不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史

2012-10-31 09:00:00 | 父の背負子1(随想古事記)

中国大陸の神話は三皇五帝のお話です。三皇のお話しはかなり神話らしいと思います。先ずは第一皇伏羲で、中国大陸の最初の住民を表しています。たいていの場合『女媧伏羲』としてペアになっています。共に蛇身人首で、川崎先生はこれが原初シナ人(川崎先生命名による。現在言う中国人ではない)で蛇族を母系とし、蛇族と通婚関係があった鳥族と言われています。(詳しくは関連記事『五色人の謎』でご紹介しました。)

私達の直接的先祖である新人最初のアジア人はこの原初シナ人で、アメリカ大陸原住民まで広がっています。私達の縄文人も同じですが、原初シナ人と同じように蛇族が海伝いにアジアを北上して日本に住みついたため、もっと海洋性を残していたと思われます。この中国大陸最初の新人達の姓は『風』で、川崎先生によると鳥をシンボル(トーテム)として採用しました。風は天から吹いてくるもので、鳥はその使者と考えられていたからです。
蛇族は海洋性があって風をさらに直接的に雲つまり雷としてそのシンボルを龍にしていました。風神雷神は常にセットとも言うべき類似性を持っていると思います。

第二皇は炎帝神農で牛族、この時代に中国大陸で牛耕の農業が始まりました。牛族と共に牛がやって来たので、彦星がこの炎帝神農、織姫は女媧伏羲の娘だったのかもしれません。第三皇が有名な黄帝です。黄帝内経という古典で有名な東洋医学の祖ともいえる皇帝です。この時代には人々が増えて栄えたのだと思います。文明が起これば、病気も起こって来ます。この偉大な黄帝も牛族です。三皇に続く五帝で有名なのは第四帝の堯と第五帝の舜です。堯舜の時代と後に仰がれる聖君による徳政の時代です。この五帝は川崎先生の教えに従うと、前の三人が鳥族、堯が犬族、舜が牛族です。神話伝説時代の中国大陸人は鳥と牛と犬の各部族です。その後興る初めての王朝夏は牛、次の殷王朝は第三帝嚳(コク)を始祖として鳥、続く周は牛です。

中国大陸では神話と歴史は完全に同じものとして語られています。そしてそれに続くものは賢人の教えとして道教や孔孟の教えが大切に伝え守られてかなりドライな国民性のように見えます。神話時代を担う国民が征服されて部族ごと移動して別の国の神話になったか、奴隷にされてその伝えるべき神話が埋もれてしまったのかもしれません。川崎先生は殷の神話が箕氏朝鮮・衛満朝鮮の神話だろうとおっしゃっています。朝鮮半島の神話がそれを今に伝えて高句麗の神話だとか、新羅の神話だとかになっています。この二つの神話のキーワードは鳥族のものらしく『卵』です。王たるべき天の子は卵から生まれてくるのです。(追記:ホツマツタエによると、アマテラスは胞衣に包まれた卵の形をして生まれて、ココリヒメの持っておられた笏で胞衣を割かれたと言われています。)

箕子朝鮮には檀君神話というものがあります。檀君は古代朝鮮の最初の王で、天帝の子桓因と熊の子供とされています。この熊というのに犬族のギリシャ神話の大熊座と小熊座の神話を思い出します。日本の神話とはかなり違っていますが、朝鮮半島の神話として大事にしたいと思います。熊というつながりは、アイヌ民族の熊祭りにもあります。その民族名『アイヌ』はまさしく犬族だとの表明です。犬族のシンボルには、犬を始め狼、虎、熊などがありました。(だとすれば箕子朝鮮は犬族で、李氏朝鮮が祖として当然かもしれません。)アイヌの人々が和人を『シャモ』と発音していたことは、和人が邪馬で鳥だと言っているのだと思います。現代私達が使っている軍鶏(シャモ)もここから出てきたのかもしれません。

高句麗や高麗の時代劇を見て、その衣装にアイヌ民族の美しい模様を連想してしまいました。奈良朝の衣装が中国式で違和感を覚えるのに対して、韓国で時代考証された高句麗や高麗初期の衣装に親近感を覚えてしまいます。何を美しいと思うかは、個々人の辿って来た不思議な曲がりくねった人類発祥からの記憶かもしれません。なにしろ私達は六十兆個の細胞を持っていて、その一つ一つの細胞は38億年の生命の歴史を記憶しているのですから。日本の神話の中に、お隣の国々の影響があるとしたら、それはその国の人々が入り混じったということだろうと思います。そしてその人達のお話も日本の神話の中に取り入れられて、というより民族が組み込まれていったということだろうと思います。私達は大和(だいわ)の国を作りました。実際的に言えば、作らねば成り立たなかったのだと思います。自他共に生かす大和の精神こそが、その時の日本人の最高の発明だったと思います。


最初国を作った太古の人々の国は家族を覆う屋根のようなものだったろうと思います。その屋根はそこに住む人々の一体感の象徴だっただろうと思います。ですから国という屋根は端から端まで、瓦一枚亡くすことが出来ないものです。これが国境の感覚です。そして国境を侵されることは、安全を侵されることでした。具体的に言うと、死ぬか、流民になるか、そして奴隷になるかのどれかでした。

私達一般の日本人にとって一番遠い感覚が、『奴隷』ではないかと思います。日本にも同時代の世界から考えるとかなり流動的なものであったとはいえ、身分制度は存在しました。江戸時代には士農工商の身分制度があり、その上には公家社会がありその下には非人制度がありました。明治維新後は身分制度が廃止され全国民一様に平民となりましたが、戦前には『士族』『華族』なる言葉が生きていました。『奉公人』も『小作人』もいました。でも『奴隷』はいませんでした。歴史を探っても『公地公民』の制度以後は少なくとも建前上はいなかったのだろうと思います。

奴隷とはどんな人たちなのでしょうか。古代社会の映画を見ると、洋の東西を問わす、鞭で打たれて働かされる奴隷がいます。『ベンハー』という映画を見たことがあります。誇り高い貴族のベンハーが捕虜になり奴隷となって屈辱に耐えながら仇討再興を誓う物語です。その時初めて私の頭の中に視覚的に『奴隷』という言葉が植え付けられました。殷帝国の人達は人狩りをしたそうです。祭壇に供えるためだそうです。生贄に鳥や獣と同列に他族の人間を供えたのだそうです。そんな風習が奴隷の起源ではないかと思います。

学生時代に読んだ『世界の歴史』というヨーロッパで編纂された歴史集がありました。その中に結婚制度は一種の奴隷制度だと書いてありました。一夫多妻の国では妻の数が富の証になっているそうです。少なくともヨーロッパ人もそういう精神構造になっているのかと思います。ともかくそんな悲惨な境遇は敗戦国の人々の運命でした。ですから『そこに生まれた』との理由で、自然に人々は自国の為に戦ったのだと思います。

奴隷について印象的な記述を、塩野七海著『ローマ人の物語』に見つけました。ローマ人の奴隷に関する考え方は『運が悪かった』ということに尽きるのだそうです。『たまたま負けたから』その国の人々がローマに奴隷にされたのだそうです。ですから奴隷の持つ人格も知識も大切にされて、家族同様の待遇を受けたのだとか。塩野七生氏は、恐らくローマの奴隷が世界で一番幸せな奴隷だっただろうと述べています。ローマの奴隷の持たなかったものは、生命の所有権と市民権だったのだそうです。市民権とは参政権のことです。そして当然の義務を負う自尊心のことです。国家を維持運営する為の納税の義務で、ローマで一番大切な税は兵役であり血税という言葉はここから生まれたのだとか。

ローマの奴隷が幸せであったかどうかは別にして、奴隷は一様に悲惨です。人類はそこまで人類を差別できるのかと思います。インドの身分制度は職分制度だと言われていますが、辛い仕事を他人に強要する奴隷制度です。中国大陸も朝鮮半島の奴隷制度も、ロシアの農奴制度も同じです。国が敗れれば、奴隷として連行されるのです。奴隷制度のある国はそれによって社会が機能していました。近世に至っても国家を運営する人々の頭は身分制度でがんじがらめです。十六世紀以降アフリカの人々がアメリカに奴隷として無理矢理連れて来られました。人狩り以外の何だったのでしょうか。恥ずべき人間の傲慢さだと思います。

日本では卑弥呼が隋に『生口』を送ったとの記録があります。『生口』とは奴隷のことです。『食べさせなければいけない機械』のような印象を受けて、それを知った時少なからずショックでした。邪馬台国が殷帝国の同族の鳥だったことを知って今は、その当時の日本人(という人々が居たとしたら)もなるほど同じ時代感覚を生きていたのだと思います。人狩りをする部族間の差別があったのだろうと思います。

鳥族が来る前の日本人は蛇族の縄文人です。中国大陸で蛇族が鳥族になったように、日本列島では現代縄文人と言われる民族がいました。私はそれを海津神(ワタツカミ)に率いられる海津(ワタツ)族と命名したいと思います。その海津族を奴隷にしたのかもしれませんが、その数は僅かだったと思います。卑弥呼が送ったとされる『生口』は確か六人でした。多分鳥(邪馬)族と海津族とは生活様式が全く違っていて住み分けたのだろうと思います。何しろ海津族は竜宮城に住んでいたのですから。

今年三月の東北大震災で分かったのですが、東北の人々は大事な家族をどうしても火葬で弔いたいと願っていました。一方九州、少なくとも北部九州の人々は土葬をという気持ちが土葬を禁じられた現在でも心の隅に残っています。これが何を意味するのかと言えば、東北には海津族の風習が、北部九州には大陸系の風習が残っているのだろうと思います。現在の日本人はみな混血の日本族になってしまいましたが、土地柄には色濃く古代の部族色が残っているのかもしれません。

仁徳天皇のお話しに殉葬を禁じたというのがあります。それを考えるとこの頃までは事実として奴隷がいたのだろうと思います。しかし日本に早くから奴隷を疑問視する心があったことを嬉しく思います。少なくとも古事記の編纂時、日本人は『労働』を神様の仕事にしました。すべてイザナギ・イザナミ両尊がお生みになった神々のはたらきとして表現しました。何しろ神様が機を織り、食事の用意をなさるのです。稲をお育てになるのです。水の神が汚れを落として下さいます。辛い奴隷の仕事は最も尊い仕事になりました。こうして日本人の心は神話により世代を追って蓄えられ、奴隷制度が日本に根付かない心情的な理由になったと思います。このことはアジアの中で日本を分かつ最大の特色だろうと思います。こういう意味でも日本の歴史は世界の実験だったと思っています。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅲ・大和の心3

2012-10-29 10:14:52 | 父の背負子1(随想古事記)

アマテラスから神武天皇(1-3)

神武天皇の大和入りの段は、昔から『東遷』か『東征』か、議論の分かれるところでした。『東遷』を採るのはアマテラスの正当性の主張に依り、『東征』はその現実を考慮した結果だと思います。古事記の伝承のように大和入りに何年もかかっているのを考えると、現状はそれほど簡単ではなかったことが分かります。それに大和朝廷が確立する以前の権力争いは、大陸や朝鮮半島と同じようなものだったろうと思います。兄宇迦師(エウカシ)・弟宇迦師(オトウカシ)と兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の二兄弟の物語があります。どちらも神武天皇に敵対する兄を裏切る弟のお話です。これはあまり気持ちの良いお話しではありません。でもこれが当時の状況だったのだろうと思います。そして敵対した兄の側にもちろんちゃんと言い分があったはずでしょうが、その痕跡を古事記は伝えていません。歴史とはそんなものだと思います。あるいはそれが出雲の建御名方の言い分だったのかもしれません。

建御名方は建南方で、建雷と蛇族同士、兄弟だったとも言えます。ちなみに宇迦師(ウカシ)兄弟は牛族兄弟、師木(シキ)兄弟は犬族兄弟です。この二つの兄弟はその名前に『師』という字を持っています。これが八十梟師(やそたける)の反抗の物語なのだと思います。現在の大和地方にも神武天皇時代に先住の五族がいたと考えるべきです。神武東征時代は出雲も大和もスサノオ系の牛族が君臨してその下に蛇、鳥、犬がおり、馬もいたかもしれません。

この東征劇が人道的か非人道的かということは論外ですが、ただ一つ嫌なのは兄宇迦師を討った後の弟宇迦師の開いた宴会の場面です。兄をコナミに、弟をウワナリに例えて歌う(久米歌)場面です。コナミは前妻、つまり古女房。ウワナリは後妻、つまり若女房。コナミには実の少ないところを、ウワナリには実の多いところを分けてやろうと囃して歌い笑います。

ウダノタカキニ シギナワハル ワガマツヤ・・・・・・コナミガナコハサバ タチソバノミノナケクヲ コキシヒエネ ウワナリガ ナコワサバ イチサカキミノオオケクヲ ・・・・・・

如何に男ばかりの場面だと言え、現代の私には納得できません。憤慨しています。こんなにも実の無い人間ぶりを歌うことに何の躊躇いも感じない人達だったのだろうか・・・・と古女房である私は理解に苦しんでいます。


神武天皇はこの後登美(とみ)の長脛彦を討ち、大和にお入りになって橿原で即位なされます。当時の大和はニギハヤヒノミコトの支配下にありましたが、支配権を神武天皇にお譲りになったとされています。そして神武天皇は天孫降臨以来の伝統的方法で(つまりクニツカミの娘を選んで)皇后をお立てになるのです。それがイスケヨリヒメと言われる方ですが、三輪山の大物主神の姫君です。その姫君をお迎えに大久米命(オオクメノミコト)が行きます。その時にイスケヨリヒメが歌でお尋ねになります。

あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)

最初の行の『あめ』以下『ましとと』までは鳥の名前だそうです。問題は『など』以下の問いの句です。鳥はたいてい目に黒い縁取りがあるように見えます。瞼がそんな風になっているのをご覧になって、それにかけて『どうして(鳥の目のように)入れ墨で黒い縁取りをして鋭い目をしているのか』とお尋ねになったのです。オオクメノミコトを犬族だと知っておられて、『鳥の目のように』とおっしゃったのでしょうか。

魏志倭人伝に、倭人(邪馬台国人)には文身の習慣があるとの記述がありました。それを知った時、アイヌの人達を思ったものです。川崎先生によると蛇族の人達は水流を意味する『三』の文様を入れ墨し、犬族の人達は『十』字・『×』字を入れ墨することが多いらしいのです。何れも魔除けのためです。守護神の加護を願ったものと言われています。またエジプトの人物像には必ず目の隈取りがあります。クレオパトラの目もツタンカーメンのマスクにもありました。アイヌの人達もクレオパトラも犬族です。大久米命も犬族だったのでしょう。ともかくイスケヨリヒメは不審に思われたのですから、当時の現在で言う『大和』では入れ墨をしていなかったと推測できます。大物主は大国主命の時代に海の彼方からやって来たことになっており、その正体は白い蛇ということですから蛇族ということになります。白い蛇というのがちょっと気になりますが、畿内の蛇族は入れ墨をしなかったのでしょうか。

神武天皇が畿内にお入りになった時に、現在の大和地方が初めてヤマトになったと川崎先生は指摘しておられます。それが『カムヤマトイワレヒコ』のお名前です。ニギハヤヒノミコトの国号が分からないので何とも言えませんが、『登美』だったのではと思います。『登美の長脛彦』の登美で、実体は『鳥見』だったのかもしれません。或いは前述したように畿内が『出雲』か『於投馬』だったかもしれません。そうすれば出雲の国譲りの意味も筋が通ってきます。ニギハヤヒノミコトはスサノオノミコトの子大年神という説もありますので、第二の出雲王国だったかもしれません。何より大物主が出雲ではなく三輪山に鎮座なさっているということがその証拠となるのではとも思います。

神武天皇の畿内入りで、邪馬台国の倭が東の大和の国『日本』になっていくスタートラインに立ったと言えます。神武天皇の国号が『大和』であったことは疑いようもありません。それは部族名『倭(邪馬)』をそのまま邪馬台国の読み名『ヤマト』とし、五族みなを纏め上げて『八紘をおおいて』一家のようにしようと決意なされたその時に確立した国名です。私達の大和の精神は神武天皇のお心、或いは神武天皇のお心として表現された大和朝廷の理念です。

一方『大和』の『邪馬』が『猪=豚』であり『東』であることを時の朝廷は熟知しており、後に聖徳太子は『東』が直接太平洋から日が生まれて来る日の本の国であるとの誇りを国書として隋に送られました。それで大和朝廷は国号に『日本』を選んだのだと思います。そして『日本』を『大和』と同じ音でも読むことにしました。日本では『日本』も『大和』も『東』もみな『ヤマト』と読むのです。大陸から渡ってきた邪馬台国は当然漢字を知っていました。『ジャパン』の元とされている『日本』、つまり『ジッポン』は音からも採用される蓋然性を持っておりましたが、その根拠は『ジャバ(邪馬)』にあったのです。この展開に異論をはさむ余地は無いのではないかと思います。

この『日本』という国号を採用した当時の大和朝廷が、神武天皇の邪馬族でも重用された犬族でもなく天神族の馬族であるというのが、最大の秘密であり記紀の編纂理由だとする説があります。つまり天照大神は馬族でありその皇統の中に、邪馬台国系の神武天皇を入れ、スサノオから投げ飛ばされた馬の地を取り戻し、どこかでまたアマテラス系の皇統をつないだと言っているのです。確かにスサノオが天の機屋に投げ込んだのは馬の『天の斑駒(ふちこま)』でした。この『斑』という字には『斑鳩』という飛鳥の地名もあり、かなり深い意味合いが込められています。前述の『ツカル』が『猪族の』であったように、『イカル』は『犬族の』という意味ですし、その字義から斑模様が連想されます。馬の住む飛鳥はまだらに犬の住む斑鳩であったのかもしれません。しかし私は日本誕生に絡む馬は邪馬族の馬だったと思います。



古事記の編纂をご命令になった天武天皇には多くの焦点が当てられています。その漢風諡号には悪王で名高い殷の紂王を討った周の武王を擬えてあるとされています。その上理解に苦しむことに兄君である中大兄皇子の天智天皇にはその殷の紂王が匂わせられているそうです。邪馬台国系の殷が討たれたことを暗示するかのようです。この諡号に関しては後の人間が作ったのですから、私は天武天皇のお心だとは思いません。それよりもなお、古事記の中に秘められた『大和』の国を受け継いでいくお心を大切にしたいと思います。

あえて通説を解釈して王族が邪馬台国の犬族から天神系の馬族に変わることができるとすれば、天武天皇の直近では継体天皇の事績に考えられます。その諡号からも意味を感じられる継体天皇は皇后に武列天皇の妹君・手白香皇女を立てられました。これはニニギノミコトがコノハナノサクヤヒメをお迎えになり、山幸彦が海神の娘豊玉姫と結婚なさったのと同じです。その間にお生まれになったのが欽明天皇で、国風諡号に初めて馬族を意味する『天』の字をもっておられます。次は天智天皇と天武天皇の母である皇極天皇までありませんが、それからは数代にわたって『天』の字をもっておられます。天智天武の両天皇は漢風諡号にも『天』の字を合わせてもっておられます。それ以前にも応仁天皇にそういう可能性があるとか、様々な学説が立てられています。もしかすると元々アマテラスの王朝は『天の斑駒』、つまり犬族と馬族、そして牛族の合同だったのかもしれません。この問題については、研究の余地が多分に残されていると思います。

天武天皇が編纂の号令をかけられた古事記にはそういう意味で改竄説も様々に語られています。世界の歴史が伝えているようにそれもまた真実かもしれません。しかし国号を継ぎ国柄を継がれたということに、日本と皇統(統治の理念)の継続性の祈りを込められたのだと思います。そしてそのための事業が物語としての古事記の編纂だったと思います。また漢字によって記された外国の歴史書と、日本語によって記憶された私達の歴史とは符合すると思っています。記紀に邪馬台国は出てきませんが、『大和』は出てきます。自国の歴史に卑字を利用するほど、古の我が国の政治家や学者が卑屈ではなかった証しだと思います。そして川崎先生がおっしゃるように、古代の土地や人物の名前を研究すれば、学問としての真実を裏付ける証拠となるはずです。一方国民の記憶の物語・神話にはアイデンティティの継続という役割が与えられたと思います。(Great Peace)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Physical・Mental・Spiritual

2012-10-28 11:44:51 | マクロビオティック
以前同じ題材で記事を書いたことがありました。上手い訳語が見つけられなくて、とうとう『心身』と訳してしまったことなどを記事にしました。それが今日、勿論これが久司先生の御本の品位に合うかどうかは別にして、素晴らしくぴったりの日本語訳に気付きました!!!それは、『からだ・こころ・あたま』です。

『スピリチュアル』と言うと何か高級感が漂いますが、本当は低級から高級まで色々あります。『あたま』と言うと低級高級は別にして、その作用というか働き方というか、その悪弊を含んでやや自嘲的ですが、現実に即しているような気がします。『あたま』は落とし穴に入りやすいものです。観念の虜になって独り歩きしやすいものです。そうならないようにと、日本語はそれを使う日本人にくぎを刺しているように思えます。

このところ『随想古事記』の記事ばかり書いていますが、私にとってこれはマクロビオティックそのものです。マクロビオティックで生きている私の現在が『からだ・こころ・あたま』の健康、過去は私達の歴史、そして未来が残された人生と死後の私です。それで今は『過去』について書き残しており、それが済んだらいよいよ最後の仕事『未来』です。

死期が迫った母と語り合ったように、自分を通して『死』というものを明らかにしたいと思います。私達は自分の死を明確にしないと、うまく『あの世』に行けません。現在多くの人が『死』について思いを十分にしないため、みんなある意味で『不慮の死』を迎えています。人生の最期の意味を分からないまま死んでいます。これでは幸福な人生を過ごしたとは言えないと思います。

死後の世界は、『からだ・こころ・あたま』が同じ形で生きる世界です。その世界で自由になるために、この世はあります。マクロビオティックで生きて現在健康になると、過去と未来を知りたくなるものではありませんか。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅲ・大和の心2

2012-10-27 11:26:21 | 父の背負子1(随想古事記)

アマテラスから神武天皇(1-2)

第二の問題、天孫降臨の地が何故出雲ではなく高千穂だったのでしょうか。これは高千穂にする以外にない事実、つまり神武天皇の実際の御出身地を優先したのだと思う以外にありません。ニニギノミコトは宮崎県の高千穂か、九州のどこかの高千穂と呼べるような場所に来られたのです。海幸山幸事件は宮崎・鹿児島のお話であり、山幸のホホデミノミコトは蛇族の豊玉姫と結婚をしてウガヤフキアワセズノミコトがお生まれになりました。そして豊玉姫の妹・玉依姫との間に若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)、つまり大和朝廷の太祖ともいうべき神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、漢風諡号で神武天皇がお生まれになりました。此処に初めて『倭』なる字を見つけることができます。偶然の一致ではない筈です。つまり神武天皇が『倭(邪馬)』族でいらっしゃったということです。

『倭』とは日本および日本人のことだと思っておられる方が多いと思います。私もそう思っていました。しかしそうではなく漢字圏には他にもあると川崎先生はおっしゃっています。またその旁は偏になって『魏』という国名にもなり、その音は『イ』は『李氏』という家族名になっているとおっしゃっています。中国を脅かした異民族の中にも『倭』という名をもつ民族があると述べておられます。身近には有名(?)な『倭寇』が日本の海賊だけではないことを私達は知っています。

ここから以後畏れ多いことながら、敢えて自説を明らかにしたいと思います。川崎先生のおっしゃるように倭族は犬族です。世界史でも歴史をかえてきた民族です。高校だったと思うのですが、世界史で突如現れた『ヒッタイト』という民族が鉄の武器で圧倒的な力をもって中近東を征服したと教えられました。ヒッタイトがそれからどうなったのか歴史上不明ですが、彼らこそが『犬』族の代表格で、『犬と鉄』は世界史のキーワードだと思います。『犬族』が世界史を切り裂いていったのです。

中国大陸で実際に存在が証明されている殷帝国は鳥族、つまり猪(邪馬)族が王族で犬族が有力部族として存在しました。周から追われて拡散した中で、もともと同族だった縄文人のいる日本列島に逃れた殷帝国の流民が建てたのが邪馬台国だったと思います。その中で倭族は南九州に勢力圏をはったのだと思います。そしてやがて九州全域を支配しました。なぜかというと先住の縄文人の力を得たからです。それが山幸彦と豊玉姫のお話であり、ウガヤフキアワセズノミコトと玉依姫のお話しなのだと思います。そして豊玉姫が出産のために上陸された渚が、『豊の国』つまり後の豊前豊後の国だろうと思います。大陸各地の犬族に使用された『倭』を『邪馬』族として固有の『和』に変え『大和』を『ヤマト』と呼称した道筋もこれで明らかになって来ると思います。『天孫降臨』は事実であり、それは殷滅亡の紀元前1300年以降のことです。


最後に最大の矛盾点・なぜ天照大神は出雲に国譲りを強要なさったのでしょうか。なぜ天照の子孫が治めるべき国だと統治権を主張なさったのでしょうか。なるほど古事記編纂時の天武王朝の都合だとすることもできるでしょう。しかし何かしらの正当性が無ければ物語としての辻褄が合わないし、多くの人の納得も得られないのではないかと思います。そしてこれが『神武東征』でなく『神武東遷』とする最大の理由であったはずです。

アマテラスとスサノオの結婚説があります。誓約で互いの子を産まれたので、オシホミミノミコトはスサノオの出雲の後継者だとも言えなくもありません。ですがそれは長子相続に正当性が認められている場合だけです。

川崎先生の説に魏志倭人伝の『投馬』国が出雲ではなかったのかというのがあります。そしてこの『投馬』は確かめたわけではないが、宮内省管轄の文書には『於投馬』とあるらしいとも書かれています。そしてそれが川崎先生のご専門の音声学的変遷から『イヅモ』であるとおっしゃっているのです。私はその『おとま』が『ホツマ』である可能性があると思います。だとすれば天照大神が統治権を主張なさるのもよくわかります。ホツマ伝えの伝承では、ホツマの国は天照大神の国なのですから。古事記だけではわからない理由ですが、当時の人々は色々な事情を知っていたはずです。

『於投馬』がたとえ『ホツマ』であったにしても、その字は一体何を語っているのでしょうか。川崎先生は『馬に投げられた』と仰っていますが、私はちょっと違う意見です。私は『馬を投げたところ』という意味だと思うのです。そこ(つまりホツマの国)で馬族を投げて牛族のスサノオノミコトが『出雲』を建てられたのだと思います。それで『於投馬』が『出雲』になったのだと思います。馬族の土地であったのに牛族に取られていたところを、天照大神は馬族の主神として、返還を要求なさったという筋書きです。歴史学界の主張通り、天神族は馬トーテム族なのですから。(この馬族に関しては、異論ありです。馬は邪馬だったのです。)

もちろん領土争いは単純ではありません。その証拠に大国主の息子である『建御名方(タケミナカタ)』は不承知で、実力行使に派遣された『建御雷(タケミカズチ)』と争います。そして諏訪地方に逃げて諏訪神社の祭神となります。諏訪神社の氏子たちは建御名方の子孫で、独自の精神性を武田信玄に併合されるまで維持し続けます。しかし取り上げた側が、相手が不承知だったと記録するのは、正直な記述法だと思います。(Great Peace)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅲ・大和の心1

2012-10-26 07:34:11 | 父の背負子1(随想古事記)
アマテラスから神武天皇(1-1)

古事記に語られている私達の国日本の神話と現実の歴史の接点は、『天孫降臨』とそれに先行する『出雲の国譲り』の二点です。しかし此処には大きな虚構があるとされてきました。それで神武天皇から開化天皇までは架空であるとか、あるいは神功皇后が天照大神だとか、その他様々な仮説が発表され、その上に邪馬台国論争まで入り混じって我が国の歴史論争は百花繚乱を呈しています。いまだに自国の歴史に現実的にも精神的にも明確な回答をもっていないことは世界的にも珍しい現象ではないかと思います。戦前までは精神的には信じていたのかもしれません。それが戦後国民の支柱ともなっていた歴史が科学的検証にさらされ、その希望は打ち捨てられました。形ある考古学的発見のみが検証に耐える証拠とされるようになりました。その結果私達の現代と結ばれる筈の国の始めは曖昧模糊としたものとなり、神話という物語としてさえ大方の人々の心から消えてしまったようです。しかし私達が決して忘れてならないのは、その神代の昔の物語に語られている音の響きは、現代私達が使っている日本語だということです。日本語は生きた形の無い考古学的証拠だと思います。文字ばかりではなく、音そのものも証拠になると思います。そして時代ごとの日本語の変化は、歴史的な事件や変動を意味しているに違いありません。古事記はカタカムナと川崎先生の歴史言語学的手法を取り入れなければ、決して解明できないと私は思っています。


