先年久司先生の『パームヒーリング』や『導引』を翻訳(どちらも日貿出版社から発行されました)していた時、いつも『physical,mental and spiritual』という単語に戸惑わされました。少なくとも私達日本人に耳慣れた言葉にこんなのはありません。基礎的意味として翻訳すれば、物理的・心理的・精神的とでもなりましょうが、人間の健康に関する事ですから身体的・心理的・精神的という意味で使われています。上記二つの本に頻繁に登場してくるこのフレーズに相当悩みました。出てくるたびに身体的心理的精神的という翻訳を当てることに、作文する上で抵抗がありました。そして結局『心身』という言葉を当てました。英語と日本語では順序が逆だなあとも思いました。これは民族的な言葉の癖なのだろうと思います。
私達日本人は人間の存在を『心』と『体』として捉えていますが、英語を使う人々は身体的な存在と心理的な存在と精神的な存在として、人間を考えているのだと思います。だから医者を『フィジシャン』と呼び、体だけを対象としているのではと思い当たりました。フィジシャンに心のケアを要求するのは無理というものなのでは・・・・・それは日本人の心象なのでは・・・・・?と思います。『心身』という日本人の言葉が単純なのは、日本人の居住環境が英語圏の人々より素朴だったのだろうと思います。そして何よりも心の現れとしての身体を見ていたのだと思います。
さてどの世界(分野)でも進化が進むと細分化されてくる(文明社会では)ものですが、西洋社会は心を心理と精神とに分解しました。身体の方はあまり注意されていませんが、本当は組成と組織に分解されていると思います。宇宙の流転の法則通り『一が二になり、それがまた二に(つまり四に)なった』というわけです。東洋では未だに(?)『二』の段階で事足りているというわけです。本質を総合的に理解しやすいと言った方がよいかもしれません。分解しすぎると『木を見て森を・・・・』になってしまうからです。
ではその『心身』の前は何だったかというと、言わずと知れた『一』の世界、つまり『在』・我等が宇宙です。私達の世界に『無』はありません。東洋は『無』の世界と言っていますが、その『無』は『自由自在』という意味で『在らず』と言っているわけではありません。ではその『在』の前は何だったかと言えば、『大在』としか言いようがありません。これは言っても無意味なものです。それで先人達は『不可思議』と言ったのです。『不可思議』とは不思議という意味ではなく、考えても分からない能力を超えたものという意味です。だから『思議しても無駄だ』と言ったのです。
私達の宇宙はビッグバンで始まったとされていますが、そうだとしても『バンするもの』が在ったわけです。そんなものが存在する空間(?)が在ったのなら、それが『大在』ですが、それは『無』ではありません。『無』は私達の宇宙に存在する『何かが無い状態』です。だからもうその前を考えても、私達『在』の能力では無理なのです。私達は妄想に駆られず、『出来ない』ことを知る必要があると思います。
要するに私達は『在』、あるいは『有』の世界に生きています。その最初を『太初』、つまり『太一』と呼びました。その世界は『自由』つまりは『無』の状態として『在』りましたし、今もそのままです。なぜ『ビッグバン』なるものを想定したかというと、現宇宙にある多様性を説明できないからです。多様性を生み出すほど偏ったり揺らいだりした理由が分からないからです。大きく広がった事にしないと説明がつかないからです。広がりを持ったということで私達は今二極性の宇宙に生きているわけです。有無・プラスマイナス・陰陽・天地・・・・・私達はその中間に生きています。その度合いを『自由度』あるいは『不自由度』と言います。
最初の『自由』が展開する状態を、私達の日本語は的確にとらえています。それは『力(チカラ)』という言葉です。自由な力を発揮しているものを『カ(カタカナのカ)』と呼び、その現れているものを『力(チカラ)』と呼んだのです。そして当然力は波動の影響力を発散しながら展開するのです。それを何故かと言っても、『太初』、つまり『太一』が運動している静止だったからで、考えても無駄というものです。私達はこの原初の性質をみな付与されています。みなが原初の多様性だからです。
