現在世界には民主主義を掲げる国家に体制として二種類ある。共和制と王制。どちらも議会が決定権(立法権)を持っている。考えてみると民主主義は為政者の理想、あるいは目標であって、本当は社会体制とは関係が無い。古代社会はより良い社会、人々の(少なくとも同族の)暮らしを守るため強大な権力を構築しようとした。私達の知るかのローマ帝国は弊害を排除するため王制と共和制を繰り返し採用した。そして私利私欲の独裁者と頑迷な元老院を経験した。結局ローマ帝国は統治能力の向上を求めてカエサルにより帝政方式を採用した。ですがとどのつまり、人々の幸福も極端に言って、独裁であろうが多数決であろうが、その人々の度量と人格によるのであって体制とは関係が無い。民主主義のモデルといわれるギリシャのぺりクリスは独裁者(?)であったし、現在の北朝鮮は民主主義を掲げて国名に採用している。
多数決原理の機関である議会も結局はリーダーを選ぶ以外に運営手法を持たない。私達日本の国会も総理大臣を選ぶ以外にない。この世の中の組織は、結局人体と同じような構造を持たなければ存続しない。頭と体と四肢と・・・・・。内臓と骨と皮膚と・・・脳と頭骸骨と頭皮と・・・血液と血管と心臓と・・・リンパ液とリンパ管と筋肉と・・・・・。一つしか無い物もあれば多数有る物もある・・・少数者(心臓)と多数者(血管と血液細胞)・・・。多分血液が血管を作りその一部が心臓になった・・・。国民が代議士を選び、代議士が総理大臣を選ぶ・・・。
選挙が有効な条件ってなんでしょうか?結局社会の健全性だけですよね。つまりは私達大多数の国民の責任ですよね。なりたいだけで立候補する人がいても構いませんが、ならなければならない人を立候補させる道を作らなければいけないのではないかと思うようになりました。その人は国(国民)のために我慢して嫌でも為政者にならなければならないのではないかと・・・・・
それではこんな今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
東北の山々も新緑の季節を迎えるのでしょうね。野生の動物達に人間が関与する余地はありませんが、人間が規制していた家畜やペットはどうすべきなのでしょうか。人間でないという理由以外に何も見つけることは出来ません。口蹄疫にかかったり、インフルエンザにかかったり・・・・・今回は逃がす場所が見つからない・・・・・育てることが出来ない・・・・・わかりません。ただ私達人間社会の責任であることは間違いありません。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
言語に関する考察・追記
五色人って本当はどのように読むのでしょうか?『ごいろひと』?『ごしきじん』?『いついろひと』?・・・・・?赤人、青人、黒人、白人、黄(黄色)人ってどのように読むのでしょうか?『あかひと』『あおひと』『くろひと』『しろひと』『き(きいろ)ひと』???・・・・・?
前回『五色人の謎』の記事を書いていて考えたのですが、五色人はよいにしても違った読み方があるのかもしれません。それは赤と青はそのまま『あか』『あお』だと思いますが、黒は『アヤ』、白は『アマ』、黄は『アメ』ではなかったのかと・・・・・・そして記紀や万葉集に出てくる『アマノ・・』『アメノ・・』や『白水郎(アマ)』などは部族の区別ではなかったのかと・・・・・。
赤は鳥(か蛇)族、青は犬族、黒は鳥(か蛇)族、白は馬族、黄は牛族・・・・・古代から続く地名・アマベとアヤベの違い・・・・・神名におけるアマとアメの違い・・・・・海人ではなくなぜ『白水郎(アマ)』なのか・・・・・なぜ貴人はウマヒトなのか(このことについては川崎先生も『混血の神々』の中で述べておられます。)・・・・・なぜ飛ぶ鳥がアスカの係り言葉なのか、飛鳥(アスカ)という地名なのか・・・・・ホツマツタエに出てくる白人・胡久美・・・・・
アマは馬で白、アメは牛で黄色、アオは犬で青、残るアカの赤とアヤの黒ですが、前回チュモンや玄鳥氏からの類推で疑問を残しながらも赤を蛇、黒を鳥としましたが、私は矢張り赤が鳥、黒が蛇だと結論したいと思います。アヤメモワカヌ存在としてはその性質より蛇が似つかわしいと思うし、古来より朱鳥と鳥が赤を代表してきたからです。チュモンの朱蒙については、伝説どおり『弓の達人』説・朱(鳥)の意味をとりたいと思います。これは夢の中でヒントをもらったのですが、鳥のような(目をもっているような)矢を放つ(百発百中)馬人ということではなかったのかと思います。(矢は羽がついていますからね!)
