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体験記(3)・ 手術を決心しました。

2015-02-28 11:01:55 | manndarage2(膵炎体験記)

手術という『自分の体を切る』という事態に直面して、全然知らない外科の先生に自分を委ねてしまうのか・・・・・という不安に駆られました。だけどよく考えてみると、友達付き合いをしているとしても、外科医の腕は知らないこともある・・・・・有名な先生がよいかといえばそうでもないこともある・・・・・どちらにしろ、よく知らない・・・・・し、知ることもできません。私の場合は幸い良い内科の先生にめぐり合い、先生の判断を信頼することが出来ました。それに自宅からも主人の勤務先からも近いところに県立病院はありました。ある意味運命としか言いようのないことなのではないかと思います。それに、夫や息子は他人様にそうしているではないか、自分も手術を受けよう、そう思い決めて手術の決心をしました。決心をしたらしたで、万が一の事故に備えなければなりません。多少の書き物などをして、手術予定の二日前入院の日を迎えました。

 

入院のための外来受診をして、最後の画像検査と口腔外科のチェックを受けることになりました。口腔内の細菌が手術結果に影響を与えるらしいとのことで、最近は術前検査に組み込まれているのだそうです。電動歯ブラシのおかげか、何の異常もありませんでした。病室に落ち着いて、手術までの予定などを聞きました。『もう止められない・・・・・』とちょっと揺れることもありましたが、『ケ・セ・ラ・セ・ラ』とも思って予定通りこなしました。娘が手術前後の付き添いにきてくれました。手術直後の事態を想像できませんでしたから、その娘の付き添いがどんなにありがたいものか、手術前は思いもよりませんでした。夫が一人暮らしをする自宅の面倒を見てもらえるのがありがたいというのは、前回の入院で良く分かっていました。

手術当日となりました。午前中術後のための硬膜外麻酔のチューブを入れられて、確認のためのレントゲン写真を撮りました。その後看護士さんのお迎えが来て、主人と娘と前日から来ていた息子に付き添われて手術室前まで行きました。手術室前で病棟の看護士さんから手術室の看護士さんに引き渡され(?)て、何となく逮捕されたような異様な気分で手術室に向かいました。主人と息子は日々慣れている局面なので(まあ立場は違っていますが)それほどでもないと思いますが、娘がどんな気持ちだったろうかと思います。息子が小さい頃虫垂炎の手術を受けることになったことがあります。同じような場面で、夫は外科の先生と一緒に手術室に入っていきました。私は手術室の入り口で制御されて、ドアが閉ざされました。あの時の口惜しさが入り混じった辛さをよく覚えています。それに私は娘に、あろうことか、『さよなら』と言ったんだそうです・・・・・!!!!!

手術台まで連れてこられて、私は本当に身一つで台に横になりました。麻酔をかけられるほんの短い間に、「馬子にも衣裳とはこのことだ」と実感したのを覚えています。手術台に乗っているのは私という意識ではなく私の体という『もの』だと思いました。・・・・・・後はもう、翌日の朝まで、何時だったのか、8時は過ぎていたように思いますが、何にも覚えてはいません。手術が長引いて予定より遅れ、『覚醒して確認してから行くよ・・・・・』と話していた息子は仕事に戻らなければならず、どんなにか気がかりだったろうかと思います。そして夫と娘の呼びかけにうなづいたのだそうですが、私は何一つ覚えておらず、一番辛いかもしれない当日の夜を何にも知りませんでした。夫と娘は、切除部分を見せてもらって手術の説明を受けたそうです。出血はしたが、輸血はしなかったと言われた外科の先生のお話しで安心したと後で聞きました。覚醒しない私に娘は帰るに帰れない気持ちだったそうですが、夫からどういう状態なのか教えられ大丈夫と言い聞かされてしぶしぶ帰ったんだそうです。

 

