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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

私達はタネである。追補『ネ』とは何か。

2025-01-06 22:03:25 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

あけましておめでとうございます。昨年末の記事『私達はタネである』という記事で、『これを知るために』のカテゴリーを終わりにするつもりでしたが、言葉足らずのように思いましたので補充記事を書くことにしました。

 

『ネ』が根っこであり『アイデンティティ』であるというまではよいのですが、ではその『ネ』が何であるか・・・・・これをはっきりさせて置かなければならないと思い至りました。『ネ』とは、これから、つまり『未来を発現するもの』で『設計図のとおりに発現させる力』です。これを日本語では『タカミムスヒ』『カムミムスヒ』という二つの『チカラ』の形として『ネ』という音(とカタカムナ文字と)を当て表しています。形として現れるチカラと力そのものとして現れるチカラとを継続して発現させるものです。青い花を咲かせる朝顔と芽を出し成長して花を咲かせる力です。その『ムスヒ』はこの世の根源と直結しており、その相似象として響きあって無限の力とつながっています。それで楢崎先生と宇野先生のお二方は相似象という言葉を当てられました。私達はこのお二人の先達のご恩を決して忘れてはなりません。そしてついでながら申し上げますが、この世の根源、つまり『ネ』のそのまた『ネ』が何かというと、先人が等しく『思議すべからざるもの(不可思議)』と言われて、私たち宇宙に存在するものが考えてもわからないものと降参することが心の平穏を保つ唯一の術だと言われたものです。それの変遷が、存在するものの在り様で、それを命の営みと言ってきました。私達は結局存在の根源について知っているようで知らない・・・・・不可思議と達観し諦観することのみが、それに生かされて生きる道だったのだと思います。ですが、カタカムナの人々は、その『ネのネ』に名前を付けたのです。

               『カ』

カ(ka)と呼びます。これがその不可思議なるものの名前です。定義したんですよ。こうして、端的に言いますが、日本語を話す人は物事の根源にあるものを、表現はできなくても、認識できるようになったのです。これが日本人を特殊ならしめている唯一の原因だろうと思っています。

 

それからこれは私の願いでもありますが、人間の種の青い花は、血統という『ネ』を持って咲かせる者と、もう一つあこがれ・法統という『ネ』を持って咲かせる者とがいると思っています。後者は強い願いの力であるカムミムスヒを祈り重ね撚り合わせ、新しいタカミムスヒを生み出すのだと思います。有難いご縁があってカタカムナの山を登ることになった皆様のご精進をお祈りしています。これで拙いながらも補充記事を足して、このカテゴリーを終わりにしたいと思います。

 

追記(1/16):余談かもしれませんが、この記事はこのカテゴリー『これを知るために』の最終記事なので、こういう考えを持つに至った私の長年の見解を付け加えておきたいと思います。それは、『人をその出自で差別してはならない』ということです。人もまたタネとして生まれる存在なので、個人的努力の関与する余地はありません。そのことをゆめゆめ忘れないでほしいと思います。ですが、もう一つのカムミムスヒの『ネ』は精進努力できるものです。『ネ』に加えうる私達の個々の人生の証です。若者への希望として受け継がれるべき背負子に、最後の見解を入れます。

 


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私達は種・タネである。

2024-12-31 14:42:39 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

小学校の学級花壇を覚えていらっしゃいますか。水やり当番があって、長い夏休みにも当番の務めを果たしました。私達の子供の時代には、それぞれの植木鉢になって夏休み前には自宅に持って帰りました。朝顔のタネをまいて、発芽を観察し、二枚葉が出て本葉を観察し、杖を立て、つぼみに喜びと希望を重ねました。何色の花が咲くのだろう・・・・・青紫の花が咲きました。濃いピンクの花が咲きました。

 

あの頃をふと思い出して懐かしさと覚えるとともに、この世の真実をどんなにか直截的に教えてもらっていたのかに驚いてしまいます。ピンクの花がいいだの紫がいいだの、あるいは染め分けがいいだのと、勝手に選り好みをしていましたが、それは種の決まり事でした。つまり、青い花の朝顔の種には、青い花の朝顔しか咲かない!!!芽が出たところで精一杯咲く自由はあるが、そのほかの自由はない。一年草は多年草にはならない・・・・・!!!種の目的は、新しい種を生んで、つながっていくこと。そのために生長・成長して花を咲かせ実をつける。これは何人も否定できない生物の掟!!!人間も同じ事、自由の範囲は異なるけれど、究極のところ私達は自由ではなく人間の種として生きなければならない。

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青い朝顔の種は、青い朝顔を咲かせ、青い朝顔の種を残す。私達は父母の子として父母が受け継いだタネ・先祖の種を継続する。

これは、今の私(本人)の両親を七代さかのぼった図です。和みの社長堀江さん(カテゴリー『自然食品和みさん』でご紹介しています)が図表にして私が『おかげ図』と命名しました。古来より七世(ななよ)継ぎと言われているように、私達も七代前の先祖の波動の影響を受けていると言われています。私達は『種』なのです。

 

この中には様々な人がいます。善い人ばかりではないかもしれません。しかしながらこの中のただ一人でもいなかったら、今の私はいません。命とはそういうものです。そして人間とはこのつながりの中の波動の声を聴いて、先祖と自分を矯正できる生き物(つまり、自分を向上させることができる。代々その変化を共有することができるという意味)です。供養をするとは、そういうことです。自分の修養というものもそういうものです。これが私の知りたかったことであり、カテゴリー『父の背負子2(最終章・これを知るために)』の最後の記事としたいと思います。

 

追記:タネとは何か。『ネ』・・・・・がタしたもの。カタカムナによって初めて日本語である国語の意味するものを知りました。私達の『ネ』は私達をどのように生かすかを決定するものです。そうです、青い花を咲かせる朝顔は青い花を咲かせる朝顔の種を結ぶように生長するのです。これが今で言う『アイデンティティ』です。私達日本人はアイデンティティを訳するになんと明快な国語を持っていたのでしょうか。感動するばかりです。歴史を研究すること・・・・・これは私達の祖先がどのように生きてきたかを知ることです。自分の『ネ』を探ることです。それが代々受け継いできた『父の背負子』の中身です。私の『ネ』探求の『父の背負子・随想古事記』を読んでいただきたいと、心から思います。そしてご自分で考えて、それぞれ子や孫に託す背負子を完成させていただきたいと思います。

 


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インスピレーションとは何か!!

2024-03-19 15:15:40 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

     インスピレーション・・・・・それは『フト』した思い付き、ひらめき

 

ブログ名を 『inspiration - macrobiotique(マクロビオティック・インスピレーション)』と決めた時、何をどう思ったのかというと、マクロビオティックという正しい暮らし方によってカタカムナという正しい生き方を感得したいと思ったからです。知りたいことはすべて、インスピレーションによってもたらされる・・・・・ことを実感しているからです。そのインスピレーションとは何か・・・・・『ひらめき』ですよね。そのひらめきはどうやって起こるのか・・・・・

 

それは、『フト』起こります。その『フト』がインスピレーションというものの本質です。『フト』という日本語の意味は、二つの力波動が共鳴する、あるいはぶつかり交わりあって一つに合力するというものです。『フト』するものと生み出されるものとは、二つの力波動の性質によります。だから毎日毎日修行しなければなりません。この世に物が存在するのは『フト』が起こるからです。私達は己の修養を積む以外にありません。身を慎み行いを慎み、ひたすら世のため人のため、国を思い同胞を思って祈り続け出来ることをする・・・・・そうすると『積善の家に余慶あり』、ふと閃いて余慶をいただけることになるのだと思います。(余慶とは思いがけない喜ばしいことです。願って、あるいは目論んで、手に入れる良いことではありません。)

思ったとき、あるいは問題をはっきり認識した時、答えは『フト』明らかになります。だから禅僧は座禅を組む以前に食の制限を自らに課します。振動する体細胞の質を変える以外に『フト』する波動の選択はできません。テレビやラジオのチュウニングと同じです。否応のないものです。正直でありがたいものです。万人に平等です。自分の波動以上のものは受け取ることができません。自分が向上する以外にありません。難行苦行をするのではありません。鍵は『食』にあります。

 

後期高齢者になりました。父が亡くなった年を超えてしまいました。来し方を振り返りしみじみと思います。


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世界最終戦争論

2020-11-15 14:18:58 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

『世界最終戦争論』というのをご存知ですか。いろんな方が言及なさっているし本も出されています。私は『古事記』から『ホツマツタヱ』にたどり着いたころ、馬野周治先生を通じて知りました。馬野先生は『ホツマツタヱ』の研究家でもありましたが、石原莞爾研究家で石原莞爾将軍の『世界最終戦争論』を歴史工学(と仰っていたような)的観点からご自分の『世界最終戦争論』を出しておられます。馬野先生から『ホツマツタヱ』に導かれ、それから『カタカムナ』へと道が開けたのだと思っています。

その世界最終戦争論とは太平洋を挟んで日米間に運命的に起こる道徳と科学の行きつく末の戦争のことなのですが、興味がおありの方は『馬野周治著・世界最終戦争論』をお読みください。馬渕睦夫先生もそれについて書いておられます。今日はその上に立って、最近思った感想をご披露したいと思います。

 

