはリアリティがある

西郷隆盛や坂本龍馬、山岡鉄舟、人斬り岡田以蔵にも会っている

その時の談話も載っている

家茂将軍の上洛のお供で、遅れて京にやってきたが、突然のことで宿も無く

坂本龍馬がつけてくれた用心棒の岡田以蔵と夜、当てもなく歩いていたら

抜刀した3名の壮士に襲われて危うくかわしたが、その瞬間、以蔵が抜き放ち

一刀のもとに一人を真っ二つに切り倒した、驚いて2名は逃げ去った

それで勝は後日、以蔵に「人斬りは良くない、先日の様な事は決してするんじゃないぞ」と言ったら

以蔵は「先生、しかし、あのときオレが居なかったら先生の首はあの晩のうちに刎ねられていましたよ」

と言ったので、さすがの勝も返す言葉が無かった・・・・と書いてある

 

明治27年~28年に日本は日清戦争で清国に勝ったけれど、勝海舟はそれ以後の日本を戒め

清国を逆に褒めている、それは現代に通ずる事なので、面白いから書いて見ます(要約)

「シナ人はスケールが大きい、日本人は戦争で勝ったと言って得意絶頂で大騒ぎだが、シナ人は

『日本に、負けたのか』程度で他人事のようにあっけらかんとしている、それもそのはずで

外国にシナが負けようが、シナの朝廷で戦争して皇帝が何度も変わっているが、シナの市民は

『さようでございますか』くらいで気にも留めない、なぜなら市民生活は戦争に負けようが、皇帝が

変わろうが大昔から少しも変わらないからだ。 日本人は鉄砲戦争に勝って喜んでいるが、経済で

負ける方がよっぽどひどいことになる、日本人は経済戦争ではシナ人にとてもかなわない、

おれはそれが心配だ。」

「日本人とシナ人を一緒だと思っちゃいけない、日本は立派な国家だが、シナは国家じゃ無い、

あれはただの人民社会だ、だから政治なんかどうなろうと関係ない、自分さえ儲かれば良いと思っている

だから外国に領土を占領されようとも気にもしないし、欧米強国が都市に進駐すれば強い用心棒を

雇ったくらいに思って、かえって喜んでいるかもしれん。

占領された土地だって、その国がまた斜陽化して出て行く日がくるだろうから、そのとき賠償金をとれば

いいと思っている。 外国がいくらシナを自分のものと思っても、香港も上海もシンガポールもすべては

シナの実力のうちにあるから、シナ人は少しも慌てないのだ。」

「シナはさすがに大国だ、気短な日本人と違い、一種気長く大きいところがある。 日清戦争で自慢の

艦隊が全滅し、旅順など日本の手に落ちてしまったが、少しも驚かず平気だった。

日本人はそれを見て無神経な奴らだとあざ笑うけれど、その無神経さに大国民の大きさが見える

北洋艦隊の提督で日本との戦いで全滅し責任をとって自決した丁汝昌なども大国の気風をもった人物だった

話したことがあるが『我が国は何事につけても貴国(日本)より、ずいぶんと遅いけれど、そのかわり一度

始めたことは決して退歩しませんよ」と言っていた。 シナの恐るべきところはここだよ、日清戦争には勝ったけれど

日本とシナを比べてみたとき、おれは日本の将来を案じるよ」

 

この予言、どう思います?

 

 

 

 


私の台所

2018年01月28日 15時57分39秒 | 料理を作る・食べる

先日、豆腐の中華スープ「絶品!」と書いたら「レシピを」というコメントが若干2通

レシピと言われると困る、たしかに美味しかったのだった、そしてレシピを書こうと思った

なぜなら初めてつくったら美味しかったから、だがなぜか書き忘れて

だいたい私の料理はレシピが無い、材料を見てから料理をイメージするからだ

同じ材料でも、目玉焼き以外は毎回違う料理になる。

それは調味料を変えたりして作るから・・・調味料と言っても職場で作る調味料と違って

スーパーで買ったり、お歳暮で頂いた調味料だったり、本格的なものは何もありません

主立った調味料はこんなところです。

 

 

店で使う調味料とは全く異なる家庭の味ばかり、でもこんな調味料でもバターとかチーズなども加えて家庭料理としては

結構美味しいのが出来る、それと肉や魚や野菜から出るエキス、ゆで汁、煮汁、これも二次的な調味料になりますよね

ちょっと美味しいニンニクたっぷり中華スープ、一過性の料理でレシピなんて書いていなかったので、思い出しながら

載せてみようかなと思います。

 


明治維新の整理(17)

2018年01月27日 13時57分44秒 | 明治維新の整理

幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)、大男である.