明くる朝「柿本さん」と呼び掛けられる声に気付いて目を覚ました時、手術が終わったことはわかりましたが、自分がどうなっているのか呑み込めませんでした。チューブがたくさんあるのが見えました。麻酔科の先生が来られて、気道がどうとかでその先生が担当してくださったとか・・・・・、今から鼻に通したチューブを抜くとか・・・・・、これも訳が分からないまま過ぎました。そして看護士さんから娘が来ていること、外科の病棟に戻ることなどを教えられて、これまた夢現、担架台に移されて駆け足のような速さで(と感じましたが)病室に戻りました。

このスピードが功を奏したのか、私はすっかり覚醒しました。そしたらものすごい痛みが襲ってきました。どこが痛いのかわからない、我慢できない苦しさ・・・・・悲鳴を上げそうな気持ちになっていたら、看護士さんが見つけて先生に注進、痛み止めを筋注されて落ち着きました。その後回ってこられた先生に、「あれがまた来るかと思うと恐ろしい・・・・・」とお話ししたところ、不審がって背中の麻酔剤の量をあげて下さいました。後で息子(麻酔科なんですが)に聞いたところによると、背中の麻酔は術後の痛み止めなんだそうです。多分私は手術の麻酔が効きすぎて翌朝まで覚醒しなかったくらいですから、背中の麻酔剤の量を抑えてあったんだと思います。それで一変に覚醒して、一変に痛みが襲ったのだと思っています。

 

そういうわけで私の手術は成功しましたが、私は思ってもみなかった『術後』を体験することになりました。これからのことはまた『続き』にしたいと思います。


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体験記(2)・ 膵臓癌?????

2015-02-23 14:25:42 | manndarage2(膵炎体験記)

急性膵炎が本当に急性だったためか沈静化も早く(?)痛みもすっかりなくなりました。次の週には各種の検査、造影剤を使ったMRI、内視鏡的胃カメラ(CTスキャン?)に内視鏡的逆行性膵胆管造影検査・・・・・を受けました。検査開始の前に私と主人は内科の先生から初期の膵臓癌を疑っているとのお話を聞きました。原因の三分の一は食事やタバコやアルコールなど、三分の一が胆石、後の三分の一は不明であることなどを教えていただきました。

検査に当たっての説明を受けながら、膵臓というのは検査という点からも治療という点からも、かなり厄介な位置にあるらしい・・・・・ということを知りました。膵臓・・・というと『糖尿病』というのが一般的だと思いますが、まあ言わばそれは血液病というか内分泌病(?)、血液検査で分かります。だけど画像診断となると、胃や腸の後ろにあったり背骨や腎臓の向う側にあったり・・・・・生検をするにしても同じ理由でサンプルを取りにくい・・・・・万が一癌で癌細胞をこぼしてしまったら、とりかえしがつかない・・・・・それに加えて、膵液というものの性質もある。どうやら、膵臓は病気になってはいけないところらしい・・・・・

内視鏡的検査は軽い麻酔(?)をかけて行われるので、体への負担は別にして感覚的にはそれほど苦しいこともありませんでした。だけど、麻酔が覚めかけたのか周りの気配を感じ始めたころ、先生の声が聞こえてきました。どうやら外科の先生と手術の予定の相談のような・・・・・誰の相談なんだろう????・・・・・とぼんやり聞こえてくる声を聞いていました。最近は電子カルテなので、映像をかなりすぐに見ることができます。内科の先生から主人も共に説明をとのことで、私と主人は最終的な詳しい説明を聞きました。癌の可能性が濃厚であること、それも初期の初期段階で偶然膵炎を起こしたから発見したようなものであること、膵臓癌の確定は難しいこと・・・・・・いずれにしても早く手術をするのが良いので手術の予約をしておいたので考えてほしい・・・・・・といった内容でした。どうやら先生が検査室から電話なさっていたのは、私のことだったようです。主人は医者ですから入院直後の説明で大方分かっていたとは思いますが、私と違ってこの事態とその重大さとを医学的に理解したと思います。