今日は11月15日、世界の目下の関心事は『アメリカ合衆国大統領選挙』です。私は『トランプ大統領』に帰結すると信じています。それは奇しくも、世界最終戦争の代理戦争がアメリカ合衆国大統領選挙として起こったからです。トランプ大統領は4年前『アメリカファースト』と宣言して突如現れて世界中を驚かせましたが、それは当時世界中を支配していた『国際主義(グローバリズム)』に対抗して国内の産業空洞化を阻止するという宣言だったのです。つまりアメリカとアメリカ人に仕事を取り戻し健全な社会・・・・・アメリカ人ならアメリカンドリームをみんなが抱けるような社会を取り戻す・・・・・と宣言したのです。トランプ大統領は実業家として成功して何の不自由もありませんでしたが、アメリカの一般人がどんどん貧しくなっていくことに不信感を持ったのです。娘さんの言ではありませんが、政治家の誰もしないならば、『それなら自分が・・・・』と決心して大統領選に出馬したらしいのです。要するにトランプ大統領はアメリカ人のアメリカを取り戻そうとしたのです。そしてそれを阻んでいるのが『グローバリズム』という商業主義というか、金融資本主義というか・・・・・要するに『お金』の理屈が支配する存在だったというわけです。

『グローバリズム』・・・・・これが宣伝されるようになったのは、というより私達が頻繁に耳にするようになったのは、多分30年位前です。それから工場の海外移転・民営化・多国籍企業・人材派遣・・・・様々な新しい社会の様相が展開しました。今年になって武漢ウィルス騒動が巻き起こり、カタカムナ修行を初めて以来あまり本を読まなくなっていたのですが、再び国際政治学の本を読むようになりました。藤井厳喜先生の配信会員にもなりましたし、馬渕睦夫先生のご本も読むようになりました。そうしているうちに、世界最終戦争論と自分の中の思いとが符合するようになって、『世界最終戦争』が現在起こっていてその様相がはっきりとわかるようになりました。

 

馬渕先生のご本や動画によって、国際金融資本の実態を知るようになりました。国際金融資本というのは、端的に言えば、『お金』の組織です。金融と言えば聞こえが良いのですが、お金を貸して事業を展開させ利子を取り上げる・・・・・だから企業は採算重視になり、コストの安いほうへ安いほうへと流れていく。人件費が高くなれば、未開発国の人材を使うようになる・・・・私達の身の回りでもテレビで呼びかける合言葉は『お得』になりました。だけど利益はみんな利子と株主配当になって取り上げられるのです。消費も生産も拡大させられていきますが、世界中みんな貧乏になっていく。そんな陣営にとっては、国家も国境も不要でただ市場があればよいのです。そんな市場社会では究極的に99%が貧しく1%が世界中の富を集めてしまうことになり、不満を解消すべくアルコールと麻薬、娯楽と快楽、刹那主義が蔓延することになって、人々の道徳心は荒廃してしまい、必然的に現実的にも精神的にも奴隷化してしまいます。そして自分と今だけしか考えられなくなります。(この仕組みを詳しく知りたいとお思いであれば、『国難の正体』などの馬渕先生の著書をお読みください。)

お金という富を支配する人々は、要するに横に横にと広がっって全世界のお金を支配しています。お金儲けのための規制は無いほうが良く、『自由』『平等』『人権』が合言葉です。不思議なことに誰もが反対できない概念的善は、奴隷の鎖のような悪の隠れ蓑なんです。みんなが勝手に自分の自由を叫べば、他人の自由を侵すことになる・・・・・欲に目がくらんだ国際金融資本の実験結果が西洋の歴史です。それが今流行りのグローバリズムと言って、『自由・平等・博愛』のような耳障りの良いスローガンとともに、現在の世界を支配しています。表向きは色々ありますが、裏では一貫して民主化という押し付けです。そして第二次世界大戦・日本では太平洋を挟んでアメリカ民主党大統領のルーズベルトが目論んだとされる大東亜戦争まで行きつき、石原莞爾将軍は『有徳と不徳の世界最終戦争』という運命的責任を悟ったというわけです。

 

そんな横という軸のグローバリズムに対するものが、我が日本の縦の軸の象徴たる万世一系の天皇・・・・・わかりやすく言えば、親子代々の繰り返しの『タネ』の思想です。世界でこの縦の種で生きている国は、今では日本以外にありません。共産主義は『能力のある者の能力』を『能力の無い者の暮らし』に分けてやる主義ですから資本主義ではなかったはずですが、国民の富を国家に全部集めて再配分するというやり方が金融資本にはぴったり合って、日本の敗戦と同時に出来た中華人民共和国は不徳の側の一員になってしまいました。概念的善はどんなものであれ、制度として実現する手段が無いと言ってよいので、建前とは裏腹の国になってしまうのです。そういう訳で、日本は太平洋を隔てたアメリカと背後から中共・韓国との板挟み状態になって、かなり毒され続けてきました。そこに勃発したのがアメリカ大統領選挙です。アメリカが日本に代わって、内戦で横と縦が衝突したのです。

政治家でない民間から誕生したトランプ大統領がアメリカの伝統社会という縦の戦士で、強大なアメリカを溶かしてしまう横のグローバリズムと戦っています。アメリカの伝統は『チャンスの平等』です。そうやって代々暮らしてきた社会を取り戻そうという主張です。伝統という意味で、日本の縦と同じです。それで私は熱い思いで見つめずにはおられません。最初は違和感のあったトランプ大統領に肩入れせずにはおられません。これは代理戦争です。トランプ大統領が勝たねば、日本は一人で身勝手な『不徳』に対峙しなければならず、特攻隊の身を捨てる覚悟を取り戻す以外に生き残る道はありません。日本が負けたら、日本ではなくなります。日本という国は、『タネ』の国です。ずっと次の世代のために、前の世代とともに、身を慎んで互いを思いやり、自分がタネだと分をわきまえて暮らしていく国柄です。

 

縦なる日本と、横なるグローバリスムの国際金融資本社会との、世界最終戦争・・・・・この『縦なる日本』が東洋に現れるという希望なのだと思います。この縦の考え方が広まって、国際金融資本が広くみんなのために貢献するようになることが、日本の存在意義です。慎み深く分け合って生きる・・・・・これは世界に誇るべき暮らし方だと思います。これが日本人の歴史です。


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国号・日本と皇統

2020-08-12 16:36:09 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

以前この同じカテゴリー(最終章・これを知るために)に入れて『日本とは』という記事を書きました。再度記事にしようという心に急かされたのは、何度も何度も言葉や文字にすることが広く考えていただくためになるのではと思うからです。そして、これから日本を背負っていく若者の目に触れることを願っています。

 

『日本』・・・・・この美しい国号・・・・・この漢字を採用されたのは、何度も言うようですが、聖徳太子です。そして、『やまと』と読みました。この『ヤマト』は『大和』という神武天皇が宣布された『建国の精神』であり、これが当初の国号です。神武天皇は、何を大和(だいわ)しようと思われたのか・・・・・それはご自分の民族(ヤマ・ジャバ)と土着の様々な民族とを大和して、みなが睦み合う国を建てよう!!と決心なさいました。これが有名な『八紘一宇』の宣言です。当時の日本は、これまで随想古事記のシリーズで述べてきましたように、『五色人』の住む地域でした。私達の『五族共和』はこの時に自分たちの合言葉になりました。それで、大東亜の理念と平等の精神へと発展し、『五輪(オリンピック)』も日本人の心情にぴったりですっかり馴染んでしまいました。(だけれども、ギリシャ世界、あるいはヨーロッパ世界における五輪の精神と同じだと信じ込むのは危険だろうと思います。)

神武天皇の民族国家『邪馬台(やまと)』と、その他の様々な民族国家『五色人国家』・・・・・神武天皇が幾内入り(後の『大和入り』)された時の古事記の記事には、先に降臨されたアメノホアカリ(天火明)ノミコト(私はニギハヤヒノミコトのことだと思っています)が十種(とくさ)の神宝(かんたから)を持ってこられて臣従されたことが述べられています。このアメノホアカリノミコトと私は偶然愛知県一宮でお会い(?)しました・・・・・というのも、夫の仕事の関係で一年余り一宮に住むことになったのです。その一宮に鎮座する尾張一宮・真清田神社のご祭神がアメノホアカリノミコトで、天照大神のご長男・アメノオシホミミノミコトのご長男です。そして母君タクハタチチヒメも同じ境内に服織(はとり)神社にお祭りされていました。織物の町のご祭神!!!!!・・・・・と、感動したのを覚えています。この方は特別の『五色人の神々』で、天孫降臨のニニギノミコトの兄君です。その臣従されるという御心に納得できなかったというのが、アメノホアカリノミコト妃の兄・ナガスネヒコの物語です。

『五色人』の様々なまつろわぬ国君ら(これも随想古事記で記事にしました)を統一され、橿原(かしはら)の地で『大和のヤマト』を宣言されわが日本は誕生したと伝えられています。それ以来ずっと『大和朝廷』という漢字で表現されてきた国名国号の由来を、私達日本人ははっきりと自覚しなければなりません。そうすることが、『なぜ皇統の維持が、日本の存続と同じであるのか』を理解することになるからです。

 

