越後戦線では長岡城がとったりとられたりの攻防が繰り広げられていた
しかし多勢に無勢、長岡城は再び官軍の手に落ちた、そして長岡藩の家老、河井継之助は
重傷を負い、家来に運ばれて越後と会津を結ぶ難所六十里越えを越えて会津に向かって
敗走していった。 しかし只見の村において河井はついに力尽きて亡くなってしまった。
この男も生きながらえば、新しい日本の一翼を担う力量があっただけに惜しい事であった
こうして日本国の人材が志し半ばで倒れていく例はいとま無い。
吉田松蔭、高杉晋作、久坂玄瑞、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、・・・・
だがまだ戦いは続いていた
今は只見線と平行して走る国道252号線のルートとなっている六十里越、私も河井と
逆ルートで会津から長岡に行った事がある。 只見川に沿った谷間の道は曲がりくねって
途中、只見ダム、田子倉ダムを経て高度をどんどん上げていく、そして要塞のようなスノーセットが
ひときは高いところに見えてくる、ここまで登ってきてはじめて「どえらいところに来てしまった」という
後悔の念が沸いてくる、だが本当の六十里越えはトンネルの更に上にあるのだから、敗走する
長岡藩士の心中やいかにと思うのであった、また途中の寂しい只見の村で僅かな広がりを見せる
田園、そこに河井継之助終焉の地の文字があった。
しかし小藩ながら官軍の攻撃を4ヶ月も足止めした長岡藩の奮戦は後世に語り継がれている。
会津の地は、大軍に攻められると不利な場所だ、なぜなら会津盆地から放射状にいくつもの街道が
広がっている、すなわち完全に守るためには兵を多くの地区に分散しなければならない
仮に兵が4000人いたとして城を空にしても八カ所を守備すれば一カ所あたり500人しか割り当て
出来ない、そこに敵が1000人、2000人と押し寄せてくれば不利は明らかだ
しかも一カ所が破られれば、そこに敵が殺到するから、全ての戦線から城に退却することになる
さもなければ挟み撃ちにあって全滅するからだ。
会津を守る重要な地がある、会津若松の南東およそ50km白河口、ここに白河城がある
僅かな官軍が占拠したが会津軍は取り返して、ここに反戦運動をして藩主を困らせた頑固な筆頭家老
西郷頼母が大将となって仙台兵などと守備していた、その数は2000前後だろうか、それがなぜか
浮き足立ち、わずか数百という官軍に追い立てられて、白河城を捨てて会津に敗走してしまった。
会津軍対官軍の緒戦にしては、あまりに不甲斐ない会津軍であった、官軍はここを占領したことで
攻め方のアイテムがいくつも増えたことになる、一方会津軍は守る場所の選択肢が増えてますます不利になった
太平洋沿岸、茨城県と福島県の境に北茨城市がある、そこに平潟港という港がある、昔は足の踏み場もないほど
アンコウが獲れた、私も若い頃、真冬にこの町の民宿に泊まってアンコウ料理を満喫したことがある
この平潟に官軍が上陸した、そして磐城平藩をを攻めて降伏させ、三春に進軍すると三春藩は戦わずに官軍に
恭順した、この裏切りで会津藩はますます不利になった、そしてその勢いで主力軍が不在の二本松城を攻めた
老人と女と少年しかいないという二本松城は瞬く間に落城、二本松少年隊の悲劇が会津の白虎隊の悲劇と同じく
今に伝わっている。
ここで官軍は会津か仙台かどちらを先に攻めるか軍議を開いた、結局最初からの目標であった会津を攻めることに
決定した。
会津若松城は猪苗代湖の西、広々とした会津盆地の真ん中にのっぺりと建っている、城の周りは堀が巡らされ
守りは固い。 堀の外側には家臣達の屋敷が四方八方に広がっている
敵がここまで来たときは籠城戦しかないので、会津軍は四方へ兵を出して要所で敵を待ち受けていた
会津は盆地なので、どちらから来ても峠を越えることになる、だから峠の上で守れば有利に展開できる
会津藩では国の危機と言うことで15歳から60歳まで藩士を年齢別に編成して、それぞれ白虎隊や朱雀隊
などと名付けた。
