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膵炎術後・・・・・手術の傷

2016-02-20 11:54:42 | manndarage2(膵炎体験記)

昨日半年ぶりの定期検査に行ってきました。検血とエコー検査だけでたいしたことはないのですが、一週間後無罪放免となるよう願っています。『傷痕を目立たなくする!』という目標は残念ながら、達成にはまだほど遠い!!!!!・・・・・幾分赤い畝が少なくなった・・・・・というくらいです。仕方がありません。現実は現実です。期間を延ばしたいと思います。検査技師さんに、『傷も大きいですね・・・・・膵臓の場合は難しいことが多いから・・・・・』と言われて、初めて比較的大きな傷なのだと認識しなおしました。

時代劇で『顔に刀傷のある男』とか・・・・・人相書き(?)が出てきますよね。あれだ!!!傷というものは残るものだ・・・・・と改めて思いました。だけどそこに私の挑戦もある・・・・・なんだか楽しくなってきました。

一番下の妹(13歳違い)が生まれた時、母の産後の手伝いに父が雇ったおばあさん(?)がいました。その人はアメリカ帰りで、何かにつけ「キッチン、キッチン・・・・・ブーツをはいて・・・・」とか、英語交じりの話しぶりで、子供の私達は『アメリカおばちゃん』と呼んでいました。そのおばちゃんとお風呂に入ったとき、お腹に横長い大きな傷があって『お産の時の傷だ』と言っていたのを思い出します。白っぽい薄茶色のような瘢痕で、多分20年以上経った傷だったのではないか・・・・・と思います。子ども心に『ああ、そうなのか・・・・・』くらいの感覚でした。

早くアメリカおばちゃんの傷くらいの、あまり違和感のない傷痕にする・・・・・これが目標です。この傷も私の『マンダラゲ』・・・・・この傷を含めて、色々と変化したことがあります。もう回復してしまったものでは、息を吸い込む時に二段式になったこと。横隔膜の左右の統率がうまくいかなかったのではと想像しました。赤ちゃんがよくしゃっくりするのと似ているのでは・・・・・?????と感じています。これは卒業しました。それから、猫舌ではないのですが、喉の入り口が熱に弱くなって熱いお汁などを飲み込むのがうまくいきません。これはまだ引きずっています。そして何がどうかかわっているのか、人体というものに今更驚いています。


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あれから・・・・・膵炎騒動一年

2015-10-21 15:38:35 | manndarage2(膵炎体験記)

もう一年になります。8月の検査で、「何の問題もない・・・・・が2月にもう一度検査をして、それで終わりにしましょう。」と言われまして、まだ引きずっています。本当は『無罪放免』を公言したかったのですけれど・・・・・。まあ仕方ありません、良いことにしましょう。これも私のマ・ン・ダ・ラ・ゲですから。

実際何の問題もないのですが、その8月の検査でやや動揺?したことがあります・・・・・エコーの検査を受けました。女性の検査技師さんがそれは丁寧に検査してくれました。そのことや検査については何もないのですが、その女性検査技師さんは言いました。

           『傷ですか?このままですよ・・・・・ずっと。』

              え!え?・・・・・このまま??????

 

私には瘢痕化して白くなった傷が二つあります。一つは小学一年生の夏、サンダル履きで走っていた時割れたガラス瓶のかけらで右足の親指の付け根を切った時の傷痕・・・・・父に負ぶわれて病院へ行きました。もう一つは今から約30年前長崎でのこと、ひびが入っているのを知らずにグラスの中にスポンジを入れてぐるりっと回したら、洗い桶が真っ赤になりました。おり悪く日曜日で病院は休日、夫に連れられて近くの産婦人科へ・・・・・手の甲は扱いたくないと渋る先生を説得して縫合してもらいました。今ではどちらも大して目立ちはしません?????と、私は思います。

 

それなのに今回出来たお腹の傷は、新しいせいか赤い畝があって、そうですね・・・・・いわば大きなミミズが這っているような・・・・・時々乾燥するのか、引き裂けるような軽い痛みがあります。だけど、見るたびに気になる・・・・・自分だと思えない・・・・・それなのに、それなのに

         このまま??????・・・・・それはあってはなりません!!!!!

というわけで、これから一年、傷をきれいな瘢痕にしてみせます。自分の一部と思えるような傷を残してみせましょう。楽しみが出来ました。来年うまくいっていたら、どうぞお楽しみに。『あれから・・・・・2』を記事にするつもりです。

コメント (2)
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体験記(6)・それからのマンダラゲ

2015-03-20 10:04:02 | manndarage2(膵炎体験記)

『お腹を縫われた狼』の私は自宅に戻ってきました。入院の経験がおありの方は良くお分かりだと思いますが、退院すると自分の現状に愕然とするものです。入院中は快復してくるにつれ何でも出来るような気がしてきますが、いざ退院してみると体力の無さに気が付きます。私も例外ではありませんでした。30分くらいが連続して立ち仕事をする限界!!!・・・・・立ち居振る舞いもテキパキとは出来ないし・・・・・傷が気になってか、うつ伏せにもなれない・・・・・深呼吸も二段式になっているし・・・・・深く息をすると、途中でつっかえるんです。呼吸が短いのではなく、途中で区切らないと完成しないんです。

夫は気を使って、朝食と昼食と病院でとったり外食にしてくれました・・・・・だけどだけど・・・・・自分の食事の準備も思うに任せませんでした。入院前に冷凍しておいた玄米ご飯・・・・・これをお粥にして食べました。お野菜は『ポカらの宅配』というのがあるんですけれど、それで何とかしのいで・・・・・知人の助けと、平戸の堀江さんと自然食品和みの力とをかりて・・・・・・不足がちの食生活を始めました。ところが、実はそれが病気には何よりの助けなんです。玄米という完全食に青菜と胡麻と味噌(塩)とがあれば(出来たら、海藻と)、他に取り立てて必要はないんです。必要なのは質の良い『不足』という事態です。そうすると体の中のすべてが駆り出されて、不足を埋めることになる・・・・・それが生命力であり治癒力なんだと思います。髄膜腫の体験の時も、決め手は小食でした。必要なものを最低限・・・・・これがカギです。それに玄米ご飯を炊くくらいのことは、病人特有の『億劫さ』を制御しさえすれば(まあ一番はこれが問題で、気力が続かないものですからすべてにやる気なしなんですけれど)、慣れたことで問題ありません。

