inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

桐の花

2014-05-30 21:52:34 | 季節・週末散歩

桐の花を初めてみました。それも車で移動中だったので、初めは何だかわかりませんでしたが、「あれは桐の花だあ~~~!!!」って、ちょっと感激しました。国道沿いにちらほらと、淡い藤色に、遠目には房のように上向きに咲いていました。

 

夫はラーメンが大好きです。その夫は九州を出て以来、『美味しいラーメンに出くわしたことが無い!!!』と言っています。それが近頃『まあまあ』のちゃんぽん・ラーメン屋さんを見つけました。それで時々そこに出かけなければならなくなります。そこにはちゃんと、ちゃんぽんにかける【ソース】も置いてある・・・・・・持って帰ることができる『皿うどん』もある・・・・・・私はと言えば、子供時代住んでいた下関では大丸デパートで食べるざるそば、福岡県に住んでいた時は、他所で食べる麺類と言えば、うどん。それでたまには私に合わせて、お蕎麦屋さん探しになることもあります。が・・・・・・・・

そもそもちゃんぽんも、結婚して初めて食べた!!!???ラーメンと言えば、子供のころ登場したインスタントラーメン・・・・・それだってほんの時々食べるものでした。その頃の思い出は、今でも一番おいしかったと思う『白熊ラーメン』という棒ラーメンです。思い出の味でもあり、あのラーメンなら、もう一度食べてみたい・・・・・・・・・と思います。そういうわけで、私としてはたいしてラーメンに思い入れがあるわけでもありません。それでも、まあ大抵、お相伴・・・・・・、ドライヴ(?)という筋書きになるというわけです。

 

それで今回うす紫の桐の花を見つけましたし、先月は東海地方に特有な品種らしい白木蓮の『シデコブシ』も初めてみました。それからここら一帯に多いのが『ハナミズキ』・・・・・・・どこか洋風の雰囲気を漂わせていた花の木が、こんなに身近に多彩に生えている・・・・・・・・それにしてもうす紫の桐の花には、本当に嬉しくなりました。ちょっと独特な雰囲気を持っていて、家紋の『桐』にも何となく納得しました。これも内心の決着に近い感じで、お相伴にもいいことがあるものだと思っています。

 

それでは今日も:

          私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マクロビオティック???

2014-05-26 14:21:15 | マクロビオティック

昨日日曜日のテレビ番組『ふしぎ発見』で、石塚左玄・一物全体・腹八分が紹介されました。マクロビオティックで主張してきた精製食品の害についても触れて、その習慣性についてまで言及していました。

先年厚生省が発表した栄養の独楽の図でも、これまで食が問題になっている様々なところで、桜沢先生も久司先生も正食という言葉も、もちろんマクロビオティックの『マ』の字も出てきませんでした。マクロビオティックを知ってみれば歯痒く思われますが、今回石塚先生が登場されたということは画期的なことだと思います。同時にそれほどまでに国民の健康低下があるということでもありましょう。石塚先生に行き着けば、もちろん遡って古くからの養生論にも行くでしょうが、桜沢先生にたどり着かないわけがありません。

桜沢先生の食養学が現代風ではないと産業界が反対したとしても、その根本はさながら(先日からご紹介している)『曼荼羅図』のごとく変化に応じるというところにあるはずで、現代の問題に対処できないような”ちゃち”なものではありません。久司先生はアメリカの事情に合わせて展開なさいましたし、アメリカナイズされた日本の現代事情に逆輸入的に受け入れられています。食養学というのはその時々の食事情の問題に答えることができるものだと思います。

今後どのようにマクロビオティックが取り入れられるのか、あるいはちょっと意地悪な気持ちで、取り入れざるを得ないのか、見守りたいと思います。

 

それでは今日も:

       私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜松の凧

2014-05-24 22:28:58 | 季節・週末散歩

実はこの記事、今月の最初の日曜日のテレビ画面上の週末散歩でしたが、どういうわけか珍しく未完成で・・・・・・そのまま捨てようかと思いましたが、幼い日の思い出を残すことにしました。-------------------------------

 

テレビで浜松のお祭りが紹介され幼い日の思い出がよみがえりました。「あ~、あれはここだったのか~!」半世紀以上も前のことです。父に連れられて弟と、勇ましい大凧揚げを見ました。多分母は生まれて間もない弟と離れた場から見ていたのか、それとも出かけてこなかったのか、記憶にあるのはすぐ下の弟と父、それからいつもその頃の思い出に登場する鬼塚(?)さん・・・・・鬼塚さんは花火大会でも人ごみの中肩車をして見物させてくれました。