そして会津の武家の妻や娘も勇敢にも娘子軍を編成して、敵に気取られぬよう男装をして長刀(なぎなた)を得物に
戦場に出て戦ったのである。
こんな守備体制をひいていたが官軍の攻撃は性急で、しかも会津軍の弱いところを攻めてきたため、守備体制が
整わぬうちに防御線を破られてしまった、そのために橋を落として官軍の進行を遅らせることも間に合わず
みな城に向かって逃げ出した、城下に住む武家の家族にも城内に入るようにと伝えられた
だがそれ以上に官軍の足は速かった、飯森山に陣取っていた白虎隊などは到底間に合わず、そこで待機した
城下も混乱を極めていた、もはや城内に入るには間に合わぬと知った女子供だけの家族(男達は戦場にいる)
は、死後に裾が乱れてはならぬと自ら足を縛り、こどもを短刀で突いて、女達同志で相手の胸や喉を突き合って
自害した。 家老西郷頼母の家族は一家6人だったか互いに突き合って自害したが、有名な話しが残っている
西郷家に官軍の武士が入ると凄惨な状況に思わず目を背けた、が、若い娘が一人死にきれずに、苦しい息の下で
目も見えなくなったのか「そこのお方は敵ですか味方ですか?」と問うたそうだ。
その官軍の兵士は情けある男だった、「安心なさい、味方です」と答えた
すると若い娘は「ああ良かった、どうかお情けを、私を刺して早く楽にしてください」と言ったそうだ
武士は胸に迫るものがあったけれど「わかった」と言って、娘を抱き起こしとどめを刺してやったという。
こんな悲惨な家族は会津城下の武家屋敷のあちらこちらであったと言うことだった。
お城の攻防戦が始まる前から、こうした非戦闘員の犠牲者がたくさん出た、これだけで会津戦争がいかに異常な
戦争であったかわかる、薩長は何が何でも会津を攻め落として松平容保の首を取らなければ維新は終わらないと
考えている、会津藩士にしてみれば、そのようなことをさせるわけにはいかない
他の城の攻防では決してあり得ないことが、絶望した会津藩内では行われたのだった、これは会津魂の教育が
女性にまで浸透していたからだろう、先の大戦での日本軍に「生きて虜囚の辱めを受けるな」という戦陣訓があった
そのことによって玉砕という集団自殺が絶望の島で相次いで行われ、未来ある若者を100万もむざむざ意味なく
殺してしまった、またサイパン島や沖縄では女性達の集団自決もあったのだ、会津でもそれに先駆けること
およそ80年前集団自決は行われていたのだ。
星亮一さんお著書を読むと、会津戦争による会津人の悲惨な末路がこれでもかと書かれている
西郷家に入った善良な官軍兵士ばかりではない、盗人、強姦魔のたぐいの兵がごまんといた
戦国時代の戦争と戊辰戦争の違いは何だろう、戦国時代の戦争は略奪戦争だ、敵の国を奪い、手柄をたてた
部下には領地を分け与える、領地には百姓がついている、百姓はモノそのものだ、いや働き蟻か
米を作って取り上げられ、飢え死にしない程度に雑穀や野菜を残してもらうくらいだ。
雑兵は敵の領民や女子供を捕らえてそれを市場で売る、この人達の家族縁者が金を払って引き取りに来る
なんともあきれた話しだが、こんな余録がなければ足軽達は命がけで戦場なんかに来ない。
もし殺されてしまえば防具から刀に衣服、みんなはぎ取られてしまう、それもまた戦利品として売却して
雑兵の稼ぎになる、戦場は一種の経済活動の場なのだ、これが戦国時代の戦。
だが明治に入っておこった戊辰戦争は戦国時代とは違う、敵の土地を奪う戦争でもなく、奴隷を得る戦争でもない
上部の連中には大名政治と封建時代を終わらせて、新政府を作るという大義名分と目的がある
しかし雑兵にはそんな大志はない、そして領地を得るわけでもない、20歳前後の若い身空で
遙々九州や山口県からやってきたのは何のためなのか、褒美と言えば略奪と強姦これしかない
これは戦国時代と何ら変わらない、だが戦国時代のように敵将の首を取っても何の足しにもならない、ひたすら
敵の男どもを殺して、敵方の商家や豪農、武家屋敷、町屋に押し入り、物品や金銭を奪い、若い娘を襲う
襲われて殺された娘や奥方の屍が屋内にも野外にも転がっていたという、敗れた国の民は悲惨である
こんな狼藉も幹部等は見て見ぬふりだ、それが雑兵の唯一の褒美だとわかっているからだ。
この無法ぶりが会津に住む人々に「薩長憎し」という感情となって100年以上経っても許す事が出来なかった
という話しは聞いたことがある、この話しは何かに似ていると感じる人もあるかもしれない。
会津軍は若松城に閉じこもり、攻め寄せる官軍に発砲したり、時に打ってでたりを繰り返す
その度に死者は増えていく、城外にうち捨てられた会津兵の遺体はそのまま捨て置かれて腐乱していく
自決したり暴行された女の遺体も同様に晒されている、城外は地獄絵図だった。
「八重の桜」の八重も女だてらに鉄砲を官軍に向けて撃ちまくっていた、鉄砲師範の娘だけはある
時に会津兵が敵の隙を見て城外に突撃する、そこに長刀の男装した娘子軍も加わって切り込んだ、
これは勇ましいことではあるが、飢えた狼の中に子ウサギが飛び込んでいくようなモノで、
薩長土佐の百戦錬磨の足軽達は喜んで「殺すな殺すな、生け捕りにせよ」と言って獲物に向かって行く
こうした娘子軍の婦女子は、会津藩幹部の婦女子が多かった、故に捕らえられた挙げ句自決した者も
あったのだ、哀れと言うほかは無いが、会津武士にとって領内の婦女子を守れないふがいなさに地団駄
踏んだ者も多かったことだろう。
だが会津の武士社会ではこうした結末であったが、会津の領民は会津藩に同情しなかった、会津藩の
政治は領民にとって良い政治ではなかったということだ、また会津武士も(主に雑兵と思うが)官軍同様に
敗退の際にも領民などに乱暴狼藉を働いていたと言うから、どの軍にしても雑兵は常識など通用する
レベルでなかったことがわかる。(無理矢理数あわせに連れてこられた農民やごろつきが多かったのでは?)
会津軍の中には城内に入らず、外に出てゲリラ化して官軍を襲う部隊もあった、家老の佐川官兵衛率いる
部隊もその一つだった、彼らは随分と官軍を悩ませた。
「会津若松城が燃えている」飯森山の白虎隊はそう思った、15歳から19歳の少年で編成されている白虎隊
会津藩の中でもっとも年少の軍隊である
浄火が燃えている煙を見て、城が落城したと勘違いした少年達は絶望して、互いの胸を突いて自決した
そんな中、自ら咽を突いたが死にきれず蘇生した隊士、飯沼貞吉は生き残り明治、大正を生き抜き、白虎隊の
最期を語り続けた。
約1ヶ月、城は落城しなかった、しかし同盟軍は次々に降伏した、頼りの仙台藩、隣の米沢藩も降伏した
残るは薩長のターゲットとされていた会津(福島)と庄内(山形)の2藩だけとなった。
会津城は落ちなかったが天守閣にまで官軍の砲弾が命中して穴だらけになって屋根が傾いていた
城中では官軍の砲弾にすっかり慣れて、砲弾の処理が上手くなったという話しさえある、しかし援軍が無くなった
今、最期の一兵まで戦って全滅するか、降伏するかの2つしかなくなった、そして天守閣に白旗が挙がった。
会津藩は徳川慶喜が恭順を示したときから同じく恭順の意を官軍に伝えた、だが官軍は許さず、何が何でも
攻め滅ぼすと息巻いた、これは憎しみもあるが見せしめにしようという意図もあったのだろう
だから徹底的に破壊と略奪を行い、城下の婦女子を暴行してそれでも手が出ない会津武士に充分悔しい思いを
させたことで、薩長の腹の虫が治まったと見える、だから降伏を許したのだろう、だが最期の仕上げがある
薩摩長州のかっての下級武士の足下に、徳川親藩の松平の殿様に土下座させ、侘びを入れさせる、これほど
薩長にとって愉快痛快は無いだろう、殿様という絶対権力者に恥をかかせる、悔しい思いをさせる、それで溜飲を
下げる、それがこの戦争の目的でもあったのか。
会津藩は徹底して痛めつけられた、そして再度言うが、この時の悔しさを100年以上持ち続けていた
それでも「チェスト関ヶ原!」、関ヶ原の屈辱を薩長は250年持ち続けた、会津はまだ半分越えたところだ。
一方、同じように標的にされた庄内藩は全く別の扱いを受けていた
庄内藩は日本海側有数の湊町を持ち、交易も盛んであったから豪商があり商業が発達していた、そのため