だから、だから、私達は皆、この波動の現れ方として存在しています。
この波動が心身、つまり身体的心理的精神的に分けられるほどの波動範囲の綜合波動だと西洋科学は言っているのです。身体的波動は可視領域、心理的波動は運動領域、精神的領域は思考領域とでも言うべきでしょうか。つまりは密度と範囲の問題なのです。
ここからが今回のテーマです。私達の身体は、目に見える固体波動と、目にはみえないが条件反射みたいに身体を動かす情動的な波動と、目には見えないのはもちろん何のきっかけもなく人間の大脳によって展開できる空想的波動によって組織されているという事実です。そして食事、つまり環境摂取が、このすべてを左右しているという事実です。マクロビオティックはこの事実を捉えた『学』です。『道』です。そしてこの大宇宙における自分というものを知るためのものです。
この身体的心理的精神的波動は、波動レベルで見ると境界が明確ではありません。全ては曖昧で入り混じっています。身体的波動も二次波動の運動波動を生んでいて、これは心理的波動と同じレベルです。心理的波動は、刺激によって何らかの物質波動を生じさせています。これは身体的波動と同じレベルです。同じように何らかの条件で引き起こされ強められた心理的波動が、人格ともいうべきものになり、精神的波動の陶冶のきっかけになります。あるいはまた精神波動は妄想にもなり空想にもなり、真理の解明にもなります。要するに私達は身体的心理的精神的に総合して存在しています。同時に同一に存在しています。マクロビオティックというものはこうした私達の綜合的道で、これ以外にどうしようもありません。
ストレスが身体に与える影響、私の脱毛の体験と治癒の体験、痛みというものの意味、膀胱炎を思念で治したこと、ぎっくり腰の対処法・・・・・・認識することの意味、これらはみな身体的心理的精神的存在としての証拠だと思います。そしてそこに『言葉』というものの持つ意味が大きく浮かび上がってきます。もともと人間の聞き分けた『音』というものは、この地球上に生きる人間を取り巻いて発生する身体的心理的精神的波動を分解したものです。その音素を基本にして言葉は発生しました。ですから危険信号的音を受け取ると、人間も動物も生きとし生けるものは皆、その身体を緊張させます。笹にそよぐやわらかな風の音は、すべての物を安心させます。
ですから自分の発する言葉というものは、私達の身体的心理的精神的レベルを表しています。次にその言葉によって私達は自分の波動に影響を及ぼしています。言葉は精神波動のレベルに現在はありますが、太古の昔は心理的波動のレベルで、身体に直結していました。それでその音としての波動は心理的波動に影響し、身体的波動に作用します。言語の音は『カ』の発動状況なので、私達の日常発する言葉が今度は私達自身を逆に形成することになります。
思念は『このようになる』という意志の現れですが、認識は『こういう状態である』という事実の素直な受容です。思念の前に必要な前提です。ここに虚構が入り込むと思念はうまく作用しません。全てを受け入れること、これが自分を治療する必要条件です。この『受け入れる』という態度が、『思念』の通路を開きます。届けられるべき道筋を明らかにし届けられるべきものを正しく選ぶ方法です。『思念』を最も強力に送る言葉は『アリガトウ』です。『アリガトウ』は厳密な意味で感謝の言葉ではありません。『アリガトウ』によって引き起こされる二次波動が感謝の心です。正しい状況認識と『アリガトウ』の思念で届けられる正しい物質・運動波動が、適切な修復再生作用を引き起こします。その結果何とも嬉しいありがたい心を体験することになります。
再生、あるいは治癒という事態は、この認識と思念という波動が身体という物質波動を生む現場です。もちろんそれは身体という現行組織があってこそです。それがマクロビオティックで『食べもの、食べもの』という理由です。スピリチュアルが問題なのは、それが身体によって規制されているからです。スピリチュアル対スピリチュアルであれば、力学上の問題で解決されます。それが問題になるのは、身体的心理的精神的人間においてです。占いに頼ったり幻想に悩んだりするのは、耳無し芳一のように幽霊に取り付かれたりするのは、精神的波動の解釈の問題です。要するに波動を翻訳できないからです。正しく認識できないからです。それが出来れば言葉という波動の力で解放することが出来ます。
