「汝尊(いましみこと)は高天原をしらせ」と父君イザナギノミコトから命じられたアマテラスは高天原を治められます。どういうわけでイザナギノミコトが高天原の統治権をアマテラスにお任せになることが出来るのかは分かりません。夜のオスクニの統治をまかされたツクヨミの命はこれを最後に登場なさることはありません。一方海原を統治せよと命じられたスサノオノミコトは、どういうわけで母と言われるのかこれも分かりませんが(神話に語られる通りとすれば、イザナギノミコトは独りで三貴子をお生みになりました)、イザナミノミコトのおいでになる根の堅州国(カタスクニ)に行きたいと泣きわめいて大洪水を起こす始末です。とうとうイザナギノミコトから『此処に居てはならぬ、母の国に行け』と追放されてしまいます。
それでスサノオは姉君アマテラスにお別れを申し上げようと高天原に上っていきます。地響きを立てて登って来るその異様な様子は、とても普通ではありません。いよいよ世界に領土争いが始まったのでしょうか。アマテラスは、「さては弟は高天原を奪いに来たのでは・・・」と武装して待ちうけます。そして有名なアマテラスとスサノオの誓約(ウケイ)のシーンが繰り広げられます。アマテラスはスサノオの佩刀を三つに折って噛み砕かれた後吹き出されると、宗像三女神と呼ばれる多紀理(タギリ)姫、市杵島(イチキシマ)姫、多紀都(タギツ)姫が息吹の中に現れます。スサノオがアマテラスの髪飾りや手にまかれた珠玉を噛んで吹き出される息吹の中からは、正勝吾勝々速日天忍穂耳(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ)命という長いお名前の神様を筆頭に天之菩卑能(アメノホヒノ)命、天津日子根(アマツヒコネノ)命、活津日子根(イクツヒコネノ)命、熊野久須毘(クマノクスビノ)命という五柱の神が現れます。
誓約(ウケイ)とは一体何かというと、自分の身の潔白を証明するためのものです。世界史によく見受けるのは、日本でも行われたらしい『クガタチ』類のものです。熱湯の中に手を入れて火傷をしなかったら本当のことを語っていると判じるものです。エジプトでは毒蛇の入った甕に手を入れるというものでした。熱湯に手を入れるやり方は最初からオールアンドオールとでも言いましょうか、多分無罪にはならなかったのではないかと思います。それともヨガの修行のような何かで可能になるのでしょうか。毒蛇の甕はオールオアナッシングで、一か八か、あるいは甕の数によって、確率的に運を天に任せるやり方としか現代人には思えませんが、それでも生き残るチャンスは『偶然』によってあったのではないかと思います。神話の『誓約』は言霊の国の神々にふさわしいと思います。息吹が形をとって現れるのですから、吐く言葉が嘘か本当か、形として見えるのです。こじつけと言われればそれまでですが、吐く息はその人となりを表すと思います。それでスサノオの心を知るために力の象徴である佩刀をお調べになりました。たおやかな三女神が現れて、スサノオノミコトは平和な心を映し出したのだと主張されました。アマテラスの装っておられる玉からは大神の勇ましい高天原の統治者としてのお覚悟通り、頼もしい五人の皇子が現れて『なんびとにも侵されぬ』断固とした決意を示されました。
スサノオに疑わしい下心は無いと分かって、アマテラスはスサノオが高天原に入ることをお許しになります。図に乗ったスサノオは『勝ちさび』と言われる乱暴狼藉をはたらきます。田んぼを壊し、水利の溝を埋め、汚物や肥を撒き散らします。それでも姉の命は『弟は酔って気分が悪かったのだ、何か別の良い計画があるのだ』とおかばいになります。スサノオの乱暴は止まるところを知らず、神聖な機屋を壊し、天の斑駒(ふちごま)を逆剥ぎにして投げ入れます。そして神につかえる機織り姫が死んでしまうのです。此処に至って、とうとうアマテラスは天の岩屋戸に閉じ籠ってしまわれます。
なぜ成敗なさらずに隠れておしまいになったのでしょうか。この段でアマテラスとスサノオは結婚されたのだという説もあります。アマテラスはスサノオを『我がなせの命』と呼んでおられます。これはイザナミがイザナギに対する呼びかけと同じです。確かにスサノオの乱暴狼藉を咎める神々に対するアマテラスの弁明は、酔っぱらいの夫をかばう妻の言い草のようにも聞こえます。その上誓約でお互いの子をお生みになりました。