 

近くにおいしいお蕎麦屋さんがあります。初めてそこに行ったとき、メニューに『鴨南蛮』という項目を見つけました。以前他所で『鴨南蛮』を注文したら鶏肉のおそばが出てきた驚きの経験がありました。それでお店の人に「鴨って書いてあるけれど、鴨ですか?」って聞いたんです。そしたらお店の人から憮然として、「鴨は鴨だ」と言われてしまいました。それ以来そこの『鴨南蛮』を贔屓にしていたんですが、ある日夫のお昼の外食に付き合って私も行ってみることにしました。そして大丈夫かな???・・・・・と思いながら『鴨南蛮』を注文しました。退院するとき膵酵素の補剤ももらってきましたし・・・・・ですが・・・・・何かつっかえたような気分で、食べられませんでした。『まだだ~~~』って思いました。昔から傷に蕎麦は良くないと言われていますよね・・・・・久司先生も大腸を切られたとき、お好きな蕎麦をしばらく控えられたと伺ったことがあります。それに腸管通過障害を考えれば、麺類もパンなどの粉類もよくないに決まっています。今回の身にしみた実験ではありましたが、外食に付き合おうなどという気になっただけでも少しずつ元気になっていると実感もしました。

 

年が明けて1月の末私は東京まで出かけました。平戸の猶興館の同級会が毎年恒例で楽しみにしています。私の体力を心配した娘も飛び入り参加させてもらって、楽しく過ごしました。そのあと吉祥寺で一泊して、例の『うぐいす餅』を買ったというわけです。2月には平戸まで行きました。最初新幹線の3時間半が少しこたえて、それからまた3時間平戸の自宅についた時にはかなりこたえました。それでも色々な用事も無事にこなせました。もともと疲労回復は早いので、あまり疲れたということはありませんでした。今月(3月)内科を受診しました。先生から膵臓の酵素等も含めて全くの正常で、(私の食事事情をお話ししていたからと解釈していますが)『さすがですね』と仰っていただきました。完全に無罪放免とまでは行かず念のため8月に再診をとのことでしたが、それでも十分だと思います。やっと私には自由が与えられました。そしてこれまでマクロビオティックで作ってきた私の体力(生命力)は、この異常事態を完全に(?)克服したと言ってよいと思います。

 『お腹を縫われた狼』には時が経つのが薬でした。昨年中は腹帯をしないと、お腹の石ころがごろごろして???真っ直ぐ立てないような気分でした。そうして家事をこなす量が少しずつ増えていくうちに、今年になって「あ~あ、(あの異様な感覚も)消えていくんだなあ!!!」と感慨深く思いました。以前柿本医院で使っていた妊婦さんの腹帯が妙なところで役に立つんだなあと感心(?)して使っていましたが、それも今では不用になりました。現在は傷のひきつりの痛みとまでは言えないような痛みと見事に(?)残った傷痕がどうなるかというのが、目下の関心事です。痛むと言えば、退院後の外科外来受診で先生に伺いました。手術の傷の痛みというのはかなり長引いて、一年たっても痛む人もいるとか・・・・・まあこの痛み方というのはそれほど大してひどいものではないと思いますが、それよりもドレーンを立てた傷のほうが私には気になります。

 

手術で私の免疫力が落ちているのを気にして、息子は季節がらインフルエンザなどについても心配しています。私はと言えば、これまでインフルエンザに罹ったことがありません。大学時代高校時代にも・・・・・とくに中学時代にも覚えがありません。それで覚えている限り、ワクチンの接種をした覚えもまたありません。マクロビオティックを知ってからは、生物の食の掟なるマクロビオティック論を柱に、何の迷いもありません。生物は食のあるところで生存する(菌ならば増殖する)・・・・・このことに関しては今も疑念の欠片もありません。自分の体をインフルエンザの培地(餌場)にしなければよい・・・・・と100%思っています。実はここ数日鼻がグズグズして、風邪を引いたか???・・・・・声も緩んできているし、それともまさか、花粉症????、と思う事態になりました。手術などで体力が急に落ちると『何でもあり』の状態に陥ります。息子も急性虫垂炎の術後、喘息になってしまったことがあります。体力が回復するにつれ治ってしまいましたが、手術などという大きなひずみを作ると、どこかに何らかの形で異常が現れてきます。今回は花粉症にもならず風邪もよくなり声も元のようになりましたが、しばらくは息子の心配を心にとめて気をつけようと思います。

 夫もまたインフルエンザに罹ったことはありません。若い時はあまりに多忙すぎて(一晩に4~5件の手術で倒れるスタッフもいたと聞きました)、インフルエンザにかかって休暇が取れれば・・・・・と思ったこともあるそうです。今は自分流のマクロビオティック(?)でやっています。その基準は私の考え方とは違うこともある・・・・・・でも「久司先生から聞いた」と主張しています。ともかくもその多忙極まりない若い日はそんな基準は知りませんでしたが、病気一つしたことがありません。頑丈な生命力を父母から受け継いでいます。

 

マクロビオティックは『人間の食事』を提唱してきましたが、その『人間の食事』というマクロビオティックの基準にも、様々なレンジがあり多様性がある・・・・・今日と明日の条件は異なっており、こことあそこの生産条件の違いによる差もあるし、実践する個人の体格や性格の差もある・・・・・つまるところ厳密にはわからない!!!!!その上現在の個人的な体力の差(たとえこれが食事によって培われたとしても!!)もある・・・・・『気』という言葉で表されている生命力にも差がある・・・・・つまり天地の息吹に感応する力に差がある・・・・・というわけで、要するにとどのつまりが、個人の問題なんです。

それでマクロビオティックは『個人で考える生き方』と言ってよいと思います。考え方と基本事項と標準食を教えてもらって、後は個人が考えなければなりません。『考える』というのが問題ですが、『それがそれ』で大事な大事な人生の奥義に行き着く入口だと思います。相似象の宇野先生も行き着く先のものを『ソレとしか言いようのないもの』とおっしゃっていますが、この『ソレ』が少しわかってきたと思えるまでに10年かかったと思います。今も日々『ソレ』とは何かと考え続けて、日々マンダラして今のマンダレゲをつくり、そのマンダラゲが『ソレ』と感応してまたマンダラし、また明日のマンダラゲを生み出す・・・・・これの繰り返しです。その日々の中には、今回の経験のような絶壁を飛び越えるようなマンダラゲもある・・・・・ありがたき仕合せだと、心から思います。