適切なマクロビオティックで生活を整えるということは、自分を取り巻く環境を自由に解放出来るようになるということで、それ以上に人生の目的はないと思います。そして許されるとするなら、自分の理解したことを分かち合うということです。全てが『太初』から始まった『自由』の分身なのですから。これで今回の一連の体験記事を終わりたいと思います。
そして今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
髄膜腫というのは、素人的に言えば、頭骸骨の内側に貼りついている髄膜に出来る腫瘍です。夫に言わせると、「良性の腫瘍だが脳腫瘍というのはみな癌(悪性腫瘍)扱い」なのだそうです。私なりに調べてみると、髄膜腫は案外多くて、気付かれないものも多いとか・・・・強く頭部を打撲したりすると、その傷口(?)から発生することが多いとか・・・・。その程度しか分かりませんでした。
マクロビオティック的(?)見解によれば、自分が作り出したものは自分で元に戻す(腫瘍の場合は溶かす)ことが出来る筈です。自分の食生活を再検討しました。構成食材を標準食の中庸領域に合わせて、腫瘍を溶かしやすい大根や蕪、キャベツなどを毎食摂り、小食にしてマクロビオティックで許容範囲に入れられている嗜好品(果物や菓子類など)を完全に絶ちました。それで一月余り過ごしたと思います。そのうちに長女の奥津典子が、当時久司先生が発表されていた『脳腫瘍に良いスープ』なるものを教えてくれました。
この時に感じたのは、『病人には世話人が必要である』ということです。大体病人は自分の事ですら、取り掛かるのには困難があります。ずっとやってきたことは惰性で何とか出来ても、新しくやらねばならない事にはなかなか取りかかることが出来ない・・・・・この事を実感しました。病人にアドバイスはもちろん必要ですが、アクセルの役を引き受けて手伝ってくれる人が必要です。病人とは何よりも『億劫さを抱えている人』です。自分で始められないのです。それが病院が選ばれる理由だと思います。
マクロビオティックで暮らし『この病気をチャンス』と捉えることが出来た私でさえ、『久司先生のスープ』を毎日取り入れることに最初億劫さを感じました。この時の感想を整理すると、
1.病人の心理的問題(私が感じたような、取り掛かるにあたっての問題)
2.介助者と病人の認識レベルの問題
3.複数の介助者がいる場合(直接間接を問わず)、介助者間の認識レベルの問題
この感想を踏まえて、病人の自立療養を目指した宿泊訓練プログラムを平戸・田平で夫と始めようとしましたが、残念ながらまだ日の目を見ていません。スターターとして1~3週間のプログラムがあれば、どんなにか助かると思います。
こうして数か月を過ごしたのですが、この間に大きな事件が起きました。娘が孫を連れて見舞いに来てくれたのです。それは良かったのですが、開業の裏方をしながら多忙に暮らしている病人(?)の私を気遣って、舅が義姉のところに出かけたのです。舅は2歳になる孫可愛さに疲れてしまう私を心配したのだと思います。舅は姑が亡くなる前から前立腺癌と診断されていました。病院にはかかっておりましたが、自分で診療方針を決めていました。息子である夫もその嫁の私も、なかなか介入できませんでした。時々『癌って自分で作るのだから、自分で治せないんですか・・・?』などと探りをいれてみましたが、『そうじゃろかい・・・???』と言われるだけでした。それでもトマト好きの舅に、トマト料理を添えることだけは簡単でした。
急に足を引きずり始めていた舅は、義姉を呼んで2週間の予定で出かけて行きました。舅の配慮で孫と楽しい時間を慌ただしく過ごしていたところに、義姉から舅が手術を受けるという連絡が飛び込んできました。何と舅の脚が麻痺して診察を受けた所、前立腺癌が骨転移をしているというのです。放置すると呼吸も出来なくなってしまうというのです。すぐに舅は大村で手術を受けました。びっくりしてしまった私達は娘と孫を帰京させ、舅の許に行きましたが声もありませんでした。
義姉と付添交代の簡単な取り決めをして、ウィークデーは義姉と姪達が週末を私が担当することにしました。起き上がることが出来なくなってしまった舅との会話を思い出します。お互いにもう回復はしないだろうと思いながら、うつろに希望の言葉を聞きたい父(舅)とかけたい娘(嫁)・・・・・それでも楽しいような思い出もあります。「自分の上の方にある食事をどうやって食べるか、わかるか?」と問いかけ、答えを教えてくれました。「鏡が給食にはついているんだよ。それを使ってお皿の中を検査するのさ」。それでも一人で食べるのは難しいし、老齢になった舅は悲しかっただろうと思います。傍にいるのを喜んでくれましたし、朝はなるべく早くホテルから病院に行くのですが、待ちかねたように『足を揉んでほしい・・・』と言いました。自由を失った足がどんなにか重たく辛かったのだろうと思います。
手術を受けて3ヵ月半後に舅はなくなりました。その間週末の大村行きを繰り返しました。その間の私の食事をどうしたかというと、一日玄米おむすびを2回、4個の、徹底的な小食でやり過ごしました。その頃の日記に『少食だから疲れない』と書いてありました。過密なスケジュールを何とか乗り越えた私は、自分独りでやってきたプログラムに少し不安を覚えて、久司先生に直接ご相談することにしました。先生のご講演の予定を見て、時間を取っていただいたのです。それまでの経過をご説明し自分のやってきたことをお話し、その上で修整をしていただきました。何よりも自信と安心をいただいたと思います。
髄膜腫が診断されて以来、発作を起こしたことは一度もありません。自分の脳の『かまぼこ』状態は確実に改善されて、自覚することも無くなりました。私はよくなっていることを自覚しました。これが2002年のことですが、2004年の暮れにはボストンのクシ・インスティテュートでの講義に参加しました。12時間の飛行にも耐えることが出来ましたし、何より自信があったのです。もちろん食事の心配が無かったことが大きな決心の要因でした。夫はとても心配して、丁度浪人(?)暮しをしていた長男をつれていくなら、という条件を付けた上で許可してくれました。
私はすっかり治ってしまいました。いつ消えてしまったかは正確には分かりませんが、少なくとも半年後にはかなり小さくなっていたと思います。何故かというと、舅のお葬式から続く一連の法事を、食事の管理の枠を緩めて乗り切ることが出来たからです。2005年頃から三年間続いた久司先生の『スピリチュアルセミナー』に参加しましたが、その2回目のことだったと思います、『もうすっかりいいね』と先生が仰いました。それで2006年の5月(多分)を完治と思うことにしています。
髄膜腫などの腫瘍の原因物質は脂肪だと思っています。余分な脂肪が何がしかの条件で何処かに貯留されて出来ると思います。ですから要は血液中に溶かして排泄処理することが大事で、それ以外にないと思います。そのためには、第一も二も三も、血液の清浄化が必須条件です。そして脂肪を溶かす消化酵素の働きを利用すること、貯留物質を食事から排除すること・・・つまりマクロビオティックと小食の実践です。飢えると貯留物を溶かしやすくなりますので、小食がキーポイントです。今回2011年11月に珍しく頭痛を感じることがあったので、脳神経外科でCTスキャン検査を受けました。私の4センチもあった髄膜腫は完全に消えていました。
現代は電磁波社会、生活の場はテレビを始めパソコンや携帯など様々な小道具までの便利な道具の電磁波にさらされています。大切に頭骸骨で守られてきた脳も電磁波の前には無防備です。もともと脳はそういった波動の送受信器です。脳も疲労し傷つけられるだろうと思います。高脂肪食に人間の食事が偏向している限り、今後脳腫瘍は増え続けると思います。その限度は各人各様です。ほんのちょっぴりでも、その発生条件が整ってしまうと、腫瘍は出来てしまいます。そしてそこが身体全体のゴミ捨て場になり成長していくのです。脂肪摂取と過食を避けること、これが肝要だと思います。長々と書きましたが、これで髄膜腫編は終わりです。[体験感想記2(実は・・・・髄膜腫2)、(実は・・・・髄膜腫1)]
そして今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
体調を崩して10日も経って落ち着きを取り戻した頃、私は脳神経外科でMRI検査を受けました。その検査はなかなかユニークなもので、『マサイの太鼓』検査とあだ名をつけました。検査中はあまり何も思うなと言われましたが、あの『マサイの太鼓』を聞けば色々と思ってしまいます。そんな想念も検査に影響するのか?・・・?と心配してしまいました。
検査が終わってしばらくすると説明を受けることになりました。M先生は優しそうな口調で舅が指摘したような卒中などの心配はないとおっしゃいました。そして言いにくそうに口ごもって、『先生(夫の事)に電話でご連絡したところ、本人に説明してよいと言われました・・・・』とおっしゃいました。そして『血管は何一つ問題ありませんが、実はここに・・・・』と言ってMRI写真の一部を指示棒で示されました。
『ここに髄膜腫があって、約4センチ大、ピンポンボールくらいの大きさです。・・・・・。治療法としては、切除と放射線照射と二つありますが、かなり大きいことと脳内なので、どちらも副作用の可能性を除外できません・・・・。』気の毒そうにおっしゃいました。私は特に何の感慨もなく、『マサイの太鼓』ほどの動揺(?)もありませんでした。それで『主人と相談します。」とだけお伝えして帰宅しました。帰りながらやっと実感が湧いてきました。
そうだったのか!!!・・・・・やっと分かりましたよ!
これまでの色々な症状のわけが!!!!!
マクロビオティックを知って10数年たっていました。主人の漢方もあって片頭痛はすっかり治っていました。それなのに時々遠出をしたりすると、制御できないほどの平衡感覚異常(?)とも言うべきような、吐き気を伴った今回と同じ症状に襲われていました。毎朝起きた時自覚する感覚は、『私の脳は、かまぼこのようになっている』とでもいったようなものでした。板付き蒲鉾のように半円形になったような感じでした。
この時実感的に分かった事は、脳というものも一日の間に陰陽のリズムを繰り返していて、膨れたり縮んだりしている、ということです。それが髄膜腫の圧迫で慢性的に浮腫気味になっているので、朝はいつも浮腫がひどい状態で『枕に着いたかまぼこ状態』を感じており、何処か奥の方に重たい感覚というか痛みというようなものをいつも感じていました。そういう状態で遠出をしたりして振動が加わると、余計に圧迫されて浮腫がひどくなり制御不能になったのです。極論すれば、てんかん状態だったのだと思います。
自分でやっと納得がいきました。そして自分が頭というか、脳というか、首から上を自分の身体の一部として、あまり感じていなかった事に気が付きました。頭はいつも自分として感じる本体であるがために、身体として思った事がありませんでした。自分の頭に本当に申し訳なく思いました。いつも偉そうに『ストレスなんか、私はうまく昇華できる・・・・』、などと言って頭を思い遣ったことなんて、ありませんでした。そんなストレスで、浮腫をひどくしたのかもしれないのに・・・・・。そんなストレスで脱毛症になったのだろうに・・・・・。
納得すると同時に私の個人的方針は決まっていました。それにこれまで食べ物が健康を決定すると他人様には言って来たものの、自分は試してみたことが無い(?)というか、ひどい病気をしたことが無い????『チャンス到来!』といったような気分で自宅に戻りました。自宅へ続く石段を登りきったところに舅が気にかけて待っていてくれました。『どがんだったね?』
舅も医者です。考えた末に真実を告げました。『髄膜腫ってね~~~』後で主人から叱られました。主人は心配をかけたくなかったのだと思います。それに主人の方が、髄膜腫なるものの実態を知らない私より、はるかにはるかにショックを受けたのだと思います。でも私は、姑を失って以来三人で密接に関わり合って暮らしている舅に、今後症状を繰り返した場合わけのわからない病気をする息子の嫁であるより、事実を知ってもらった方が要らぬ勘ぐりをし合うことが無いと思ったのです。
仕事を終えて戻ってきた主人と様々に話し合った結果、主人は私に任せてくれました。私の頑固さ(?)を知っていたのと、多分私の腫瘍の大きさが思いのほか大きくて、手術をしても危険性があったのだと思います。それよりももっとマクロビオティックを信じてくれたのだと思います。こういうわけで私の自覚的体験が始まりました。この続きは《その3》でお話しすることにします。
そして今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
忘れもしません。私は多忙な開業医の裏方に明け暮れていました。開業医の女房には二種類あると思います。専業主婦タイプと用務員タイプと・・・・・・この二つはどちらも『奥様』と呼ばれていますが、まったく別の人生を歩んでいます。私が属した用務員タイプは、特に小規模な開業医の女房用務員は、経理から労務、外渉、様々な仕事と家事とチャンポンなうえに、一日中勤務時間で、自宅が仕事場なのか憩いの場なのか、育児の場なのか・・・・・我が家の場合は夫は産婦人科医、診療時間外の夜中も夜明けもない緊急出動に備えなければなりません。まあ軍隊の前線部隊といった感じです。ですから隊長(夫)は常に緊張状態、隊長の担当兵である私はそのとばっちり引き受け部隊とでもいうような、そんな私の『奥様』生活でした。
まあそれはそれで、人にはそれぞれの負うべき苦労があるので構わないのですが、ある日急遽鹿児島で大学生活を送っていた娘と相談することがあったので仕事の合間をぬって出かけました。その帰りのことです。座席に落ち着いてしばらくすると頭痛がしてきました。困ったなあと思いながら列車の中で出来るだけのことはしたのですが、一向に良くなりませんでした。鹿児島から平戸に帰るには、鳥栖で博多発の『みどり』に乗り換えるのですが、そのころには異常事態に発展していました。夫は用事もあって、佐世保まで出迎えてくれることになっています。鳥栖での乗り換え時間は5分くらいしかないのです。乗り遅れると1時間待たねばなりませんし、多忙な夫と連絡も付けなければなりません。必死の思いで乗り換えに成功しました。
それから先はただただ具合が悪くて1時間半余り乗り切りました。佐世保駅では夫がいるという思いだけで改札口を出、夫に心配をかけすぎないように・・・・とただそれだけで、本当に必死の思いで夫に「大丈夫」と受け答えをし、駐車場までついて行きました。駐車場でこらえ切れなくなって吐き、しばらく行ってはまた車を止めてもらって吐き、何度か繰り返しながら我が家の駐車場に辿り着いて、転げるように庭の隅に行って吐きました。もう吐くものは何もないような苦しい吐き気でしたが、玄関を開けて入れてもらい階段を這いあがり二階の寝室で着の身着のまま朝まで寝ました。平衡感覚がおかしくなって立っているのも困難、目も開けたくない、そんな状態でした。
夫は最初は怒ったと思います。男って大体怒るものです。男は女房は自分と同じだと思っていますから、わけもなく大抵は不機嫌です。それにマクロビオティックを実践していて不健康なのはおかしい!!と抗議するものなんです。でも今回は異常過ぎました。夫はそれは心配したと思います。それも医師としてその異常ぶりを観察したと思います。夫の治療は受けながらですがあくる日も寝せておいてくれました。3日あまり寝たと思います。そして私に言いました。「脳神経科を受診してみないか・・・・???」
私も検査の必要を感じていたので同意見でした。というのも寝ている間にトイレに立ったのですが、ベッドからいつものように足をおろして無意識に履いたスリッパに、片方の足がうまく入りませんでした。トイレットペーパーに無意識に手を伸ばして届きませんでした。見舞いに来た舅にその話をしたら、私には「疲れがたまっとるとバイ。心配せんでしばらく寝とかんね。」と言いました。夫には『和子さんは、アポった(卒中を起こした)!!』と言ったそうです。そういうわけで私に時々起っていた異常事態は原因究明がなされることになりました。一週間くらいたって落ち着いた頃脳神経科を受診しました。続きはまた章を改めて書こうと思います。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!!!
今さらという気がしてなかなかお話しする気になれなかったのですが、ブログの記事や『マクロビオティックに学ぶ暮らしの知恵』の中で少しふれたように、私も病気や怪我(?)を通り抜けて今日まできました。それを整理しておく必要を感じていくつか記事にしたいと思っています。
私は子供のころから頭痛持ちでしたが、マクロビオティックを知る以前の事は省略したいと思います。マクロビオティックを生活の真ん中に据えて以来勉強のような追体験のような経験をしたのは、第一にこのブログでもお話した通り、左手人差し指を爪にかかるくらい削ぎ落としてしまった怪我が第一回目・・・・・不注意極まりない事故でしたが、まあそういうことも人生にはあり得ることと思います。眠れないほどの痛みに、『痛み』の本質を理解しました。まあそれがわかるくらいの怪我に遭遇させてもらったのだと有り難く思います。
次に記録しておきたいのは、『ぎっくり腰』。これもブログでお話しした通りですが、これは習慣化するようで、12日の日曜日にまたやりました。習慣化というのは、身体の中にアンバランスが生じた時、誰でも弱い部分を持っているものですが、そこにひずみが最初に現れるという、あえて言えば物理現象です。堤防が弱い部分から崩壊するというのと同じです。ですから感想としては、『あ、またやった!』という悔悟と性懲りもない反省の繰り返し・・・・・私の筋肉とか筋のような組織は、弾力性に弱みがあるということでしょうから気をつけて口に入れるものを自制します!!!
次が、『膀胱炎』。これは多忙を極めた夫との開業生活の最中に起きました。よくある話ですが、尿意を我慢して仕事を優先させていました。しみるような、引っ込み思案になるような、そんな痛みを感じました。そしてこれは『痛み』について学んだ通り、意識を集中させ『思念』を送り込んで、自力で治癒させることが出来ました。この膀胱炎についてはそれ以後繰り返してはいません。日常の食生活は問題ありませんでしたし、何よりも尿意を抑えるなどといった動物にあるまじき行為をしないように努めました。忙しかったので仕方のない時は、必ず後始末をしました。つまり必ず膀胱に思いをはせ、自分の身体の許しを乞うたのです。
その次は『脱毛』です。いわゆる『五円はげ(?)』になりました。それもかなり広範囲で3センチくらい髪の毛が抜けてしまったのです。後頭部だったので自分は気が付きませんでしたが、美容院で指摘されました。触ってみるとそこだけ、“つるつる”として異様な感じでした。ストレスによる脱毛症でした。それまで私は自分がストレスに強いというか、上手に消化できていると思っていました。ところが、そうではなかったのです。私の能力には限界があり、身体はそれなりに影響されていたのだと思います。それからどうしたかというと、自分に謝りました。そのつるつるとした部分に思念を送り謝罪したのです。要するにストレスを認めました。自分がストレスに感じていることを認めました。約3カ月で完全に復元しました。
これが久司先生の英語版の翻訳をしていた時ぶつかった『メンタル』と『スピリチュアル』の違いであり、相似象学の宇野先生が口を酸っぱくして教えておられる『大脳二次波動の思い込み』というか『思い違い』であることを知りました。ここまでの『痛み』と『ぎっくり腰』と『膀胱炎』と『脱毛』の体験で、久司先生のおっしゃる『フィジカル』と『メンタル』と『スピリチュアル』がやっと一直線上に並んだというか、自分の持っている波動(『フィジカル』と『メンタル』)と自分が勝手につくりだす(?)二次波動(『スピリチュアル』)とが分かってきました。
そして最後に『髄膜腫』。これはボストン郊外の久司先生の教育機関でのセミナーに参加させていただいた時には殆ど治癒していたと自分では思っています。でも証拠がありませんでした。最近その証拠を手に入れることが出来たのでこうして自分の病歴を整理しておこうと思うようになりました。この『髄膜腫』はある意味私にとって特殊なものでした。まず頭は身体の一部には違いありませんが、通常頭を身体と感じてはいないのではないかと思います。少なくとも私の場合、自分がいたわるべき身体の一部に頭があることを、初めて実感しました。頭痛持ちだったのに、頭痛と頭は別のものでした。そういう事情もあり、かなり長いお話になるので、体験記2にあらためたいと思います。
それからややもすると謎めいた『スピリチュアル』を、『フィジカル』と『メンタル』を通しての体験記3としてまとめたいと思っています。
それでは今日も私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!