無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は 百千萬劫(ひゃくせんまんこう)にも遭遇(あい)奉(たてまつ)ること難(かた)し。我今見聞(われいまけんもん)し受持することを得たり。願わくば如来の第一義を解せん(・・・・・無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)百千萬劫(ひゃくせんまんごう)難遭遇(なんそうぐう)。我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)。願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)・・・・・)実はここまでは多くの宗派で『開経偈』として唱えられ臨済宗の生家の法事でも聞きなれていました。そして結婚した夫の家は日蓮宗・・・・・初めて日蓮宗の開経偈を聞き、とても気になって過ごしてきました。あまりに気になっていたのか、夢にまで出てこられた日蓮上人と白隠禅師・・・・・『日蓮と白隠』という記事にしたこともあります。ヒレフリ山教室でも何度か教材にしました。
日蓮上人はこの願解如来真実義という眼目の後に、・・・・・至極の大乗思議すべからず。見聞触知(けんもんそくち)みな菩提(ぼだい)に近づく。能詮(のうせん)は報身(ほうしん)。所詮(しょせん)は法身(ほっしん)。色相の文字は、即ちこれ応身(おうじん)なり。無量の功徳(くどく)皆この経に集れり。この故に自在に、冥(みょう)に薫(くん)じ密(みつ)に益(やく)す。有智無智(うちむち)、罪を滅し善を生ず。若しは信、若しは謗(ほう)、共に仏道を成ず(ぜん)。三世の諸仏。甚深の妙典なり。生々世々(しょうじょうせせ)値遇(ちぐう)し頂戴せん。・・・・・と加えられました。そしてこの短い開経偈の中の、『能詮(のうせん)は報身(ほうしん)。所詮(しょせん)は法身(ほっしん)。色相の文字は、即ちこれ応身(おうじん)なり。』という三つの文に、日蓮上人が無上甚深微妙だとおっしゃっている法華経によって悟られたこの世の全真実が述べられていると、私は思います。
そして・・・・・日蓮上人が悟られた『それ』をわかるために、妙法である法華経を唯一深く読め(南無妙法蓮華経)、とおっしゃっているのです。それがわかれば、自由になって知ろうと知るまいと、誠を尽くそうと尽くすまいと、すべてが仏道を達成することになる・・・・・とおっしゃっています。ですが、悲しき哉。この世の常というものですが、すべてのことは自分で解らなければ決して解らない。仏教徒は『解脱』というものに狂おしいほど憧れ希求しますが、それは単なる希望であって現実の真実ではありません。多くの者は観念の涯をさまようものですが(洋の東西を問わず、自殺するものまでいます)、幾人かの者が、ふとした拍子に真実を知ったり、難行苦行の末に既成観念を打ち破ることができたり・・・・・そうして、日蓮上人も真実を得られました。ですが、いくらわかりやすく、『能詮(のうせん)は報身(ほうしん)。所詮(しょせん)は法身(ほっしん)。色相の文字は、即ちこれ応身(おうじん)なり。』と教えていただいても、肝心要の『身』がわかりません。私にとっても、長いこと『概念』にすぎませんでした。それが、カタカムナに触れカタカムナヒビキが少しずつ身近になってくるにつれて、これは日蓮上人の開経偈であり喜びの宣言であることを実感しています。
そしてこれは、カタカムナをわからなければ、わかりようもない・・・・・カタカムナは概念でも観念でもありません。最近はカタカムナが流行りだとか・・・・・だけど人に聞いてわかるものでもありません。人に聞いてわかるのは、ただ自分がわかる時を迎えた時だけです。そのためにするべきことは、(幸いにも)私たちの母国語である日本語の一つ一つの構成音を頭というか自分の身体の中で繰り返し繰り返し・・・・・そしてそのコピーを作ることのみです。そうしているうちに、こんがらがった絹糸がほどけてくるように、分かってくるものだと感じています。何のためにこんなカテゴリーを作ってこんな記事を書いているのかというと、それを知りたいと思っても答えるべき宗教が混迷の中にあって、『それ』を知りたいと思う後生の若者のために、せめて何らかのよすがになればと思うからです。糸をほどく作業は、自分だけの作業です。ですがその糸口を、せめて、目に触れやすいようにすることが、私がそれに触れることができた幸せの恩返しになるのでは・・・・・と願っているからです。そしてこのことが、人のため、社会のため、ひいては世界のためになると思うからです。