 

今回の記事で一応膵炎・手術騒動の完結編とします。今ではこのブログで中将姫のように、私の『曼荼羅図』という機織りをしているのだと思っています。


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体験記(5)・疑い晴れて退院しました。

2015-03-17 14:20:57 | manndarage2(膵炎体験記)

如何ともしようがない術後1週間を何とか切り抜けましたたが、私にとってまだ問題が残っていました。先生方や看護師さん達から毎日「お通じは?」って聞かれました・・・・・腸管通過障害は開腹手術を受けたもの全員に降りかかる問題なんだそうです。「運動せよ、運動せよ」との看護師さん達の叱咤激励(?)もむなしく、とうとう夕食後下剤を飲む羽目になりました。お粥になった時に玄米がゆをどれほど食べたいと思ったことか・・・・・病院食に『玄米がゆ』の選択肢があったら、この問題も解決策があるのではと強く思います。

なかなか下剤の効果は無いように見えましたが、午後になって物凄い腹痛に襲われました。ちょうど夫がお昼休みに紅茶を持ってきてくれて、その香りにつられて久しぶりに飲みました。そしたらお腹の中で10センチくらいの棒が大腸の中でつっかえているような、こんなこともあるのかというような痛みに襲われたんです。10分くらい痛んで夫を散々心配させた挙句、私の大腸は機能を回復しました。そして最近はたいていの外科で、開腹手術を受けた患者に大建中湯という漢方薬を処方するのだそうです。腸管通過障害の予防だそうですが、私にも出ることになりました。(大建中湯は、今でも夫の指示で飲み続けています。最低一年は飲むようにと言われています。) 

 

夫は入院中毎日やってきました。夫の診療時間は一応午前中と午後4時から6時まで。まあ開業医と同じですから四六時中なのですが、それでもお昼休みと一日の診療後、ほとんど30分も居ないんですけれど、とにかくやってくる・・・・・医師にもいろいろいますが、メスを握るかどうかで大まかに内科系と外科系とに分けられており、産婦人科は外科系に属しています。私の観察から言えば、内科系は『会話説明型』で外科系は『事実(結果)がすべて型』・・・・・産婦人科は平常時両者にまたがっていますが、必要上外科系に傾いており、時として外科系『事実がすべて型』の極端なタイプに陥るんです。最初から救急の患者さんがやってくるのではなく、一瞬で瀕死の急患を抱えることになってしまう・・・・・それで夫のような完璧主義の産婦人科医は常に最悪の準備をすることになります。いつもそのことが頭を去らずイラついている・・・・・人の言うことは聞こえず自分の言いたいことだけを言う(性格にもよると思いますが)・・・・・傍で暮らすものにとってそれは妄想で迷惑かもしれませんが、そうやって患者さん共々夫は何度も九死に一生を得てきました。私の生活はそういう夫の生活の中に埋没して、夫のクッションの役目を果たしてきたと思っています。

それで私の病室に毎日通ってリズムを作っていたんだと思います。見慣れた顔と聞きなれた声での慣れた反応が必要だったのだろうと思います。このことが近くの病院を選んだ大きな要因ですし、それが出来ることを私達は本当にありがたく感じました。来なくてもいいと言う私に来ないかもしれないと言いながら、日課のようにちょっと来ては帰っていきました。段々日が短くなって暗くなるのが心配で、入院生活が早く終わるようにと念じてばかりいました。手術前の外来で「2週間くらいで帰ることが出来るでしょうか?」とお尋ねしたところ、最低でも3週間と言われました。「経過によっては2,3か月・・・・・」とも言われました。真冬の寒い時でなくてよかったと思いました。

 

術後10日目の日曜日、久しぶりに駅伝を見ました。何だか以前の生活を取り戻したような感じがして、とてもうれしかったのを覚えています。この頃にはずいぶん体も軽くなってきましたが、お腹の異常さ・・・・・そうですね、『七ひきの子ヤギ』という童話をご存知ですか。あの狼がお母さんヤギと子ヤギ達に、お腹に石を詰められて縫い合わされるでしょう。『あの狼と同じ気分では?????』と、自分で思いました。重たくて前にお腹が落っこちるような・・・・・それで前屈みがちになるし、腹帯でお腹を抑えていないと動くのが不安でした。この頃聞いた衝撃的な話・・・・・手術を受ける高齢者が多いので看護師さんに聞きました。「かなりの痛みにみんな耐えているのよね?」と。そしたら答えはなんと、「高齢者ほど鈍感になって、あまり痛まないらしい」・・・・?????ホント?????そうなんですか?????

『お腹を縫われた狼』の気分になってしまった私は、今回失ってしまったお腹の力について考えさせられました。お腹の力については昔から『臍下丹田に力を・・・・』と言ってきました。久司先生の『パームヒーリング』や『導引』を翻訳した時にも、『気海』と呼ぶ気力の貯蔵所が出てきました。要するにお腹の力というものが、私というまとまりを維持する力というべきか、そもそも私というものに纏まる力というべきか、それで私の出す力の当座預金のようなものであることを強く実感しました。それで気力をためなければ・・・・・と、気力発生の行に努めることにしました。

』というものについては賛否両論あると思いますが、誰でも気力が無くなったり湧いてきたり・・・・・沈んでみたり浮き浮きして来たり、どうしてだとお思いですか?????何がどう違って、同じ体でそうなるんですか?????・・・・・そういうわけで、私は気力を再びお腹に封じ込めなければ・・・・・と思いまして、私なりの行に励むことにしました。何とかこの『お腹を縫われた狼』の気分から抜け出したい・・・・・これが抜けるまで私は所謂ところの『病人』だと思いました。病人とは病気の人という意味ですから、気が病んでいるんです!!!!!気が病むということは、気の不足という意味だと思います。

そして一番大切な実感は、『気力発生』というか、『気力増幅』というか、そういったものは外部との『感応力』によるというものでした。そしてこれが『生命力』というものだと実感しました。生命力の回復・・・・・これが病気の治癒であり気力の充実であり、お腹の中から私の腹壁を引き込む力・・・・・『お腹を縫われた狼』からの解放だろうと実感しました。

