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権力の歴史

2018年06月23日 16時47分01秒 | 日本史

朝鮮半島で14世紀末にできた「李氏朝鮮王朝」と17世紀初めにできた日本の「徳川幕府」の成立過程は

似ている

徳川幕府は誰でも知っているので、簡単に成立過程を書くと、戦国時代が統一されていく過程で最後の

仕上げをしたのは、織田信長-豊臣秀吉-徳川家康の3人であった

信長時代では、秀吉は信長の有力な軍団長であり、家康は日米関係のような同盟者であった

秀吉時代では、秀吉が日本の統一を果たして戦国時代を終わらせた、その豊臣政権で家康は大臣の筆頭

となった

そして秀吉が死んだあと、残された遺児、豊臣秀頼を担いで、思いどおりに自分の権力を拡大していった

それを良く思わない、石田三成などの純豊臣官僚が立ち上がって日本を2分して関ヶ原で戦った

しかし、ワンサイドゲームで家康が勝ったが、まだ支配者にはならず、相変わらず豊臣秀頼の大臣として

振る舞った。 それは石田三成とは馬が合わなかったが純豊臣家臣である加藤清正、福島正則など

強靱で影響力ある豊臣恩顧の有力堅物大名が数名残っていたからだった

だが実権はあきらかに家康にあった、そして清正が死ぬとついに家康は大坂城に秀頼を攻め殺して

豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を開いた、その時代は明治まで260年続いた

だが幕閣の権力争いは兄弟間の将軍位争いを引き起こす

家康の長男は家康が信長に従っていた頃に、信長に言いがかりをつけられて自らの手で切腹をさせた

家康の人生最大の痛恨事であった

次男は秀康は秀吉の人質として行った大阪城で秀吉に可愛がられたこともあり、家康はこれを嫌った

後に福井松平家の祖となる

3男秀忠は恐妻家の凡人と言われるが、家康は愛し、後継の2代将軍にした、6男忠輝は戦国豪傑の趣があり

舅は野心家の伊達政宗だったので、危険を感じた秀忠は家康と相談して、越後高田の大大名だった忠輝を改易

田舎に配流して92年の生涯を終わらせた

3代将軍となった家光は、父秀忠夫婦が愛した実弟の忠長に将軍の座を奪われそうになったが、乳母春日局の活躍で

家康から将軍のお墨付きをもらう

こんな事があって、兄弟の中は悪くなり、秀忠が死ぬと家光は忠長に切腹を命じた。

 

一方、半島では高麗王朝が約450年続いて末期を迎えていた、高麗の家臣で地方財閥であるイ.ソンゲ将軍は

今の北朝鮮付近に強大な軍団を持っていた、だが純粋な軍人で中央政界とは無縁だった

そこに取り入った人物がチョンドジョンである、彼は中央で中堅の役人だったが反骨心旺盛で反発して罪人になったこともある

野心家でイ.ソンゲを利用して国家転覆を謀ろうと近づいた。

まずは、高麗王朝を実質動かしている独裁大臣を追い落として殺し、イ.ソンゲの上官だった大将軍をも追い落とし

高麗王の首をすげ替える権力を握った、そして最後は高麗王のワン氏以下、一族をことごとく抹殺してイ.ソンゲを王位に

つけて李氏朝鮮国を宣言した。

だが官僚の多くは高麗王朝の官僚だったので反対する者も多く、粛正が続き、政権は安定しなかった

老いていくイ.ソンゲは、長年戦の連続でもう血を見ることには辟易していた、そして悪夢にうなされ仏教に帰依するように

なった、そして後妻の息子を世子(セジャ=次の王様第一候補)に指名したため、才覚ある5男のバンウォンが反発

チョンドジョンと対立して、ついにドジョンを暗殺した、次いでバンウォンはイ.ソンゲが亡くなるとセジャだったイ.ソンゲの

後妻の息子2人を殺害して、実兄で2男のバングァを2代王に奉ったがバングァは、バンウォンを恐れて王位を2年で

バンウォンに譲った。

朝鮮王朝、第4代王は、李氏朝鮮の王の中でもっとも優れた王と言われた世宗(セジョン)

3代王の父の情け容赦ない権力志向を反面教師にしたとも言われる、字を書けない庶民のためにハングル文字を発明した

王でもある。