体格、年齢、今で言えば、ダルビッシュ有だと思えばいい

幕臣のダルビッシュ有が、敵方の本陣へ「総大将西郷隆盛閣下にお目通り願いたい!、拙者は

朝敵の徳川家臣山岡鉄太郎である!」と大声を張り上げると、西郷の家来、薩摩武士が

「賊め、殺されに来たか」と色めき立つ、当時としては大男、しかも北辰一刀流の免許皆伝

肝っ玉も据わっている。 ぎょろりと見回せば、さすがの薩摩武士もたじろぎ

その時、ダルビッシュの横にいたサムライが「儂じゃ儂じゃ、西郷どんに取り次いでたもせ」

「なに!、おっ、おぬしはますきゅうではないか、生きておったのか・・・」

以下、薩摩弁、江戸弁ともに標準語に訳す

「総督、たいへんでごわす、ますきゅうが幕臣の山岡とやらをつれてきもした、総督に面会

したいといいとりますが」

「なに、ますきゅうだと、あやつは死んでおらんかったのか、生きておったのか、よし会おう」

西郷が出て行くと、そこに益満休之助、にこにこと笑っていた

「生きておりもした、もうしわけなか」「何を言うか、さすがはますきゅう、よくぞ帰った」

「あっもし・・・」大男が西郷に声をかけた、ダルビッシュ並みの山岡と西郷初対面

「おはんが山岡さんか、なるほど山の如く大きな人じゃ、それで幕臣がなんのようかな」

「まずはこれを、ご覧くだされ」手紙を一通

「おっ、これは勝先生の・・・・・」手紙を食い入るように見入って、一息

「山岡どの、ますきゅう、まずは中で茶など」

誰も中に入れず、3人で密室に入った

 