神話を歴史の事実(あるいは事実を象徴する物語)として考える上での問題点はいくつかあります。避けて通れないと私が考えるものをあげてみたいと思います。
第一は、天照大神はなぜ葦原中津国を『我が皇孫』の知らすべき国なりと統治権を主張なさって、出雲の国譲りを強請されたのか。
第二に、それなのに出雲ではなく、なぜ日向の高千穂に皇孫ニニギノミコトは降臨されたのか。
第三に、そこが何故『韓国に向い笠沙の御前に真木通り、朝日の直刺す国、夕日の照り映える国』なのか。
第四に、倭国と邪馬台国は同じ国なのか。倭が大和なのか。
第五に、邪馬台国とは何なのか。卑弥呼とは誰なのか。
そして最後に第六、天孫降臨がいつごろのことなのか、という六点です。


問題四と五を合わせて『倭国と大和国と邪馬台国』から始めたいと思います。それは邪馬台国が事実として日本の歴史に挿入されているからです。邪馬台国とは、ご存知の通り、魏志倭人伝によって歴史上確認された国で、我が国の日本書紀にはありません。現在のところ、その国名については、ほぼ邪馬台国が倭(やまと)国であろうと、あるいは少なくともその語源であろうとされていますが、その比定地については依然論争の的です。近年考古学上の発見もあり、大和畿内説が有力視されるようになってきましたが、これはまだ分かりません。我が国の歴史が『記紀』を遠ざけるあまり、漢の金印も魏志倭人伝もこま切れで私達に与えられているからです。それで邪馬台国が私達日本人とどのような関係にあるのかも実際のところ明確に分かっていません。神武天皇の即位を以て建国されたとされる『大和』の国も否定されて、日本国民が心情的に依るべき建国記念日まで根無し草にされています。人間というものがその出自をもって自分のアイデンティティを確認するのですから、日本人としてこれは由々しき問題だと言わざるをえません。

魏志倭人伝と並行してその命名法から大和と邪馬台国の関係に迫ってみたいと思います。邪馬台国についてはブログ記事の『五色人の謎』シリーズや『私の邪馬台国』(『関連記事』をご覧ください)でも触れましたが、私は川崎先生の言われるように、言語学的観点を導入する必要があると思います。それ以外に解明の方法は無い、というのが私の40年以上にわたる模索の末にたどり着いた答えです。川崎先生によると『邪馬』は漢字の歴史では一貫して『猪』のことであるとおっしゃっています。『台』が『と』音の当て字であり、大陸半島系では『ト』は『トン(豚=猪)』であり、そして『東』でもあることから、構成主要民族が殷帝国と同じか、その末裔の鳥(猪)族であることは、命名した人間が明らかにそういう部族時代を生きている魏人である以上疑いがないのではないかと思います。そして『邪馬台国』と書かれた日本では自分達の国を『ヤマト』と呼んでいました。沖縄方言では近世まで日本人のことを『ヤマトンチュ(やまとのひと)』と呼んでいたそうです。

そしてもう一つ大変重要であると思われることは、魏志倭人伝の著者・陳寿のことですが、当時のヤマト国の内情についてはかなり精通していたはずです。確かに自分で述べているのですから実際に来たことはありません。それで地理については不正確かもしれません。しかし聞き伝えのそのまた聞き伝えで全くのでたらめというような不正確な事を記述したとは考えられません。歴史上の時間については分かりませんが、少なくとも民族については朝鮮半島についての記事と同じくらいの正確さで記述してあると考えたほうがよいと思います。そして魏人が周囲を卑しんで使った記述用の文字を選んで固有名詞などを当然採用しました。ですから邪馬台国は『ヤマト国』であり、『ヤマト国』は天孫降臨の日本最初の地です。

卑弥呼については、これは呼称で多分官名か職位の当て字だと思います。対馬と壱岐についての魏志の記述では大官(現地の防衛長官)を卑狗(ひこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)とあります。卑弥呼の卑はその官名の文字の採用と同じで日、弥呼は巫女の当て字だと思います。ただ字はともかくも音はそういう音だったと考えるべきだと思います。それで卑弥呼という漢字の女王はいなかったけれど、『ヒミコ』と呼ばれていた女王はいたと思います。或いは日本人は『の』の音をはさむのが癖ですから、『ヒノミコ』或いは『ヒメミコ』だったかもしれません。そして卑『狗』という当て字が示していることは、犬族が殷帝国と同じように居たということです。アジアでは『邪馬』が殷の主要民族猪族(鳥族)の呼称であり、東アジアの国々の構成民族が、何処の国でも五色人と呼ばれる五族であったという川崎先生の説を私は支持しています。

魏誌倭人伝に『女王国は、・・・・帯方郡より海岸にしたがって水行し韓国をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里・・・・・』とあります。『その北岸』とは何のことでしょうか。どう考えても『女王国の北岸』と読めます。この時代の女王国の国境は朝鮮半島にあったと思う以外にありません。その上国名が『狗邪』となっています。邪馬台国の卑狗が駐屯している国としても不思議はありません。それで任那に日本府があったのだし、神功皇后が朝鮮に出兵なさったのだろうと思います。

卑弥呼を神功皇后に比定する説もあります。神功皇后の日本名は『息長帯比売(オキナガタラシヒメ)命(ノミコト)』です。この帯を名前に持っておられる天皇は孝安天皇の『大倭帯日子(おおやまとたらしひこ)』、と景行天皇の『大帯日子(おおたらしひこ)おしろわけ』と成務天皇『若帯日子(ワカタラシヒコ)』と仲哀天皇『帯中津日子(たらしなかつひこ)』そしてその皇后の神功皇后『息長帯比売(おきながたらしひめ)』の五人の方々です。川崎先生は『帯』が日本音で『タラシ』または『タリシ』で『足』や『多利思』が当てられたりしているが、言語学的に追及して一種の官位名だと言っておられます。

朝鮮半島には帯方郡という名の郡がありました。王名の帯(たらし)は、案外帯方郡と関係があると私は考えています。元々『方』という字が異民族を意味していていたことを考えると、帯方郡とは『帯』という野蛮な民族がいる地方と言っていることになります。私はその民族が邪馬(猪)族だったと思います。楽浪郡(ナンナン)とは南から来た蛇族の住む地方で、那の津・博多と同じです。漢字を採用するにあたって、無意味な音の採用には古事記でも『音のみ』との但し書きまであります。採用された漢字には、漢字文化圏の共有する正確な意味があったはずです。

邪馬台国は、私達の想像をはるかに超えて、北は朝鮮半島の狗邪韓国から南は鹿児島までを含む九州全域以上であった可能性が高いと思います。邪馬台国について田平町(長崎県平戸市)説を唱えている私の同郷人もいます。田平町には縄文遺跡は勿論、日本有数の弥生遺跡があり、大陸系の支石墓もあり、円墳も多数あります。それに平戸・田平町は、その位置が確かに天孫降臨のニニギノミコトが仰せられた『韓国に向かい、笠沙の御前に真木通り』のそのままです。鹿児島県の野間岬に比定されている笠沙の御崎とほぼ同経線上にあり、朝鮮を望むことができる土地です。ただクシフル岳を何処に比定するのかが問題です。平戸地方の最高峰は『安満岳』と言います。天孫降臨の地に名前はぴったりです(*)が、ちょっと低過ぎのように感じます。しかし女王国の北岸が狗邪韓国なのですから、北部九州が勢力圏から外れることはないはずです。そして高千穂の峰は背振山かどこかで、海神宮は豊玉姫神社のある対馬かどこかという説も成り立ちます。
(*)安満岳(やすまんだけ)は『あま』岳です。『あま』は天神族の馬族を意味します。

その反対に高千穂が宮崎で海神宮が鹿児島であるならば、邪馬台国の都は南九州であるはずです。その上で『韓国に向かい笠沙の御崎に真木通り』、朝日が海から上がって夕日が海に沈む地というのはなかなか見つかりません。異色の邪馬台国研究家・宮崎康平氏の島原半島でも難しいのではないかと思います。『朝日の直刺す』というのが疑問の余地がないので、『夕日の照り映える』が海に沈まなくてもよいとすれば、この件に関しては九州の東海岸が最も条件にかなっています。高千穂が『韓国に向かっている』かどうかについては異論もありましょうが、標高を考えればそうでないとも言えません。

『笠沙の御崎に真木通り』が問題ですが、『真木通り』という意味が経線でなく緯線であったらどうでしょうか。それに『木』という字は『東』を示すのです。高千穂は霧島ということになり、神武天皇の周囲におられる吾平津姫のお名前に矛盾がありません。吾平津姫は鹿児島県姶良郡のご出身の姫君と言っているのですから。邪馬台国を九州全土として考えるならば、確かに『韓国に向かい、笠沙の御崎に(降臨地が)真木通り、朝日が直刺し夕日の照り映える国』です。(Great Peace)





それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅱ・天津神と国津神

2012-10-24 08:03:47 | 父の背負子1(随想古事記)
私達の日本の神々は大別して、天津神と国津神の二つに分けられます。この区分名は創世紀・天地の初めて開けし時の『アメノトコタチ』『クニノトコタチ』に始まると思います。そして次が、『高天原におられる神々』と『イザナギ・イザナミの国生み・神生みによってお生まれになった神々』、次が『アマテラス』と『スサノオ』をそれぞれ租神とする神々、つまり天降(あもり)組と土着組で、この三代のアメクニ仕立てになっていると思います。そして天孫降臨以降天津神は皇統一系、国津神は様々な段階で臣籍に降下なさった神々となりました。神話から受け取る私達日本人の感覚は、宗家と分家とでも言いますか、一般的に、     
          
          租神は『アメノミナカヌシ』一つだけど、上下関係ははっきりとしている

といったようなものだと思います。これがどんな歴史的事実を反映しているのか、そしてこのことが日本民族の構成にどのように関係しているのか、そういった問題に大きな示唆を含んでいるように思います。というより、事実はもっともっと生臭いものだったかもしれませんが、日本人の知恵『臭いものには蓋』式の長い時間をかけて忘れるという解決法だったのかもしれません。

日本には偽書と怪しまれている歴史書があります。その中から代表を五つ選んで考えたいと思います。最古のものは『カタカムナノウタヒ』と呼ばれるもので、一万二千年前からの伝承と言われています。次に『三笠紀』、『ホツマ伝え』、『東流外(ツガルソト)三郡誌』の三つです。はっきりどれがどれくらい古いかは分かりません。記事の内容はどれも太古の昔に及びますが、前者二つが約二千年前、三つ目が書名から推測して千五百年前程度と思っています。

『東流外三郡誌』は、偽書であることが証明されたことになっていますが、私が興味をひかれるのは『東流』という当て字です。『つがる』と読みます。なぜ『東』を『つか(が)』と読むのか、これは川崎先生でないと解明できない問題です。そして偽書であったにせよ、そこに『東流』を『つかる』と読む事実が伝えられていると思います。ブログ記事『五色人の謎』シリーズで世界の民族・部族をご紹介しましたが、これはまさしく高句麗以後の『順奴部』(鳥族)以外のなにものでもありません。そして現代の『津軽』の語源なのです。当然そこには『順奴部』の記憶が残されているはずです。

『ホツマ伝え』と『三笠文』は私が知る限りで、景行天皇に奉呈されたと伝えられています。第十二代天皇で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父君です。ホツマの国作り、ホツマの心映え、そんな大和の国柄を説いています。

最後の五つ目が『古事記・日本書紀』です。この二書は成立もはっきりしていて、西暦七百十二年に古事記が、七百二十年に日本書紀の編集が完成、どちらも八世紀のことです。偽書とされるいわれはないのですが、内容が曲げられて歴史の真実を語っていないという説も多くあります。

『カタカムナノウタヒ』は多くの日本語の原出典です。『アメ』と『クニ』の大別法もここからだと思われます。しかし意味はもう既に古事記どころかホツマ伝え成立時代には不明で誤解されています。楢崎・宇野両先生の解読に全面的に負っている『カタカムナノウタヒ』は、両師の教えによると『アメ』が『クニ』に変化していく過程を教えていますが、後にそれを語呂よく利用したのだと思います。『カタカムナノウタヒ』は社会的身分にも制度にも言及していません。ましてや神様も王様もいません。物事の筋道、生命の筋道が明らかにされているだけです。それ以後の史書ではすでに身分関係や行政機構が出来上がっています。内容的に『カタカムナノウタヒ』と『ホツマ伝え』群との間には一万年以上の年月の差があり、その長い年月の間に日本列島の構成民族も複雑多様になったはずです。日本の社会はアジア大陸の歴史の一部として大きく様変わりしたのだと思います。『カタカムナノウタヒ』の時代の賢者は生命を知るもの、『ホツマ伝え』以後の賢者は人倫の道を知るものになりました。時代を下るにつれ小賢しくなるのは仕方のないことかもしれません。しかし楢崎・宇野両先生が仰るように、この『カタカムナノウタヒ』に私達日本人が今も生きている日本語の原点があります。私達日本人の脳の『あめつちのひらけし』ところは、この『カタカムナノウタヒ』であると私は確信しています。

最後の『記紀』は大和朝廷の編纂で、歴史を明らかにするためとされています。私達が『日本』という国号を意識した時代のもので、複雑になった人間関係の中で、現代まで通用する日本人のアイデンティティをこれによって作り上げたのだと私は思っています。それは為政者として当然のことで、現代の私達はその真実と虚構の真実をどちらも正当に評価しないといけないと思います。何れにしろ私達はその二千年の命を生きているので、もう一つのあったかもしれない命は私達ではないのです。その暖かい覚悟を持って『記紀』は読まれるべきだと思います。(amatsukami & kunitsukami)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅰ・海幸山幸

