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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

意見の種類

2008-03-31 11:39:36 | マクロビオティック
昨日の日曜日は主人について講演会に行って来ました.最近は色んな方の意見や仮説が世の中に混在しています.その中には正反対の考えもありますし、似たような考えもあります.世の中はそんな矛盾も何もかも飲み込んで、同時に一日一日巡っています.まあそのおかげで私達は自分の中で少しずつ調整(?)をしながら、つまりあっちに揺れこっちに揺れしながら自分を作っていくのかもしれません.

それはそれとして健康回復に対する意見には三種類あるような気がします.(1)は現在の不足や不具合に対して外から補おうとするもの. (2)は現在の過剰を取り除こうとするやり方. (3)は現状に至る筋道を撚り戻そうとするやり方. 簡単に三つを区別するとしたら、(1)は補強、(2)は不要物除去、(3)は自己再生とでも言いましょうか.

(1)は今の生活を変更することなくそのまま何かによってその都度維持していこうとするやり方.例えば貧血は鉄分不足とみて鉄を補給するやり方.何となくお念仏を唱えて阿弥陀様におすがりするのと似ています.(2)は自分の生活を反省して元の健康を取り戻そうとするやり方.例えば異常に高い検査値を正常に戻すため飲みすぎ食べすぎを減らそうとするやり方.他力本願のお念仏から自力本願の座禅まで幅がありますが、現状(自分)に対する肯定は(1)と同じです.(3)は反省するのは同じですが、現状を否定もしてあらゆる困難を乗り越えて本来の体を取り戻そうというやり方.敢えて言えば修験道に似ています.己が不始末で死ぬ覚悟もしなければなりません.

それぞれのやり方にも幅があって更に三種類くらいに分けられそうです.マクロビオティックの中にも三種類あります.世の中全体で見ればマクロビオティックは、少なくとも私のマクロビオティックは(3)に近くなります.ですが私のマクロビオティックは私のものであり、あなたのものではありません.あなたにはあなたのマクロビオティックがあってよいと思います.マクロビオティックは押し付けられません.病気の局面ではどんな健康法でも押し付けになることが多いものです.本人が不安を感じている場合には、すがりたいものなのです.これでは(3)が(1)になってしまいます.マクロビオティックを病人に語る時には、病気治しを語ってはいけないのです.病気はあくまで本人のものです.マクロビオティックは人生論です.一人一人がそれぞれ到達するものだと思います.

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人の進化(仮説)

2008-03-27 23:16:01 | 出版記事
夫が時々ブログで記事にしていた皆様ご存知?のテレビドラマ、『チャングム』の最終回のお話に次のような会話がありました.

「お魚はどうして目を開いたままなんだろう?どうして?」「じゃあお母さんが目を閉じさせて見せてあげる!」・・・・・???

これを聞いた瞬間、進化についてのインスピレーションの渦が始まり何とか整理がついて、今文章にしています.これはまさに独断と偏見の類ですが、論争の種になって皆様に考えて頂けたらと思います.久司先生の『トーマスによる福音書』の一説ではありませんが、私は此処に種を蒔きたいと思います.

先ずご存知の通り、魚類に瞼はありません.したがって寝ても覚めても目は見開いたままです.動物が瞼を獲得するのは、乾燥から目を守る必要が生じた(?)上陸後のことです.卵が固い殻を持つようになったのも同じ理由です.上陸直後の両生類の卵はまだ乾燥に弱く水の中や泡に包まれていますが、爬虫類になると固い卵を産むようになって生息区域も広がりました.蛙の卵と亀の卵を想像していただけるとよいと思います.

爬虫類を経て哺乳類が発生してきますが、爬虫類から人に至る哺乳類には三種類あると思います.1には卵を産む哺乳類.2には胎盤が発達しない有袋類.3に胎盤を持つ哺乳類.爬虫類の中にも、例えばマムシのように母体内で卵を孵化させるものもいます.ともあれ三種類の哺乳類はそのまま胎盤を獲得する進化の歴史だと思います.鳥類は恐竜の生き残りとも言われ、哺乳類への経路から早くに分岐した進化経路を持っています.