「勝先生の文では山岡殿の紹介しか書いてありません、子細は本人から聞くようにとのこと、

山岡殿は勝先生の信頼が篤いようですな、ところで、ますきゅう何故生きて居る?」

「西郷どん、そりゃあなか!ははははは!、こうして生きて居るのも、勝先生と山岡くんのおかげじゃ

実は山岡くんとは古くからの友でござるよ、彼は幕臣なれど勤王の志士でござって、早くから、かの

清河八郎くんと共に、我らも攘夷運動に奔走しておった、ところが幕府の中で勤王運動をやるなど無謀なことで、

それが元で清川くんは殺害されてしまうし、山岡くんは蟄居じゃった」

「なるほど、珍奇な御仁ではあるようだ」と西郷は納得する、益満もうなずいて「わしが庄内藩に捕らえられて、

(これでこの世とも、おさらばじゃ)と覚悟を決めたのだが、存外、庄内武士というのが話がわかる連中での、

『武士は相身互いでござる、まして薩摩武士とあれば、我らが処断すべきものではない、とりあえず幕府に

お引き渡しいたす』と言ってすぐに首を切ると言うことはされなんだ、しかも丁寧に扱ってくれての、わしも

ちょっとホロリとしたのじゃった」一息つき

「そして、たまたまこの山岡くんが儂が捕らえられたことを聞きつけて、牢を訪れ『陸軍総裁、勝阿波守の

使者である速やかに罪人、益満某の身柄、お引き渡し願おう』と大声で言うものだから牢番も役人も驚いて

すぐに身柄を引き渡した

外に出てから『陸軍総裁とは大ボラ吹いたものよのう山岡』と言ったら、『何を言うか、それは本当の話じゃ、

今日からおぬしは勝先生宅で居候となるんじゃ』というではないか、これには驚いたが、それは本当であった

勝先生とお会いして、先生の見事な姿に感銘した、また勝先生が西郷どんをひどく信頼していて褒めよるから、

それにも驚いたのじゃ」

「そうして居候をしているうちに、今度の事じゃった、勝先生が『益満殿、いよいよお国のために役に立つときが

きたようだ、おまえさんに案内してもらい、この山岡さんを西郷さんに引き合わせて頂きたい』そう言われて、

訪ねて来たのです」

益満休之助の話しを聞き終えて、西郷が口を開いた

「なるほど事情はよおくわかりもした、では山岡さん、あんたの話しをききもそ、じゃっとん慶喜の助命だけは

勝先生の願いであっても、これだけは聞き入れることは出来もさん、それだけは言っておきますよ」

すると山岡は落胆もせず

「勝先生は、慶喜公一個の助命など考えてもおられません、勝先生は西郷先生に日本国の助命をお願いせよ

と申された」

「日本国の助命?」

「さよう、日本国の助命でござる、そしてそれを出来るのは、西郷先生唯一人だと申された」

「ふ~m・・・・・・」

「江戸を戦場にすることは、即ち日本国の滅亡である、なぜなら落ちぶれたと言え幕臣数万は健在である、

官軍が攻め込めばたとえ慶喜公が停めようとしても、彰義隊を中心に江戸に火をかけ、官軍を大混乱に

陥れようとする輩は必ずいるはずまた大江戸100万の市民も未だ、慶喜公びいきでござる、それに、いろは48組の

江戸火消しの団結は固く、頭の新門辰五郎以下みな勝先生をお慕いしております、勝先生も官軍乱入の折には

、『日本国の滅亡なり!新門、火消しに放火を頼むは筋ではないがその時は是非たのむ、江戸も、徳川も、薩長も

あるものか皆灰燼と帰す、きれいさっぱりとな、日本国滅亡の門出じゃ』と新門におっしゃられたそうです。」

「さすが勝先生じゃ、じゃどん我らも、それくらいは決心してここまでやってきた、江戸が火の海になろうと恐れる

ものではごわはん」

山岡の脅しも西郷には通じそうも無かったが

「西郷先生、勝先生がそれほど浅い考えだとお思いか?」

「なに・・・・?」

「先生、よおくお考えなされよ、勝先生の願いは滅亡にあるのではございませぬよ、今や慶喜公が頼りにされているのは

高橋泥舟殿と勝先生のお二人だけでござる、勝先生は幕府陸軍の総帥を任じられております、いまや形は無いとは言え

フランス国が勝先生に『我らが幕府を支援いたします、武器でも船でもいくらでもお貸ししましょう、まだまだ幕府の力は

朝廷方にひけはとっていません、我が国と力を合わせれば、勝つことも可能です』と言ってきました、だが勝先生は

『ありがたき申し出でありますが日本国のことはいかになろうと日本人同士で処理する所存故、お気になさらず』

と断り申した」

「・・・・・・」

「西郷先生、先生だとて同じでありましょう、エゲレス国からの甘い話しを先生は蹴られたでありましょう」

「うぅ・・・・・・それをどうして知っておる!」

「勝先生が、風の便りに聞いたようでございますよ、『西郷、さすがに希代の愛国者じゃ』と申してもおりました、

西郷先生!国を思うのに幕府も朝廷もありましょうや!、われら日本人が住む国は、この国の他にござらんのでは?、

江戸が火の海になり幕軍の全てが死に絶え、江戸100万市民が流浪の民となる、勝利した官軍は慶喜公の首ひとつとって

有頂天になっても我が国の民と富の多くは失われ、兵力もまた幕軍の減った分だけ日本国としては弱まる。 かって越後の

上杉謙信公の二人の息子が越後一国をかけて国を二分して景勝公が勝ったけれど、謙信公以来の最強軍団も力を失い、

あわや信長公のたかだか一軍団にも押される始末となった、今は信長公どころかメリケン、エゲレス、フランス、オロシア

などが日本国の富を分割して分捕ろうと隙が出来るのを、舌なめずりして見ております、官軍が勝ったとて国は間違いなく

弱まる、官軍勝って国滅ぶのは火を見るより明らかでござる、ずばり申しましょう

勝先生の願いはただ一つであります、江戸城総攻撃をやめてもらいたい、そうすれば勝先生が命をかけて江戸城を

開城させます

幕臣にも抵抗させません、勝先生はそうもうしております、どうかご一考願いたい、この通りでござる」

山岡は大きな体を小さくかがめ、深々とお辞儀をした。

「よーおくわかりもした、この西郷、勝先生のおこころ頂戴いたす、江戸総攻撃は中止いたしましょう、じゃっとん

無条件というわけにはいきもはん、条件を書いてきますからしばし、お待ち願おう」

ついに勝と山岡の熱い心は西郷に響いた、西郷が示した幕府の降伏条件は慶喜公の処遇について修正が必要

であったが、それ以外は問題なく進み、勝と西郷が江戸において確認の為の会談を行い、江戸城は無血開城された

とき1868年4月の事であった、徳川慶喜は寛永寺を出て、故郷の水戸城に戻り蟄居した。     つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 


30年ぶりの寒い冬

2018年01月27日 13時00分20秒 | 季節と自然/花

この4日間、毎日氷点下が続いている

昨日一緒に飲んだ先輩、配管工事の仕事をしているのだが、この2日間で水道破裂が22件

あって、忙しくてパニック状態だと言っていた

がりがりに凍った圧雪の道路だから、移動するのもたいへん、現場が数十センチの雪の下なんてのも

多くて、本当にたいへんなのだ。

雪も多くは無いが、ダラダラと降り続け、結局今日はわが家の自宅でも水道管が破裂、普段使っていない

ところなので油断していた、早速先輩に頼んで修理だ、また雪による余計な出費、雪国は損ばかりだ

店ではペレットストーブ全開だ、正面以外はそれほど暖かくないのだが、炎が見えるだけで暖かい気がする

 