軍隊も長州並みの近代装備を持っていた、近隣の東北大名では太刀打ちできないレベルの差があった
庄内藩は連戦連勝、しかし庄内藩以外の同盟軍は会津も含め全て降伏してしまった
ついに庄内藩も降伏するしか無くなった。 庄内に乗り込んできた官軍は薩摩の西郷隆盛の部下、黒田清隆で
あった、黒田は西郷の意を含んでいた、そして降伏の儀式をかたどおりすませると態度を変えて庄内藩主
酒井忠篤に「酒井殿、此度の貴下の戦ぶりまことに見事でござった、孤軍奮闘とは貴家のことをいうのだろう」
と大いに持ち上げ、「貴家の戦後処分についてはわが薩摩は寛大に臨もうと思っている、じゃとん長州の大村益次郎は
強行な処罰を求めちょる、これさえ押さえてしまえば安泰でござる」と含みを持った言い方をした。
薩摩藩邸を焼き打ちした庄内藩であるから、会津同様の重い処分を覚悟していたので意外な言葉に藩主以下
驚いたのであった。
そして会津、庄内の2藩に官軍の判決が下った
「重罪人松平容保は罪一等を減じて死罪は許す、会津藩取り上げ、奥州斗南にて新領を与える」
「罪人酒井忠篤は、無罪とし庄内藩も安堵いたす」
紆余曲折あったけれど最終的にはこのような処分になった、だが会津藩が得た、斗南は過酷な寒冷地で
作物も育たない貧しい土地だった、そこに武士が農民として開拓しなければならなかった、多くの家族が脱落し
多くの家族が酷寒の地で亡くなったのは大河ドラマ「八重の桜」に詳しい。
庄内藩は最終的にはとがめ無しですんだ、それが西郷隆盛の情に依るものであることが後日知れた
酒井公を始め、藩士皆が西郷に感謝の念を持った、「戦争は江戸で終わったのじゃ、それより北は余分なこと」
と、奥羽の戦争を嫌っていた西郷であった。
西郷に感謝した庄内藩士は藩主や家老が藩士を引き連れて山形から遠く鹿児島まで訪ねて西郷の教えを
乞うたと言うことだった、そして西郷に信服した若い藩士2名が西南戦争で西郷軍に加わって戦死している。
庄内酒田に西郷を祀った「南州神社」があると去年庄内酒田の人と飲む機会があったときにお聞きした。
そして庄内鶴岡市と鹿児島市が姉妹都市だとネットで見た。 事実なら山口県萩市と福島県会津若松市の
険悪な関係と正反対になる。
会津攻めの最高責任者が誰かは知らないが、西郷であったなら、あのような惨い仕打ちは無かったのではないかと
思う、誰が会津戦争の指揮をとったのか?、軍の最高司令官は公家であるが、実際の戦闘指揮は武家である
総司令官西郷隆盛のあとを長州人大村益次郎が次いだのは至極当然だと思う、会津憎しは薩摩より長州の方が
遥かに強いからだ、最初から会津戦争は復讐戦だったのだ。
こうして奥羽の戦争は終わり、残るは江戸湾から発した海軍総裁榎本武揚率いる幕府海軍の軍艦数隻
平潟港に行き、そこから仙台に、そこで幕府の敗残兵、大鳥圭介、新撰組副長、土方歳三などを積み込み
宮古湾で嵐に遭い艦隊はバラバラになり、ついに北海道函館まで行き、そこで上陸、五稜郭に立てこもり
官軍と戦闘になった、そんな中で土方歳三は壮烈な戦死を遂げる
残された写真を見るとスマップ並みのハンサムで男らしい長髪のイケメンである
榎本は官軍の黒田清隆に説得されて降伏、生き延びて新政府の大臣なども務めた。
近代日本に欠かせない世界的な視野を持った男であった、もはや日本人同士が戦う時代は終わっていた
だが、その後も職を失った士族が全国各地で蜂起して崩壊していった、それは新政府がで来た後の内紛でもあった
長州では前原一誠(長州藩)、佐賀では江藤新平(佐賀藩)、九州全土を半年にわたって戦った西南戦争では
西郷隆盛(薩摩藩)みな、明治維新の官軍の指導者で、新政府では参議(大臣)になった人たちばかりだった
西南戦争を最期に国内戦争は終わるが大村益次郎、大久保利通、伊藤博文、など新政府の指導者も次々と
暗殺によって命を落とした(伊藤は朝鮮人によって暗殺された)
そして日清戦争、日露戦争、朝鮮併合、ロシアとの局地戦、日中戦争、アジア太平洋戦争へと日本は対外戦争に
はまっていく。 おわり