さてアマテラスが隠れてしまわれたので高天原は真っ暗闇になりました。このアマテラスは太陽神として表現されていると一般的に言われています。それに異存はありませんが、明るく照らされて私達日本人が理想としてきた『清き明き心』を持ち続けることができるような、そんな心を守って下さる神様のような受け取り方を日本人はしてきたと思います。
さあ高天原は大騒ぎ、照らされて清らかだった世の中にいっせいに悪いこと曲がったことが噴出してきます。人間の裏側の醜い心が表に現れてきました。民というものは照らされていれば清らかで、闇になると醜くなるものなのです。照らすことが為政者の務めです。神々は大いに困って額を寄せ集め相談して出てきた解決策が、大笑いして歌い騒ぎ、アマテラスを誘い出そうというものでした。
神々のどんちゃん騒ぎが天の岩屋戸の前で繰り広げられました。長鳴き鳥が鳴きます。鉦や太鼓をたたいて、天(アメ)のウズメノミコトは可笑しげに踊ります。中におられるアマテラスは不審に思われます。暗闇に沈んでいるはずの神々が楽しそうに踊り歌い笑っているのですから当然です。そっと覗いて天のウズメノミコトに『なぜそんなに楽しそうにしているのか』とお尋ねになります。天のウズメノミコトは『あなた様より尊い神がお出ましになり皆喜んでいるのです』と、岩屋戸の前に鏡を差し出してアマテラスのお姿を映しました。驚いてもっと見ようとなさった瞬間の光の漏れ出たすきを逃しはしません。手力男(タヂカラオノ)命がアマテラスの手を取り引いて、太玉(フトダマノ)命が岩屋戸にしめ縄をはって二度とこんなことが起こらないように塞いでしまわれます。やっと高天原も葦原の中津国も明るさを取り戻しました。
アメノウズメノミコトの『もっと尊い神』というくだりに、異なる神を持った異民族との接触を思いますが、この岩屋戸籠りは、日本式再生神話だと思います。昼と夜の太陽の繰り返しをはじめ、日食の恐ろしさ、人生における死と再生(誕生)、世の中における幸不幸、本来持っていたものを失った時の対処の仕方を教えているように感じます。日本人独特の不幸の中にほほ笑みや笑いを衝き動かす心の原点が表されているように思えてなりません。またこの笑いの力は最も言霊の力を表したものの一つです。自分も他人も、自分の内側も外側も揺り動かして笑う声に、禍を吹き飛ばして秩序を取り戻す大きな力があることを教えています。また神々の笑いに加えて長鳴き鳥の『長く音を伸ばす』方法が、和歌を歌う正式な方法です。和歌とは力の発現だったので、一度発したものは修正のきかないものでした。そしてもう一つ、神と呼ばれる人々の薨去(かむさり)の方法も、この岩屋戸籠りあるいは岩屋戸隠れに見つけることが出来ると思います。ホツマ伝えではトヨウケの大神やアマテラスの『カムアガリ』についても言及しています。山の洞にお籠りになるカムアガリに、現代に伝わる羽黒山の『生き仏』行を連想してしまいます。
古事記の中でスサノオノミコトくらい、英雄になったり悪者になったりしている神様はありません。高天原の悪行に対し最高刑で罰するべきとの意見もある中、罪一等を減じてもらったスサノオノミコトはひげを切られ爪を抜かれて追放されます。それなのにスサノオノミコトくらい広く尊敬を受けている神様は日本におられません。スサノオノミコトは沢山の別名を持っておられて日本中の神社の御祭神の中では一番多く祀られています。高天原で世の中を真っ暗にするほどの罪を犯され追放されたスサノオノミコトですが、後世に讃えられるべき事績の中で特別な事が二つ古事記に残されています。一つは五穀の種をもたらされたこと、もう一つは出雲の国づくりです。
八百万の神々から罰を受け追放されたスサノオノミコトは、空腹を感じて食べ物が欲しいと大気都比売(おおげつひめ)に頼まれます。すると大気都比売は目・鼻・口、あげくの果てにお尻からまで様々なものを取り出してスサノオノミコトの食事を整えられます。それを見たスサノオは汚い穢れたものだと怒って大気都比売を切り殺しておしまいになります。するとこの大気都比売の亡骸の頭からは蚕が、目から稲の実が、耳から粟が、鼻から小豆が、ホトから麦が、お尻から大豆が生えるのです。それが五穀の種になったとされています。スサノオノミコトの娘である宗像三女神が全国に五穀の種を配って歩いたと『ホツマ伝え』では言い伝えています。カグツチの神を切り殺したイザナギノミコトの段のお話しにも似ています。
この二つのお話もイザナギの黄泉の国訪問の場面と同じようにマクロビオティックとの関連を深く感じさせられます。これは排泄と摂取の関係です。大気都比売は自分の排泄物を他人の食べ物に供するのです。自然の仕組みを神様の行動で表わしていますが、私達の世界は微生物から大きな動物まで、あるいは大気の熱や風の関係に至るまで、すべてが他または他の排泄物を食べ(取り込んで)自分の(新たな)排泄物を出すという関係の繰り返しで成り立っています。私達の食事も植物や動物が、取り入れたものを細胞で作り変えて自分の体として排泄(表現)しているものだと言えます。動物の呼吸も植物が排泄する酸素を吸っています。金魚のフンを狙っている虫もいます。人間だけが自分の排泄物をごみにしましたが、そのゴミも結局のところは自然界の法則によって微生物に分解され(食べられる)ます。自然界の仕組みを私達の先祖は鋭く観察したのに違いありません。そして頭から生まれた蚕ですが、人類の織物は髪の毛に歴史があるのかもしれません。蚕の繭から糸を繰り出して作る織物が髪の毛とはなかなか結びつきませんが、古代の人々の頭の中には共通項があったのだと思います。その証拠と言えるかどうか分かりませんが、ギリシャ神話の恐ろしい女神メデューサの髪の毛は蛇(つまり縄)です。
もう一つのスサノオノミコトの事績出雲の国づくりは、有名なヤマタノオロチ退治の物語から始まります。登場人物はスサノオノミコト・国津神夫婦の足名椎(アシナヅチ)・手名椎(テナヅチ)・その娘櫛名田比売(クシナダヒメ)です。高天原から追放されて出雲地方に下って来られたスサノオノミコトは、美しい娘を中にして泣いている国津神夫婦に巡り会われます。そして八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が毎年一人ずつ娘をさらって最後の末娘が犠牲になろうとしていることをお聞きになります。スサノオノミコトはその娘クシナダ姫との結婚の約束なさって大蛇退治をなさるのです。その場面は出雲のお神楽でも有名なのでよく知られています。沢山のお酒を飲んでのたくり回る大蛇を退治する勇壮な名場面です。大蛇の尾から得た剣が『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』で、三種の神器の一つになりました。こうしてめでたくスサノオノミコトは美しい妻をめとられてかの有名な妻籠みの歌をおよみになります。
『八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』
現代なら『マイ・スイートホーム、スイートホーム!』と愛妻を得た喜びを歌われているのです。高天原の乱暴狼藉は一体どうしたお話しなのかさっぱりわかりません。
なぜスサノオを最後まで悪役で通すことが出来なかったのでしょうか。アマテラスは最初高天原を奪われるかもしれないとさえお考えになりました。次にスサノオとアマテラスは、誓約でお互いに御子を得られ、アマテラスは荒ぶるスサノオを『我がなせの命』とお呼びになりました。そしてスサノオとの誓約でお生まれになったアマテラスの第一子、天忍穂耳命の葦原の中津国の統治権を主張なさるのです。そしてアマテラスのお子様は誓約でお生まれになった五柱の神子以外他にいらっしゃいません。スサノオノミコトが多くの神々をお生みになり、スサノオから五世か六世の孫に当たる大国主命も沢山の結婚をなさり、多くのお子様をお生みになります。大国主の正妻は何とスサノオの末娘須勢理比売なのです。これは神話というお話ではなく、何かしらの歴史的事実を反映している『想像(虚構)と真実のミックス』だと思う以外にありません。その証拠に国譲りを強要された出雲の神々は現代に至るまで依然として異彩を放ち、スサノオは国民的に愛され続けています。少なくとも最も存在感を持った神様であることに間違いはありません。
出雲の神々の中でスサノオの後継者・大国主命はスサノオと同じくらい大きな存在です。大国主命のお話の中で、『因幡の白ウサギ』のお話しは良く知られています。このエピソードは大国主命の性格を語っていますが、この前後の経緯はあまり知られていません。大国主命がなぜこの哀れな白ウサギに遭遇されたかというと、八十人もの異母兄の神々の荷物持ちをさせられて、八上比売というお姫様に求婚をするためにお出かけになった途中の出来事なのです。そして八上比売が大国主命を選ばれたため、兄の神々から二度も殺されておしまいになります。一度目は焼けただれた石を受け止められて、二度目は獣を獲る罠にかけられて。そのたびに母の神が高天原のタカミムスヒに教えられた通りに大国主を生き返らせます。そして兄の神々の魔の手から逃れるように、大国主をスサノオの住む根の堅州(カタス)国に行かせるのです。このころスサノオは出雲ではなく根の堅州国に住んでおられたらしいのですが、いつ頃移られたのかは分かりません。
根の堅州国で大国主命は須勢理比売(スセリビメ)とお互いに相思相愛一目惚れの恋仲になられます。須勢理比売が父君のスサノオノミコトに紹介なさると、娘を奪われる世の父親と同じく、スサノオノミコトは大国主を無理難題で試されます。世の男というものは娘婿に自分と同じ能力を要求するもののようです。先ず蛇の室屋に、次にムカデと蜂の室屋に大国主を泊めます。大国主を助けるのは現代社会と同じように、恋におちた須勢理比売です。毒虫を追い払う『ヒレ』を渡してもらい、大国主はぐっすりと眠ることが出来ました。毒虫の試験に合格なさると、今度は野原に連れ出し自分の放った矢を探しに行かせます。大国主が野原に入ると、火攻めにしておしまいになるのです。さすがの須勢理比売も泣いておられると、大国主は矢をスサノオノミコトの前に捧げられました。ネズミの言うことを理解なさった大国主は、穴の中に落ち込んで地上の火をやり過ごされるのです。
スサノオノミコトは『なかなかやるわい』とばかりに、今度は自分の頭の手入れをさせます。スサノオノミコトの頭はムカデと虱の巣状態でした。須勢理比売はそっと赤い土とむくの木の実を渡します。大国主はその土と実を噛んでは吐き出します。スサノオノミコトはそんな様子をムカデと虱を噛んでいると思いになって、『何と可愛い奴ではないか』と心を許して眠っておしまいになります。なんだか猿山のボスに対する毛繕いのようです。大国主はその隙を逃しません。スサノオの髪をあちこちの垂木に結び付け、スサノオの『生太刀(イクタチ)』『生弓矢(イクユミヤ)』それに『天の沼琴(ヌゴト)』をとり、須勢理比売をおぶって逃げ出します。大広間の出口は大岩で塞ぎます。すると『天の沼琴』が鳴り出して、スサノオノミコトは目を覚まします。気がついて起き上がろうとなさいますが、頭の自由がききません。それでもやっとほどいて大国主を追いかけられ、根の堅州国の国境で娘婿の大国主に出雲をお譲りになるのです。『葦原のシコオノミコト*として生太刀・生弓矢を用い、我が娘・須勢理比売を【適妻(むかひめ)】(王妃)にして国を治めよ』とはなむけされるのです。これでスサノオノミコトの出番はおしまいになります。
スサノオノミコトは男の典型です。母が死ねば、恋いしさに泣きます。時に我を忘れて乱暴をします。時に正義漢になります。美しい妻を得て幸せを歌います。想像すらしなかった娘の恋人の出現に嫉妬します。そして娘の幸せを願います。これがスサノオノミコトの人気の秘密かもしれません。(*葦原のシコオノミコト――葦原の中津国、つまり出雲から大和地方全域と思われる国の統治者)
髪の毛を結わえつけられたガリバーやヨーロッパの童話『ジャックと豆の木』の大男を思い出させられます。ジャックは金の卵を産むあひると、竪琴と、もう一つ何かを盗んで、逃げ出す時に竪琴がなって大男が目を覚まし追いかけられる筋書きも同じです。ジャックは豆の木を切って大男は墜落してしまい、ジャックはお母さんと幸せに暮らしました。悪役はあくまで悪役というのが違いますが、『琴が鳴る』というキーワードは全世界同じなのでしょうか。何となく特別な意味を感じてしまいます。聖書の創世記でも最初に神の言葉が響きます。『光』と言葉を放たれて、光が出現します。『言霊』と同じです。古事記には『鳴り鏑の神』という神様もいます。この鳴り鏑が鳴る音の最初で楽器の始まりかもしれません。空気を震わすものこそが、『アメノミナカヌシ』の消息を伝えるものでしょう。現代でも振動計で火山の動き、地球の動きを観測しています。天の沼琴は、軍備である生太刀・生弓矢と同様に政治の大切な道具だったと思います。
こうして大国主に統治権を譲られてスサノオは舞台から姿を御隠しになりました。これで出雲の国譲りの舞台が整うのです。(amaterasu & susanoo)
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!