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60年ぶりの築城

2023-11-12 15:24:39 | 父の懐

築城に行きました。中学三年の12月で、私は猶興館に入学するために祖父母と暮らすことになって平戸に帰省しました。父の東京転勤が決まっていたからです。その時以来実に60年・・・・・記憶の中では大きかった築城ですが、離れてもう60年も経っていたのですね。私にはどうしても確かめたい地が三つありました。一つは以前記事にしたかと思いますが、下関市吉田町。今回の築城町。そして残るは、静岡県浜松市鴨江町。宮城県の矢本は、大学生になった時の父の勤務地となり確かめることが出来たので、あまり心残りは感じません。ただあの大地震の時の映像が焼き付いています。

猶興館の私達の学年は仲が良いのか、東京と大阪で各一回、年に二回も同窓会があります。私も60歳を過ぎたころから参加させてもらうようになりました。平戸に戻ったころからは、大阪の会に行っています。昔の記憶の探訪は、大阪からの帰途の寄り道です。今回も小倉で新幹線を降りました。きれいな駅になっていました。私の知っている小倉や門司は、何しろコレラ騒動の時代です。バナナのたたき売り。福岡県が募集したコレラ撲滅のポスターに入選したこともあります。駅ビルで、高田屋でしたか、美味しいゴマそばをいただきました。ゴマそばって、福岡の裁判所の近くの『そば切りかんべえ』という美味しいお蕎麦屋さんで初めて食べさせてもらいましたが、難しいらしいのです。そこのご主人とおそばを思い出しながら、いただきました。

 

そして始めに日豊本線で宇島(うのしま)まで行きました。宇島は官舎の空きがなかったために、家を借りたところです。九電の宇島発電所があって栄えていました。駅を降りて交番で道を尋ねて、先ず『八屋小学校』を目指しました。道々確かめながらやっとたどり着きました。記憶も少なく面影はなく、周囲の状況もがらりと変わっています。今月に入って1、2、3日と暑い日続きです。やや冬支度の私は汗をかくほどです。それでも八屋小学校に何とかたどり着き、小学校の先生にいろいろうかがって、昔の通学路と思われるところを辿りました。通学路が一番記憶に残った頼りの綱です。道々行き会う方々にお尋ねしながら、ここら辺に消防署があったのでは???・・・・・昔お店が並んでいた十字路に来て、記憶が鮮明になり、お魚屋さんの看板も残っていました。公民館があって、三差路があり石屋さんがあったはず・・・・・外科の病院も・・・・・?????それから先は、住宅街に代わっていて、それらしき九電社宅跡の丘は住宅街に変わっており、そこの坂を上って行った先にため池があったはずのところも・・・・・昔ヒシの実をとってゆでて食べました。弟の釣りに付き合って、ミミズをつけるのが嫌でそのまま垂れていたら、鮒がかかりましたっけ!!!お祭りがあったお寺だかお宮だかの鬱蒼とした森も、みんな住宅地になっていました。暑くて喉は乾くは・・・・・お店もない・・・・・2、3時間も歩き疲れて、駅前で覚えておいたタクシーに迎えに来てもらうことにしました。

八屋時代は戦後のどさくさの奇妙な時代です。小学校に怪力の見世物・・・・・軽トラックに子供たちを乗れるだけ乗せて、ロープをつけてそのロープを口で引っ張るとか、ガラス瓶を割って敷き詰めてその上に横たわり、マットを体に乗せてその上をトラックが横切るとか・・・・・今では考えられないようないろいろなことがありました。記憶の彼方にかすむ様な思い出です。それでも懐かしい・・・・・校長先生のお顔もお名前も鮮明に思い出せます。

現在の地名は知らないけれど、60年前の説明でタクシーは迎えに来てくれました。駅まで連れて行ってもらいました。運転手さんの話によると、新しい国道ができて、私達の通学路の旧国道は大きく様変わりをしたことがわかりました。商店も無くなり病院も無くなり、官公庁舎も亡くなった。八屋は知っているものがほとんどありませんでした。日豊本線を戻って、築城に行きました。おぼろだった築城、椎田、豊前松江(ぶぜんしょうえ)の位置関係もはっきりとわかりました。無人駅になっていた築城駅、駅前で出会った方に旅館を教えてもらいました。それで、昔自転車で通った自衛隊基地の前の踏切が確認できて、土地勘を少し取り戻しました。駅前は本当にわかりません。『紀文』という割烹旅館で、本当に暖かい優しい旅館でした。父達も昔宴会で寄ったのではないかと思う旅館でした。八屋探訪でその日の予定はお終いにして、ゆっくり旅館の夕食をいただき、明日の築城探訪を楽しみに8時には眠ってしまいました。

翌日も快晴、旅館のきれいな朝食をいただいて、9時過ぎ探訪開始。築城での目当ては、自衛隊官舎と築城小学校。道路は幅が広くなって舗装されていたけれど、八屋よりはのどかな面影を残していました。小川のような側溝があったのですが、道路の下になっていました。ここら辺にお豆腐屋さんがあったでしょうという問いかけに、あったあったと言ってくださる私と同じ昔の方がおられて、昔を懐かしみました。衝撃は官舎です。二軒長屋だったんですよ。それが、コンクリートの団地になっていました。敷地も石垣があって、1メートルばかり高かったのですが、道路と変わりなくなっていました。上の堤から流れていた、へちまを晒した小川は汚くなっていました。もう昔はありませんでした。築城小学校はすぐ先にありました、途中の文房具とお菓子などを売っていたお店の跡らしきものはありました。小学校は祝日のお休みで、教頭先生のお許しをいただいて校庭に入らせていただきました。

昔をしのぶことができたのは、クスノキ。覚えているのは、クスノキと横に伸びた松の木があって、足洗い場でした。職員室の前にあった築山の残りかと思うような蘇鉄がありました。たぶん2回は建て替えが行われただろうと思いました。小学校を出て、昔サイクリングをした城井(きい)川の土手を見に行きました。これが意外に遠くて、住人もあまり知らないらしく、暑さを感じながら立派な住宅街を通り抜けました。こんなところに大きな道路ができたのかとトラックが行きかう道路を横切り、やっと城井川の土手道路にたどり着きました。途中で散歩中のご夫婦に会いましたが、城井川には降りることはできないと言われました。それから同窓生が雷に打たれて亡くなった悲しい橋らしき橋まで行き、折り返すことにしました。途中小学校の教頭先生に伺った市民センターでの小学生出展の文化祭をのぞくことにしました。立派な作品がいっぱいで、可愛らしい後輩の作品を楽しみました。幼稚園生のお習字もありました。とても上手で、よい指導だと思います。それからお茶席があって、お薄をいただきました。美味しくて、お代わりをしてしまいました。

そこからもう一つのお目当ての八築中学はすぐで、すっかり立派な中学校になっていました。部活の様子をちょっと見学して戻ることにしました。駅の方角を目指して、ぶらぶら眺めながら旅館に戻ることにしました。もう3時間以上も歩き回っているので、多少疲れ気味・・・・・町の人と短い会話をしながら・・・・・平戸は柿が不作のようですが、築城は鈴なりでした。気になったのは田んぼです。稲が育たずひょろっと生えたまま・・・・・旅館に戻って、お茶とおむすびを食べて、たっぷりのお湯を使わせてもらって、夕食まで一休みしました。

 

翌日築城を出ました。親しくなった旅館の女将さんらとお別れをして、待ち時間がたっぷりの築城駅のホームで両親を思い返しました。殆どが変わってしまった築城基地の町でしたが、それでも懐かしい両親と通い合う思い出を確かめました。吉田町と違って、何もなかったというのが感想ですが、満足です。ただ築城近辺には、私の知らない歴史があって、もう一度来たいなと思いました。博多駅で夫と待ち合わせて無事帰宅しました。


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父の書棚を整理しました。

2020-06-09 00:14:28 | 父の懐

父の遺品・・・・・幼年学校か陸軍士官学校か、それとも卒業後か・・・・・古事記だけは新しそうですから、いつの頃か私達が子供の頃のものかもしれません。父の面影が浮かぶ遺品です。

 

 

父の書棚を形見にもらって、やっと身近な場所において整理することが出来ました。父の本を私の本に加えることが出来て、書斎コーナーが出来たことで私の『背負子』も完成に近いかなと感じています。

                            

 

これからは、背負子の残りを背負ってくれる若者に全部渡さなければならないと感じています。


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故郷・ふるさと

2017-06-13 14:43:06 | 父の懐

8年前夫の仕事の都合で平戸を留守にし上京しました。そこで新しく発見したものの一つが、同窓会の楽しみ・・・・・私にとって、これは思いもよらない感覚でした。私の同級生たちは東京同窓会をいつからかは知りませんが、ずっと毎年1月に積み重ねていました。そこには何の屈託もない高校を卒業したてのつながりが生きていました。初めて出席させてもらった時その何とも言い難い感覚がジーっと沁みて、それ以来ずっとなるべく出席することにしています。出席したくてたまらない・・・・・と言った方が当たっています。その時は『故郷は遠きにありて思うもの』という名言の通りだと心から思いました。

 

先週の金曜日から土曜日にかけて関西地区での一泊同窓会(神戸)に出席しました(何と私達の学年は年に2回も同窓会をするようになりました。)そして長年の懸案だった下関市吉田町訪問を実行に移しました。(昔?吉田町に関連する記事を書いていたのを見つけたので、リンクしました。)吉田町は60年前、私が小学校2・3年生を過ごした町です。新幹線を『のぞみ』から『こだま』に乗り継いで下関で降り、その夜は神戸での坂歩きでやや疲労気味だったのでホテルへ直行し休むことにしました。翌朝下関駅から山陽本線を戻って小月駅へ・・・・・60年も過ぎた小月は、「こんなところだったかなあぁ~~~~~!?!?!?」といった感じで、駅はさっぱりとしていますが、スイカも何も使えず改札口は昔のやり方でした。コインロッカーも何もなく・・・・・だけど、ともかくの目当ての『東行庵』行のバスが運良く20分くらいで巡ってきました。『ループバス』という循環バスでした。折しも東行庵は、『菖蒲祭り』とかで賑わっていました。

                                                           

バスに乗るもタクシーに乗るも、記憶にはっきりしている今回の目当ては『東行庵』しかありませんでした。その東行庵は、東行先生こと高杉晋作を祀って野村望東尼が庵を結ばれた場所です。60年前は谷玉泉という庵主様がおられて、弟は東行庵の幼稚園に通いました。今はもう庵主様はおられず、山口県の主管になってどこかの曹洞宗のお寺の住職が兼任しておられるとか・・・・・それから第一の確認事項『もみじ山』。家族写真の父のコメント『もみじ山』はここだったのか。記憶に残っているのは、高杉晋作顕彰碑のある段々でお弁当を食べ、魔法瓶を倒してダメにした(何しろ昔の魔法瓶はガラスでしたから)こと・・・・・ずいぶん整備はされていましたが、確かに此処だった!!!!!と、確信しました。ひっそりとした東行先生のお墓もそのままだろうと思いました。     

それから第二の確認事項『吉田小学校』へ。東行庵の幼稚園は昔も似たような感じでした(???)が、その前には近年出来たとかの『晋作の湯』・・・・・市民の温泉場になっていました。まあ、高杉晋作は喜んでいるかもしれません。何でも晋作の名がつけられて、晋作蕎麦、だの晋作餅、だのという感じでした。その前を通り過ぎて道沿いに歩くと、下関市立吉田小学校。その日は子供たちのサッカー大会だとかで、たくさん集まっていました。校舎と校庭の位置関係は同じように感じました。裏側にある土塀の名残が当時を偲ばせました。いつも利用していた『裏門』へ・・・・・これからが記憶をたどる私の通学路・家路。              

ここから先の路地道はすっかり変わっていました。「確かこっち・・・・、確かこっち・・・・」と言いながら行き止まりを引き返したりして、何となく『此処だ』と思わせるやや広い道に出ました。「これがあの商店街のはず・・・・・」、だったらお店があるはず。何とも不安になりながら歩いていると、お玄関先でてっせんの手入れをしていらした老婦人に会いました。挨拶をしながらお話を・・・・・『ああ、そのお店ならあそこですよ。だけどもう閉めて・・・・・』、と人気のなくなった通りについて話してくださいました。そのお店の角を曲がった筈・・・・・と、見ると、何とも石畳になっている!!!!!?????こんなではなかった(ように思う)けれど・・・・・と思いながら進むと、『旧山陽道』と書いてある小さな石碑がありました。それを越すとやや広い道にぶつかり(多分この下は、昔川だった?)、新しいJAの建物など昔はなかった雰囲気、そこを渡って細い道を不安になりながら進み、「この辺にお醤油屋さんがあった筈・・・・・」(そこのお嬢さんと同級生でした。)それらしいお家を見つけたときは、安心してとても嬉しく思いました。でもこの道はこんな道だったっけ?????途中にあった雑木林はありませんでした。

 

                                        

そこを抜けると田んぼが広がっていました。奥に住宅が張り出していて昔あった樹木などは無くなっていましたが、『此処だ、此処だ!!!!!父や弟と凧揚げをした田んぼだ!!!!!』その向こう側の細い道路は大きくなって見渡すとずっと向こうに高速道路が走っています。そしてその道を渡ると、私達の家があったところ。そこには新しい住宅が建っているんだろう・・・・・と思っていました。そしたらなんとそこは草茫々の空き地と廃屋が・・・・・お友達(?)のふうちゃんの家と私達の家?????家の前にあった小川は整備されて昔の面影はありませんでした。でも家の前にあった川への降り口が、何となく確信をさせました。『此処だ、此処だ』この廃屋は父が借りた家そのものではないかもしれないけれど、それに近い・・・・・あの大きな台風の時川があふれて家の前まで迫った『あの日々』をよみがえらせる家や風景が残っていました。ひどい状況ですが、私には心の底を暖かくする廃屋でした。

         

今は広くなった道路の先には多分あそこで夏休みの掃除や体操をした、と思われるお寺が・・・・・懐かしさに駆られて石段を登ってみると法要か講話の会か・・・・・そしてこれまた何と、ご住職が吉田小学校の同級生でした。中に通してくださって、担任だった先生方のこと、私の仲良しだったお友達のこと、そのお友達と行った思い出のある旧商店街のこれまた同級生がいたお店のこと、あのひどかった台風の時の氾濫事件と問題の橋のこと・・・・あの橋はバス通りだったのですが、橋の手前で乗客が降ろされてぞろぞろと渡り、その後をバスがゆっくりと橋を渡ってまた乗客を乗せる・・・・・という今では考えられないくらい老朽化していたのだとか、いろいろとお話を伺うことが出来ました。

またお醤油屋さんの前を通って振り返り振り返り、多分川の上の道にあるバス停まで・・・・・そこで、父が歩いた小月基地へ続く道を眺め、再び運よく来た小月駅行きのバスに乗りました。

                                                              

 

夫と博多駅で待ち合わせて帰宅しました。道中夫から「何でそんなに吉田にこだわるのか?」と聞かれて、つらつら考えているうちに、同窓会が懐かしく記憶の町が懐かしい理由が見えてきました。故郷というものが普通は生まれてきて住み慣れた場所(夫にとっては考えるまでもない平戸)だが、私にはあちこち父の転勤先で重複している・・・・・とどのつまりは父母と暮らした所なのだと。武田鉄矢の言うとおり、『お母さんが故郷そのもの』だと。そして幼いまま離れたところは記憶があやふやで、どうしても明らかにしたいと思ったのだと。同窓会はそんな故郷の中で最後の明白な確かめる必要のない故郷、遠きにあって思うものではなく思うために不可欠な確かな一部であることを感じているのだと。

私にはまだまだもやもやとした記憶の向う側の故郷がある。宮城県矢本の水がめに氷の張った囲炉裏のある家、浜松で入学式を迎えた家と鴨江小学校、そこから転居して鴨江小学校に越境通学した家とお隣の神社、吉田小学校から転校した豊前市の八屋小学校、築城小学校と八築中学・・・・・そこで交わった人々。だけど今回の吉田訪問で少し落ち着いた気がします。父母との暮らしを具体的に確認できてとても満足しています。生まれて4歳か5歳まで平戸で過ごして宮城県矢本に行きました。今回途中の記憶が地についたというか、とても安堵した気分です。そして、故郷とは懐かしいものかもしれませんが、その前に明白なものでなければならないと断言します。


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飛行機雲

2014-01-08 08:36:19 | 父の懐

昨日は久しぶりに見事な(?)飛行機雲を見ました。それも幾筋も・・・・・・青空にくっきりと綺麗でした!!!そして、またまた父との会話を思い出した・・・・・というわけです。

父が言いました。「戦闘機なら、あれは下手くそなパイロットだ」・・・・・・・「敵に自分の位置を確認されて、撃墜されてしまう・・・・・・、『ここですよ』と言っているようなものだ。」・・・・・・・美しい飛行機雲も命懸けの現実だったのですね。『あそこらへんに気温の境目があるから、それを避けて飛行しないといけない・・・・・・。」父は小学生の子供たちに雲や大気について色々と教えてくれたものでした。

 

シベリヤの寒気団が南下しているんだとか・・・・・・・・アメリカでは大変な寒波だとか・・・・・・・上空の寒気を思いました。まだ復興しきれない東北の寒さを思いました。そして宮城県に住む息子の毎日が無事であれかし・・・・・と祈りました。多くの人々が難儀しませんように!!!

マクロビオティックを無理やり押し付ける気持ちはありませんが、どうぞお聞きください!!!少なくともマクロビオティックは寒暖に対処する最も賢明な方法です。自分の体の機能を低下する食べ方では、寒さに対抗するといっても、外側からの暖房以外にありません。つまり衣服を着るとか、火を焚くとか・・・・・風を遮断するとか・・・・・・だけどそういうやり方では体がそれになれると、それからまた寒くなるんです。

ではどうするか・・・・・・・体の内側から対抗できるようにします。外側の寒さから防備できる皮膚を作り、循環機能を高める・・・・・・それよりも先にそういう血液を体中に配布する・・・・・・それができる毎日の糧を取り入れる・・・・・・・マクロビオティックってそういうものです。つい江戸時代までは、だいたい冬も裸足でした。強かったんだなあと思います。

体毛をおおかた失った人類ですが、それでも生きていける環境との関係を作ってきたのです。その度合いを過ぎた関係・・・・・つまり何もかも凍ってしまう氷河期とか、何もかも枯れてしまう乾季とか・・・・・では、私たち人類に対処法はありません。幸運な僅かな人々が生き残ってまた新しい時代を生きていくだろうと思います。でも今の問題として、マクロビオティックを基本的に取り入れる以外にはないと思います。自分の身の周りで採れるものを、冬は暖かく夏は涼しく調理して食べる・・・・・・・これ以外にありません。私はそう思います。

 

それでは今日も:

        私たちは横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


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書き残しておくべき父の言葉

2013-01-19 18:30:42 | 父の懐
それは南京事件(?)について、です。この事件については以前は自民党議員の失言(?)としてのみマスコミの攻撃に遭っていましたが、去年の河村名古屋市長、そして昨日の鳩山前総理大臣・・・・・そして日本人全てがこの事件を想念の世界に埋没させつつある状況を心配せずにはおれません。今までとりあげませんでしたが、戦争でなく戦闘という生々しい事態を現実に知っている人間としての父の言葉を残しておこうと思います。

父が私に言い遺したこと、それは第1に中国大陸の戦争における戦闘の末期の実態、第2に松井磐根大将の実像、第3に南京事件の問題化の時期、第4に数の問題の4点です。第1の問題に関しては『便衣兵』について中国大陸での実態と国際法に関して、第2には松井大将が如何に中国古典を愛した立派な人であったかと南京入城に当っていかなる厳しい軍律を課したかということについて、第3にはこの事件が問題として取り上げられたのが両国間の政治的外交問題として終戦以後であったこと、当時のヨーロッパジャーナリストによっても取り上げられたことがなく、それどころか日本軍の模範的振る舞いが称賛されたこと。この3点については調査されればわかることなので、今回は列記するだけにします。

ここで父の言葉として取り上げたいのは第4の数の問題です。父はこう言いました。『500人の兵隊で5000人の捕虜、もしくは敵害者を拘束するのは難しい・・・・』今朝のテレビ番組でドイツの大サッカー場が紹介されていましたが、6万人の観客収容力があるそうです。満員の状況のフィルムが流されましたが、その大人数たるや、父の言葉をしみじみと実感します。東京マラソンの参加人数をご存知ですよね。3万8000人だそうです。あの人数をどうやってコントロールできるでしょうか。父はまたこうも言いました。『500人で5000人を連行するのは怖いんだ・・・・・』

父が可能性として認めた最大数が500人(当時父が把握していた日本兵の数員だったのだろうと思います)で5000人の拘束でした。でもそれはとても難しい・・・・と言いました。そんな切羽詰まった状態で相手だって黙ってやられているはずがない・・・・と。もともと便衣兵が混じっているからこそ、そんな不幸な状況になり得るのだと・・・・・それが日本兵にとってどんなに恐ろしいことだったか・・・・・戦時下では様々な突発事件が起こり得ると思います。でも戦闘の実体験のないものが頭で考えることの危険性を、私達はよくよく念頭に置いて物事を判断すべきです。こういった類の事件があったかもしれません。でもそれがいつからか南京大虐殺になり、いつからか30000人になり、60000人になりました。広島や長崎に投下された原爆の犠牲者数、東京大空襲の犠牲者数を考えてみてください。この実態は正確に調査されるべきだと思います。それを願ってこの記事を書いています。

私達の父祖と中国国共軍と中国大陸に住んでいた人々は実際の戦闘のただ中にあったのです。戦闘員ひとりひとりにはゲームでもなく、それが善悪で判断できることがらでもないのです。判断できたとして一体それが何になるでしょうか。このことを一番実感した青年の一人が、カンボジアで国連平和活動に従事していた中井厚仁青年だろうと思います。彼は手記に残していました。『危険があろうと、それを分かっていようと、決められた仕事をやる』といった趣旨の文章を思い出します。人間とはそんなものです。与えられた場所で生きる以外にありません。そして私達は歴史の不幸に直面した父祖を敬愛の心を持って思い出すべきです。そこで死ななければならなかった人々を敬愛の心を持って思い出すべきです。実際に戦闘をしていた人々が、如何に怖れの心を持っていたか、知るべきです。そしてそれが少なくとも私たち家族のためであったことを知るべきです。そしてその人達がこういったのです。『靖国で会おう』と。言葉を発して誓った約束はもう取り消すことはできません。取り消す手立てがありません。

在京中や上京した時父はいつも靖国神社に詣でて戦友や父祖に参拝し、平戸に戻ってからは思いを馳せ遙拝していました。そんな父の心の中を懐かしくしのびます。私達は愛情を持って父祖の苦難をお慰めすべきです。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!






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北方領土のこと2

2012-01-13 09:38:22 | 父の懐
昨年の記事『北方領土のこと』で父から聞いたお話をしましたが、その中でソ連軍の侵攻から同胞を死守した最北端の部隊の事に触れました。その部隊名を忘れてしまったことをその時本当に残念で申し訳なく思っていました。そうしたら父の導きだと内心本当に思っていますが、昨年12月の産経新聞『談話室』の欄に読者の投稿記事が2回も掲載されました。もっと早くここにご報告すべきだったのですが、うまく言葉にすることが出来なかったのです。お許しください。

  その最北端の部隊を死守し、捕虜となり、シベリヤに抑留され、帰国なさった方のお話
  そしてもう一つは、その記事を読んだ私より10歳余り若い男性の読者の思い

繰り返し繰り返し父の言葉の記憶をたどって思い出せなかった『その部隊』は、千島列島の最北端『占守(シュムシュ)島』の部隊でした。殆ど殲滅状態だったと聞いていましたが、生き残ってご苦労をなさった方がいらしたんですね。カムチャッカ半島から北海道に連なる千島列島!この千島も日露戦争や樺太との交換を経て日本領と確定した地域でした。

この北方領土と、そして最南端の沖縄に流された血の犠牲を私達は忘れてはならないと思います。




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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国というもの

2011-11-14 10:02:06 | 父の懐
3月の大震災以来8カ月が過ぎました。日本を直接まきこんだ戦争が絶えて65年余、私達は久しく考えなかった国というものについて深く考えさせられたと思います。

東北の悲惨な状況を救うことが出来るのは国しかない・・・・・国が責任を持って復興する・・・・・?????
今年全国民が実感した思いを表す言葉は『絆』だ・・・・・多くの人々がボランティア活動に参加したし、もっと多くの人々が義援金に生活費を削った・・・・・

今回の大災害から早く復興させるためには大きな自然の時の流れを加速させなければなりません。それを思った時『国』というものを感じます。大きな力が無ければ動かすことのできない自然の大災害の被害!!!国内という地域社会を守ろうという『国』の心を感じます。そしてその心を動かす組織としての『国』を実感することが出来ます。同胞の災害は時代時代によって様々なものがあっただろうと思います。『国』の恩恵にどっぷりとつかって忘れかけていた『国』の実感を取り戻すことが出来ました。

天皇皇后両陛下の被災地お見舞いに、全国民が心を重ねてお見舞いしたと思います。われらが組織である『国』に心を寄せたと思います。そして我らが見たものは我らが行政機関と我らが全権を委託した国会の8ヶ月でした。『国』の心は堕落しない、というより国民の健全性を映していると思いますが、組織は堕落する・・・・・たとえどんな組織でも堕落する・・・・・そう思います。

かの昔孔子様が『自分は終生学を好んで学び続けた』という主旨のことを述べておられます。何時までも自分をたたくことだけが、堕落しないで生きる方法だと思います。そんな孔子様の生きられた時代は春秋戦国時代、群雄割拠した下克上の時代です。そんな500年も続く無法(?)時代は、『国』というものに求める夢も絶望も含めて、組織というものの堕落次第図とでもいうべきお手本を示しています。それで現代の私達もあの時代の物語に魅かれるのでしょうか。

幸か不幸か私達日本人の記憶の中には、『国』というものの建国の欲求が無い!!!!!どういうわけかアマテラスオオミカミの御心のままに私達は生かされている!!!!!『国』というものはオオミカミの御心を映すべき機関なのですから・・・・・もしかして私達日本人は生かされることは出来るけれども、生かすことが出来ないのでは・・・・・?『国』を運営することが出来ないのでは・・・・・?明治の元勲たちは一生懸命水を吸い込む砂のように西欧の組織を学んだけれども、『国』を建てる(建てられている)ことを知らなかったのでは?????

だって私達は横田めぐみさん達を取り返す手段を知らない!!!!!横田めぐみさん達が年を取ることを黙って看過するしかない!!!!!横田めぐみさん達が北朝鮮で新しい記憶を作っていくことを放置している!!!!!つまり日本人でなくなるかもしれない・・・・・風化させる以外の解決法がない現実が胸をかき乱します。私達の責任です。そして最も大きな責任を負っているのは国会議員です。その為に選ばれたのでしょう。国会は日本人の心を現実に映すためにある機関なのでしょう。この問題を解決できない事と、災害復興の遅れることの理由は同じだと思います。

私達の国会は、国会議員は国を知らない!!!!!それは私達日本人の姿勢に由来していると思います。つまり私達は建国の喜びを知らない!!!!!

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父の子守語り

2011-06-20 05:15:01 | 父の懐
私の父が子供達に聞かせてくれた物語のほとんどが戦記物でしたが、その中でかなり珍しいお話があります。それは『ご飯を残してはいけない』という主旨の物語です。私は5,6才だった頃でしょうか。


或るところに大臣(?お大尽?)が住んでいて、その大臣にはとてもかわいらしいお姫様がありました。そのお姫様は大層我がままで、いつもご飯をきれいに食べることが出来ませんでした。大臣は可愛いお姫様に注意はするのだけれども、お姫様は少しもお父様の言われることを聞きませんでした。ある時お姫様が高い熱を出しました。大臣は心配で心配で、名医を探し出しては治療を頼みました。それでもお姫様は少しもよくなりません。

日ごとにお姫様は病気が重くなっていきました。ある日白い小さな蛇がお姫様のところに次から次へたくさん現れて取り囲んでいます。大臣は泣きながら、これはきっと何かのたたりに違いないと思って『どうぞお許しください』と心から天地の神様にお祈りお願いしました。すると白いお髭の老人が現れて、『この小さな蛇を全部集めて炊いてお姫様に食べさせなさい』と言いました。大臣は一生懸命蛇を集めようとすると、蛇たちは自分でお釜の中に入りました。それを焚いてお釜の蓋を取ってみると、炊きあがっていたものは、輝くような白いご飯でした!!

なんとその蛇はご飯が化けて出てきたものだったんだ!!!(父の合の手、子供たちの顔を見回します。)

大臣は早速そのご飯をお姫様に食べさせました。そしてお姫様によくよくその白い蛇のお話をしました。お姫様は自分が残して捨てられていたご飯を思い出しました。自分のご飯のお椀を思い出しました。お椀について捨てられたご飯粒を思い出しました。『悪いことをした、お許しください』とお姫様は泣きながらお詫びをしました。お姫様はそれからめきめきと良くなりました。それからのお姫様のご飯椀はいつもきれいでした。お姫様は一粒のご飯も大切に食べました。


食の細い子どもだった(らしい)私は“わがままなお姫様”だったのでしょうか??それでもその時『私もいつもきれいに食べよう!!』と子供心に思ったものです。そうした幼心に感じたものが、一生を左右するようなガードレールのようなものになっている気がします。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


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建国のおはなし

2011-02-12 08:33:11 | 父の懐
昨日は雪の建国記念日でした。この国民の祝日は、明治になって遠い昔の言い伝えの日を割り出して制定されたものです。昭和20年の敗戦後はアメリカ合衆国の占領政策により、主権を回復した後は日本人のアイデンティティの喪失の後遺症により、何か後ろめたい、進歩的ではないという祝日にされてしまいました。それを戦後60年余ずっと引きずってうやむやの中敗戦の“かせ”を知らない若者達は“進歩的”な教育により育てられ、口を閉ざした老人は人生を終え、国民一色何とはない休日へと性格を変えています。それでも不遜な政府が土日とくっつけて連休に出来ないのは、この祝日が2月11日という、限定的な性格のものだからです。

私は戦後間もない昭和24年に生まれました。戦後教育の環境にありましたが、なにしろこの世で最も敬愛したのは父親でしたから、かなり中和されて政治的な影響を受けることはありませんでした。父は幼年学校から陸軍士官学校を出、敗戦直前の特攻出撃予定時には陸軍大尉でした。私は『大尉の娘』というところです。そういう学校は国防という最も現実的な性格を帯びていましたから、当時の学校の中では最もドライな、理念的ではないつまり絵に描いたぼた餅ではない教育を父達は受けたと思います。父は記紀のおかしな所もおかしな所として教えてくれました。現在の日本の理念は『平和』ですが、教育現場は非現実的です。なぜかというと『平和』が与えられるべきものであって、みんなが守るものとして教えられないからです。守るためにはどうするのかという思考を抜きに理念として植えつけられるからです。

父は子供達にこの世の矛盾というものを教えたと思います。それを埋め合わせるものが、思い合いと譲り合う心だと教えたと思います。今でもよく思い出すのはちょっとした言葉づかいです。父は言いました。『朝鮮の人といいなさい。社会から朝鮮人という言葉に残る見下しのニュアンスが消えるまで。』私達にとって『日本人』と同列に並ぶべき言葉『朝鮮人』、私達が『日の本』と誇る『日本』、朝鮮の人は『朝日の鮮やかな』国『朝鮮』なんでしょうね。でも言葉というものには歴史という感情が含まれます。五族協和と言いながら、日本人は日本の優越を信じたかったんでしょうね。でも人間の出自を問題にしてはいけないと教えられました。どこの国にも立派な人とそうでない人がいる。立派な人はそうでない人が悪い心を起こさないようにその社会を作る。悪い人が少ない国が立派な人が多い国、つまり立派な国だと。

その遠い昔の2月11日、大和の国を建てられた(とされる)神武天皇は、国の理想を五族協和、つまりみんなの平和を『八紘一宇』という理念に込められました。『一つの家のようにしたい』と宣言されたのです。これを否定するのはやはり言葉を客観的に見ていない証拠だと思います。確かに国を建てるには武力をもってしたと思います。しかしそれは現代の世界情勢を見ても、一歩も進んではいません。現代社会でも武力で平和を守る以外、決定的な方法を見出せずにいるのです。日本書紀の編纂は時代を下って7、8世紀のことですから、当時の大和朝廷の理念かもしれません。それでもこれは建国理念として人類の最高傑作だと思います。イタリアの人々は自分達の建国を紀元前8世紀のロムルス・レムルスのローマに置いて、自分たちがトロイのエレンの子孫だと信じています。それでいいのだと思います。

父は子ども達とこの日には、紀元節の歌を合唱しました。『雲にそびゆる高千穂の・・・・・・・』そうして私たち兄弟は高千穂に降りて来られた神話を聞いたのです。こういう民族の物語は誇りの心を生みだすと思います。誇りは人生を律する大切で最も有効な規範だと思います。そして誇りを驕りに変えないのが教育だと思います。非常事態を過ぎると自然に湧きあがってくる驕りに対する戒めが『身の程を知る』という日本人の持ってきたつつましさでした。そのブレーキが利かなくなると破滅の危機ですが、大切に子孫を育て上げることが歴史の継承で、本来それ以外に人生の目的は無いのだと思います。怖れをもって人生を全うしたいと思います。


それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るだろうか!!!
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父のはなむけ

2010-11-04 08:58:17 | 父の懐
昨日は国民の祝日・文化の日、実の父の誕生日でした。終日折にふれ亡くなった父を思いました。祖父は明治天皇様がお生まれになった日に父が生まれたことを喜び、父に『圭三』と名をつけたと聞かされました。『圭三』を分解すると『十一十一三』となります。その意味するところは『大正11年11月3日』です。

今回平戸に帰宅した間、ちょっとしたシロアリ騒動で応接間が使えず、座敷を利用しました。どなたの目に触れるのも、大きな扁額『積善の家に余慶あり』です。金色の紙に墨々とした雄渾な行書体の、それこそ余慶あふれる額です。37年余り前東京で結婚式を挙げて平戸に帰ってきた夜、見上げて涙あふれた額です。

結婚式の前夜父はささやかなお別れの家族会を開きました。その時嫁ぐ娘への父のはなむけが『積善の家に余慶あり』でした。奇妙にも耳に残っている言葉は『娘を柿本家にやってしまうわけではない。』、それから『家庭とは与えられるものではない、築いていくものなんだ。』、そして『今あるところが極楽浄土なんだよ。』と言って『極楽浄土』と認めた色紙を手渡しました。その小さな極楽浄土の色紙はそれからの私の人生を何時も見つめていたと思います。そして平戸に到着した私達に柿本の両親が寝室にあててくれた座敷にその扁額『積善の家に余慶あり』はかかっていたのです。緊張していた私はふと実の父に出会ったような不意を突かれて涙がこみ上げてきました。『ここに嫁に来たんだ』と思ったものです。

柿本の父から額を譲り受ける約束をした時はとても嬉しかったことを覚えています。私達の家は昭和63年に新築(?)しましたが、最近の家は欄間が低くてかけられるかどうか心配しました。でもミサワホームが善処してくださって鉄で素晴らしい長押用の受けを作っていただくことが出来たのです。その黒鉄がまた金色で縁が黒い額にぴったり!だったんです。それで時を経て金色の色相に深みを増したこの額を見上げるたびに実の父を思い、柿本の父を思い、色々な方々のご親切を思うというこの頃です。


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中原の国と彼称蛮夷の国二千年

2010-10-01 08:50:32 | 父の懐
私達が知っている中原の歴史の始まりは、夏・殷・周・秦・漢・・・・・。夏について私は殆んど知りません、西夏という国が後代出てきますけれど、その西夏は古代の夏と関係あるのかなあ・・・?と思うくらいです。殷になれば滅亡時のお話、教室でも陰陽の話に時々出てくる伯夷叔斉の故事くらいしか知りません。湯王と紂王二人の王様くらいですかね。そうそう甲骨文字も殷の時代でした。

周ともなれば孔子様があこがれた国、ぐんと身近になってきます。東洋の芸術とも言うべき、周礼や周楽はみなこの時代に始まります。そしてそして、それよりも私の母校、平戸の猶興館高校の出身者にとっては、『文王無しと雖も猶興る』との孟子の一節によりうんと懐かしさを覚える国になってきます。そしてマクロビオティックを人生の梯子とする者にとっては、桜澤先生により解説された易の思想があります。易は周に始まるのです。

そんな周でさえも秦によって滅ぼされます。始皇帝の万里の長城は誰一人知らぬものはないと言っていいくらい、世界一の規模を誇る国境の砦です。ローマが築いた防塁と鎌倉幕府の水城を思い浮かべても、その格段のスケールの差をひしひしと感じます。夏・殷と周が最初どこに起こった国かわかりませんが、秦はその名から推測するに中東近くに起こった国かもしれません。そして歴史上初めて北方の蛮夷の脅威を後世に形として遺しました。秦は万里の長城を築くのに国力を使い果たしたのか、長くは続かず漢によって滅ぼされます。

漢と言う国号の音を考えれば、『カ』『カン』『ハン』という彼らの言う蛮夷の王号との関係を思わずにはいられません。それなのに『漢』はそれ以来中原の正統性を表すと考えられてきました。要するに『中原を制したもの』と、『中原の辺境に存立する蛮夷』という構図なのでしょうね。つまり中原は入れ替わりの構図になりました。その漢は初めて我が日本の近くに現れた国です。子供の頃『漢倭奴国王』という金印のことを習いました。つまり我が日本の先祖は漢に冊封される必要性を感じたということです。漢は朝鮮半島まで直轄支配したのです。これまた中学校で『漢の四郡』を習いました。

その四郡の間に存在した中原の言う蛮夷である民族国家は敵対するか冊封されるかのどちらかを選んで存立を図りました。敵対した第一の雄は『高句麗』です。一貫して独立を守り漢を滅亡させ、隋を滅亡させました。この中原と北東の満州から朝鮮半島にかかる地域の歴史を私達日本人はもっともっと我が身と感じ研究しなければならないと思います。何時かブログでもご紹介した韓国の映画《チュモン》は改めて事の重大性と普遍性を考えさせてくれました。漢、あるいはそれ以後に興る隋、唐という中原国家と朝鮮半島諸国家の関係は、歴史のお手本です。漢に直接接する国の外交方針は、隷属か対立かしかありません。自国がどれくらい強大であるかにかかっているのです。高句麗は中原の北東域で自国の強大化に成功した唯一の国です。貢物を献上して国力を低下させる必要のなかった唯一の国です。

その時代朝鮮半島には新羅と百済がありました。新羅と百済のように高句麗という中間国を挟んで漢(隋・唐)という強大な国と対峙した国家の選択はこれもまた二つです。漢を頼って高句麗と敵対するか、高句麗と結んで漢と敵対するか・・・・・。人間は悲しいものです。今日の苦難をしのんで明日の大敵に備えることはなかなか難しいのですね。お隣と結ぶのは、あまりにも利害関係が近いのでしょうか。またそういうときは高句麗と対決している漢も決して腹の内を見せません。それどころか敵対している国がある時は、その向こう側の国に近寄るものなのです。つまり前門の虎、後門の狼と挟み撃ちをするものなのです。そしてその次は前説を翻すというのが、こういう力による国家関係では当然のことです。海という天然の要害に守られていた日本でさへ、何らかの必要性を感じ使者を送ったのです。近代ではロシヤ南下の危険性に西郷隆盛が征韓論を唱えたのも、李氏朝鮮がロシヤの庇護国になるか日本と協力してロシヤの危険に備えるかの選択がつかなかったからです。

大国はなぜ膨張して辺境と対立するのでしょうか。その理由は色々とあるでしょうが、一つには一定領域内での富の増大には限度があり、国民を満足させるためには新しい富の供給を求めなければならなくなるからだろうと思います。つまり人間は『足るを知らない』動物になってしまったのです。既得権益を失うことはあり得なかったのです。国内の満足を満たすことが皇帝の仕事、つまり国家を存続させることです。そういう欲求が辺境に朝貢を求め隷属を求めることに大義を見つけてしまうのです。属国化した国に対し富の貢納と労働力にその国民を奴隷に要求してしまうのです。そうやって国家は精神的に堕落し始め、ついには内部に対立構造を生みだします。辺境へ辺境へと拡大すると同時に、内部は制度的に精神的に崩壊し始めてしまいます。自己矛盾の打開を外に求めれば求めるほど、内部は解決能力を失っていきます。高句麗のように漢(中原国家)との対立を国是とした国でさえ、最後は内部崩壊によって国力を低下させ滅びてしまいます。必ず最後は無力な王と堕落した官僚によって滅亡への道をたどるのです。

それで我等が聖徳太子は『十七条の憲法』をお定めになりました。これは行政組織に対する戒めです。深く国家の興亡をお考えになったのだと思います。それから幸いにも海を超えて浸透しなかった制度は『奴隷制』だと思います。『魏志』には奴隷を卑弥呼が魏の皇帝に献上したとの記事があるそうですが、日本には定着しなかった制度なのだと思います。実態は同じだとの意見もあるかもしれませんが、奴隷という観念が定着しなかったのは『公地公民』が制定された日本人の神話以来の精神的背景によるのではと思います。中原や朝鮮半島の歴史は、奴隷制度を抜きには考えられません。戦争の歴史は奴隷確保の歴史でもあるのです。漢には漢の正義があり、高句麗には高句麗の正義がある・・・・・しかし《チュモン》に肩入れしてしまったのは、同族が奴隷という悲惨な身分にあり、その苦しみの解放と言う当然の願いの自然さです。親が子を思い子が親を思う、家族を思い国を思うというその身近さです。韓国の時代劇を通して実感したのは奴隷の悲惨さであり、奴隷によって成り立っている富の構造です。

現代の中華人民共和国も多分同じ中原国家としての性質を持たざるを得ないのだと思います。私達はもっと歴史に学ぶべきだと思います。それでなければ現代もなお力を基盤として国際政治が行われている現実に目をつぶって自分だけの理想に安住していては、愛する家族や同胞を隷属化させてはならないという責任を果たせないだろうと思います。




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北方領土のこと

2010-09-06 06:34:16 | 父の懐
昨日の日曜日テレビを見ていたら、ある方は『父親の憤りが自分の中に生きていて、絶対に譲れない』、ある方は『現在暮らしているロシヤ人の実態がる』というような趣旨の発言をしていました。それでここに父から伝えられたことを記事にして、親から子への伝達を子から孫世代への伝達に変えたいと思います。

以前ブログにも公開しましたが、母方の伯父はシベリヤに抑留されました。その伯父の家族を含めた満州から朝鮮半島に住んでいた日本人の帰国はそれはそれは大変でした。乳飲み子を抱えた伯母はそれこそ夜叉のごとく半狂乱で我が子だけを守って帰国したのだそうです。今のように心のケアなどありません。それから数年後の姿だったのでしょうが、私の眼に映った伯母は、浴衣を寝巻にして半纏をかけた病人でした。私を見たまなざしは思い出しますが、声を聞いたことはほとんどありません。優しいような優しくないような、不思議なまなざしでした。

そのソ連軍の非道な情報は停戦時の北方領土諸島にも伝えられていました。そしてソ連軍の侵攻も動向分析から予測されたのです。そこで我が同胞を抑留と凌辱から守るため、島民全員の本土帰還を決定し、自発的に一時避難をしたそうです。島民が全員避難を達成するまで、最後の防衛戦を最北部に近いところにあった部隊は展開したそうです。その部隊名も確かに父から聞いたのですが、情けないことに忘れてしまいました。その部隊が最後の一人になるまでとの決死の覚悟で、島民の帰還を達成したそうです。それで朝鮮半島から大陸にいた日本人の悲惨さを北方四島等の各島に住む日本人は遭わずに回避できたのだそうです。

聞くところによればソ連軍は北海道を占領する計画だったのだとか。そういう魂胆での条約破棄ですから、北海道には被害に遭われた記憶も残っていると思います。九州に住む武装解除された軍人の娘でさへ聞かされていたのですから。でもソ連の勢力拡大を希望しないアメリカによってソ連の計画は阻止されました。そして北海道以南を占領したアメリカは、完全な武装解除を求めて日本全土で刀狩りを実行しました。

父や祖父は先祖より伝わった刀剣類をアメリカ軍に渡したそうです。大体どの家に有るかというのは分かっていたので、隠すことはかなり困難だったのだと思います。でも山に埋めた刀二振りと、柄を切り落として山芋掘りの道具だと言い逃れた槍一棹(とはいえない長さでしたが)は残されました。切り落とされた柄の一部は今では主人の木剣になっています。後に掘り出された刀は、丁寧にしまわれて埋められたとはいえ、研ぎに出して流石に少し細身になったと手入れをする父から聞かされました。

父は言いました。敗戦後とはいえ、自分ら軍人にはまだ敵を倒す気概は残っていたと。北海道でも九州でも日本中で平和に武装解除が行われたのは、『自分たちが天皇陛下の御名をいただく軍隊であったからだ』と。『天皇陛下の御名のもとに停戦と武装解除の命令が下ったからだ』と。それで日本では世界史に類のない無血の武装解除がなされたのだと。明治維新というこれまた世界史に類のない武士の犠牲のもとに成し遂げられた近代化も、『上下心を一にして』苦難に耐えしのんで国のために尽くそうと国民が一致団結したからなんだと。

父は言いました。『天皇陛下万歳』は『お母さん』という心の叫びなんだと。だから特攻に散って行ったものはみんな『天皇陛下万歳』と叫ぶんだと。『天皇陛下の御為』はそのまま『父母や家族のため、同胞のため』なんだと。多くの戦争に倒れた方々の心の声を正しく知るとともに、国というものの実態を正しく考えなければならないと思います。国というものが組織であるならば、顔は絶対に不可欠です。顔が『天皇陛下の御為』であるならば、血液は『父母や妻子のため』です。有機体というものはそういうものです。人体と同じです。顔を大切にするからと言って手足を粗末にすることはありません。顔のお手入れに余念がない人でも、手足にキズを負えば顔のことは忘れます。顔も手足も同じように欠くべからざるものです。ただ付いているところが違うだけです。また顔は先祖でもあります。顔なしに子孫はないのです。縦と横とかならず考えなければいけないと思います。

為政者には為政者の都合というものがあるかもしれません。権力者には権力者の欲望があることは歴史を振り返れば明らかです。ですが残された私達はそういったものを排除した上で、一般国民の素朴な国という一つの統合体を思う心を考えなければならないと思います。私達は『天皇陛下』という言葉に込められた意味をもう少し明らかにしなければならないと思います。そうして私達は国を守り続けていかなければならないと思います。そうしなければ、日本を守っているたくさんの魂と心を喜ばせることが出来ません。私達は『たたり』を受けなければならないかもしれないのです。

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靖国神社

2010-08-14 08:54:44 | 父の懐
今週日曜日、主人と靖国神社に参詣しました。何度かご紹介した事がありますが、私の父は陸士56期の生き残りです。昭和20年の8月14日に特攻に出陣するはずでした。そしてたまたま生き残りました。同期のお仲間、先輩方たくさんの方々と「靖国で会おう」との固いお約束を残して、父は生き残り少数派になりました。

それからの父の人生は、価値観のひっくり返った戦後を、亡くなったお仲間たちと思いを交換し合うことで生きたと思います。父の憂国の情は多くの場合世の中に受け入れられなかったけれど、子供達には、特に私には大切な人生の基盤になりました。娘の目にはこの世で最も素晴らしい人に映った父が、こんなに心つつましく市井の片隅で細々と生きている!片時も昔のお仲間の事を忘れない!

故郷平戸ではまだまだ昔気質の人がいて、父に敬意を表して父の活動を許してくれました。でも誰一人として父程の心の叫びを持ちませんでした。持っていたにしても世の中は金権の趨勢に抗うことは出来ませんでした。父は父らしく死んだと思います。憂国の情もだし難く、熱い血を吐いて死にました。娘が最初にもっとも敬愛した人でした。

それで私は父の叫びを心の中に聴き続けています。父が昔朋友とかわしたお約束も生き続けています。

      『靖国で会おう。』

父は生き残りとして死にましたが、ことあるたびに、お仲間の方々と靖国に舞い降りて集っていると思います。私達はその思いの波動を尊重しなければ日本人として生きていけないのだと思います。国民とは過去未来にわたって生きているその国の人々の事であって、顕微鏡のサンプルのような切片ではないのだと思います。今の人だけの都合で何もかも軽々しく変えてはいけないのだと思います。時にはたやすくなくても歯を食いしばって美しい日本の心を守らなければならないと思います。多くの方々が敬愛してやまないご両親や家族、そして背後に続く子孫を守るために死んでいかれた事を思い続けなければなりません。これが歴史を背負った国民のあり様だと思います。

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大国魂神社

2010-06-12 09:16:57 | 父の懐
東京暮らしになってもう一年が過ぎてしまいました。ずっと気になっていた府中の大国魂神社に主人と一緒にお参りに行きました。府中って聞くばかりで何にも知りませんでしたが、甲州街道の要所だったのでしょうね、家康公の昔が偲ばれました。府中の駅を出て見事なケヤキ並木に目を見張りながら歩いていると、若武者の後ろ姿を見つけました。八幡太郎義家かなと思いつつ近寄って見ると端正な義家公の立像でした。奥州征伐に向かわれるとき戦勝祈願にこの大国魂神社にお参りなさったのだそうです。ケヤキを千本お礼に植えられたのだとか。だけどそれよりもそれほど古くないこの立像を見上げてつくづく嬉しかったことは今も府中の人の心には往時の人々がともにいるのかということでした。

義家公の視線の先に立派な境内が見えてきました。ケヤキがうっそうと茂って今なお武蔵野の往時をしのばせます。ご鎮座1900年、景行天皇のご造営だそうです。景行天皇と申し上げれば、我等が日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父君です。日本随所に遠征しておられます。我が平戸にも行宮跡があります。紀元1世紀ごろのお話です。壮大なお心の大王であられたことは間違いいありません。境内だけは往時の記憶が生きているかのように感じました。随神門という御門は工事中でした。

拝殿で拝礼を済ませ周囲を見せていただきました。御祭神は大国魂の命、つまり三輪山の大物主の命です。大物主の命は大黒様と混同されていますが、大黒様の大物主、つまり大国主命ではなくて、ニギハヤヒの命です。スサノオノミコトのお子様で、大国主命のお后様、スセリヒメの命の兄君です。そして一説によれば(私は大いに支持しているのですが)、神武天皇のお后様の父君であり、大和の国の親神様です。そんなお宮を武蔵野に景行天皇はお造りになりました。大和に三輪山のあるごとく、武蔵野に大国魂神社があるのです。景行天皇の御心が偲ばれます。

そして思うことがあります。先日記事にした韓国の時代劇、あんなに熱い心で私達も古代日本に思いをはせたいものです。神話に秘められた本当の姿を私達も知りたいとはお思いになりませんか?架空の話ではなく、真実の神々の記憶を手繰っていきたいと思います。それから府中はとても素晴らしい町でした。母校外語大も府中のどこかに移転したはずですが、残念ながら行ってみる時間がありませんでした。

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父恋うる女(娘)

2009-02-08 13:17:34 | 父の懐
今しがたいたちが庭を横切りました.小さい細長い茶色の肢体が可愛らしさをアピールして消えていきました.今日は暖かい、水温む風温む?というのにぴったりの気持ちの良い早春の一日になりました.梅は満開、その下には黄水仙も咲いています.木々の枝には新芽が萌え出そうとふくらんでいます.自然の愛情に満ち溢れた世界が広がっています.

そして父親っ子の娘は思うのです.『お父さん・・・・・・』・・・・・歴史書の中では『女』という字は娘の事なんだとか.高杉晋作は西行法師にちなんで自分を『東行』と号したんだとか.特攻隊の生き残りの父は、『天皇陛下万歳~!』という最期の叫びは『お母さ~ん』という意味なんだとか.幼い妹を膝に抱いて、父の大好きな『十五夜お月さん』の歌や日本海海戦の『橘中佐の歌』を歌って、歌は情緒で歌うものなんだとか、いつも子供達に語っていた父.

そんな大好きで大好きな父は、戦後も戦時中と同じ「天皇陛下の陸軍は!ってこうやるんだ」と私たちに勤勉実直誠心誠意、軍人勅諭を生き続けました.戦後は精神世界もUターンしてしまいましたから、本当に生き難かったと思います.でも私の目に映る父は清廉潔白、この世で最も偉い人でした.その父にも自衛官を退官する日が近づいて来ました.自衛官は50代前半で退官するのです.父は「これから予備役になるんだ」と言っていましたが、その時に父が発した言葉が印象に残っています.「退官が近づくと皆就職活動に一生懸命になってしまう.自分は退官したあとに職を探そうと思う.」

それが今も世間を賑わしているんだなと思います.『天下り!』でも天下ることは必要です.50代前半で退官したら就職しなければ暮らしていけませんから.公務員から世間の仕事につくことが天下りだったはずですが、いつのまにかそれはお金まみれになってしまったんですね.お父さんの頃もそうだったんですね.どんなにか苦虫をかむような思いだったでしょうね.お察し申し上げます.そんな父を見過ごせなかった父の友人の口利きで、父は本州製紙の富士寮の舎監になりました.司令官まで勤めた父ですが、私にこれでよい、ありがたいと言いました.

母も戦後の苦労は随分としてきましたが、寮母さんの暮らしは心中葛藤がかなりあったと思います.そればかりが理由ではないと思いますが、晩年はかなりの心身症になりました.でも父を敬愛すればこそ通り抜けました.そんな母が聞かせてくれた言葉があります.それは「お父さんはね本州製紙の方々にとても大事にして頂いて、工場で何か催し事があると工場長さんのお隣に席を作っていただくのよ.そして昔から言われていたことをもじって、『駿河には過ぎたるものが三つあり、富士の高嶺と白隠禅師、本州製紙の寮の舎監』って!」母のうれしそうな顔が目に浮かびます.

今世の中は利得でまみれています.一体何なのでしょうか、お父さん.でも聖徳太子の昔にも朝廷の役人は役得を漁っていたらしいですもんね.あんなに立派な17条の憲法をお作りになり、人間のあるべき姿を説いてくださったのにもかかわらずですものね.人間は自律以外に道はないんですよね.人間が作った法律も運用する人次第なんですよね.人間が堕落するにしたがって、法律も事細かになっていくんですよね.親が子供に示すものは人の道しかないんですよね.そしてそれが世間というものを作るんですよね.

お父さんが大好きだったお母さんの家庭の味、その味覚を受け継いで私は味覚と嗅覚には自信があります!お父さんの孫娘もそう言っています!「お母さんは和服を着ていなさい」と言って母が和服で暮らすことを望んだ父.母の形見の和服は父の形見でもあります.私の嫁入りに父が見立ててくれたぼかしの羽織は典子の娘の七五三の着物になりました.お父さん、私はお父さんの思い出を重ねて子供達に伝えていきたいと思います.そして便利なことにブログという勝手に書き付ける場所を見つけました.今子供達にいえなくても、いつか見ることもあるでしょう.それに見ず知らずの方も読んだり見たりしてくださるのですよ!
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