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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ

2012-10-15 13:15:40 | 父の背負子1(随想古事記)
アマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の食す国(ヨルノオスクニ)を、スサノオは海原を・・・・・

「汝尊(いましみこと)は高天原をしらせ」と父君イザナギノミコトから命じられたアマテラスは高天原を治められます。どういうわけでイザナギノミコトが高天原の統治権をアマテラスにお任せになることが出来るのかは分かりません。夜のオスクニの統治をまかされたツクヨミの命はこれを最後に登場なさることはありません。一方海原を統治せよと命じられたスサノオノミコトは、どういうわけで母と言われるのかこれも分かりませんが(神話に語られる通りとすれば、イザナギノミコトは独りで三貴子をお生みになりました)、イザナミノミコトのおいでになる根の堅州国(カタスクニ)に行きたいと泣きわめいて大洪水を起こす始末です。とうとうイザナギノミコトから『此処に居てはならぬ、母の国に行け』と追放されてしまいます。

それでスサノオは姉君アマテラスにお別れを申し上げようと高天原に上っていきます。地響きを立てて登って来るその異様な様子は、とても普通ではありません。いよいよ世界に領土争いが始まったのでしょうか。アマテラスは、「さては弟は高天原を奪いに来たのでは・・・」と武装して待ちうけます。そして有名なアマテラスとスサノオの誓約(ウケイ)のシーンが繰り広げられます。アマテラスはスサノオの佩刀を三つに折って噛み砕かれた後吹き出されると、宗像三女神と呼ばれる多紀理(タギリ)姫、市杵島(イチキシマ)姫、多紀都(タギツ)姫が息吹の中に現れます。スサノオがアマテラスの髪飾りや手にまかれた珠玉を噛んで吹き出される息吹の中からは、正勝吾勝々速日天忍穂耳(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ)命という長いお名前の神様を筆頭に天之菩卑能(アメノホヒノ)命、天津日子根(アマツヒコネノ)命、活津日子根(イクツヒコネノ)命、熊野久須毘(クマノクスビノ)命という五柱の神が現れます。

誓約(ウケイ)とは一体何かというと、自分の身の潔白を証明するためのものです。世界史によく見受けるのは、日本でも行われたらしい『クガタチ』類のものです。熱湯の中に手を入れて火傷をしなかったら本当のことを語っていると判じるものです。エジプトでは毒蛇の入った甕に手を入れるというものでした。熱湯に手を入れるやり方は最初からオールアンドオールとでも言いましょうか、多分無罪にはならなかったのではないかと思います。それともヨガの修行のような何かで可能になるのでしょうか。毒蛇の甕はオールオアナッシングで、一か八か、あるいは甕の数によって、確率的に運を天に任せるやり方としか現代人には思えませんが、それでも生き残るチャンスは『偶然』によってあったのではないかと思います。神話の『誓約』は言霊の国の神々にふさわしいと思います。息吹が形をとって現れるのですから、吐く言葉が嘘か本当か、形として見えるのです。こじつけと言われればそれまでですが、吐く息はその人となりを表すと思います。それでスサノオの心を知るために力の象徴である佩刀をお調べになりました。たおやかな三女神が現れて、スサノオノミコトは平和な心を映し出したのだと主張されました。アマテラスの装っておられる玉からは大神の勇ましい高天原の統治者としてのお覚悟通り、頼もしい五人の皇子が現れて『なんびとにも侵されぬ』断固とした決意を示されました。

スサノオに疑わしい下心は無いと分かって、アマテラスはスサノオが高天原に入ることをお許しになります。図に乗ったスサノオは『勝ちさび』と言われる乱暴狼藉をはたらきます。田んぼを壊し、水利の溝を埋め、汚物や肥を撒き散らします。それでも姉の命は『弟は酔って気分が悪かったのだ、何か別の良い計画があるのだ』とおかばいになります。スサノオの乱暴は止まるところを知らず、神聖な機屋を壊し、天の斑駒(ふちごま)を逆剥ぎにして投げ入れます。そして神につかえる機織り姫が死んでしまうのです。此処に至って、とうとうアマテラスは天の岩屋戸に閉じ籠ってしまわれます。

なぜ成敗なさらずに隠れておしまいになったのでしょうか。この段でアマテラスとスサノオは結婚されたのだという説もあります。アマテラスはスサノオを『我がなせの命』と呼んでおられます。これはイザナミがイザナギに対する呼びかけと同じです。確かにスサノオの乱暴狼藉を咎める神々に対するアマテラスの弁明は、酔っぱらいの夫をかばう妻の言い草のようにも聞こえます。その上誓約でお互いの子をお生みになりました。

さてアマテラスが隠れてしまわれたので高天原は真っ暗闇になりました。このアマテラスは太陽神として表現されていると一般的に言われています。それに異存はありませんが、明るく照らされて私達日本人が理想としてきた『清き明き心』を持ち続けることができるような、そんな心を守って下さる神様のような受け取り方を日本人はしてきたと思います。

さあ高天原は大騒ぎ、照らされて清らかだった世の中にいっせいに悪いこと曲がったことが噴出してきます。人間の裏側の醜い心が表に現れてきました。民というものは照らされていれば清らかで、闇になると醜くなるものなのです。照らすことが為政者の務めです。神々は大いに困って額を寄せ集め相談して出てきた解決策が、大笑いして歌い騒ぎ、アマテラスを誘い出そうというものでした。

神々のどんちゃん騒ぎが天の岩屋戸の前で繰り広げられました。長鳴き鳥が鳴きます。鉦や太鼓をたたいて、天(アメ)のウズメノミコトは可笑しげに踊ります。中におられるアマテラスは不審に思われます。暗闇に沈んでいるはずの神々が楽しそうに踊り歌い笑っているのですから当然です。そっと覗いて天のウズメノミコトに『なぜそんなに楽しそうにしているのか』とお尋ねになります。天のウズメノミコトは『あなた様より尊い神がお出ましになり皆喜んでいるのです』と、岩屋戸の前に鏡を差し出してアマテラスのお姿を映しました。驚いてもっと見ようとなさった瞬間の光の漏れ出たすきを逃しはしません。手力男(タヂカラオノ)命がアマテラスの手を取り引いて、太玉(フトダマノ)命が岩屋戸にしめ縄をはって二度とこんなことが起こらないように塞いでしまわれます。やっと高天原も葦原の中津国も明るさを取り戻しました。

アメノウズメノミコトの『もっと尊い神』というくだりに、異なる神を持った異民族との接触を思いますが、この岩屋戸籠りは、日本式再生神話だと思います。昼と夜の太陽の繰り返しをはじめ、日食の恐ろしさ、人生における死と再生(誕生)、世の中における幸不幸、本来持っていたものを失った時の対処の仕方を教えているように感じます。日本人独特の不幸の中にほほ笑みや笑いを衝き動かす心の原点が表されているように思えてなりません。またこの笑いの力は最も言霊の力を表したものの一つです。自分も他人も、自分の内側も外側も揺り動かして笑う声に、禍を吹き飛ばして秩序を取り戻す大きな力があることを教えています。また神々の笑いに加えて長鳴き鳥の『長く音を伸ばす』方法が、和歌を歌う正式な方法です。和歌とは力の発現だったので、一度発したものは修正のきかないものでした。そしてもう一つ、神と呼ばれる人々の薨去(かむさり)の方法も、この岩屋戸籠りあるいは岩屋戸隠れに見つけることが出来ると思います。ホツマ伝えではトヨウケの大神やアマテラスの『カムアガリ』についても言及しています。山の洞にお籠りになるカムアガリに、現代に伝わる羽黒山の『生き仏』行を連想してしまいます。




古事記の中でスサノオノミコトくらい、英雄になったり悪者になったりしている神様はありません。高天原の悪行に対し最高刑で罰するべきとの意見もある中、罪一等を減じてもらったスサノオノミコトはひげを切られ爪を抜かれて追放されます。それなのにスサノオノミコトくらい広く尊敬を受けている神様は日本におられません。スサノオノミコトは沢山の別名を持っておられて日本中の神社の御祭神の中では一番多く祀られています。高天原で世の中を真っ暗にするほどの罪を犯され追放されたスサノオノミコトですが、後世に讃えられるべき事績の中で特別な事が二つ古事記に残されています。一つは五穀の種をもたらされたこと、もう一つは出雲の国づくりです。

八百万の神々から罰を受け追放されたスサノオノミコトは、空腹を感じて食べ物が欲しいと大気都比売(おおげつひめ)に頼まれます。すると大気都比売は目・鼻・口、あげくの果てにお尻からまで様々なものを取り出してスサノオノミコトの食事を整えられます。それを見たスサノオは汚い穢れたものだと怒って大気都比売を切り殺しておしまいになります。するとこの大気都比売の亡骸の頭からは蚕が、目から稲の実が、耳から粟が、鼻から小豆が、ホトから麦が、お尻から大豆が生えるのです。それが五穀の種になったとされています。スサノオノミコトの娘である宗像三女神が全国に五穀の種を配って歩いたと『ホツマ伝え』では言い伝えています。カグツチの神を切り殺したイザナギノミコトの段のお話しにも似ています。

この二つのお話もイザナギの黄泉の国訪問の場面と同じようにマクロビオティックとの関連を深く感じさせられます。これは排泄と摂取の関係です。大気都比売は自分の排泄物を他人の食べ物に供するのです。自然の仕組みを神様の行動で表わしていますが、私達の世界は微生物から大きな動物まで、あるいは大気の熱や風の関係に至るまで、すべてが他または他の排泄物を食べ(取り込んで)自分の(新たな)排泄物を出すという関係の繰り返しで成り立っています。私達の食事も植物や動物が、取り入れたものを細胞で作り変えて自分の体として排泄(表現)しているものだと言えます。動物の呼吸も植物が排泄する酸素を吸っています。金魚のフンを狙っている虫もいます。人間だけが自分の排泄物をごみにしましたが、そのゴミも結局のところは自然界の法則によって微生物に分解され(食べられる)ます。自然界の仕組みを私達の先祖は鋭く観察したのに違いありません。そして頭から生まれた蚕ですが、人類の織物は髪の毛に歴史があるのかもしれません。蚕の繭から糸を繰り出して作る織物が髪の毛とはなかなか結びつきませんが、古代の人々の頭の中には共通項があったのだと思います。その証拠と言えるかどうか分かりませんが、ギリシャ神話の恐ろしい女神メデューサの髪の毛は蛇(つまり縄)です。

もう一つのスサノオノミコトの事績出雲の国づくりは、有名なヤマタノオロチ退治の物語から始まります。登場人物はスサノオノミコト・国津神夫婦の足名椎(アシナヅチ)・手名椎(テナヅチ)・その娘櫛名田比売(クシナダヒメ)です。高天原から追放されて出雲地方に下って来られたスサノオノミコトは、美しい娘を中にして泣いている国津神夫婦に巡り会われます。そして八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が毎年一人ずつ娘をさらって最後の末娘が犠牲になろうとしていることをお聞きになります。スサノオノミコトはその娘クシナダ姫との結婚の約束なさって大蛇退治をなさるのです。その場面は出雲のお神楽でも有名なのでよく知られています。沢山のお酒を飲んでのたくり回る大蛇を退治する勇壮な名場面です。大蛇の尾から得た剣が『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』で、三種の神器の一つになりました。こうしてめでたくスサノオノミコトは美しい妻をめとられてかの有名な妻籠みの歌をおよみになります。

『八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』

現代なら『マイ・スイートホーム、スイートホーム!』と愛妻を得た喜びを歌われているのです。高天原の乱暴狼藉は一体どうしたお話しなのかさっぱりわかりません。


なぜスサノオを最後まで悪役で通すことが出来なかったのでしょうか。アマテラスは最初高天原を奪われるかもしれないとさえお考えになりました。次にスサノオとアマテラスは、誓約でお互いに御子を得られ、アマテラスは荒ぶるスサノオを『我がなせの命』とお呼びになりました。そしてスサノオとの誓約でお生まれになったアマテラスの第一子、天忍穂耳命の葦原の中津国の統治権を主張なさるのです。そしてアマテラスのお子様は誓約でお生まれになった五柱の神子以外他にいらっしゃいません。スサノオノミコトが多くの神々をお生みになり、スサノオから五世か六世の孫に当たる大国主命も沢山の結婚をなさり、多くのお子様をお生みになります。大国主の正妻は何とスサノオの末娘須勢理比売なのです。これは神話というお話ではなく、何かしらの歴史的事実を反映している『想像(虚構)と真実のミックス』だと思う以外にありません。その証拠に国譲りを強要された出雲の神々は現代に至るまで依然として異彩を放ち、スサノオは国民的に愛され続けています。少なくとも最も存在感を持った神様であることに間違いはありません。

