春うららかなる日々が続いているというのに、身近なところでまだまだ若い70歳前後の人が相次いで亡くなった
「あんな良い人が亡くならずに***のような人間が死ねばよいものを」と口を滑らせたら90歳ま近の父が諭すように「死んでいい人間など一人もいない!」ときっぱり言ったので、私は心の中で赤面してしまった。
さて葬儀に参列してお焼香をさせていただいたけれど、真宗の住職は「南無阿弥陀仏の6文字をただひたすら念じれば、阿弥陀様が極楽に御救い下さる」と言いました。
念じるだけでは救われない、信じることが救われる道です、親鸞上人もおっしゃったそうです。
さて人は死んだあとどうなるのか、この世にいる人間の誰もが持つ疑問です、だから宗教がこの世で大きな重みをもっている、面白いのはキリスト教でも仏教でも天国と地獄があるということ、イスラム教は私は知りません・・・
信心すれば天国へ、信じぬ者は地獄へとルートは決まっているようですが、天国に導いてくれる阿弥陀様とかキリスト教のエンジェルとかの正体は何でしょうか、これらの救いたる神は仮称でありましょうが確かに存在すると思うのです、人間というあるいは生物という全ての魂あるものを救う永遠の命をもった偉大な生物?(神)
キリスト、釈迦、モーゼ、空海、イスラムの偉大なる教祖などは、そうした偉大なる(神)と接点を持つ特殊能力をもった人間だったのかも
宇宙は45億年前に誕生したとか大雑把な年数がはじき出されるが、その前はどうだった・・・という疑問に答えられる人間はいない、本来時間は存在せず、50億年も1秒も同じ重さでしかなく、時間など寿命の限界を知る人間だけが考えるだけで、犬もカエルも蚤も時間など考えもしないで誕生と死をひたすら繰り返している。
偉大なる生物(神)にとって人間の魂も草花のはかない魂も同じ一つの魂、神の計画通りか気まぐれか、いとも簡単に魂は肉体から天に(天とは永遠の魂の居場所)引き戻され、また新たな若い何かの中に宿る、そもそも人間や生物はどのようにして存在しているのか、行動する肉体と、すべてを管理する脳と、脳を利用して人間を活動させる魂から出来ている、病気とは肉体が壊れることであり、死とは肉体が回復できなくなって完全に壊れ、魂が抜けだすということである、魂に自覚があるかということが?であるが自覚の無い永遠の生命体が魂だと思う、魂は生物の脳にあたるものに行きついたとき自覚が生まれるのだろう。
魂はかってに動いているのか、それとも偉大な生命の所有物なのか、いずれにしても今の自分の人生を何度も繰り返すのではなく、新たな肉体に宿り、あらたな自分を形成していく。
地球があろうがなかろうが、そんな短いスパーンでこの営みは終わらない、いったいどんな意味を持つのかは100年足らずの寿命では解決できず、考えること自体が無駄ごとであるから趣味の範囲に留めたい、そのうち人間など滅びそれでも生命は次々に生まれ、魂が注入され取り上げられていく、そして地球も太陽も滅び、しかし無限荒野の宇宙にはまたしても数え切れぬ無限の宇宙が誕生する。
過去、現在、未来というけれど本当は現在しかないのだ、生まれるから死ぬまでの順序は決まっているが、過去から未来に進んでいるのか、未来から過去に進んでいるのかは断定できない、それよりも本当は現在の積み重ねと言った方が良い、過去も未来もないのだ、死んでしまえばすべては振り出し、生まれ変わったとて、その前の時代より前に行っているのか後ろに来ているのかわかるまい、まして地球に生まれ変わる保証など皆無に等しい。
死などというものは、人間という特殊な生き物だけが考えることで、そのほかの生物はただただ子孫の繁栄のために存在し滅び去る、われらは人間に宿った魂であり、派遣された魂、永遠に生き続ける魂、その次の行き先は「神のみぞ知る」
ラジオで小学生の作文を言っていた「恐竜博士になりたい」って