『ヤマト』は神武天皇のご出自による国号です。そして『大和』は国家統一のご事績による国家運営の理念(五族共和)を表明する国号です。そしてその皆の幸せを願う『八紘一宇』という理念の継続が皇統の男系による継続・万世一系の所産で、私達が今日まで継続することを可能にしたのです。どうしてかという理由は、理念というものが背骨(神経系)によっており、その遺伝形式は父から子へと受け継がれるものだからです。背骨という形ではなくて、形を作る回転数というか振動数というか(精神波動は認識も含めて振動によって成立しています)・・・・・いわゆるスピンというものによっているからなんです。もちろん女の子も父から背骨の振動数はもらうのですが、その子の背骨は夫(その子の父)から受け取るんです。だからその理念は男の子から男の子へと渡ることは明らかですが、女の子の方からはいつその欠片が消えたかわかりません。これでは担がれる神輿の中の心が行方不明になったり、取り換えられたりしてしまいます。皇統は、どんなことをしても、明らかな理念の体現者でなければなりません。私達日本の先人たちは、そのことをはっきりと知っていたと思われます。皇統は私達の『大和』の理念の継続です。

その『大和』を聖徳太子が外交上の目的で『日本』という字を採用されたのは、根本的なところでその意味するところが同じだからです。『邪馬』と『ヤマ』と『東』は民族を表すうえでは同じ意味です。以前『東歌』は『ツカル歌』だという記事を書きました。結論だけを言うと『ツカル』も『タク』も『ツケ』も同じ出自を表しています。そして『邪馬』と同じです。その『東(ツカル)』を意味する『日の出』から『日』という漢字を採用されたのだと私は信じています。そして『本』という漢字の意味するところが、『ト』・・・・・これは私の『カタカムナ』による確信でもあり、近いうちに『高句麗の謎2』と題して意見を展開しようと思います。ですから、『日本』も理念を受け継いだ『ヤマト』です。そして皇統の継続が、明確にどこかにまぎれこむことなく完全に『万世一系の天皇』の背骨として国民の幸せを願う『国の弥栄』をそのまま表しています。皇統が途切れたら『日本』は、死体となって数年は残るかもしれませんが、消えてしまいます。そのことをそれぞれが深く知るべきです。若者が知るべきです。敗戦による国家解体の国難を克服して、立ち直らなければなりません。

その皇統が脅かされています。それこそが敗戦による国難の象徴で日本の危機です。現在のように縮小された皇族であることを考えると、内親王様に旧宮家や何代か遡って皇統に連なる男子と結婚していただく以外にないと思います。そうした場合にのみ宮家の創立をして、鍛えれば取り戻せる背骨のスピン量を復元していただきたいと思います。内親王様には結婚の自由はない!?!?!!・・・・内親王様でなくとも、私達はタネなのですから、もともとそれほど自由はないのです。一般人の自由が欲しいとおっしゃるのであれば、降嫁していただく以外にありません。旧宮家の男子にも自由をお捨ていただく以外にありません。そして今上陛下のご薫陶をいただく・・・・・なにがしかの方法を国民が模索しなければいけないと思います。私達の危機です。

 

 

私の意見は、これまでの自分なりの探求をしてきた『ホツマツタエ』『上記(うえつぶみ)』『カタカムナ』『マクロビオティック』などを踏まえた上で、古事記の研究をした結論です。ユーチューブで面白い動画を見つけてちょうどよかったなあと思っていたら、下書きののまま忘れて公開されていませんでした。以下追記です。その動画をご紹介したいと思います。それは、動物行動研究家となっていましたが、竹内久美子先生の『皇統とY染色体のヒミツ』という動画です。この方はとても面白い方で、今遡って拝見しています。そうそう、さらにもう一つ興味深い記事がありました。ヨーロッパの科学者の研究発表だったと思いますが、『精子はスピンしながら進行する』というものです。スピン数が遺伝するのだと思いました。受精後精子は受精卵の何になるのか、若者の研究テーマにしていただけたらと思います。それから、『ホツマツタヱ』には色々と考えさせられる記述があって、息の数という寿命が決まっていて、半数ずつ父からと母から受け取るのだそうです。ですから呼吸の長さが全体の長さを決めることになります。マクロビオティックによると、草食は長くゆったりとした呼吸をし、肉食では短い荒い息をすることが示されています。僧侶が長生きなのも精進のせいですし、それでなければ宏遠な宇宙の息と同調できません。興味深いと思います。

 


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礼とは何か

2019-04-26 12:29:47 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

以前買って読み込めなかった司馬遷の史記・・・・・その時は読みやすいかなと思って買ったのですが、その編集がなんとなく途切れ途切れ・・・・・読みはしたものの、それほどの得るところのなかったものでした。今回福岡でテレビもなくインターネットも通じない環境に身を置く時間をもつことになり、思うところがあって読み返しています。

古代中国の人々の言動を繰り返し読んでいるうちに、『周礼』として現代に伝わっている『礼』について考えさせられました。『礼』の本質というものについて、分かってきて言葉化することが出来たと思います。『礼』とは・・・・・・それは、『他』と対峙した時に『自』の立場の明らかにすること・・・・・・『天帝』に対する『天子』の『礼』、『天子』に対する『諸侯』の『礼』、『諸侯』に対する『家臣』の『礼』、『父』に対する『子』の『礼』・・・・・これが、いつの間にか『礼儀』という取り決めとなって固定化し形骸化することが多くなったのだと思いました。しかしながら、だとすれば『礼』というものの重要性はますます際立ってきます。『礼』なくして『己』は無いということになるからです。

現代に生きる私達も『他人』に対する『自分』の『礼』・・・・・自分の立場を考えるとき、『礼』の表明形である『儀』ばかりを気にするのではなく、『礼』の本質を自分に問いながら生きていきたいものだと思いました。そうすれば、究極的に『自分』に対する『礼』というもの、自分の本質に近づくことが出来るような気がします。自分の本質・・・・・自分とは何か!!!!!・・・・・以前認識作用から見た『自分』というものについて解答用紙を提出しましたが、それとは別に存在という観点から見た『自分』とは何か?????これについては、改めて記事にしたいと思います。

 

今日はブログを始めてから5001日・・・・・スマホで見ると、そういう表示があります。ちょっとした節目の記念日(?)のような気分です。


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翻訳ということ・・・・・玄奘三蔵

2018-12-30 20:51:13 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

今月の半ばでしたか、NHKの番組で『玄奘三蔵』の番組を見ました。改めて私達が今も恩恵を受けている三蔵法師の艱難辛苦に思いをはせながら、いろいろと考えさせられました。隋から唐にかけて歴史をまたいで天竺から経典を持ち帰った三蔵法師・・・・・その言語に絶する体験に対しての自分の想像の甘さを思うばかりですが、それよりもなお三蔵法師は経典の翻訳をもって『自分のなすべきことを果たしたのでは』という感慨を持って人生を終えられたのだとか・・・・・現代に生きる私達も恩恵にあずかっているサンスクリット語の経典を翻訳したという偉業に三蔵法師の人生をしのんでいます。

『翻訳』という作業の困難さについては、私もほんの少し実体験を伴った共感をもって三蔵法師を思っています。アメリカを本拠地としてマクロビオティックの普及活動をなさった久司先生の著書を何冊か翻訳させていただいて、久司先生が日本語を英語に翻訳して伝えられたであろうことを、私がまた再び日本語に翻訳する・・・・・単語の移し替えではなくて、翻訳とは『認識』の問題であることを痛感しました。そして『認識』とは『言葉化』であることが段々に分かってきました。『言葉』にすること、オウム返しでなく『翻訳』という言葉化によって、本当に認識することになるということが分かってきました。『翻訳』ということは『言葉』を作ることでもあるんです。そして、『カタカムナ』の楢崎先生のご苦労と業績をしみじみ思います。釈迦の心を『翻訳』した玄奘三蔵に匹敵するばかりか、もしかするとそれ以上・・・・・

 

私達は皆誰もが『翻訳』という作業によって『認識し理解』して(『ウツシマツッテ』)いる・・・・・時々ブログに登場していただいている日蓮上人も白隠禅師も、同じように『翻訳』して私達のためにご自分たちの『認識』を表明して残してくださったのだ!!!!!ということがわかってきました。有難いことだと思います。そして『自分のなすべきこと』を皆それぞれ持って人生を生きているのだと思います。三蔵法師のように『・・・・大方果たしたのでは・・・・・』と、いつの日か心安らかに人生を振り返りたいものだと思います。

 

 


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日本とは

2018-12-03 13:47:46 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

日本・・・・・現代人の私達は、これを『にほん』と読んで何の違和感もありませんが、聖徳太子が国号を『日本』と定められたころ私達(の先祖)は『やまと』と読んでいました。それ以後、『やまと』とともに『にほん』、『ひのもと』などと呼びならわし、明治になって勇ましく『にっぽん』と言ったりもしています。

なぜ聖徳太子が国号を『日本』とあてられたかについては、『随想古事記・大和の心』(や、日本語・古事記のカテゴリーに入れた記事)で自論を展開していますが、改めてそれにはそれなりの理由があったことを主張したいと思います。もちろんユーラシア大陸の東にあって、太陽が真っ先に上る国であるという美しい意味をかぶせられたことはわかりますが、それよりもなお『やまと』の実態を言い当てる字音だったからです。私達は(忘れていますが、)『邪馬』であり『ヤマ(ト)』だったのです。『ヤマト』に『大和』という字を神武天皇があてられたように、太子は『日本』という字を採用され、のちに『日本』は『ジパング』であり『ヤポン』と元の世界帝国によってヨーロッパにも伝わりました。

 『邪馬台国』・・・・・日本の歴史に『浮島』のように浮かんでいます。私達は自分とのつながりも不明のまま置き去りにしようとしています。かつて邪馬台国論争が巻き上がったこともありました。ですが、自分とのアイデンティティは、あやふや・・・・・・邪馬台国人が自分と一体どういう関係にあるのか、確信はありません。こんなことでいいのでしょうか。経典のように大事にしている『魏志倭人伝』・・・・・その内容は3世紀のものですが、それはそれでよしとして、その中に女王卑弥呼の宗女について『壱臺』・・・・・これを『いよ』と読むか『いと』と読むかで二論に分かれていますが、それなら『邪馬台(臺)国』だって『やまたいこく』ではなく『やまよ国』か『やまと国』の読み方もあって当然なのではありませんか?????要するに、

               『邪馬台国』は『ヤマト国』なんですよ!!!!!イザナギノミコト・イザナミノミコトの『ザ』だって『邪』なんですよ!!!!!