最大寒波 除雪機出動

2018年01月26日 10時23分29秒 | 季節と自然/花

いやあ寒いし冷たい 北海道のブログさんを見るとマイナス30度とかあるので、マイナス4度くらいで

へこたれてはいられないけど、こっちの雪は重たくて、ひつっこい

それでもたくましく経済活動は行われている、今朝一に120km離れた雪国の町から高速道を走って

自動ドアの点検にやってきた、「マジで!」と昨日電話をもらったとき言ったけど、やはり本場から見たら

我が町の雪など「めじゃない」んだろう、1万円ほどの稼ぎのために2時間かけて雪の中を来るとは恐れ入る。

3日間続いた暴風雪も今日で終わるらしい、我が店も自宅も、朝から除雪作業でスタート

自宅はこんな状態で小型除雪機を息子が操って始まった

 

 

店では、社員(高校時代の同級生)が自宅より大きい除雪機でパワフルにやっている

この除雪機は、同じモデルの中で最上機種、湿雪も多少固い雪片でも砕いて飛ばす優れものだ

あ~足下が寒い!!!  早く大好きな春になれ!

 

 


明治維新の整理(16)

2018年01月25日 19時14分18秒 | 明治維新の整理

官軍主力が江戸攻撃に出かけた後、御三家の動きが気になる

明治維新では特に、尾張徳川家、紀州徳川家をとりあげていない、本来徳川本家を助けるべき

分家が日本史に残る会津戦争のような抵抗戦を繰り広げなかったのはなぜなのだろう

その前に徳川家のおさらい

 

徳川家康は、戦国時代を生きただけに子だくさんだった

子供の半数以上が成人できない時代ゆえ、家系を繋いでいく意識は現代人には想像できぬほど

重要な事である、まして戦国大名ともなれば嫡子をでかしただけでも、あっぱれな手柄で

子を産めぬ女子は実家に帰される封建時代であった。

家康の長男は家康が血気盛んな青年時代の子で、今川家の人質、家臣の時に出来た子で

信康という、たいそうできが良かったらしい、後日、家康ピンチの時に「信康が生きていてくれたら」と

言ったと言うから、よほど頼りになる武将だった。

だが家康の新しい主になった織田信長の命令で殺してしまうことに。

次男は秀康という、家康はこの子がよほど気に入らなかったらしく結城家に養子に出した

豊臣秀吉に可愛がられ、越前松平家の祖となるが病気により死亡

三男秀忠が徳川家康の後を継ぎ2代将軍になった。失敗ばかりの恐妻家、頼りなさそうだがなぜか家康は

秀忠を愛し跡継ぎにしたのだ。 四男は忠吉、勇猛な武将で井伊直政の娘を妻にする

関ヶ原では直政と共に敗走する島津軍の大将島津義弘を追って、副大将の島津豊久を討ち取るが、待ち伏せに遭って

二人とも負傷、それが原因で後日亡くなってしまう

西郷どんの冒頭、「チェスト関ヶ原」レースを子供達が行うシーンがあった、それがこの島津義弘公と豊久公を偲び

徳川に負けた関ヶ原の無念を、いつか晴らすぞという、そんなレースシーンだった。

 

五男信吉は20歳で没、六男忠輝は激しい性格の武将で兄秀忠を見下すような振る舞いが多く、野心家で越後高田

で大きな領土をを得たが、隙あらば天下を望む舅の伊達政宗とのコンビを警戒されて改易されて、生涯孤独に

過ごしたが、92歳の長寿だったという。

七男、八男は子供の時に早世したが、家康が関ヶ原で勝利した後に生まれた三子は家康から見れば孫くらいの

年齢であったから目に入れても痛くないほどであった。

九男義直には尾張62万石を、十男頼宣には紀州55万石を、十一男頼房には水戸25万石を与え、これを

本家を支える徳川御三家とした。

将軍と御三家以外の兄弟は松平姓であったから破格の扱いであり、家康がこの三人に徳川家の未来を託したことが

わかる。

水戸徳川家は他の二藩と異なることがいくつかある、まず領土が半分以下、本家に人材無きときは将軍を紀州家、

尾張家のいずれかから選ぶが、水戸家からは将軍は出せない、そのかわり他の二家が参勤交代の役があるが

水戸家は水戸に常在して永遠に副将軍として本家を補佐し、将軍に誤りがあれば正す役を家康から与えられた。

そして後年、徳川将軍家と天皇が争うようになったら水戸家は天皇(朝廷)に味方せよと家康が遺言したという話しも

あるらしい、だとしたら水戸斉昭は250年後に家康の遺言を守り、実行したことになる。

 