それで赤人(あかひと)が鳥、青人(あおひと)が犬、黒人(あやひと)が蛇、白人(あまひと)が馬、黄人(あめひと)が牛というのを私の説とします。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
その中で最も無力感を感じさせられるのが、福島原子力発電所の事故です。今回の事故は、たとえ如何にあってはならないことであっても、そういう事故が起こりうることを私達に示しています。自然の力は私達人間の誠実な暮らしに対してもあまりにも非情です。それはただ畏れる以外にどんな対処法もないことを示しています。忘れない事、わきまえること以外にどんな対処法もありません。ですがそのあってはならない事が起こったことに対する私達の無能ぶりはあまりにもひどいものでした。事故直後、その惨状の実態は分からなかったかもしれませんが、時間の猶予が無いことだけは誰にでも想像がついたはずです。現場で一つ一つの作業を繋げておられる方々の危険と努力は察するに余りあるものですが、東電の関係首脳、政府、科学者、こういった方々がなにも予想できなかったというのであれば、私達の社会はこんなものだったのと自分をあざ笑う以外にないのかとさえ思います。今原発の事故の収拾をつけることに時間が無いということが分かっているのですから、いかなる非常手段を持っても迅速に八方手段を尽くすべきです。一つの試みに時間を費やしてその好結果を望んで待つというのでは、いたずらに作業者や猶予期間を浪費していることになります。余震が繰り返し発生するなか、災害が重複する危険も当然あり得るはずです。重複しないうちに一刻も早く修復しなければなりません。人命を賭したとしてもです。制御能力が無ければ、その宝は持つべきでもありませんしもっていない事と同じだと、厳しく自制しなければなりません。私達は原子力発電をしてもよいかどうかの選択基準を今試されているような気がします。
福島原発周辺の方々の心の内はどんなだろうと思います。関東の人々の心も揺れています。放射能と放射性物質に関しては私も詳しくは分かりません。はっきり分かっていることは放射線の防御法はとりあえず無いということだけです。レントゲン室でカバーに使われているようなもので体を包むか、外に漏れないよう遮断したレントゲン室のような密閉した中にいるかだけです。被爆した時にどうなるのかと私に分かっていることは、1.細胞が熱傷を起こす。2.細胞のDNAが破壊される。という二つです。最悪の事態で私達に生き残る余裕は被災の程度ということになります。実際ごく微量の放射線にはこの地球上にいる限り曝されているのですから。宇宙飛行士はもっと曝されています。そういった同じ条件下での違いは各人の細胞の強さと修復力の程度ということになります。長崎と広島は原爆の経験を持っています。チェルノブイリの時も長崎大学医学部は協力を求められたと聞いています。その時『味噌』が日本から送られたことは全世界に知れ渡ったはずです。長崎で被爆し生き延びられた人々にも様々な条件があって、一律に距離ではありませんでした。マクロビオティックは体を調整する方法を提示しているのですから、自分の体を強くも弱くも出来るはずです。ただ若い人は子を生む使命を持っているのですから、取り返しのつかないほどDNAを傷つけられる事態は避けなければなりません。これは社会全体がその事を意識すべきだと思います。テレビで原子力発電の仕組みは報じられていますが、放射線の人体に対する影響についてはほとんど出てきません。長崎大学には膨大な資料があります。それから学ぶ防御策もあるのではないかと思います。あれだけ原爆医療に国家予算を使いながら、今回長崎大学の名前が全然出てこないのも何かしら違和感を感じています。
人心をよらしむことが出来ない政府に残された道は、疑心暗鬼を防ぐことだけです。それで事実と体系づけられた対処法とを示す以外にないと思います。また助ける助けると言っている私達に福島から逃れてきた人々を排除するような卑しい根性があることを肝に銘じて、自分を厳しく制御して言動を一致させるべきだと思います。言ったからには本当に行うべきです。頭の中での善行におぼれることなく、現実の行動を見つめるべきだと思います。
それではこんな今日の日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るだろうか!!
言語に関する考察・前章3
世界の五族の形成について前章1と2で展開してきました。そしてその五族が日本にいた証拠を川崎真治先生は発表しておられます。その証拠についてお知りになりたいのであれば、先生のご本などで研究なさって頂きたいと思います。推薦図書は『混血の神々』です。(私は比較言語学を学んでいませんので、あまりこういう話に深入り出来ないのですが、注意しながら自分の論点《言語の発生》を守っていこうと思います。)
さて高句麗建国は紀元前3~40年とみなされていますが、当時の日本にも五族が揃っていたかについては証明する史書はありません。魏志東夷伝の倭人の条によって国名を見れば、2、3世紀の女王国の邪馬台国は前回述べたように鳥ですし、奴国(博多)は蛇です。伊都国は犬ですし、宇美は牛です。そして末蘆が馬です。アイヌ民族にも多分五族がいますが、犬が優勢でした。熊襲(クマソ)は本来は隅蘇で、梟でタケルと呼ぶ酋長名でもわかるように牛と鳥です。琉球民族は犬と蛇だと思います。少なくとも3世紀初めに五族がそろっていたことはうたがいありません。邪馬台国は部族国が連合した社会で鳥が盟主(女王)だったのです。