胎盤を詳しく調べてみると大変興味深いものがあります.胎盤には胎児性の部分と母体性の部分がありますが、私の考えですが、母体性の部分は胎児性組織の侵入による母体の対応だと思います.ヤドリギみたいに根を張るのです.そして必要がなくなると、脱落しやすいようにその根を溶かしてしまうのではないかと思うのです.夫に聞いたのですが、母体性の胎盤の大部分は出産時期には薄くなって脱落後には膜となるそうです.子宮の収縮によってはがれるのかとも思うのですが、その発端が何なのか、何を契機に収縮が始まるのか、もしかすると陣痛は胎児側からの脱落開始による母体側の止血反応かもしれません.

有袋類は何故あんなに小さい子を生むのか?そしてオーストラリアの特殊な条件でのみ生き残ったのか?ということを考えると、それが卵性から胎性への過渡で、哺乳類にとって胎盤の獲得が如何に有利な事件であったことがしのばれます.パンダは今でも小さな小さな子を産みます.胎盤完成組への過渡でしょうか.大方の哺乳類は子宮の中で卵を孵化させ成長させて誕生させることになりました.こうした変化は孵化させ得る卵の数の少なさを乗り越えて確実に種を保存する必要性を満たすものでした.魚類や珊瑚の気の遠くなるような卵の数と育児放棄(?)に対して、両生類の一部以降から哺乳類に至るまでの産卵数と育児の実態を考えてください.肉食系の哺乳類では大体2頭から6頭、草食の哺乳類や霊長類では通常1頭からせいぜい2頭です.人間も自然状態では1人かたまに2人です.

出産に関して霊長類を哺乳類から別つものが何かといえば、それは子供の未成熟度です.肉食草食を問わず哺乳類の子供は一年もすればとにもかくにも一人前になります.しかし霊長類の子供は乳児から長い青少年時代をすごします.人間ともなればその未熟ぶりは群を抜いて、法律上は20年、マクロビオティックで言えば女は7年、男は8年の2倍かからなければ身体的に成熟しません.もしかすると精神の成熟は、それぞれその8倍、いわゆる還暦前後にならないと完成しないのかもしれないのです.これは人間を他と別つ大脳の発達によると思います.このために人間は家族を単位とした社会を獲得発展させました.社会というものは、進化上子宮と胎盤の同列にあるものかもしれません.

胎性の出産には、胎児の娩出と共に胎盤の娩出を伴います.胎児にも膜が残っているので呼吸を容易にさせるため母親は子供をなめ胎盤を食べます.草食動物でも雌だけは出産の度に肉食をすることになります.何故食べるようになったかは分かりません.1.にはなめているうちに.2.には危険を避けるための学習によって.3.には出産による体力の回復のため(という説もありますが、私はそうは思っていません.)

しからば人間は?これからが私の仮説です.私の知る限り人間はある時胎盤を食べることをやめました.手を使えなければ舐めてやるしかない我が子ですが、手を持った人間はある時から胎盤を土に返すことにしました.チンパンジーもゴリラも胎盤を食べるそうです.でもイザナギイザナミはアマテラスの胎盤を『恵那山』に埋めました.神々のお話は人間の記憶です.その『ある時』がいつなのか、これを考えると上の答えが見つかるような気がします.多分社会による安全の確保によってだろうと私は思います.そしてこれからが今回のインスピレーションなのですが、鬼子母神伝説とは一体何なのでしょうか?このお話は考えれば考えるほど異様なものです.

鬼子母神ってご存知ですか?私の知る限りでは、我が子を愛して人間の子を食べる鬼女ですよね.お釈迦様がお諌めお諭しになって我が子を奪われる悲しみを知り、それから子供の守り神になりました.それでも人の子の味が忘れられないために、ざくろを食べるのだとか・・・・これは一体何のことでしょうか?血に染まった赤い裂けた口の鬼女・・・・・これも記憶に違いありません.鬼子母神ってまだ胎盤を食べていた頃の記憶ではないかと思うのです.そしてお釈迦様は人間の精神性の象徴に後代の人が考えついたのではないかと思うのです.長いこと女は不浄だとも言われてきました.月のものがあるからとの説もありますが、鬼子母神の記憶からではないかと思います.精進料理を生み出した人間の方向性を思うと、女の如何ともしがたい出産にまつわる生理や行動は不浄かもしれません.何しろ出産に関する私達の記憶は、竜宮城から海岸にやってきて出産したトヨタマ姫の“わに”の姿まで遡るのですから.