出雲の神々の中でスサノオの後継者・大国主命はスサノオと同じくらい大きな存在です。大国主命のお話の中で、『因幡の白ウサギ』のお話しは良く知られています。このエピソードは大国主命の性格を語っていますが、この前後の経緯はあまり知られていません。大国主命がなぜこの哀れな白ウサギに遭遇されたかというと、八十人もの異母兄の神々の荷物持ちをさせられて、八上比売というお姫様に求婚をするためにお出かけになった途中の出来事なのです。そして八上比売が大国主命を選ばれたため、兄の神々から二度も殺されておしまいになります。一度目は焼けただれた石を受け止められて、二度目は獣を獲る罠にかけられて。そのたびに母の神が高天原のタカミムスヒに教えられた通りに大国主を生き返らせます。そして兄の神々の魔の手から逃れるように、大国主をスサノオの住む根の堅州(カタス)国に行かせるのです。このころスサノオは出雲ではなく根の堅州国に住んでおられたらしいのですが、いつ頃移られたのかは分かりません。

根の堅州国で大国主命は須勢理比売(スセリビメ)とお互いに相思相愛一目惚れの恋仲になられます。須勢理比売が父君のスサノオノミコトに紹介なさると、娘を奪われる世の父親と同じく、スサノオノミコトは大国主を無理難題で試されます。世の男というものは娘婿に自分と同じ能力を要求するもののようです。先ず蛇の室屋に、次にムカデと蜂の室屋に大国主を泊めます。大国主を助けるのは現代社会と同じように、恋におちた須勢理比売です。毒虫を追い払う『ヒレ』を渡してもらい、大国主はぐっすりと眠ることが出来ました。毒虫の試験に合格なさると、今度は野原に連れ出し自分の放った矢を探しに行かせます。大国主が野原に入ると、火攻めにしておしまいになるのです。さすがの須勢理比売も泣いておられると、大国主は矢をスサノオノミコトの前に捧げられました。ネズミの言うことを理解なさった大国主は、穴の中に落ち込んで地上の火をやり過ごされるのです。

スサノオノミコトは『なかなかやるわい』とばかりに、今度は自分の頭の手入れをさせます。スサノオノミコトの頭はムカデと虱の巣状態でした。須勢理比売はそっと赤い土とむくの木の実を渡します。大国主はその土と実を噛んでは吐き出します。スサノオノミコトはそんな様子をムカデと虱を噛んでいると思いになって、『何と可愛い奴ではないか』と心を許して眠っておしまいになります。なんだか猿山のボスに対する毛繕いのようです。大国主はその隙を逃しません。スサノオの髪をあちこちの垂木に結び付け、スサノオの『生太刀(イクタチ)』『生弓矢(イクユミヤ)』それに『天の沼琴(ヌゴト)』をとり、須勢理比売をおぶって逃げ出します。大広間の出口は大岩で塞ぎます。すると『天の沼琴』が鳴り出して、スサノオノミコトは目を覚まします。気がついて起き上がろうとなさいますが、頭の自由がききません。それでもやっとほどいて大国主を追いかけられ、根の堅州国の国境で娘婿の大国主に出雲をお譲りになるのです。『葦原のシコオノミコトとして生太刀・生弓矢を用い、我が娘・須勢理比売を【適妻(むかひめ)】(王妃)にして国を治めよ』とはなむけされるのです。これでスサノオノミコトの出番はおしまいになります。

スサノオノミコトは男の典型です。母が死ねば、恋いしさに泣きます。時に我を忘れて乱暴をします。時に正義漢になります。美しい妻を得て幸せを歌います。想像すらしなかった娘の恋人の出現に嫉妬します。そして娘の幸せを願います。これがスサノオノミコトの人気の秘密かもしれません。(*葦原のシコオノミコト――葦原の中津国、つまり出雲から大和地方全域と思われる国の統治者

髪の毛を結わえつけられたガリバーやヨーロッパの童話『ジャックと豆の木』の大男を思い出させられます。ジャックは金の卵を産むあひると、竪琴と、もう一つ何かを盗んで、逃げ出す時に竪琴がなって大男が目を覚まし追いかけられる筋書きも同じです。ジャックは豆の木を切って大男は墜落してしまい、ジャックはお母さんと幸せに暮らしました。悪役はあくまで悪役というのが違いますが、『琴が鳴る』というキーワードは全世界同じなのでしょうか。何となく特別な意味を感じてしまいます。聖書の創世記でも最初に神の言葉が響きます。『光』と言葉を放たれて、光が出現します。『言霊』と同じです。古事記には『鳴り鏑の神』という神様もいます。この鳴り鏑が鳴る音の最初で楽器の始まりかもしれません。空気を震わすものこそが、『アメノミナカヌシ』の消息を伝えるものでしょう。現代でも振動計で火山の動き、地球の動きを観測しています。天の沼琴は、軍備である生太刀・生弓矢と同様に政治の大切な道具だったと思います。

こうして大国主に統治権を譲られてスサノオは舞台から姿を御隠しになりました。これで出雲の国譲りの舞台が整うのです。(amaterasu & susanoo)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!




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随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ

2012-10-12 09:10:38 | 父の背負子1(随想古事記)
次にウヒチニ・スヒチニ、ツヌグイ・イククイ、オオトノジ・オオトノベ、オモダル・アヤカシコネ、次にイザナギ・イザナミ。

かくり身の神々という現実の形を持たない段階を踏まえて、次に現れるのは雌雄一対になった五代の神々です。最初に現れるウヒチニ・スヒチニの夫婦神から最後に現れる『イザナギ・イザナミ』の夫婦神まで、これらの神々がどのようにお生まれになったのかは不明です。『おなり』になったのか、前代の子としてお生まれになったのか、何処から妻の神を迎えられたのか全く分かりません。そして古来私達が『ふたかみ』とお呼びするのは最後のイザナギ・イザナミ両尊です。現代に残る二上山も、このイザナギ・イザナミ両尊をお祀りする山です。ここからがわが日本の歴史の始まりだと思います。

この二神の事績にも謎が沢山あります。第一に、この二神に誰が国生みをお命じになったのかということです。神代七代という原初の世界に、急に高天原らしき天界が既にあって、沢山の神々がいらっしゃるらしい・・・・・ともかくもその神々の御命令により二神は天の浮橋(アメノウキハシ)にたたれて、いただいた天のヌボコで混沌の海をかき混ぜられます。そして引き抜かれたヌボコの先からほとばしり落ちるしずくが滴り固まって『オノコロジマ』が出来ます。その時の天地に吹き渡った風の音が、『コオロ、コオロ・・・・』これが私達の地上の世界に初めて物が固まったお話です。このオノコロジマに降り立たれて二神は国生みを開始されます。

この二神の国生みの段には冒頭から疑問があります。唐突に人類をも含む哺乳類の生殖の確認がなされるのです。人体構造の確認から始まるこの人間臭い描写が一体どういう意図でこの場面に必要なのか、文学的との評価もあるようですが、私にはパッチワークのデザインのミスマッチのように感じます。古事記にはこうした記事が数か所あって、それが古代人のおおらかさとか言われていますが、それは違うような気がします。何か今は分かりませんが、何れ究明されるべき問題だと思います。

次にオノコロジマの結婚の場面で、イザナミノミコトに八尋の柱を右回りせよ、自分は左から回ろうと提案されたイザナギノミコトですが、出会い頭に妻のミコトが先に「あなにやし、え男を」と言問いの主導権を握られます。こうしてお生みになった最初のお子様はヒルのようで骨が無く国の形を作ることが出来ませんでした。大変悲しまれてそのわけを高天原の神々にお伺いに行かれます。お答えは、『女が先に声をかけたから』というものでした。

この件は、現代で言うところの『男尊女卑』の観念が出来上がってからの脚色のように言われてきました。実際脚色はあったと思いますが、それはあくまで脚色であって、脚色される筋書きというか、秩序というか、力の発現の法則は神代から現代までを貫く真実です。

そもそもイザナギ・イザナミ両尊の『言問い』とは何でしょうか。それは最初に動くものとそれに続いて起こるものの象徴です。最初に動くものはそれまで動かなかった『ナギ』であり、それによって引き起こされる力の伝達が『ナミ』です。これはそのままタカミムスヒであり、次にカムミムスヒです。根源の『アメノミナカヌシ』は私達の地球上にはまず『タカミムスヒ』として示され、『カムミムスヒ』として働くのです。そしてこれは次々に繰り返されます。『ナギ』が『ナミ』を生み、次に『ナミ』が『ナギ』を生みます。最初に生まれた配偶神が『ウヒ(生まれ出るヒ)』と『スヒ(進んでいくヒ)』でした。因が果になり果がまた因になる応報が繰り返されるのが、天地開闢以来私達の真実です。

動物界では少なくとも魚類・両生類以後はオスがメスに求愛しています。先ず衝動にかられるものはオスです。もしかするとヒルはそういう雌雄の差がないのかもしれません。オスが先導する世界でも圧倒的な拒否権をメスが握っています。メスがオスの生存力を試してふるいにかけるのです。生存力の強さを魅力とメスは感じているに違いありません。メスが好ましいか好ましくないかという判断を下しています。野生に近い状態の人類も多分同じだったことでしょう。文明下の人間社会においても男が求婚するのが長い間の伝統です。現代ではだんだん無視されていますが、どちらかと言えば物理法則とでも言うべきもので、『男尊女卑』とは関係の無いものです。『ホツマ伝え』には天照大神の姉君若姫が拒否できない回り歌と云う恋歌をアチヒコに送ってプロポーズをして神々を慌てさせるエピソードが紹介されています。その回り歌(最初から読んでも最後から読んでも同じ音の歌)を御紹介しましょう。

『きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつそこいしき』

この歌をもらって当惑したアチヒコは、神々に相談しますがどうにもなりません。一旦発せられた言葉は変更することができません。言葉の持つ力はそれほど強いのです。仕方がないので、天照大神の命令で住吉の神が仲人となり結婚なさいました。かなり現代的ですが、この言い伝えが結婚式に高砂を謡う仕来りになったのではと思います。


人間は社会構造によって様々な規則をつくってきました。その規則が人間性を規制しています。人間は社会に束縛されてもいますが、その社会に守られてもいます。例えば動物のように天敵に襲われて命を落とす確率はほとんど無いし、動物界では当たり前の横取りという泥棒行為も法律で禁止して、弱いからという理由で取り上げられることは無くなりました。権利という観念を作りだし、法律に従うことを社会の規則にしました。社会は人間にとって哺乳類の胎盤の次に獲得した進化物かもしれないと思うくらいです。人類は社会の維持なしには人間ではありえません。それで社会で最も大事な事は社会の維持ということになったのだと思います。

『男尊女卑』は社会観念の副産物です。というより秩序維持の副産物と云うべきでしょうか。秩序の維持に男の方が多くの役割を果たしてきたのだと思います。秩序とは力で守るべきものだったからです。そしてそのことが権力を生んだのだろうと思います。現代社会のようなコンセンサスが無かった時代を私達は生き抜いてきました。時代によっては女の言い分が黙殺されて来たこともあります。そういった男の言い分、女の言い分は、現代では『人間らしく生きる』と言うところに集約されていますが、『生きる』という生命活動にはあまり関係ありません。それにいくら男尊と言っても男の社会は女無しでは成立しません。彼のローマの創立者ロムルスの最初の仕事は、近くのから女をさらって来ることだったそうです。男ばかりで建国したため社会が成り立たなかったのだそうです。男には妻が必要でした。要するに『男尊女卑』は力の目盛で見た場合の現実であることを、現代社会の私達はもう一度確認すべきだと思います。権力社会は、極論すれば、男のものです。

次に正しいナギ・ナミの順序を持ってイザナギ・イザナミ両尊は国生みに力を合わせてお進みになります。大八島の国を生み、様々な国土を構成する神々と役割りを持った神々をお生みになりました。ですから私達はみな神々の子孫なのだと信じてきました。神とは人間の上(かみ)で、私達日本人はみなこのイザナギ・イザナミ両尊がお生みになったのだと信じてきました。こうして私達の大八島の国は美しい国土となり、最後にイザナギ・イザナミ両尊は火の神様をお生みになります。そして火の神様によってイザナミノミコトは火傷を負われ亡くなってしまいます。イザナギノミコトは悲しみのあまり怒りに我を忘れられて、火の神様を切り殺しておしまいになります。この火の神様を『カグツチノミコト』というのですが、この神様の血液から鉱業の神々と鍛冶の神々がお生まれになり、そのお体からは鉱山の神々がお生まれになりました。

