曼荼羅・まんだら・マンダラ・・・・・・昨年一度記事にしましたが、またそのマンダラです。『マンダラ』とはこの世に現れてくる働きと現れてきたものを示す日本語です。『曼荼羅』がたとえ外国語起源の音を漢字に移し替えられた言葉にしても・・・・・です。日本語の起源であるカタカムナを再び現代に呼び戻された楢崎先生・宇野先生がお示しになったように、カタカムナ人の言葉は、一つのものの名前を表す音によって、それがどうやって現れてきたのか、どういうものか、ということがわかるようになっています。その音を日本語として私たちは使っているので、日本人はみんな『マ』『ン』『ダ』『ラ』と聞くと、意味は分からないにしても、何かぼんやりと『マンダラ』というものを理解できるような気がするようになっています。
今回の『マンダラ』ですが、これは仏教用語で日本で発生した言葉ではありません。が、何度も言うように、日本語で良く分かる・・・・・そしてそれに派生しそれが引きずり、あるいはそこにまとわり漂っているものもわかってくる・・・・・それがカタカムナ人の作った日本語の音の奥にある、日蓮上人ではありませんが、『妙法』とでもいうべき性質です。カタカムナの説明をする能力が無いので(これは、夫々各人が一念発起して、あるいは必要に迫られて、必然的・偶然的に、知る努力をする以外にありません。)、日本語の音の意味として『マンダラ』の意味を簡略に言うと、
この世に在るものは、その前段階の在るもの(まだこの世には無いけれど、それになるようにまでなっているもの)に対して、そのものの持つ本質的力が働いて(その力は常に働いているので)現れたもの。 あるいは現れること。
といったような意味になります。こういった言葉での説明はなかなか難しいので、その境地を体得するしかないことになりがちです。それで昔から修験道にも仏教にも修行が、難行・苦行、あるいはお遍路、野良仕事の中でふと体得する自然派修行・・・・・・いろいろ行われてきました。ですがカタカムナ人は、音を聞いたら分かるように、言葉を作ったんです。説明しなくてもわかるように・・・・・それが日本語のもととなり、日本人は何となくそうやって分かり合って暮らしてきました。そこに落とし穴もありました。いつも注意を喚起する人、諭し示す人が引き継がれること・・・・・それが途絶えると、初めのうちはまあ何とかなっていても、段々立ち行かなくなる・・・・・。それで、天武天皇もお嘆きになりました。「もはや、(カタカムナ人以来の?)言葉を理解できなくなってきた・・・・・!!!!!」無理もありません。時代は一万年も移って『バベルの塔』事件を経験して民族相争い、極東のわが日本は『大和』の理想を掲げて五族融和の錬金国家になっていたのですから。
前置きが長くなってしまいましたが、音としての『マンダラ』で知り得ることは、
『マンダラ』はあなた自身であり、私であり、この世に生きとし生けるものであり、この世に在るすべてのもの、です。生物無生物、この世に在るものすべてのこの世に在る時間、すなわち『イノチ』の仕組みです。
古今東西人類の発生時から現代に至るまで、人類の最大関心事は『命』です。考える能力を獲得して以来それについて考えなかった人類はいません。身の回りに起こる親しい人の『死』、段々温かみを失っていく人の亡骸を目の前にして、命の来し方行き方を思わない人はいません。命を長らえること・・・・・これが果てしない人類の夢になりました。ついこの前の『小保方さん事件』もそうした人類の最先端の夢(私は賛成できませんが)の周囲に起きた事件です。『希望』によってゆがめられた観念ではなく、明晰で冷徹な事実認識として、命はどうやって生まれるのか、命はどうやって続くのか、あるいはどうやって絶えるのか、そして死んだらどこに行くのか、(命がもともと何なのか、)にもはっきりと答えが欲しい!!!!!
『マンダラ』はズバリその答えであり、『マンダラゲ』はそうやって現れた命が次に現れたもので次々に変化していく様です。『ケ』とはそういった意味です。とどまることはありません。命は続いているもののように見えますが、次々に現れてくるもの(マンダラするもの)だからです。『マンダラ』は『マンダラゲ』になり、またそれにマンダラして『次のマンダラゲ』になる。ずっとそれの繰り返し・・・・・次のマンダラを受け取れなくなるまで。
この次の『マンダラ』を受け取る能力がその人の健康度(生命力)です。この能力は様々な条件によって変化します。それが『曼荼羅図』になりました。中心の大日如来が最初の『マンダラ』です。あるいはそれ以前の大本です。それが『環境』や『食』や『思い』などの条件によって次の『マンダラ』の受け取り方が異なって、普賢菩薩や観音菩薩などのそれぞれの『曼荼羅華』を作っていくのが『曼荼羅図』として示されています。とりあえずの問題はどうしてその『健康度』を持つか、ということです。その健康度を持っていれば、あらゆる変化や条件に応じた次の『曼荼羅華』を作ることが出来るのです。そうして自分の人生という『曼荼羅図』を展開して行けます。つまり『命』を継いでゆけるのです。
その方法は、簡単です。そして最も難しい!!!!!『イノチ』の音を体全体に反響させる・・・・・というか、意識するというか、増幅させるというか、それだけでいいんです。この世はDNAとRNAのようにコピーすることによって成り立っているんです。だから発音(発声)することによって同じ心(命の発生)の波動がコピーされることになっているんです。命の元と向き合って、オウムのようにオウム返しするんです。それこそかしこみかしこみ、ありがたみありがたみ、その元から『マンダラ』され続けてきた『イ』『ノ』『チ』という音を体中で発声するんです。そうすることが受け取ることになります。だけど私の言っていること、わかりませんよね・・・・・、現代では送信者と受信者が同じ振動の性質を持っていないんです。だから段々説明がややこしくなる!!!!!これが私達の現代の『バベルの塔』、どうしたらいいんですか?????・・・・・そしてこれが、『ひれふり山教室』が始まった理由であり、私を含めた教室の面々が直面している問題です。
暗中模索というか試行錯誤しながらですが、この『命』の仕組みを取り入れて、マクロビオティックを広めることが出来ればいいなと思います。一般的に言われている『食』のみをマクロビオティックの方法論にしては、この人生は融通の利かないものになります。多くの人に受け入れられないものになる・・・・・かもしれない。マクロビオティックでいう邪食をしていても、長寿の夢を果たす人もいる・・・・・悟るためにお精進を食べていても、生臭坊主もいるし、悟りに辿り着かない修行者もいる・・・・・それどころか、破戒的生活をしていても悟るものもいる・・・・・・以前記事にしたルイジ・コルナオ翁は一日一食の少量のワインと卵で100歳余まで生きました・・・・・。乱暴に言えば、本当はどうでもいいんです。
もちろん『食』は大事です。『食』はその人の質を決める・・・・・というより、質を決めるための前提条件です。小学校の実験を思い出してください。青いインクの水にさした花は青く染まり、赤いインクの水にさした花は赤くなりました。その後の条件によっては青を緑に変えることは可能です・・・・・でも赤を緑にするのは至難の業ですし多分不可能でしょう。これが『食』という身体の物質的条件の世界です。そして『食』の中で最も強力な条件は、『量』だと思います。どんなに悪食でも、量さえ少なければ、毒を食べない限り、ひどいことにはならずに死ぬまで生きます。ということは、もしかすると赤に近づくことが出来るのかもしれません。『貪り食わない・分かち合う』という思いと、『他を自の必要に変える』という生物の食の掟で、『光』の世界の赤を緑にすることが出来る波動的条件になるからです。『食』は『食』だけにとどまらず、条件は互いに重複し関わりあっています。そうした『食』と『思い・意識』と、『環境条件』、つまりどこにどんなふうに生まれたか、どこで誰と何と出会ったか、いま何をしているか、どういう風に思っているか、どういう事態になっているかなどというものによって、私達は次のマンダラを生み出し、それにまた係っていくという自分の曼荼羅図を紡いでいるわけです。
また人間の課題として掲げられているのが、次の問題だろうと思います。
誰しもが間もなく死ぬであろう時を目前にする。その時『どうありたいか』、あるいは『どう思うか』。自分は人生の意味が分かったか。自分の人生はいったい何だったのか。あるいはもっともっと前に、毎日どう生きるか、どう思うか。いつでも死を迎えられるか。
長生きすることばかりが昨今の社会の希望ですが、それだと人生の最後は敗北ということになります。死を見つめないと老いを忌避し臨終に狼狽することになります。それだけは避けたいものだと思います。私のこうした意見もそれぞれの『マンダラゲ』の条件に加えて下さるというのが、教室に来てくださったり記事を読んでくださったり、ともかくも袖振り合いお会いしたという意味だと思います。今年もよろしくお願いいたします。