私の方はと言えば、「へえ~~~、やっぱり本当なのか?????」、といった感想のほうが大きくて、「手術を受けるまでにどれくらい時間的余裕がありますか?半年くらいあるでしょうか?」とお尋ねしました。半年あれば、また食事規制をして・・・・・と髄膜腫の経験を思い出していました。ところが先生は「それは無理です。」とお答えになったのです。そして「一番早い予約で、来月の半ばころの手術予定を入れておきました。」と言われました。「やめるのは自由なので・・・・・よく考えて」とも付け加えてくださいました。

急性膵炎も治まり入院しての検査も大体終わったので、退院の許可が下りました。内科の先生は毎日必ず様子を見たり検査の結果を知らせたりと話しに来てくださるのですが、私のどうでもよいような不安にも誠実に答えてくださいました。この先生との信頼関係が、後に手術の決断をすることになる一つの要因だったことは間違いありません。手術の予定までに外科からの検査依頼があって通院予定が組まれましたが、一応私は15日間の入院生活を終えて帰宅しました。

 

残された時間は一月しかありません。その間に決心しなければなりません。子供たちにも最初は隠していたのですが途中で露見してしまったので、意見を聞くことができました。中でも医者である主人と息子は悲壮な決意をしたと思います。膵臓癌というものはそれほど見つかりにくく、見つかっても手遅れの場合が多い・・・・・アイパッドのジョブズ氏も膵臓癌が見つかって、医学的に処置ができそうにもない段階でマクロビオティックを最終的に選んだのだとか・・・・・残念ながら亡くなっています。後に分かったことですが、まさか久司先生までも・・・・・・とにもかくにもほとんど手遅れで、予後が悪い・・・・・ですが腫瘍マーカーもそれほど爆発的ではなく、多分膵頭部を切らなくてよい(開腹後の状況判断ではわからない、とのことでしたが)・・・・・しかし待ってはいられないということで、一月間のマクロビオティック的努力にすべてを託して、後はもう運を天に任せる以外にないと思いました。主人が落ち着いたら公表してもよいと言ってくれたことも励みになりました。

娘にバレてしまった時のことをよく覚えています。いつも主人が居ないことは職業がらありうることですし、これまでもいつものことでしたのでよかったのですが、なんともはや、電話中に入院病棟のチャイムが鳴り面会時間終了のお知らせが・・・・・・『何?』と訝しがる娘に『テレビよ・・・・』と胡麻化したものの、どうしてもこのところおかしいと思っていた娘は父親に電話しました。そして主人は子供たちにすべてを知らせました。

外科の先生方は手術の前にあらゆる情報を集められるらしく(そりゃあ、そうでしょうと思います。)、ペット検査を受けました。よほど特殊な検査なんだなあと実感しました。何しろ地下にあってかなり隔絶された感じです。放射能のせいで時間がたたないと外にも出られないんです。検査の内容は置きまして、そこで出会った人との会話を忘れることはないと思います。私より10も年上ではないと思いました。彼女は初めてだという私に、『もう3回目よ』と話してくれました。癌の化学療法も3回目を受けることになっているということでした。名前も知らない間柄でしたが、互いの身の上を親しみ思いやって短い話をしました。彼女は『もういいかなあって思うんだけど、人間はなかなか死なないよ』との言葉を残しました。私に頑張れと言ってくれたのだと思います。

こういう人たちとも会える・・・・・そこに付き添っている家族の思いにも触れることが出来たような気がしました。これも手術を受けてみるのも悪くない・・・・・と思ったきっかけにもなりました。マクロビオティックを知らないたくさんの人々が生きている・・・・・マクロビオティックの私が手術を受けたらどうなるのか・・・・・どちらかしか選択が出来ない人生で、どちらに転ぼうが後悔は決してするまいと思いました。

医者の主人も息子も手術希望でした。私はというとぎりぎりまで決断がつきかねていました。そんななかも検査や外科の外来受診、口腔外科受診・・・・と日程はあっという間に過ぎて、いよいよという時にもう一度最後と思って外科の先生に面談を申し込みました。「やめてもいいですか・・・・・」、先生は慌てられたと思います。『マーカーもわずかではあるが上がってきてますし・・・・・』と心配して『膵癌はデータがそろっては遅いんです』とおっしゃいました。そして『もしどうしてもという場合には、なるべく早く連絡してください』と言ってくださいました。