 

月曜日朝一番で血液検査の採血がありました。この結果で退院の予定が決まるんです。膵臓の病理検査の結果もそろそろ出ます・・・・・そして、私は無罪放免となりました。『膵臓癌ではなかった』んです。(よりによって4センチ大の)嚢胞が出来ていて爆弾を抱えているようなものでしたから、まあよかったんだと思います。何より夫は『抗癌治療をしなくてよい』というお墨付きを喜んだようです。何しろ疑われたのが、膵臓癌でしたから。そして膵臓の切除術の半分は膵液が漏れたりするとか・・・・・何かと合併症の問題が多いらしいのです。それも全くありませんでした。10月末の2週間目に晴れて退院しました。希望通りたった二週間で退院しました。夫は驚異的な回復だと、私のマクロビオティックを評価してくれました。病気を発現はしたけれど、医学的処置を受けて、その後驚異的(?)に回復しました。これは食生活のたまものだと信じています。そして私は何物にも代え難い経験をしました。この世のおかげ様に感謝の気持ちでいっぱいです。

 


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体験記(4)・手術と術後

2015-03-12 11:51:28 | manndarage2(膵炎体験記)

手術は無事終わりました。『乗り越えたんだなあ~~~』と生きていることを実感しました。日常生活だって何があるかわかりませんが、手術となると事故の危険性が格段に増します・・・・・麻酔で事故が起こるかもしれません・・・・・手術中に何か予期せぬ事態になるかもしれません・・・・・意識がないときに自分が何一つ判断できないうちに、死んでしまうことだって当然あります。99%大丈夫でも、1%が当たるかもしれません。意識を取り戻して最初の激痛の嵐が通り過ぎて、考えることが出来るようになりました。

そして・・・・・自分がどうなっているのか・・・・・分かり始めました。点滴がつないであります。ドレーンがたっています。動くこともできないし尿量も測らなければならないので、導尿も・・・・・体を起こすことは無論、まずもって身動きが出来ませんでした。寝かされている・・・・・という感じで気がついて初めての1日は過ぎました。外科の先生は暇を見つけては病室をのぞいて行かれるのですが、『手がこわばったりしませんか?』と尋ねられました。そう言われてやっと自分の手を眺める気が起こるというような状態でしたが、自分の手の異常にも初めて気が付きました。術中の失血で爪の先までちょっと浮腫んで真っ白け・・・・・ちょうどホワイトアスパラガスのようになっていました。その時になって自分はどんな表情をしているのだろうか・・・・・、まさか?????他人から見れば最悪が歴然としている状態で何の根拠もない希望だけが残っているような?????・・・・・でもそれほど感覚的には悪くない・・・・・自分の全身をスキャンするように意識を巡らせて、やっと私は自分を取り戻したような気がしました。

 

手術直後の回復室から戻った病室はナースステーションのすぐ近く、3時間おきに検温やドレーンなどを調べに、夜中も懐中電灯片手に看護師さんがやってくる・・・・・何かと忙しい外科病棟の騒々しさが、寝たきりの自分の中の区切りのようにうれしい・・・・・背中の麻酔のおかげで痛みから解放されちょっと落ち着いてみると、自由はきかず何もできないので何もすることがない・・・・・だけど寝たきりの体はだるくなる・・・・・それで身を動かそうとしても、お腹に力が入れられない、というか入らない・・・・・仕方なく看護師さんから教えられたように、電動ベッド(このおかげで、術後の病人は助かります)を立てて横を向き、腕を立てて身を動かし体位を変えます。そんなことすら自力だけでは出来ないんです。だけどただただ体がだる痛いので、しょっちゅう体の向きを変えたくなる・・・・・それで電動ベッドに頼りきりになって、何度も繰り返し身を起こしました。多分頭をベッドにくっつけたままだったからだと思いますけれど、頭がクラクラしてきました。体力が消耗していると、たったこれだけのことで平衡感覚がおかしくなってしまう・・・・・それで電動ベッドの力を借りるのは、初動の頭を少しだけ起こすことだけにしました。まあそれが一日の仕事で、忙しく働く看護師さん達が立てる音を聞いている一日でした。

術後3日目、体調も順調に回復していると判断されたのだと思いますが、ナースステーション直近の病室から少し離れた静かな病室へ移りました。それ以降、自分で『蟹足』とニックネームをつけて呼んでいたドレーンの液もだいぶ色が薄くなって血液も少なくなり、重湯の許可が下りて食事という一日にメリハリをつける区切りの仕事が出来ました。だけれども、内科の入院の時とは違って気力がない・・・・・本を読む気にもなれないし、テレビを見る気にもなれない・・・・・何から何まで看護師さん達の世話になって・・・・・何となく眠くなっては眠り、体がだるくなれば何とか身を動かし・・・・・そうしているうちに、長い長い夜を迎える羽目になろうとは・・・・・・

入院して寝るだけの病人に昼と夜との差はあまりない・・・・・だけど病院という仕事を持った場所には当然昼と夜とがある・・・・・だから面会時間も8時までで9時には消灯となる・・・・・手術で消耗しきっていた最初の数日間は、昼も眠り夜も眠ることができます。だけど良くなるにつれそんなには眠れなくなります。夜9時に看護師さんに灯りを消してもらって眠りにつき、「もうだいぶ寝たなあ、何時ごろだろう?」と思って時計を見ても、まだ0時前・・・・・「え???、まだ???」・・・・・それを繰り返していると、ついには30分しか経ってない・・・・・朝が待ち遠しくて待ち遠しくてたまらなくなります。朝の白み始めたのがわかるようにと、消灯の時にカーテンを開けたままにしてもらうことにしました。雀がチュンチュン言っている・・・・・朝が来るのがこんなに嬉しいのか・・・・・涙ながらに『朝だ朝だよ・・・・・』とつい歌ってしまいました。6時ごろ始まる看護師さん達がカートを押すガチャガチャという音も嬉しくてたまりません。

朝だ朝だよ、朝日が昇る。空に真っ赤な日が昇る。みんな元気で元気で起きよ。朝は心もからりと晴れる。あなたも私も、君らも僕も。一人残らず 起きよ、朝だ。

これほど朝の喜びが心にしみる歌は無いような気がします。はるか昔に小学校で習った歌が、自然に心の底から湧いてきました。朝起きて仕事が始まる・・・・・こんな日常がどんなに嬉しいことなのか、心の底から再確認しました。生きているものは、朝起きだすものなんです。