『ザ』も『ジャ』も『ヤ』も同じなんです。これを考えるたびに柿本人麻呂の歌と言われるものを思い出します。『ささのはは みやまもさやに さやげども われはいもおもう わかれきぬれば』・・・・・それはこうだったという意見もあるんです。『ちゃちゃのはは みやまもちゃじゃに ちゃじゃげども われはいもおもう わかれきぬんれば』・・・・・

 

そして、日本人の歴史で最も大事なこと・・・・・『邪馬』は『山』であり、そして、『殷』の後裔である・・・・・ということなんです。その『邪馬』が『大八洲』の国まで落ちてこられて、先住の大山祇の娘コノハナノサクヤヒメをめとり、山幸彦が竜宮のトヨタマヒメをめとり、鼻からいた(イザナギの鼻から生まれた)スサノオノミコトと宥和して『大和』の国を作り上げたのが、我らが『ヤマトの国』なんです。中国4千年の歴史は、山鹿素行ではありませんが、『なあ~んだ、我が中つ国にあったではないか・・・・・!』これが、我が国の真実なんです。だから、日本人はどこの国の人に対しても、基本的にやさしいんです。やさしい・・・・・というのは、どういうことかというと、自分の正義『大和』を自分に照らし合わせるんです。相手が正しいかどうかではなく、自分が正しいかどうか・・・・・、これが『ヤマト』の国で、先住の人々と秩序を作り上げるための『道理』だったんです。自分の精神の美しさを求めたんです。これは人類の最終的な目標ですが、この伝統は皇室の儀礼に残されていて、それを象徴するものが『鏡』です。そしてこれは日本人の住む津々浦々の氏神様に残されていて、そのご神体は『鏡』です。一神教のどこまでも相手を責める『理非の神・復讐の神』ではなく、自分をただす『カガミ』です。ですから神道は、神からいただく『法』や『教え』ではなく踏み行うべき『道』になったんです。

 

この日本の国柄・・・・・これは、人類の最終的な『世界遺産』なんです。そして、世界最古の奇跡なんですよ!!!!!私達『大和』の後裔は、何が何でもこの国柄を変えることなく残していくこと・・・・・これ以外に日本人の生き甲斐はありません。近頃出来たものは、何でも変えて構いません。法律でも何でも変えてください。大和の国も埋め立てて形を変えても構いません。そんなものはどうでもよいのです。だけどこの国柄だけは変えてはいけません。この国柄を変えるということは、日本ではなくなるということです。『大和』の理想も捨ててしまうということなんです。

どうして日本が存続してきたか・・・・・それはその国柄が『宇宙の法則・摂理』にかなっていたからなんです。それは一言で言うと、『中心と外側がある』というこの世の存在の法則です。存在するということは、求心力が遠心力に勝っている、ということです。それでないと崩壊してただの砂粒(砂粒にも求心力があるとすれば、粉)になってしまいます。私達の国は、『さざれ石が、岩となるまで』の求心力を持てた、ということなんです。その求心力がアマテラスオオミカミの『我スメミマのキミたるべき国なり』、つまり、『アメノオシホミミ・ニニキネの血統が大王である国』で、それ以外の者が一歩下がる分別を持ち続けたことにあるんです。中国大陸は易姓革命を是としました。だから、歴史はチョギレチョギレ・・・・・上層に暮らす貴族階級は仕方がないにしても、下層で国を支える庶民や危険と直面している国境の民はいつも訳の分からぬ事態に降ってわいたような半死半生の憂き目・・・・・その度に現代人の想像もつかないほどの酷い目に遭ってきました。私達の先祖は『それを替えてはいけない!』と決めたんです。それも、2千年の前に!!!!!。ですから、まあ戦乱もありましたけれど、収まればすぐに収まる・・・・・・蘇我と物部の争いもありました。源平の争乱もありました。長曾我部の残党や尼子の残党も騒がせました。室町幕府も滅びたけれど、江戸幕府に落ち着きました。だけど『日本人である』というアイデンティティは失われませんでした。それほど、中心が確立しているということは安全なんです。個人でも同じことです。頑丈な骨を持つことは健康を意味して幸せな人生を約束するんです。その『カタチ』を維持する力が生命力となって血を作り体内の秩序を作ったんです。『アメノオシホミミ・ニニキネ』の皇統は、私達日本人の骨組みなんです。私達日本人の皇室は世界中の人々の羨望の的なんですよ!!!!!誰もが、大和朝廷の歴史を、羨ましく思っているんです。私達日本人は、そうですね、現代に残っている伊勢の氏子の誇りをもう一度はっきりと認識しなければなりません。


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言葉というもの2・わたしは何を言っているのか?

2018-09-10 23:08:32 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

昨年の7月『言葉というもの』という記事を書いた時シリーズ3までの心づもりにしていたらしくタイトルだけの下書きが残っていました。それで、改めて私の永遠のテーマともいうべき『言葉』というものを取り上げようと決めるだけ決めて予定していた約1週間の上京を果たしました。久方に娘と息子家族、それに孫息子と再会をしての帰途、飛行機の中で恒例(?)のウトウト・・・・・思いがけぬヒントに恵まれましたので、こうして記事を書いています。本当は今年になってからあまり記事を書く気にならなかった(それで、どうでもよいような記事ばかり・・・・・)のですが、和みの堀江さんに後押しされて書くことにしました。今回の気分とは少し違うかもしれませんが、タイトルはそのままにします。

 

『言葉』『コトバ』・・・・・なぜ私達日本人は自分たちの言語を『コトバ』という名前にしたのか・・・・・『日本語』というのは現代の便宜的な分類上の名前にすぎませんし、『日本語』という名前に親しんできたわけではありません。私達は『言葉』と思って便宜上日本語と言われるものを使ってきました。『言葉』とは何なのか・・・・・ブログの中でもことあるごとに触れてきたと思いますが、このテーマは人間そのものに関わる重大な問題だからです。人間という人の間(ヒトノマ)を生きている生命の特徴は、言語を基盤とした社会組織を作りその内外に相互関係を作ったことだと思います。そしてそれは人間存在そのものになったと思います。なるほど動物にも群れという社会(この社会組織については、別の記事で感想を書きたいと思います。)を作るものもありますが、その群れと群れとの関係はほぼ食(生存と存続)のための縄張りをめぐる敵対関係以外にありません。だから、交渉というものの余地がありません。交渉は人間の言語活動の最たるものだと思います。人間社会は言語無しにはありえないものです。そして、私達日本人は言語を『言葉』だと認識しています。

『言葉』とは何か・・・・・それが意味するものについてはこれまでにも書いてきましたが、『言葉』という命名については今一つはっきりしていませんでした。『ハ』という日本語の音は、一般的に言って両サイドあることを意味しています。それで、『コトバ』・『コトノハ』というものが、日本語ではそれぞれ正反表裏の意味を持つものに展開してきた、という風に説明もされ理解してきました。だけど何かしらしっくりとこないものが残っていました。『それはそうだけど・・・・・・』という感じでした。それが今回のウトウトの間にすっかり明快になりました・・・・・私達の日本語の音は、もうカタカムナにさかのぼる以外、何の根拠も得られません。そのカタカムナの人々がヨソヤ(四十八)の『コト』を解きほぐして生み出した(音にした)・・・・・と表明しています。(疑問に思うなら、究明してください。私はそれが真実だと確信しています。なぜなら、子供のころから抱き続けた疑問に唯一答えているのが『カタカムナ』だからです。)

『コト』を『音』にした・・・・・というのがどういうことか、かいつまんで言うと、この世の事象(を成り立たせている力としての波動)を人間の発する『音』に分けたということです。勝手に分けたというのではなく、その『音』の持つ力の性質(なりたち)によって分けました。ですからその『音』は構造と作用を持ち、次々に展開していくのです。それで正反表裏の二面性を持つから、『コト・ハ』なのだと思ってきました。それもあります。だけどそれは『コトバ』の単語という構造的な一面であって、『コトバ』はもう一つ大きな作用的一面を持つことに思い当たりました。それは、

       私の胸の内で『コト』した表明が『コトバ』として発せられて、聞いている相手の胸の内で同じく『コト』を起して認識理解に至る・・・・・『コト』が私と相手の両サイド(『ハ』)に起ってる・・・・・

正しく『コミュニケーション』そのものを表しているのが『コトバ』という造語だったんだ!!!!!と思い至った時、胸が熱くなりました。『コトバ』こそが社会を作ったんです。『コトバ』こそが社会の成立存続条件なんです。そうなんです。そして宇宙に充満する力との間に起こる『コトバ』が『インスピレーション』なんです。私はそうやって、いろいろなことを知ることが出来ます。誰だって出来ます。私はそのために記事を書いて、読んでくださる方の胸の内に『コト』を起す努力をしていると思うことが出来るようになりました。

 

実はこのところ、記事を書いて何になるのか・・・・・と思うことがありました。西部先生も『日本は滅びるかもしれない・・・・・』というようなことを仰っていました。私の父も臨終に際して、『日本は一度滅びるかもしれない・・・・・根になるんだ』と言い残しました。それで私は父から背中に背負わされたものを何とか書き残したい・・・・・と、自分たちのアイデンティティーを見失って根無し草にならないように、だれか若者の目に触れてくれと希ってきました。私はブログで向かい合ってくださる方に『コト』をおこすことが出来ているのでしょうか?????


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意味とは何か?

2018-05-01 01:11:08 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

前記事『道とは何か?』を書こうとしているところに、西部さんの訃報を知りました。今から考えるとそれ以来思考停止状態で過ごしていましたが、それも何とかしなければと夫が買ってきた西部さんの最後の著述『保守の真髄・まことの保守思想を語り尽くす』を繰り返し読みました。やっと自分の気持ちに区切りをつけなければ・・・・・と思って、最終章の予定記事『道とは何か?』を書きました。そしてふと、出雲の友人に久しぶりに連絡を入れてみようか、と思いついてまた、友人の訃報を知る羽目になりました。これがまた思いのほかショックで、西部さんのショックと重なってしまい、最終章を埋める気分になれないまま、どうでもよい(?)ような記事を書いては二か月近くも打ち過ごしてしまったというわけです。また父の命日が近づいてきたので気を取り直し、自分の仕事と思い決めたこのカテゴリーを埋めるべく取り掛かることにしました。今回の『意味とは何か?』という記事は、西部さんの言葉をたどっているうちに、ずっと胸に突き刺さっている若いお母さんが吐き捨てた『日本、死ね!』という言葉に片をつけねば・・・・・ということを思い出したからです。あの発言が国会で取り上げられたときからずっと傷ついたまま(?????)・・・・・で日を過ごして来ましたから、これに片をつけねばなりません。

 

西部さんご自身で『(西部さんの本は)難しいと言われる』とおっしゃっていますが、一つにはカタカナ表記の外来語が多いからかもしれません。先の都知事選挙では小池さんのカタカナ語に辟易しましたが、聞くのではなく文字をたどるうえでの西部さんのカタカナ語は読み間違えなければそうでもない・・・・・『読み間違えなければ』というのは、『カタカナが並んでいる順番通りに正確に読むという難しさ(?)に惑わされなければ』という意味です。この難しさはロシアの小説を読むのと似ています。大体みんなが難しいというのは、登場人物の名前のせいなのです。ロシア人の名前の構成に『父称』というのがあって、ある姓を名乗る家族の誰それの息子(あるいは娘)の誰それ・・・・・たとえば、『ロマノフ家のミハイールの息子のアレクセイ』という登場人物がいます。その人は『アレクセイ・ミハイーロヴィッチ・ロマノフ』という名前(娘の場合は、例えば、アレクサンドラ・ミハイーロヴナ・ロマノヴァ)なのですが、その時々で『アレクセイ』と呼ばれたり、『ミハイーロヴィッチ』と呼ばれたりします。さらには愛称で呼ばれたりするんです。そういう事情に慣れていない私達は困惑し、誰が誰だか分からなくなって難しいと感じてしまう・・・・・そういうのと似ていると思います。また西部さんはカタカナ(原語の音のまま)にしなければならないのには『翻訳語が正確でない(正確な認識に至らない)という重大な理由がある』とおっしゃっています。つまり私達は外来語の翻訳語で正確な意味を理解していない!!!!!もっとも簡単な例は『経済』ということば・・・・・『経済』という言葉の持っている意味と『エコノミックス』という言葉の意味は違っているから、正確な認識を得ることはできないとおっしゃっているのです。これは相当深刻な事態で、誤解では済まない問題です。私はかなり言葉に関しては厳密です。周囲からうるさがられます。それに西部さんの本の各所に出てくる言葉に関する連想も似ている・・・・・それで、『意味とは何か』という題名の記事を書くことにしました。私の結論を最初に言いますと、

           意味は認識である!!!!!     ということになります。

 

私にとって図らずも、西部さんとカタカムナがつながってきました。これは夫が買ってきた『生と死』という西部さんの本の中に書かれていますが、西部さんは奥様の臨終に際して耳元に『ア・リ・ガ・ト・ウ』と言葉ではなく一つ一つの音をささやかれたとおっしゃっています。これは奥様の脳がもう言葉の認識をする段階ではなく、この地球上に人間の識別する音としての『刺激』というか『波動』というか『力』というか・・・・・人間存在の作用という影響力をただ受け取っている・・・・・と夫である西部さんは直観されたのだというようなことを述べておられます。このくだりを読んで『西部さんは言葉による認識の追求者だったんだ』と深い感銘を受けました。そして私にもあった同じような体験を思い出しました。父の臨終の際男達は潔く諦めて社会的な動物らしく葬儀の準備に取り掛かりました。残った私は父の耳元で『イ・ハ・ト・ハ・ニ・カ・ミ・ナ・リ・テ・カ・タ・カ・ム・ナ・ヨ・ソ・ヤ・コ・ト・ホ・グ・シ・ウ・タ』と、繰り返し繰り返しこの根源的な音をささやきました。生死についてその時の私が知りえたすべてのことだったからです。西部さんは学生運動家として『左翼』を突き抜け思索を極め行くところまで行ったら『伝統』に行き着いたとおっしゃっています。その『伝統』というものが日本という国に生きた過去少なくとも2000年の人々の良識に支えられたものであって、それを守るのが『保守』というものだとおっしゃっています。そしてこれは私の解釈なのですが、人生というものがわずか100年に満たないものであれば、『保守』以外に何をするのか、いったい何を『保守』するのか、ということを『発言』し続けてこられたと思います。でもどうやらご自身がおっしゃっておられるように、なかなか理解されないらしい・・・・・要するに『意味』が通じなくなっている・・・・・共鳴・共感という認識に至らない・・・・・日本人の認識回路が変化している?????これは日本語の危機・日本の危機であり、日本が滅びてしまうかもしれない・・・・・と思って(別に悲観されたわけではなく、ご自分の人生の成果としては残念に思われるとともにやむなしと諦められ、後世に託すことにして)、人生を閉じられたと思います。私たち後世にはたくさんの著作を残してくださいました。この『言葉』についての思索が、通常を突き抜けて日本語の根源『カタカムナ』に近づかれたのだと思い至りました。

 

 

本題に戻りますが、『言葉』は『意味』そのものです。『意味』を『認識』するように構造されたものです。その音を聞いて(刺激を受け取って)音のコピーを作ります。コピーすること(このコピーについては、以前より言葉についての記事でご紹介しています)が、個々の神経細胞での『判別』であり『認識』なのです。コピーを作らないということは認識できなかったということです。『意味』とは目の前にあるもの(イ)をそのようにあらしめているもの(ミ)だという力を表す音の組み合わせで、その力を受け取ってコピーを作ることが意味の認識であり、その表明伝達が言葉です。言葉とは『イ』を表わし『ミ』を表すものです。『意味』と『認識』と『言葉』は表裏一体のものです。そもそも私たち自身がコピーと言っても過言ではないと思います。私たちは前世代(親)の生命のコピー(種)です。そうやって何百万年と繰り返し私達の宇宙は展開し続け存在するものは生き続けてきました。私達に何か特別の期待するような感情的な使命とか価値とかいうようなものはないといってよいと思います。私達宇宙の存在にとって『意味』のあることは『コピー』以外にありません。ここから『人間らしく』ということを考え始めないと、狂信的な妄想である特別な『意味』とか特別な『価値』とか言ったものに惑わされるようになると思います。狂信に惑わされない『意味』を考えて生きること・・・・・これが人間の『価値』だと言ってよいと思います。

ここからが人間社会において最も大事なことだと思うのですが、国語教育というものは、コピーを作ることゆえの問題点『意味の精度』を代々何世代にもわたって正しく受け継ぐためのものです。全般的にも教育ということはそういうことを言うのだと思います。『学ぶ』ことは『真似ぶ』こと・・・・・、つまり『コピーする』ことなのですから。またこれと全く同じやり方で、生命活動が行われていると言っても過言ではないと思います。DNAのコピーが生命活動の始まりなのです。このコピー方式が生命方式であり認識方式であり、それが国語の音の組み合わせの波動として次世代に引き継がれてきたものです。ですから、日本語という国語を失うことは、日本人という生命のアイデンティティを失うことです。『日本が滅びる・・・・・』という危機に至ることです。それで西部さんは言葉による認識について警鐘を鳴らしてこられました。言葉による認識こそが社会を支え、国家を支え、自分を支えているのに、それが壊れかけている・・・・・言葉と自分に乖離がある・・・・・自分が言っていること行っていることの意味が分からなくなっている・・・・・西部さんは社会思想家ですから、現代日本人と国家のかかわりにずっと発言をしてこられました。『発言者』『表現者』という刊行誌の名称はそういう西部さんの姿勢を表したものだと思います。言葉を介して引き起こされる共鳴というか共振というか、つまり聞く側によるコピーが作られることに期待をしてこられたと思います。『大方無駄であった』というような感想を述べておられますが、言葉にして残されたということが時代を超えていつかどこかの若者のコピー(自発的励起)に寄与することを信じたいと思います。

 

 

現代社会においてよく見聞きする『国を訴える』・『国に賠償要求をする』・・・・・その方のお気の毒な状況についてを別において、私にとってひどく違和感を覚える言葉ですが、深く考えずにきました。これについて西部さんは、「『国』と言っているものに2種類ある。」と書いておられます。それでやっと私は『国』とその時の『行政府』というのを『国』という言葉に混同して、『国を訴える』というのは時の行政府を訴えているらしいことがはっきりしました・・・・・だけどこれにはひどく矛盾があって自分が選んだものに対して訴訟をしている・・・・・時の政府を選んだのはほかならぬ自分を含めた国民ですから。要するに国民というのはいつも国民総体のことであって、個別的な一人一人の国民構成員ではない!!!!!私たちは法律用語としての国民を誤解しているのではないかと思います。よ~くよ~く考えてみればわかるのですが、国民という具体的な存在はいません。国民の一人(構成員)はいますけれど、要するに『国民=国』といったようなものだと思います。ということは国民構成員の一人が残りの国民を訴えている・・・・・つまり仲間から私たちが訴えられているといった感じだと思います。福祉というのは、国民全体が相互にかけ合う『思いやり』 なんです。だから、国を訴えるというような性質のものではなくて、権利などというようなものでもない。これは私たちが選んだ行政府が私たちの総意として私たちのお金を出して、なんとか立ち行くように支え合うものです。それが行政府の役割であり、全員の幸せというものなんです・・・・・ということを肝に銘じて私たちは自分の人生を生きなければなりません。そのことを認識したうえで、民主主義という現代の参政システムの幸せを受け取らねばならないと思います。すなわち、私たちは十分に税金を納めるということでシステム運営(行政)に参加し、いつの日か自分の不幸せに巡り合ったときには、自分の属するシステムの恩恵(行政)を受ける・・・・・そういう社会を運営するという覚悟なしに民主主義は維持できないものです。

それで問題の『日本、死ね!』にやっとたどり着きますが、この言葉を聞いた時、「この言葉を発した若いお母さんは、自分と『日本』という言葉に深い関係、切っても切れない血肉を分けた関係を感じてはいない・・・・・のだろうか?」と思いました。 私はこの言葉を聞いた時、胸を刺されたような、曰く言い難い傷を受けました。それをずっと引きずっています。『死ね』という言葉が子供たちのいじめ問題に登場した時も、他人(自分とは別の個体という意味で)の苦痛に全く思いやることのない言葉を吐き捨てるようになったのかと国語教育の重大さを感じました。その延長上にあることは間違いありませんが、それよりももっと酷い生命としてはあり得ない自分を傷つける自滅への段階に進んだように思えてなりません。国語として全世代から受け継いできた日本語の音波の作用という『コピー』をしなくなったということのような気がします。『コピーを作らない』ということは、『次が無い』ということです。『自分を疎外する』ということです。どうしてこんなことになったのか・・・・・、このことを思うとき、もう一つの大きな私達の日本の姿と同じパターンを想起せずにはいられません。それは何か・・・・・それは日本の戦後の思想風潮です。

私達の父祖は戦争の時代を生きました。どんな時代を生きるかということに、私たちは選択の余地がありません。その証拠に今も中近東では戦禍の中にかわいい子供たちが生きており、隣国北朝鮮では独裁国家の下で自由を制限されて生きている(そんな中に私達の同胞が拉致されて30年以上も経っている)・・・・・。世界情勢のそんな時代に生きた父祖を悪人呼ばわりし罪人扱いにしたまま、戦後を生きている自分たちは善人だと思い込んでいる・・・・・それが今の私達です。私たちは父祖のコピーなんです、だから悪人であり罪人のはずです。それを切り捨てないと、善人にはなれない・・・・・?????そんな心理状態で生きている以上、コピーはできません。だったら、もうコピーはできない・・・・・コピーができない以上、『死ぬ』しかありません。そう、私達には『アイデンティティー』がないんです。それで、私は『父の背負子(随想古事記)』というカテゴリーを作って、なんとかアイデンティティー回復の記事を書くことにしました。『コピー』とは『アイデンティティーのコピー』なんです。DNAのコピーそのものなんです。この『日本、死ね!』のショックは、まざまざと私の『意味』を私に再確認させるために私の胸を抉り、西部先生の死というショックをもってもう少し頑張ろうと考えさせたのだと思うことにして『意味とは何か』という記事を書きました。たとえ西部先生がおっしゃるように、『大方無駄であった』ことになろうとも、私が生きている限りはこのブログの記事もあることで以って瞑すべしにしようと思います。

 

最後に余談ですが、西部先生の死について自殺幇助の疑いで取り調べがあっている・・・・・とかの新聞記事を読みました。若しもそれが事実であっても、どうかその方々が酷いことにならないようにと祈っています。仮定の話ですが、もし私が万が一西部先生の依頼を受けたとしたら私も同じだったのではないかと思いますから。

 


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道とは何か?

2018-03-05 13:28:31 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

    日本人の文化・特徴・・・・・その最たるもの『道』とは何か?

 『道(ミチ)』とは『今の先にある命の続き』である。後に出来るものは足跡であって、道ではない。

 

「私達日本人は何にでも道を求める」と言われてもいるし、自分たちでもそう思っています。私達の周りには『道』があふれています。茶道・華道・歌道・士道・剣道・柔道・空手道・修験道・・・・神道・・・・・何にでも道を作って人生の真実を究めようとしていますが、その『道』とは何ですか?????『茶道を学ぶ』とは、お茶のたて方を学ぶことではありません。『華道を習う』とはお花の活け方を学ぶことではありません。『剣道にはげむ』とは木剣で勝つ方法を学ぶことではありません・・・・・美味しいお茶のたて方を学ぶうちに何かを会得していくことです。美しくお花を活けることを学ぶうちに何かを会得していくことです。相手に勝つために修練するうちに何かを会得することです・・・・・その『会得』に向かって続いているものを『道』と私たちは呼んでいます。ですから、明らかにしようと思っても明らかにできない、訳の分からないけれど求めざるを得ない、ある意味苦しい孤独なものでした。具体的な体の動きを通して、形のない心のありようを求めていく・・・・・だけど、そのゴールについては説明できない。そんなジレンマを抱えていたと思います。その上、千差万別・・・・・それぞれみんな違っている・・・・・これでは説明のしようもありません。さらには、極道と外道というものまであるのです。(お天道様もあります。)

 

ここのところ、貴乃花親方のおかげで『相撲道』なるものについて、日本国中(?)考えさせられました。日本人の精神生活上必要条件について考えてみる良いチャンスだったと思います。前述したように私達の周りには種々様々な道があります。だけれど、一人一人がそのすべてを辿っているわけではない!!!!!・・・・・幾つかまたがっている場合もあるけれど、たとえばお茶もするしお花もする、あるいは剣道もすれば弓道もする・・・・・お茶もたしなむけれど柔道にも励む・・・・・そんなこんなして道の先にあるものを求めて自分の人生を完成させようとしています。つまり、日本人にとってこれは『人生道』ともいうものです。そしてそれを完成しなければ、自分の人生を全うできないと感じています。お茶とかお花とか、竹刀とか弓とか、貴乃花親方にとっての相撲道とか、そういった限定的な細い道をたどることで、今生という限定的な束の間の人生においてあまりにも広大な人生の『人間とは何か』という最終問題に解答を得ることが出来るのではと、私達日本人は感じています。

そして、これはすべて神道(カンナガラノミチ)に由来しているのだと、私は思います。神道とは、神様の道ではなく、人間の道です。そして神道が成立する以前に日本語を成立させた古代日本人(私はその人々を『ワタツ人』と呼んでいます。)の生きるスベ・『カタカムナ』という人生観とも言うべき思索です。世界中で『神様とは何か』という問いに答えを出している唯一のものです。『道とは何か?』という問いに回答できる唯一のものです。それで、『道』とは・・・・・・その人の希求してやまないものが、その人に向かってやってくる『その奥』に続いているものです。『その奥』に何かが見える・感じられる・聞こえてくる・・・・・その人にとって『そっち』に行かざるを得ない・引っ張られる・・・・・そんな方向に続いているものを『道』と呼びました。それ以外に行きようのない人生そのもの・生きることそのものが『道』です。このミチは『道』でもありますが、カタカムナにとっては『満ち』でもあるのです。『満ち』の方が言語学的に言えば元に近い文字です。それは命の元方向から命を満たされる状況を表しているからです。それで、そういう言語を持った日本人は『道』を求める意外に生きようもないのです。というより、『道』を見つけることに気が付いた民族ということができます。これがどんなにか日本民族の幸せに寄与したか、はかり知れません。なぜかと言えば、その道に外れていないか、常に自分の心に問わねばならないからです。何に問いかけるのかといえば、以前『法と鏡』という記事で触れたことがあるように、向こうから満ちてくるもの(カのカのミ)と自分が同じであるかどうか、照らし合わせなければならないからです。違っていれば、『違うんじゃないのか?』という違和感が湧き上がった自分の心を認識してしまうのです。私たちは自分を照らす『鏡』を持ってしまったというわけです。

 

そしてさらに、このことが『日本語』というものが何か、ひいては『言葉とは何か』という問の答えも示しています。私は『カタカムナ』に行き着いて私の『今生』を完成に近づけることが出来、以前にもご紹介したことのある『己一人知って何になる』という言葉を自分の生きがいにしましたが、世の中は『道』を見つけても『道』をたどる方法についてはあまり興味がないらしい・・・・・・・・・・のかなと、思っています。

 

3/6追記:この文字色の部分を追記しました。


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人生のゴール???!!!