わたしも小学生から恐竜が大好きだった、映画「ゴジラ」を子供の時見て、とても怖かった、それが怖いもの見たさで逆に好きになったのだった。
50年前の恐竜学と今の恐竜学はずいぶんと変わった、一番大きく変わったのは二足歩行の恐竜の姿勢だ、昔の説は人間のようにすっくと直立していた、まさにゴジラスタイル、ところが近年はワニに強靱な後ろ足がついたスタイルというか、ヤジロベイスタイルというか、地面にほぼ平行に体があるスタイルになっている。
なんと言っても子供に一番人気は今も昔も最強と言われる「ティラノサウルス」だ、昔はこれしか無いと思っていたのに、時代によってアロサウルスだとか同じような大型肉食恐竜が次々と発表された、4足最大の雷竜も次々に大きな者が発見されて、ついに50m近い体長のものまで現れた。
今でも国立科学博物館の特別展があると見に行くほど恐竜が好きだ、通年では福井県の勝山の恐竜博物館が素晴らしいので、たまに旅行があると立ち寄る。
生きて動き回る恐竜を見たくて、タイムマシーンがほしいとどれくらい思ったものか、ところがそれを見事に実現してくれたのがスピルバーグという天才だった、あんなにリアルに大量に巨大に動き回る恐竜、1965年映画「ポップギア」で迫力あるビートルズを見て気が遠くなった以来の心臓ばくばく体験、この映画以来一躍スターになった恐竜が「ラプトル」、中型で俊敏で頭が良くチームワークで狩りをする残忍なハンター、「ジュラシックパーク」では完全にティラノを超えていた。
何度でもジュラシックパークのシリーズを見るがぜんぜん飽きない、恐竜は我が永遠のヒーローだ
昨晩、口が寂しくなって近くのスーパーへ買い物に出かけた。
いいおっさんが買い物かご持って、せんべいやらカップラーメンを買いまわっているのは何となく侘しい姿
そうしたらば、向こうから同じようなおっさんが現れて、カップラーメンを籠に放り込んでいる、顔を見たら良く知っている「小料理屋」の親父、「あんた夕食はこれかい!」籠の中を指さしてお互いに顔を見合わせて笑った
「毎晩、お客さんには5000円、6000円の料理を作っていながら、おれ達は130円のカップラーメン、人生なんてこんなもんだね」
するとそこに、もう一人おっさん登場、これも年齢が同じおっさんで別のスーパーで毎日、おいしい刺身やすしネタを切っている男、「おまえもか・・・」もう一度3人で大笑い
3人合計190歳のおっさん、それぞれ家に帰ってカップラーメン肴に酒飲むのかい?侘しい日本の現実
ちょっと時間が余ったので金華山岐阜城を見学、ロープウェイで上まで登るのだけど15分毎、タッチの差で遅れて15分待つことに、しかしここにたどり着くまでが大変だった、一番大変だったのはマイクロバスなので駐車場、実は近くのわかりやすいところにあるのだが団体が入るということで「お.こ.と.わ.り」されてしまった、後で見たら十分余裕があったんだけどね・・・
それで一方通行の不慣れな道をぐるぐる回って、こんなところ通れるんかいな?
やっと着いたのは道路一本はさんだだけの駐車場、距離でいえば10m足らず、ここに行くのに随分と大回り、パーキングのおじさん、地元のおばちゃんとくっちゃべって明快な返事してくれなかったし・・・仕方ないか300円だものね。
今回で3度目なんだが、何回行っても、もう以前のことは忘れてるから新鮮、でもこんなに上り坂歩いたんだっけ?結構良い運動になったね、ヒールの高めの女の子はたいへんだったみたい、スカートもきついね、この場所では・・・
ここは最初は織田の敵国「斉藤道三」の城で稲葉山城だったが、政略結婚で娘を信長がもらって親戚になった、しかし道三が(実子ではない)息子に殺されて、そののち信長は斉藤家を破ってこの城を「岐阜城」と改め、天下取りの足掛かりにしたのである、この天守からの眺めは四方に開けて素晴らしい、天下の名城だ、だけどロープウェイのない500年前に鎧兜でのぼりおろしたのだから昔の人は足腰が強かったんだね!