凧揚げ大会はあちこちであるらしく時折ニュースで見ましたが、いつも『あれはどこだったんだろう????』との思いを心の底で繰り返していました。そして今回あの河原のような場所と心象風景ともいうべき場所が一致して、何とはなしに安堵感のようなものを覚えました。決着がついたというか・・・・・・こういうのも心残りというのでしょうか。それならば残っているものもできるだけ決着をつけたいという気がしています。

 

それでは今日も:

      私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母のことわざ(?)集 続1

2014-05-23 08:44:50 | 母から娘へ

(前回の記事:この記事は、思いついたときに継ぎ足す、という仕組みにしたいと思います。というのも、まとめて思い出せない・・・・・ので。季節感も何もありません。明日8日は父の命日、同じ今月の30日は母の命日・・・・・というわけで母のことを思っていたものですから、こんな記事を思いつきました。

 

アサリ水からシジミは湯から

     お汁を作るとき、アサリは水から火にかけて、シジミは沸騰させたところに入れる。

川(魚)は皮から、海(魚)は身から

     お魚を焼くとき、川魚は皮側を、海魚は身側を先に焼く。

葛にはたぎり湯を

     葛湯を作るときには、フツフツしているようなお湯で溶かす。

りんごは乞食に、梨は殿様に

     りんごの皮はなるべく薄く惜しむように剥き、梨の皮は思い切りよく厚く剥く。

餅は乞食に、魚は殿様に

     お餅は待ちきれずにくるくると返しながら、お魚は殿様のように悠揚迫らず焼く。)

 

                         

 

今日はここから

下手の長糸

     縫物をするとき、下手ほど糸の長さを考えないで、糸も労力も無駄をする。

     特に『布団づくり』の最中に教わりました。

木綿糸は切れ、絹糸はほどけ

     木綿糸がもつれてしまうと解けないので、切って早く処置をするのがよい。

     絹糸は必ず解けるから、根気よく。

 

 

それでは今日も:

     私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年度教室開始

2014-05-19 09:53:31 | 教室情報

今月27日、ご案内通り今年度の教室が始まります。お料理教室のテーマは『母から伝えられたもの』で、実習メニューは松見先生よりのプログラムを先の記事でご披露済みです。

時間と場所は例年通り、13:00~16:00、柿本医院なでしこ寮、お申し込みは平戸の『自然食品和み』(0950-23-2566)にお願いしています。『ひれふり山教室』についても例年通りです。

 

それでは今日も:

      私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神仏は敬すべし恃(たの)むべからず

2014-05-13 14:16:22 | マクロビオティック

祈りとは何か・・・・・という問いに対する宮本武蔵の信条というか態度というか・・・・・心構えというか・・・・・これはそのままマクロビオティックを生きるよすがとする私たちのマクロビオティックに対する考え方に当てはまると思います。

マクロビオティックの現状を振り返ってみると、流行のキーワードは『おしゃれ』という単語に集約されるのだとか・・・・・マクロビオティックレストランのきれいで美しいお料理・・・・・オリーブオイルのドレッシング?????・・・・・『おしゃれ』もある程度は受け入れられるために必要なことかもしれませんが、マクロビオティックに必要なものは『確信』だと思います。この『おしゃれ』を選ぶことは、そのまま宮本武蔵という真実の探求者が最も忌避した『恃む』という姿勢に通じるものがあるような気がします。それは『マクロビオティックだから・・・・・???』という期待と希望に恃んだ安易な姿勢です。多分期待が裏切られた場合には、反省することもなく、マクロビオティックを捨てるのだろうと思います。

 

例えばマクロビオティックを始めたきっかけが自分の病気にあったとします。それは自分が決めたことだったでしょうか。第一の関門はその自主性です。『他人が薦めたから』という理由ならば、それは『お医者様にお任せする』とか『神様におすがりする』というのと同じですが、その関門を通過する可能性は『実行したかどうか』です。実行したとすれば、第二の関門を通過する切符を手にしているはずで、第一関門の切符、たとえば新幹線ならば『のぞみ』の切符ではない『ひかり』の切符をもらえることになります。

これはどういうことかというと、その場の真実を見つめるかどうかということであって、『のぞみ』の切符が最良で『ひかり』の切符が一段落ちるということではありません。『ひかり』に乗れば『のぞみ』にないチャンスもあるし見えるものもあります。ただその時その時の自分の態度が問題なのだと思います。またマクロビオティックそのものがその人にとって、『のぞみ』だったり『ひかり』だったり、あるいはまた『こだま』だったりすることもあります。先日記事にした『マンダラ』のように、その時その時にふれあう条件をどのように選び・つくり・思いを到らせるか・・・・・そうした結果によって変わってくるもので、それがマクロビオティックという人生の処方を選んだ醍醐味なのだと思います。

世の中には肉食をしても穏やかに長生きをする人もたくさんいます。もちろんその肉食はむやみやたらな肉食であろうはずはありませんが、もちろん肉食をするからと言って悪い人になるわけではありません。ですからマクロビオティックをしたからと言って、必ず良い人になるとも限りません。また(斎戒沐浴・修行・精進をきわめて?)一定の境涯に達した人は、それから肉食し破戒したとしても変わらない・・・・・まあそれを悔み無明に再び沈む人もいる・・・・・。まあいずれにしても今目の前にある状態を見極めなければなりません。自分のしてきたこと、家族のしてきたこと、先祖のしてきたこと・・・・・ですから何を変えることができて、何を変えることができないかも知らなければなりません。

その中で大切なことは自分を鍛え続けるかどうか・・・・・という一事にかかっていると思います。常に鍛えてステップアップすることができるかどうか・・・・・『たたく』ということを忘れないかどうか・・・・・そして自分の周囲のわけを一つ一つ明らかにしていけるかどうか・・・・・、これがマクロビオティックを選んだ私の理由です。人は生きている間にだけ、自分をステップアップすることができます。自分の波動を変えることができます。(死んでしまった後は、お釈迦様やイエス様のような彗星のような波動にぶつかる幸運にめぐり合ってその中に呑み込まれるか、はたまた自分を思ってくれる人の送り付ける波動が上等でそれに共鳴できるかどうか・・・・・)ですから長生きに意味があるのだと思います。無明の長生きに意味があるかどうか・・・・・・(お気の毒ですが、苦しみばかりかもしれません。)畏るべきものを畏れ祈りながらたたき続けて生きようと思います。

 

私の曾祖父が『圓明流』だったという縁もあって、宮本武蔵に親近感を覚えています。その『恃まない』という強い意志に共感を覚えています。私もマクロビオティック料理(?)に恃まないで、マクロビオティックを生きていきたいと思っています。マクロビオティックのレストランで楽しんでくださることもよいことだと思います。ですがマクロビオティックの真実は、マクロビオティックで推奨されている食べ物の後にあると思います。本を出版した後私は自分を『たたく』ことのほうに心と活動を移してしまいましたが、娘1号夫婦(オーガニック・ベース)は教室を主宰するとともに通信講座を作ってマクロビオティックの普及活動をしています。どんな所に住んでいらっしゃる方にもマクロビオティックに随分と触れやすくなったと思いますので、ついでながらお知らせしておこうと思います。そして様々なそれぞれのマクロビオティックを確信していただきたいと思います。

 

それでは今日も:

     私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければいけない!!!

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の背負子・随想古事記

2014-05-08 09:58:36 | 父の背負子3(雑記)

去年11月3日、父の誕生日の『私の中朝事実』という記事で、今後年2回私が父から受け継いだ背負子をご披露する決心を公表しました。そのもう1回の期日が今日5月8日、父の命日ということに決めていたので、また記事にしています。父親から受け継ぐもの・・・・・それは人生の精神的基盤・・・・・それが歴史でありアイデンティティと呼ばれるもの。いったいそれは何だとお思いですか?

一つには、それは名前です。国名であり家名であり、私だけの名前です。そうやって私達は生きてきました。しかし現代は昔ほど自分の根を自覚することがない時代になりました。身近にそれを確認する親もなければ、伝える子供たちもいない・・・・・・いつかそれを振り返りたい若者のよすがのために、私は父から受け継いだ背負子を残したいと思います。

 

 

父の背負子・随想古事記

        父の願い   2010-04-30
        私の邪馬台国   2012‐10‐04
        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05
        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09
        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12
        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15
        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17
        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17
        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24
        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26
        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27
        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29
        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02
        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04
        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

         アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

 

それでは今日も:

        私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母のことわざ(?)集

2014-05-07 12:21:00 | 母から娘へ

この記事は、思いついたときに継ぎ足す、という仕組みにしたいと思います。というのも、まとめて思い出せない・・・・・ので。季節感も何もありません。明日8日は父の命日、同じ今月の30日は母の命日・・・・・というわけで母のことを思っていたものですから、こんな記事を思いつきました。

 

アサリ水からシジミは湯から

     お汁を作るとき、アサリは水から火にかけて、シジミは沸騰させたところに入れる。

川(魚)は皮から、海(魚)は身から

     お魚を焼くとき、川魚は皮側を、海魚は身側を先に焼く。(5・19訂正しました。

     T.K.さん、ありがとうございました!!)

葛にはたぎり湯を

     葛湯を作るときには、フツフツしているようなお湯で溶かす。

りんごは乞食に、梨は殿様に

     りんごの皮はなるべく薄く惜しむように剥き、梨の皮は思い切りよく厚く剥く。

餅は乞食に、魚は殿様に

     お餅は待ちきれずにくるくると返しながら、お魚は殿様のように悠揚迫らず焼く。

 

 

それでは今日も:

     私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曼荼羅・まんだら・マンダラ

2014-05-06 14:53:39 | 日本語・古事記・歴史・日本人

曼荼羅・・・・・と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、『中将姫』の物語・・・・・・・長谷寺の観音様・・・・・・そんなものでしょうか、まあ人それぞれですよね。国文学を専門に学んだ人は別にするとしても、高校の古典で習った『かげろう日記』の辛い道綱の母が必死ですがった長谷観音・・・・・・清少納言も紫式部もふれた長谷観音・・・・・・そんな観音様の救済図を中将姫が夢に見て織り上げたのが長谷寺の曼荼羅で、阿弥陀仏を真ん中にして周囲を様々な仏様が取り囲んでおられる浄土を描いていると聞き伝えられた図です。

有難いと拝む気持ちの訳は、曼荼羅と自分とのかかわり合いの中にあるはずです。それはどんなもので、その精神構造がどうなっているのか、何を感じているのか、あれこれ不思議に思って来ました。曼荼羅とは何か????・・・・・・自分の中で腑に落ちてきた考えを記事にしたいと思います。

 

私たち多くの人に一番わかりやすい阿弥陀如来というか大日如来を中心に多くの菩薩像が取り巻いている曼荼羅図・・・・・あれは単に夢か希望かといった浄土を描いているのではありません。あれは具体的に自分であり現在の世界です。あの大日如来は『自分』でもあり『先祖』でもある・・・・・したがって『今』でもあり『昔』でもあります。また多くの菩薩像は『自分』でもあり『子孫』でもある・・・・・したがって『今』でもあり『未来』でもあります。またもっと本質的に大日如来は宇宙を生み出す根源でもあり取り巻く菩薩像は現在の宇宙の諸像でもある・・・・・そもそも曼荼羅図というものは、『現れ』というか『関わり』を描いた図なのだと思います。その中にはこの世のピンからキリまで、最大から最小まで、過去から未来までの大宇宙から今の刹那まで、見る人の立場に合わせて如何様にも解釈できるものが描かれています・・・・・・というより描いて教えてくださろうとしたのかもしれません。

要するに根源的な力の源とその力によって様々に現れた形というか姿というか・・・・・・ですからその力とその関わり・・・・・それによって二次的に出現する力とその条件・・・・・その繰り返しによって今があるという『この世の展開図』なのだろうと思います。

あの曼荼羅を単に絵としてみることも、それは可能でしょうしそれぞれの自由だろうと思います。ですがあれほどこの世の真実を語る絵もないと思います。そして私たちが祈ることができる・・・・・というより関与することができるのは、大日如来と菩薩像の間、またはその菩薩像の縁ではたらく大日如来の後ろに潜む力に対してだろうと思います。すべての背後に潜んで関与している力に対して、日々無意識に行っている条件づくり・・・・・場づくりといってもよいと思いますが・・・・・、つまり私たちの日々の思いと行い、その結果どんな菩薩像になるのか、あるいはどんな明日を迎えるのか、あるいはどんな人生を過ごすのか、すべてを決定するのだと思います。

        曼荼羅・・・まんだら・・・マンダラ

私たち日本人の心のふるさと、ワタツ人の言葉で『マンダラ』と発声すると、それはそういう説明の内容そのものを表す私たちの心の音になります。ですから日本語を大切に丁寧に丁寧に子供たちに残していかなければなりません。日本語はこの世の真実の音を今に伝える、外国語に代えがたいほとんど唯一の言葉です。曼荼羅の不思議に決着がついた今、ただただありがたくひたすら思い願っています。

 

それでは今日も:

      私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする