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天帝とはツクヨミノミコト!!!

2024-10-17 19:34:17 | 父の背負子1(随想古事記)

東洋の歴史の始まり、そして東洋の精神の始まり・・・・・天帝によって示された人間の歩むべき道『天道』・お天道様!!私は意識的無意識的に探求し続けて、やっとここ記憶の始まりにたどり着きました。

天帝の娘である織姫様、天帝のお許しにならなかった牛飼いとの恋、周礼としてまとめられた天に対する天子としての王の正統性、東洋の歴史はここから始まりました。私達は何も知らずに、およそ三万年にわたる東洋の歴史を、天の川のカササギの橋によって潜在意識としてしのんできたような気がします。

 

随想古事記として私のアイデンティティ探訪は10年余り前に形となってブログでご紹介してきましたけれど、それからもずっと続いています。もうすぐ76歳になろうとしていますが、私の到達した最終結論は、私達の古事記から消えてしまったツクヨミノミコトの消息です。東洋の天帝はツクヨミノミコトで、ツクヨミから始まった王朝だったという結論です。

ツクヨミノミコトは伊弉諾尊のお産みになった三貴子のおひとりです。黄泉の国の汚れを祓われた時左目をすすがれてアマテラス、右目をすすがれてツクヨミ、最後に鼻をすすがれてスサノヲ・・・・・尊き子を持ったと喜ばれた伊弉諾尊は三人の御子にそれぞれ高天原、夜の食す国、海原の統治をお任せになります。それからツクヨミは消息不明になられます。私達の表向きの歴史から消えてしまいました。これは私の子供のころから心に引っかかった事件です。これをはっきりさせるために私の思索の旅はあったのだと思います。

夜の食(おす)国・・・・・これがそもそも分かりませんでした。一体どこのことなのか、何を言っておられるのか。実はこれは夜空のことだったのですね。日食・月食、月の満ち欠け、星の移転、ツクヨミは暦を支配されたのです。これが東洋における最初の王朝ツクヨミの天朝だったのです。この王朝の起源については、以前の記事『万世一系の天皇②』で取り上げた有巣氏、つまり鳳凰をシンボルに持ち姓は風、鳥族によって作られた世界最古の王朝です。これ以後が大陸の歴史になって、このブログで何度もご紹介している歴代王朝です。そして大陸では殷を最後に鳥族王朝はありません。(ちなみに高天原は、タカマの力が張っているところ。誤解を恐れずに言えば、太陽が照らしている世界。海原は常に何かを生みなしているところ。五穀豊穣の種の世界。そしてこの三者は表裏一体の関係です。)

 

この天帝王朝がどこに行ったかという結論が、これまで何度も記事にして発表してきたとおり、わが日本の大和王朝です。世界にも散らばって、主に『ツク』の類音を国名に持つ国々・・・・・歴史上から現代まで、突厥、チュルク、トルキスタン、トルコ・・・・・意外ですか、トルコは私達の遠い親族です。やっと私の『随想古事記』が始まりから今まで全部つながりました。それで天人の代表『かぐや姫』が月の国に帰り、天女は羽衣を持って飛び、ツルの恩返しの鶴が天女となって飛び去ったことも全部納得できました。ツクヨミの王朝が東洋最古、そして現在日本の王朝として続いているのです。これが柿本和子の生涯をかけた歴史の真実です。人生の満足を得た心持です。この真実の証明を若者に託します。そして、この記事をカテゴリー『父の背負子(随想古事記)』に加えます。


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日本人のDNA

2015-05-29 10:06:06 | 父の背負子1(随想古事記)

今朝のNHKの番組で、日本人の遺伝子は東アジアのどこの国とも違っていて、古い時代に分岐したものらしい、ということが分かってきたと報道されていました。

このブログで『父の背負子(随想古事記)』として発表している記事の『ワタツ人』の証拠が出てきた!!!!!・・・・・と大変うれしく感じました。一般に日本の先住民族と思われているアイヌ民族や琉球民族よりさらに古くから日本各地に分布した縄文期の人々、『カタカムナ人』と楢崎先生が名づけられた日本語を確立した縄文期の人々・・・・・その『カタカムナ人』が『ワタツ人』に違いないと思うのですが、敢えて民族分派のルートに焦点を当てて、私は『ワタツ人』と名付けています。

研究がさらに進んで明らかになるといいな・・・・・と、楽しみです。


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私の『中朝事実』

2013-11-03 07:02:59 | 父の背負子1(随想古事記)

アインシュタイン博士の言葉』という記事を以前発表しましたが、そこで博士が言われた『尊い国』という言葉の訳を私なりにご紹介しました。そしてこれは遠い私の娘時代、父から聞かされた山鹿素行・中朝事実の『事実』と大きく重なっていました。

父はこう言いました。「素行先生は中朝事実で、『聖君の御代は、なあ~ンだ、我が国(中朝)に有ったじゃないか!!』、って言っておられるんだ。」・・・・・・・父は自衛隊を退官して富士市で本州製紙の寮の舎監をした後、故郷平戸に戻り自由に活動しました。何といっても平戸には山鹿流講堂『積徳堂』があります。父は当然平戸に有った『素行会』と関わりを持ちました。

江戸時代の儒学・兵法(というか軍学というか)者の山鹿素行は江戸徳川幕府の儒学批判をして、赤穂に『お預け』になったりしますが、我が平戸藩主・松浦(まつら)天祥公(てんしょうこう)鎮信(ちんしん)が深く感銘して交流し、素行本人は平戸に来ませんでしたが、その弟は平戸に招聘され山鹿流は平戸で命脈をつなぐことになり現在に至っています。彼の幕末の吉田松陰先生も橋本左内も、熱い心に突き動かされて平戸遊学を果たしています。『積徳堂』にこもって素行先生の著作に首を突っ込んだに違いありません。そして明治維新の心は素行先生にあり、その心を宿した身体は松陰先生とその弟子たちに有ったと思います。父はまた娘に言いました。「明治維新は松陰先生の首が落ちた時に始まったんだ。」(その悲しみと怒りが推進力になったという意味です。)

父は平成9年5月8日に亡くなりましたが、その年の夏お初盆のお祭りをしていた時、山鹿さんが素行先生の朱入りの『中朝事実』の実本を持ってお参りに来てくださり、私達に見せてくださいました。父に見て欲しかったと言ってくださいました。私達の偉大な先人の筆跡を前にして、心洗われ深い感動を覚えました。そして私は『父の背負子』を背中に継いで、やっと昨年『随想古事記』をこのブログに掲載しました。これは混迷の民族『五色人』を大和民族に統合することに成功した我らが朝廷の事実、つまり『中朝事実』の私版です。

今日11月3日は亡くなった父の誕生日です。今回『父の背負子』と命名したブログカテゴリーに他の記事を加えて少し題名を改めました。そして今日私は三年半にわたったシリーズ『父の背負子』をひとしきり下ろそうと思います。父から私が受け取ったもの、背中に背負っていたもの、つまり私の背骨といえるものを子供達と同じ世代の読んで下さった若者に託そうと思います。カテゴリーの改編内容は次の通りです。

父の背負子・随想古事記

        父の願い   2010-04-30
        私の邪馬台国   2012‐10‐04
        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05
        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09
        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12
        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15
        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17
        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17
        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24
        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26
        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27
        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29
        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02
        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04
        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

 

今回カテゴリー『日本語・古事記』より次の記事を加えて『父の背負子・随想古事記』完結とします。ちょっとブログ編集の方法が変わったのか、行間を以前と同じように編集できないのが残念です。(どなたかおわかりでしたら、教えてください!)今後は半年ごとに随想古事記のご紹介をするつもりですが、そのことが父の背負子に残った仕事だと思っています。

父の背負子・随想古事記(前章と雑感)

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

         アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03(今回の記事)

 

 

それでは今日も:

        私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

 

 

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随想古事記・おわりに

2012-11-06 09:31:49 | 父の背負子1(随想古事記)
『おそれながら・・私の仮説』で『随想古事記』のシリーズとしての発表を一段落させたいと思います。読んで下さった皆様にお礼申し上げます。

以前にもお話したかもしれませんが、古典の範疇に入っている書物の著者は別にして、私には尊敬をこめて師と呼ばせて頂く方が五人いらっしゃいます。第一にカタカムナ解読の楢崎皐月先生と宇野多美恵先生、次にマクロビオティックの桜澤如一先生と久司道夫先生、最後に言語歴史学の川崎真治先生の五人の方々です。直接お会いしたことがあるのは久司先生だけです。また私にとって両親は、古事記で言うアメノミナカヌシ以来の歳月の記憶と同じです。私の古事記は両親から受け継いだものに、それ以後私の周囲に袖振り合った様々な出会いで得ることのできた意味付けによって成り立っています。この五人の先生方が私の記憶に入り込んで下さった賜物です。私の記憶は言わば受け売りで、それが誘発した新しい記憶ともいうべきものが、今回の随想になりました。ここまで付き合って読んでいただいて、こんなに嬉しいことはありません。

私の父は深江圭三といいます。もう亡くなって二十年近くなります。父は大正十一年生まれで、仙台幼年学校を卒業し、陸軍士官学校の第五十六期生です。多くの同期生が亡くなった大東亜戦争を一日違いで生き残りました。敗戦による終戦が決まった日、父がどんな思いでその日を過ごしたのか、もう誰も知りません。父の姉である伯母から聞いた『自決しないかと心配した』という言葉だけが当時の家族の緊迫感を伝えていると思います。父は茫然自失状態で列車に乗って平戸に帰って来たらしく、軍刀に仕立てなおした先祖伝来の刀を列車の中で紛失したのだか、盗まれたのだか、それこそ丸腰になって帰って来たとその伯母から聞きました。

若い父はそれから結婚し、私が生まれました。弟も年子で生まれました。その頃の写真を見ると、筒袖のような着物を着ています。あまり覚えているわけもありませんが、父の懐の桜のような匂いが写真を見ると頭の中に薫ってきます。ブログ記事の『とんご柿』の思い出もこの頃のことです。それから自衛隊が結成されて、父は航空自衛官になりました。北は宮城県矢本から九州の福岡県築城まで、私と弟は転校しながら全国的に移動しました。

戦後一変した価値観の中で父は前時代の価値観で生きている人と思われて生きました。父の時代、自衛隊は名誉ある地位を与えられていませんでした。陸軍大尉の誇りを胸に秘めた父にとって処し難い時代だったと思います。それでも私にとって父は光り輝いている人でした。私の目に映る父は学校のどんな先生よりも優れていました。尋ねて知らない事はありませんでした。

父は自衛官を退官した後、本州製紙の富士工場の男子寮の舎監をしました。母にとってはかなり抵抗があった模様です。でも父という人は自分にこだわりのない誠実な人生を送ったと思います。母がつけた父のあだ名は『貧乏仙人』というものでした。子供のころは『旗色鮮明』というのが家族内のあだ名だったそうです。祖父母の意見の食い違いにいつも、『はい、お父様が悪い』と祖母に軍配を上げていたのだそうです。『徹底居士』というのもあります。年の瀬のお掃除はいつも大変でした。家族は全員空腹を抱えてお掃除に精を出したものです。

舎監時代のエピソードです。父の所へは定期的に『お巡りさん』がやってきました。父が笑いながら言うには、父は要注意人物で警察のリストに載っていたらしいのです。『右翼』だったのだそうです。父はいつも『自分は真ん中だ!!』と言っていましたが、警察官と交流が持てることが嬉しかったそうです。そしてその警察官は父に敬意を払ってくれるようになりました。世に受け入れられない自衛官は何かと窮屈な身分でしたから、自由に話ができる『男子寮の舎監』の身分を喜んでいました。

あの父が要注意人物なら、私も要注意人物になりたいと思います。父は私の過去であり、現在のお手本です。例え少しではあっても父の心を私は文字に残して未来に託したいと思います。父から娘へ、そして娘から孫へと歴史を紡いでいきたいと思います。父から背中に負わされたものを、子供達に、若者に、そして孫達に渡さなければと思います。これがこのブログのカテゴリーを『父の背負子』とした理由です。これで一連の『随想古事記』は終わりです。古事記にはもっとたくさんの物語が描かれています。どうぞご自分で探って『記憶の謎』を解明してください。これまで読んで頂いて有難うございます。本当に有難うございます。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説

2012-11-04 09:39:45 | 父の背負子1(随想古事記)

最後に私の説としてあげたいのは、『もともとのアマテラスは天神族の馬族ではなく、原日本人、つまり北上して中国大陸に住みつき鳥族となった殷人と同族の、日本列島に住みついたもっと蛇族の特性を持つ海津人(わたつじん)だった』というものです。そうだとすればアマテラスが稲を授けたというのも筋が通ります。馬族のアマテラスが稲と関連があるはずありません。

『高天原』がどこなのか、一般に馬族が渡来した朝鮮半島から大陸のどこかだろうとされて来ましたが、元々の『タカマガハラ』という言葉がワタツ族の言葉だったらどうでしょうか。アメノミナカヌシから始まりイザナギ・イザナミ、アマテラスと高天原(タカマガハラ)などの単語がワタツ族の言葉で連用されたのだとしたら、私達の歴史はもっと分かりやすくなります。

イザナギ・イザナミによって生みなされた我が大八島の国々・日本は約三万年前から蛇族の縄文人、つまりワタツ族の国でした。そして長い長い三万年の間ワタツ人特有の文化を醸成しました。そこに私達日本人が生きる上で最も大切な『日本語』の起源があります。何よりもアメノミナカヌシを始めとする一連の言葉、神名として採用されている様々な言葉は、私達の日本列島原住民ワタツ族の言葉であり、それが楢崎・宇野両先生がカタカムナ人と呼ばれる人々の言葉であったのだと私は信じています。



そこに多分夏(あるいは周)の滅亡により牛族(後にカタカムナ人の言葉からスサノオという名前を当てられた首長に代表される一族)が、殷の滅亡により犬族を引き連れた鳥族(邪馬台国原族で同じく多分ツクヨミという名を首長に当てた)がやってきました。スサノオが三貴子の中で最後に生まれたことになっていますから周の滅亡後だったのか、それとも遅れてやってきたのか分かりませんが、どちらにしろ一万年以下の数千年単位での昔の事件です。スサノオに代表される牛族は半島を陸経由ではなく(つまり対馬壱岐経由ではなく)主に日本海を渡って出雲をはじめとする日本海側に広く辿りついたと思われます。

古事記ではイザナギノミコトから海を治めよとの命令をお受けになったスサノオはそれを嫌がってアマテラスの高天原に行かれ狼藉を働かれ追放されます。それで地上に降りて来られて蛇族の象徴大蛇(おろち)をお退治になり出雲の国をお建てになったとされています。真相は原住民族アマテラス(ワタツ族)の蛇を実際に投げ飛ばしたのです。八岐大蛇ですから八カ国を征服なさったのかもしれません。これだとスサノオの八岐大蛇退治の脈絡に無理がないどころか、はっきりそしてすっきりすると思います。これが出雲の神話の原型で、天孫降臨とは別系統のお話です。

鳥族殷人の亡命劇が高千穂に降臨した天孫神話の原図で、殷帝国滅亡後の紀元前十世紀(3000年前)頃の事件です。猿田彦がお迎えに来ます。(川崎先生によると、サルは塩で、牛族の一派らしいのです。こちらの場合は九州に先住していた牛族もお迎えをしたことになっています。海幸山幸でふれたように、九州の牛族はすでにワタツ族と混じっていたのかもしれません。そしてそれに納得できなかったのがスサノオ一派なのかもしれません。)この鳥族と犬族はワタツ族と結婚宥和政策をとって邪馬台国を建てました。もともと鳥族とは近かったのです。これが山幸彦が言葉(呪文)と統治権(治水権)を受け継いだお話です。しかし『日本語』を採用した人々は基底言語が同じだったとはいえ、何万年と醸成された言葉をすぐに完全には理解できませんでした。使っているうちに分かってくるものもありますが、段々曖昧にもなっていきました。これは現代の私達が使っている日本語を考えるとわかると思います。何となくわかるような気がする言葉がこんなにたくさんある言語を私達は使っています。

邪馬台国は既述の通り神武天皇へ発展します。そして同体化したアマテラスの正統性を持って蛇族の地出雲を奪還するべく東征されるのです。それから時代を経て濊貊(わいべく)から馬族がやってきます。それが紀元前四、五世紀から百済成立以前までの間のどこかだと思います。少なくとも魏志倭人伝の頃には女王国の一部に末蘆国という馬族の国名があります。馬族は世界で最後に犬族から分離派生した部族です。しかしながら私は、天神族の馬は邪馬だと思っています。
(時が移って、通説の通り、大和朝廷は馬族が大王を立てることになったとしましょう。それでも海幸山幸の昔話が重層的に表しているように、馬族も大和の国を『易姓』することなく継承し『捨姓』することで万世一系の皇統(天神族)を融解創造されました。スサノオが投げたのは蛇でしたが、ここでアマテラスを馬族の祖、高天原を馬族の故郷とし、そこで馬を投げたことにしたのだと思います。)


これは今のところ私の仮説でしかありませんが、そうだとすると私達の歴史はずいぶんすっきり、すんなりと腑に落ちます。ワタツ族の住む日本列島に順番はまだ不明ですが、様々な時代と地方から鳥族と犬族、牛族、馬族がそろって、私達混血の日本人が出来上がりました。しかし大陸や朝鮮半島とは違って、そこにはワタツ族のカタカムナという大和の源泉があったのです。ですから今日の日本人はワタツ族という錬金術師の坩堝で融和してできた大和族です。そしてその血統の受け渡しは『カタカムナ語』、つまり現代に生きている国語の『日本語』によって行われてきたのだと思います。

『カタカムナ』は容易に研究の対象となる性質のものではありませんが、日本人らしさを生み出す元となったものです。なぜなら人間らしさはみな言語によって培われてきたものだからです。ですから日本人の特性を守りたいと思うならば、日本語を大切に守っていくこと以外に何もありません。それによって作り上げられた日本の『大和(だいわ)』の歴史が確かに世界にありえない奇跡であったことを知ることが、自分と日本を知ることになり、以て世界の人々に貢献できるのではないかと思います。私達は今日本の心をはっきりと知る必要がある危機の時代に生きています。私達は一人一人日本人として自分の人生を生きて行こうとの確認と決意を新たにする必要があると思います。繰り返し表明したいと思いますが、神話とはその民族の歴史と言語だと思います。




それでは今日も:

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随想古事記Ⅲ・大和の心5

2012-11-03 09:24:41 | 父の背負子1(随想古事記)

日本人が守って来たもの(2-2)

ヨーロッパに現存する国で一番古いのはどの国でしょうか。ローマ教皇国かもしれません。都市としては古い町はあるかもしれませんが、多分どの国も十世紀以後の国です。アフリカは人類発祥の地で、古代エジプトは世界最古の文明を誇った国ですが、クレオパトラのエジプトはマケドニア人の王朝で、アフリカのエジプト人の王朝ではありません。エジプト人のエジプト王朝は征服されたのです。その王朝もローマ帝国によって滅ぼされました。ローマ帝国の分裂・滅亡以降地中海沿岸には王国がいくつか興亡しますが、イスラム教を国教にした王国の版図に入ります。その後大航海時代を迎えたヨーロッパ社会の非人道的振舞によりアフリカ独自の知られていない歴史が殆んど消えてしまいました。エチオピアだけは残りましたが、世界史上最古の三千年の歴史を持ったエチオピア王朝の歴史も先年途絶えてしまいました。日本人の記憶に鮮烈に残っているマラソンの哲人アベベ・ビキラ選手は、最後のハイレ・セラシュ皇帝の歴史を負ったランナーだったのです。

南北両アメリカはどうだったのでしょうか。私達原日本人とほぼ近いモンゴロイドが原住民として住んでいました。アメリカ・インディアンとして有名な白人を恐れさせた部族達は近代的な国家をなして暮らしていなかったようです。中央アメリカから南アメリカの太平洋側には王国の歴史があります。マヤ文明やインカ文明として有名ですが、そうした国家は十六世紀にヨーロッパ白人社会に滅ぼされてしまいます。

現在生きている人々をどこかの国の末裔だと言うことはできます。全世界に古代人の末裔でない人間はいませんが、途切れたものをつなぐことは出来ません。可能性として復興させることはできますが、途切れなかった歴史には戻りません。それはなぜかというと、時間が命だからです。時間は目盛ではありません。生命体は電池と同じで、電気のポテンシャルを閉じ込めたものです。ポテンシャルを何ボルトと目盛ることはできますが、ボルトは電気の力そのものではないのです。ですから過去に目盛をふることはできますが、動いている時間を捕まえて客観視はできません。瞬間は時間の中身が現れている先端で、今の瞬間も未来も目盛ることは出来ません。本当は過去も目盛ることは出来ないのですが、頭の中にある表になった過去に便宜上目盛をふることができるだけです。昔に戻ることはありません。つまり歴史は作り変えることが出来ません。途切れたものは別の道を選んだので、途切れなかったものとは違うのです。

そういう意味で私達の日本という国は、今では世界にたったひとつ二千年以上途切れてない同じ国を生きています。そして人類滅亡の日までつないでいく可能性を秘めたたった一つの国です。ですから日本の国民は日本をつないでいくことが最大の義務だと思わなければなりません。そんな国柄を私達は織りあげてきました。否応もありません。私達は日本という織機にかけられた糸であり、杼に巻かれた糸なのです。しかし現代の私達は自分の国がどんな模様を織るように糸をかけられているのかを知らずに日本という国に住んでいるような気がします。『国とは何か』という思いもありません。現代の日本国民にとって国は天与の条件の一つに過ぎないように見えます。そして昔の国民が少なくとも畏れを持って考えたその『天』が何であるかもまた知りません。

この問題に私達の神話は答えを提供しているように思います。そしてそれが『古事記』を編纂した意図でもあると思います。『古事記』は機織りのデザイン図です。そしてその意匠は国号に秘められた『大和』の理念、誤解を恐れずに言いたい『八紘をおおって宇(いえ)となさん』との神武天皇の大号令は、人類の願いである世界恒久平和の理念です。そして明治天皇の御製

          四方の海 みなはらからと 思う世に
                   など波風の たちさわぐらん

に明らかにされています。明治天皇の五ヶ条の御誓文は、そんな国の近代的君主の誓いのお言葉で、聖徳太子の十七条憲法は、そんな国に仕える行政官に心構えをお示しになったものです。では私達国民はどんな誓いと心構えで暮らしたらいいのでしょう。それは親に習う心で聖徳太子のお心や、明治天皇のお心を、わが身になぞらえればいいのです。『大和』の心をいつも考えるべきです。そして自国(自分)を守り、他国(他人)を思いやることの厳しさを、安易に考えない事です。口先だけの偽善と欺瞞に紛れ込まないことです。(余談ながら、マクロビオティックの桜澤先生は、如何にして世界恒久平和を成し遂げるか、世界で唯一その具体案を示しておられます。)


神話のアイデンティティによって私達は易姓革命による王朝の交替を否定し、アマテラスの皇統に委任されたものが統治するという交替方法を編み出しました。これは力の交替という現実社会の必然性によって権力闘争が繰り返される国内騒乱の悲劇を克服するものです。王朝を安定させることは、時代の必要性から生まれる変革に限度と秩序を与えることです。それは与り知らぬ一般国民の幸せに貢献したと思います。

大和朝廷が歴史の表舞台から身を隠された鎌倉政権以後、私達は朝廷が何をなさっておられたのか殆んど知りません。しかし【かくり身】のアメノミナカヌシのように国民生活の安寧を祈って来られた筈です。かくり身の大和朝廷は百万ボルトの幕府の電圧を支える地下の伏流のようにマイナス百万ボルトの祈りを千年の間捧げて来られたのだと思います。私達はこうして現実社会で『主(ヌシ)』なる言葉の実態を実現することに成功しました。『主』とはカタカムナとして残された海津族の言葉で、目には見えないが間違いなく在るチカラを表している『ヌシ』という言葉から出来たのです。『ヌシ』とはもともと『かくり身』なのです。

何度も言うようですが、日本の『大和(だいわ)』の歴史は世界史上の大実験なのだと思います。そこから生まれ出てくる様々な選択を私達日本人は繋いでいます。『大和』というものが実現できるのか、時として試行錯誤しながら大実験の続きを生きる国民に、神話はそのことを語っているのだと思います。私達はよくよくそのことを噛みしめなければいけないと思います。




それでは今日も:

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随想古事記Ⅲ・大和の心4

2012-11-02 10:14:15 | 父の背負子1(随想古事記)
日本人が守って来たもの(2-1)

オリンピックの開会式の入場行進が好きになりました。楽しそうなその顔に輝く真剣で誇らしげな目が好きです。あんなにたくさんの国があるのかとも思います。それぞれの国は現代を同じように生きているけれども、歴史をアイデンティティとして、国の性質、つまり国柄というものを持って実際は別々に生きていることを強く感じます。

今私達が普通に『国』と言っているものは、植物に例えるなら、木の幹や葉の顕微鏡サンプルの『切片』のようなものです。そのサンプルの中には昨日芽吹いたような国もあるし、根を張って長い年月を過ごした国もあります。それで本当の国というものは、誕生からの歴史の全てだと思います。私達一人一人自分と思っているものが瞬間の私ではなく、何十年かの寿命を持っている私であるのと同じです。また親が子を育んできたように時代時代の人が布を織りなして図柄を決めてきた国柄が歴史です。私達は国の一部で、歴史の一部です。今在ることがいつか過去に在ったことになります。祖先と自分は一体で、どちらかが欠けることはあり得ません。自分を憎むことも歴史を憎むことも出来ません。国を憎むことは自分を憎むことと同じです。私達はそこに生えた草なので、その根元の土を憎むことは生きることを否定することです。私達は自分を愛するように国を愛するしかないのです。それが自然の掟で、そこに生えること以外に選択肢はありません。

現代人は文明社会に住んでいるので、既成観念で自分を呪縛していることもあります。そんな呪縛から解放されないとなかなか方向を見つけられません。そんな時は、ともかく両親を懐かしく思いだす気持と同じ気持ちで自分と自分の国を思うことです。それが出発点です。たとえ両親がその時代の思考の基準から、或いは美や価値の基準から離れていても、そんな事はどうでもよいことです。自分の大切な両親であることに違いはありません。両親が間違ったことをしたとしても、それがどんな状況下で起こったことかを、愛情を持って検証するのです。必ず同感するものがある筈です。あるいはまた濡れ衣かもしれません。あるいはもっと極悪非道で、到底許容できないかもしれません。でも私達はその続きを生きなければなりません。それが自分を愛し、両親を愛し、国を愛するということです。そして忘れてはならない事は、どの国も他国を責められないということです。そしてまたどの国からも責められてはならないということです。それが本当の強さだと思いますし、それが『切片』としての心構えであり義務だと思います。国は謝ることは出来ないのです。その覚悟が国を愛する心です。そして他国に謝罪を求めてもいけません。もともとそんなことは不可能な事で、謝罪という行為は個人レベルの了見による自己欺瞞に過ぎません。他国に謝罪したり謝罪を求めたりすることは、本当は正直の仮面をかぶった偽善なのです。よく考えればそれが不可能な事だと分かる筈です。


国のアイデンティティが歴史だと言いました。私達の日本が国としてとして二千年近い歴史を持っていることは誰も否定しないだろうと思います。明治の元勲達は二千六百年だと言いました。ローマ人達はローマを紀元前七百六十年頃建国したと言っていました。帝政と共和制を繰り返しましたがローマ人の性質、つまり国柄が受け継がれたのは西ローマ帝国の滅亡までだと思います。その間約千二百年ローマは続きました。現在はありません。今はイタリア半島にイタリアはありますが、ローマとは違いますし国語も違います。

近くの中国大陸では、現在確認されている最初の王朝が殷王朝です。紀元前千五百年ごろ興り、約五百年続きました。その次に起こった国が周で、およそ紀元前十世紀から三百年間君臨し、春秋戦国時代を含めると紀元前三世紀までの七百年間王室としての権威が一応存続します。その次が秦王朝です。秦は知らなくても、始皇帝と万里の長城は有名です。春秋時代に建国されはしましたが、中国大陸の統一王朝としては始皇帝の紀元前二百年頃から僅か二十年です。それから漢の時代が前漢建国から西暦紀元をはさんで後漢滅亡までとして、四百五十年です。それから日本人になじみの深い『曹操・劉備・孫権』の三国時代が五十年、晋が国を興しますが群雄割拠は続いて、南北朝の時代になり、六世紀後期に隋が統一するまで中原に確立した統一王朝はありません。その隋も三十年ほどで唐に滅ばされ、唐の時代が三百年ほど続きます。その後また分裂時代を経て宋が起こり、北宋が二百年、南宋が百五十年、元の世界帝国に変わります。大繁栄を謳歌した元も約百年、明が起こって三百年、北狄女真族の清が起こって三百年、十九世紀末から二十世紀、清はヨーロッパの侵攻にさらされます。私達日本の江戸時代末期から明治時代に当たります。現代の中華人民共和国は1949年の建国で国令六十三歳です。

長々と並べましたが、中国の歴史と言っても中国の人々は、自分と同じ民族、あるいは同じ国民の歴史と心情的に感じているかどうかは疑問です。それでことさらに自然な愛国心を利用して四千年の誇りを箍(たが)にしなければなりません。イタリア人がローマを自分たちの歴史とは思っても、イタリア人はローマ人ではありません。それと同じように中国人は周王朝人ではないのです。清王朝人だと言う人はいるかもしれません。でも中国の人達は漢民族だと称しています。漢民族の王朝は、前漢・後漢、劉備の蜀、明の三時代しかありません。

私達に地理的にもっと近い朝鮮半島は私達の日本と同じように魏以前の歴史は文書として残されていません。ですが私達に神話があるように、朝鮮半島の人々にも神話と伝説があります。先史時代は中国の殷によって終止符を打たれ、殷の周囲から波が伝わるように文字が普及しました。それで朝鮮が歴史に登場するのは朝鮮半島ではなく、朝鮮北部、つまり中国大陸の北部、北方と称される中国の王朝にとって異民族の住む地域からです。衛氏朝鮮、箕子朝鮮、漢の四郡、扶余、高句麗です。魏志に卑弥呼(邪馬台国)の記事が出る頃、南朝鮮は三韓時代(馬韓・辰韓・弁韓)です。三韓は北の高句麗と対峙します。高句麗は現代の北朝鮮から満州を含む大帝国です。三韓のひとつ辰韓に王朝を築いた新羅が、中国大陸の大帝国唐と結んで高句麗と百済を滅ぼし朝鮮半島を統一するのが紀元七世紀の末で、ほぼ現代の南北朝鮮領域です。高句麗の広大な領地は唐が制圧しようとするのですが、そこに渤海というマッカツ人の国が起こって高句麗の後裔を名乗ります。朝鮮半島では十世紀に新羅が王建の高麗に滅ぼされるまで約六百年続きます。高麗が李氏朝鮮まで約五百年、李氏朝鮮が日本に併合されるまで五百年余です。この日韓併合は日露戦争の結果です。

朝鮮国内は日露戦争前、日本と心を同じくして極東をアジア人で守るべきか、ロシアの庇護のもとに朝鮮半島を守るべきかの二派に分かれていました。朝鮮半島はその地政学上大陸の力にいつも曝されて生きてきました。当然一国独立の希望はあったのですが、漢から始まった郡制以来真の意味で独立したことはありません。王は中国皇帝に冊封され内政を干渉し続けられました。隣国を牽制するのに中国大陸の王朝を利用したことにも原因があります。高句麗でさえ漢や唐の外交的屈辱に耐えたこともあります。無理もないことで地理的条件が国の命運を左右するのです。近代を迎えた十九世紀アジアの眠れる獅子()とヨーロッパから呼ばれた清帝国の弱体化で朝鮮はロシアの手が伸びていました。日本もロシアを恐れて、朝鮮の立場を危惧しながら、ロシアと対立したのです。日本は独立国家として長い歴史を生きてきたので、ロシアに立ち向かい日清日露の両戦争が起こりました。世界中が日本の悲惨な運命を想像していたはずです。しかし歴史は時として不可能を開きます。日本はロシアに勝ったのです。乃木大将の不屈の意思と東郷元帥の勇敢な戦略が、当時の日本人の心の表明だったと思います。そしてロシアを含めた白人社会は自分達の常識に沿って、日清戦争後の朝鮮半島における日本の権益を認めました。

獅子は大きな犬を意味します。本来は大きな動物を意味したのだそうです。当時の世界は清帝国が犬族の国家だと知っていたのだと思います。

日本が負けていたら日本と朝鮮はロシアに植民地化されていたはずです。いえそれ以前にイギリスから、或いはアメリカから植民地化されていたかもしれません。これが当時のヨーロッパに率いられた世界の常識でありまぎれもない実状だったからです。ヨーロッパ人が世界を席巻している以上、その常識の中にアジアの人々も生きる以外ありませんでした。国際政治において、特にヨーロッパ以外のアジア・アフリカにおいて善悪は論外でした。日韓併合という朝鮮半島の人々にとって受け入れ難い事態は、ロシアが南下政策をとっている状況下での日本の選択でした。国民感情は別として、少なくとも日本は朝鮮を併合したのであって、征服したのではありません。白人による有色人種の支配とは違っていたと思います。その象徴が李方子(りまさこ)様であり、今も韓国の地に眠っていらっしゃいます。




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随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史

2012-10-31 09:00:00 | 父の背負子1(随想古事記)

中国大陸の神話は三皇五帝のお話です。三皇のお話しはかなり神話らしいと思います。先ずは第一皇伏羲で、中国大陸の最初の住民を表しています。たいていの場合『女媧伏羲』としてペアになっています。共に蛇身人首で、川崎先生はこれが原初シナ人(川崎先生命名による。現在言う中国人ではない)で蛇族を母系とし、蛇族と通婚関係があった鳥族と言われています。(詳しくは関連記事『五色人の謎』でご紹介しました。)

私達の直接的先祖である新人最初のアジア人はこの原初シナ人で、アメリカ大陸原住民まで広がっています。私達の縄文人も同じですが、原初シナ人と同じように蛇族が海伝いにアジアを北上して日本に住みついたため、もっと海洋性を残していたと思われます。この中国大陸最初の新人達の姓は『風』で、川崎先生によると鳥をシンボル(トーテム)として採用しました。風は天から吹いてくるもので、鳥はその使者と考えられていたからです。
蛇族は海洋性があって風をさらに直接的に雲つまり雷としてそのシンボルを龍にしていました。風神雷神は常にセットとも言うべき類似性を持っていると思います。

第二皇は炎帝神農で牛族、この時代に中国大陸で牛耕の農業が始まりました。牛族と共に牛がやって来たので、彦星がこの炎帝神農、織姫は女媧伏羲の娘だったのかもしれません。第三皇が有名な黄帝です。黄帝内経という古典で有名な東洋医学の祖ともいえる皇帝です。この時代には人々が増えて栄えたのだと思います。文明が起これば、病気も起こって来ます。この偉大な黄帝も牛族です。三皇に続く五帝で有名なのは第四帝の堯と第五帝の舜です。堯舜の時代と後に仰がれる聖君による徳政の時代です。この五帝は川崎先生の教えに従うと、前の三人が鳥族、堯が犬族、舜が牛族です。神話伝説時代の中国大陸人は鳥と牛と犬の各部族です。その後興る初めての王朝夏は牛、次の殷王朝は第三帝嚳(コク)を始祖として鳥、続く周は牛です。

中国大陸では神話と歴史は完全に同じものとして語られています。そしてそれに続くものは賢人の教えとして道教や孔孟の教えが大切に伝え守られてかなりドライな国民性のように見えます。神話時代を担う国民が征服されて部族ごと移動して別の国の神話になったか、奴隷にされてその伝えるべき神話が埋もれてしまったのかもしれません。川崎先生は殷の神話が箕氏朝鮮・衛満朝鮮の神話だろうとおっしゃっています。朝鮮半島の神話がそれを今に伝えて高句麗の神話だとか、新羅の神話だとかになっています。この二つの神話のキーワードは鳥族のものらしく『卵』です。王たるべき天の子は卵から生まれてくるのです。(追記:ホツマツタエによると、アマテラスは胞衣に包まれた卵の形をして生まれて、ココリヒメの持っておられた笏で胞衣を割かれたと言われています。)

箕子朝鮮には檀君神話というものがあります。檀君は古代朝鮮の最初の王で、天帝の子桓因と熊の子供とされています。この熊というのに犬族のギリシャ神話の大熊座と小熊座の神話を思い出します。日本の神話とはかなり違っていますが、朝鮮半島の神話として大事にしたいと思います。熊というつながりは、アイヌ民族の熊祭りにもあります。その民族名『アイヌ』はまさしく犬族だとの表明です。犬族のシンボルには、犬を始め狼、虎、熊などがありました。(だとすれば箕子朝鮮は犬族で、李氏朝鮮が祖として当然かもしれません。)アイヌの人々が和人を『シャモ』と発音していたことは、和人が邪馬で鳥だと言っているのだと思います。現代私達が使っている軍鶏(シャモ)もここから出てきたのかもしれません。

高句麗や高麗の時代劇を見て、その衣装にアイヌ民族の美しい模様を連想してしまいました。奈良朝の衣装が中国式で違和感を覚えるのに対して、韓国で時代考証された高句麗や高麗初期の衣装に親近感を覚えてしまいます。何を美しいと思うかは、個々人の辿って来た不思議な曲がりくねった人類発祥からの記憶かもしれません。なにしろ私達は六十兆個の細胞を持っていて、その一つ一つの細胞は38億年の生命の歴史を記憶しているのですから。日本の神話の中に、お隣の国々の影響があるとしたら、それはその国の人々が入り混じったということだろうと思います。そしてその人達のお話も日本の神話の中に取り入れられて、というより民族が組み込まれていったということだろうと思います。私達は大和(だいわ)の国を作りました。実際的に言えば、作らねば成り立たなかったのだと思います。自他共に生かす大和の精神こそが、その時の日本人の最高の発明だったと思います。


最初国を作った太古の人々の国は家族を覆う屋根のようなものだったろうと思います。その屋根はそこに住む人々の一体感の象徴だっただろうと思います。ですから国という屋根は端から端まで、瓦一枚亡くすことが出来ないものです。これが国境の感覚です。そして国境を侵されることは、安全を侵されることでした。具体的に言うと、死ぬか、流民になるか、そして奴隷になるかのどれかでした。

私達一般の日本人にとって一番遠い感覚が、『奴隷』ではないかと思います。日本にも同時代の世界から考えるとかなり流動的なものであったとはいえ、身分制度は存在しました。江戸時代には士農工商の身分制度があり、その上には公家社会がありその下には非人制度がありました。明治維新後は身分制度が廃止され全国民一様に平民となりましたが、戦前には『士族』『華族』なる言葉が生きていました。『奉公人』も『小作人』もいました。でも『奴隷』はいませんでした。歴史を探っても『公地公民』の制度以後は少なくとも建前上はいなかったのだろうと思います。

奴隷とはどんな人たちなのでしょうか。古代社会の映画を見ると、洋の東西を問わす、鞭で打たれて働かされる奴隷がいます。『ベンハー』という映画を見たことがあります。誇り高い貴族のベンハーが捕虜になり奴隷となって屈辱に耐えながら仇討再興を誓う物語です。その時初めて私の頭の中に視覚的に『奴隷』という言葉が植え付けられました。殷帝国の人達は人狩りをしたそうです。祭壇に供えるためだそうです。生贄に鳥や獣と同列に他族の人間を供えたのだそうです。そんな風習が奴隷の起源ではないかと思います。

学生時代に読んだ『世界の歴史』というヨーロッパで編纂された歴史集がありました。その中に結婚制度は一種の奴隷制度だと書いてありました。一夫多妻の国では妻の数が富の証になっているそうです。少なくともヨーロッパ人もそういう精神構造になっているのかと思います。ともかくそんな悲惨な境遇は敗戦国の人々の運命でした。ですから『そこに生まれた』との理由で、自然に人々は自国の為に戦ったのだと思います。

奴隷について印象的な記述を、塩野七海著『ローマ人の物語』に見つけました。ローマ人の奴隷に関する考え方は『運が悪かった』ということに尽きるのだそうです。『たまたま負けたから』その国の人々がローマに奴隷にされたのだそうです。ですから奴隷の持つ人格も知識も大切にされて、家族同様の待遇を受けたのだとか。塩野七生氏は、恐らくローマの奴隷が世界で一番幸せな奴隷だっただろうと述べています。ローマの奴隷の持たなかったものは、生命の所有権と市民権だったのだそうです。市民権とは参政権のことです。そして当然の義務を負う自尊心のことです。国家を維持運営する為の納税の義務で、ローマで一番大切な税は兵役であり血税という言葉はここから生まれたのだとか。

ローマの奴隷が幸せであったかどうかは別にして、奴隷は一様に悲惨です。人類はそこまで人類を差別できるのかと思います。インドの身分制度は職分制度だと言われていますが、辛い仕事を他人に強要する奴隷制度です。中国大陸も朝鮮半島の奴隷制度も、ロシアの農奴制度も同じです。国が敗れれば、奴隷として連行されるのです。奴隷制度のある国はそれによって社会が機能していました。近世に至っても国家を運営する人々の頭は身分制度でがんじがらめです。十六世紀以降アフリカの人々がアメリカに奴隷として無理矢理連れて来られました。人狩り以外の何だったのでしょうか。恥ずべき人間の傲慢さだと思います。

日本では卑弥呼が隋に『生口』を送ったとの記録があります。『生口』とは奴隷のことです。『食べさせなければいけない機械』のような印象を受けて、それを知った時少なからずショックでした。邪馬台国が殷帝国の同族の鳥だったことを知って今は、その当時の日本人(という人々が居たとしたら)もなるほど同じ時代感覚を生きていたのだと思います。人狩りをする部族間の差別があったのだろうと思います。

鳥族が来る前の日本人は蛇族の縄文人です。中国大陸で蛇族が鳥族になったように、日本列島では現代縄文人と言われる民族がいました。私はそれを海津神(ワタツカミ)に率いられる海津(ワタツ)族と命名したいと思います。その海津族を奴隷にしたのかもしれませんが、その数は僅かだったと思います。卑弥呼が送ったとされる『生口』は確か六人でした。多分鳥(邪馬)族と海津族とは生活様式が全く違っていて住み分けたのだろうと思います。何しろ海津族は竜宮城に住んでいたのですから。

今年三月の東北大震災で分かったのですが、東北の人々は大事な家族をどうしても火葬で弔いたいと願っていました。一方九州、少なくとも北部九州の人々は土葬をという気持ちが土葬を禁じられた現在でも心の隅に残っています。これが何を意味するのかと言えば、東北には海津族の風習が、北部九州には大陸系の風習が残っているのだろうと思います。現在の日本人はみな混血の日本族になってしまいましたが、土地柄には色濃く古代の部族色が残っているのかもしれません。

仁徳天皇のお話しに殉葬を禁じたというのがあります。それを考えるとこの頃までは事実として奴隷がいたのだろうと思います。しかし日本に早くから奴隷を疑問視する心があったことを嬉しく思います。少なくとも古事記の編纂時、日本人は『労働』を神様の仕事にしました。すべてイザナギ・イザナミ両尊がお生みになった神々のはたらきとして表現しました。何しろ神様が機を織り、食事の用意をなさるのです。稲をお育てになるのです。水の神が汚れを落として下さいます。辛い奴隷の仕事は最も尊い仕事になりました。こうして日本人の心は神話により世代を追って蓄えられ、奴隷制度が日本に根付かない心情的な理由になったと思います。このことはアジアの中で日本を分かつ最大の特色だろうと思います。こういう意味でも日本の歴史は世界の実験だったと思っています。




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随想古事記Ⅲ・大和の心3

2012-10-29 10:14:52 | 父の背負子1(随想古事記)

アマテラスから神武天皇(1-3)

神武天皇の大和入りの段は、昔から『東遷』か『東征』か、議論の分かれるところでした。『東遷』を採るのはアマテラスの正当性の主張に依り、『東征』はその現実を考慮した結果だと思います。古事記の伝承のように大和入りに何年もかかっているのを考えると、現状はそれほど簡単ではなかったことが分かります。それに大和朝廷が確立する以前の権力争いは、大陸や朝鮮半島と同じようなものだったろうと思います。兄宇迦師(エウカシ)・弟宇迦師(オトウカシ)と兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の二兄弟の物語があります。どちらも神武天皇に敵対する兄を裏切る弟のお話です。これはあまり気持ちの良いお話しではありません。でもこれが当時の状況だったのだろうと思います。そして敵対した兄の側にもちろんちゃんと言い分があったはずでしょうが、その痕跡を古事記は伝えていません。歴史とはそんなものだと思います。あるいはそれが出雲の建御名方の言い分だったのかもしれません。

建御名方は建南方で、建雷と蛇族同士、兄弟だったとも言えます。ちなみに宇迦師(ウカシ)兄弟は牛族兄弟、師木(シキ)兄弟は犬族兄弟です。この二つの兄弟はその名前に『師』という字を持っています。これが八十梟師(やそたける)の反抗の物語なのだと思います。現在の大和地方にも神武天皇時代に先住の五族がいたと考えるべきです。神武東征時代は出雲も大和もスサノオ系の牛族が君臨してその下に蛇、鳥、犬がおり、馬もいたかもしれません。

この東征劇が人道的か非人道的かということは論外ですが、ただ一つ嫌なのは兄宇迦師を討った後の弟宇迦師の開いた宴会の場面です。兄をコナミに、弟をウワナリに例えて歌う(久米歌)場面です。コナミは前妻、つまり古女房。ウワナリは後妻、つまり若女房。コナミには実の少ないところを、ウワナリには実の多いところを分けてやろうと囃して歌い笑います。

ウダノタカキニ シギナワハル ワガマツヤ・・・・・・コナミガナコハサバ タチソバノミノナケクヲ コキシヒエネ ウワナリガ ナコワサバ イチサカキミノオオケクヲ ・・・・・・

如何に男ばかりの場面だと言え、現代の私には納得できません。憤慨しています。こんなにも実の無い人間ぶりを歌うことに何の躊躇いも感じない人達だったのだろうか・・・・と古女房である私は理解に苦しんでいます。


神武天皇はこの後登美(とみ)の長脛彦を討ち、大和にお入りになって橿原で即位なされます。当時の大和はニギハヤヒノミコトの支配下にありましたが、支配権を神武天皇にお譲りになったとされています。そして神武天皇は天孫降臨以来の伝統的方法で(つまりクニツカミの娘を選んで)皇后をお立てになるのです。それがイスケヨリヒメと言われる方ですが、三輪山の大物主神の姫君です。その姫君をお迎えに大久米命(オオクメノミコト)が行きます。その時にイスケヨリヒメが歌でお尋ねになります。

あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)

最初の行の『あめ』以下『ましとと』までは鳥の名前だそうです。問題は『など』以下の問いの句です。鳥はたいてい目に黒い縁取りがあるように見えます。瞼がそんな風になっているのをご覧になって、それにかけて『どうして(鳥の目のように)入れ墨で黒い縁取りをして鋭い目をしているのか』とお尋ねになったのです。オオクメノミコトを犬族だと知っておられて、『鳥の目のように』とおっしゃったのでしょうか。

魏志倭人伝に、倭人(邪馬台国人)には文身の習慣があるとの記述がありました。それを知った時、アイヌの人達を思ったものです。川崎先生によると蛇族の人達は水流を意味する『三』の文様を入れ墨し、犬族の人達は『十』字・『×』字を入れ墨することが多いらしいのです。何れも魔除けのためです。守護神の加護を願ったものと言われています。またエジプトの人物像には必ず目の隈取りがあります。クレオパトラの目もツタンカーメンのマスクにもありました。アイヌの人達もクレオパトラも犬族です。大久米命も犬族だったのでしょう。ともかくイスケヨリヒメは不審に思われたのですから、当時の現在で言う『大和』では入れ墨をしていなかったと推測できます。大物主は大国主命の時代に海の彼方からやって来たことになっており、その正体は白い蛇ということですから蛇族ということになります。白い蛇というのがちょっと気になりますが、畿内の蛇族は入れ墨をしなかったのでしょうか。

神武天皇が畿内にお入りになった時に、現在の大和地方が初めてヤマトになったと川崎先生は指摘しておられます。それが『カムヤマトイワレヒコ』のお名前です。ニギハヤヒノミコトの国号が分からないので何とも言えませんが、『登美』だったのではと思います。『登美の長脛彦』の登美で、実体は『鳥見』だったのかもしれません。或いは前述したように畿内が『出雲』か『於投馬』だったかもしれません。そうすれば出雲の国譲りの意味も筋が通ってきます。ニギハヤヒノミコトはスサノオノミコトの子大年神という説もありますので、第二の出雲王国だったかもしれません。何より大物主が出雲ではなく三輪山に鎮座なさっているということがその証拠となるのではとも思います。

神武天皇の畿内入りで、邪馬台国の倭が東の大和の国『日本』になっていくスタートラインに立ったと言えます。神武天皇の国号が『大和』であったことは疑いようもありません。それは部族名『倭(邪馬)』をそのまま邪馬台国の読み名『ヤマト』とし、五族みなを纏め上げて『八紘をおおいて』一家のようにしようと決意なされたその時に確立した国名です。私達の大和の精神は神武天皇のお心、或いは神武天皇のお心として表現された大和朝廷の理念です。

一方『大和』の『邪馬』が『猪=豚』であり『東』であることを時の朝廷は熟知しており、後に聖徳太子は『東』が直接太平洋から日が生まれて来る日の本の国であるとの誇りを国書として隋に送られました。それで大和朝廷は国号に『日本』を選んだのだと思います。そして『日本』を『大和』と同じ音でも読むことにしました。日本では『日本』も『大和』も『東』もみな『ヤマト』と読むのです。大陸から渡ってきた邪馬台国は当然漢字を知っていました。『ジャパン』の元とされている『日本』、つまり『ジッポン』は音からも採用される蓋然性を持っておりましたが、その根拠は『ジャバ(邪馬)』にあったのです。この展開に異論をはさむ余地は無いのではないかと思います。

この『日本』という国号を採用した当時の大和朝廷が、神武天皇の邪馬族でも重用された犬族でもなく天神族の馬族であるというのが、最大の秘密であり記紀の編纂理由だとする説があります。つまり天照大神は馬族でありその皇統の中に、邪馬台国系の神武天皇を入れ、スサノオから投げ飛ばされた馬の地を取り戻し、どこかでまたアマテラス系の皇統をつないだと言っているのです。確かにスサノオが天の機屋に投げ込んだのは馬の『天の斑駒(ふちこま)』でした。この『斑』という字には『斑鳩』という飛鳥の地名もあり、かなり深い意味合いが込められています。前述の『ツカル』が『猪族の』であったように、『イカル』は『犬族の』という意味ですし、その字義から斑模様が連想されます。馬の住む飛鳥はまだらに犬の住む斑鳩であったのかもしれません。しかし私は日本誕生に絡む馬は邪馬族の馬だったと思います。



古事記の編纂をご命令になった天武天皇には多くの焦点が当てられています。その漢風諡号には悪王で名高い殷の紂王を討った周の武王を擬えてあるとされています。その上理解に苦しむことに兄君である中大兄皇子の天智天皇にはその殷の紂王が匂わせられているそうです。邪馬台国系の殷が討たれたことを暗示するかのようです。この諡号に関しては後の人間が作ったのですから、私は天武天皇のお心だとは思いません。それよりもなお、古事記の中に秘められた『大和』の国を受け継いでいくお心を大切にしたいと思います。

あえて通説を解釈して王族が邪馬台国の犬族から天神系の馬族に変わることができるとすれば、天武天皇の直近では継体天皇の事績に考えられます。その諡号からも意味を感じられる継体天皇は皇后に武列天皇の妹君・手白香皇女を立てられました。これはニニギノミコトがコノハナノサクヤヒメをお迎えになり、山幸彦が海神の娘豊玉姫と結婚なさったのと同じです。その間にお生まれになったのが欽明天皇で、国風諡号に初めて馬族を意味する『天』の字をもっておられます。次は天智天皇と天武天皇の母である皇極天皇までありませんが、それからは数代にわたって『天』の字をもっておられます。天智天武の両天皇は漢風諡号にも『天』の字を合わせてもっておられます。それ以前にも応仁天皇にそういう可能性があるとか、様々な学説が立てられています。もしかすると元々アマテラスの王朝は『天の斑駒』、つまり犬族と馬族、そして牛族の合同だったのかもしれません。この問題については、研究の余地が多分に残されていると思います。

天武天皇が編纂の号令をかけられた古事記にはそういう意味で改竄説も様々に語られています。世界の歴史が伝えているようにそれもまた真実かもしれません。しかし国号を継ぎ国柄を継がれたということに、日本と皇統(統治の理念)の継続性の祈りを込められたのだと思います。そしてそのための事業が物語としての古事記の編纂だったと思います。また漢字によって記された外国の歴史書と、日本語によって記憶された私達の歴史とは符合すると思っています。記紀に邪馬台国は出てきませんが、『大和』は出てきます。自国の歴史に卑字を利用するほど、古の我が国の政治家や学者が卑屈ではなかった証しだと思います。そして川崎先生がおっしゃるように、古代の土地や人物の名前を研究すれば、学問としての真実を裏付ける証拠となるはずです。一方国民の記憶の物語・神話にはアイデンティティの継続という役割が与えられたと思います。(Great Peace)




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随想古事記Ⅲ・大和の心2

2012-10-27 11:26:21 | 父の背負子1(随想古事記)

アマテラスから神武天皇(1-2)

第二の問題、天孫降臨の地が何故出雲ではなく高千穂だったのでしょうか。これは高千穂にする以外にない事実、つまり神武天皇の実際の御出身地を優先したのだと思う以外にありません。ニニギノミコトは宮崎県の高千穂か、九州のどこかの高千穂と呼べるような場所に来られたのです。海幸山幸事件は宮崎・鹿児島のお話であり、山幸のホホデミノミコトは蛇族の豊玉姫と結婚をしてウガヤフキアワセズノミコトがお生まれになりました。そして豊玉姫の妹・玉依姫との間に若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)、つまり大和朝廷の太祖ともいうべき神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、漢風諡号で神武天皇がお生まれになりました。此処に初めて『倭』なる字を見つけることができます。偶然の一致ではない筈です。つまり神武天皇が『倭(邪馬)』族でいらっしゃったということです。

『倭』とは日本および日本人のことだと思っておられる方が多いと思います。私もそう思っていました。しかしそうではなく漢字圏には他にもあると川崎先生はおっしゃっています。またその旁は偏になって『魏』という国名にもなり、その音は『イ』は『李氏』という家族名になっているとおっしゃっています。中国を脅かした異民族の中にも『倭』という名をもつ民族があると述べておられます。身近には有名(?)な『倭寇』が日本の海賊だけではないことを私達は知っています。

ここから以後畏れ多いことながら、敢えて自説を明らかにしたいと思います。川崎先生のおっしゃるように倭族は犬族です。世界史でも歴史をかえてきた民族です。高校だったと思うのですが、世界史で突如現れた『ヒッタイト』という民族が鉄の武器で圧倒的な力をもって中近東を征服したと教えられました。ヒッタイトがそれからどうなったのか歴史上不明ですが、彼らこそが『犬』族の代表格で、『犬と鉄』は世界史のキーワードだと思います。『犬族』が世界史を切り裂いていったのです。

中国大陸で実際に存在が証明されている殷帝国は鳥族、つまり猪(邪馬)族が王族で犬族が有力部族として存在しました。周から追われて拡散した中で、もともと同族だった縄文人のいる日本列島に逃れた殷帝国の流民が建てたのが邪馬台国だったと思います。その中で倭族は南九州に勢力圏をはったのだと思います。そしてやがて九州全域を支配しました。なぜかというと先住の縄文人の力を得たからです。それが山幸彦と豊玉姫のお話であり、ウガヤフキアワセズノミコトと玉依姫のお話しなのだと思います。そして豊玉姫が出産のために上陸された渚が、『豊の国』つまり後の豊前豊後の国だろうと思います。大陸各地の犬族に使用された『倭』を『邪馬』族として固有の『和』に変え『大和』を『ヤマト』と呼称した道筋もこれで明らかになって来ると思います。『天孫降臨』は事実であり、それは殷滅亡の紀元前1300年以降のことです。


最後に最大の矛盾点・なぜ天照大神は出雲に国譲りを強要なさったのでしょうか。なぜ天照の子孫が治めるべき国だと統治権を主張なさったのでしょうか。なるほど古事記編纂時の天武王朝の都合だとすることもできるでしょう。しかし何かしらの正当性が無ければ物語としての辻褄が合わないし、多くの人の納得も得られないのではないかと思います。そしてこれが『神武東征』でなく『神武東遷』とする最大の理由であったはずです。

アマテラスとスサノオの結婚説があります。誓約で互いの子を産まれたので、オシホミミノミコトはスサノオの出雲の後継者だとも言えなくもありません。ですがそれは長子相続に正当性が認められている場合だけです。

川崎先生の説に魏志倭人伝の『投馬』国が出雲ではなかったのかというのがあります。そしてこの『投馬』は確かめたわけではないが、宮内省管轄の文書には『於投馬』とあるらしいとも書かれています。そしてそれが川崎先生のご専門の音声学的変遷から『イヅモ』であるとおっしゃっているのです。私はその『おとま』が『ホツマ』である可能性があると思います。だとすれば天照大神が統治権を主張なさるのもよくわかります。ホツマ伝えの伝承では、ホツマの国は天照大神の国なのですから。古事記だけではわからない理由ですが、当時の人々は色々な事情を知っていたはずです。

『於投馬』がたとえ『ホツマ』であったにしても、その字は一体何を語っているのでしょうか。川崎先生は『馬に投げられた』と仰っていますが、私はちょっと違う意見です。私は『馬を投げたところ』という意味だと思うのです。そこ(つまりホツマの国)で馬族を投げて牛族のスサノオノミコトが『出雲』を建てられたのだと思います。それで『於投馬』が『出雲』になったのだと思います。馬族の土地であったのに牛族に取られていたところを、天照大神は馬族の主神として、返還を要求なさったという筋書きです。歴史学界の主張通り、天神族は馬トーテム族なのですから。(この馬族に関しては、異論ありです。馬は邪馬だったのです。)

もちろん領土争いは単純ではありません。その証拠に大国主の息子である『建御名方(タケミナカタ)』は不承知で、実力行使に派遣された『建御雷(タケミカズチ)』と争います。そして諏訪地方に逃げて諏訪神社の祭神となります。諏訪神社の氏子たちは建御名方の子孫で、独自の精神性を武田信玄に併合されるまで維持し続けます。しかし取り上げた側が、相手が不承知だったと記録するのは、正直な記述法だと思います。(Great Peace)




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随想古事記Ⅲ・大和の心1

2012-10-26 07:34:11 | 父の背負子1(随想古事記)
アマテラスから神武天皇(1-1)

古事記に語られている私達の国日本の神話と現実の歴史の接点は、『天孫降臨』とそれに先行する『出雲の国譲り』の二点です。しかし此処には大きな虚構があるとされてきました。それで神武天皇から開化天皇までは架空であるとか、あるいは神功皇后が天照大神だとか、その他様々な仮説が発表され、その上に邪馬台国論争まで入り混じって我が国の歴史論争は百花繚乱を呈しています。いまだに自国の歴史に現実的にも精神的にも明確な回答をもっていないことは世界的にも珍しい現象ではないかと思います。戦前までは精神的には信じていたのかもしれません。それが戦後国民の支柱ともなっていた歴史が科学的検証にさらされ、その希望は打ち捨てられました。形ある考古学的発見のみが検証に耐える証拠とされるようになりました。その結果私達の現代と結ばれる筈の国の始めは曖昧模糊としたものとなり、神話という物語としてさえ大方の人々の心から消えてしまったようです。しかし私達が決して忘れてならないのは、その神代の昔の物語に語られている音の響きは、現代私達が使っている日本語だということです。日本語は生きた形の無い考古学的証拠だと思います。文字ばかりではなく、音そのものも証拠になると思います。そして時代ごとの日本語の変化は、歴史的な事件や変動を意味しているに違いありません。古事記はカタカムナと川崎先生の歴史言語学的手法を取り入れなければ、決して解明できないと私は思っています。


神話を歴史の事実(あるいは事実を象徴する物語)として考える上での問題点はいくつかあります。避けて通れないと私が考えるものをあげてみたいと思います。
第一は、天照大神はなぜ葦原中津国を『我が皇孫』の知らすべき国なりと統治権を主張なさって、出雲の国譲りを強請されたのか。
第二に、それなのに出雲ではなく、なぜ日向の高千穂に皇孫ニニギノミコトは降臨されたのか。
第三に、そこが何故『韓国に向い笠沙の御前に真木通り、朝日の直刺す国、夕日の照り映える国』なのか。
第四に、倭国と邪馬台国は同じ国なのか。倭が大和なのか。
第五に、邪馬台国とは何なのか。卑弥呼とは誰なのか。
そして最後に第六、天孫降臨がいつごろのことなのか、という六点です。


問題四と五を合わせて『倭国と大和国と邪馬台国』から始めたいと思います。それは邪馬台国が事実として日本の歴史に挿入されているからです。邪馬台国とは、ご存知の通り、魏志倭人伝によって歴史上確認された国で、我が国の日本書紀にはありません。現在のところ、その国名については、ほぼ邪馬台国が倭(やまと)国であろうと、あるいは少なくともその語源であろうとされていますが、その比定地については依然論争の的です。近年考古学上の発見もあり、大和畿内説が有力視されるようになってきましたが、これはまだ分かりません。我が国の歴史が『記紀』を遠ざけるあまり、漢の金印も魏志倭人伝もこま切れで私達に与えられているからです。それで邪馬台国が私達日本人とどのような関係にあるのかも実際のところ明確に分かっていません。神武天皇の即位を以て建国されたとされる『大和』の国も否定されて、日本国民が心情的に依るべき建国記念日まで根無し草にされています。人間というものがその出自をもって自分のアイデンティティを確認するのですから、日本人としてこれは由々しき問題だと言わざるをえません。

魏志倭人伝と並行してその命名法から大和と邪馬台国の関係に迫ってみたいと思います。邪馬台国についてはブログ記事の『五色人の謎』シリーズや『私の邪馬台国』(『関連記事』をご覧ください)でも触れましたが、私は川崎先生の言われるように、言語学的観点を導入する必要があると思います。それ以外に解明の方法は無い、というのが私の40年以上にわたる模索の末にたどり着いた答えです。川崎先生によると『邪馬』は漢字の歴史では一貫して『猪』のことであるとおっしゃっています。『台』が『と』音の当て字であり、大陸半島系では『ト』は『トン(豚=猪)』であり、そして『東』でもあることから、構成主要民族が殷帝国と同じか、その末裔の鳥(猪)族であることは、命名した人間が明らかにそういう部族時代を生きている魏人である以上疑いがないのではないかと思います。そして『邪馬台国』と書かれた日本では自分達の国を『ヤマト』と呼んでいました。沖縄方言では近世まで日本人のことを『ヤマトンチュ(やまとのひと)』と呼んでいたそうです。

そしてもう一つ大変重要であると思われることは、魏志倭人伝の著者・陳寿のことですが、当時のヤマト国の内情についてはかなり精通していたはずです。確かに自分で述べているのですから実際に来たことはありません。それで地理については不正確かもしれません。しかし聞き伝えのそのまた聞き伝えで全くのでたらめというような不正確な事を記述したとは考えられません。歴史上の時間については分かりませんが、少なくとも民族については朝鮮半島についての記事と同じくらいの正確さで記述してあると考えたほうがよいと思います。そして魏人が周囲を卑しんで使った記述用の文字を選んで固有名詞などを当然採用しました。ですから邪馬台国は『ヤマト国』であり、『ヤマト国』は天孫降臨の日本最初の地です。

卑弥呼については、これは呼称で多分官名か職位の当て字だと思います。対馬と壱岐についての魏志の記述では大官(現地の防衛長官)を卑狗(ひこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)とあります。卑弥呼の卑はその官名の文字の採用と同じで日、弥呼は巫女の当て字だと思います。ただ字はともかくも音はそういう音だったと考えるべきだと思います。それで卑弥呼という漢字の女王はいなかったけれど、『ヒミコ』と呼ばれていた女王はいたと思います。或いは日本人は『の』の音をはさむのが癖ですから、『ヒノミコ』或いは『ヒメミコ』だったかもしれません。そして卑『狗』という当て字が示していることは、犬族が殷帝国と同じように居たということです。アジアでは『邪馬』が殷の主要民族猪族(鳥族)の呼称であり、東アジアの国々の構成民族が、何処の国でも五色人と呼ばれる五族であったという川崎先生の説を私は支持しています。

魏誌倭人伝に『女王国は、・・・・帯方郡より海岸にしたがって水行し韓国をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里・・・・・』とあります。『その北岸』とは何のことでしょうか。どう考えても『女王国の北岸』と読めます。この時代の女王国の国境は朝鮮半島にあったと思う以外にありません。その上国名が『狗邪』となっています。邪馬台国の卑狗が駐屯している国としても不思議はありません。それで任那に日本府があったのだし、神功皇后が朝鮮に出兵なさったのだろうと思います。

卑弥呼を神功皇后に比定する説もあります。神功皇后の日本名は『息長帯比売(オキナガタラシヒメ)命(ノミコト)』です。この帯を名前に持っておられる天皇は孝安天皇の『大倭帯日子(おおやまとたらしひこ)』、と景行天皇の『大帯日子(おおたらしひこ)おしろわけ』と成務天皇『若帯日子(ワカタラシヒコ)』と仲哀天皇『帯中津日子(たらしなかつひこ)』そしてその皇后の神功皇后『息長帯比売(おきながたらしひめ)』の五人の方々です。川崎先生は『帯』が日本音で『タラシ』または『タリシ』で『足』や『多利思』が当てられたりしているが、言語学的に追及して一種の官位名だと言っておられます。

朝鮮半島には帯方郡という名の郡がありました。王名の帯(たらし)は、案外帯方郡と関係があると私は考えています。元々『方』という字が異民族を意味していていたことを考えると、帯方郡とは『帯』という野蛮な民族がいる地方と言っていることになります。私はその民族が邪馬(猪)族だったと思います。楽浪郡(ナンナン)とは南から来た蛇族の住む地方で、那の津・博多と同じです。漢字を採用するにあたって、無意味な音の採用には古事記でも『音のみ』との但し書きまであります。採用された漢字には、漢字文化圏の共有する正確な意味があったはずです。

邪馬台国は、私達の想像をはるかに超えて、北は朝鮮半島の狗邪韓国から南は鹿児島までを含む九州全域以上であった可能性が高いと思います。邪馬台国について田平町(長崎県平戸市)説を唱えている私の同郷人もいます。田平町には縄文遺跡は勿論、日本有数の弥生遺跡があり、大陸系の支石墓もあり、円墳も多数あります。それに平戸・田平町は、その位置が確かに天孫降臨のニニギノミコトが仰せられた『韓国に向かい、笠沙の御前に真木通り』のそのままです。鹿児島県の野間岬に比定されている笠沙の御崎とほぼ同経線上にあり、朝鮮を望むことができる土地です。ただクシフル岳を何処に比定するのかが問題です。平戸地方の最高峰は『安満岳』と言います。天孫降臨の地に名前はぴったりです(*)が、ちょっと低過ぎのように感じます。しかし女王国の北岸が狗邪韓国なのですから、北部九州が勢力圏から外れることはないはずです。そして高千穂の峰は背振山かどこかで、海神宮は豊玉姫神社のある対馬かどこかという説も成り立ちます。
(*)安満岳(やすまんだけ)は『あま』岳です。『あま』は天神族の馬族を意味します。

その反対に高千穂が宮崎で海神宮が鹿児島であるならば、邪馬台国の都は南九州であるはずです。その上で『韓国に向かい笠沙の御崎に真木通り』、朝日が海から上がって夕日が海に沈む地というのはなかなか見つかりません。異色の邪馬台国研究家・宮崎康平氏の島原半島でも難しいのではないかと思います。『朝日の直刺す』というのが疑問の余地がないので、『夕日の照り映える』が海に沈まなくてもよいとすれば、この件に関しては九州の東海岸が最も条件にかなっています。高千穂が『韓国に向かっている』かどうかについては異論もありましょうが、標高を考えればそうでないとも言えません。

『笠沙の御崎に真木通り』が問題ですが、『真木通り』という意味が経線でなく緯線であったらどうでしょうか。それに『木』という字は『東』を示すのです。高千穂は霧島ということになり、神武天皇の周囲におられる吾平津姫のお名前に矛盾がありません。吾平津姫は鹿児島県姶良郡のご出身の姫君と言っているのですから。邪馬台国を九州全土として考えるならば、確かに『韓国に向かい、笠沙の御崎に(降臨地が)真木通り、朝日が直刺し夕日の照り映える国』です。(Great Peace)





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随想古事記Ⅱ・天津神と国津神

2012-10-24 08:03:47 | 父の背負子1(随想古事記)
私達の日本の神々は大別して、天津神と国津神の二つに分けられます。この区分名は創世紀・天地の初めて開けし時の『アメノトコタチ』『クニノトコタチ』に始まると思います。そして次が、『高天原におられる神々』と『イザナギ・イザナミの国生み・神生みによってお生まれになった神々』、次が『アマテラス』と『スサノオ』をそれぞれ租神とする神々、つまり天降(あもり)組と土着組で、この三代のアメクニ仕立てになっていると思います。そして天孫降臨以降天津神は皇統一系、国津神は様々な段階で臣籍に降下なさった神々となりました。神話から受け取る私達日本人の感覚は、宗家と分家とでも言いますか、一般的に、     
          
          租神は『アメノミナカヌシ』一つだけど、上下関係ははっきりとしている

といったようなものだと思います。これがどんな歴史的事実を反映しているのか、そしてこのことが日本民族の構成にどのように関係しているのか、そういった問題に大きな示唆を含んでいるように思います。というより、事実はもっともっと生臭いものだったかもしれませんが、日本人の知恵『臭いものには蓋』式の長い時間をかけて忘れるという解決法だったのかもしれません。

日本には偽書と怪しまれている歴史書があります。その中から代表を五つ選んで考えたいと思います。最古のものは『カタカムナノウタヒ』と呼ばれるもので、一万二千年前からの伝承と言われています。次に『三笠紀』、『ホツマ伝え』、『東流外(ツガルソト)三郡誌』の三つです。はっきりどれがどれくらい古いかは分かりません。記事の内容はどれも太古の昔に及びますが、前者二つが約二千年前、三つ目が書名から推測して千五百年前程度と思っています。

『東流外三郡誌』は、偽書であることが証明されたことになっていますが、私が興味をひかれるのは『東流』という当て字です。『つがる』と読みます。なぜ『東』を『つか(が)』と読むのか、これは川崎先生でないと解明できない問題です。そして偽書であったにせよ、そこに『東流』を『つかる』と読む事実が伝えられていると思います。ブログ記事『五色人の謎』シリーズで世界の民族・部族をご紹介しましたが、これはまさしく高句麗以後の『順奴部』(鳥族)以外のなにものでもありません。そして現代の『津軽』の語源なのです。当然そこには『順奴部』の記憶が残されているはずです。

『ホツマ伝え』と『三笠文』は私が知る限りで、景行天皇に奉呈されたと伝えられています。第十二代天皇で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父君です。ホツマの国作り、ホツマの心映え、そんな大和の国柄を説いています。

最後の五つ目が『古事記・日本書紀』です。この二書は成立もはっきりしていて、西暦七百十二年に古事記が、七百二十年に日本書紀の編集が完成、どちらも八世紀のことです。偽書とされるいわれはないのですが、内容が曲げられて歴史の真実を語っていないという説も多くあります。

『カタカムナノウタヒ』は多くの日本語の原出典です。『アメ』と『クニ』の大別法もここからだと思われます。しかし意味はもう既に古事記どころかホツマ伝え成立時代には不明で誤解されています。楢崎・宇野両先生の解読に全面的に負っている『カタカムナノウタヒ』は、両師の教えによると『アメ』が『クニ』に変化していく過程を教えていますが、後にそれを語呂よく利用したのだと思います。『カタカムナノウタヒ』は社会的身分にも制度にも言及していません。ましてや神様も王様もいません。物事の筋道、生命の筋道が明らかにされているだけです。それ以後の史書ではすでに身分関係や行政機構が出来上がっています。内容的に『カタカムナノウタヒ』と『ホツマ伝え』群との間には一万年以上の年月の差があり、その長い年月の間に日本列島の構成民族も複雑多様になったはずです。日本の社会はアジア大陸の歴史の一部として大きく様変わりしたのだと思います。『カタカムナノウタヒ』の時代の賢者は生命を知るもの、『ホツマ伝え』以後の賢者は人倫の道を知るものになりました。時代を下るにつれ小賢しくなるのは仕方のないことかもしれません。しかし楢崎・宇野両先生が仰るように、この『カタカムナノウタヒ』に私達日本人が今も生きている日本語の原点があります。私達日本人の脳の『あめつちのひらけし』ところは、この『カタカムナノウタヒ』であると私は確信しています。

最後の『記紀』は大和朝廷の編纂で、歴史を明らかにするためとされています。私達が『日本』という国号を意識した時代のもので、複雑になった人間関係の中で、現代まで通用する日本人のアイデンティティをこれによって作り上げたのだと私は思っています。それは為政者として当然のことで、現代の私達はその真実と虚構の真実をどちらも正当に評価しないといけないと思います。何れにしろ私達はその二千年の命を生きているので、もう一つのあったかもしれない命は私達ではないのです。その暖かい覚悟を持って『記紀』は読まれるべきだと思います。(amatsukami & kunitsukami)




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随想古事記Ⅰ・海幸山幸

2012-10-23 08:22:32 | 父の背負子1(随想古事記)
ずっとずっと昔のお話です。海幸彦と山幸彦という兄弟がおりました。海幸彦は海で魚をとり、山幸彦は山で獣を追って暮らしていました。ある日弟の山幸彦が兄の海幸彦に言いました。「一日だけ釣竿と弓を交換して、いつもと違うことをしてみようよ。」海幸彦は嫌がりましたが、山幸彦が余りに熱心に頼むのでいやいやながら交換することにしました。

山幸彦は喜んで海に出かけ釣りを始めました。なかなか釣れません。とうとう一匹も釣れませんでした。そればかりか大事な海幸彦に借りた釣り針をなくしてしまったのです。海幸彦も慣れない狩りで何の獲物も無く帰ってきました。山幸彦は海幸彦に大事な針をなくしたことを正直に話して心から謝りました。しかし海幸彦は許してくれません。山幸彦は自分の刀を溶かして千本の針を作り、兄の海幸彦にお詫びをしました。それでも海幸彦は、どうしても失くした釣り針を返してくれと言って許してくれません。すっかり困ってしまった山幸彦が海岸で途方に暮れていると、白いお髭のおじいさんが現れて、「海津神(わたつかみ・海の神様)なら分かるだろうから教えてもらいなさい」と、海津神の宮殿への道筋を教えてくれました。教えられた通り進んでいくと井戸と大きな香木(かつらぎ)がありました。おじいさんの指示通りその大きな木に登っていると、宮殿の侍女が水を汲みにやってきました。

水を汲もうと井戸を覗き込んだ侍女が井戸に映っている山幸彦を見つけました。山幸彦は水を飲ませてくれるように頼みます。侍女がさし出した容器に、山幸彦は自分の首にかけていた珠を口に含んで吐き入れます。するとその球が容器の底にはり付いてとれなくなりました。仕方なく侍女はそのまま水を汲んで宮殿に戻りお姫様に水を差し出します。その珠を見つけたお姫様が怪しんで侍女に尋ねました。井戸にやってきて木に上にいる美しい若者を見つけたお姫様は、父の海津神にその話をしました。すると海津神は「その方は日の神の御子に違いない。丁重にお通しするように」と言い付けました。お姫様に連れられてやってきた山幸彦を、海津神は大切にもてなし娘の豊玉姫と結婚させます。山幸彦はこの海津神の宮殿で三年間幸せに過ごしました。

ある日心にかかっていた海幸彦の釣り針を思ってふとため息をつきます。それを怪しんだ豊玉姫が海津神に山幸彦のため息を報告しました。山幸彦から訳を聞いた海津神は調査を開始、ふかの喉に引っ掛かっていた釣り針を探し出しました。大喜びに喜んで山幸彦は海幸彦に釣り針を返しました。それから山幸彦はまた山で獣を追い海幸彦は海で魚を釣って暮らしましたとさ・・・・・



子供が最初に聞くおとぎ話としてはこれくらいまでのものですが、日本人なら誰もが知っている『海幸山幸』の話です。成長するにつれてこの後日談というか続きというか、詳しい神話に触れるようになります。関連記事2006年7月『海幸山幸

海幸彦の本名は『火照命(ホデリノミコト)』と言い、山幸彦は『火遠理命(ホヲリノミコト)』と言います。父君は天孫降臨のニニギノミコト、母君は日本神話の美人の筆頭コノハナノサクヤヒメです。

海津神は釣り針を持たせて山幸彦を葦原の中津国にお帰しします。その時海津神は山幸彦に、海幸彦に釣り針をかえす時の呪文『この鉤(かぎ)は、オボ鉤(おぼち)・スス鉤(すすち)・マジ鉤(まじち)・ウル鉤(うるち)』と唱えて後ろ向きにお渡しなさい』と二つの玉を授けます。山幸彦は言われたとおりに釣り針を海幸彦に返します。海津神は天地の水を司る竜神ですから、山幸彦の国は豊かな実りに恵まれます。しかし海幸彦は何をやってもうまく行きません。海津神の予言通り三年の内に貧しくなって山幸彦の国に攻め込んできました。その時山幸彦は海津神からもらった『塩盈珠(しおみつのたま)』で海幸彦の軍勢を溺れさせてしまいます。海幸彦はとうとう降参して許しを請い、山幸彦の守護の役をする家来になろうと誓います。そこで山幸彦はもう一つの『塩乾珠(しおひるのたま)』で洪水を治め兄の命をお許しになるのです。こうして山幸彦はニニギノミコトの跡を継いで大王になられます。山幸彦の日本史上のお名前は、天津日高日子穂々手見命(アマツヒコヒコホホデミノミコト)、神武天皇のおじい様です。

この物語は沢山の示唆を含んでいます。
第一に、山幸彦が道具の取り換えを申し出ること。これは人間にありそうな話です。何気ない毎日の暮らしが、いかに長閑で幸せなものだったか、後で知るのです。如何に後悔しても役に立ちません。

第二に、海幸彦はそれを嫌うこと。これは出雲の国譲りと同じく、強制的なものを感じさせます。取り換えは乗っ取りに通じているからです。

第三に、海幸彦は山幸彦の同母兄であるにもかかわらず、邪まな性格とされていること。アマテラスとスサノオの関係と似ています。そしてこれから神話に登場してくる兄弟の物語はいつも弟が正義を体現しています。神話の兄弟の血筋はあてにならないのかもしれません。

第四に、海津神が竜神であること。日本列島の原住民を思わせます。そして
第五に、海幸彦はその名前からは海津神側、つまり原住民族ではないかと思われます。だとすれば海幸山幸の争いも理解できると思います。

第六に、山幸彦は海津神の娘と結婚して治水権を受け継ぐこと。海津神が天孫に支配権を譲ったことを意味しています。その譲られた地が、山幸彦がお帰りになった『葦原の中津国』であると語っています。

第七に、おとぎ話にきまって出て来る白いお髭のおじいさんは何者か。このおじいさんは住吉の翁とも呼ばれていますが、たいていは『塩椎(土)の翁』と呼ばれています。この『椎』は足名椎・手名椎の『椎』と同じです。ホツマ伝えには前述の若姫とアチヒコの仲人役で出てきます。神格に近いけれども、氏素性をはっきりした記事はありません。川崎真治先生の著書に触れるまで私にはわかりませんでした。海津神に近い蛇族の国津神です。

第八に、竜宮城に行く浦島太郎との関係。幼い日浦島太郎の話を聞きました。「ヨサの浜辺で浦島は、・・・・・」母の語りはいつもこういう出だしで始まりました。子供心に「ヨサって何処だろう」と思ったものです。長ずるにつれて『与謝蕪村』を知り、『依網羅の娘子』を知り、その依網羅娘子と人麻呂の相聞歌『角の浦みを浦無しと・・・・・・』を知りました。様々な伝承が彼方此方でつながれている不思議な感じを胸に温めたまま長い年月を過ごしてきました。そして師と仰ぐ最後(多分)の御縁を頂いた川崎真治先生の著書に触れました。


山幸彦には次に大切なお話し『ナギサタケウガヤフキアワセズノミコトの出産』の場面が続いています。
山幸彦と結婚なさった豊玉姫は、出産を間近に控えられ山幸彦の許を訪ねて来られます。『日の神子を海津神の宮殿で産むことは出来ない』とおっしゃるのです。それで山幸彦、つまりホヲリノミコトは急いで海岸に産屋をお建てになります。その時急に豊玉姫は産気づかれて、夫の君に『出産をする時は本来の姿に戻るものですから、決して産屋をのぞかないでください』と約束を取り付けられます。そしてまだ完成していない(鵜の羽を草代わりにして屋根を葺いていたが未だ出来上がっていない)産屋にお入りになります。この時お生まれになるのが、この事件を象徴するお名前を持つ『波限建鵜草葺不合命(なぎさたけ・うがや・ふきあえずのみこと)』で、その意味は『海辺に立てた産屋の屋根が出来上がらないうちにお生まれになった御子』という意味です。名前というものがその人の氏素性生い立ちを語るものだということを納得させられます。神々のお名前、歴史上の人物の名前をもう一度確認してみたいと思ってしまいます。

ところで私達は『覗くな』という昔話で有名なものを三つ知っています。第一が既にご紹介した『イザナギ』のお話、第二がこの『豊玉姫』のお話、第三が『鶴の恩返し』のお話しです。禁止されると気になってしまう人間の心情をついていてなかなか面白いお話です。

今回の豊玉姫のお話しは、覗いてしまった山幸彦に豊玉姫は次のようにおっしゃいます。『これから毎日海津神の宮殿から通ってお世話をしようと思っていたのに、貴方が覗いて私の姿を見ておしまいになったのでそれも出来ません。』豊玉姫は海津神の娘で、出産の時鰐の姿に戻っていたのを恥ずかしく思われたのです。そして『海坂』の戸をふさいで海津神の宮殿に帰っておしまいになります。これは大変興味深いお話しだと思います。私達が人間に生まれる前の記憶の一部だと私は考えています。それもこれは皇統につながるお話しなので、決して卑しんだり怪しんだりしているのではありません。そしてもう一つ、豊玉姫は『海坂』を閉じて海にお帰りになりました。私達はこの時海と往来する道を失いました。この坂は境界を意味するもので、イザナギノミコトも黄泉の『平坂』に戸を立てて塞がれたことを私達は知っています。その時生き帰る道を失い、今回海の中へ自由に行く道を失いました。

古事記には生命の発生から進化の歴史を語っているのではないかと思わせる記事がいくつかあります。『ウマシアシカビヒコジ』の神にカビ類の時代、『ヒルコ』姫に無脊椎動物時代、『ワニ』の姿での出産に爬虫類の時代などです。海岸に来て卵を産む大海亀は、産卵後決して子どもの世話をしません。爬虫類までは水の世界と陸の世界を往復します。この豊玉姫のお話もそんな事を考えさせられます。神話というものは重層的に私達の記憶(つまり過去)を語り継いでいるにちがいありません。(umisachi & yamasachi)




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随想古事記Ⅱ・神話と言語

2012-10-17 15:10:10 | 父の背負子1(随想古事記)
世界に現存する神話には、私達の日本の神話をはじめとして、旧約聖書に語られる神話やエジプトの神話、ギリシャ・ローマ神話、北欧神話、インド神話、中国の神話、そして世界各地の様々な神話等があります。神話という形に限らず、太古からの伝承も民族の数ほどあります。こうした物語には世界的に共通する部分が多くあります。初めてそれを知った時には不思議だと感じましたが、全人類の起源が同じアフリカで、世界各地に散らばったと解明されてみれば納得のいく問題だと感じています。神話は人類と民族の起源の痕跡に違いありません。

多様な民族の発生理由については、マクロビオティックの根本原則『身土不二』を知った途端氷解してしまいますが、それはダーウィンの言う世界中の動物たちの多様性の原因と同じだと思います。現在私達は皮膚の色素から白・黒・黄の色素人種に分類して何系彼系と言っていますが、およそ数10万年も遡ればほとんど一民族の中の顔付きの違い程度になるのだろうと思います。それに聞くところによると、出生直後の赤ちゃんは成人ほど皮膚の色の違いが明確ではないそうです。だとすればこれは後から獲得した地域差だろうと思われます。

現代を生きている人類はおよそ十万年前にアフリカを出発して一万五千年から一万年前迄にユーラシア大陸を経て南北アメリカまで全世界に人類が広く分布したと考えられています。この時の世界には最大公約数として五種族(『五色人の謎』でおはなししました)が区別されていたと、川崎先生の古代史学で解明されており、現在もほとんど変わっていません。東西南北を行き来する様々な相互間の干渉があって現存する多様な人種・民族が派生したと考えられます。

世界の各人種・民族は同じ起源を持っており、同じ自分たちの起源に関する初期の物語(つまりそれが神話であり言語)を持って世界各地に散らばり、落ち着いた先の諸条件で多様化していきました。習慣の多様化、衣服の多様化、言語の多様化、こうしたものはその土地条件に影響されています。石の無いところに石の文化は起こるはずもありません。手許に泥があれば泥を、植物があれば植物を使うようになります。定住できる食料を確保できた民族は頑丈で長持ちのする生活様式を選ぶでしょうし、遊牧民のように移動しなければならない民族は移動に適した家屋や生活様式を考案するでしょう。この多様化の過程に思いいたれば、私達の言語に関する多様化にも納得がいくだろうと思います。


神話の中には宇宙創世についての物語を持つものがあります。それは民族としてのアイデンティティに目覚めた人達によって辿られた記憶の歴史に違いありません。『自分達は何なのか(現在)』『自分たちはどこから来たのか(過去)』そして『自分達はどこに行くのか(未来)』、太古の昔も今も全く変わらないこの三つの問いの上にそれぞれの民族の特色が形成されていったのだと思います。創世記のお話がどれも混沌、あるいは何も無いところから始まる点では同じです。人智の極まる果て、それ以上考えることのできない始まりを混沌、あるいは無と認識したのだと思います。それ以前について考えることが能力を超えることであるのは、現代社会でも同じです。私達はビッグバン以前を知ることが出来ません。その回答がそれぞれの民族の神話であり、文明なのだろうと思います。そして最も重要なものがそれを語る言語だったのです。言語なくして解答を得ることは出来ません。

カタカムナの解明に尽くされた相似相学の宇野先生は、日本語を『命』と『生活』を同じ単語で済ますことができなかった民族の言語だと言っておられます。命あっての暮らしではあるけれども、日本人は『life』一つで済ませることができなかったのだと言っておられます。現代に生きる私達も外国語で表現しなければならなくなったとき、こうした戸惑いと無縁ではありません。日本人の外国語表現には、このような特殊性がいつも関与して、ついつい黙り込むことになるのではないかと思います。それは言葉の定義(生活・暮らし)の上に生きているのではなく、言葉の力(言霊・命)の上に生きてきた日本人の歴史なのだろうと思います。外国語の中にこうしたニュアンスを持つ自分の言いたい事にぴったりの単語を見つけることがなかなか出来ないのだろうと思います。言葉はその民族の必要性を映しており、ボキャブラリーはその複雑さを映していると思います。

互いの必要と心情を伝えるべく人類の言葉が発生し、その言葉によって醸し出された民族の心に突き動かされて神話が形成されてきたと思います。それぞれの民族の気の済むまでの、言わば専門分野を開拓するように言語はその幅を拡げていったと考えられます。それで神話は言葉の発生と展開の歴史でもあると言えます。最初私達がアフリカの地で人類となった時発していた言葉は、『ア』とか『ウ』とか、そういった音で理解しあえる範囲だったと思います。現在も類人猿たちが相互間に発信する信号音も私達人類の言葉の原型のようなものだと思います。そしてこの基本的な相互理解が現代の複雑な言葉の土台であることは疑いようもありません。その時の『ア』が今では『コ』であるということはあり得ないのです。なぜなら言語による相互理解は受信、認識、発信が一塊として重層的に密接に関係して発達して来たので、それぞれの基本音をもとに逆ピラミッド型に積み重なり組み合わさり絡みあって出来ています。起点を変えると言語脳は機能を喪失してしまう筈です。

百万年以上も前に出現した猿人や原人を経て誕生した私達新人は、前述したようにおよそ十万年前にアフリカの地を出発したといわれています。(参考ブログ記事:民族の形成)そして一万五千年前には全世界に広がって現在の多様な民族の元となりました。これは言語の世界にも言えることで、アフリカの一つのグループ内部で育んだ基本的音素が、全民族の基底音であることは間違いのないことだと思います。もしこれが違っていたら私達は人種の違いがあるのかもしれません。音楽が国境を超えているといわれるのも、音(波動)の共鳴という一種の理解の仕方が人類の脳の基底部にあるからだと思います。この共鳴に関しては動物ばかりでなく植物も、いえ全生命に共通していると思います。私達は地球上に吹く水や大気の力、つまり流れや風の音を聞いて進化してきたのですから。

音素の次に現れた音の組み合わせが言葉や文章ですが、数万年に及ぶ言語の歴史の中でこの組み合わせ方法にはいくつかの区別、つまり法則が出来、現代の文法というものまでたどり着きます。例えば否定詞を否定される言葉の前につけるか後につけるか・・・・これは私達日本語が「・・・でない」と後で否定するやり方であるのに対し英語や中国語が「not・・non・・」「不・非・・」という先に否定する違いです。言わば各民族の癖と云った方がよいかもしれません。好みの音と云うものもあったはずです。あるいは気候上の理由もあったかもしれません。口を開けることは、砂漠や寒冷地では最小限にしたい筈です。こうして子音の多様性も増していきました。言葉の多様性は条件の多様性の証明だと思います。人類が各地に散らばって行った証拠だと思います。そのどこかの段階に旧約聖書で言う『バベルの塔』の事件があるのだと思います。

文字の発明は遅くとも紀元前五千年くらいと言われていて、私達は有史時代を一万年も持っていません。そこにいたるまでの途方もなく長い人類の言語生活は一体どのあたりで様々な民族語に分かれたのでしょうか。神話の類似性はそのヒントにもなると思います。言語の発展史上決定的な出来事『文字の発明』はメソポタミアに住んでいた人々の業績だと言われています。これは五、六千年前だそうです。そしてこれが中国・殷では甲骨文字になったと言われています。独自に発明されたとの説も当然あるでしょうが、私は川崎真治先生の民族移動に伴う文字素あるいは造字原理の移動説を正しいと思っています。

文字は言葉と違って一定程度の文明の成熟が必要ですから、様々な部族民族が各地で成熟してから発展しました。しかし移動前に出来上がっていた基本的音素と言語は世界中の人々に受け継がれたと思います。それでその時までに出来上がっていた簡単な単語、文法の否定と肯定の方法、基本的数詞、感嘆詞(驚いた時、つまり魂消た時)などの基本的要素と単語づくりの法則のようなものも受け継がれたと考えられます(当然民族的な訛りによって変化して伝わっていますが)。そして、どの時点で別れたのかも、当然映していると思います。そして、カタカムナの楢崎先生や宇野先生が仰るように、日本語の単純な音素が世界中の言語に仮名をふることが出来るという、この特殊な事実をもっと解明すべきだろうと思います。

日本の神話や古事記の研究も、歴史の研究も、独自に専門的にやるのではなく、国民的研究事業として広く公開するのがよいと思います。これは私達国民の記憶遺産なのですから、国民の一人一人が相続人なのだと思います。数多くある通説や異説、様々な角度からの推理や検証、こういったものが一つの事実の裏と表とその交錯をいつの日か明らかにするだろうと思います。そして改竄説や捏造説の持つ裁判的態度を捨てて、真実の歴史探求に取り組むべきだと思います。真実とその理由は知ってもよいと思いますが、歴史の流れの末にいる私達が弾劾裁判をしたとしても、善いことは何も生み出さないでしょう。例え改竄され捏造されたとしても私達はその歴史の続きを生きていることを深く心に留めるべきだと思います。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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随想古事記Ⅱ・関連記事便覧

2012-10-17 10:08:32 | 父の背負子1(随想古事記)
今回の記事を読んでいただけて、大変嬉しく思います。下に並べた以前の記事は、今回出版予定時にも参考記事として取り上げたものです。今回の随想古事記でも読んでいただいた方が良いと思われる時にリンクをかけていますが、お読みになりたいものが簡単に取り出せたほうが良いのではと考え、ここに取りまとめ便覧を作りました。


     民族の形成
     五色人の謎Ⅰ
     五色人の謎Ⅱ
     五色人の謎・補


     たたなずく青垣山籠れる     
     足引きのヨモツヒラサカ
     海幸山幸
     聖徳太子
     父の冗談
     今朝のトピック
     棒高跳びの女王イシンバエワ


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