1日目の昼食は豊田市の「ル.ポミエ」でのコース、レストラン店内は全て女性客ばかり、少し肩身が狭い、ちょうど来客の1人が誕生日だったようで、ケーキとフリュート演奏のサービスが始まった。
2日目は徳川美術館で「ひつまぶし」の昼食、でもやはり素敵だったのは宿泊先の「花水木」での会席料理、近海の魚を使った料理はシンプルながら一品一品に手をかけ彩りよく盛りつけられている。
たった10人の会食に3名の接待係がついていささか面食らったけれど、人的サービスがこのホテルの営業方針のようだ、そして長島温泉の魅力の一つは「湯あみの島」庭園風呂は爽快だった。
熱田神宮 草薙の剣を祀ると言われる日本でも最も古い歴史を持つ神社、織田信長が今川義元の迎撃に出たとき、ここで戦勝祈願をしたときのエピソードは有名である。
名古屋城 今の城は徳川御三家「尾張藩」の居城としていたのが太平洋戦争の空襲で焼失した後、再建されたものである、戦国時代の面影はなく、大阪城同様、博物館的構造になっている。
信長の時代は那古野城と書き、信長の初期の居城であった
2.徳川庭園と徳川美術館
第二日目は「なばなの里」を見た後、昼食場所の名古屋市内の徳川美術館に向かった、食事処はどういうわけか美術館の中からいったん中庭に出た別棟にある、ここに行くには鍵のついたドアをガードマン兼ガイドの女史に開けてもらう。
それは余談だが、美術館では特別展が開催されていた、それは徳川御三家の尾張藩主「徳川宗春」がテーマだった、徳川260年の歴史の中で中期のもっとも面白い8代将軍吉宗と尾張宗春の争い、それは紀州徳川家と尾張徳川家の意地の闘いでもある。
短く言えば傾いた徳川家を再建するために「質素倹約」を自らして見せた名君徳川吉宗、それに対して「金は天下の回りもの」派手に使えば経済が回り出し、人の心も浮き浮きとして自然と金回りが良くなるという持論を展開してこれまた自らやってみせる徳川宗春は痛烈な批判を将軍吉宗相手にぶつけて見せた。
まさに家康ゆずりの倹約家吉宗と華美で陽気な名古屋人気質の宗春の対立、それは吉宗の勝利で終わるのだが・・・
宗春愛用の太刀や武具、衣装、茶室に能舞台まで展示され、小物や茶道具などまで見ればとても1時間では見きれるものでは無い、また徳川庭園も広くて気持ちが良い、2組のカップルが結婚写真の前撮りをしていた。
この5月はいつまでも朝夕の寒さは格別で、未だ電気ストーブを背中から離せずにいる
山の寺の境内で東京から来たという人が「こちらも暑いと思って半袖で来たが、この寒さは・・」と絶句していた
この春の寒さこそ禅の山寺にはふさわしい心持だ、しばらくの静けさの中を歩いてみた、参道の山道のわきには何体かの石仏がてんでの方向を向いて気ままに立っている、今は緑草深い中にひっそりと立っていた
苔むした石段、鮮やかな緑の木々、揺する冷ややかな春風
この町の禅の寺は曹洞宗ばかりである、我が家は長い年月臨済宗であったが歴史の紆余曲折があって今は浄土真宗の寺院にお任せしている
臨済宗は執権北条時頼の力添えで鎌倉に五山を構え、朝廷との蜜月の時、後嵯峨天皇の皇子の一人は北条時宗の後援を受けて那須の地に八溝山雲厳寺を開山し(高峰顕日)佛国国師となられた、名僧夢窓国師なども国師を慕い学びに訪れた。