前章最後で述べたようにその五族が五色人なのですが、ここで整理をしたいと思います。すでに高句麗で部族の名前が、馬加が涓奴部、牛加が絶奴部、豬加が順奴部、蛇の南加が灌奴部、狗加が桂婁と改名された部族名を持っていました。これは漢字の意味や音から字を当てて使われたのですが、漢字文化圏にはそういう類推が起こりそれぞれの部族を意味する当て字もありました。漢字の無かった日本では音も当てられました。(漢字はありませんでしたが、私は文字はあったと思っています。)主なものをあげれば、蛇には南や波、ナやニ、鳥にはタ、ツや井、犬には伊や獅、具、イ、牛には蘇や松、ゴやソ、福、馬には安、末、朴やホ、ミ、マなどで、様々な歴史的事件や状況により付け加えられていきます。区別したり思い出すための暗号みたいなもので、枕詞のようなものです。それは当時の社会では常識だったのです。誰にでもわかる符牒だったのです。それでその五部が高句麗で先ず方角分けされました。それは『東部太夫』の淵蓋蘇文でもわかるように、高句麗では五族が五部になり東西南北中の五文字を使った五部になりました。これは東夷西戎南蕃北狄がそのまま当てられたと思います。東が鳥、西が犬、南が蛇、北が馬、中央が牛(この北と中央はどちらか自信がありません。)これは三代ムヒュルの時代に始まった中央集権化による部族改編の動きで、十代王の時代くらいに大体確立したとされています。既成階級をそれほど刺激せず確実に解体を進めて行かねばならないのですから、どれほど中央集権化は困難な事業だったろうと思います。で次にその五部が色分けされた、というより、色が紋章化したのです。日本の戦国時代にも五色の色分けされた軍団があったことをご存知でしょう。色分けは見やすい区別法だったのです。
それで馬はマ・ミ・バク・ボクの符牒をもつことから白、牛は昔から黄牛(アメウシ)と言って黄色が特色です。犬はチンギス汗から想像するに遊牧民の色は青です。残るは赤(朱)と黒(玄)ですが、昔から中国では朱鳥、玄龍だろうと思います。鳥が赤、黒が蛇ですね。これは同族ですからどちらでもいいのですが・・・・・ですが、これもチュモンを見ながら思いました。玄都郡の太守ヤンジョンの鎧のマントは白でしたよね、ヤンジョンはケマ国の王族で馬でした。桂婁のソソノは犬の青、沸流の牛ソンヤンは黄色、チュモンは赤と黒、扶余のクムワも赤と黒、テソの青は分かりませんでしたが、若き龍(太子)は青龍なのかと勝手に考えたものです。それにしてもよく出来ていると思います。チュモンは漢字で朱蒙です。蒙は馬の符牒音マのなまりです。それで赤い馬ですよね、赤は母方でしょうからハベク族という蛇族です。殷の王朝には玄鳥氏という一族がいました。殷滅亡後にはその後裔とも考えられる燕という国がありました。玄鳥も燕もツバメで黒ですよね。鳥が黒だと思います。いずれにしても大王は第一皇風姓・太昊伏羲氏の鳳凰と龍の系譜(赤と黒)が必要だったのでしょう。それでムヒュルの映画の題名は『風の国』でした。鳳凰と龍が風の神の化身だったことは前章でご紹介しました。よく出来ていますよね・・・・・・・今もそういう符牒が生きているのでしょうか?
こういうわけで五族がいた日本に五色人はいたのです。赤人が蛇族、青人が犬族、黄色人が牛族、白人が馬族、黒人が鳥族でした。これが日本人を形成している全世界の五族です。渡来した順序は蛇、それから鳥です。これが『うから』、『たから』です。つまり海から→うから、つ(順奴部の川→ひらがなの“つ”、つまり豬で鳥)→たからとなり、蛇と鳥とが日本人の原初の構成員で両者を『うからどち』と呼びました。縄文人は蛇文人だったのだろうと思います。そこに牛、犬、馬が渡来してきたのです。最後に来た馬はアジア大陸中央の山から来たということで『やから』と呼ばれました。なかなか支配階級になじまない一般民衆は、『やから』と言う言葉に『うからどち』のような親しみが持てなかったのだと思います。どこの馬の骨かと感じたのかもしれません。海幸彦山幸彦の昔話は、こうした鳥と蛇(海幸彦)が馬(山幸彦)にやられたお話だったのでしょう。そしてしおつちの大神、つまり牛(の仲間の猿)が馬についたと言っているのです。本当は竜宮城にいるのですから、蛇のはずなのですが・・・・その前に竜宮城も乗っ取られたのかもしれません。何故かというと竜宮城のお姫様は乙姫様で、乙ということは牛だと言っているのですから。
こうして日本も五部族社会で、五色人が年に一回(?)阿蘇に集まって会議を開き国事を議論したのです。阿蘇は馬牛という意味ですから、当時の王朝は馬牛だったのだと思われます。ソサノオノミコトは牛、ニギハヤヒノミコトは蛇か鳥、ナガスネヒコも蛇、ホノニニギノミコトは馬で母が蛇、父君のオシホワケノミコトは牛で母が馬、あるいは別名別雷命(ワケイカヅチノミコト)という名前から風神の性質雷を示しており蛇かもしれません。龍は雷と雲を伴って現れる風神の使いです。猿田彦は牛、ウガヤフキアワセズノミコトは牛、豊玉姫は鳥、邪馬台国の卑弥呼は鳥、蘇我氏は牛、蘇我馬子は母が馬だったのでしょう。蘇我の入鹿は母が犬。蘇我蝦夷は母が蛇だったのではないでしょうか。桓武平氏は鳥、清和源氏は犬でしょう。そういうわけで名前は完全にその人の血統を示しています。五色人に馬の白人がいるということは、五色人のお話は馬が渡来してからのお話になります。古代馬が渡ってきたのは、濊陌などの満州方面から日本海を越えてあるいは間宮海峡を越えてかのどちらか、そして朝鮮半島からの二経路しかありません。前者の系統は蝦夷の阿部一統、後者は末蘆国のみです。三皇五帝に馬がいない以上ホノニニギノミコトが高千穂に来られたのは殷時代(紀元前1300年頃)以後の歴史なのだろうと思います。