官軍にとって出陣した後、紀州徳川家が軍を出して大坂、京に進出したら、これは安心できないことになる

紀州徳川家といえば、慶喜の前の将軍、家茂の母体、しかも第二次長州征伐では藩主茂承が征討軍の総大将(代理を出す)

だったから、官軍の格好の獲物でもあった

しかし、戦争したくもしないで降伏、官軍の先導役として参戦したのは彦根藩同様だった

一方、尾張徳川家はと言うと、こちらは初代藩主義直が家康同様に「天皇様に従うべし」との家訓を残したとかで、現藩主の

徳川慶勝は、官軍のターゲットである会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬と兄弟であるにも関わらず、藩内の佐幕派を

粛正して、官軍が来たときには勤王藩として官軍を迎えた

こうして、頼みの御三家も、西軍押さえの彦根藩もすべて官軍に味方したのだった。

もはや、徳川本家に味方する藩は同罪とされた会津、庄内くらいしか無く、それも各個撃破のターゲットとなっていた。

八方ふさがりになった徳川慶喜は、上野寛永寺にて謹慎、官軍に対して謝罪文を届け「煮ようと焼こうとどうでもしゃがれ」

そんなことをさせたら徳川幕臣の名が廃ると、慶喜の家臣達が彰義隊を結成して、官軍を迎え撃つ構えを見せた

官軍はひたひたと江戸に向かって行く、総大将は西郷隆盛、江戸城を攻め、「逆賊慶喜の首を取って晒してやる」と

勢い込んでの駿府入りであった。

ここに勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄舟を、西郷に命令されて江戸で大暴れの末、庄内藩に捕らえられた薩摩藩浪人

益満休之助が案内して西郷の本陣を訪ねてきた。              つづく

 

 

 

 

 

 


思ったよりは・・・予想通り

2018年01月25日 11時44分08秒 | yottin日記

数年に一度の大寒波だとか・・・・夕べは確かに寒かった、その上に大雪警報、強風波浪警報

体が冷えるので寝る前に全身軽くオイルマッサージして保温

暖かく目覚めた6時半。 新聞とりに外へ出たら、雪は昨夜より減っていた ???

昨夜は一晩中風が吹き荒れてやかましい一夜だった、おかげで雪は遥か上空を飛んでいき

海辺の我が町は、あまり降らなかったのだ、積雪はあるところで20cm程度、前回の1mとは大違い

 

朝食を作ろうとガス給湯器を、火はつけど湯は出ず、いや水も出ずカラたき、慌てて停めて

水道を、これはすぐに出てきて一安心、マイナス3~4度

父の部屋へ行ったら、24時間止まること無く毎日動いているエアコンが・・停まってた!!!

寒い部屋、父に「寒くなかった?」「寒い!震えとる」

あああ、なんと言うことだ、一年で一番寒い日に働かないエアコン、社員なら懲戒ものだ

急いで台所の石油ストーブを部屋に運んだ、おかげで台所の私が寒い、火を止めたら本当に寒い

何か無いかと物置になっている空き部屋へ行ったら、去年の石油がたっぷり入った石油ストーブがあった

台所に運んで着火、成功!

車を見たら張り付いた雪がバリバリに凍り付いて、ドアも開かない。 湯を沸かしてドアにかけて開けて

アイドリング30分、これでOKとヘルパーさんが来る前に出社、ところが凍った店のスロープ登り切れず

途中で乗り捨てて店へ、ところが鍵を自宅に忘れてきて入れない

仕方ないので家に戻ることにした、そしてエンジンをかけたら「燃料切れ間近」のランプ点滅「あちゃ」

急いでスタンドへ、こうなったら自宅に戻るより魚市場で、誰かが会社に出勤するまで時間つぶしした方がいいと

市場へ向かう、ところが凍った道路で渋滞発生、10分で行くところが20分かかった

9時半に市場を出たら、電話が・・・・自宅の町内に住む85歳の老人からSOS

「冷蔵庫が空っぽで飢え死にするよお~~、yottinさん、さしみや天ぷら、魚の切り身、それに野菜を届けて

もらえない」「はいはい、わかりましたよ」

私が魚屋をやっている時からの30年以上のおつきあい、頼りにされたらやるしか無い、動けるうちが華

先輩が言ってた「今日も一日一善、目的達成!」