イザナギノミコトは亡くなられた妻を追って黄泉の国を尋ねて行きます。これはなかなか面白い伝承だと思います。イザナギノミコトは愛する妻に語りかけられます。「愛(うつく)しき我がなに妹の命(なにものみこと)・・・・・還るべし」。イザナギノミコトも不可能だと知ってはいても、『愛しき我がなせの命』のお言葉が身にしみて、「黄泉神(よもつかみ)と相談するから」とおっしゃって絶対に覗かないとのお約束を取り付けて行っておしまいになります。

ここで22年出版となった『マクロビオティックに学ぶ暮らしの知恵』p.69第二章『食とは何か』、イザナギの黄泉の国訪問の場面を引用ご紹介したいと思います。この本のテーマが食と健康を基本に据えたマクロビオティックの御紹介だったので、観点が少し違っていますが、お楽しみいただけるのではないかと思います。


イザナミノミコトは妻である自分を慕って黄泉の国に迎えに来られたイザナギノミコトに「すでに黄泉の国の食べ物を食べたから帰れない」とお答えになりました。イザナミノミコトのお体は食べ物によってウイルスやバクテリアの支配する世界のものに変性していました。食べ物によって住む世界が異なることを日本人は知っていたのです。イザナギノミコトがあきらめて黄泉の国からヒノモトの国にお帰りになろうとすると、黄泉の国のシコメが追ってきます。つまり感染地帯から清浄な地域に戻るためには、ウイルスの感染力から逃れなければなりません。そこでイザナギノミコトは身につけておられる飾り物を投げられました。するとそこに葡萄の木が生えて熟した葡萄の実がなり、シコメは葡萄の実を貪り食べます。おいしい葡萄はウイルスの住む黄泉の国(還元世界)との中間地帯の食べ物なのです。そしてそこに自分の食べるべき物があれば食べずにいることは出来ないのがこの世の生命の仕組みです。
イザナギノミコトは身についた黄泉の国の住民の食べるべき物を投げ捨て清浄になられてヨモツヒラサカに戸を立て、やっとの思いでシコメ、つまりここで言うウイルスを遮断されました。



この続きはブログ記事に『足引きのヨモツヒラサカ』としてご紹介していますが、『なにもの命』『なせの命』と美しい愛の言葉のやり取りが蛆のたかる肉体を前に真っ逆さまの大転回・・・・・神話の語り部は現実主義者です。男の思い込みを見事に曝しているとしか思えません。『百聞は一見にしかず』というとおり、目に焼き付いているイザナミノミコトの美しいお姿も、耳に残る美しい声も吹き飛んでしまい未練はありません。命からがら逃げに逃げて『筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)』に辿り着かれたイザナギノミコトは、身についた穢れを祓おうと川に入って禊をなさいました。穢れのついた物を脱ぎ捨てるたびに、水に身を沈められるたびに様々な神々をお生みになり、最後に私達がよく知っている天照大神、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトをお生みになります。左の眼から天照大神、右の眼からツクヨミ、最後に鼻をすすがれるとスサノオがお生まれになりました。サッパリ清らかなすがすがしい気持ちになられて「最後に素晴らしい子を得た」と大層お喜びになります。

ここで大きな不思議、あるいは矛盾にぶつかってしまいます。最初に確認した両性生殖の原則は何だったのでしょう・・・・。最初の天の御柱巡りは一体何のためだったのでしょう・・・・。


男寡(おとこやもめ)になられたイザナギノミコトは独りで最後の神生みをなさった後、天照大神は高天原を、ツクヨミノミコトには夜の食(お)す国を、スサノオノミコトには海原を治めよと命じられて神話でのお役目を終えられ、主役の座をアマテラスとスサノオの御姉弟にお譲りになります。イザナギノミコトの最後のお仕事は、ご命令を聞かないスサノオノミコトの追放でした。そしてスサノオノミコトが姉君を訪ねて高天原に上っていかれる有名なくだりに展開していきます。次回は『アマテラスとスサノオ』です。(izanagi & izanami)




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


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随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・

2012-10-09 08:47:37 | 父の背負子1(随想古事記)
私達日本人の神話は『古事記』という物語として伝えられています。『フルツコトノフミ』、遠い昔に起こったことの記録という意味です。古事記は有名な次の冒頭の文から始まります。

『天地(あめつち)の初めて発(ヒラ)けし時、高天原(タカマガハラ)になりませる神の名(ミナ)はアメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスビノカミ、次にカンムスビノカミ。この三柱(みはしら)の神はみな独り神にして、かくり身におわし給う。』

初めての古事記を、私は父の暗唱で聴きました。幼い日のその音の記憶が、私の古事記の原点です。現代最新の読み下しとは少し違いますが、私はこれが稗田阿礼の暗唱に近かったと感じています。その理由は、一に敬語の使い方、二に『かくり身』の扱い方です。そしてたった数行の短い文章の中に大きな問題が潜んでいると思います。その違いは大きく言って二つあります。そのひとつは敬語の問題、もう一つは日本人の物事の捉え方の問題です。


敬語の問題1.【なれるとなりませる】

第一の問題点は敬語で、最初に出てくる『なりませる』です。この言葉が最新読みの『なれる』とどう違うのか、これは日本人教育の根幹とも言うべき問題を含んでいます。

六世紀に百済の漢字博士王仁(ワニ)が漢字を伝えたとされています。古来詠み継がれて来た古事記の伝承を稗田阿礼(ヒエダノアレイ)が記憶し、漢字を使って太安万侶(オオノヤスマロ)が記述したとされています。その記述の仕方(後の人には読み方)には当然その人の音に対する心象というものが決定的な働きをしたと思います。そしてまたそのように読ませられた(あるいはその読み方に同感した)人々の心象も代々受け継がれて、結局日本人というものの心象になったはずです。その文章の読み下しは、受け継がれてきた心象を除外しては正しく読めないと思うのです。

父の代まで読み継いできた『なりませる』と、現代原典として最新版の古事記に統一された『なれる』との間にある事件、それは『敗戦』という国民の事件です。敗戦によって受け入れた占領政策による心象の断絶です。『なりませる』と言わねば済まなかった日本人の心が、『なれる』という言葉で済ませられるようになったのだと思います。そして私は父の心の音を受け継いで、『なれる』に違和感を禁じえません。

『なる』という単語は現在時代劇の『お成り』という将軍出座等に辛うじて残されています。貴人が現れることを、直接的な動作の表現を避けて『なる』といいました。全世界的に間接表現が敬意の表明(なぜ間接表明が敬意の表明になるのかという問題も解明されるべきですが)ですが、その心の奥にはもっと深い自然観察があって、それがこの神話の冒頭の『なる』という言葉だと思います。それは『繰り広げて出てきた』という意味です。そして何が『なる』のかというと、出現に至るまでの力がその因果関係を繰り広げて出て来たと言っているのです。『実がなる』のと同じです。新緑が芽吹き、花が咲いて小さな実を結び、やがては実が熟します。そのどの段階も省かれることはありません。それぞれの段階の木の力が、それぞれの姿を展開します。ひとつひとつの因果を踏んで現れ出たと言っているのです。

その尊敬の間接表現『なる』にもう一つ尊敬語『る・らる』を繰り返した『なれる』は十分丁寧で尊敬した言葉です。でもそれでも足りない日本人の心象があって『なりませる』という丁寧語の重ねがあったのだと思います。私達の存在の奥のそのまた奥の源泉でもある『アメノミナカヌシ』に対して『なれる』では足りないと感じた日本人の心象を私は大事にしたいと思います。
何を足りないと感じたのかと云うと、自分の立ち位置の表明です。今でも私達は日常の文体に『る』体と『ます』体とを持っています。私達はそれを使い分け、各場面に応じて敬語を重ねて意味合いや奥行きに違いを作りだしています。私達日本人は敬語に尊敬謙譲丁寧を兼ね備えなければ自分の位置を表し足りないと感じているのです。今も私達はそういう日本人の歴史を生きていると思います。


敬語の問題2.【名(みな)】

現代版では単純に『な』とふり仮名されています。太安万侶の漢字も『名』だけです。ですが私達は尊ぶべき神の『な』とは言えなかった筈です。現在でも対等の相手に対してさえ『お名前』『御芳名』などと使っています。ましてや宇宙の主である『アメノミナカヌシ』に対して『な』などと言えるはずもありません。『名』と単純に漢字一字であっても、日本人の心象は『みな』と読まねば済まない筈です。その証拠に私達は『天照大神』を『アマテラスオオミカミ』と読みます。太安万侶は、読み方は内容に応じるという前提を、当然のこととしたのでしょうか。あるいはまた帰化人で敬語を繰り返す必要を感じなかったのでしょうか。だとしたらますます稗田阿礼の口承がどんなものだったのか考えるべきだと思います。太安万侶の当てた字が稗田阿礼の音を映しているかどうかを考えるべきだと思います。そして太安万侶と稗田阿礼が誰だったのかも究明すべき問題だと思います。



日本人の考え方【かくり身】

第二の問題は、父の読み継ぐ『独り神にしてかくり身におわしたもう』です。このくだりは、手元にある現代版の古事記では『独り神となりまして、身を隠したまひき』となっています。現代の理解によると、この意味を独り神と対偶神との対比でとらえ、その姿をお見せになることはなかったとしています。私の個人的感覚による古事記の『え?』が始まったところです。『独り神として現れ身を隠された』と『独り神でかくり身でいらっしゃる』というのでは全然ちがったニュアンスを含んでいると思います。前者は意思を、後者は属性を感じさせます。そしてまた前者は過去の出来事として、後者は現在も続いていることとして受け止められます。

独り神は天地(あめつち)が初めて開かれるに関与なされたカミの姿です。まだ何にも分かれていない世界のカミで、かくり身というのはそのカミの本質が形を持たない『力』であると言っているのに違いありません。最初に現れたもの(アメノミナカヌシ)が『力』そのものだと言っているのです。その力があらゆるものを生み出していきます。

次のタカミムスビノカミもカンミムスビノカミも同じく独り神でかくり身です。この二つは元々一つのものが天地という二つのものに分かれる理由でもあり原因でもあります。アメノミナカヌシが天地として現れる時宇宙に作用する力(ムスビ)とその性質(タチ)が二種類あることを言っているからです。道教の思想で太一が二になったと表現されていることや、マクロビオティックで無限が陰陽に分かれたと言っていることと同じです。ですからこの二つのカミは、アメノミナカヌシが同時に持っている性質、作用を表したものです。そしてまた二つの性質のたどり着く先の姿(現れ方・天地)を示唆していると思います。
かくり身の神は、次にお生まれになる『ウマシアシカビヒコジノカミ』、『アメノトコタチノカミ』、『クニノトコタチノカミ』、『トヨクンヌノカミ』の全部で七柱です。

古事記ではアメノミナカヌシからアメノトコタチまでは特別に別天神(ことあまつかみ)、クニノトコタチとトヨクンヌは次に生まれる男女二柱の配偶神五代とともに神代七代に区別されています。この分類が正しいか、あるいは間違っているのか、これは古事記の編集にかかわる問題点です。現代の解釈では道教の影響で三・五・七という数字が編者にとって意味があったとかいわれています。

私はアメノトコタチ以下四柱のカミは、この天地における根源の力・アメノミナカヌシが地球上に形を持って現れる法則性を表現しているのだと思います。見えないものの兆しが現れ広がり確立して(ウマシアシカビヒコジ)様々に繁茂して(トヨクンヌ)いく、そこに関与しているアメノミナカヌシの二つの力、タカミムスヒとカムミムスヒとその作用が常立・国常立(常に・自在に)だと言っているのだと考えています。私に編集が許されるのなら、アメノミナカヌシからトヨクンヌまでの独り神・かくり身である七柱を一区切りにすべきではないかと思います。この『かくり身』という理解が日本神話を作った原日本人(ワタツ人)のもので、編集者の認識にはなかったのかもしれないと思っています。

次の陰陽二柱ずつの配偶神は、私達の天地である地球上でアメノミナカヌシの二つの力が現実のものとして形を現わして来る段階の順序です。先行する『かくり身』の世界が『うつし身』の世界に展開していきます。力だった物が形あるものになって変化していき、何かが角ぐみ成長していく、上に伸び横に広がり、太くなり、子を生みだす力を持っていくのです。形の無い力だった命が形を持ってくる表現なのだと思います。こうして私達は生まれたのだという表明なのだと思います。当然この世界は根源の力の二つの性質と作用を持って現れてきますから、全てのものが表裏相反するものを持って生まれることになり、最後に私達の現実社会の出発点イザナギ・イザナミが登場することになります。

余談ですが、私達日本人の有り難いという思いの先は、何時もこのアメノミナカヌシの天地を覆っている力の作用に向けられていると思います。様々な力になって現れて来る物の裏にある『かくり身』が私達を生かしている力の根源であると感じていたのだと思います。現代でも世界中で不思議がられる『ありがたい』と『もったいない』、『おかげ様』と『さようなら』という言葉に代表される日本人の暮らし方は、主格も目的格もなければ、一人称と二人称の区別もない日本人の『アメノミナカヌシ』に向かうメンタリティそのままなのだと思います。



我が国日本には偽書の疑いをかけられている古典がいくつかあります。その中に『ホツマ伝え』というものがありますが、この書ではアメノミナカヌシに始まる別分神五柱についてほとんど関心が無いように感じられます。国常立(クニトコタチ)からの神皇時代について詳しく述べています。如何に正しく麗しい思い遣りの溢れた統治をするかという点に主点がおかれています。言わば統治者の心構えのような感じです。第一代王が国常立、第二代が国狭槌(くにさづち)です。この国狭槌は国常立がお産みになった八王子の総称です。この八王子は、謎の伝承・トホカミヱヒタメの各一文字をその名に冠する八人の王子で世界各国の王室の祖となったとされています。東京の八王子という地名が何となく身近に感じられます。この八人の国狭槌は、槌、つまり武器によって世界に法を定められたのです。第三代は国狭槌のそれぞれ五人の王子の総称豊雲野(トヨクンヌ)です。豊かに広がった雲の字があてられています。この頃には世界各地で雲のように人口が増えたとされています。第四代がウヒチニで、この時代に結婚の制度が出来ました。スヒチニを妻とします。人類は野生の時代と決別したのです。この二神の幼名がモモヒナキ・モモヒナミで桃の節句の始まりであり、結婚式の始まりです。第五代がオオトノヂ(ツヌグヒ)・オオトマヘ(イククヒ)で男を大殿、女を御前と呼ぶ呼称の始まりとされています。つい百五十年前頃まで、私達は殿様と呼び、御前様と呼んでいました。第六代がオモダル・カシコネ両尊の御代ですが、お世継ぎが無く国内が乱れてしまったところを、クニトコタチまで遡って血筋をお求めになりイザナギ・イザナミ両尊がお継ぎになりました。これがホツマ伝えによる神代七代までのあらすじです。

『ホツマ伝え』には、日本の風習の起源、和歌の起源、単語の起源などが、思わず「あ、そうか」というような解説で語られています。こういった書が偽書とされているのは、現存する写本が江戸時代のものだとか、使われている紙が新しいとか、あまり決定的な証拠にはならない(と私が思う)理由からです。そういう問題があったとしても記述がすべて正しくないかどうかはまた別問題です。それは古事記に関しても日本書紀に関しても言えることです。そしてまた中国の正史とされている漢書についても魏志についても唐書についても、朝鮮半島の各王朝の正史についても言えることです。しかしシュリーマンのトロイの遺跡発見が物語っているように、何らかの事実が伝承を生んだのは間違いありません。あるいはその事実を曲げたいがために、偽り曲げたのかもしれません。要するに決定的に事実だとも事実でないとも言えないと思います。だとすれば排斥することだけは避けるべきではないでしょうか。研究の対象にするべきだと思います。『偽書学』とでも言うべき範疇を設けて、内容を選り分ける必要があると思います。


古事記は第四十代天武天皇の御代に編纂が始まり、第四十三代元明天皇の御代、西暦七一二年の完成とされています。その時『もう既に不詳不明になった』と天武天皇は日本の歴史伝承を嘆かれています。日本の歴史を正しく後世に残したいと願われ、後に記紀と呼ばれる古事記と日本書紀が誕生することになりました。日本書紀が外交的な意図で編纂されたといわれています。当時の外交は主として対中国と朝鮮半島だったのでしょうから、外交的意図の相手も限られています。その中国文化圏の正史というものは、易姓革命によって代った王朝によって前王朝の歴史が記録され、当事者の王朝の記録に国名が冠せられることはありません。当事者の記録は王朝文庫の内部に厳重に積み重ねられ、外に出されることはありません。大和朝廷が国外を見て正史を作成する必要はなかったと思います。『日本書紀』とはそういった大陸などの意思とは違った目的で編纂された命名法ではないかと思います。最近確信するようになったのですが、当時の王朝はたがいに周囲の王朝のことをよく知っていたと思います。王が何処の誰でその親が誰であるかということも姻戚関係もよく知っていました。中国大陸も朝鮮半島も、我が日本も互いによく知っていたと思います。

ではなぜ『日本書紀』と命名されたのでしょうか。このことと深く関わっているのが先行した古事記の編纂です。私は古事記の編纂がひとえに日本統一の確立を目的としていたと思います。古事記は日本に住む神々の名前を挙げ、その関係をつけるのが主な目的だったと思います。神々とは八世紀に日本に住んでいる人々の租神や氏族長のことです。そのことを軸に、日本人の心や生活の秩序を編み込みました。皇統を中心に各民族に伝わる古い伝説もとり入れました。建国の理想もとり入れました。それで古事記の神々の事績はほとんどが結婚とそこに生まれた神々の紹介です。全国の民族を網羅しなければならなかったので、神々も大王も何度も結婚し数多くの神々や御子を産まなければなりませんでした。

これを大和朝廷による歴史の捏造と見る向きもありますが、それよりもなお国と歴史の創造と私は解釈したいと思います。そして易姓ではなく、歴史を継いでいくという道を開いたのだと思います。古事記の神々を通して様々な種族に属する人々の共感を作りだし、古事記や日本書紀に神々の秩序を現実のものとして捉え直し、国内秩序の共通基盤を確立したのではないかと思います。古事記の成立以後も『まつろわぬ民』は存在し、外征としての蝦夷征伐、道鏡の皇位簒奪未遂事件等の様々な内乱を経て、十世紀には平将門の乱等を経験しますが、鎌倉時代前には日本の皇位というものに対する国民的な特殊感情も完成するのではないかと思います。その証拠は平清盛の熱病に対する罰当りの伝説や、大楠公に対する忠臣扱いと足利氏に対する逆臣扱い等に見られると思います。武家政権成立以後は江戸幕府が崩壊するまで、大和朝廷は国民の実生活から遠くなりましたが、天照大神は日本人の心の底におわすようになったと思います。

歴史が曲げられたという説もありますが、歴史が曲げられるのは世界の歴史の事実でもあります。曲げられなかった歴史がどんなものかは分かりませんが、それは断絶の歴史で確かめようがありません。中国大陸のように易姓という断絶を是としても事実は勝者によって曲げられるのです。天津神が国津神の娘をめとって混血の神々を作り出していく宥和政策を私は評価したいと思います。アレクサンダー大王のペルシャ遠征における結婚政策を思い出します。敗戦国の女達には屈辱の歴史かもしれませんが、新しい命を生み出す女達の生命力と母性本能が新しい国を生み出していきます。そこにはヘレニズム文化という遺産もあります。そして今も生きている日本文化というものが、世界の歴史に何をもたらすことができるのか、今も進行中の神々の事績です。



ヨーロッパの人々は映画でベンハーやシーザーを見て何を思うのでしょうか。これまで世界史が好きで歴史の登場人物に共感して生きて来たと思っていましたが、自分の生きた感覚に共鳴するものは無かったのではと感じるようになりました。世界史が好きだったのは、父の語る歴史話の影響です。ハンニバルやスキピオ、ナポレオンやネルソン提督、楠正成に源義経、父の生き生きと輝く顔を見ながら心躍らせて聴きました。中国大陸でのお話はもっぱら三国志、これには祖父の十八番の『水魚の交わり』の段の暗唱が加わりました。感動は真実だったとしても、私は写真の富士山を見ていたのと同じだったと思います。写真の富士山から、富士山の実情を酌みとることはできません。しかしそれが分からなければ歴史の色々な事件を実感することは出来ないと今感じています。ですが世界で最も幸運なことに、日本人は太古の昔から日本語を今に語り継いでいます。私達は古事記に、神話に手掛かりを持っているのです。

私達の年代が父親の歴史語りを聞くという経験を持った最後の世代かもしれないと思います。世の中は忙しくなりすぎました。親も忙しいし子供達も忙しい。私自身が最も大切な子供達に充分に語っていません。核家族で『代々』は無くなりつつあります。お正月の注連飾りの橙もむなしい風習になりました。ある日インスピレーションを受け取るべき温床を育てられなくなりました。そういう意味で私はブログを開いて様々な思い出話、随想、意見等を記事にすることにしました。我が子ばかりでなく誰か若者の目に触れて、私が昔父から受け取ったきっかけを残しておきたかったのです。今回そんなブログにこうして私の『随想古事記』を発表できることを、大変幸せに感じています。正しいか、間違っているかは別にして、いつか誰かのインスピレーションの種に、或いは苗床になれたらどんなに嬉しく有り難いことでしょうか。

ブログというものは、中断したらすべてなくなるのでしょうか。私は死ぬまでこのブログを開いておかなければならない・・・・・ここにほんの少し自分の役割を感じています。そしておこがましいのかもしれませんが、それが本にしたかった理由です。今日の記事は少し長くなりましたが、途中で切ることが出来ませんでした。(ametsuchino)





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随想古事記・はじめに

2012-10-05 11:13:25 | 父の背負子1(随想古事記)
小学校六年のある日、学校巡回の映画『日本誕生』を見ました。当時の小中学校では全国的に時々文部省推薦の映画を見せていました。子供時代に見た映画は、同じく巡回の映画だった『コタンの口笛』と『綴り方兄弟』の他には、父が連れて行ってくれた生涯ただ一つの映画『明治天皇と日露戦争』という映画以外にありません。その時二本立てだったのか、美空ひばり主演の股旅映画も見たという事実だけ覚えています。現代の映画館からは想像できませんが、当時の映画館は換気が悪くて空気はよどんで雑臭が入り混じっていました。元々臭いに敏感な私にはとても耐えがたく必ず頭痛の引きがねとなったので、映画があまり好きではありませんでした。

『日本誕生』は三船敏郎主演で、スサノオノミコトとヤマトタケルノミコトの二役を演じていました。『明治天皇と日露戦争』では東郷元帥を三船敏郎が演じていたので見覚えがありました。夕飯の食卓で父に映画を見たと報告しました。父は子供達にその映画を見せに連れて行こうと考えていたそうです。感想を聞かれましたが私は上手く答えることが出来ませんでした。年子の弟は二学年下で一緒に見た筈ですが、弟が何と答えたか覚えていません。ただ私は何かしら異様な感じを受けていたのです。読書から受け取って子供心に想像していた『神話』というものと全く違っていました。今でもその異様な感じを覚えています。特に倭建(ヤマトタケル)、つまり三船敏郎の小碓命(オウスノミコト)と誰でしたか妖艶な女優さんの美夜受比売(ミヤズヒメ)のラブシーンです。あの異様な生々しさは、映画製作者の意図だったのかもしれませんが、『日本神話』というものに感じた最初の違和感です。この巡回映画はそういう意味できわどいと考えられたのか、中学校では多くの場面がカットされたのだそうです。アメノウズメノミコトは音羽信子さん、思兼命が柳家金五郎さん、手力雄命が朝汐関でした。私は小学校でノーカット版を見ました。その時の疑問がさまざまな動機となって、父から受け継いだものと自分が探求したものとの複合物である今の自分があるように思います。

古事記については全ての人々にそれぞれの感想と意見があると思います。私は日本史や国文学の専門家ではありません。専門家には学問としての立場があると思います。しかし古事記に書かれた神話は私達日本国民一人一人の記憶遺産とも言うべきものなので、一人一人がもっと自由に身近に感想や連想を述べてよいものだと思います。ローマ人が自分達をヘレンの子孫だと主張する様な、そういう自由が認められてよいと思います。もっともっと古代を今の自分の中に感じてよいと思います。

神話というより昔話としてなじみの深い『海幸山幸』のお話は日本人なら誰でも知っている常識的なものだと思っていました。何時でしたか若い人達にマクロビオティック関連でお話をする機会がありましたが、その時現代の若者の記憶にこの物語が無いという現実を知ってショックを受けたことがあります。日本人のアイデンティティというか、屋台骨というか、記憶という民族としての基盤が崩れているのかもしれないと危惧を抱いた経験があります。『親子の絆』は一人一人自分の身に覚えのあるものですが、国民間の『親世代と子世代の絆』が消えているかもしれないという気がしました。私達は何よりこういう子供時代に親から聞かされるお話を取り戻さなければいけないのではないかと思います。映画という手段はあまりにも限定的決定的なので、『昔語り』や読書を通じて、子供の心に親から受け継ぐべき卵を抱かせるような環境づくりをするというのが、各世代をつなぐ親世代の役目かもしれないと思います。(kojiki preface)




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私の邪馬台国

2012-10-04 08:00:35 | 父の背負子1(随想古事記)
皆様は、自分の中で『邪馬台国』あるいは『縄文人』の国、『弥生人』の国、そして『大和朝廷』・・・・・この歴史を自覚しておられますか。小学校で、中学校で、高校で、私達日本人は日本の歴史を学びます。でもそこに今の自分につながって脈々と流れる先祖からの『血』を感じておられますか?