以上が日本で五色人が集まったとされる伝承に対する私の回答です。どうぞ自由にご自分の考えを発展させてください。それから以後日本でも中央集権化が大王の意向となります。そうしないと極端に言えば何もできないのですから。高句麗でも始祖チュモンの死後ユリ王が遭遇した苦難がムヒュルの物語の大部分ですが、偉大なるチュモンの影響力がなくなるとまたぞろ息を吹き返したのが沸流、ソンヤンの一族に代表される卒本諸族でした。それを慮ってチュモンはユリの王妃を一番勢力のある沸流から選んだのだろうと思います。以後王妃は沸流から出されることになりました。また牛族は美人の系譜でもありました。有名な項羽の『虞や、虞や、汝を如何せん』は有名ですよね。虞もまた牛美人です。そもそも姫という字は字源的には牛の女を意味していると川崎先生はおっしゃっています。ムヒュルも大加(てが)会議に苦慮していましたよね。大加とは部族長クラスの人のことです。その意向を無視することが出来ないということは決定権が無いということなのです。
この中央集権化に真っ先に成功したのが中原の王朝秦(犬)、そしてそれに続くのが漢(蛇?鳥?)です。中央集権化というのは中央軍、つまり国軍を一元的に編成できるかどうかということにかかっていました。各部族が国軍に並ぶ私兵を持っていたのでは、中央集権化は出来ないのです。そして漢は強大な軍事力を背景に影響力を行使したのです。玄都郡太守のヤンジョンもケマ国が漢に征服され漢の官僚となったのです。周辺国は漢の軍事力を恐れ、漢の属国となる道を選びました。その中で高句麗は漢との対抗姿勢を貫いた唯一の独立国です。漢や唐の側からは冊封国のように扱われてはいますが・・・・これが私が高句麗に心ひかれる理由に一つです。またそれは漢と対峙する地理的条件にも大きく影響されました。地理的条件は一種の運命だと思います。日本列島にも『漢委奴国王印』という金印があります。これは邪馬台国に与えられた印璽ではなく、川崎先生がおっしゃるように委奴国つまり犬国の王に与えられたのだろうと思います。同じように与えられた扶余の国璽は『漢濊王印』、濊狛国つまり馬国王に与えられたことが分かります。
朝貢するというのは滅ぼされないためということもありますが、隣接する国を牽制するため、あるいは文化的恩恵を受けるためのどちらかでもあるだろうと思います。我が国も中央集権化の方途を模索したのだろうと思います。それで7世紀の聖徳太子は遣隋使を始められ、遣唐使に引き継がれました。太子の冠位十二階の制定も部族の姓(加羽根・・・加、つまり部族を表す羽飾り)を忘れられない現実社会があったのだということがよくわかります。中大兄皇子にいたる1世紀の苦難を超えて、大化の改新という中央集権化が始まったのです。そして天武天皇は初めて神話の統一をはかられました。これが何のためかと私がその御心を完全に推測することは出来ませんが、日本民族の創生だろうと思います。色々と憶測は出来ますし単純ではなかったと思いますが、五族を捨てて『八紘を家となし』一族にしようとなさったのだと思います。私達日本人は長いこと自分達を単一民族だと信じていました。打てば響き合う心情を育ててきました。これは大いなる平和の大実験です。こんな民族はいないのです。万世一系の皇統ではなかったかもしれません。でも天武天皇は心情を受け継がれて大和島根となさったのだと思います。それを古事記という神話になさいました。日本書紀は事績もさることながら、皇統の継承と血統としての母方を記録するためだと私は思っています。
私達日本人は世界の五族(五色人)協和を成し遂げた国民なのです。誰でも受け入れる八百万の神々を心の拠りどころにしました。八百万だからさらに増えようがどうしようが八百万に変わりはない、一なる無限を実地でいった民族なのだと思います。姓(加羽根・カバネ)の廃止以後私達日本人は日本族化を目指しました。古事記にもありますが、オシホミミノ命はタクハタチチ姫(鳥)をお后に迎えられ、ニニギノ命はアタツ姫(コノハナノサクヤヒメ)(鳥)をお后に迎えられました。天つ神が国つ神の娘をめとるという結婚政策により部族の融和がずっとはかられたのです。雄略天皇は『この丘に菜つます娘、名のらさね家をも名をも』と万葉集の冒頭に歌われて地方の家の娘に求婚なさっています。そして我が国の天皇家が姓をお捨てになり中臣鎌足が藤原姓になったということが我が国の姓が部族から離れる始まりではなかったのかと思います。時代が下って武家社会を迎えるときに平氏が現れ源氏が現れる・・・・・このころに太古から受け継がれた鳥と犬の意識があったのか、私にはわかりません。古事記編纂という形での天武天皇の大いなる日本民族創造は結果的には歴史を葬ったかもしれませんが、人々が生きるという日々の幸せを作ろうと思われたのかもしれません。それ以後私達日本人は混血の単一民族になったのだと思います。それにまさか21世紀にいたってこれほど日本人が歴史を失うとは思っておられなかったことでしょう。過ぎたるは・・・の格言通り、私達が節度を持って歴史を取り戻す努力をしなければならないと思います。これで『民族の形成』から『五色人の謎Ⅰ』とこの『Ⅱ』とで3回にわたった前章は終わりです。次回からはいよいよ言語に挑みたいと思います。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
言語に関する考察・前章2
前章1で民族の移動の話をしました。今日はそれを踏まえた上でのお話です。『五色人』ってご存知ですか。古代にいたとされる世界の人種の言い伝えで『竹内文書』(偽書とされている)の記録です。また九州阿蘇の幣立神社には五色人の面が伝わっており、毎年8月にはお祭り(五色人祭)が行われています。何時でしたか特別な例大祭に久司先生もお参りなさったと聞いています。
この五色人は赤人、青人、黒人、白人、黄色人でそれぞれ各人種にあてはめられていますが、今ひとつ疑念や訳の分らぬもやもやを払拭するに足る説明がありません。それに幣立神社にはその五色人が集まってお祭りをしてきたというのです。これは私にとって長年の謎でした。それが何時でしたかお話した、川崎真治先生の『混血の神々』に出会って新しい波動と遭遇し新しいインスピレーションにまきこまれ、『カタカムナが人類最初の言語である』という命題の新しいステージが開けました。
川崎先生によると(私は先生を正しいと思いますが)、約三万年前以来中国大陸に存在した民族はシンボルマークをもっており、五種族だったそうです。そのシンボルマークをトーテムと呼び、これは三万年前に始まったことではなく五万年前のメソポタミアにもあり、多分十万年前の出アフリカ時にもあったであろうと思われています。何故かというと前章1にも書きましたが、アフリカを出る、メソポタミアを出る、などという画期的な事件は必要性が無ければ起きようはずもありません。一人や二人なら冒険に出るということもありましょうが、一族郎党を引き連れて・・・・などというのは族長の決断なしにはありえません。
最もあり得る筋書きは、そこに(後から見れば)居座った部族による迫害を逃れて、つまり支配階級を追われてということだろうと思います。何時も草原のヌーが引き合いに出されますが、ヌーの数が少ないうちは十分に草原内の草(食べ物)を分かち合えるはずです。ヌーの場合は数が増えればライオンが増えるという仕組で適正数が維持されて食糧が保全されていますが、ライオン(天敵)がいなくなった人類は弱い方が出て行かざるを得なかったのだろうと思います。つまり当時の人類社会は部族を形成するに十分な人口があり、食糧と権益を分かち合うための身内と外部という区別がすでにあったのです。つまり身内だと認識する、あるいは身内でないと区別するための符牒があったはずです。
以前私の『ヒレフリ山教室』で名前を使わずに自己紹介をするという実験(?)をしたことがあります。その難しさをみんな実感しました。名前というものの持つ意味を深く感じたものです。名前はその人をその人と分からせるための符牒です。名前には姓と名があります。姓は属している物の符牒、名はその人だけを呼ぶ符牒です。家族には家族の姓が、平戸人には平戸という地名が、長崎県人には長崎県という県名が、日本人には日本という国名が、属している符牒です。そしてこの符牒が古代社会にあってはトーテムというものだったのです。誰かを呼ぶ時は、『どのトーテムの誰とかさん』と呼んだのです。日本史でも耳慣れていますよね、そがのうまこ(蘇我馬子)さん、おののいもこ(小野妹子)さん、たいらのきよもり(平清盛)さん、みなもとのよりとも(源頼朝)さん!!!
古代社会のトーテムにはどんなものがあったかというと、(川崎先生によれば)メソポタミア人は牛を、その中からインドネシア・ポリネシアに進出して海洋民族となった人々は蛇を、そこから中国大陸に進出して原初シナ民族を形成した人々は鳥を、ヨーロッパに進出した人々が作った民族は犬を、南シベリアで遊牧民族となった人々は馬を選んだらしいのです。これが現生人類のもっとも大まかな、現代の国籍を超えた民族の姓です。私達は忘れていますが、人類と国籍の間に入れるべき民族の姓です。たとえば私なら、人類、牛・蛇・鳥・犬・馬のどれか族、日本人、長崎県本籍、柿本という家族の和子です。現生人類はこの五族のどれかにみな属しているのです。勿論牛にも色々、蛇にも色々、鳥にも色々、犬にも色々、馬にも色々います。
牛、蛇、鳥、犬、馬という各トーテム族には、部族員が増えて地域の特色や複雑さが増すにつれ、トーテムはダブルになりトリプルになっていきます。ちょうど電話番号が地域番号の桁数を増やすと格段に許容量が増えるのと一緒です。牛族にも牛、塩(猿)・・・・、蛇族にも蛇、龍、象・・・・、犬族にも犬、狼、ライオン(獅子)・・・・、馬族にも馬、鹿・・・・・などとさらに分かれて行きました。副トーテムに牛族はフクロウ、犬族は鷲や鷹などと種類を増して行きました。
ここで川崎先生とちょっと意見が違ってくるのかもしれませんが、インドシナ地方の蛇族と原初シナ人の鳥族とは元々同じだったと思います。その根拠は
1.もともとメソポタミアから移動した風の神を祭る海洋民族だった。
2.基本トーテムがともに風神ゆかりの蛇と鳥で、ともに卵生である。
3.古代中国で生まれた王権のシンボルが龍(蛇)と鳳凰(鳥)で、ともに風神の権化である。
などです。川崎先生はともに黄色人種と言われています。(マクロビオティックによれば、そういう食生活の地域であったということになります。)
もともと蛇族はメソポタミア地方で牛の一族であった塩(ソルト・サルト→サル→猿)族の一部が海上交易術を編み出してインド方面に進出したドラビダ族だろうと川崎先生は言われています。そして川崎先生によれば、そのドラビダなる語もdu‐ur、つまり次の牛という意味らしいのです。それでメソポタミアに残った塩族はそのまま牛族にとどまりましたが、海洋進出をした塩族が蛇をトーテムとする蛇族になりました。後代のギリシャの都市国家でもそのマークは使われましたし、今でも蛇は交易のマークです。それで北上して内陸部に入りこんだ塩族が海洋交易のマークを捨て海を支配する風神のお使いであるもう一つのトーテム・鳥を採って独自の文明を開きました。
それが三皇五帝に始まる中国の文明です。三皇五帝をご存知ですか。第一皇は風姓・太昊伏羲(たいこうふっき、または ふくぎ)氏、第二皇は姜(きょう)姓・炎帝神農氏、第三皇は姫(き)姓・黄帝公孫氏、第一帝は風姓・少昊(しょうこう)金天氏、第二帝は風姓・顓頊(せんぎょく)高陽氏、第三帝は風姓・帝嚳(こく)高辛氏、第四帝は伊祁(いき)姓・帝堯陶唐氏、第五帝は姚(よう)姓帝舜有虞氏です。この後夏・殷・周・秦・漢と続いていきます。ちなみに伏羲は蛇身人首、神農は人身牛首とも伝えられています。これはどういうことかと言いますと、身は母に譲り受けられるものですから、その母の出自が蛇族で、首、つまり系譜はこの王朝の創始者・人(鳥)族であると言っているのです。神農は母が鳥、父方が牛で牛族だと言っているのです。
こういうわけで中国の王朝はまず鳥族、次に牛族、牛族と続いて、五帝になると鳥族、鳥族、鳥族と続いて犬族、牛族と受け継がれました。夏は娰(じ)姓夏后氏で牛、太祖は禹ですね。殷の王朝は風神に連なる風姓ですから鳥ですね。(こういうのは文字や言葉を見ればわかるのですが、もし詳しく知りたいと思われるのなら、川崎先生やその方面の研究書で自由に勉強なさってください。)というわけで少なくとも三皇五帝の時代は鳥、蛇、牛、犬の各部族がいたことになります。夏は牛、殷は鳥、周も牛です。そして春秋戦国時代を迎えます。周礼は乱れ秩序を失い、犬の秦の始皇帝の登場となり、次に中国の王朝の正統と自負する漢王朝が続きます。漢王朝はその自負や国名の漢字から蛇か鳥だと思われます。こうして中国大陸(漢字文化圏)の王権は『龍』と『鳳凰』が象徴することになりました。
この王朝の交代劇は当然周囲の満州地域、朝鮮半島、我らが日本列島をも巻き込んで行きます。満州や朝鮮は陸続きですからなおのことです。そうした関係が中国の王朝を常に脅かす東夷西戎南蕃北狄と言われる周辺民族を作りだしたのです。鳥の殷王朝からすれば、南蕃は親類筋の蛇族ですが、王朝内には西戎の牛、犬がいたことが伝説で分かります。前身の夏は牛でありそのまま残留した者もいたでしょうし、殷には犬侯と称する官位があったとの記録があります。殷には犬が藩屏部族としていたことになります。殷という国号も犬が強かったことを示しているのかもしれません。そして牛や犬が来ていたならば当然馬もいたことでしょう。ですが馬は遊牧民であり、なかなか定住になじまなかったと思われます。そしてこうした部族社会はなかなか入り混じらずにその部族の独立性を長く維持するのです。
私達はその証拠を12~13世紀の元王朝に見ることが出来ます。私達は元が部族階梯社会であり、クリルタイと呼ばれる部族長会議で国事の決定が行われ、全盛期のクビライ汗の死後は5つの汗国に分かれたことを習いました。クビライ汗国、キプチャク汗国、イル汗国、オゴタイ汗国、そしてバツ汗国・・・・・・?この元王朝の始祖は有名なチンギス汗、『青い狼』と称された英雄です。狼は大型犬のことで、つまり犬ですね。『元』という国号も犬であることを暗示しています。この部族階梯社会というのは王位の継承すらクリルタイの同意がないと出来ないのです。つまり国の中は全てが分権状態で、効率よく政治をする国家権力は無かったのです。
ここでやっといつもお話している《チュモン》と《ムヒュル》の出番がやってきました。この韓国映画のおかげで私は自分の謎を解くことが出来たのです。皆様ご存知の《チュモン》は高句麗建国のお話、《ムヒュル》はチュモンの孫が偉大なる高句麗の基礎固めに登場し扶余を滅ぼすまでの話です。チュモンの出自である北部満州にあった扶余の社会構造は、馬加(まか、orまが)・牛加(うかorうが)・豬加(ちょが)・狗加(くが)の四族で、王族は馬加の一族で鹿をトーテムとしていました。まあ映画は映画で、各部分のシナリオがどれだけ事実を反映しているか分かりませんが、それでも良く出来たいろいろ考えさせられるお話でした。そして扶余王クムワ(金蛙)も高句麗の始祖チュモン(朱蒙)もともに卵生神話を残していて、鳳凰か龍の化身、つまり持って生まれた王者の出自を後世に伝えています。東アジアでは大王は第一皇風姓・太昊伏羲氏の後継者でなければならないのです。
高句麗は映画ではチュモンと桂婁(ける)とが協同して建国をはたすストーリーになっていました。桂婁は卒本(チョルボン)の一部で、卒本には他に沸流(ピリュ)、灌奴(カンナ、貫奴・桓奴の字も用いられる)、順奴(チュンナ)の部族がありました。そこにチュモン率いる一族が王直轄部族として加わります。このお話に出てくる様々な筋書きは伝説をつなぎ合わせて想像したものですから、現実がどういうものだったかは分かりません。高句麗についての史書では、チュモンが沸流川をさかのぼって松穣(ソンヤン)を降伏させ沸流を提那都(?)と改名したとあります。また高句麗の社会構造は涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁と書かれています。高句麗は時代が下っても五部貴族社会でしたし、この記録は魏志の内容なので三世紀くらいのものです。建国当時はもっと独自の部族名だったかもしれません。
扶余の部族はトーテム名そのままですが、高句麗は漢字の意味を体した“仮借”が行われて、どのトーテムか分かりにくくなっています。詳しい説明は省略しますが、川崎先生は扶余の豬加を鳥に、高句麗の涓奴部を馬に、絶奴部を沸流の牛に、順奴部を豬(鳥)に、桂婁を犬に当て、残りの灌奴部を高句麗の地理的特性による蛇族だろうと言っておられます。扶余は内陸部だったので海洋性の濃い蛇族は部族としてはいなかったのだろうと言っておられます。つまり高句麗社会には世界の五族がいたことになります。初期の高句麗でも王族は馬、映画のソソノは桂婁でしたが、当時の卒本四部族で優勢だったのは沸流の牛で二代王から王妃は沸流(絶奴部)から出すことになり、ムヒュルの母も沸流の松(ソン)氏です(ソンヤンの娘)。
ですが三世紀の魏志には王族は桂婁と書いてあるそうです。そしてまた王族の桂婁を五部族の最後に記載しています。また高句麗と言わず句麗とも言っています。句麗は狗麗でもあり、狗は犬を矮小化した文字でもあるのです。中原王朝は周囲に卑しんだ字を用いることが多いのです。後世の史家は資料を大切にするので(それしか資料が出ていないので)仕方ありませんが、身近には魏志倭人伝の邪馬台国があります。邪馬は東夷伝にも用いられた豬(つまり鳥)族を卑しんだ言葉です。豬自体がすでにバカにした言葉なのですが・・・・・そして魏志倭人伝では日本の2~3世紀の支配国も豬(鳥)族だと言っているのです。高句麗に戻りますが、高句麗では王族が馬から犬になりました。どうやってかというと想像するに外戚の力だろうと思います。高句麗最後の宰相(?)淵蓋蘇文は東部太夫で字面からは順奴部で豬(鳥)だと思われますが、日本書紀ではイリカスミとなっていて犬だと記されています。
こうした王朝の交代劇、つまり部族の放逐劇が周囲の民族に影響をもたらしました。当然朝鮮半島南部、日本列島にまで及んだのです。やっと我が日本に辿り着きました。我らが日本列島には約3~4万年前インドネシア地方から蛇族が渡ってきて住みつきました。ここに中原が牛、犬、馬の勢力が強まるにつれて、蛇と同種の鳥(豬)が土地を追われ日本海を渡ってきて原始日本人を形成しました。そして中原から朝鮮半島の王朝の交代劇のたびに牛、犬、馬が追われて渡ってきたのです。そしてわが日本にも五族が揃うことになったのです。当に我が日本はアジア大陸の東の果て、行きどまりです。結論を言いますとこの五族が五色人です。それぞれに何色を当てるかについては次章『五色人の謎Ⅱ』に譲りたいと思います。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!!
言語に関する考察・前章1
私達の祖先はアフリカ起源で、現存している人類はみな同じ祖先から派生したといわれています。中学や高校で習った何種類かの原人たちは現生人類の祖先ではないとされています。ヨーロッパで発見された旧人のネアンデルタール人も直接の関わり合いは無いらしい・・・・・アフリカ起源の祖先が世界各地に散らばって環境に適応して生き残ったらしい・・・・・。それは原人から新人までの系統中第3回出アフリカ組で、約10万年前とされています。
ひるがえって現代の世界を見渡すと、アジア人がいる、ヨーロッパ人がいる、中近東のアラブ人がいる、ユダヤ人がいる、インド人がいる・・・・・・・こんなに様々な人種がいてそれぞれの言語を使っている・・・・・・こんなにまで違っている人々がみんなアフリカ起源で家族兄弟に等しいとはと驚嘆してしまいます。単一種族がこんなにも多様な民族に変化しているのですね。
何故こんなことがあり得るのかと考えれば、動物の種を考えれば自ずと分かりもしようというものです。虎がなぜベンガル虎、シベリア虎・・・・・と違う種に分かれたのか、もっと言えばネコ科の動物がなぜライオン、虎、豹、チータ・・・・・などと分かれたのか、つまりは食性という対応によったことが分かります。アフリカのサバンナの草食動物が今でも食べ物を求めて雨季と乾季の移動を繰り返しています。それを追って肉食動物が暮らしています。草は適応できる土地であれば繁茂し出来なければ枯死する・・・・・動物はそれぞれが食べる草によって生きる場所を限定され、その動物を食べる肉食動物はその動物の生息圏にテリトリーを作る・・・・その繰り返しですね。
世界に動物が分布したのは草の分布と対応してのことで、雨季乾季の繰り返しによって巡回する動物は今も変わらずその習性を繰り返し、外部に進出した動物はそれぞれの土地で様々な習性をそれぞれに獲得していったはずです。また性質も草がその地に適応して特殊化すれば動物もまた特殊化していったはずです。マクロビオティックで言う『身土不二』の原則です。身土不二は進化の原則です。それは私達人類も例外ではありません。私達の今々の食生活も進化の現場なのです。マクロビオティックを知っていると本当に納得できますよね。その地方独特の生活様式、特に食生活が多様な民族を形成していきました。
さて現生人類、つまりホモ・サピエンスが初めてアフリカを出たのは約10万年前といわれています。まずメソポタミアに進出しました。なぜ住み慣れた場所から出ていくのかその理由としては、大まかに言うと人口の増大による拡大か地域社会における迫害かのどちらかで、両者は密接にかかわっていると思われます。そしてその時にはすでに動物の群れ以上の規模を持つ社会的なグループがあったことは想像に難くないはずです。とにかく10万年前人類の生息地域はアフリカとメソポタミアに広がりました。それから時代は下って約5万年前、先ず海岸沿いにインド・インドネシア・ポリネシア地域へ進出しました。学校の歴史で習ったジャワ原人(北京原人も)ははるか100万年前に出アフリカを初めて決行した直立原人ホモ・エレクトスで、原人時代の親せき筋ではありますが直系ではありません。
そして4万年前メソポタミアから西のヨーロッパへと、インドネシアから北上して中国沿岸部から日本列島までとオセアニアへ進出しました。続いて3万年前になると氷河以南のシベリヤ満州地域へヨーロッパ・メソポタミアからも進出して定着していったのだとされています。そして最後に1万5千年前シベリア地域からベーリング海峡を越えてアメリカ大陸へと人類は広がって行きました。当然その地域の特性をもった食生活を営みながら全世界に人類は生息することになりました。各地域の身体的精神的特性をもつ民族を形成していったと思われています。メソポタミア人達はチグリス・ユーフラテス川の恩恵を浴した農耕技術を発展させました。インド・インドネシアに進出した民族はメソポタミア時代に海上移動の技術を獲得した部族で、稲作をはじめとする農耕部族を生みだしアジア沿岸部を北上しました。犬を連れたクロマニヨン人に代表されるヨーロッパに移動した民族は狩猟技術を向上させたと思われます。そしてアジア最後のシベリア南部に進出した人々はそこに許された選択肢である遊牧民族を形成したのです。これが3万年前の人類分布です。
こういう有史以前の人類史の中から、私達の4大文明は生まれました。それぞれずれはあるものの紀元前5~6000年ごろには集落があり各文明の繁栄は紀元前3~4000年ごろと思われます。私たちの属する東アジアでは長江・黄河文明が興り、『三皇五帝』の王朝伝説に始まり夏、殷、周と受け継がれていきます。周に続く春秋戦国時代に孔子様はお生まれになり、私達にとってぐっと身近な歴史時代を迎えます。日本では縄文時代(約1万年)と呼ばれていますが、一般的に考えられてきたように未開の時代ではないと思います。それは人類の移動とともに文明も移動したと思われるからです。これで前章1を区切り、前章2では東アジアの民族形成について発表したいと思います。ついに5色人の謎に迫ります。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るだろうか!!!
そして惨いとしか言いようのない被災地の異常事態を片付けるのも一つ一つの手作業のみが解決の力を持っていることも実感しました。災害復旧は現場の指揮官の存在と国家規模の力無しには不可能であることも実感しました。外国からの機動部隊も身近に感じました。軍事力というものの側面を実感したと思います。私は父が自衛官だったということもあって、戦後の我が国の自衛官の地位というものを身近に感じて生きてきました。そして自衛隊というものの立場もよく知っているつもりです。父は何時も現行憲法下では何と例外的に扱おうと憲法違反だと言っていました。自衛隊を鬼子にしている現行憲法を改正して正当な位置を与えないといけないと言っていました。
私達は現実に目の前に広がる惨状をどうやって回復できるでしょうか。どうか自衛隊に名誉ある地位を回復して頂きたいと思います。国家の防衛とは国民の平穏な生活の防衛なのです。でも防衛には危険が伴うのです。任務の過酷さに応える敬意を自衛隊は受けるべきだと思います。
昨日4月9日、東京東北沢のCI協会でお話をさせていただきました。参加して下さった皆様、どうもありがとうございました。どのようにお役にたったかは分かりませんが、マクロビオティックを使って自由に生きていただきたいと思います。また何時かお目にかかる日があることを祈っています。これを節目にして明日からは私の言語に関するテーマについてのお話を試したいと思います。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を忘れない!!
そんなニュースの中に心温まる子供達の、『肩たたき』隊や『食糧運搬』隊などのお手伝いは、その姿を見るだけでも多くの人々に希望の灯をともし続けるだろうと思います。多くのボランティアの人々が現地で私達を代表してお手伝いを実行しています。羨ましいと思うのは芸人さん達です。落語家や奇術師・・・・・音楽家・・・・・こういった方々は、辛い人々の心をほぐして笑わせたりじっと我慢していた悲しみをほぐして泣かせてくれます。『うさぎ追いしかの山、小ぶな釣りし・・・・』、美しいメロディーに思わず涙あふれた多くの人々を見ました。悲しみを封印した心を解くこうした活動が大きな支えになるだろうと思います。
私に出来ることはほとんどありませんが、あの老夫婦お二人の暮らしが立っていくよう、思わず泣かれた人々が笑顔を取り戻されるよう、町や村が早く落ち着きを取り戻すよう、念じるばかりです。
それではこんな日も:
私達は横田めぐみさん達を早く取り戻したい!!!