inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

とんご柿

2007-09-30 22:56:05 | 出版記事
とんご柿が今年もまた手元に届きました.実家より弟が届けてくれました.実家には私が小さい子供の頃から同じ姿の柿の木があります.先年亡くなった母がお嫁入りした時にも、同じだったと言っていましたから、多分80年以上経っていると思います.弟が言うには一度台風で上部が折れて同じくらいの背丈になったと言っています.直径5~6センチくらいの小さなコマのような形をした甘柿がなります.コマのように尖っているので、とんがっている柿、とんご柿というのだと思います.固いゴマ柿です.野生に近い柿です.

娘第2号から弟はたくさん届けてはいけないと言われていると笑いながら、たくさん届けてくれました.お台所に行くたび(?)に柿をむいて食べています.娘から叱られるだろうなあと思いながら.小さい時の思い出が無い方には大して美味しくないのかもしれません.何しろ原種に近いような柿です.種がたくさんあります.よく噛まないとゴロゴロします.昨年でしたか、記事にしたように、私にとっては懐かしい父の味です.父から可愛がられているという思い出の味です.

自分のことを振り返ってみると、子供は思い込みで生きていくのだなあと思います.世の中の親子がそんな思い込みで結ばれるなら、辛いことも苦しいことも乗り越えられるのではないかと思います.私は父からそんな思い出を貰いましたが、私は子供達にそんな思い出を作ってやれたのだろうかと気がかりです.とんご柿はそんな反省の味でもあります.

そんな娘2号は来年2月に姪の、娘にとっては従姉妹の結婚式に帰ってきます.今月でなくてよかった!娘夫婦のセルフバランシングは、教室の生徒さんにも大変興味があるらしいことが分かりました.娘1号の授業も「オーガニックベース・イン田平」と称してお産で帰省した時に実現して生徒さんに喜んで頂きました.2,3月は例年教室はお休みですが、2月に「セルフバランシング・イン田平」を単発コースで開きたいなと思っています.導引も同じ起源にあります.日常生活する上で、体の調整は必要です.マクロビオティックの一部だと思います.これから交渉ですが・・・・

セルフバランシングに興味を持ってくださる方は、娘達の広告サイトをご覧頂きたいと思います.

http://blog.goo.ne.jp/quellesen
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ヒマとヒマシ油

2007-09-26 09:53:27 | 父の懐
ヒマシ油ってご存知ですか?ヒマシ油とは強力な下剤です.翻訳をしていたらちょうどヒマシ油の記事にぶつかりました.それで昔の事を思い出したというわけです.

小学5、6年の夏だったと思います.私の家族は平戸にいました.私は“ミナ”と平戸地方で呼ぶ巻貝に中りました.症状についてはあまり詳しく覚えてないのですが、熱中症も併発したような気がします.その時往診に来て下さったお医者様が私に“ヒマシ油”を飲ませたのです.その後下痢をしたかどうかは覚えていません.ただただ飲みにくくて、飲めなかったことだけを覚えています.飲み下すことが出来ないんです.

ヒマシ油を漢字で書くと「蓖麻子油」、これで正体がわかってきます.つまり「蓖麻」の子(種)の油!ヒマという植物をご存知ですか?言われてみればたいていの方は思い出にあると思います.畑や野原に、4、50センチの丈で、小さなラグビーボールよりちょっと丸い形をした棘のある種がついている草を.私が子供だった頃は何処にでもありました.その小さなラグビーボールが「蓖麻子」というわけです.

特攻隊の生き残りの父が教えてくれました.アメリカの経済封鎖による燃料不足を陸軍ではこの蓖麻子油を使って補おうとの研究計画があったそうです.蓖麻子油を燃料にして戦闘機を飛ばそうと.日本国内何処ででもふんだんに取れる蓖麻子でそれが実現していたなら、あんなに多くの方が南洋で犠牲にならずに済んだかもしれません.あの時の南下政策は、今のシーレーンの保安と同じです.昔も今も国民生活のライフラインは同じです.