臨済宗についてはこのくらいしか知らないし曹洞宗についてはまったく白紙だ、どちらかと言えば今は親鸞上人が身近な感じがする。
いずれにしろ田舎の寺は、京や鎌倉などの大寺院のような豪華さはないけれど趣、風情、わびさびの面持ちは田舎風の自然の中にあればこそなおのこと感じる、「最近はカモシカが庭先を訪れて驚かす」と御住職が言っていた。
筍が当たり年という今季、竹やぶにはイノシシが掘った穴も数多あるらしい。。
「ああ・・・あなたは! いったいどう言えば信じてくださるのか
本当に口惜しい、この胸の内を開いて見せることが出来るなら
今すぐにでも開いて見せたい」
などと心の内を見せたいと思っても、人ではままならぬ
裁判員制度が始まって久しい、果たして無実なのか有罪なのか
能弁なものは自己弁護を巧みにして、役者のごとく善人を演じる
不器用な正直者は顔色を変え、言葉につまり、疑惑の言葉に切れる
人の心は第三者には読み切るすべが無い、善人か悪人か調べようが無い
だが、言葉を話せない者は観察眼が鋭い、彼らはじっと顔を見つめ
其の人間を感じようとする、それは「助けて!」と叫べない人の自己防衛の本能だ
もっと明快なのは人間ほど理屈で考えず、本能で感じる犬
犬ほど善人と悪人をかぎ分ける能力をもつものはあるまい
あの純粋な目でじっと見つめられるとだれもが胸の内をさらけ出してしまう
犬に好かれる人は愛情深い善人である確率が高い
現場を離れて永いことたつと「今の時代」から大きくずれてしまう
そしてそれに気づかない
そのままの状態がずっと続いていると錯覚してしまう
まさに今日、その体験をした
イカ飯の「するめいか」が必要になって、大きさを考えてMサイズを
魚市場に発注した、そして今朝中身を確かめるとそれはSサイズの
イカだった。
驚いて箱を確かめても、それはMサイズなのだ、私が現役の頃の
サイズはもう一桁違っていたのだ、私の頭の中にあるMサイズは
Lサイズを注文しなければいけなかったのだ。
原因はイカが全国的にいなくなったからだ、これも乱獲の結果
なのだろうか
子供の頃は朝どりの生きているイカが100円で10匹ほども買える時代
近所のお母さんたちが入荷をまってそれぞれに入れ物を持って買いにきた
私が魚屋を始めた40年前でも大きな生きているイカを3~5匹で250円
350円で量販したものだ、今は小さめのサイズのイカが一匹250円も
300円もしている、それもこの海で取れたものでなく青森とか遠い産地の
ものである。
あの、生きていて刻々と黒や茶に変わっていく背中の斑点
清流のような透明のイカの姿は数十年見ていない、水槽で泳ぐイカだけ
世の中にないものはなく、お金さえ出せば何でも手に入る便利な世の中
だが庶民の素朴な楽しみはどんどん無くなっていく、それを悲しみ懐かしむ
人間もだんだん減っていく
ブータンの国の人たちの生活をテレビでやっていた、長野県そっくりの景色
昭和30年代の農村の風景 のんびりと暮らしていた貧しい時代の風景
誰も貧しいといわなかった貧しい時代 今と比べると遥かに貧しい時代
だがのんびりした時代、金もないが銀行にも税金にも追われない豊かな時代
田舎にも大勢の人が住み、田畑を耕し、老人が家で家族に看取られてあの世に
旅立つことができた時代、豊かさと貧乏 贅沢と質素
もう戻れない物質文明 金銭本位の世界 自分も加担している世界