要するに、どちらとも状況で決断することは出来ないのだということがわかりました。手術をしなかったら、うまくすれば、このままひどいことにはならずに小康状態で生涯を終えることができるかもしれない。だけど最悪の場合は、あの時手術をしなかったから・・・・と私はいいかもしれないが、夫や子供たちは後悔するに違いない・・・・・最悪でなくとも、急性膵炎の痛みがまた起こるかもしれない・・・・・そして夫と子供たち(家族)にまあ迷惑をかけることになる。一人だと強がってみても、結局家族との関係なしには生きることが出来ません。病人には看護人が必要なんです。ペット診断の検査室で出会った彼女も他の患者さんもみな家族連れでした。ご家族との関わり合いを強く感じました・・・・・消化酵素を出す膵臓の腫瘍なんて何でできているのだろう・・・・・そしてたとえ手術がうまくいっても、予期せぬ出来事に見舞われるかもしれない・・・・・結局はどちらかに無理やり舵を切るしかないのだと分かりました。

退院後の血液検査のデータも画像検査も改善は見られません。私は手術を受けようと決心しました。どちらか一つだけしかない選択に良いことも悪いこともあるだろう、もう一つの選択にも同じだろう・・・・・だけど、それは比べることが出来ません。もう一つは無いのですから・・・・・・。最低条件として最も身近に居てどんなことになっても受け入れざるを得ない家族の後悔を最小にしなければと思いました。良いことも悪いことも、経験した後の自分を自分として、振り返ろうと決心しました。もう覚悟を決めて迷わないことにしました。マクロビオティックにも思い込みもあるし事故もある!!!!!膵炎にもなってしまったではないか!!!!!これがその時の心境でした。そしていよいよ手術のための入院・・・・・長くなりすぎますからこれは体験記(3)に回そうと思います。

 

 


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黒楽茶碗『俊寛』

2015-02-21 13:52:22 | その時々2

半年ぶりにパーマをかけてきました。先日の体験記(1)に書いた歩いて3分もかからないところの美容院ですが、そこには『和楽』という確か小学館の季刊誌が置いてあり楽しみにしています。今回のテーマの一つが『茶の湯』で、利休が生み出した『楽茶碗』が紹介されていました。

その中に『俊寛』と利休自身が名づけた黒楽のお茶碗がありました。その説明は次の通りです。利休が鹿児島在住の門人から長次郎の黒楽茶碗を乞われたのだそうです。それで3個送ったら2個が送り返されて、門人が手元に残した一つに銘を頼まれたのだそうです。それで利休はその黒楽茶碗に『俊寛』との銘をつけたのだとか・・・・・・

 

これを読んでしみじみその黒楽茶碗を見ていたら、俊寛僧都の悲痛とそれを思いやる利休の心に触れました。皆様ご存知のとおり俊寛僧都が鹿児島県の絶海の孤島鬼界が島に流されたのは三人連れでした・・・・・そして連れの二人は恩赦で許され都に帰りました。一人残された俊寛の心・・・・・これをその黒楽茶碗に移したのだろうと思います。12世紀の俊寛と16世紀末の利休・・・・・そして21世紀の私達・・・・・『銘』という行為にそこはかとない歴史を共有する心を思いました。


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舞茸・マイタケ・・・・・日本のトリュフ???

2015-02-20 10:26:11 | 平戸

先日平戸に帰郷した折、柿本の姉のところに行きました。主人にとってたった一人の兄弟姉妹ですが、姉夫婦は雲仙市愛野町で眼科医院を開業しています。その時姉がよく利用するという雲仙きのこ本舗というお店に寄り、菌床栽培のキノコ室(?)のようなところでキノコ狩り(?)をしました。えのきだけ、舞茸、アワビ茸、なめこ・・・・・・がありました。