父と娘の小さな会話でしたが、蓖麻子油のおかげで忘却という箪笥の引出しから出てきました.懐かしい父の顔が浮かびます.
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萩の花と葛の花

2007-09-21 11:49:14 | Weblog
山道を通れば萩の花と葛の花がいたるところに咲いています.我が家の裏庭にも萩が紅白咲きました.四季折々大好きな花に囲まれて過ごすのは、都会では大変難しいことですよね.田舎暮らしならではと思います.

芙蓉の花もまだまだ真っ盛りです.真中に紅を差したむくげも咲いています.夏の花と秋の花が、今年の異様な暑さの中で、一方はふんばる強さを、もう一方はなんとなく涼しさを感じさせています.

先月ご紹介した娘2号夫婦のバランシング教室もお蔭様で何とか動き出しました.先にオーガニックベースを立ち上げた娘1号夫婦は相変わらず地道に自分達の道を模索しています.30歳を過ぎてこれからだと思います.マクロビオティックという人間のベースを多くの方と分かち合えるよう、娘達も皆様とご一緒に前進できることをありがたいと思います.

食べるということは人間が生きていく上で必要最小限の人為的選択で、それをしなかったらもう私達は存在できません.生命は皆植物も動物も同じことです.その食べるという行為の上に、私たちが日々取り入れているエネルギーには実にさまざまな種類があることに気づきます.食べたものによって作り出すエネルギーが異なり、からだの質が異なってきます.すると私たちが発するエネルギーも異なってきますし、自然界や向かい合う人間、動物から受け取るエネルギーも異なってくるのです.

当然見えるものも思いつくものも異なってきます.好みも希望も異なってきます.いつしか動作も言葉も変わっています.この世に目的は無いといつか敢えて書きましたが、食べることには目的があります.明日の選択のためです.明日を決めるのが今日の食べ物です.それで毎日一汁一菜?二菜?自分で献立を決めていますよね.自分が手に入れるもので元気に暮らしていかねばなりません.今日の命を明日につなぎます.

生活様式を文化というのであれば、動物たちは皆文化をもっています.ですが人間は他の動物と違って多様な基準を持っていると思います.その中で特筆すべきは美しさの追及だと思います.私達日本人は、精神世界の美しさの形容詞も持っています.美しさは清浄であることと同じ意味でした.カンナガラノ道は「清き明き」美の世界です.それでこれからが日本人の真骨頂なのですが、その清き明き心は実生活にも生身の人間にも適用する生活原則になりました.日本人には見える世界も見えない世界も同じ次元の物でした.日本人はいつも「カミ」となった見えない世界の住人とも一緒に暮らしてきたのです.私達日本人には、「腹黒い汚い」が悪い人間の形容詞です.それで最後には切腹して自分の肚の内が如何に清浄であるかを証明しなければなりませんでした.

人間の精神世界の展開も最初は食べることが唯一の方法でした.食べることで自分のエネルギーを人間らしく(?)作り変え、宇宙の実体に向かう文化を人間として共有できるまでになりました.つまりマクロビオティックという人間が人間になる生活法によって、思いという食べ物を自分で作り出すことが出来るようになったのです.自分の内側で反芻できる食べ物を人間も持っています.それは口で食べたものと同じように自分を変えていきます.思うことによって体も心も変わります.発した言葉によって、書いた文章によって、発信した人間は勿論、受け取る側も体の中で思いを共有し反芻できるのです.思いを美しく、つまり清く明くすることが、マクロビオティックの目的です.天然自然と同じ心になっていきたいものです.天然自然の心は無限の心です.無限の心を知ることは自分を知ることと同じです.私達は無限の一部として今生きています.いえ、無限には一部も全部もありません.私達はみな無限なのです.

食事法というマクロビオティックは娘1号夫婦が言うようにベースです.そして娘2号夫婦が発信するバランシングも運動という形でエネルギーを動かし天地との交換を可能にする方法です.それで、マクロビオティックで一体何をするかといえば、私達は「清き明き」天然自然の姿を生きるのです.その調整のために勉強し精進して、さらに天然自然の思いと姿を知りたいと思います.そうすればこの世にカミの国を実現できると思います.

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あご風

2007-09-16 21:15:16 | 出版記事
今朝窓を開けたら北風が吹いていました.私達の住んでいる平戸地方では、北風が吹き始めるとあご漁が始まるので、北風をあご風と呼んできました.高校時代は教室の窓からあご漁の船が見えたものです.そして「秋になったなあ」と思い「冬を迎えるのだなあ」と思うのです.年々漁獲量が減っていく平戸のあご漁ですが、それでも依然として季節の風物詩であることに変わりはありません.

あごは飛び魚のことですが、平戸で捕れる飛び魚は小ぶりです.飛び魚は長い胸びれを広げてグライダーのように滑空します.高校時代通学する船に飛び込んで来たこともあります.船の上から眺める飛び魚の姿は本当にきれいです.鳥が空を飛ぶようになった時には、飛び魚のような時期もあったのでしょうか.進化の妙を思います.

そんな飛び魚の体は内臓が少ないので、丸干しに向いています.油が少ないのです.平戸人の記憶にあるあごは白身の美味しい干し魚です.規格外(?)の飛び魚は丸ごと炭焼きにして干し、高級なだし用のあごになります.一部は上等のあごも特上のだし用にします.平戸のお正月はあごだし抜きには考えられません.昆布とあごを一晩水に漬けてだしにします.煮出したものと違って上品な味です.塩味のお雑煮用です.醤油味には数分沸騰させますが、極短くしないとあご臭くなってお料理の味を損ねます.

昔のあごは塩気を強くしてコチンコチンに干しました.焼いて紙に包み出刃包丁の峰や金槌でたたいて骨離れをよくしたものです.塩気をきかせないと保存がきかなかったからですが、冷蔵庫がある今では塩気の薄い生干しもあります.主に鹿児島や五島などで捕れる大きな飛び魚を平戸では「うばあご」と呼びます.「ウ」とは大きいという意味です.いわしの大きいのを、おおばいわしと呼びますよね.あれと同じです.主人の母は大きいことや多いことを「ウーカ」と言っていました.それを聞いたとき本当にびっくりしたものです.古代の日本語の音が生きている!と感激したものです.うばあごは三枚卸も簡単ですし、白身の淡白なお魚です.蒸してカボスを利かせてもおいしいものです.茸と土瓶蒸しもいいでしょう.お魚がお好きな方はお試しください.

まだまだ日中は暑いのですが、平戸は秋を迎えました.マクロビオティック教室も昨日また始まりました.もうすぐ「とんご柿」も色付くでしょう.楽しみです.

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つくつくぼうし

2007-09-11 13:36:52 | Weblog
つくつくぼうしが賑やかになってきました.つくつくぼうしといえば、母のものまね.

ヅゥーーーーーホーシ、ツクツクボウシ、ツクツクボウシ、ツクツクボウシ・・・・・ツクツクッショ、ツクツクッショ、ツクツクショ・・・ズクッショ、ズクッショ、ズクッショ、ジィーーーーーー!(と飛んで行ってしまいます).

見事でした.聞かせてあげたかった!!最後は笑っている母の顔が目に浮かびます.母は案外お茶目でした.それに好みもはっきりしていました.今年のお正月同窓会に着ていった着物は、母のデザインでした.仕立て直しを頼んだ呉服屋さんはその斬新さに驚いていました.グレーがかったピンク地にこげ茶色の濃淡というより線の太さでよろけさせた立て涌く模様!

一年のうつろいの中に思い出がたくさんあります.シオンが大好きと語った母.もうすぐ薄紫の花を咲かせます.思い出の多い自然な中に住んでいると今は亡い人の時間も蘇ります.一緒に住んでいるなあと思います.

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糖尿病プログラム

2007-09-06 21:15:59 | 教室情報
10月の糖尿病プログラムは3泊4日の短期コースにすることにしました.色々問題点を検討した結果、今度は短期でやります.その代わり色々な方が参加できるようにしました.ご本人は当然ながら、実際の看病をしておられる方、お料理をしておられる方、或いはまた生活習慣病の方・・・・・.

一度にたくさん進むのは難しいことです.少しずつ、少しずつ前進していきたいと思います.私ども夫婦と一緒に取り組んでみようと思ってくださる方の御参加をお待ちしています.柿本医院のホームページから、「お知らせ」ページをどうぞご覧下さい.

http://homepage2.nifty.com/kakimotoiinn/

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あひるのガアガアちゃん

2007-09-02 13:41:09 | Weblog
孫達が帰ってしまって元の静かさに戻った我が家で、ふと小さな孫達の痕跡を見つけました.白いアヒルのぬいぐるみがおかしな所で逆立ちをしているかと思えば、ミュージックデッキの上でカルガモの雛のぬいぐるみがこれまたひっくり返っていました.

母さん(?)アヒルは何番目の子だったか忘れてしまいましたが、出産祝いにいただいたもの、カモとカルガモの雛はこれまたどの子かがおもちゃ屋さんで見つけて動かなくなってそれぞれ連れて帰ってきたものです.それ以来二十数年、我が家の一員の座を占めています.子供達が“ガアガアちゃん”と呼んで慣れ親しんできた友達です.

それが今度は孫達の心をつかみます.愛くるしい雛鳥たちも、カモの親になったアヒルの母さんも命があるような目つきと姿をしています.それが二十数年の存在感でしょうか.孫達が触って抱きしめて頬ずりをして語り合ったものは何でしょうか.それがババタンの心を動かして止みません.かわいいアヒルたちを元の場所に戻しながら、一緒に子育てをしてきた時間をしのびます.

アヒルたちを見ながら思います.あの時一緒に騒々しく暮らした毎日を今度は娘が生きている.主役は移ったなぁと思います.自分のこどもたちとの来し方を思います.人生って何でしょうか.皆さんはどう思われますか.マクロビオティックの第一の目標は何でしょうか?

人生は食べることが目的ではありませんよね.でも食べることには目的があります.多くの生物にとって、食は生命そのものの行為です.つまり生きるためです.生きるために人間も食べなければなりません.そして食べた結果が自分達の健康状態となります.多くの動物たちの食は本能の行為です.何を食べるかなどと悩むことはありません.それで本来の姿が守られるわけです.人間は何を食べるか選択の範囲が広くなっているので悩みます.というより自分の健康に何をどれだけ食べればいいのかわかりません.

精進料理というのがありますよね.あれは現存する食様式の中で相当珍しいと私は思います.殺生をしない目的で作られたのではありません.精進料理の目的は宇宙の真理を知ることです.精進頭にしか宇宙の真理は分からないということを誰かが悟ったのです.桜沢先生はふざけて(?)牛の頭とおっしゃっていましたよね.人間の頭には食べたものによって、色々あるのです.食の戒律は色々ありますが、精進料理は目的を確信した人のものです.

人生の目的は何でしょうか?私は敢えて言うなら「正しく死ぬことだ」と思います.胎児が正しく生まれてこなければいけないように、私達は正しく死ななければなりません.舅姑、実の父母と4人の両親を送って思います.私は死について大切な人と十分に語ることが出来ませんでした.この世の老齢者の医療が混乱しているのは、死ぬことを直視しないからだと思います.直視しようとしまいと必ず死ぬのに、死を避けてどうするのでしょうか.多くの場合不十分な死に方しか出来ないような気がします.もう少し正しく死のうという積極的な意欲を持って人生を送りたいと思います.マクロビオティックを正しく死ぬための手段とした時、精進料理に非常に近くなるような気がします.つまり「正しく」という意味が宇宙の真理だからです.「どうあるべき」というのが「正しく」の内容です.それが宇宙の秩序です.どうですか、マクロビオティックになって来たでしょう.そしてそれを皆でと広げたのがマクロビオティック活動であり、久司先生のいわれる「愛」です.

現実社会の主役が子供に移ったということは、これから別の精進が出来るということです.来年は還暦の同窓会があります.別の人生を生きたいと思います.私の教室の生徒さんは、「楽しく死ななければならない」という私の主張を笑いながら聞いて下さいます.これからの私の人生は楽しく死ぬためのものです.久司先生が言われるように「愛」の心をもって進みながら、いつ死ぬかを悟れるように精進したいと思います.
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