私が今日まで何に突き動かされて言わば手当たり次第、何もかも知りたかったのかと言うと、それは知識の中の歴史と自分の中に流れる血の記憶とでも言うべき歴史を整合させたいという『心の叫び』でした(と今になって思います)。それが宗教に憧れを感じた子供の日から仏教やキリスト教等にふれた学生時代、七夕伝説から古事記・万葉をさまよい続けた日々、『ホツマ伝え』に行きつき安堵と失望を感じた日々、等々50年余の彷徨の末、カタカムナとマクロビオティックに行きつきました。

それが昨年念願がかなうべき最後の出会いを果たしました。何度もこのブログでご紹介した川崎真治先生の歴史学です。『カタカムナ』と『マクロビオティック』とそして『言語歴史学(と川崎先生の手法による歴史学を呼びたいと思います)』、この三つが同時にあって私は今の確信に到達しました。

この三者は私にとって本当に三つ巴で、カタカムナがなければ言語歴史学が分からない、マクロビオティックがなければカタカムナが分からない、言語歴史学が無かったらマクロビオティックインスピレーションの手がかりがない、そしてその逆のマクロビオティックインスピレーションが無ければ言語歴史学も分からない(意味がない)、カタカムナがなければマクロビオティックも意味がない、言語歴史学がなければカタカムナも意味がない(私にはお役にたてるような分野が与えられない)・・・・・・そんな関係で60年余の人生の試行錯誤で段階的に得てきた知覚の最終章だと確信しています。お陰でありがたくも、

             全てが結びつきました!!!

ところで邪馬台国・・・・・この奇妙な日本人にはなじみ得ない漢字でありながら、一方これまた奇妙に懐かしい響きの音を持つ国は一体何なのでしょうか。日本史の中に邪馬台国時代というのはありません。それは『魏志倭人伝』によって弥生時代のどこかに埋もれています。そしてその後の古墳時代を経て大和朝廷につながるものも明確にされていません。一方で『卑弥呼』は『天照大神』だとか、『神功皇后』だとか、諸説紛々何も明らかにされていません。その所在も『魏志倭人伝』をたどる以外に何の根拠もありません。縄文人だって私達とどうつながっているのか、それが弥生人によってどうなったのか、それ以前に縄文人が誰なのか、弥生人が誰なのか、それすら分かっていません。縄文人は私達ではなく、琉球人とアイヌ人なのか・・・・?

この不安感が私を古事記の世界に誘い込んだ原因です。この血と体を持った私は一体誰なのですか???この日本人が忘れていたアイデンティティを取り戻すという仕事に、私は自分の意味を見出しています。今日は結論だけにして、これからの展開にその間を埋める理由を明らかにしていくつもりです。

邪馬台国は神武天皇がお生まれになった九州の地にあった『ヤマト国』を称して、魏志用に『陳寿』が作った国名の当て字です。それで東に移った大和朝廷が神武天皇に自分の国の謂れとして『カムヤマトイワレヒコ』を贈り名したのです。この『邪馬』は『ジャバ』であり『ヤバ』であり、今日も耶馬渓が残っています。そして『ジッポン』『ジャパン』の音のもとで、漢字採用後に『日本』の根拠の一つともなりました。もう一つの根拠は神武天皇による東征で、高句麗以来の『邪馬』=『東』に『日いづる国』の意味をとったものです。でも読み方は古代以来2000年、あるいは3000年以上ずっと『ヤマト』です。

では『ヤマト』なる国号はどこから来たのかというと、それは『邪馬』が来るはるか以前に日本列島にいた縄文人の『イヤマト』・・・・・『まほろば』や『ホツマ』を生み出す語源となる言葉をから『ヤマト』国は生まれました。それを構成民族を知っていた陳寿が『邪馬台国(邪馬の国)』と当てたのです。陳寿がなぜ『邪馬』なる字を当てたかというと、神武天皇の系統が殷だと言っているのです。

詳しくはブログ記事『 五色人の謎』シリーズ4編()を読んでいただきたいと思いますが、我等がアジアには蛇族とその亜流である鳥族、中東からそのままの部族性を持って辿り着いた牛族とそこから発展的に(?)派生した犬族と馬族の五部族がいて、その国の地理的性格により単一部族で国を作ったり、扶余の国民構成のように四部族であったり、高句麗のように五部族であったりしました。殷は鳥族の国でしたが、川崎先生は犬族を抱えていたと言っておられます。その鳥・犬の殷が周に追われた時、敗戦国民が『豬』と呼ばれ『邪馬』と呼ばれ蔑まれました。中華の陳寿は不敬にも、逃れて日本に辿り着いた殷人が縄文人に受け入れられて作っていた『イヤマト』の国の『ヤマト』に『邪馬台』なる字を付けたのです。まあそのおかげで天孫の天祖がどういうお方か知ることが出来ました。

この殷が周に追われた、或いは女媧伏犧が炎帝神農氏に代わられた時代のお話が織姫彦星の七夕伝説だと思います。織姫様は天帝の娘です。彦星は牛を引いている牽牛です。鳥族が機織り(絹織物)を発明し、牛族が農耕を連れてきました。そして追われてもなおアジアの天帝は以来ずっと鳥(その祖の蛇)で、お使いは風と雲(水)の化身・鳳凰と龍です。ギリシャ神話の主神ゼウスが何に変身するかご存知ですか?ゼウスは牡牛に変身するのです。私にはこれがずっと謎でした。

  なぜゼウスは牡牛になって人間社会に現れるのか!!!!

犬として発展しその究極の姿が狼の犬族でも、その父祖の姿は牛だったんですね!!何故ペガサスではなかったのか!!それは馬はゼウスの時代に人々が見たことのなかった動物で、各地に進出した後『風のように走る馬』と出会ったそうです。その昔オリエントに馬はいなかったらしいのです。そして何故龍ではなかったのか!!それは蛇族は牛族から追われて出ていった、あるいは牛族を捨てていった部族なんです。ですから犬族の記憶の天帝は、人力の抗いようのない荒れ狂う強い牡牛だったんですね!

邪馬台国ではない『ヤマト』国は縄文人と縄文人に受け入れられた殷人鳥族の国です。その縄文人が何人かというと、殷人の祖と同じ蛇族が3万年も前日本列島に辿り着いて日本で特殊化した人々(蛇文人)です。縄模様は蛇模様なんです。蛇のことを『くちなわ』と呼びますよね。その人々を私は『海津(ワタツ)族』と名付けています。この人々がカタカムナ人だったと私は信じています。天孫が結婚なさったコノハナノサクヤヒメも、ウガヤフキアワセズノミコトの母君豊玉姫も、神武天皇が九州で結婚なさったアビラツ姫もみんなワタツ族です。何故安珍清姫の物語に見られるような、馬(犬・牛)男が蛇女に追われるという鋳型があるのか、鶴の恩返しの鳥女がなぜ機織りをするのか、私達は『ヤマト』国を自分の血という記憶の中に取り返せるはずです。


そういうわけで今日の記事・私の邪馬台国は、私の血が納得した柿本和子説です。実は今年古事記編纂1300年の記念すべき年だということで出版の企画がありましたが、私のような名もない者の随想ですから頓挫してしまいました。自費出版という選択もあったのですが、私にはブログという公開の機会があることをあらためて思い、延々と長い展開になるかもしれませんが、『随想古事記』としてブログの記事にすることにしました。先日の私の夜の部の『ヒレフリ山』教室で発表したところ、参加メンバーからはその決心を喜んでいただきました。それで今回ブログのカテゴリーも整理し直して、これからの一連の記事を『父の背負子』カテゴリーに独立させたいと思います。これまでの『父の背負子』に入れていた記事は、中身を検討して残すべきものを一つ残しその他を新たな『父の懐』というカテゴリーに移しました。

どうぞ皆様もお仲間になっていただいて、自由に意見・感想をお寄せいただけたらと思います。よろしくお願いします。




それでは今日も:

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アインシュタイン博士の言葉

2012-08-17 11:29:04 | 父の背負子1(随想古事記)

ずっと何十年も気になっていた、アインシュタイン博士の訪日時の言葉と言われているものがあります。初めてその言葉に触れたのはホツマ伝えの研究(?)というか、人生の真実を追求してホツマツタエに辿り着いた頃のことです。ご存知の方も多いと思いますが、博士は仙台の多賀城をひそかに訪ねて、『日本という尊い国が今残っていることに深く感謝する』といった趣旨の言葉を残されたそうです。

それを聞いて嬉しくは思いましたが、ますます悩みが深くなりました。博士はお分かりだったのだと思いますが、私には何故尊いと言われたのか、その理由が分からなかったからです。今回オリンピックを見ていて、私の頭の中でぐるぐる巻きになっていた『ひも』が解けました。そしてわが国日本が尊いと博士が言われる理由も確信しました。間違いないとおもいます。

『五輪』と『五色人』・・・・・オリンピックを見ながら思うことは私達人類の兄弟姉妹である『五色人』の顔ぶれです。そして全世界に広く分布した足跡を思いました。以前の記事『五色人の謎』でご紹介したとおり、人類は大まかに三つの主要ルートで拡散したと思います。第1が、エジプト・メソポタミアからインドを手始めにアジア大陸の東側に沿って日本列島まで。第2に、エジプト・メソポタミアからバルカン半島を西に向かってブリテン諸島までと北西に向かってスカンジナビア半島まで。第3に第2グループの居残り組からコーカサスを超えアジアの内陸部を進んでインドと極東まで辿り着いた組と。

1と3はそれぞれ更にベーリング海峡を越えアラスカに辿り着き、南アメリカまで到達します。2は後代有史時代になってバイキングとなり北大西洋を越え、北アメリカに達します。それぞれを『五色人』で言うならば、10万年前のエジプト・メソポタミア人は『ウル』、つまりみんな『牛』族でした。色々いたと思います。黄牛、赤牛、白牛、黒牛、青牛・・・・・このころはまだ『バベルの塔』は崩壊しておらず、言葉は通じあっていました。

五色人の謎Ⅰ』で詳しく書きましたからかいつまんで言うと、その後『牛』だったトーテムをそれぞれの環境事情にあわせて『蛇(ナーガ)』→『鳥(チョ)』、『犬(イン)』→『馬「マフ」』とそれぞれをトーテムとする亜集団を生んで、『牛』『蛇』『鳥』『犬』『馬』の『五色人』が誕生することになります。こうして人類は広域に広がり、言葉の癖も生まれ、『バベルの塔』は崩壊します。言葉を共有しなくなったということは、戦争の激化を意味します。戦争が大掛かりになったのです。

先日友人から『ガリア戦記』をもらいました。紀元前1世紀のローマとカエサルを思いました。ローマもガリアもゲルマン人もみな『犬』ですが、貧富の差により、ローマ側にすれば防衛の必要でどんどん国境をローマから遠くに敷く必要がある・・・・・ガリア人から見れば、ローマの恩恵を受ければ、ゲルマン人の餌になる・・・・・ゲルマン人から見れば、裕福な土地を獲得して一族の飢えを無くしたい・・・・・

『蛇』族のインドでは、不毛な土地から『犬』のアーリア人の侵略を受ける・・・・・極東アジア大陸では女媧伏犧『蛇→鳥』からの三皇五帝で『牛』を加え、『夏(牛)』『殷(鳥)』『周(牛)』『秦(犬)』と王朝の交替が起こります。つまり前住人を追い出した、或いは隷従させたのです。こうして人々は中央から辺境に逃げていきます。朝鮮半島も同じで、最終的に『李氏朝鮮(犬)』で現代へとバトンタッチをしました。

秦(犬)の始皇帝が初めて『皇帝』を名乗ったとされています。もしかすると『皇』帝は、『白(馬族の色)の王』なのかもしれないと思います。『五色人』を理解させてくださった恩師とも言うべき川崎先生は、『ウル(牛)』とは動物のことで、その大きなものを『獅子』と言い『犬』の大型、つまり『狼』のことだと言われています。またその『ウル』の都市にはシンボルマークとして『大角鹿』が『獅子』として描かれているとも言及されています。つまり『牛』は『鹿』であり、『犬』であり『狼』であり、そして『馬』であるわけです。

世界は最初に『牛→犬→馬』群団から『蛇→鳥』族群が追い出されてアジア大陸の辺縁部に沿って分布し、次に『牛→犬→馬』群団が侵略(?)席巻して現代に至っているわけです。アジアでは必ず西から東へ、北から南へと侵入にさらされます。現代でもロシアや共産党中国、朝鮮半島の北朝鮮・韓国などは同じことを言っています。決して反対向きに動きません。その中で唯一東から西へと刃向ったのは、高句麗です(そして日本と)。何となく親しみが湧く理由でもあります。

我等が日本はどうなっていたのかというと、およそ3万年前には『蛇』族が辿り着いていました。そして日本独自の環境下で独特の民族を作り上げていました。私はそれを『海津(ワタツ)族』と呼んでいます。その人々の所へ、次々と人々が逃げてきます。先ず同族の大陸『鳥』族が難を逃れて辿り着きます。これが多分邪馬族でしょう。その後次々と同族相食み、犬も牛も馬も渡ってきます。これが最終的にどうなったかというと、我等が日本では『古事記』を完成させて『大和民族』を作り上げました。『大和(やまと)』は『五色人大和(だいわ)』民族なのです。

この国柄をアインシュタイン博士は『尊い』と言われたのだと思います。他にどこにもありません。人種の『坩堝(るつぼ)』はあっても、溶けて作り出した錬金は我が日本以外に有りません。『ホツマ伝え』に関わられた馬野周二先生は石原莞爾研究家でもあり『世界最終戦争論』を出しておられますが、太平洋を隔てて向かい合った二つの国家の運命について書いておられます。今ではそれは『坩堝(るつぼ)』国家アメリカ合衆国と『錬金』国家日本の運命だったのかと思います。大きな戦争を経験しましたが、その間にあるのが太平洋であることに希望を感じています。




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随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)

2011-04-21 14:06:53 | 父の背負子1(随想古事記)

言語に関する考察・追記

五色人って本当はどのように読むのでしょうか?『ごいろひと』?『ごしきじん』?『いついろひと』?・・・・・?赤人、青人、黒人、白人、黄(黄色)人ってどのように読むのでしょうか?『あかひと』『あおひと』『くろひと』『しろひと』『き(きいろ)ひと』???・・・・・?

前回『五色人の謎』の記事を書いていて考えたのですが、五色人はよいにしても違った読み方があるのかもしれません。それは赤と青はそのまま『あか』『あお』だと思いますが、黒は『アヤ』、白は『アマ』、黄は『アメ』ではなかったのかと・・・・・・そして記紀や万葉集に出てくる『アマノ・・』『アメノ・・』や『白水郎(アマ)』などは部族の区別ではなかったのかと・・・・・。
赤は鳥(か蛇)族、青は犬族、黒は鳥(か蛇)族、白は馬族、黄は牛族・・・・・古代から続く地名・アマベとアヤベの違い・・・・・神名におけるアマとアメの違い・・・・・海人ではなくなぜ『白水郎(アマ)』なのか・・・・・なぜ貴人はウマヒトなのか(このことについては川崎先生も『混血の神々』の中で述べておられます。)・・・・・なぜ飛ぶ鳥がアスカの係り言葉なのか、飛鳥(アスカ)という地名なのか・・・・・ホツマツタエに出てくる白人・胡久美・・・・・


アマは馬で白、アメは牛で黄色、アオは犬で青、残るアカの赤とアヤの黒ですが、前回チュモンや玄鳥氏からの類推で疑問を残しながらも赤を蛇、黒を鳥としましたが、私は矢張り赤が鳥、黒が蛇だと結論したいと思います。アヤメモワカヌ存在としてはその性質より蛇が似つかわしいと思うし、古来より朱鳥と鳥が赤を代表してきたからです。チュモンの朱蒙については、伝説どおり『弓の達人』説・朱(鳥)の意味をとりたいと思います。これは夢の中でヒントをもらったのですが、鳥のような(目をもっているような)矢を放つ(百発百中)馬人ということではなかったのかと思います。(矢は羽がついていますからね!)

それで赤人(あかひと)が鳥、青人(あおひと)が犬、黒人(あやひと)が蛇、白人(あまひと)が馬、黄人(あめひと)が牛というのを私の説とします。


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随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ

2011-04-14 12:19:51 | 父の背負子1(随想古事記)

言語に関する考察・前章3

世界の五族の形成について前章1と2で展開してきました。そしてその五族が日本にいた証拠を川崎真治先生は発表しておられます。その証拠についてお知りになりたいのであれば、先生のご本などで研究なさって頂きたいと思います。推薦図書は『混血の神々』です。(私は比較言語学を学んでいませんので、あまりこういう話に深入り出来ないのですが、注意しながら自分の論点《言語の発生》を守っていこうと思います。)

さて高句麗建国は紀元前3~40年とみなされていますが、当時の日本にも五族が揃っていたかについては証明する史書はありません。魏志東夷伝の倭人の条によって国名を見れば、2、3世紀の女王国の邪馬台国は前回述べたように鳥ですし、奴国(博多)は蛇です。伊都国は犬ですし、宇美は牛です。そして末蘆が馬です。アイヌ民族にも多分五族がいますが、犬が優勢でした。熊襲(クマソ)は本来は隅蘇で、梟でタケルと呼ぶ酋長名でもわかるように牛と鳥です。琉球民族は犬と蛇だと思います。少なくとも3世紀初めに五族がそろっていたことはうたがいありません。邪馬台国は部族国が連合した社会で鳥が盟主(女王)だったのです。

前章最後で述べたようにその五族が五色人なのですが、ここで整理をしたいと思います。すでに高句麗で部族の名前が、馬加が涓奴部、牛加が絶奴部、豬加が順奴部、蛇の南加が灌奴部、狗加が桂婁と改名された部族名を持っていました。これは漢字の意味や音から字を当てて使われたのですが、漢字文化圏にはそういう類推が起こりそれぞれの部族を意味する当て字もありました。漢字の無かった日本では音も当てられました。(漢字はありませんでしたが、私は文字はあったと思っています。)主なものをあげれば、蛇には南や波、ナやニ、鳥にはタ、ツや井、犬には伊や獅、具、イ、牛には蘇や松、ゴやソ、福、馬には安、末、朴やホ、ミ、マなどで、様々な歴史的事件や状況により付け加えられていきます。区別したり思い出すための暗号みたいなもので、枕詞のようなものです。それは当時の社会では常識だったのです。誰にでもわかる符牒だったのです。それでその五部が高句麗で先ず方角分けされました。それは『東部太夫』の淵蓋蘇文でもわかるように、高句麗では五族が五部になり東西南北中の五文字を使った五部になりました。これは東夷西戎南蕃北狄がそのまま当てられたと思います。東が鳥、西が犬、南が蛇、北が馬、中央が牛(この北と中央はどちらか自信がありません。)これは三代ムヒュルの時代に始まった中央集権化による部族改編の動きで、十代王の時代くらいに大体確立したとされています。既成階級をそれほど刺激せず確実に解体を進めて行かねばならないのですから、どれほど中央集権化は困難な事業だったろうと思います。で次にその五部が色分けされた、というより、色が紋章化したのです。日本の戦国時代にも五色の色分けされた軍団があったことをご存知でしょう。色分けは見やすい区別法だったのです。

それで馬はマ・ミ・バク・ボクの符牒をもつことから白、牛は昔から黄牛(アメウシ)と言って黄色が特色です。犬はチンギス汗から想像するに遊牧民の色は青です。残るは赤(朱)と黒(玄)ですが、昔から中国では朱鳥、玄龍だろうと思います。鳥が赤、黒が蛇ですね。これは同族ですからどちらでもいいのですが・・・・・ですが、これもチュモンを見ながら思いました。玄都郡の太守ヤンジョンの鎧のマントは白でしたよね、ヤンジョンはケマ国の王族で馬でした。桂婁のソソノは犬の青、沸流の牛ソンヤンは黄色、チュモンは赤と黒、扶余のクムワも赤と黒、テソの青は分かりませんでしたが、若き龍(太子)は青龍なのかと勝手に考えたものです。それにしてもよく出来ていると思います。チュモンは漢字で朱蒙です。蒙は馬の符牒音マのなまりです。それで赤い馬ですよね、赤は母方でしょうからハベク族という蛇族です。殷の王朝には玄鳥氏という一族がいました。殷滅亡後にはその後裔とも考えられる燕という国がありました。玄鳥も燕もツバメで黒ですよね。鳥が黒だと思います。いずれにしても大王は第一皇風姓・太昊伏羲氏の鳳凰と龍の系譜(赤と黒)が必要だったのでしょう。それでムヒュルの映画の題名は『風の国』でした。鳳凰と龍が風の神の化身だったことは前章でご紹介しました。よく出来ていますよね・・・・・・・今もそういう符牒が生きているのでしょうか?

こういうわけで五族がいた日本に五色人はいたのです。赤人が蛇族、青人が犬族、黄色人が牛族、白人が馬族、黒人が鳥族でした。これが日本人を形成している全世界の五族です。渡来した順序は蛇、それから鳥です。これが『うから』、『たから』です。つまり海から→うから、つ(順奴部の川→ひらがなの“つ”、つまり豬で鳥)→たからとなり、蛇と鳥とが日本人の原初の構成員で両者を『うからどち』と呼びました。縄文人は蛇文人だったのだろうと思います。そこに牛、犬、馬が渡来してきたのです。最後に来た馬はアジア大陸中央の山から来たということで『やから』と呼ばれました。なかなか支配階級になじまない一般民衆は、『やから』と言う言葉に『うからどち』のような親しみが持てなかったのだと思います。どこの馬の骨かと感じたのかもしれません。海幸彦山幸彦の昔話は、こうした鳥と蛇(海幸彦)が馬(山幸彦)にやられたお話だったのでしょう。そしてしおつちの大神、つまり牛(の仲間の猿)が馬についたと言っているのです。本当は竜宮城にいるのですから、蛇のはずなのですが・・・・その前に竜宮城も乗っ取られたのかもしれません。何故かというと竜宮城のお姫様は乙姫様で、乙ということは牛だと言っているのですから。

こうして日本も五部族社会で、五色人が年に一回(?)阿蘇に集まって会議を開き国事を議論したのです。阿蘇は馬牛という意味ですから、当時の王朝は馬牛だったのだと思われます。ソサノオノミコトは牛、ニギハヤヒノミコトは蛇か鳥、ナガスネヒコも蛇、ホノニニギノミコトは馬で母が蛇、父君のオシホワケノミコトは牛で母が馬、あるいは別名別雷命(ワケイカヅチノミコト)という名前から風神の性質雷を示しており蛇かもしれません。龍は雷と雲を伴って現れる風神の使いです。猿田彦は牛、ウガヤフキアワセズノミコトは牛、豊玉姫は鳥、邪馬台国の卑弥呼は鳥、蘇我氏は牛、蘇我馬子は母が馬だったのでしょう。蘇我の入鹿は母が犬。蘇我蝦夷は母が蛇だったのではないでしょうか。桓武平氏は鳥、清和源氏は犬でしょう。そういうわけで名前は完全にその人の血統を示しています。五色人に馬の白人がいるということは、五色人のお話は馬が渡来してからのお話になります。古代馬が渡ってきたのは、濊陌などの満州方面から日本海を越えてあるいは間宮海峡を越えてかのどちらか、そして朝鮮半島からの二経路しかありません。前者の系統は蝦夷の阿部一統、後者は末蘆国のみです。三皇五帝に馬がいない以上ホノニニギノミコトが高千穂に来られたのは殷時代(紀元前1300年頃)以後の歴史なのだろうと思います。

以上が日本で五色人が集まったとされる伝承に対する私の回答です。どうぞ自由にご自分の考えを発展させてください。それから以後日本でも中央集権化が大王の意向となります。そうしないと極端に言えば何もできないのですから。高句麗でも始祖チュモンの死後ユリ王が遭遇した苦難がムヒュルの物語の大部分ですが、偉大なるチュモンの影響力がなくなるとまたぞろ息を吹き返したのが沸流、ソンヤンの一族に代表される卒本諸族でした。それを慮ってチュモンはユリの王妃を一番勢力のある沸流から選んだのだろうと思います。以後王妃は沸流から出されることになりました。また牛族は美人の系譜でもありました。有名な項羽の『虞や、虞や、汝を如何せん』は有名ですよね。虞もまた牛美人です。そもそも姫という字は字源的には牛の女を意味していると川崎先生はおっしゃっています。ムヒュルも大加(てが)会議に苦慮していましたよね。大加とは部族長クラスの人のことです。その意向を無視することが出来ないということは決定権が無いということなのです。

この中央集権化に真っ先に成功したのが中原の王朝秦(犬)、そしてそれに続くのが漢(蛇?鳥?)です。中央集権化というのは中央軍、つまり国軍を一元的に編成できるかどうかということにかかっていました。各部族が国軍に並ぶ私兵を持っていたのでは、中央集権化は出来ないのです。そして漢は強大な軍事力を背景に影響力を行使したのです。玄都郡太守のヤンジョンもケマ国が漢に征服され漢の官僚となったのです。周辺国は漢の軍事力を恐れ、漢の属国となる道を選びました。その中で高句麗は漢との対抗姿勢を貫いた唯一の独立国です。漢や唐の側からは冊封国のように扱われてはいますが・・・・これが私が高句麗に心ひかれる理由に一つです。またそれは漢と対峙する地理的条件にも大きく影響されました。地理的条件は一種の運命だと思います。日本列島にも『漢委奴国王印』という金印があります。これは邪馬台国に与えられた印璽ではなく、川崎先生がおっしゃるように委奴国つまり犬国の王に与えられたのだろうと思います。同じように与えられた扶余の国璽は『漢濊王印』、濊狛国つまり馬国王に与えられたことが分かります。

朝貢するというのは滅ぼされないためということもありますが、隣接する国を牽制するため、あるいは文化的恩恵を受けるためのどちらかでもあるだろうと思います。我が国も中央集権化の方途を模索したのだろうと思います。それで7世紀の聖徳太子は遣隋使を始められ、遣唐使に引き継がれました。太子の冠位十二階の制定も部族の姓(加羽根・・・加、つまり部族を表す羽飾り)を忘れられない現実社会があったのだということがよくわかります。中大兄皇子にいたる1世紀の苦難を超えて、大化の改新という中央集権化が始まったのです。そして天武天皇は初めて神話の統一をはかられました。これが何のためかと私がその御心を完全に推測することは出来ませんが、日本民族の創生だろうと思います。色々と憶測は出来ますし単純ではなかったと思いますが、五族を捨てて『八紘を家となし』一族にしようとなさったのだと思います。私達日本人は長いこと自分達を単一民族だと信じていました。打てば響き合う心情を育ててきました。これは大いなる平和の大実験です。こんな民族はいないのです。万世一系の皇統ではなかったかもしれません。でも天武天皇は心情を受け継がれて大和島根となさったのだと思います。それを古事記という神話になさいました。日本書紀は事績もさることながら、皇統の継承と血統としての母方を記録するためだと私は思っています。

私達日本人は世界の五族(五色人)協和を成し遂げた国民なのです。誰でも受け入れる八百万の神々を心の拠りどころにしました。八百万だからさらに増えようがどうしようが八百万に変わりはない、一なる無限を実地でいった民族なのだと思います。姓(加羽根・カバネ)の廃止以後私達日本人は日本族化を目指しました。古事記にもありますが、オシホミミノ命はタクハタチチ姫(鳥)をお后に迎えられ、ニニギノ命はアタツ姫(コノハナノサクヤヒメ)(鳥)をお后に迎えられました。天つ神が国つ神の娘をめとるという結婚政策により部族の融和がずっとはかられたのです。雄略天皇は『この丘に菜つます娘、名のらさね家をも名をも』と万葉集の冒頭に歌われて地方の家の娘に求婚なさっています。そして我が国の天皇家が姓をお捨てになり中臣鎌足が藤原姓になったということが我が国の姓が部族から離れる始まりではなかったのかと思います。時代が下って武家社会を迎えるときに平氏が現れ源氏が現れる・・・・・このころに太古から受け継がれた鳥と犬の意識があったのか、私にはわかりません。古事記編纂という形での天武天皇の大いなる日本民族創造は結果的には歴史を葬ったかもしれませんが、人々が生きるという日々の幸せを作ろうと思われたのかもしれません。それ以後私達日本人は混血の単一民族になったのだと思います。それにまさか21世紀にいたってこれほど日本人が歴史を失うとは思っておられなかったことでしょう。過ぎたるは・・・の格言通り、私達が節度を持って歴史を取り戻す努力をしなければならないと思います。これで『民族の形成』から『五色人の謎Ⅰ』とこの『Ⅱ』とで3回にわたった前章は終わりです。次回からはいよいよ言語に挑みたいと思います。





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随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ

2011-04-13 11:57:52 | 父の背負子1(随想古事記)

言語に関する考察・前章2

前章1で民族の移動の話をしました。今日はそれを踏まえた上でのお話です。『五色人』ってご存知ですか。古代にいたとされる世界の人種の言い伝えで『竹内文書』(偽書とされている)の記録です。また九州阿蘇の幣立神社には五色人の面が伝わっており、毎年8月にはお祭り(五色人祭)が行われています。何時でしたか特別な例大祭に久司先生もお参りなさったと聞いています。

この五色人は赤人、青人、黒人、白人、黄色人でそれぞれ各人種にあてはめられていますが、今ひとつ疑念や訳の分らぬもやもやを払拭するに足る説明がありません。それに幣立神社にはその五色人が集まってお祭りをしてきたというのです。これは私にとって長年の謎でした。それが何時でしたかお話した、川崎真治先生の『混血の神々』に出会って新しい波動と遭遇し新しいインスピレーションにまきこまれ、『カタカムナが人類最初の言語である』という命題の新しいステージが開けました。

川崎先生によると(私は先生を正しいと思いますが)、約三万年前以来中国大陸に存在した民族はシンボルマークをもっており、五種族だったそうです。そのシンボルマークをトーテムと呼び、これは三万年前に始まったことではなく五万年前のメソポタミアにもあり、多分十万年前の出アフリカ時にもあったであろうと思われています。何故かというと前章1にも書きましたが、アフリカを出る、メソポタミアを出る、などという画期的な事件は必要性が無ければ起きようはずもありません。一人や二人なら冒険に出るということもありましょうが、一族郎党を引き連れて・・・・などというのは族長の決断なしにはありえません。

最もあり得る筋書きは、そこに(後から見れば)居座った部族による迫害を逃れて、つまり支配階級を追われてということだろうと思います。何時も草原のヌーが引き合いに出されますが、ヌーの数が少ないうちは十分に草原内の草(食べ物)を分かち合えるはずです。ヌーの場合は数が増えればライオンが増えるという仕組で適正数が維持されて食糧が保全されていますが、ライオン(天敵)がいなくなった人類は弱い方が出て行かざるを得なかったのだろうと思います。つまり当時の人類社会は部族を形成するに十分な人口があり、食糧と権益を分かち合うための身内と外部という区別がすでにあったのです。つまり身内だと認識する、あるいは身内でないと区別するための符牒があったはずです。

以前私の『ヒレフリ山教室』で名前を使わずに自己紹介をするという実験(?)をしたことがあります。その難しさをみんな実感しました。名前というものの持つ意味を深く感じたものです。名前はその人をその人と分からせるための符牒です。名前には姓と名があります。姓は属している物の符牒、名はその人だけを呼ぶ符牒です。家族には家族の姓が、平戸人には平戸という地名が、長崎県人には長崎県という県名が、日本人には日本という国名が、属している符牒です。そしてこの符牒が古代社会にあってはトーテムというものだったのです。誰かを呼ぶ時は、『どのトーテムの誰とかさん』と呼んだのです。日本史でも耳慣れていますよね、そがうまこ(蘇我馬子)さん、おのいもこ(小野妹子)さん、たいらきよもり(平清盛)さん、みなもとよりとも(源頼朝)さん!!!

古代社会のトーテムにはどんなものがあったかというと、(川崎先生によれば)メソポタミア人は牛を、その中からインドネシア・ポリネシアに進出して海洋民族となった人々は蛇を、そこから中国大陸に進出して原初シナ民族を形成した人々は鳥を、ヨーロッパに進出した人々が作った民族は犬を、南シベリアで遊牧民族となった人々は馬を選んだらしいのです。これが現生人類のもっとも大まかな、現代の国籍を超えた民族の姓です。私達は忘れていますが、人類と国籍の間に入れるべき民族の姓です。たとえば私なら、人類、牛・蛇・鳥・犬・馬のどれか族、日本人、長崎県本籍、柿本という家族の和子です。現生人類はこの五族のどれかにみな属しているのです。勿論牛にも色々、蛇にも色々、鳥にも色々、犬にも色々、馬にも色々います。

牛、蛇、鳥、犬、馬という各トーテム族には、部族員が増えて地域の特色や複雑さが増すにつれ、トーテムはダブルになりトリプルになっていきます。ちょうど電話番号が地域番号の桁数を増やすと格段に許容量が増えるのと一緒です。牛族にも牛、塩(猿)・・・・、蛇族にも蛇、龍、象・・・・、犬族にも犬、狼、ライオン(獅子)・・・・、馬族にも馬、鹿・・・・・などとさらに分かれて行きました。副トーテムに牛族はフクロウ、犬族は鷲や鷹などと種類を増して行きました。

ここで川崎先生とちょっと意見が違ってくるのかもしれませんが、インドシナ地方の蛇族と原初シナ人の鳥族とは元々同じだったと思います。その根拠は
           1.もともとメソポタミアから移動した風の神を祭る海洋民族だった。
           2.基本トーテムがともに風神ゆかりの蛇と鳥で、ともに卵生である。
           3.古代中国で生まれた王権のシンボルが龍(蛇)と鳳凰(鳥)で、ともに風神の権化である。
などです。川崎先生はともに黄色人種と言われています。(マクロビオティックによれば、そういう食生活の地域であったということになります。)

もともと蛇族はメソポタミア地方で牛の一族であった塩(ソルト・サルト→サル→猿)族の一部が海上交易術を編み出してインド方面に進出したドラビダ族だろうと川崎先生は言われています。そして川崎先生によれば、そのドラビダなる語もdu‐ur、つまり次の牛という意味らしいのです。それでメソポタミアに残った塩族はそのまま牛族にとどまりましたが、海洋進出をした塩族が蛇をトーテムとする蛇族になりました。後代のギリシャの都市国家でもそのマークは使われましたし、今でも蛇は交易のマークです。それで北上して内陸部に入りこんだ塩族が海洋交易のマークを捨て海を支配する風神のお使いであるもう一つのトーテム・鳥を採って独自の文明を開きました。

それが三皇五帝に始まる中国の文明です。三皇五帝をご存知ですか。第一皇は風姓・太昊伏羲(たいこうふっき、または ふくぎ)氏、第二皇は姜(きょう)姓・炎帝神農氏、第三皇は姫(き)姓・黄帝公孫氏、第一帝は風姓・少昊(しょうこう)金天氏、第二帝は風姓・顓頊(せんぎょく)高陽氏、第三帝は風姓・帝嚳(こく)高辛氏、第四帝は伊祁(いき)姓・帝堯陶唐氏、第五帝は姚(よう)姓帝舜有虞氏です。この後夏・殷・周・秦・漢と続いていきます。ちなみに伏羲は蛇身人首、神農は人身牛首とも伝えられています。これはどういうことかと言いますと、身は母に譲り受けられるものですから、その母の出自が蛇族で、首、つまり系譜はこの王朝の創始者・人(鳥)族であると言っているのです。神農は母が鳥、父方が牛で牛族だと言っているのです。

こういうわけで中国の王朝はまず鳥族、次に牛族、牛族と続いて、五帝になると鳥族、鳥族、鳥族と続いて犬族、牛族と受け継がれました。夏は娰(じ)姓夏后氏で牛、太祖は禹ですね。殷の王朝は風神に連なる風姓ですから鳥ですね。(こういうのは文字や言葉を見ればわかるのですが、もし詳しく知りたいと思われるのなら、川崎先生やその方面の研究書で自由に勉強なさってください。)というわけで少なくとも三皇五帝の時代は鳥、蛇、牛、犬の各部族がいたことになります。夏は牛、殷は鳥、周も牛です。そして春秋戦国時代を迎えます。周礼は乱れ秩序を失い、犬の秦の始皇帝の登場となり、次に中国の王朝の正統と自負する漢王朝が続きます。漢王朝はその自負や国名の漢字から蛇か鳥だと思われます。こうして中国大陸(漢字文化圏)の王権は『龍』と『鳳凰』が象徴することになりました。

この王朝の交代劇は当然周囲の満州地域、朝鮮半島、我らが日本列島をも巻き込んで行きます。満州や朝鮮は陸続きですからなおのことです。そうした関係が中国の王朝を常に脅かす東夷西戎南蕃北狄と言われる周辺民族を作りだしたのです。鳥の殷王朝からすれば、南蕃は親類筋の蛇族ですが、王朝内には西戎の牛、犬がいたことが伝説で分かります。前身の夏は牛でありそのまま残留した者もいたでしょうし、殷には犬侯と称する官位があったとの記録があります。殷には犬が藩屏部族としていたことになります。殷という国号も犬が強かったことを示しているのかもしれません。そして牛や犬が来ていたならば当然馬もいたことでしょう。ですが馬は遊牧民であり、なかなか定住になじまなかったと思われます。そしてこうした部族社会はなかなか入り混じらずにその部族の独立性を長く維持するのです。

私達はその証拠を12~13世紀の元王朝に見ることが出来ます。私達は元が部族階梯社会であり、クリルタイと呼ばれる部族長会議で国事の決定が行われ、全盛期のクビライ汗の死後は5つの汗国に分かれたことを習いました。クビライ汗国、キプチャク汗国、イル汗国、オゴタイ汗国、そしてバツ汗国・・・・・・?この元王朝の始祖は有名なチンギス汗、『青い狼』と称された英雄です。狼は大型犬のことで、つまり犬ですね。『元』という国号も犬であることを暗示しています。この部族階梯社会というのは王位の継承すらクリルタイの同意がないと出来ないのです。つまり国の中は全てが分権状態で、効率よく政治をする国家権力は無かったのです。

ここでやっといつもお話している《チュモン》と《ムヒュル》の出番がやってきました。この韓国映画のおかげで私は自分の謎を解くことが出来たのです。皆様ご存知の《チュモン》は高句麗建国のお話、《ムヒュル》はチュモンの孫が偉大なる高句麗の基礎固めに登場し扶余を滅ぼすまでの話です。チュモンの出自である北部満州にあった扶余の社会構造は、馬加(まか、orまが)・牛加(うかorうが)・豬加(ちょが)・狗加(くが)の四族で、王族は馬加の一族で鹿をトーテムとしていました。まあ映画は映画で、各部分のシナリオがどれだけ事実を反映しているか分かりませんが、それでも良く出来たいろいろ考えさせられるお話でした。そして扶余王クムワ(金蛙)も高句麗の始祖チュモン(朱蒙)もともに卵生神話を残していて、鳳凰か龍の化身、つまり持って生まれた王者の出自を後世に伝えています。東アジアでは大王は第一皇風姓・太昊伏羲氏の後継者でなければならないのです。

高句麗は映画ではチュモンと桂婁(ける)とが協同して建国をはたすストーリーになっていました。桂婁は卒本(チョルボン)の一部で、卒本には他に沸流(ピリュ)、灌奴(カンナ、貫奴・桓奴の字も用いられる)、順奴(チュンナ)の部族がありました。そこにチュモン率いる一族が王直轄部族として加わります。このお話に出てくる様々な筋書きは伝説をつなぎ合わせて想像したものですから、現実がどういうものだったかは分かりません。高句麗についての史書では、チュモンが沸流川をさかのぼって松穣(ソンヤン)を降伏させ沸流を提那都(?)と改名したとあります。また高句麗の社会構造は涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁と書かれています。高句麗は時代が下っても五部貴族社会でしたし、この記録は魏志の内容なので三世紀くらいのものです。建国当時はもっと独自の部族名だったかもしれません。

扶余の部族はトーテム名そのままですが、高句麗は漢字の意味を体した“仮借”が行われて、どのトーテムか分かりにくくなっています。詳しい説明は省略しますが、川崎先生は扶余の豬加を鳥に、高句麗の涓奴部を馬に、絶奴部を沸流の牛に、順奴部を豬(鳥)に、桂婁を犬に当て、残りの灌奴部を高句麗の地理的特性による蛇族だろうと言っておられます。扶余は内陸部だったので海洋性の濃い蛇族は部族としてはいなかったのだろうと言っておられます。つまり高句麗社会には世界の五族がいたことになります。初期の高句麗でも王族は馬、映画のソソノは桂婁でしたが、当時の卒本四部族で優勢だったのは沸流の牛で二代王から王妃は沸流(絶奴部)から出すことになり、ムヒュルの母も沸流の松(ソン)氏です(ソンヤンの娘)。

ですが三世紀の魏志には王族は桂婁と書いてあるそうです。そしてまた王族の桂婁を五部族の最後に記載しています。また高句麗と言わず句麗とも言っています。句麗は狗麗でもあり、狗は犬を矮小化した文字でもあるのです。中原王朝は周囲に卑しんだ字を用いることが多いのです。後世の史家は資料を大切にするので(それしか資料が出ていないので)仕方ありませんが、身近には魏志倭人伝の邪馬台国があります。邪馬は東夷伝にも用いられた豬(つまり鳥)族を卑しんだ言葉です。豬自体がすでにバカにした言葉なのですが・・・・・そして魏志倭人伝では日本の2~3世紀の支配国も豬(鳥)族だと言っているのです。高句麗に戻りますが、高句麗では王族が馬から犬になりました。どうやってかというと想像するに外戚の力だろうと思います。高句麗最後の宰相(?)淵蓋蘇文は東部太夫で字面からは順奴部で豬(鳥)だと思われますが、日本書紀ではイリカスミとなっていて犬だと記されています。

こうした王朝の交代劇、つまり部族の放逐劇が周囲の民族に影響をもたらしました。当然朝鮮半島南部、日本列島にまで及んだのです。やっと我が日本に辿り着きました。我らが日本列島には約3~4万年前インドネシア地方から蛇族が渡ってきて住みつきました。ここに中原が牛、犬、馬の勢力が強まるにつれて、蛇と同種の鳥(豬)が土地を追われ日本海を渡ってきて原始日本人を形成しました。そして中原から朝鮮半島の王朝の交代劇のたびに牛、犬、馬が追われて渡ってきたのです。そしてわが日本にも五族が揃うことになったのです。当に我が日本はアジア大陸の東の果て、行きどまりです。結論を言いますとこの五族が五色人です。それぞれに何色を当てるかについては次章『五色人の謎Ⅱ』に譲りたいと思います。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!!




           


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随想古事記前章・民族の形成

2011-04-11 09:16:02 | 父の背負子1(随想古事記)

言語に関する考察・前章1 

私達の祖先はアフリカ起源で、現存している人類はみな同じ祖先から派生したといわれています。中学や高校で習った何種類かの原人たちは現生人類の祖先ではないとされています。ヨーロッパで発見された旧人のネアンデルタール人も直接の関わり合いは無いらしい・・・・・アフリカ起源の祖先が世界各地に散らばって環境に適応して生き残ったらしい・・・・・。それは原人から新人までの系統中第3回出アフリカ組で、約10万年前とされています。

ひるがえって現代の世界を見渡すと、アジア人がいる、ヨーロッパ人がいる、中近東のアラブ人がいる、ユダヤ人がいる、インド人がいる・・・・・・・こんなに様々な人種がいてそれぞれの言語を使っている・・・・・・こんなにまで違っている人々がみんなアフリカ起源で家族兄弟に等しいとはと驚嘆してしまいます。単一種族がこんなにも多様な民族に変化しているのですね。

何故こんなことがあり得るのかと考えれば、動物の種を考えれば自ずと分かりもしようというものです。虎がなぜベンガル虎、シベリア虎・・・・・と違う種に分かれたのか、もっと言えばネコ科の動物がなぜライオン、虎、豹、チータ・・・・・などと分かれたのか、つまりは食性という対応によったことが分かります。アフリカのサバンナの草食動物が今でも食べ物を求めて雨季と乾季の移動を繰り返しています。それを追って肉食動物が暮らしています。草は適応できる土地であれば繁茂し出来なければ枯死する・・・・・動物はそれぞれが食べる草によって生きる場所を限定され、その動物を食べる肉食動物はその動物の生息圏にテリトリーを作る・・・・その繰り返しですね。

世界に動物が分布したのは草の分布と対応してのことで、雨季乾季の繰り返しによって巡回する動物は今も変わらずその習性を繰り返し、外部に進出した動物はそれぞれの土地で様々な習性をそれぞれに獲得していったはずです。また性質も草がその地に適応して特殊化すれば動物もまた特殊化していったはずです。マクロビオティックで言う『身土不二』の原則です。身土不二は進化の原則です。それは私達人類も例外ではありません。私達の今々の食生活も進化の現場なのです。マクロビオティックを知っていると本当に納得できますよね。その地方独特の生活様式、特に食生活が多様な民族を形成していきました。

さて現生人類、つまりホモ・サピエンスが初めてアフリカを出たのは約10万年前といわれています。まずメソポタミアに進出しました。なぜ住み慣れた場所から出ていくのかその理由としては、大まかに言うと人口の増大による拡大か地域社会における迫害かのどちらかで、両者は密接にかかわっていると思われます。そしてその時にはすでに動物の群れ以上の規模を持つ社会的なグループがあったことは想像に難くないはずです。とにかく10万年前人類の生息地域はアフリカとメソポタミアに広がりました。それから時代は下って約5万年前、先ず海岸沿いにインド・インドネシア・ポリネシア地域へ進出しました。学校の歴史で習ったジャワ原人(北京原人も)ははるか100万年前に出アフリカを初めて決行した直立原人ホモ・エレクトスで、原人時代の親せき筋ではありますが直系ではありません。

そして4万年前メソポタミアから西のヨーロッパへと、インドネシアから北上して中国沿岸部から日本列島までとオセアニアへ進出しました。続いて3万年前になると氷河以南のシベリヤ満州地域へヨーロッパ・メソポタミアからも進出して定着していったのだとされています。そして最後に1万5千年前シベリア地域からベーリング海峡を越えてアメリカ大陸へと人類は広がって行きました。当然その地域の特性をもった食生活を営みながら全世界に人類は生息することになりました。各地域の身体的精神的特性をもつ民族を形成していったと思われています。メソポタミア人達はチグリス・ユーフラテス川の恩恵を浴した農耕技術を発展させました。インド・インドネシアに進出した民族はメソポタミア時代に海上移動の技術を獲得した部族で、稲作をはじめとする農耕部族を生みだしアジア沿岸部を北上しました。犬を連れたクロマニヨン人に代表されるヨーロッパに移動した民族は狩猟技術を向上させたと思われます。そしてアジア最後のシベリア南部に進出した人々はそこに許された選択肢である遊牧民族を形成したのです。これが3万年前の人類分布です。

こういう有史以前の人類史の中から、私達の4大文明は生まれました。それぞれずれはあるものの紀元前5~6000年ごろには集落があり各文明の繁栄は紀元前3~4000年ごろと思われます。私たちの属する東アジアでは長江・黄河文明が興り、『三皇五帝』の王朝伝説に始まり夏、殷、周と受け継がれていきます。周に続く春秋戦国時代に孔子様はお生まれになり、私達にとってぐっと身近な歴史時代を迎えます。日本では縄文時代(約1万年)と呼ばれていますが、一般的に考えられてきたように未開の時代ではないと思います。それは人類の移動とともに文明も移動したと思われるからです。これで前章1を区切り、前章2では東アジアの民族形成について発表したいと思います。ついに5色人の謎に迫ります。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るだろうか!!!


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父の願い

2010-04-30 08:44:52 | 父の背負子1(随想古事記)
間もなく父の命日・・・・・と思っていたせいか、懐かしい父と夢で会いました。父が50歳前後、私は20代、そんな年齢のように見えましたが、私は晩年の父の健康を気遣って父と話をしていました。そして二人とも同じ大きな背負子を背負っていました。そして重い荷物を背負って行く道の険しさに、迂回をしていこうとすすめる私に賛成したものの、『一寸断ってくるから』と私を待たせて話をつけに行った父は、そのまま待てども待てども帰りませんでした。

置いて行かれたことを悟った私は父を呼び続けましたが、とうとう一人で後を追いかけなければならなくなりました。

これは一体どういうことなのでしょうか。私は父と同じ荷物を背負っている・・・・・。父は私を後に残した・・・・・。そして私は父が背負っていたもの、つまり父の願いを知っている・・・・・。私は父のたどった道を進むことになるのでしょうね。
コメント (2)
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