2012-10-23 08:22:32 | 父の背負子1(随想古事記)
ずっとずっと昔のお話です。海幸彦と山幸彦という兄弟がおりました。海幸彦は海で魚をとり、山幸彦は山で獣を追って暮らしていました。ある日弟の山幸彦が兄の海幸彦に言いました。「一日だけ釣竿と弓を交換して、いつもと違うことをしてみようよ。」海幸彦は嫌がりましたが、山幸彦が余りに熱心に頼むのでいやいやながら交換することにしました。

山幸彦は喜んで海に出かけ釣りを始めました。なかなか釣れません。とうとう一匹も釣れませんでした。そればかりか大事な海幸彦に借りた釣り針をなくしてしまったのです。海幸彦も慣れない狩りで何の獲物も無く帰ってきました。山幸彦は海幸彦に大事な針をなくしたことを正直に話して心から謝りました。しかし海幸彦は許してくれません。山幸彦は自分の刀を溶かして千本の針を作り、兄の海幸彦にお詫びをしました。それでも海幸彦は、どうしても失くした釣り針を返してくれと言って許してくれません。すっかり困ってしまった山幸彦が海岸で途方に暮れていると、白いお髭のおじいさんが現れて、「海津神(わたつかみ・海の神様)なら分かるだろうから教えてもらいなさい」と、海津神の宮殿への道筋を教えてくれました。教えられた通り進んでいくと井戸と大きな香木(かつらぎ)がありました。おじいさんの指示通りその大きな木に登っていると、宮殿の侍女が水を汲みにやってきました。

水を汲もうと井戸を覗き込んだ侍女が井戸に映っている山幸彦を見つけました。山幸彦は水を飲ませてくれるように頼みます。侍女がさし出した容器に、山幸彦は自分の首にかけていた珠を口に含んで吐き入れます。するとその球が容器の底にはり付いてとれなくなりました。仕方なく侍女はそのまま水を汲んで宮殿に戻りお姫様に水を差し出します。その珠を見つけたお姫様が怪しんで侍女に尋ねました。井戸にやってきて木に上にいる美しい若者を見つけたお姫様は、父の海津神にその話をしました。すると海津神は「その方は日の神の御子に違いない。丁重にお通しするように」と言い付けました。お姫様に連れられてやってきた山幸彦を、海津神は大切にもてなし娘の豊玉姫と結婚させます。山幸彦はこの海津神の宮殿で三年間幸せに過ごしました。

ある日心にかかっていた海幸彦の釣り針を思ってふとため息をつきます。それを怪しんだ豊玉姫が海津神に山幸彦のため息を報告しました。山幸彦から訳を聞いた海津神は調査を開始、ふかの喉に引っ掛かっていた釣り針を探し出しました。大喜びに喜んで山幸彦は海幸彦に釣り針を返しました。それから山幸彦はまた山で獣を追い海幸彦は海で魚を釣って暮らしましたとさ・・・・・



子供が最初に聞くおとぎ話としてはこれくらいまでのものですが、日本人なら誰もが知っている『海幸山幸』の話です。成長するにつれてこの後日談というか続きというか、詳しい神話に触れるようになります。関連記事2006年7月『海幸山幸

海幸彦の本名は『火照命(ホデリノミコト)』と言い、山幸彦は『火遠理命(ホヲリノミコト)』と言います。父君は天孫降臨のニニギノミコト、母君は日本神話の美人の筆頭コノハナノサクヤヒメです。

海津神は釣り針を持たせて山幸彦を葦原の中津国にお帰しします。その時海津神は山幸彦に、海幸彦に釣り針をかえす時の呪文『この鉤(かぎ)は、オボ鉤(おぼち)・スス鉤(すすち)・マジ鉤(まじち)・ウル鉤(うるち)』と唱えて後ろ向きにお渡しなさい』と二つの玉を授けます。山幸彦は言われたとおりに釣り針を海幸彦に返します。海津神は天地の水を司る竜神ですから、山幸彦の国は豊かな実りに恵まれます。しかし海幸彦は何をやってもうまく行きません。海津神の予言通り三年の内に貧しくなって山幸彦の国に攻め込んできました。その時山幸彦は海津神からもらった『塩盈珠(しおみつのたま)』で海幸彦の軍勢を溺れさせてしまいます。海幸彦はとうとう降参して許しを請い、山幸彦の守護の役をする家来になろうと誓います。そこで山幸彦はもう一つの『塩乾珠(しおひるのたま)』で洪水を治め兄の命をお許しになるのです。こうして山幸彦はニニギノミコトの跡を継いで大王になられます。山幸彦の日本史上のお名前は、天津日高日子穂々手見命(アマツヒコヒコホホデミノミコト)、神武天皇のおじい様です。

この物語は沢山の示唆を含んでいます。
第一に、山幸彦が道具の取り換えを申し出ること。これは人間にありそうな話です。何気ない毎日の暮らしが、いかに長閑で幸せなものだったか、後で知るのです。如何に後悔しても役に立ちません。

第二に、海幸彦はそれを嫌うこと。これは出雲の国譲りと同じく、強制的なものを感じさせます。取り換えは乗っ取りに通じているからです。

第三に、海幸彦は山幸彦の同母兄であるにもかかわらず、邪まな性格とされていること。アマテラスとスサノオの関係と似ています。そしてこれから神話に登場してくる兄弟の物語はいつも弟が正義を体現しています。神話の兄弟の血筋はあてにならないのかもしれません。

第四に、海津神が竜神であること。日本列島の原住民を思わせます。そして
第五に、海幸彦はその名前からは海津神側、つまり原住民族ではないかと思われます。だとすれば海幸山幸の争いも理解できると思います。

第六に、山幸彦は海津神の娘と結婚して治水権を受け継ぐこと。海津神が天孫に支配権を譲ったことを意味しています。その譲られた地が、山幸彦がお帰りになった『葦原の中津国』であると語っています。

第七に、おとぎ話にきまって出て来る白いお髭のおじいさんは何者か。このおじいさんは住吉の翁とも呼ばれていますが、たいていは『塩椎(土)の翁』と呼ばれています。この『椎』は足名椎・手名椎の『椎』と同じです。ホツマ伝えには前述の若姫とアチヒコの仲人役で出てきます。神格に近いけれども、氏素性をはっきりした記事はありません。川崎真治先生の著書に触れるまで私にはわかりませんでした。海津神に近い蛇族の国津神です。

第八に、竜宮城に行く浦島太郎との関係。幼い日浦島太郎の話を聞きました。「ヨサの浜辺で浦島は、・・・・・」母の語りはいつもこういう出だしで始まりました。子供心に「ヨサって何処だろう」と思ったものです。長ずるにつれて『与謝蕪村』を知り、『依網羅の娘子』を知り、その依網羅娘子と人麻呂の相聞歌『角の浦みを浦無しと・・・・・・』を知りました。様々な伝承が彼方此方でつながれている不思議な感じを胸に温めたまま長い年月を過ごしてきました。そして師と仰ぐ最後(多分)の御縁を頂いた川崎真治先生の著書に触れました。


山幸彦には次に大切なお話し『ナギサタケウガヤフキアワセズノミコトの出産』の場面が続いています。
山幸彦と結婚なさった豊玉姫は、出産を間近に控えられ山幸彦の許を訪ねて来られます。『日の神子を海津神の宮殿で産むことは出来ない』とおっしゃるのです。それで山幸彦、つまりホヲリノミコトは急いで海岸に産屋をお建てになります。その時急に豊玉姫は産気づかれて、夫の君に『出産をする時は本来の姿に戻るものですから、決して産屋をのぞかないでください』と約束を取り付けられます。そしてまだ完成していない(鵜の羽を草代わりにして屋根を葺いていたが未だ出来上がっていない)産屋にお入りになります。この時お生まれになるのが、この事件を象徴するお名前を持つ『波限建鵜草葺不合命(なぎさたけ・うがや・ふきあえずのみこと)』で、その意味は『海辺に立てた産屋の屋根が出来上がらないうちにお生まれになった御子』という意味です。名前というものがその人の氏素性生い立ちを語るものだということを納得させられます。神々のお名前、歴史上の人物の名前をもう一度確認してみたいと思ってしまいます。

ところで私達は『覗くな』という昔話で有名なものを三つ知っています。第一が既にご紹介した『イザナギ』のお話、第二がこの『豊玉姫』のお話、第三が『鶴の恩返し』のお話しです。禁止されると気になってしまう人間の心情をついていてなかなか面白いお話です。

今回の豊玉姫のお話しは、覗いてしまった山幸彦に豊玉姫は次のようにおっしゃいます。『これから毎日海津神の宮殿から通ってお世話をしようと思っていたのに、貴方が覗いて私の姿を見ておしまいになったのでそれも出来ません。』豊玉姫は海津神の娘で、出産の時鰐の姿に戻っていたのを恥ずかしく思われたのです。そして『海坂』の戸をふさいで海津神の宮殿に帰っておしまいになります。これは大変興味深いお話しだと思います。私達が人間に生まれる前の記憶の一部だと私は考えています。それもこれは皇統につながるお話しなので、決して卑しんだり怪しんだりしているのではありません。そしてもう一つ、豊玉姫は『海坂』を閉じて海にお帰りになりました。私達はこの時海と往来する道を失いました。この坂は境界を意味するもので、イザナギノミコトも黄泉の『平坂』に戸を立てて塞がれたことを私達は知っています。その時生き帰る道を失い、今回海の中へ自由に行く道を失いました。

古事記には生命の発生から進化の歴史を語っているのではないかと思わせる記事がいくつかあります。『ウマシアシカビヒコジ』の神にカビ類の時代、『ヒルコ』姫に無脊椎動物時代、『ワニ』の姿での出産に爬虫類の時代などです。海岸に来て卵を産む大海亀は、産卵後決して子どもの世話をしません。爬虫類までは水の世界と陸の世界を往復します。この豊玉姫のお話もそんな事を考えさせられます。神話というものは重層的に私達の記憶(つまり過去)を語り継いでいるにちがいありません。(umisachi & yamasachi)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親知らず

2012-10-18 13:47:21 | Weblog
珍事件??発生です。ところで皆様ご存知のたま先生は、さすが!きれいな歯が32本そろっておられると、伺いました。ちょっとうらやましいですね。

私の親知らずは4本とも生えませんでした。32歳までは、です。その時三人目の子供が1歳くらいで、本当に忙しい育児時代のことでした。奥の上第2大臼歯が割れたんです。そして残骸を歯医者さんで抜きました。するとその奥の親知らずがせり出して来て第2臼歯の代わりにおさまりました。歯医者さんは『30歳を過ぎてこんなことになるなんて!ストゥラテジック・・・・っていうんですよ!!』と喜んでくださいました。

それからまた30年余、今年の初めに今度は奥の下の第2大臼歯が噛んでいる最中に割れました。それから半年余り、今また親知らずが少し顔を出しています。歯茎を割って出ているためか、時々だるいような何とも言えない感触がありますが、歯が生え始めた赤ん坊の噛みつきたい気持ちってこんなんだろうか・・・・・と思いながら、きれいに出てきて・・・・と歯ブラシを使うたびに念じてブラシをかけています。

          有難う、親知らずさん!!!




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅱ・神話と言語

2012-10-17 15:10:10 | 父の背負子1(随想古事記)
世界に現存する神話には、私達の日本の神話をはじめとして、旧約聖書に語られる神話やエジプトの神話、ギリシャ・ローマ神話、北欧神話、インド神話、中国の神話、そして世界各地の様々な神話等があります。神話という形に限らず、太古からの伝承も民族の数ほどあります。こうした物語には世界的に共通する部分が多くあります。初めてそれを知った時には不思議だと感じましたが、全人類の起源が同じアフリカで、世界各地に散らばったと解明されてみれば納得のいく問題だと感じています。神話は人類と民族の起源の痕跡に違いありません。

多様な民族の発生理由については、マクロビオティックの根本原則『身土不二』を知った途端氷解してしまいますが、それはダーウィンの言う世界中の動物たちの多様性の原因と同じだと思います。現在私達は皮膚の色素から白・黒・黄の色素人種に分類して何系彼系と言っていますが、およそ数10万年も遡ればほとんど一民族の中の顔付きの違い程度になるのだろうと思います。それに聞くところによると、出生直後の赤ちゃんは成人ほど皮膚の色の違いが明確ではないそうです。だとすればこれは後から獲得した地域差だろうと思われます。

現代を生きている人類はおよそ十万年前にアフリカを出発して一万五千年から一万年前迄にユーラシア大陸を経て南北アメリカまで全世界に人類が広く分布したと考えられています。この時の世界には最大公約数として五種族(『五色人の謎』でおはなししました)が区別されていたと、川崎先生の古代史学で解明されており、現在もほとんど変わっていません。東西南北を行き来する様々な相互間の干渉があって現存する多様な人種・民族が派生したと考えられます。

世界の各人種・民族は同じ起源を持っており、同じ自分たちの起源に関する初期の物語(つまりそれが神話であり言語)を持って世界各地に散らばり、落ち着いた先の諸条件で多様化していきました。習慣の多様化、衣服の多様化、言語の多様化、こうしたものはその土地条件に影響されています。石の無いところに石の文化は起こるはずもありません。手許に泥があれば泥を、植物があれば植物を使うようになります。定住できる食料を確保できた民族は頑丈で長持ちのする生活様式を選ぶでしょうし、遊牧民のように移動しなければならない民族は移動に適した家屋や生活様式を考案するでしょう。この多様化の過程に思いいたれば、私達の言語に関する多様化にも納得がいくだろうと思います。


神話の中には宇宙創世についての物語を持つものがあります。それは民族としてのアイデンティティに目覚めた人達によって辿られた記憶の歴史に違いありません。『自分達は何なのか(現在)』『自分たちはどこから来たのか(過去)』そして『自分達はどこに行くのか(未来)』、太古の昔も今も全く変わらないこの三つの問いの上にそれぞれの民族の特色が形成されていったのだと思います。創世記のお話がどれも混沌、あるいは何も無いところから始まる点では同じです。人智の極まる果て、それ以上考えることのできない始まりを混沌、あるいは無と認識したのだと思います。それ以前について考えることが能力を超えることであるのは、現代社会でも同じです。私達はビッグバン以前を知ることが出来ません。その回答がそれぞれの民族の神話であり、文明なのだろうと思います。そして最も重要なものがそれを語る言語だったのです。言語なくして解答を得ることは出来ません。