これは人間が動物から一線を画した事件ではないかと思います.身体という動物に重ねて、精神の所在である大脳を発達させた人間の最も新しい進化ではなかったかと思います.そしてその過渡期間中、なかなか雌の名残を捨てきれなかった“不浄な”女の記憶が鬼子母神ではなかったかと思うのです.

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マクロビオティックって何でしょう.

2008-03-26 11:46:30 | マクロビオティック
マクロビオティックを始めようと、その昔?スタートラインに立った皆様、覚えてお出でですか?その時の気概を!そして今どんな暮らしをしていらっしゃいますか?

いつかもお話しましたが、目標と目的、そのどっちも身近にされたでしょうか?目標には色々ありますよね.マクロビオティックに沿った生活を確立することが目標ですから、そこには食事法、呼吸法、運動法・・・・・それによってマクロビオティックな人生を生きる手段、つまり生活法が示されています.食事法は体の材料を選択する方法.呼吸法は呼吸という天地の力の取り入れ法を通して、体のリズムを選択する方法.運動法は体の動かし方を通して、天地の力の体内循環を選択する方法.というわけでマクロビオティックは日々の小さな選択の判断力を身につけるための知恵です.そしてこのようなマクロビオティックと呼ばれる方法手段は、全て自分の判断力のレベルに左右されるものでありながら、その目的は自分の判断力の研鑚向上にあります.

判断力って何だとお考えですか.いろいろな考え方があると思いますが、一言で言えばそれは生命力です.太古の昔小さな生命がこの地球上に発生した時身につけていたものは食べてよいものかよくないものかの小さな判断力一つでした.生命とは判断力を持ったものです.ですから判断力こそが、無限から受け継いだ性質で、その判断力を持ってこの地球上に出現し、向上した(?)判断力を持って無限に帰るのです.私達の地球上の姿は、太古の昔の小さな生命の向上した姿です.全ては食べられるか、それとも食べてはいけないのかの判断に基礎を置いています.食事法は基礎の基礎であり、生命の掟、ひいては存在するものの掟でもあります.

呼吸や運動は何のためかと言えば、これは多細胞生命の掟です.全細胞により良い環境を整えるための判断力です.多細胞生命の出現は地球環境の進化により、宇宙の力の影響が大きくなったからです.宇宙の秩序を発現しやすくなって、地球上に宇宙のモデルを作り始めたのです.そして今現在私達人間がいます.人として進化の始まりから無限に回帰寸前までの判断力のバラツキを持って、私達は今此処にいます.私達は宇宙の判断力を身に付けなければなりません.そしてはるか無限に回帰することが、人間の目的であり生命の目的であると思うのです.その目的を私達はマクロビオティックの目的にしました.そして食事法や運動法などの手段としてのマクロビオティックを当座の目標としたのです.

周囲を過去から現在まで見渡せば、マクロビオティックを知らなくても十分長生きした人も幸福であった人もいます.現在もマクロビオティック食事法から判断すれば、首を傾げたくなるような事例もたくさんあります.でもそれはそれで比較してはいけません.大げさに言えば、私達は太古の生命から受け継いだそれぞれの判断力を試して、現在の姿をさらしているのです.そしてその判断力を向上進化させて、まあ図解すれば円周期が大きければ大きいほど無限に近くなるのです.

昔から多くの人が真理を求めて判断力を磨いてきましたが、その判断力を自分の体に及ぼせないような『頭でっかち』ではまだまだです.その判断力が足下を生かしていることを実感しなければなりません.そこで『お行』なるものが大事にされたのです.一飯の飯、日々の農作業、睡眠・・・・無為自然という生活は体の中に自然を自覚することでありました.体と頭を無為自然にすることが、判断力の総仕上げです.後は体を捨てて、悠久の無限に回帰するだけです.そのちょっと前の高い判断力で地球を囲むことが、桜沢先生、久司先生と受け継がれた平和運動かも知れません.

体を動かしましょう.呼吸を整えましょう.食事に限定しないで、大きく生活を見直して見ることも大切だと思います.マクロビオティックにも、判断力に基づいた人生観というものがあって、その人生観によって食事を選ぶのですが、最も進化した多細胞動物の人間の体には、天地の力のスムーズな移動(循環)が必要です.天地の力の滞りをなくし、内外の力を交流させることも大事なことです.観念的に縛られて滞りをつくらないことが大切です.人生観を観念論にせず、動く自然の一部としての判断力としなくてはなりません.