2017-12-15 21:53:48 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

先日テレビを偶然見ていたら、聖路加の日野原先生のことを報道していました。先生の最後のインタビューだとか・・・・・そこで、先生が死について「・・・怖いですよ。そういった話は聞きたくない・・・・・」といったようなことを答えておられるのを見ました。まあ、正直といえばそれまでなのですが、がっかりしました。医療の最前線を歩んでこられて、死に直面した患者さんを励まし語り続けてこられて、104歳まで元気に生きてこられた・・・・・それなのにですよ、『怖い』とおっしゃるんですから。何を励ましてこられたんだろう・・・・・と、思います。

 

否応なく、人生のゴールに『死』があるんです。『死』が何なのか考えずに、その答えを見つけ出さずに、私たち人類はそれでよいのでしょうか。自分も大事な人もみんな死ぬし、死んできました。土壇場に来て、『怖い・・・』なんて、言いたくありません。これでは、死んでいる人たちに向かい合えません。歴史と伝統・・・・・なんて、とても言えません。『若い今』だけで良い?????・・・・・だから、みんな年をとりたくない・・・・・?????テレビをつければ、そんな話ばかり・・・・・。でも、

        人生のゴールは『死』なのですから、

         それを明白にしなければ明るい『ゴール』は無い!!!!!

生まれた人みんなの宿題だと思います。どう思われますか。

コメント (4)
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日蓮上人の開経偈

2017-10-23 20:15:34 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は 百千萬劫(ひゃくせんまんこう)にも遭遇(あい)奉(たてまつ)ること難(かた)し。我今見聞(われいまけんもん)し受持することを得たり。願わくば如来の第一義を解せん(・・・・・無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)百千萬劫(ひゃくせんまんごう)難遭遇(なんそうぐう)。我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)。願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)・・・・・)実はここまでは多くの宗派で『開経偈』として唱えられ臨済宗の生家の法事でも聞きなれていました。そして結婚した夫の家は日蓮宗・・・・・初めて日蓮宗の開経偈を聞き、とても気になって過ごしてきました。あまりに気になっていたのか、夢にまで出てこられた日蓮上人と白隠禅師・・・・・『日蓮と白隠』という記事にしたこともあります。ヒレフリ山教室でも何度か教材にしました。

 

日蓮上人はこの願解如来真実義という眼目の後に、・・・・・至極の大乗思議すべからず。見聞触知(けんもんそくち)みな菩提(ぼだい)に近づく。能詮(のうせん)は報身(ほうしん)。所詮(しょせん)は法身(ほっしん)。色相の文字は、即ちこれ応身(おうじん)なり。無量の功徳(くどく)皆この経に集れり。この故に自在に、冥(みょう)に薫(くん)じ密(みつ)に益(やく)す。有智無智(うちむち)、罪を滅し善を生ず。若しは信、若しは謗(ほう)、共に仏道を成ず(ぜん)。三世の諸仏。甚深の妙典なり。生々世々(しょうじょうせせ)値遇(ちぐう)し頂戴せん。・・・・・と加えられました。そしてこの短い開経偈の中の、『能詮(のうせん)は報身(ほうしん)。所詮(しょせん)は法身(ほっしん)。色相の文字は、即ちこれ応身(おうじん)なり。』という三つの文に、日蓮上人が無上甚深微妙だとおっしゃっている法華経によって悟られたこの世の全真実が述べられていると、私は思います。

そして・・・・・日蓮上人が悟られた『それ』をわかるために、妙法である法華経を唯一深く読め(南無妙法蓮華経)、とおっしゃっているのです。それがわかれば、自由になって知ろうと知るまいと、誠を尽くそうと尽くすまいと、すべてが仏道を達成することになる・・・・・とおっしゃっています。ですが、悲しき哉。この世の常というものですが、すべてのことは自分で解らなければ決して解らない。仏教徒は『解脱』というものに狂おしいほど憧れ希求しますが、それは単なる希望であって現実の真実ではありません。多くの者は観念の涯をさまようものですが(洋の東西を問わず、自殺するものまでいます)、幾人かの者が、ふとした拍子に真実を知ったり、難行苦行の末に既成観念を打ち破ることができたり・・・・・そうして、日蓮上人も真実を得られました。ですが、いくらわかりやすく、『能詮(のうせん)は報身(ほうしん)。所詮(しょせん)は法身(ほっしん)。色相の文字は、即ちこれ応身(おうじん)なり。』と教えていただいても、肝心要の『』がわかりません。私にとっても、長いこと『概念』にすぎませんでした。それが、カタカムナに触れカタカムナヒビキが少しずつ身近になってくるにつれて、これは日蓮上人の開経偈であり喜びの宣言であることを実感しています。

 

そしてこれは、カタカムナをわからなければ、わかりようもない・・・・・カタカムナは概念でも観念でもありません。最近はカタカムナが流行りだとか・・・・・だけど人に聞いてわかるものでもありません。人に聞いてわかるのは、ただ自分がわかる時を迎えた時だけです。そのためにするべきことは、(幸いにも)私たちの母国語である日本語の一つ一つの構成音を頭というか自分の身体の中で繰り返し繰り返し・・・・・そしてそのコピーを作ることのみです。そうしているうちに、こんがらがった絹糸がほどけてくるように、分かってくるものだと感じています。何のためにこんなカテゴリーを作ってこんな記事を書いているのかというと、それを知りたいと思っても答えるべき宗教が混迷の中にあって、『それ』を知りたいと思う後生の若者のために、せめて何らかのよすがになればと思うからです。糸をほどく作業は、自分だけの作業です。ですがその糸口を、せめて、目に触れやすいようにすることが、私がそれに触れることができた幸せの恩返しになるのでは・・・・・と願っているからです。そしてこのことが、人のため、社会のため、ひいては世界のためになると思うからです。

 

 


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法と鏡2

2017-04-23 19:58:03 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

北朝鮮をめぐって、戦争になるかならないか・・・・・どのテレビ局も連日放送しています。そして私達日本人が忘れていた事実を、今更ながらに思い起こさせています。それは国という単位を規制する法がこの地球上には無い・・・・・ということです。私達はまだ国以上のものを持っていません。それなのに日本人だけは、憲法というものに理想を託している・・・・・ばかりか、個々の命を託している?????・・・・・なぜそんなことが世界で唯一できるのでしょうか。私達は今その理由と、世界の現実から顔を背けている自分達をはっきりと知る必要があるのではないかと思います。

 

それはひとえに日本人が『鏡』というものを心のよりどころにして暮らしてきたからではないかと思います。そしてその鏡と法とを同じように思っているからではないかと思います。日本人の心情は、自分が正しいか間違っているかを確かめる時に照らし合わせるもの・向き合うものは、『鏡』に映った自分だからだと思います。その鏡の奥にあるもの・・・・・これは天岩戸屋でアマテラスが向き合わされた鏡と同じで、そこに映っている美しいもの・貴いもの・正しいものをのぞき込む自分の姿勢だと思います。これは本当に世界に誇るべき姿勢だと思います。そしてそれが普遍的世界中の心情になれば、もっともっと世界は住みやすくなるかもしれません。だけどこれがまかり通っているのは、日本だけ・・・・・あるいは、日本のほかに何か国あるのでしょうか・・・・・私達日本人の使命はこの美しい『鏡』の国を守ること。これがいつの日か世界平和に寄与する道なのだと思います。『鏡』は『鑑』であって、自分の姿を映すものであり自分のお手本でもあります。

でも、そもそも『国』というものは自分たちを守るための集団から発達してきたのではないかと思います。だとすれば、対立する相手があるのが前提条件で、対立関係を如何に納得のいく状況にするかが世界の近代化であり、条約というものの性質だと思います。それで世界の考える『法』というものが発達してきたのであって、東洋哲学的な『法』とは全く違うものです。西洋の『法』は神から授けられる統治上の決まりで権力も一緒に付与されます(ということにして、人間が作った法を発布し行使する権力の正統性を表明しています)。でも東洋哲学の行き着く果ての日本では『法』とは『道理』であって、もともとあるものであり、逆らっては『ばち』の当たるものです。だから日本人ほど『法律』に合わない国民性のものはいません。裁判に対しても同じです。日本人は『大岡裁き』が好きなんです。

 

どうしてこんな世界に独特の国柄と国民性が生まれたのか・・・・・これは、ひとえに日本語の音波による脳神経のオペレーション(言霊)であって、カタカムナのおかげというべきか所為というべきか・・・・・『鏡』に映して自分を正しているもの、それは『カガミ』であって、『鏡』の奥から自分に向かってくる『カ』の『カ』の『ミ』と照らし合わせているんです。そういう心情になるように日本語というものを作って今日まで伝えてきました。(このことを知りたいと思う方はご自分で研究なさってください。簡単ではありません。それは既成観念というものがあって言葉を聞いても分からないからなんです。知識として知っても何の役にも立ちません。私はそれを探求して放浪50年のような気がします。)ただ日本人と自分のことを言うならば、最低でも、美しい『鏡』の日本語を使わなければならないと思います。なぜなら自分の発する日本語が、また『鏡』になって『カ』の『カ』の『ミ』として放出されるからです。『言葉』というものは本来そういうものなんです。これは『認識』の表明であって、私達が受け取っている脳の刺激のコピーなんです。私達の体全体がその波動で振動しているんです。その振動するもので私達は心身ともに出来ていて、それが『カ』の『カ』の『ミ』なんです。それを繰り返しているうちに、最初は何となくわかってきて、いずれは体得できるだろうと思っています。

 

今日テレビで、どうして国と国の争いに国民が巻き込まれるのか、というようなことを言っている人を見ました。だけど、国と国の争いは国民と国民の争いなんです。日本人ほど国と国民の関係を遠くに感じている人々はいないような気がします。(これは国というものを超越していない現在の世界では危険なことです。)また今は難民などといって保護活動が行われたりしますが、そうやって(武力で追い出して武力で攻め取って武力で自分たちを守って)別の国を建ててきた歴史があって全世界の国が出来ました。そんな現代の難民をどうするのか・・・・・これは大変な問題です。現代は新たな建国の余地がない?????国境の変更は認めない?????だけど難民を受け入れる余地もない?????先ごろもハンガリーだった(ブルガリアだった?)かと思いますが、国境を閉鎖して難民の門戸を閉じました。この難民の問題が、大騒動の挙句に『国』の性質を変えるかもしれませんし、もっと頑固なものになるかもしれません。大昔から私達日本人は難民を受け入れて国を作ってきました(これについては自説を『随想古事記』という形でこのブログの記事にしました)。もちろん武力と日本語を使ってです。『海幸山幸』の山幸彦は豊玉姫の父(当時の日本の支配者)から治水権(シオミツ玉シオヒル玉)と言葉(呪文)を贈られました。それがこのお話しの伝えていることであり、古事記のお話しです。『ホツマツタエ』にも国内の争いを治めるために、イザナギイザナミ両尊が国民の言葉を正して回られた、という記述があります。言葉というものが人間性の問題そのものだからでしょう。この建国や国の立て直しは何千年も前のことで可能でしたが、それを現代社会でどう出来るか・・・・・全世界は『バベルの塔』以前に戻ることが出来るのか・・・・・というくらい深刻な問題だと思います

 

最後に心の底から考えなければならないことは、この事態に至るまで私達は拉致被害者と呼んでいる同胞を救出できずにいるし、方策もない・・・・・また核廃絶を叫びながら、隣国の核開発を止めさせる方策もなければ、放置して瀬戸際まで来ている・・・・・ということです。この無策はひとえに憲法に道理を求めているからではないかと思います。だけど憲法は道理ではない!!!!!その証拠に憲法では加害者の権利は保証しているが、被害者の権利は認められないと思えるようなことが多い。それは死亡事件の裁判になった時、被害者の多くは死亡しており国民ではなくなってしまう(?)からではないでしょうか。私達は死んだら日本国民ではない?????そして悔しいかな、拉致被害者と呼ばれている私達の同胞は憲法の支配下にいない?????裁判すら出来ない・・・・・相手は国民ではなく、北朝鮮です。これでは納得がいかないことばかりです。そしてこれが、憲法が私達の『鏡』ではない証拠です。


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冥福を祈る・・・・・

2016-10-01 11:08:08 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

冥福を祈る・・・・・現代社会では付き合いが広がって様々な人の冥福を祈ったりしますが、大方の場合は浮世の義理、つまり願ってはいるが瞬間的な本当の気持ちを口で言うだけ・・・・・場面が違えば忘れてしまいます。ですがこれは悪いことではなく、大して本気でないから助かっているとも言えます。本当に冥福を祈ったら、悪くすれば、何と言えばよいか、極論すれば『耳なし芳一』のようになってしまうこともあります。共鳴するだけ共鳴して、どう解き放てばよいか、何処にどうすればよいのかわからなければ、芳一のように耳をなくすか命をなくすか・・・・・それで、大事な人の死ほど、死んだ人と残された人は道に迷うことになりやすい・・・・・これはある意味命がけの仕事です。そしてすべての人が背中に負っている先祖伝来の義務なんです。

 この問題は人類の問題だと思います。そもそも死後どうなるのか、誰も知らないことが問題なのです。死んだらどうなるのか知らないで、死んだ後お幸せになりますように?????って、祈ることができますか・・・・・どうしようもないから、祈っていることに無意識にしているだけなんです。幸せに安らかに眠っている・・・・・ことにしているだけなんです。死後どうなるかわからない・・・・・なんて、生きている意味すら分からなくなってしまいます。たまたま生きているだけ?????これこそ科学が解き明かすべき問題なのですが、科学は未だ命とは何か、生命力とは何かを明らかにしていません。ですから死についても全くわかりません。だけれども待ってはいられません。私達は一人一人が死ぬまでに答えを見つけて、そして人生を終えるべきだと思います。そして『わかる』ということがどういうことなのか、『分からせる』つまり『伝える』ということがどういうことなのか、それも知らなければなりません。そうしなければ超音波のように耳を通り抜けていくだろうと思います。

 

 仏教ではなぜ追善供養をするのですか?追善供養に読経をあげれば、どうなるのですか?キリスト教徒はなぜ主に召されて、いつまでも最後の審判を待つのですか?これが明らかにならなければ、人生の最後は『死=無明(何もわからない)』で、たまたま生きていただけということになってしまいます。大方の場合その理由を知らないので、宗教はただの希望を語るものになっていると思います。こうなれば、必ず死ぬのに生きていることだけに意味を見つけ、挙句の果ては意識がなくとも生かされる・・・・・という、現代社会の『無明』そのものになります。

 私達人類は、生まれる前を知り、そして死んだ後を知らなければならないと思います(これは過去世や未来世のことではありません)。これは世間でいう宗教ではありません。本当の宗教は『宗(この世のもと)』の『教え』です。『宗』を『神』と教えたのなら、『神』が何なのか知っていなければなりません。その何なのかを知ることが人生の根本だと思います。そしてそれができないと、本当に冥福を祈ることはできないと思います。冥福とは、そうした無明の淵から脱出することなのですから。冥福とはどういうことなのか知らなければなりません。

イエス様が本当に『信じよ!』と言ったのかどうか・・・・・私は疑わしいと思っています。何が何でも信じよ・・・・というのは、教える側の無明そのものです。イエス様は分かっていたのだと思います。だけどイエス様の分かった『言葉』を聴く側が分からなかった・・・・・つまりオウム返しをしていただけで、それも自分は正確にオウム返しに繰り返したつもりでいたが、自分の言葉とすることが出来なかったがために多種多様の意味不明を生み出していったと思います。お釈迦様の語られた方便も同じ、孔子様の徳を論じる『仁』もまた・・・・・これは、このカテゴリーで私がテーマとしている『言葉』の問題であり、これが『命』に直接関わってくる『カタカムナ』の問題だと思っています。『言葉』とは共鳴によって新しい波動を自分でコピーしたとき(これが楢崎先生が言われた共振というものだと思います)初めて理解されるものです。そして共鳴は体質に依存し、コピーの精度は異なっていきます。つまり正確に共振は出来ません。するとどうなるか・・・・・共鳴源がなくなると消えて行き(身近な例をあげると、恩知らずとなり)、誤差のあるコピーを作り出して誤解していくことになります。

 

『言葉』というものが人間の『脳』の働きの基本であり全てだと思っています。『言葉』というものは音波であり『力』の形だからです。そして人間が霊長類の長たる所以も分かりました。他の霊長類との間にもある画期的分岐線・・・・・それは、

            人間のみが先祖を祀る・・・・・

これは同じ生命力を親から子へと『言葉』によって分け移された(コピーした)ものの義務、つまり今となっては多くの無明に漂っている先祖伝来の義務であり、『死ぬ』とはどういうことかを知って宗(もと)の自由さに、先祖もろともに戻らなければならないからです。そのことに気が付いた時、代々慈しみ育てられたわけを知りはるか昔の先祖を思い、人類は人類になり霊長類の長になったのだと思います。過去の冥福を祈り、未来の冥福を祈る・・・・・人類はそのために今を生きているのだと言ってよいと思います。

 

『死ぬ』とはどういうことか・・・・・体は元の構成要素に分解して地球圏にもどし、体の構成力(生命力)は宇宙の自由さの中に没入してワタシというテリトリー範囲を融解する(宇宙はチカラ・ポテンシャルといったようなもので出来ているんです)・・・・・これが今の私の結論です。融解出来るように自分の構成力(生命力・コピー力)を鍛えなおし(宇宙と相似させ)続けること・・・・・これが、残された人生の期間に許されたことです

 

折しもお彼岸のニュースをテレビで見たり・・・・・従妹の死で冥福を祈らねばならない身近な人が増えたり・・・・・それで、冥福を祈るということについてまとめてみました。我が子がいつか考えてみるだろうかと思ってみたり、若者はみな子供と同じですから、誰かが何かを感じて継ぎ足して行ってくださるといいなと思ってみたりしています。ここで『構成力』と書いたものは考える力そのものです。そもそも『考える』という言葉も、カタカムナの『カムカヘル』から来ているんです。もともと『宗(もと)に戻る』(つまり、宗に沿ってコピーを作る)という意味なのです。そしてそこから道を探るという意味なのです。同じ言語を守り続けるということがどんなに大事なことか・・・・・『考える』ことが日本語そのものに依っているのです。家庭において親が慈しみ育てる『母国語教育』がどんなに大事なことか・・・・・私達は家庭生活というものの位置づけを確認すべきだと思います。そして子供に向ける『言葉』の重大性を認識しなければなりません。


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