5日目には傷の痛みはあまりないけれど、ドレーンの痛み、硬膜外麻酔のチューブがどこかに触っているのか背中の痛み、点滴の針が血管壁に触っているのか時々感じる不快な痛み・・・・・それらもまじり合ってますます眠れなくなりました。眠れないので余計痛みを感じたのだろうと思います。辛いやら悲しいやら・・・・・『ヒフミヨイ』のウタを唱え続けました。外が白みかけて『朝だ朝だよ』の歌に自然に切り替わるまで、何十回も『カタカムナ』の第1首から第6首まで・・・・・私はここでも大切な経験をさせていただきました。『読書百遍、意おのづから通ず』・・・・・そうですよね、言葉とは振動であり、その振動の響き方を人間が聞き分けて音を区別し、その音の組み合わせが言葉となったんですから・・・・・響き方の認識が意味なのですから・・・・・新しい境地が目の前に開けたような気がしています。(『ヒレフリ山』教室が楽しみです。)これを知るためにこんな目に遭ったんだとしたら、私はどんなにか感謝しても足りません。私の『マンダラ』で『マンダラゲ』です。この眠れない夜は、私にとって人生の貴重な夜となりました。

背中の硬麻のチューブとドレーン1本、それに導尿管が外れました。ですが看護師さんに尿量測定という仕事をもらいました。ちょっと運動量が増えて、大腸にも良いのでは・・・・・と期待しました。意識を取り戻して以来、毎日外科の先生方にも看護師さん達にも毎日「ガスは?お通じは??」と聞かれました。手術前日下剤をかけられ眠れない夜を過ごしました。お腹の中は空っぽになって、手術を受け、点滴から重湯になりお粥になり・・・・・だけど大して食べてはいません。麻酔で腸の運動も抑えられてしまうので、麻酔時間が長いほど癒着の可能性が高まるのだとか・・・・・・腸管そのものを切ってはいないのでだいぶ楽なのですが、それでも手術後の腸管通過障害は大問題なのだそうです。毎日看護師さんから、『歩いて!!!』と発破をかけられました。少し自由になったこの日、ここ数日の不眠騒動でかなりクラクラ状態の私は、明日のCT検査に備えて睡眠剤のようなものを出していただきました。翌朝5時前に目が覚めるまでおかげでぐっすり眠りました。

ドレーンの漏れがあったり液の白濁があったりしましたが、尿量測定も必要なし、血液検査もCTも問題なし・・・・・で1週間目には抜糸・抜管となりました。晴れて全部取れ、完全に自由!!!!!体につながっている管は全部無くなって動きやすくなりました。平戸の自然食品和みの堀江社長がのぞきに来てくれました。こんな不便なところに、40分の暇しか無いのにわざわざ寄ってくれました。でも異常な姿を見せずに済んで、ホッとしました。この日の夕食の献立は、『アユの塩焼き』・・・・・なんという巡り合せか、偶然のお祝い膳となりました。病院の入院食は、かなり悲しいサーカス的(突飛)なお献立で、驚くばかりでした。でもこの日は和食という統一テーマに沿った、心休まるお献立でした。嬉しくて全部いただきました。術後1週間はこうやって(手術というものはわかっていましたが)、『術後』という思いもしない経験をしました。そして患者にとってこちらの方がどれだけ大変なものだろうと、つくづく実感しました。

 


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馬子にも衣裳

2015-03-02 11:46:45 | manndarage2(膵炎体験記)

目下手術体験記の継続中ですが、手術台の上で『馬子にも衣裳』という事態を実感したと書きました。『どんな者もそれなりの身なりを整えればそれらしく見える』ということだと、これまで一般的に特に注意することもなく解釈してきました。それで何の問題もありませんでした。だけど今回『体』という塊りとして手術台に身を横たえることになり、なんというか、凄まじいまでの現実を思い知ったという気がしています。

手術台の上の意識を失った私は、『手術の対象物』としてのみそこに存在していたと思います。またそれでなければ、外科の手術はできないと思います。それが『手術中』というものだろうと思います。周囲の外科医も麻酔科医も、看護師さん達も・・・・・みんな手術場の秩序の中にいて、つまりお役目があってその立場を表す出で立ちをして・・・・・・私だけがお役目と衣装を持たなかったのです。

 

衣裳は存在の『在り様』だったんです。昔から『衣・食・住』と言いますよね。この順番は、人間社会の『掟』なんだろうと思い知りました。動物であれば『食・食・食』なんだろうと思います。最後の食は『生息地』に変えてもかまいませんが、『衣・食・住』の『住』ではありません。社会とは秩序の別名であり、人間は進化の先に『社会』を生み出し、社会あっての人間だろうと思います。人間は『食』のみがあっても生きることはできないんだろうと思います。

 

私たちの先祖は『分を知る』という言葉で、自分の立ち位置とお役目を知って来たのだと思います。そしてそれなりの品位というか分に適った衣装を身に着けてきた・・・・・・あまり衣装に興味を持たなかった私ですが、自分の『衣』というものに改めて注意を払おうと深く感じています。現代社会は、何を着てもいい自由な社会かもしれませんが、衣服は案外人間というものの深層心理に無意識に働きかけているような気がします。不愉快な話ですが、以前外国の男性が言っていると聞いたことがあります。「日本の若い娘の多くは娼婦に見える」・・・・・社会や服飾業界が風潮や衣装を誘導(宣伝広告)する側面が大きいと思いますから、どうぞ日本の若い娘たちの品位を損ねるようなものは作り出さないでください。

 


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体験記(3)・ 手術を決心しました。

2015-02-28 11:01:55 | manndarage2(膵炎体験記)

手術という『自分の体を切る』という事態に直面して、全然知らない外科の先生に自分を委ねてしまうのか・・・・・という不安に駆られました。だけどよく考えてみると、友達付き合いをしているとしても、外科医の腕は知らないこともある・・・・・有名な先生がよいかといえばそうでもないこともある・・・・・どちらにしろ、よく知らない・・・・・し、知ることもできません。私の場合は幸い良い内科の先生にめぐり合い、先生の判断を信頼することが出来ました。それに自宅からも主人の勤務先からも近いところに県立病院はありました。ある意味運命としか言いようのないことなのではないかと思います。それに、夫や息子は他人様にそうしているではないか、自分も手術を受けよう、そう思い決めて手術の決心をしました。決心をしたらしたで、万が一の事故に備えなければなりません。多少の書き物などをして、手術予定の二日前入院の日を迎えました。

 

入院のための外来受診をして、最後の画像検査と口腔外科のチェックを受けることになりました。口腔内の細菌が手術結果に影響を与えるらしいとのことで、最近は術前検査に組み込まれているのだそうです。電動歯ブラシのおかげか、何の異常もありませんでした。病室に落ち着いて、手術までの予定などを聞きました。『もう止められない・・・・・』とちょっと揺れることもありましたが、『ケ・セ・ラ・セ・ラ』とも思って予定通りこなしました。娘が手術前後の付き添いにきてくれました。手術直後の事態を想像できませんでしたから、その娘の付き添いがどんなにありがたいものか、手術前は思いもよりませんでした。夫が一人暮らしをする自宅の面倒を見てもらえるのがありがたいというのは、前回の入院で良く分かっていました。

手術当日となりました。午前中術後のための硬膜外麻酔のチューブを入れられて、確認のためのレントゲン写真を撮りました。その後看護士さんのお迎えが来て、主人と娘と前日から来ていた息子に付き添われて手術室前まで行きました。手術室前で病棟の看護士さんから手術室の看護士さんに引き渡され(?)て、何となく逮捕されたような異様な気分で手術室に向かいました。主人と息子は日々慣れている局面なので(まあ立場は違っていますが)それほどでもないと思いますが、娘がどんな気持ちだったろうかと思います。息子が小さい頃虫垂炎の手術を受けることになったことがあります。同じような場面で、夫は外科の先生と一緒に手術室に入っていきました。私は手術室の入り口で制御されて、ドアが閉ざされました。あの時の口惜しさが入り混じった辛さをよく覚えています。それに私は娘に、あろうことか、『さよなら』と言ったんだそうです・・・・・!!!!!

手術台まで連れてこられて、私は本当に身一つで台に横になりました。麻酔をかけられるほんの短い間に、「馬子にも衣裳とはこのことだ」と実感したのを覚えています。手術台に乗っているのは私という意識ではなく私の体という『もの』だと思いました。・・・・・・後はもう、翌日の朝まで、何時だったのか、8時は過ぎていたように思いますが、何にも覚えてはいません。手術が長引いて予定より遅れ、『覚醒して確認してから行くよ・・・・・』と話していた息子は仕事に戻らなければならず、どんなにか気がかりだったろうかと思います。そして夫と娘の呼びかけにうなづいたのだそうですが、私は何一つ覚えておらず、一番辛いかもしれない当日の夜を何にも知りませんでした。夫と娘は、切除部分を見せてもらって手術の説明を受けたそうです。出血はしたが、輸血はしなかったと言われた外科の先生のお話しで安心したと後で聞きました。覚醒しない私に娘は帰るに帰れない気持ちだったそうですが、夫からどういう状態なのか教えられ大丈夫と言い聞かされてしぶしぶ帰ったんだそうです。

 

明くる朝「柿本さん」と呼び掛けられる声に気付いて目を覚ました時、手術が終わったことはわかりましたが、自分がどうなっているのか呑み込めませんでした。チューブがたくさんあるのが見えました。麻酔科の先生が来られて、気道がどうとかでその先生が担当してくださったとか・・・・・、今から鼻に通したチューブを抜くとか・・・・・、これも訳が分からないまま過ぎました。そして看護士さんから娘が来ていること、外科の病棟に戻ることなどを教えられて、これまた夢現、担架台に移されて駆け足のような速さで(と感じましたが)病室に戻りました。

このスピードが功を奏したのか、私はすっかり覚醒しました。そしたらものすごい痛みが襲ってきました。どこが痛いのかわからない、我慢できない苦しさ・・・・・悲鳴を上げそうな気持ちになっていたら、看護士さんが見つけて先生に注進、痛み止めを筋注されて落ち着きました。その後回ってこられた先生に、「あれがまた来るかと思うと恐ろしい・・・・・」とお話ししたところ、不審がって背中の麻酔剤の量をあげて下さいました。後で息子(麻酔科なんですが)に聞いたところによると、背中の麻酔は術後の痛み止めなんだそうです。多分私は手術の麻酔が効きすぎて翌朝まで覚醒しなかったくらいですから、背中の麻酔剤の量を抑えてあったんだと思います。それで一変に覚醒して、一変に痛みが襲ったのだと思っています。

 

そういうわけで私の手術は成功しましたが、私は思ってもみなかった『術後』を体験することになりました。これからのことはまた『続き』にしたいと思います。


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体験記(2)・ 膵臓癌?????

2015-02-23 14:25:42 | manndarage2(膵炎体験記)

急性膵炎が本当に急性だったためか沈静化も早く(?)痛みもすっかりなくなりました。次の週には各種の検査、造影剤を使ったMRI、内視鏡的胃カメラ(CTスキャン?)に内視鏡的逆行性膵胆管造影検査・・・・・を受けました。検査開始の前に私と主人は内科の先生から初期の膵臓癌を疑っているとのお話を聞きました。原因の三分の一は食事やタバコやアルコールなど、三分の一が胆石、後の三分の一は不明であることなどを教えていただきました。

検査に当たっての説明を受けながら、膵臓というのは検査という点からも治療という点からも、かなり厄介な位置にあるらしい・・・・・ということを知りました。膵臓・・・というと『糖尿病』というのが一般的だと思いますが、まあ言わばそれは血液病というか内分泌病(?)、血液検査で分かります。だけど画像診断となると、胃や腸の後ろにあったり背骨や腎臓の向う側にあったり・・・・・生検をするにしても同じ理由でサンプルを取りにくい・・・・・万が一癌で癌細胞をこぼしてしまったら、とりかえしがつかない・・・・・それに加えて、膵液というものの性質もある。どうやら、膵臓は病気になってはいけないところらしい・・・・・

内視鏡的検査は軽い麻酔(?)をかけて行われるので、体への負担は別にして感覚的にはそれほど苦しいこともありませんでした。だけど、麻酔が覚めかけたのか周りの気配を感じ始めたころ、先生の声が聞こえてきました。どうやら外科の先生と手術の予定の相談のような・・・・・誰の相談なんだろう????・・・・・とぼんやり聞こえてくる声を聞いていました。最近は電子カルテなので、映像をかなりすぐに見ることができます。内科の先生から主人も共に説明をとのことで、私と主人は最終的な詳しい説明を聞きました。癌の可能性が濃厚であること、それも初期の初期段階で偶然膵炎を起こしたから発見したようなものであること、膵臓癌の確定は難しいこと・・・・・・いずれにしても早く手術をするのが良いので手術の予約をしておいたので考えてほしい・・・・・・といった内容でした。どうやら先生が検査室から電話なさっていたのは、私のことだったようです。主人は医者ですから入院直後の説明で大方分かっていたとは思いますが、私と違ってこの事態とその重大さとを医学的に理解したと思います。

私の方はと言えば、「へえ~~~、やっぱり本当なのか?????」、といった感想のほうが大きくて、「手術を受けるまでにどれくらい時間的余裕がありますか?半年くらいあるでしょうか?」とお尋ねしました。半年あれば、また食事規制をして・・・・・と髄膜腫の経験を思い出していました。ところが先生は「それは無理です。」とお答えになったのです。そして「一番早い予約で、来月の半ばころの手術予定を入れておきました。」と言われました。「やめるのは自由なので・・・・・よく考えて」とも付け加えてくださいました。

急性膵炎も治まり入院しての検査も大体終わったので、退院の許可が下りました。内科の先生は毎日必ず様子を見たり検査の結果を知らせたりと話しに来てくださるのですが、私のどうでもよいような不安にも誠実に答えてくださいました。この先生との信頼関係が、後に手術の決断をすることになる一つの要因だったことは間違いありません。手術の予定までに外科からの検査依頼があって通院予定が組まれましたが、一応私は15日間の入院生活を終えて帰宅しました。

 

残された時間は一月しかありません。その間に決心しなければなりません。子供たちにも最初は隠していたのですが途中で露見してしまったので、意見を聞くことができました。中でも医者である主人と息子は悲壮な決意をしたと思います。膵臓癌というものはそれほど見つかりにくく、見つかっても手遅れの場合が多い・・・・・アイパッドのジョブズ氏も膵臓癌が見つかって、医学的に処置ができそうにもない段階でマクロビオティックを最終的に選んだのだとか・・・・・残念ながら亡くなっています。後に分かったことですが、まさか久司先生までも・・・・・・とにもかくにもほとんど手遅れで、予後が悪い・・・・・ですが腫瘍マーカーもそれほど爆発的ではなく、多分膵頭部を切らなくてよい(開腹後の状況判断ではわからない、とのことでしたが)・・・・・しかし待ってはいられないということで、一月間のマクロビオティック的努力にすべてを託して、後はもう運を天に任せる以外にないと思いました。主人が落ち着いたら公表してもよいと言ってくれたことも励みになりました。

娘にバレてしまった時のことをよく覚えています。いつも主人が居ないことは職業がらありうることですし、これまでもいつものことでしたのでよかったのですが、なんともはや、電話中に入院病棟のチャイムが鳴り面会時間終了のお知らせが・・・・・・『何?』と訝しがる娘に『テレビよ・・・・』と胡麻化したものの、どうしてもこのところおかしいと思っていた娘は父親に電話しました。そして主人は子供たちにすべてを知らせました。

外科の先生方は手術の前にあらゆる情報を集められるらしく(そりゃあ、そうでしょうと思います。)、ペット検査を受けました。よほど特殊な検査なんだなあと実感しました。何しろ地下にあってかなり隔絶された感じです。放射能のせいで時間がたたないと外にも出られないんです。検査の内容は置きまして、そこで出会った人との会話を忘れることはないと思います。私より10も年上ではないと思いました。彼女は初めてだという私に、『もう3回目よ』と話してくれました。癌の化学療法も3回目を受けることになっているということでした。名前も知らない間柄でしたが、互いの身の上を親しみ思いやって短い話をしました。彼女は『もういいかなあって思うんだけど、人間はなかなか死なないよ』との言葉を残しました。私に頑張れと言ってくれたのだと思います。

こういう人たちとも会える・・・・・そこに付き添っている家族の思いにも触れることが出来たような気がしました。これも手術を受けてみるのも悪くない・・・・・と思ったきっかけにもなりました。マクロビオティックを知らないたくさんの人々が生きている・・・・・マクロビオティックの私が手術を受けたらどうなるのか・・・・・どちらかしか選択が出来ない人生で、どちらに転ぼうが後悔は決してするまいと思いました。

医者の主人も息子も手術希望でした。私はというとぎりぎりまで決断がつきかねていました。そんななかも検査や外科の外来受診、口腔外科受診・・・・と日程はあっという間に過ぎて、いよいよという時にもう一度最後と思って外科の先生に面談を申し込みました。「やめてもいいですか・・・・・」、先生は慌てられたと思います。『マーカーもわずかではあるが上がってきてますし・・・・・』と心配して『膵癌はデータがそろっては遅いんです』とおっしゃいました。そして『もしどうしてもという場合には、なるべく早く連絡してください』と言ってくださいました。

要するに、どちらとも状況で決断することは出来ないのだということがわかりました。手術をしなかったら、うまくすれば、このままひどいことにはならずに小康状態で生涯を終えることができるかもしれない。だけど最悪の場合は、あの時手術をしなかったから・・・・と私はいいかもしれないが、夫や子供たちは後悔するに違いない・・・・・最悪でなくとも、急性膵炎の痛みがまた起こるかもしれない・・・・・そして夫と子供たち(家族)にまあ迷惑をかけることになる。一人だと強がってみても、結局家族との関係なしには生きることが出来ません。病人には看護人が必要なんです。ペット診断の検査室で出会った彼女も他の患者さんもみな家族連れでした。ご家族との関わり合いを強く感じました・・・・・消化酵素を出す膵臓の腫瘍なんて何でできているのだろう・・・・・そしてたとえ手術がうまくいっても、予期せぬ出来事に見舞われるかもしれない・・・・・結局はどちらかに無理やり舵を切るしかないのだと分かりました。

退院後の血液検査のデータも画像検査も改善は見られません。私は手術を受けようと決心しました。どちらか一つだけしかない選択に良いことも悪いこともあるだろう、もう一つの選択にも同じだろう・・・・・だけど、それは比べることが出来ません。もう一つは無いのですから・・・・・・。最低条件として最も身近に居てどんなことになっても受け入れざるを得ない家族の後悔を最小にしなければと思いました。良いことも悪いことも、経験した後の自分を自分として、振り返ろうと決心しました。もう覚悟を決めて迷わないことにしました。マクロビオティックにも思い込みもあるし事故もある!!!!!膵炎にもなってしまったではないか!!!!!これがその時の心境でした。そしていよいよ手術のための入院・・・・・長くなりすぎますからこれは体験記(3)に回そうと思います。

 

 


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体験記(1)・急性膵炎になりました!

2015-02-15 12:08:39 | manndarage2(膵炎体験記)

昨年9月初めのことです。思いがけぬ痛みに襲われました。『思いがけぬ』というのは、まず自分が痛みに襲われることへの戸惑い、そしてどこが痛いのかはっきりと自分でわからないこと、今まで痛みに強いと思ってきた自分にとってその痛みが今後自制内に納められるか、と言うより、抑えられなくなるかもしれないと先行きに不安を感じたこと・・・・・足を一歩踏み出すという当たり前の普通の動きで、これまで感じたこともない踏み込みの衝撃(?)で、たったそれだけのことで痛みを感じたんです!!!!!

 

最初のうちは笑ったり咳き込んだり、などといったようなことで何となく痛かったので、どういうわけか筋肉痛???と思いました。そもそもそんなことになったのは、60歳を過ぎての『親知らず』・・・・・歯が生えてきたり大臼歯に近づいて来たり・・・・・歯肉の状況がアンバランスになって軽い歯肉炎状態(?)・・・・・それで電動歯ブラシを試してみることにしました。(これについては和みさん製の『ハーモナイザー』のおかげでうまくいったことを記事にしました。)でもそれが、その良くなったことが(後で思い返してみると、ですが。・・・・・歯の根にたまった化膿性のものが押し出されて副鼻腔から気管支に落ちたんだと思います。)、咳の原因だったんです。咳き込むと同時に痰も出ました。「何でだろう???」とは思いましたが、ひどく咳き込むために痛いんだろうと納得もしたんです。でもそのうち「これは~?」と内心不安を覚えるようになり、「こりゃあ、痛み止めをのまないと普通に家事が出来ない・・・・・」と、自分に何が起こっているのか知る必要があるので、土・日を経過観察(たまたま?)して月曜日に内科を受診することにしました。

 

土・日を通じて残念ながら痛みは軽減することなく、みぞおちから左側一番下の肋骨に沿っての痛みを訴えて内科を受診しました。診察台に横になるのもなかなかの状況でしたが、CTやらなにやら・・・・・いろいろな検査を受けて診察の結果、『膵炎のようなのでこのまま県立病院を受診してください』と言われました。『今からすぐにですか?』と戸惑う私が足を踏み出せないでいると、『痛みますか?そうでしょうね』と気の毒そうに痛み止めの頓服を処方されて県立病院に向かいました。

県立病院の内科でとりあえずの緊急の診察の結果は何と『急性膵炎で即入院!!!』・・・・・え、このまま!?!?!?・・・・・このころ午前中の診察を終えた主人が県立病院にきてくれました。入院手続きを済ませた後、何の準備もなかったので2時間ばかり自宅に戻る許可をもらいました。慌ただしく簡単な入院準備を調えて病室に戻りました。何よりも幸いなことは、県立病院が自宅からも主人の勤務先からも近かったことです。それでとりあえず、今晩必要なものだけ・・・・・私も主人も、思いもよらぬことばかりでした。

 

思いもよらぬこととは言いながら、『万が一かかることもありなん』と内心思うところがあった私は、日曜日にヘアーカットに行きました。美容室は歩いて3分もかからないところにあるのですが、主人が車で連れて行ってやろうかと提案してくれたので、私は主人に車で送ってもらい迎えに来てもらいました。どうやらあの提案は主人の問診だったようで、『まさか???そんなに痛いのか???』と思ったそうです。

 

急性膵炎の治療は、絶食なんだそうです。血液検査と点滴だけの入院生活が始まりました。5日目に何とか『重湯』を食べられるようになりました。三分がゆ、五分がゆと順調に食べられるようになり、血液検査結果も落ち着いてきて、一週間目に内視鏡等の検査が始まることになりました。急性膵炎が落ち着かないと検査はできなかったんです。本当のところ内科の先生は当初から膵臓癌を疑っていたらしいのです。それで急いで急性膵炎の治療をする必要があったらしいのです。

絶食!!!・・・・・これはまあ、マクロビオティックの徒にとっては幸運でした。色々悩まずに済みます。でも最近は入院する時に調査があって、患者の嗜好や考え方に配慮してくれるらしい・・・・・それでいろいろ自分の希望を書きました。でもとりあえずは『!・!』・・・・・これはいいのですが、何にもすることがありません。入院生活にとって、食事は大切な区切りだし、入院患者の仕事だと思いました。本を読むことにはしましたが、何となく身がいらない・・・・・それでどうでもいいような本を読むことに・・・・・

重湯になりました!!!!!このときの嬉しさとおいしさは忘れません。食べるということの幸せを感じました。絶食しているときも、断食ではありませんから、点滴などで空腹感はあまりないんです。だけど『口で食べ、お腹を落ち着かせる』というもっとも本能的な行為の意味を感じました。だけど、です。だけど、二度目の重湯は美味しくありませんでした。「あ~~、玄米の重湯だったらなあ~~~~!!!!!」「せめて器でもなんとかならないかなあ~~~???」そうこうしているうちに、お粥になり、普通の膵臓食になり・・・・・ましたが、やや悲しい食事でした。まあ膵臓食は、低脂肪・低たんぱくで、油の質やお肉にあまり悩まされないのだけでも、良しとすべきでしょう・・・・・と、思い返し思い返しいただきました。

 

長くなりますから、この続きは体験記(2)とします。でもこの状況は、私の『マンダラゲ』・・・・・わけがあってのことだろうと思います。それで新しいカテゴリー・manndarageを作り今回の体験談用にしました。(日本語の発音を思って、nを重ねました。)


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