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篤姫

2008-03-18 09:47:53 | Weblog
大河ドラマの篤姫を楽しみにみています.何故島津家から徳川将軍家の夫人である御台所になったかという疑問と、もう一つそこで篤姫はどういう対処をしたかということに興味をそそられたからです.大河ドラマの筋立てにはいつも違和感を覚えることが多いのですが、今回は一年間見たいと思います.

篤姫は幕府が終焉を迎えるまで実質的な大奥の主として知られています.明治維新を語る時には『幕府に勝海舟、薩摩に西郷隆盛がなかりせば・・・・・まし』という歴史の仮定がよく言われますが、現実には薩摩に西郷、幕府に勝がいて江戸の無血開城がなったわけです.しかしこれは表の話です.『表があれば裏がある.』『表大なれば裏も大なり.』桜沢先生の無双原理を思い出してください.これは先生が発明されたものではありません.先生が宣言された この世の姿(宇宙の秩序)の明確な説明 です.

この世の事実も全てこの原理が当てはまります.裏打ちされていない表は存在しません.この幕末の騒動には大いなる裏があるに違いありません.その最も大いなる存在が篤姫だったのではと思うのです.今回のテレビで篤姫が一(かつ)姫という名前であったことを知りました.この名前にも大いに心を動かされました。徳川家康が入内させた孫娘も一(かず)姫、そして14代将軍に降嫁されたのが、もう1人の幕末の人柱、和宮(かずのみや)でした.

女の生き方、今と違って『否や』はありません.ですが本質的には今も昔も同じです.最初の一歩に『否』をいえるかどうか位です.運命は永遠に続く選択の連続です.選択の段階では、二者択一、それを選ぶか選ばないか.選ぶということに自由を見出し、選ばないということに屈従を感じるのは、現代のウーマンリブの偏見(?)です.選ばないことは不自由ではなく、運命の享受の仕方であって、選んでも選ばなくても違う運命を享受しなければなりません.男が自由だというのも偏見です.男は一歩踏み出した運命を享受しなければなりません.それが責任というもので、男は踏み出した責任を、女は受け取った覚悟を果たすことに優れていなければならないと思います.

そういう訳で、篤姫がいかなる境遇を生き抜いたのか、その場その場でどのように判断を下したのか、それを考えるのが楽しみです.
コメント (2)
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春の息吹

2008-03-12 10:39:23 | Weblog
新しい記事をサボっているうちに、もうすっかり春の気色となりました.フキノトウは伸びてしまいましたし、菜の花は満開、桜の便りもちらほら聞こえ始めました.体もしきりに蕾菜のほろ苦さを求めて美味しく感じます.こうなると、食べたいものは新若布とメカブ、それに春葱のぬた・・・・・、それにそれに、メバルの煮付けです.

時々ご紹介している自然食品・和みの社長は堀江さんといいますが、彼女は東京から平戸にお嫁入りしてきた人です.その彼女が檀一男の小説?で知った『メバルの煮付け』なるものを一度食べてみたいと思っていたそうです.東京にはメバルが無かった????

お魚も殆んど食べない生活ですが、メバルの煮付けは私にとって行事の一つです.付け合せは菜の花かそういった類の蕾菜と若布、まさに春のお煮付けです.煮付けに関する限り、私はメバルが一番美味しいと思います.それも金メバルでないといけません.赤も黒も一段劣ります.概して黒い魚は脂肪が多すぎで、臭みを免れないのと同時に身が柔らかすぎます.金メバルと言っても、明るいこげ茶色という感じです.そして煮付けは短時間の料理、お醤油が染み込みすぎてもいけません.

どういう訳か夫は余り好まない様子です.年中行事でもない様子.今日の夫は医師会のお集まり、私は一人でメバルのお夕食を楽しみたいと思います.ああそうそう、今日は息子が帰ってくるはず、それならば息子と2人で・・・.そして母の味を息子に刷り込みましょう.

あ、うぐいすが鳴きました.チャッチャを卒業して、ホーホケキョと鳴きました。
コメント (1)
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