姉が慣れた手つきで鎌を操って数軒分のきのこセットを作ったので、ただでさえ香りの強い舞茸ですが、キノコ室にその香りが充満しました。私はときどき炒め物などに使いますが、舞茸の味が好きというより香りが好きです。そしてかたまりのような根株のところの香気は、これぞ日本の『トリュフ』ではないかと思っています。それでヨーロッパのトリュフ探しの豚に思いを馳せました。私はあの豚さんと同じかあ~~~~・・・・・って。

 

舞茸はお味噌と相性抜群です!!!!!いつか堀江さんのところでお店に並んでいた味噌ラーメンに舞茸を入れて作ってあげました。かなり好評だったと思いますよ。ただキノコは水気が多いので、下準備で水気を飛ばしてください。


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体験記(1)・急性膵炎になりました!

2015-02-15 12:08:39 | manndarage2(膵炎体験記)

昨年9月初めのことです。思いがけぬ痛みに襲われました。『思いがけぬ』というのは、まず自分が痛みに襲われることへの戸惑い、そしてどこが痛いのかはっきりと自分でわからないこと、今まで痛みに強いと思ってきた自分にとってその痛みが今後自制内に納められるか、と言うより、抑えられなくなるかもしれないと先行きに不安を感じたこと・・・・・足を一歩踏み出すという当たり前の普通の動きで、これまで感じたこともない踏み込みの衝撃(?)で、たったそれだけのことで痛みを感じたんです!!!!!

 

最初のうちは笑ったり咳き込んだり、などといったようなことで何となく痛かったので、どういうわけか筋肉痛???と思いました。そもそもそんなことになったのは、60歳を過ぎての『親知らず』・・・・・歯が生えてきたり大臼歯に近づいて来たり・・・・・歯肉の状況がアンバランスになって軽い歯肉炎状態(?)・・・・・それで電動歯ブラシを試してみることにしました。(これについては和みさん製の『ハーモナイザー』のおかげでうまくいったことを記事にしました。)でもそれが、その良くなったことが(後で思い返してみると、ですが。・・・・・歯の根にたまった化膿性のものが押し出されて副鼻腔から気管支に落ちたんだと思います。)、咳の原因だったんです。咳き込むと同時に痰も出ました。「何でだろう???」とは思いましたが、ひどく咳き込むために痛いんだろうと納得もしたんです。でもそのうち「これは~?」と内心不安を覚えるようになり、「こりゃあ、痛み止めをのまないと普通に家事が出来ない・・・・・」と、自分に何が起こっているのか知る必要があるので、土・日を経過観察(たまたま?)して月曜日に内科を受診することにしました。

 

土・日を通じて残念ながら痛みは軽減することなく、みぞおちから左側一番下の肋骨に沿っての痛みを訴えて内科を受診しました。診察台に横になるのもなかなかの状況でしたが、CTやらなにやら・・・・・いろいろな検査を受けて診察の結果、『膵炎のようなのでこのまま県立病院を受診してください』と言われました。『今からすぐにですか?』と戸惑う私が足を踏み出せないでいると、『痛みますか?そうでしょうね』と気の毒そうに痛み止めの頓服を処方されて県立病院に向かいました。

県立病院の内科でとりあえずの緊急の診察の結果は何と『急性膵炎で即入院!!!』・・・・・え、このまま!?!?!?・・・・・このころ午前中の診察を終えた主人が県立病院にきてくれました。入院手続きを済ませた後、何の準備もなかったので2時間ばかり自宅に戻る許可をもらいました。慌ただしく簡単な入院準備を調えて病室に戻りました。何よりも幸いなことは、県立病院が自宅からも主人の勤務先からも近かったことです。それでとりあえず、今晩必要なものだけ・・・・・私も主人も、思いもよらぬことばかりでした。

 

思いもよらぬこととは言いながら、『万が一かかることもありなん』と内心思うところがあった私は、日曜日にヘアーカットに行きました。美容室は歩いて3分もかからないところにあるのですが、主人が車で連れて行ってやろうかと提案してくれたので、私は主人に車で送ってもらい迎えに来てもらいました。どうやらあの提案は主人の問診だったようで、『まさか???そんなに痛いのか???』と思ったそうです。

 

急性膵炎の治療は、絶食なんだそうです。血液検査と点滴だけの入院生活が始まりました。5日目に何とか『重湯』を食べられるようになりました。三分がゆ、五分がゆと順調に食べられるようになり、血液検査結果も落ち着いてきて、一週間目に内視鏡等の検査が始まることになりました。急性膵炎が落ち着かないと検査はできなかったんです。本当のところ内科の先生は当初から膵臓癌を疑っていたらしいのです。それで急いで急性膵炎の治療をする必要があったらしいのです。

絶食!!!・・・・・これはまあ、マクロビオティックの徒にとっては幸運でした。色々悩まずに済みます。でも最近は入院する時に調査があって、患者の嗜好や考え方に配慮してくれるらしい・・・・・それでいろいろ自分の希望を書きました。でもとりあえずは『!・!』・・・・・これはいいのですが、何にもすることがありません。入院生活にとって、食事は大切な区切りだし、入院患者の仕事だと思いました。本を読むことにはしましたが、何となく身がいらない・・・・・それでどうでもいいような本を読むことに・・・・・

重湯になりました!!!!!このときの嬉しさとおいしさは忘れません。食べるということの幸せを感じました。絶食しているときも、断食ではありませんから、点滴などで空腹感はあまりないんです。だけど『口で食べ、お腹を落ち着かせる』というもっとも本能的な行為の意味を感じました。だけど、です。だけど、二度目の重湯は美味しくありませんでした。「あ~~、玄米の重湯だったらなあ~~~~!!!!!」「せめて器でもなんとかならないかなあ~~~???」そうこうしているうちに、お粥になり、普通の膵臓食になり・・・・・ましたが、やや悲しい食事でした。まあ膵臓食は、低脂肪・低たんぱくで、油の質やお肉にあまり悩まされないのだけでも、良しとすべきでしょう・・・・・と、思い返し思い返しいただきました。

 

長くなりますから、この続きは体験記(2)とします。でもこの状況は、私の『マンダラゲ』・・・・・わけがあってのことだろうと思います。それで新しいカテゴリー・manndarageを作り今回の体験談用にしました。(日本語の発音を思って、nを重ねました。)


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七か月ぶりに平戸へ

2015-02-14 10:15:32 | 平戸

久しぶりに平戸に帰郷しました。柿本の父の13回忌のため昨年7月に帰って以来、9月に入院騒ぎ(これから体験記を整理しながら書こうと思っています。)を起こしたもので、なんとまあ、七か月も経ってしまいました。そしてまた溜まりに溜まった大事な用事や雑用で平戸での延べ十日もあっという間に過ぎてしまいました。

長く帰っていない自宅は寒すぎて、ストーヴを焚いても暖まらず、ついに薪を一晩中暖炉で燃やしました。それとは裏腹に自宅の庭は春の景色(?)、蝋梅と白梅と椿と・・・・・それに水仙が盛りで、香りを満喫しました。どうだんつつじの枝が赤く、木蓮のつぼみもたくさんついていたので、これからが楽しみです。

 

弟夫婦にご馳走しようと、お魚を探しに行きました。が・・・・・しけで、これというものはほとんど無く、あったのは見事な釣り鯛のみ。仕方がなく大枚(?)をはたいて、それを三枚におろしてもらい、実家に行きました。そして鯛の刺身とあらの一部で作る潮汁の実習・・・・・母譲りの"コツ"を義妹姉妹に伝授してきました。食べごろの弟の春菊と小松菜と・・・・・それから義妹手作りの松前漬け・・・・・「お正月みたいねえ・・・・・」と久方の会食を楽しみました。母の味がしました。

そしてもったいないくらいの釣り鯛だったので、半身は主人へのお土産に鯛茶漬けを作り冷凍しました。何も無しでは、うらやましがるに違いありませんからね・・・・・というわけで、うまくいけば(宅急便が届けば)今夜の主人のメニューは平戸の鯛で作った『鯛茶漬け』です。

コメント (5)
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