カタカムナの解明に尽くされた相似相学の宇野先生は、日本語を『命』と『生活』を同じ単語で済ますことができなかった民族の言語だと言っておられます。命あっての暮らしではあるけれども、日本人は『life』一つで済ませることができなかったのだと言っておられます。現代に生きる私達も外国語で表現しなければならなくなったとき、こうした戸惑いと無縁ではありません。日本人の外国語表現には、このような特殊性がいつも関与して、ついつい黙り込むことになるのではないかと思います。それは言葉の定義(生活・暮らし)の上に生きているのではなく、言葉の力(言霊・命)の上に生きてきた日本人の歴史なのだろうと思います。外国語の中にこうしたニュアンスを持つ自分の言いたい事にぴったりの単語を見つけることがなかなか出来ないのだろうと思います。言葉はその民族の必要性を映しており、ボキャブラリーはその複雑さを映していると思います。

互いの必要と心情を伝えるべく人類の言葉が発生し、その言葉によって醸し出された民族の心に突き動かされて神話が形成されてきたと思います。それぞれの民族の気の済むまでの、言わば専門分野を開拓するように言語はその幅を拡げていったと考えられます。それで神話は言葉の発生と展開の歴史でもあると言えます。最初私達がアフリカの地で人類となった時発していた言葉は、『ア』とか『ウ』とか、そういった音で理解しあえる範囲だったと思います。現在も類人猿たちが相互間に発信する信号音も私達人類の言葉の原型のようなものだと思います。そしてこの基本的な相互理解が現代の複雑な言葉の土台であることは疑いようもありません。その時の『ア』が今では『コ』であるということはあり得ないのです。なぜなら言語による相互理解は受信、認識、発信が一塊として重層的に密接に関係して発達して来たので、それぞれの基本音をもとに逆ピラミッド型に積み重なり組み合わさり絡みあって出来ています。起点を変えると言語脳は機能を喪失してしまう筈です。

百万年以上も前に出現した猿人や原人を経て誕生した私達新人は、前述したようにおよそ十万年前にアフリカの地を出発したといわれています。(参考ブログ記事:民族の形成)そして一万五千年前には全世界に広がって現在の多様な民族の元となりました。これは言語の世界にも言えることで、アフリカの一つのグループ内部で育んだ基本的音素が、全民族の基底音であることは間違いのないことだと思います。もしこれが違っていたら私達は人種の違いがあるのかもしれません。音楽が国境を超えているといわれるのも、音(波動)の共鳴という一種の理解の仕方が人類の脳の基底部にあるからだと思います。この共鳴に関しては動物ばかりでなく植物も、いえ全生命に共通していると思います。私達は地球上に吹く水や大気の力、つまり流れや風の音を聞いて進化してきたのですから。

音素の次に現れた音の組み合わせが言葉や文章ですが、数万年に及ぶ言語の歴史の中でこの組み合わせ方法にはいくつかの区別、つまり法則が出来、現代の文法というものまでたどり着きます。例えば否定詞を否定される言葉の前につけるか後につけるか・・・・これは私達日本語が「・・・でない」と後で否定するやり方であるのに対し英語や中国語が「not・・non・・」「不・非・・」という先に否定する違いです。言わば各民族の癖と云った方がよいかもしれません。好みの音と云うものもあったはずです。あるいは気候上の理由もあったかもしれません。口を開けることは、砂漠や寒冷地では最小限にしたい筈です。こうして子音の多様性も増していきました。言葉の多様性は条件の多様性の証明だと思います。人類が各地に散らばって行った証拠だと思います。そのどこかの段階に旧約聖書で言う『バベルの塔』の事件があるのだと思います。

文字の発明は遅くとも紀元前五千年くらいと言われていて、私達は有史時代を一万年も持っていません。そこにいたるまでの途方もなく長い人類の言語生活は一体どのあたりで様々な民族語に分かれたのでしょうか。神話の類似性はそのヒントにもなると思います。言語の発展史上決定的な出来事『文字の発明』はメソポタミアに住んでいた人々の業績だと言われています。これは五、六千年前だそうです。そしてこれが中国・殷では甲骨文字になったと言われています。独自に発明されたとの説も当然あるでしょうが、私は川崎真治先生の民族移動に伴う文字素あるいは造字原理の移動説を正しいと思っています。

文字は言葉と違って一定程度の文明の成熟が必要ですから、様々な部族民族が各地で成熟してから発展しました。しかし移動前に出来上がっていた基本的音素と言語は世界中の人々に受け継がれたと思います。それでその時までに出来上がっていた簡単な単語、文法の否定と肯定の方法、基本的数詞、感嘆詞(驚いた時、つまり魂消た時)などの基本的要素と単語づくりの法則のようなものも受け継がれたと考えられます(当然民族的な訛りによって変化して伝わっていますが)。そして、どの時点で別れたのかも、当然映していると思います。そして、カタカムナの楢崎先生や宇野先生が仰るように、日本語の単純な音素が世界中の言語に仮名をふることが出来るという、この特殊な事実をもっと解明すべきだろうと思います。

日本の神話や古事記の研究も、歴史の研究も、独自に専門的にやるのではなく、国民的研究事業として広く公開するのがよいと思います。これは私達国民の記憶遺産なのですから、国民の一人一人が相続人なのだと思います。数多くある通説や異説、様々な角度からの推理や検証、こういったものが一つの事実の裏と表とその交錯をいつの日か明らかにするだろうと思います。そして改竄説や捏造説の持つ裁判的態度を捨てて、真実の歴史探求に取り組むべきだと思います。真実とその理由は知ってもよいと思いますが、歴史の流れの末にいる私達が弾劾裁判をしたとしても、善いことは何も生み出さないでしょう。例え改竄され捏造されたとしても私達はその歴史の続きを生きていることを深く心に留めるべきだと思います。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅱ・関連記事便覧

2012-10-17 10:08:32 | 父の背負子1(随想古事記)
今回の記事を読んでいただけて、大変嬉しく思います。下に並べた以前の記事は、今回出版予定時にも参考記事として取り上げたものです。今回の随想古事記でも読んでいただいた方が良いと思われる時にリンクをかけていますが、お読みになりたいものが簡単に取り出せたほうが良いのではと考え、ここに取りまとめ便覧を作りました。


     民族の形成
     五色人の謎Ⅰ
     五色人の謎Ⅱ
     五色人の謎・補


     たたなずく青垣山籠れる     
     足引きのヨモツヒラサカ
     海幸山幸
     聖徳太子
     父の冗談
     今朝のトピック
     棒高跳びの女王イシンバエワ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ

2012-10-15 13:15:40 | 父の背負子1(随想古事記)
アマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の食す国(ヨルノオスクニ)を、スサノオは海原を・・・・・

「汝尊(いましみこと)は高天原をしらせ」と父君イザナギノミコトから命じられたアマテラスは高天原を治められます。どういうわけでイザナギノミコトが高天原の統治権をアマテラスにお任せになることが出来るのかは分かりません。夜のオスクニの統治をまかされたツクヨミの命はこれを最後に登場なさることはありません。一方海原を統治せよと命じられたスサノオノミコトは、どういうわけで母と言われるのかこれも分かりませんが(神話に語られる通りとすれば、イザナギノミコトは独りで三貴子をお生みになりました)、イザナミノミコトのおいでになる根の堅州国(カタスクニ)に行きたいと泣きわめいて大洪水を起こす始末です。とうとうイザナギノミコトから『此処に居てはならぬ、母の国に行け』と追放されてしまいます。

それでスサノオは姉君アマテラスにお別れを申し上げようと高天原に上っていきます。地響きを立てて登って来るその異様な様子は、とても普通ではありません。いよいよ世界に領土争いが始まったのでしょうか。アマテラスは、「さては弟は高天原を奪いに来たのでは・・・」と武装して待ちうけます。そして有名なアマテラスとスサノオの誓約(ウケイ)のシーンが繰り広げられます。アマテラスはスサノオの佩刀を三つに折って噛み砕かれた後吹き出されると、宗像三女神と呼ばれる多紀理(タギリ)姫、市杵島(イチキシマ)姫、多紀都(タギツ)姫が息吹の中に現れます。スサノオがアマテラスの髪飾りや手にまかれた珠玉を噛んで吹き出される息吹の中からは、正勝吾勝々速日天忍穂耳(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ)命という長いお名前の神様を筆頭に天之菩卑能(アメノホヒノ)命、天津日子根(アマツヒコネノ)命、活津日子根(イクツヒコネノ)命、熊野久須毘(クマノクスビノ)命という五柱の神が現れます。

誓約(ウケイ)とは一体何かというと、自分の身の潔白を証明するためのものです。世界史によく見受けるのは、日本でも行われたらしい『クガタチ』類のものです。熱湯の中に手を入れて火傷をしなかったら本当のことを語っていると判じるものです。エジプトでは毒蛇の入った甕に手を入れるというものでした。熱湯に手を入れるやり方は最初からオールアンドオールとでも言いましょうか、多分無罪にはならなかったのではないかと思います。それともヨガの修行のような何かで可能になるのでしょうか。毒蛇の甕はオールオアナッシングで、一か八か、あるいは甕の数によって、確率的に運を天に任せるやり方としか現代人には思えませんが、それでも生き残るチャンスは『偶然』によってあったのではないかと思います。神話の『誓約』は言霊の国の神々にふさわしいと思います。息吹が形をとって現れるのですから、吐く言葉が嘘か本当か、形として見えるのです。こじつけと言われればそれまでですが、吐く息はその人となりを表すと思います。それでスサノオの心を知るために力の象徴である佩刀をお調べになりました。たおやかな三女神が現れて、スサノオノミコトは平和な心を映し出したのだと主張されました。アマテラスの装っておられる玉からは大神の勇ましい高天原の統治者としてのお覚悟通り、頼もしい五人の皇子が現れて『なんびとにも侵されぬ』断固とした決意を示されました。

スサノオに疑わしい下心は無いと分かって、アマテラスはスサノオが高天原に入ることをお許しになります。図に乗ったスサノオは『勝ちさび』と言われる乱暴狼藉をはたらきます。田んぼを壊し、水利の溝を埋め、汚物や肥を撒き散らします。それでも姉の命は『弟は酔って気分が悪かったのだ、何か別の良い計画があるのだ』とおかばいになります。スサノオの乱暴は止まるところを知らず、神聖な機屋を壊し、天の斑駒(ふちごま)を逆剥ぎにして投げ入れます。そして神につかえる機織り姫が死んでしまうのです。此処に至って、とうとうアマテラスは天の岩屋戸に閉じ籠ってしまわれます。

なぜ成敗なさらずに隠れておしまいになったのでしょうか。この段でアマテラスとスサノオは結婚されたのだという説もあります。アマテラスはスサノオを『我がなせの命』と呼んでおられます。これはイザナミがイザナギに対する呼びかけと同じです。確かにスサノオの乱暴狼藉を咎める神々に対するアマテラスの弁明は、酔っぱらいの夫をかばう妻の言い草のようにも聞こえます。その上誓約でお互いの子をお生みになりました。

さてアマテラスが隠れてしまわれたので高天原は真っ暗闇になりました。このアマテラスは太陽神として表現されていると一般的に言われています。それに異存はありませんが、明るく照らされて私達日本人が理想としてきた『清き明き心』を持ち続けることができるような、そんな心を守って下さる神様のような受け取り方を日本人はしてきたと思います。

さあ高天原は大騒ぎ、照らされて清らかだった世の中にいっせいに悪いこと曲がったことが噴出してきます。人間の裏側の醜い心が表に現れてきました。民というものは照らされていれば清らかで、闇になると醜くなるものなのです。照らすことが為政者の務めです。神々は大いに困って額を寄せ集め相談して出てきた解決策が、大笑いして歌い騒ぎ、アマテラスを誘い出そうというものでした。

神々のどんちゃん騒ぎが天の岩屋戸の前で繰り広げられました。長鳴き鳥が鳴きます。鉦や太鼓をたたいて、天(アメ)のウズメノミコトは可笑しげに踊ります。中におられるアマテラスは不審に思われます。暗闇に沈んでいるはずの神々が楽しそうに踊り歌い笑っているのですから当然です。そっと覗いて天のウズメノミコトに『なぜそんなに楽しそうにしているのか』とお尋ねになります。天のウズメノミコトは『あなた様より尊い神がお出ましになり皆喜んでいるのです』と、岩屋戸の前に鏡を差し出してアマテラスのお姿を映しました。驚いてもっと見ようとなさった瞬間の光の漏れ出たすきを逃しはしません。手力男(タヂカラオノ)命がアマテラスの手を取り引いて、太玉(フトダマノ)命が岩屋戸にしめ縄をはって二度とこんなことが起こらないように塞いでしまわれます。やっと高天原も葦原の中津国も明るさを取り戻しました。

アメノウズメノミコトの『もっと尊い神』というくだりに、異なる神を持った異民族との接触を思いますが、この岩屋戸籠りは、日本式再生神話だと思います。昼と夜の太陽の繰り返しをはじめ、日食の恐ろしさ、人生における死と再生(誕生)、世の中における幸不幸、本来持っていたものを失った時の対処の仕方を教えているように感じます。日本人独特の不幸の中にほほ笑みや笑いを衝き動かす心の原点が表されているように思えてなりません。またこの笑いの力は最も言霊の力を表したものの一つです。自分も他人も、自分の内側も外側も揺り動かして笑う声に、禍を吹き飛ばして秩序を取り戻す大きな力があることを教えています。また神々の笑いに加えて長鳴き鳥の『長く音を伸ばす』方法が、和歌を歌う正式な方法です。和歌とは力の発現だったので、一度発したものは修正のきかないものでした。そしてもう一つ、神と呼ばれる人々の薨去(かむさり)の方法も、この岩屋戸籠りあるいは岩屋戸隠れに見つけることが出来ると思います。ホツマ伝えではトヨウケの大神やアマテラスの『カムアガリ』についても言及しています。山の洞にお籠りになるカムアガリに、現代に伝わる羽黒山の『生き仏』行を連想してしまいます。




古事記の中でスサノオノミコトくらい、英雄になったり悪者になったりしている神様はありません。高天原の悪行に対し最高刑で罰するべきとの意見もある中、罪一等を減じてもらったスサノオノミコトはひげを切られ爪を抜かれて追放されます。それなのにスサノオノミコトくらい広く尊敬を受けている神様は日本におられません。スサノオノミコトは沢山の別名を持っておられて日本中の神社の御祭神の中では一番多く祀られています。高天原で世の中を真っ暗にするほどの罪を犯され追放されたスサノオノミコトですが、後世に讃えられるべき事績の中で特別な事が二つ古事記に残されています。一つは五穀の種をもたらされたこと、もう一つは出雲の国づくりです。

八百万の神々から罰を受け追放されたスサノオノミコトは、空腹を感じて食べ物が欲しいと大気都比売(おおげつひめ)に頼まれます。すると大気都比売は目・鼻・口、あげくの果てにお尻からまで様々なものを取り出してスサノオノミコトの食事を整えられます。それを見たスサノオは汚い穢れたものだと怒って大気都比売を切り殺しておしまいになります。するとこの大気都比売の亡骸の頭からは蚕が、目から稲の実が、耳から粟が、鼻から小豆が、ホトから麦が、お尻から大豆が生えるのです。それが五穀の種になったとされています。スサノオノミコトの娘である宗像三女神が全国に五穀の種を配って歩いたと『ホツマ伝え』では言い伝えています。カグツチの神を切り殺したイザナギノミコトの段のお話しにも似ています。

この二つのお話もイザナギの黄泉の国訪問の場面と同じようにマクロビオティックとの関連を深く感じさせられます。これは排泄と摂取の関係です。大気都比売は自分の排泄物を他人の食べ物に供するのです。自然の仕組みを神様の行動で表わしていますが、私達の世界は微生物から大きな動物まで、あるいは大気の熱や風の関係に至るまで、すべてが他または他の排泄物を食べ(取り込んで)自分の(新たな)排泄物を出すという関係の繰り返しで成り立っています。私達の食事も植物や動物が、取り入れたものを細胞で作り変えて自分の体として排泄(表現)しているものだと言えます。動物の呼吸も植物が排泄する酸素を吸っています。金魚のフンを狙っている虫もいます。人間だけが自分の排泄物をごみにしましたが、そのゴミも結局のところは自然界の法則によって微生物に分解され(食べられる)ます。自然界の仕組みを私達の先祖は鋭く観察したのに違いありません。そして頭から生まれた蚕ですが、人類の織物は髪の毛に歴史があるのかもしれません。蚕の繭から糸を繰り出して作る織物が髪の毛とはなかなか結びつきませんが、古代の人々の頭の中には共通項があったのだと思います。その証拠と言えるかどうか分かりませんが、ギリシャ神話の恐ろしい女神メデューサの髪の毛は蛇(つまり縄)です。

もう一つのスサノオノミコトの事績出雲の国づくりは、有名なヤマタノオロチ退治の物語から始まります。登場人物はスサノオノミコト・国津神夫婦の足名椎(アシナヅチ)・手名椎(テナヅチ)・その娘櫛名田比売(クシナダヒメ)です。高天原から追放されて出雲地方に下って来られたスサノオノミコトは、美しい娘を中にして泣いている国津神夫婦に巡り会われます。そして八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が毎年一人ずつ娘をさらって最後の末娘が犠牲になろうとしていることをお聞きになります。スサノオノミコトはその娘クシナダ姫との結婚の約束なさって大蛇退治をなさるのです。その場面は出雲のお神楽でも有名なのでよく知られています。沢山のお酒を飲んでのたくり回る大蛇を退治する勇壮な名場面です。大蛇の尾から得た剣が『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』で、三種の神器の一つになりました。こうしてめでたくスサノオノミコトは美しい妻をめとられてかの有名な妻籠みの歌をおよみになります。

『八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』

現代なら『マイ・スイートホーム、スイートホーム!』と愛妻を得た喜びを歌われているのです。高天原の乱暴狼藉は一体どうしたお話しなのかさっぱりわかりません。


なぜスサノオを最後まで悪役で通すことが出来なかったのでしょうか。アマテラスは最初高天原を奪われるかもしれないとさえお考えになりました。次にスサノオとアマテラスは、誓約でお互いに御子を得られ、アマテラスは荒ぶるスサノオを『我がなせの命』とお呼びになりました。そしてスサノオとの誓約でお生まれになったアマテラスの第一子、天忍穂耳命の葦原の中津国の統治権を主張なさるのです。そしてアマテラスのお子様は誓約でお生まれになった五柱の神子以外他にいらっしゃいません。スサノオノミコトが多くの神々をお生みになり、スサノオから五世か六世の孫に当たる大国主命も沢山の結婚をなさり、多くのお子様をお生みになります。大国主の正妻は何とスサノオの末娘須勢理比売なのです。これは神話というお話ではなく、何かしらの歴史的事実を反映している『想像(虚構)と真実のミックス』だと思う以外にありません。その証拠に国譲りを強要された出雲の神々は現代に至るまで依然として異彩を放ち、スサノオは国民的に愛され続けています。少なくとも最も存在感を持った神様であることに間違いはありません。

出雲の神々の中でスサノオの後継者・大国主命はスサノオと同じくらい大きな存在です。大国主命のお話の中で、『因幡の白ウサギ』のお話しは良く知られています。このエピソードは大国主命の性格を語っていますが、この前後の経緯はあまり知られていません。大国主命がなぜこの哀れな白ウサギに遭遇されたかというと、八十人もの異母兄の神々の荷物持ちをさせられて、八上比売というお姫様に求婚をするためにお出かけになった途中の出来事なのです。そして八上比売が大国主命を選ばれたため、兄の神々から二度も殺されておしまいになります。一度目は焼けただれた石を受け止められて、二度目は獣を獲る罠にかけられて。そのたびに母の神が高天原のタカミムスヒに教えられた通りに大国主を生き返らせます。そして兄の神々の魔の手から逃れるように、大国主をスサノオの住む根の堅州(カタス)国に行かせるのです。このころスサノオは出雲ではなく根の堅州国に住んでおられたらしいのですが、いつ頃移られたのかは分かりません。

根の堅州国で大国主命は須勢理比売(スセリビメ)とお互いに相思相愛一目惚れの恋仲になられます。須勢理比売が父君のスサノオノミコトに紹介なさると、娘を奪われる世の父親と同じく、スサノオノミコトは大国主を無理難題で試されます。世の男というものは娘婿に自分と同じ能力を要求するもののようです。先ず蛇の室屋に、次にムカデと蜂の室屋に大国主を泊めます。大国主を助けるのは現代社会と同じように、恋におちた須勢理比売です。毒虫を追い払う『ヒレ』を渡してもらい、大国主はぐっすりと眠ることが出来ました。毒虫の試験に合格なさると、今度は野原に連れ出し自分の放った矢を探しに行かせます。大国主が野原に入ると、火攻めにしておしまいになるのです。さすがの須勢理比売も泣いておられると、大国主は矢をスサノオノミコトの前に捧げられました。ネズミの言うことを理解なさった大国主は、穴の中に落ち込んで地上の火をやり過ごされるのです。

スサノオノミコトは『なかなかやるわい』とばかりに、今度は自分の頭の手入れをさせます。スサノオノミコトの頭はムカデと虱の巣状態でした。須勢理比売はそっと赤い土とむくの木の実を渡します。大国主はその土と実を噛んでは吐き出します。スサノオノミコトはそんな様子をムカデと虱を噛んでいると思いになって、『何と可愛い奴ではないか』と心を許して眠っておしまいになります。なんだか猿山のボスに対する毛繕いのようです。大国主はその隙を逃しません。スサノオの髪をあちこちの垂木に結び付け、スサノオの『生太刀(イクタチ)』『生弓矢(イクユミヤ)』それに『天の沼琴(ヌゴト)』をとり、須勢理比売をおぶって逃げ出します。大広間の出口は大岩で塞ぎます。すると『天の沼琴』が鳴り出して、スサノオノミコトは目を覚まします。気がついて起き上がろうとなさいますが、頭の自由がききません。それでもやっとほどいて大国主を追いかけられ、根の堅州国の国境で娘婿の大国主に出雲をお譲りになるのです。『葦原のシコオノミコトとして生太刀・生弓矢を用い、我が娘・須勢理比売を【適妻(むかひめ)】(王妃)にして国を治めよ』とはなむけされるのです。これでスサノオノミコトの出番はおしまいになります。

スサノオノミコトは男の典型です。母が死ねば、恋いしさに泣きます。時に我を忘れて乱暴をします。時に正義漢になります。美しい妻を得て幸せを歌います。想像すらしなかった娘の恋人の出現に嫉妬します。そして娘の幸せを願います。これがスサノオノミコトの人気の秘密かもしれません。(*葦原のシコオノミコト――葦原の中津国、つまり出雲から大和地方全域と思われる国の統治者

髪の毛を結わえつけられたガリバーやヨーロッパの童話『ジャックと豆の木』の大男を思い出させられます。ジャックは金の卵を産むあひると、竪琴と、もう一つ何かを盗んで、逃げ出す時に竪琴がなって大男が目を覚まし追いかけられる筋書きも同じです。ジャックは豆の木を切って大男は墜落してしまい、ジャックはお母さんと幸せに暮らしました。悪役はあくまで悪役というのが違いますが、『琴が鳴る』というキーワードは全世界同じなのでしょうか。何となく特別な意味を感じてしまいます。聖書の創世記でも最初に神の言葉が響きます。『光』と言葉を放たれて、光が出現します。『言霊』と同じです。古事記には『鳴り鏑の神』という神様もいます。この鳴り鏑が鳴る音の最初で楽器の始まりかもしれません。空気を震わすものこそが、『アメノミナカヌシ』の消息を伝えるものでしょう。現代でも振動計で火山の動き、地球の動きを観測しています。天の沼琴は、軍備である生太刀・生弓矢と同様に政治の大切な道具だったと思います。

こうして大国主に統治権を譲られてスサノオは舞台から姿を御隠しになりました。これで出雲の国譲りの舞台が整うのです。(amaterasu & susanoo)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月教室の緊急お知らせ

2012-10-12 16:52:18 | 教室情報
先月の教室で10月を今年最後の教室にするとお話いたしましたが、今月どうしても帰省できそうにありません。はっきりするまで不確定のままにすると皆様にご迷惑をおかけしますので、思い切って今月もお休みに致します。

お目にかかれるのを楽しみにしておりましたが、どうぞお許しください。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ

2012-10-12 09:10:38 | 父の背負子1(随想古事記)
次にウヒチニ・スヒチニ、ツヌグイ・イククイ、オオトノジ・オオトノベ、オモダル・アヤカシコネ、次にイザナギ・イザナミ。

かくり身の神々という現実の形を持たない段階を踏まえて、次に現れるのは雌雄一対になった五代の神々です。最初に現れるウヒチニ・スヒチニの夫婦神から最後に現れる『イザナギ・イザナミ』の夫婦神まで、これらの神々がどのようにお生まれになったのかは不明です。『おなり』になったのか、前代の子としてお生まれになったのか、何処から妻の神を迎えられたのか全く分かりません。そして古来私達が『ふたかみ』とお呼びするのは最後のイザナギ・イザナミ両尊です。現代に残る二上山も、このイザナギ・イザナミ両尊をお祀りする山です。ここからがわが日本の歴史の始まりだと思います。

この二神の事績にも謎が沢山あります。第一に、この二神に誰が国生みをお命じになったのかということです。神代七代という原初の世界に、急に高天原らしき天界が既にあって、沢山の神々がいらっしゃるらしい・・・・・ともかくもその神々の御命令により二神は天の浮橋(アメノウキハシ)にたたれて、いただいた天のヌボコで混沌の海をかき混ぜられます。そして引き抜かれたヌボコの先からほとばしり落ちるしずくが滴り固まって『オノコロジマ』が出来ます。その時の天地に吹き渡った風の音が、『コオロ、コオロ・・・・』これが私達の地上の世界に初めて物が固まったお話です。このオノコロジマに降り立たれて二神は国生みを開始されます。

この二神の国生みの段には冒頭から疑問があります。唐突に人類をも含む哺乳類の生殖の確認がなされるのです。人体構造の確認から始まるこの人間臭い描写が一体どういう意図でこの場面に必要なのか、文学的との評価もあるようですが、私にはパッチワークのデザインのミスマッチのように感じます。古事記にはこうした記事が数か所あって、それが古代人のおおらかさとか言われていますが、それは違うような気がします。何か今は分かりませんが、何れ究明されるべき問題だと思います。

次にオノコロジマの結婚の場面で、イザナミノミコトに八尋の柱を右回りせよ、自分は左から回ろうと提案されたイザナギノミコトですが、出会い頭に妻のミコトが先に「あなにやし、え男を」と言問いの主導権を握られます。こうしてお生みになった最初のお子様はヒルのようで骨が無く国の形を作ることが出来ませんでした。大変悲しまれてそのわけを高天原の神々にお伺いに行かれます。お答えは、『女が先に声をかけたから』というものでした。

この件は、現代で言うところの『男尊女卑』の観念が出来上がってからの脚色のように言われてきました。実際脚色はあったと思いますが、それはあくまで脚色であって、脚色される筋書きというか、秩序というか、力の発現の法則は神代から現代までを貫く真実です。

そもそもイザナギ・イザナミ両尊の『言問い』とは何でしょうか。それは最初に動くものとそれに続いて起こるものの象徴です。最初に動くものはそれまで動かなかった『ナギ』であり、それによって引き起こされる力の伝達が『ナミ』です。これはそのままタカミムスヒであり、次にカムミムスヒです。根源の『アメノミナカヌシ』は私達の地球上にはまず『タカミムスヒ』として示され、『カムミムスヒ』として働くのです。そしてこれは次々に繰り返されます。『ナギ』が『ナミ』を生み、次に『ナミ』が『ナギ』を生みます。最初に生まれた配偶神が『ウヒ(生まれ出るヒ)』と『スヒ(進んでいくヒ)』でした。因が果になり果がまた因になる応報が繰り返されるのが、天地開闢以来私達の真実です。

動物界では少なくとも魚類・両生類以後はオスがメスに求愛しています。先ず衝動にかられるものはオスです。もしかするとヒルはそういう雌雄の差がないのかもしれません。オスが先導する世界でも圧倒的な拒否権をメスが握っています。メスがオスの生存力を試してふるいにかけるのです。生存力の強さを魅力とメスは感じているに違いありません。メスが好ましいか好ましくないかという判断を下しています。野生に近い状態の人類も多分同じだったことでしょう。文明下の人間社会においても男が求婚するのが長い間の伝統です。現代ではだんだん無視されていますが、どちらかと言えば物理法則とでも言うべきもので、『男尊女卑』とは関係の無いものです。『ホツマ伝え』には天照大神の姉君若姫が拒否できない回り歌と云う恋歌をアチヒコに送ってプロポーズをして神々を慌てさせるエピソードが紹介されています。その回り歌(最初から読んでも最後から読んでも同じ音の歌)を御紹介しましょう。

『きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつそこいしき』

この歌をもらって当惑したアチヒコは、神々に相談しますがどうにもなりません。一旦発せられた言葉は変更することができません。言葉の持つ力はそれほど強いのです。仕方がないので、天照大神の命令で住吉の神が仲人となり結婚なさいました。かなり現代的ですが、この言い伝えが結婚式に高砂を謡う仕来りになったのではと思います。


人間は社会構造によって様々な規則をつくってきました。その規則が人間性を規制しています。人間は社会に束縛されてもいますが、その社会に守られてもいます。例えば動物のように天敵に襲われて命を落とす確率はほとんど無いし、動物界では当たり前の横取りという泥棒行為も法律で禁止して、弱いからという理由で取り上げられることは無くなりました。権利という観念を作りだし、法律に従うことを社会の規則にしました。社会は人間にとって哺乳類の胎盤の次に獲得した進化物かもしれないと思うくらいです。人類は社会の維持なしには人間ではありえません。それで社会で最も大事な事は社会の維持ということになったのだと思います。

『男尊女卑』は社会観念の副産物です。というより秩序維持の副産物と云うべきでしょうか。秩序の維持に男の方が多くの役割を果たしてきたのだと思います。秩序とは力で守るべきものだったからです。そしてそのことが権力を生んだのだろうと思います。現代社会のようなコンセンサスが無かった時代を私達は生き抜いてきました。時代によっては女の言い分が黙殺されて来たこともあります。そういった男の言い分、女の言い分は、現代では『人間らしく生きる』と言うところに集約されていますが、『生きる』という生命活動にはあまり関係ありません。それにいくら男尊と言っても男の社会は女無しでは成立しません。彼のローマの創立者ロムルスの最初の仕事は、近くのから女をさらって来ることだったそうです。男ばかりで建国したため社会が成り立たなかったのだそうです。男には妻が必要でした。要するに『男尊女卑』は力の目盛で見た場合の現実であることを、現代社会の私達はもう一度確認すべきだと思います。権力社会は、極論すれば、男のものです。

次に正しいナギ・ナミの順序を持ってイザナギ・イザナミ両尊は国生みに力を合わせてお進みになります。大八島の国を生み、様々な国土を構成する神々と役割りを持った神々をお生みになりました。ですから私達はみな神々の子孫なのだと信じてきました。神とは人間の上(かみ)で、私達日本人はみなこのイザナギ・イザナミ両尊がお生みになったのだと信じてきました。こうして私達の大八島の国は美しい国土となり、最後にイザナギ・イザナミ両尊は火の神様をお生みになります。そして火の神様によってイザナミノミコトは火傷を負われ亡くなってしまいます。イザナギノミコトは悲しみのあまり怒りに我を忘れられて、火の神様を切り殺しておしまいになります。この火の神様を『カグツチノミコト』というのですが、この神様の血液から鉱業の神々と鍛冶の神々がお生まれになり、そのお体からは鉱山の神々がお生まれになりました。

イザナギノミコトは亡くなられた妻を追って黄泉の国を尋ねて行きます。これはなかなか面白い伝承だと思います。イザナギノミコトは愛する妻に語りかけられます。「愛(うつく)しき我がなに妹の命(なにものみこと)・・・・・還るべし」。イザナギノミコトも不可能だと知ってはいても、『愛しき我がなせの命』のお言葉が身にしみて、「黄泉神(よもつかみ)と相談するから」とおっしゃって絶対に覗かないとのお約束を取り付けて行っておしまいになります。

ここで22年出版となった『マクロビオティックに学ぶ暮らしの知恵』p.69第二章『食とは何か』、イザナギの黄泉の国訪問の場面を引用ご紹介したいと思います。この本のテーマが食と健康を基本に据えたマクロビオティックの御紹介だったので、観点が少し違っていますが、お楽しみいただけるのではないかと思います。


イザナミノミコトは妻である自分を慕って黄泉の国に迎えに来られたイザナギノミコトに「すでに黄泉の国の食べ物を食べたから帰れない」とお答えになりました。イザナミノミコトのお体は食べ物によってウイルスやバクテリアの支配する世界のものに変性していました。食べ物によって住む世界が異なることを日本人は知っていたのです。イザナギノミコトがあきらめて黄泉の国からヒノモトの国にお帰りになろうとすると、黄泉の国のシコメが追ってきます。つまり感染地帯から清浄な地域に戻るためには、ウイルスの感染力から逃れなければなりません。そこでイザナギノミコトは身につけておられる飾り物を投げられました。するとそこに葡萄の木が生えて熟した葡萄の実がなり、シコメは葡萄の実を貪り食べます。おいしい葡萄はウイルスの住む黄泉の国(還元世界)との中間地帯の食べ物なのです。そしてそこに自分の食べるべき物があれば食べずにいることは出来ないのがこの世の生命の仕組みです。
イザナギノミコトは身についた黄泉の国の住民の食べるべき物を投げ捨て清浄になられてヨモツヒラサカに戸を立て、やっとの思いでシコメ、つまりここで言うウイルスを遮断されました。



この続きはブログ記事に『足引きのヨモツヒラサカ』としてご紹介していますが、『なにもの命』『なせの命』と美しい愛の言葉のやり取りが蛆のたかる肉体を前に真っ逆さまの大転回・・・・・神話の語り部は現実主義者です。男の思い込みを見事に曝しているとしか思えません。『百聞は一見にしかず』というとおり、目に焼き付いているイザナミノミコトの美しいお姿も、耳に残る美しい声も吹き飛んでしまい未練はありません。命からがら逃げに逃げて『筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)』に辿り着かれたイザナギノミコトは、身についた穢れを祓おうと川に入って禊をなさいました。穢れのついた物を脱ぎ捨てるたびに、水に身を沈められるたびに様々な神々をお生みになり、最後に私達がよく知っている天照大神、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトをお生みになります。左の眼から天照大神、右の眼からツクヨミ、最後に鼻をすすがれるとスサノオがお生まれになりました。サッパリ清らかなすがすがしい気持ちになられて「最後に素晴らしい子を得た」と大層お喜びになります。

ここで大きな不思議、あるいは矛盾にぶつかってしまいます。最初に確認した両性生殖の原則は何だったのでしょう・・・・。最初の天の御柱巡りは一体何のためだったのでしょう・・・・。


男寡(おとこやもめ)になられたイザナギノミコトは独りで最後の神生みをなさった後、天照大神は高天原を、ツクヨミノミコトには夜の食(お)す国を、スサノオノミコトには海原を治めよと命じられて神話でのお役目を終えられ、主役の座をアマテラスとスサノオの御姉弟にお譲りになります。イザナギノミコトの最後のお仕事は、ご命令を聞かないスサノオノミコトの追放でした。そしてスサノオノミコトが姉君を訪ねて高天原に上っていかれる有名なくだりに展開していきます。次回は『アマテラスとスサノオ』です。(izanagi & izanami)




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・

2012-10-09 08:47:37 | 父の背負子1(随想古事記)
私達日本人の神話は『古事記』という物語として伝えられています。『フルツコトノフミ』、遠い昔に起こったことの記録という意味です。古事記は有名な次の冒頭の文から始まります。

『天地(あめつち)の初めて発(ヒラ)けし時、高天原(タカマガハラ)になりませる神の名(ミナ)はアメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスビノカミ、次にカンムスビノカミ。この三柱(みはしら)の神はみな独り神にして、かくり身におわし給う。』

初めての古事記を、私は父の暗唱で聴きました。幼い日のその音の記憶が、私の古事記の原点です。現代最新の読み下しとは少し違いますが、私はこれが稗田阿礼の暗唱に近かったと感じています。その理由は、一に敬語の使い方、二に『かくり身』の扱い方です。そしてたった数行の短い文章の中に大きな問題が潜んでいると思います。その違いは大きく言って二つあります。そのひとつは敬語の問題、もう一つは日本人の物事の捉え方の問題です。


敬語の問題1.【なれるとなりませる】

第一の問題点は敬語で、最初に出てくる『なりませる』です。この言葉が最新読みの『なれる』とどう違うのか、これは日本人教育の根幹とも言うべき問題を含んでいます。

六世紀に百済の漢字博士王仁(ワニ)が漢字を伝えたとされています。古来詠み継がれて来た古事記の伝承を稗田阿礼(ヒエダノアレイ)が記憶し、漢字を使って太安万侶(オオノヤスマロ)が記述したとされています。その記述の仕方(後の人には読み方)には当然その人の音に対する心象というものが決定的な働きをしたと思います。そしてまたそのように読ませられた(あるいはその読み方に同感した)人々の心象も代々受け継がれて、結局日本人というものの心象になったはずです。その文章の読み下しは、受け継がれてきた心象を除外しては正しく読めないと思うのです。

父の代まで読み継いできた『なりませる』と、現代原典として最新版の古事記に統一された『なれる』との間にある事件、それは『敗戦』という国民の事件です。敗戦によって受け入れた占領政策による心象の断絶です。『なりませる』と言わねば済まなかった日本人の心が、『なれる』という言葉で済ませられるようになったのだと思います。そして私は父の心の音を受け継いで、『なれる』に違和感を禁じえません。

『なる』という単語は現在時代劇の『お成り』という将軍出座等に辛うじて残されています。貴人が現れることを、直接的な動作の表現を避けて『なる』といいました。全世界的に間接表現が敬意の表明(なぜ間接表明が敬意の表明になるのかという問題も解明されるべきですが)ですが、その心の奥にはもっと深い自然観察があって、それがこの神話の冒頭の『なる』という言葉だと思います。それは『繰り広げて出てきた』という意味です。そして何が『なる』のかというと、出現に至るまでの力がその因果関係を繰り広げて出て来たと言っているのです。『実がなる』のと同じです。新緑が芽吹き、花が咲いて小さな実を結び、やがては実が熟します。そのどの段階も省かれることはありません。それぞれの段階の木の力が、それぞれの姿を展開します。ひとつひとつの因果を踏んで現れ出たと言っているのです。

その尊敬の間接表現『なる』にもう一つ尊敬語『る・らる』を繰り返した『なれる』は十分丁寧で尊敬した言葉です。でもそれでも足りない日本人の心象があって『なりませる』という丁寧語の重ねがあったのだと思います。私達の存在の奥のそのまた奥の源泉でもある『アメノミナカヌシ』に対して『なれる』では足りないと感じた日本人の心象を私は大事にしたいと思います。
何を足りないと感じたのかと云うと、自分の立ち位置の表明です。今でも私達は日常の文体に『る』体と『ます』体とを持っています。私達はそれを使い分け、各場面に応じて敬語を重ねて意味合いや奥行きに違いを作りだしています。私達日本人は敬語に尊敬謙譲丁寧を兼ね備えなければ自分の位置を表し足りないと感じているのです。今も私達はそういう日本人の歴史を生きていると思います。


敬語の問題2.【名(みな)】

現代版では単純に『な』とふり仮名されています。太安万侶の漢字も『名』だけです。ですが私達は尊ぶべき神の『な』とは言えなかった筈です。現在でも対等の相手に対してさえ『お名前』『御芳名』などと使っています。ましてや宇宙の主である『アメノミナカヌシ』に対して『な』などと言えるはずもありません。『名』と単純に漢字一字であっても、日本人の心象は『みな』と読まねば済まない筈です。その証拠に私達は『天照大神』を『アマテラスオオミカミ』と読みます。太安万侶は、読み方は内容に応じるという前提を、当然のこととしたのでしょうか。あるいはまた帰化人で敬語を繰り返す必要を感じなかったのでしょうか。だとしたらますます稗田阿礼の口承がどんなものだったのか考えるべきだと思います。太安万侶の当てた字が稗田阿礼の音を映しているかどうかを考えるべきだと思います。そして太安万侶と稗田阿礼が誰だったのかも究明すべき問題だと思います。



日本人の考え方【かくり身】

第二の問題は、父の読み継ぐ『独り神にしてかくり身におわしたもう』です。このくだりは、手元にある現代版の古事記では『独り神となりまして、身を隠したまひき』となっています。現代の理解によると、この意味を独り神と対偶神との対比でとらえ、その姿をお見せになることはなかったとしています。私の個人的感覚による古事記の『え?』が始まったところです。『独り神として現れ身を隠された』と『独り神でかくり身でいらっしゃる』というのでは全然ちがったニュアンスを含んでいると思います。前者は意思を、後者は属性を感じさせます。そしてまた前者は過去の出来事として、後者は現在も続いていることとして受け止められます。

独り神は天地(あめつち)が初めて開かれるに関与なされたカミの姿です。まだ何にも分かれていない世界のカミで、かくり身というのはそのカミの本質が形を持たない『力』であると言っているのに違いありません。最初に現れたもの(アメノミナカヌシ)が『力』そのものだと言っているのです。その力があらゆるものを生み出していきます。

次のタカミムスビノカミもカンミムスビノカミも同じく独り神でかくり身です。この二つは元々一つのものが天地という二つのものに分かれる理由でもあり原因でもあります。アメノミナカヌシが天地として現れる時宇宙に作用する力(ムスビ)とその性質(タチ)が二種類あることを言っているからです。道教の思想で太一が二になったと表現されていることや、マクロビオティックで無限が陰陽に分かれたと言っていることと同じです。ですからこの二つのカミは、アメノミナカヌシが同時に持っている性質、作用を表したものです。そしてまた二つの性質のたどり着く先の姿(現れ方・天地)を示唆していると思います。
かくり身の神は、次にお生まれになる『ウマシアシカビヒコジノカミ』、『アメノトコタチノカミ』、『クニノトコタチノカミ』、『トヨクンヌノカミ』の全部で七柱です。

古事記ではアメノミナカヌシからアメノトコタチまでは特別に別天神(ことあまつかみ)、クニノトコタチとトヨクンヌは次に生まれる男女二柱の配偶神五代とともに神代七代に区別されています。この分類が正しいか、あるいは間違っているのか、これは古事記の編集にかかわる問題点です。現代の解釈では道教の影響で三・五・七という数字が編者にとって意味があったとかいわれています。

私はアメノトコタチ以下四柱のカミは、この天地における根源の力・アメノミナカヌシが地球上に形を持って現れる法則性を表現しているのだと思います。見えないものの兆しが現れ広がり確立して(ウマシアシカビヒコジ)様々に繁茂して(トヨクンヌ)いく、そこに関与しているアメノミナカヌシの二つの力、タカミムスヒとカムミムスヒとその作用が常立・国常立(常に・自在に)だと言っているのだと考えています。私に編集が許されるのなら、アメノミナカヌシからトヨクンヌまでの独り神・かくり身である七柱を一区切りにすべきではないかと思います。この『かくり身』という理解が日本神話を作った原日本人(ワタツ人)のもので、編集者の認識にはなかったのかもしれないと思っています。

次の陰陽二柱ずつの配偶神は、私達の天地である地球上でアメノミナカヌシの二つの力が現実のものとして形を現わして来る段階の順序です。先行する『かくり身』の世界が『うつし身』の世界に展開していきます。力だった物が形あるものになって変化していき、何かが角ぐみ成長していく、上に伸び横に広がり、太くなり、子を生みだす力を持っていくのです。形の無い力だった命が形を持ってくる表現なのだと思います。こうして私達は生まれたのだという表明なのだと思います。当然この世界は根源の力の二つの性質と作用を持って現れてきますから、全てのものが表裏相反するものを持って生まれることになり、最後に私達の現実社会の出発点イザナギ・イザナミが登場することになります。

余談ですが、私達日本人の有り難いという思いの先は、何時もこのアメノミナカヌシの天地を覆っている力の作用に向けられていると思います。様々な力になって現れて来る物の裏にある『かくり身』が私達を生かしている力の根源であると感じていたのだと思います。現代でも世界中で不思議がられる『ありがたい』と『もったいない』、『おかげ様』と『さようなら』という言葉に代表される日本人の暮らし方は、主格も目的格もなければ、一人称と二人称の区別もない日本人の『アメノミナカヌシ』に向かうメンタリティそのままなのだと思います。



我が国日本には偽書の疑いをかけられている古典がいくつかあります。その中に『ホツマ伝え』というものがありますが、この書ではアメノミナカヌシに始まる別分神五柱についてほとんど関心が無いように感じられます。国常立(クニトコタチ)からの神皇時代について詳しく述べています。如何に正しく麗しい思い遣りの溢れた統治をするかという点に主点がおかれています。言わば統治者の心構えのような感じです。第一代王が国常立、第二代が国狭槌(くにさづち)です。この国狭槌は国常立がお産みになった八王子の総称です。この八王子は、謎の伝承・トホカミヱヒタメの各一文字をその名に冠する八人の王子で世界各国の王室の祖となったとされています。東京の八王子という地名が何となく身近に感じられます。この八人の国狭槌は、槌、つまり武器によって世界に法を定められたのです。第三代は国狭槌のそれぞれ五人の王子の総称豊雲野(トヨクンヌ)です。豊かに広がった雲の字があてられています。この頃には世界各地で雲のように人口が増えたとされています。第四代がウヒチニで、この時代に結婚の制度が出来ました。スヒチニを妻とします。人類は野生の時代と決別したのです。この二神の幼名がモモヒナキ・モモヒナミで桃の節句の始まりであり、結婚式の始まりです。第五代がオオトノヂ(ツヌグヒ)・オオトマヘ(イククヒ)で男を大殿、女を御前と呼ぶ呼称の始まりとされています。つい百五十年前頃まで、私達は殿様と呼び、御前様と呼んでいました。第六代がオモダル・カシコネ両尊の御代ですが、お世継ぎが無く国内が乱れてしまったところを、クニトコタチまで遡って血筋をお求めになりイザナギ・イザナミ両尊がお継ぎになりました。これがホツマ伝えによる神代七代までのあらすじです。

『ホツマ伝え』には、日本の風習の起源、和歌の起源、単語の起源などが、思わず「あ、そうか」というような解説で語られています。こういった書が偽書とされているのは、現存する写本が江戸時代のものだとか、使われている紙が新しいとか、あまり決定的な証拠にはならない(と私が思う)理由からです。そういう問題があったとしても記述がすべて正しくないかどうかはまた別問題です。それは古事記に関しても日本書紀に関しても言えることです。そしてまた中国の正史とされている漢書についても魏志についても唐書についても、朝鮮半島の各王朝の正史についても言えることです。しかしシュリーマンのトロイの遺跡発見が物語っているように、何らかの事実が伝承を生んだのは間違いありません。あるいはその事実を曲げたいがために、偽り曲げたのかもしれません。要するに決定的に事実だとも事実でないとも言えないと思います。だとすれば排斥することだけは避けるべきではないでしょうか。研究の対象にするべきだと思います。『偽書学』とでも言うべき範疇を設けて、内容を選り分ける必要があると思います。


古事記は第四十代天武天皇の御代に編纂が始まり、第四十三代元明天皇の御代、西暦七一二年の完成とされています。その時『もう既に不詳不明になった』と天武天皇は日本の歴史伝承を嘆かれています。日本の歴史を正しく後世に残したいと願われ、後に記紀と呼ばれる古事記と日本書紀が誕生することになりました。日本書紀が外交的な意図で編纂されたといわれています。当時の外交は主として対中国と朝鮮半島だったのでしょうから、外交的意図の相手も限られています。その中国文化圏の正史というものは、易姓革命によって代った王朝によって前王朝の歴史が記録され、当事者の王朝の記録に国名が冠せられることはありません。当事者の記録は王朝文庫の内部に厳重に積み重ねられ、外に出されることはありません。大和朝廷が国外を見て正史を作成する必要はなかったと思います。『日本書紀』とはそういった大陸などの意思とは違った目的で編纂された命名法ではないかと思います。最近確信するようになったのですが、当時の王朝はたがいに周囲の王朝のことをよく知っていたと思います。王が何処の誰でその親が誰であるかということも姻戚関係もよく知っていました。中国大陸も朝鮮半島も、我が日本も互いによく知っていたと思います。

ではなぜ『日本書紀』と命名されたのでしょうか。このことと深く関わっているのが先行した古事記の編纂です。私は古事記の編纂がひとえに日本統一の確立を目的としていたと思います。古事記は日本に住む神々の名前を挙げ、その関係をつけるのが主な目的だったと思います。神々とは八世紀に日本に住んでいる人々の租神や氏族長のことです。そのことを軸に、日本人の心や生活の秩序を編み込みました。皇統を中心に各民族に伝わる古い伝説もとり入れました。建国の理想もとり入れました。それで古事記の神々の事績はほとんどが結婚とそこに生まれた神々の紹介です。全国の民族を網羅しなければならなかったので、神々も大王も何度も結婚し数多くの神々や御子を産まなければなりませんでした。

これを大和朝廷による歴史の捏造と見る向きもありますが、それよりもなお国と歴史の創造と私は解釈したいと思います。そして易姓ではなく、歴史を継いでいくという道を開いたのだと思います。古事記の神々を通して様々な種族に属する人々の共感を作りだし、古事記や日本書紀に神々の秩序を現実のものとして捉え直し、国内秩序の共通基盤を確立したのではないかと思います。古事記の成立以後も『まつろわぬ民』は存在し、外征としての蝦夷征伐、道鏡の皇位簒奪未遂事件等の様々な内乱を経て、十世紀には平将門の乱等を経験しますが、鎌倉時代前には日本の皇位というものに対する国民的な特殊感情も完成するのではないかと思います。その証拠は平清盛の熱病に対する罰当りの伝説や、大楠公に対する忠臣扱いと足利氏に対する逆臣扱い等に見られると思います。武家政権成立以後は江戸幕府が崩壊するまで、大和朝廷は国民の実生活から遠くなりましたが、天照大神は日本人の心の底におわすようになったと思います。

歴史が曲げられたという説もありますが、歴史が曲げられるのは世界の歴史の事実でもあります。曲げられなかった歴史がどんなものかは分かりませんが、それは断絶の歴史で確かめようがありません。中国大陸のように易姓という断絶を是としても事実は勝者によって曲げられるのです。天津神が国津神の娘をめとって混血の神々を作り出していく宥和政策を私は評価したいと思います。アレクサンダー大王のペルシャ遠征における結婚政策を思い出します。敗戦国の女達には屈辱の歴史かもしれませんが、新しい命を生み出す女達の生命力と母性本能が新しい国を生み出していきます。そこにはヘレニズム文化という遺産もあります。そして今も生きている日本文化というものが、世界の歴史に何をもたらすことができるのか、今も進行中の神々の事績です。



ヨーロッパの人々は映画でベンハーやシーザーを見て何を思うのでしょうか。これまで世界史が好きで歴史の登場人物に共感して生きて来たと思っていましたが、自分の生きた感覚に共鳴するものは無かったのではと感じるようになりました。世界史が好きだったのは、父の語る歴史話の影響です。ハンニバルやスキピオ、ナポレオンやネルソン提督、楠正成に源義経、父の生き生きと輝く顔を見ながら心躍らせて聴きました。中国大陸でのお話はもっぱら三国志、これには祖父の十八番の『水魚の交わり』の段の暗唱が加わりました。感動は真実だったとしても、私は写真の富士山を見ていたのと同じだったと思います。写真の富士山から、富士山の実情を酌みとることはできません。しかしそれが分からなければ歴史の色々な事件を実感することは出来ないと今感じています。ですが世界で最も幸運なことに、日本人は太古の昔から日本語を今に語り継いでいます。私達は古事記に、神話に手掛かりを持っているのです。

私達の年代が父親の歴史語りを聞くという経験を持った最後の世代かもしれないと思います。世の中は忙しくなりすぎました。親も忙しいし子供達も忙しい。私自身が最も大切な子供達に充分に語っていません。核家族で『代々』は無くなりつつあります。お正月の注連飾りの橙もむなしい風習になりました。ある日インスピレーションを受け取るべき温床を育てられなくなりました。そういう意味で私はブログを開いて様々な思い出話、随想、意見等を記事にすることにしました。我が子ばかりでなく誰か若者の目に触れて、私が昔父から受け取ったきっかけを残しておきたかったのです。今回そんなブログにこうして私の『随想古事記』を発表できることを、大変幸せに感じています。正しいか、間違っているかは別にして、いつか誰かのインスピレーションの種に、或いは苗床になれたらどんなに嬉しく有り難いことでしょうか。

ブログというものは、中断したらすべてなくなるのでしょうか。私は死ぬまでこのブログを開いておかなければならない・・・・・ここにほんの少し自分の役割を感じています。そしておこがましいのかもしれませんが、それが本にしたかった理由です。今日の記事は少し長くなりましたが、途中で切ることが出来ませんでした。(ametsuchino)





それでは今日も:

     私たちは横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想古事記・はじめに

2012-10-05 11:13:25 | 父の背負子1(随想古事記)
小学校六年のある日、学校巡回の映画『日本誕生』を見ました。当時の小中学校では全国的に時々文部省推薦の映画を見せていました。子供時代に見た映画は、同じく巡回の映画だった『コタンの口笛』と『綴り方兄弟』の他には、父が連れて行ってくれた生涯ただ一つの映画『明治天皇と日露戦争』という映画以外にありません。その時二本立てだったのか、美空ひばり主演の股旅映画も見たという事実だけ覚えています。現代の映画館からは想像できませんが、当時の映画館は換気が悪くて空気はよどんで雑臭が入り混じっていました。元々臭いに敏感な私にはとても耐えがたく必ず頭痛の引きがねとなったので、映画があまり好きではありませんでした。

『日本誕生』は三船敏郎主演で、スサノオノミコトとヤマトタケルノミコトの二役を演じていました。『明治天皇と日露戦争』では東郷元帥を三船敏郎が演じていたので見覚えがありました。夕飯の食卓で父に映画を見たと報告しました。父は子供達にその映画を見せに連れて行こうと考えていたそうです。感想を聞かれましたが私は上手く答えることが出来ませんでした。年子の弟は二学年下で一緒に見た筈ですが、弟が何と答えたか覚えていません。ただ私は何かしら異様な感じを受けていたのです。読書から受け取って子供心に想像していた『神話』というものと全く違っていました。今でもその異様な感じを覚えています。特に倭建(ヤマトタケル)、つまり三船敏郎の小碓命(オウスノミコト)と誰でしたか妖艶な女優さんの美夜受比売(ミヤズヒメ)のラブシーンです。あの異様な生々しさは、映画製作者の意図だったのかもしれませんが、『日本神話』というものに感じた最初の違和感です。この巡回映画はそういう意味できわどいと考えられたのか、中学校では多くの場面がカットされたのだそうです。アメノウズメノミコトは音羽信子さん、思兼命が柳家金五郎さん、手力雄命が朝汐関でした。私は小学校でノーカット版を見ました。その時の疑問がさまざまな動機となって、父から受け継いだものと自分が探求したものとの複合物である今の自分があるように思います。

古事記については全ての人々にそれぞれの感想と意見があると思います。私は日本史や国文学の専門家ではありません。専門家には学問としての立場があると思います。しかし古事記に書かれた神話は私達日本国民一人一人の記憶遺産とも言うべきものなので、一人一人がもっと自由に身近に感想や連想を述べてよいものだと思います。ローマ人が自分達をヘレンの子孫だと主張する様な、そういう自由が認められてよいと思います。もっともっと古代を今の自分の中に感じてよいと思います。

神話というより昔話としてなじみの深い『海幸山幸』のお話は日本人なら誰でも知っている常識的なものだと思っていました。何時でしたか若い人達にマクロビオティック関連でお話をする機会がありましたが、その時現代の若者の記憶にこの物語が無いという現実を知ってショックを受けたことがあります。日本人のアイデンティティというか、屋台骨というか、記憶という民族としての基盤が崩れているのかもしれないと危惧を抱いた経験があります。『親子の絆』は一人一人自分の身に覚えのあるものですが、国民間の『親世代と子世代の絆』が消えているかもしれないという気がしました。私達は何よりこういう子供時代に親から聞かされるお話を取り戻さなければいけないのではないかと思います。映画という手段はあまりにも限定的決定的なので、『昔語り』や読書を通じて、子供の心に親から受け継ぐべき卵を抱かせるような環境づくりをするというのが、各世代をつなぐ親世代の役目かもしれないと思います。(kojiki preface)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする