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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

父の冗談

2011-08-31 15:10:36 | 日本語・古事記・歴史・日本人
言語に関する考察・雑


父が福岡県築上郡の築城基地に勤務していた頃(私は小学4年生から中学生)、すぐ近くに新田原という町がありました。ある日父が私に笑いながらなぞなぞを言いました。

  「築城基地から隊員が走って新田原まで行きました。築城基地を離陸したジェット機が
  同時に新田原に着陸しました。どういうことでしょうか???」

皆様はお分かりですか?その時の私はさっぱり分かりませんでしたが、父の種明かしによるとそれは同じ新田原でも一方は築上郡の『しんでんばる』町、もう一方は宮崎県の『にゅうたばる』基地だったんです!!!このところこの父のなぞなぞを懐かしく思い出します。『にゅう』という音に英語の『ニュー』を感じたり・・・・・待てよ『新田義貞』は???と思ったり・・・・『新居浜』もあるなあ・・・・と不思議でたまりませんでした。大人になってもその『新』という字の不思議さは解けませんでした。


それが川崎先生の説に出会って雨散霧消したのです。私はこの幼い日から、楢崎先生(カタカムナ)に出遭って・桜澤久司両先生(マクロビオティック)に出遭って・そして川崎先生(言語歴史学?)に出遭うように、歩いて来たんだなあとしみじみ思います。私が『父の子』であるところからそれが始まっているんだなあと思います。

『新』という概念が『新しい』という意味になったのは、その言葉を作った当時の人類の情勢によったのです。世界各地で違った言葉を持っているように見えますが、それはそこに住んでいる人々の言葉癖ともいうべきもので根本は一つ

          先に牛が居て、後から犬が来た!

という世界各地の同じ現象から出来ているんです!!!先に牛族(ウル)が居て、後から犬族(イル)が来た!端的に言うと(この説明を知りたい方は川崎先生のご本をお読みください)このウルが英語の『オウルド』になり、日本語の『フル』になり『古・旧』という漢字をあてられました。この『イル』が英語の『ニュー』になり日本語の『にい』『あら』になり大陸系で『新』という漢字をあてられました。漢字も中国大陸で同じ原理で作られたのです。私達は今も太古の昔の言葉の響きの中に暮らしています。

そしてここで思われるのが、どんな国の言葉もカタカナという便利な表記の仕方を持っている日本語についてです。何故そんなことが出来るのかというと私達の五十音が殆どの音に対応しているからです。現代でいうところの『五十音・あいうえお』、ホツマ伝えの『あわ歌』、カタカムナのうたひ『ヒフミヨイ・・・』、作者不詳の『あめつちほしそら・・・・』、日本人が分けてきた五十の音は、楢崎先生がカタカムナを評して『人類最古の言語である』と仰ったことを裏付けているような気がします。やっと日本語のたどった道と、楢崎先生の宿題とが明らかになりそうな気がしています。




そして今日もまた:

     私達はまだ横田めぐみさん達を取り戻すことが出来ないでいる!!!

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棒高跳びの女王イシンバエワ

2011-08-31 11:14:58 | 日本語・古事記・歴史・日本人
毎日陸上競技放送でにぎわっています。室伏選手の偉業に日本中が湧きましたね。我らが日本の巨人の優しさにも触れることが出来ましたし・・・・・嬉しくなりました。そして『テグ』っていうのがやっと『大邱』だと分かりました。中国語音だと『ターク』でしょうか???鳥の豬族の町ですね。・・・・・ってこういう感じになってきました。マクロビオティックを始めた頃、「これは陰性、あれは陽性・・・」と言っていたのと同じでしょうか。人の顔まで色々と見えてきます・・・・・?でも鳥族の名前なのに馬族のような容貌の人、馬族の名前なのに蛇族のような人・・・・・私達は雑種です。それを日本人のアイデンティティで支えようとしたのが大和朝廷なのだとひしひしと感じるようになりました。

ところで昨日無念の思いで競技場を去っただろうロシアのイシンバエワ選手、その名を初めて聞いた時この髪の黒い女の人をつくづくと眺めました。きっと中東と接した地域の出身なんだろうと思いました。それというのも朝鮮半島の古代国家・大伽耶の初代国王イジンアシ(伊珍阿豉)を思い出したからなんです。そして殷帝国の『伊尹(いいん)』、新羅の『伊伐喰(いぼるちゃん)』を続けて思い出してしまいました。川崎先生とイシンバエワ選手が、古代と現代が、大伽耶(テークヤ・テーカヤ)とテグが棒高跳びで結びついてしまいました。『伊』という字は『統率する』という意味なんだそうです。それで『伊尹』は『犬族を統率するもの』、『伊伐喰』は『馬族を統率する官(職位)』という意味なんです。『伊珍阿豉』という大伽耶の王は馬族の王だったんです!!!イシンバエワ選手・・・現代にもそういった古代をほうふつとさせる姓を生きている人がいるんですね!!!




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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T.Kogaさんへ:追伸

2011-08-22 14:54:23 | 平戸
何時も気にかけてお相手をしてくださって、有難うございます。Kogaさんの感想って同級生に一般的??ですか?

高校時代確かに一生懸命勉強したものですが、どっちかというと知りたいことを時間の限り追求した・・・という感じが強かったので、とても楽しかったような気がします。それに読まねばならない本も多くて・・・・・我が家には祖父母や父の愛読書がたくさん残っていました。最も楽しんだのは誰のものなのか分からないくらい古かったのですが、『講談全集』という布張りの厚さが10センチくらいある、それは面白い10冊くらいのシリーズの本があったんですよ!!!!赤穂義士関係では快挙録、銘々伝、外伝が一冊に収まっていました。仙台萩、大久保彦左衛門、荒木又衛門、木村長門守、佐倉宗五郎、左甚左のアヤメ人形・・・・・

毎日笑い転げて読みました。講談というのは語り手の口調が面白いですよね。私にとっては漫画のような本でした。でも思わぬ棚ぼたのような拾いものもあったんです。何時だったか忘れましたが、全国模擬試験の国語に穴埋め問題が出て、

     堅田の落雁・・・・・・・・比良の( )、・・・・

ていうのがあったんですよ。私はもうすぐに大久保彦左衛門を思い出しました!!迷うことなく『雪』と書きましたよ。講談に出てくるのです。後で誰かから『なんでそがんとが分かるとか~~~』って言われました。平戸からは遠いところの話ですものね、平戸人に分からなくて当然ですよね。

世界史も教科書を作り直すのが毎日の生きがいでした。私の教科書は世界史の参考書5冊分くらいの資料が時間的に全世界並行して考えられるように一杯書き込みをしてご満悦でしたが、あちこち余白がなくなって他の人が見ても分からなかったかもしれません。自分の好きな事を好きなようにやっていたので、学校とはかなり無関係でした。T先生が、宿題をしてこない認可(?)をしてくださったので、宿題をした記憶もあまりありません。

一杯いろんなことをしました。お琴を習いに行ったり、お茶を習いに行ったり、墨絵を習いに行ったり・・・・・祖母の遺品の硯や水滴や琵琶を磨いたり・・・・・平戸鹿の頭がい骨まで見つけましたよ。楽しい思い出がいっぱいの高校時代です。

書くことが多かったので記事にしてしまいました。コメントの続きです。

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昨日と今日のトピック

2011-08-20 09:48:16 | 日本語・古事記・歴史・日本人
言語に関する考察・雑

昨夜テレビで『鳥人間』競技を見ました。この放送が始まった頃から私ども夫婦がともに好きな番組ですが、昨夜も『東北大』チームの場面には涙が出てしまいました。チーム全員の夢と希望を背に負って乗り組んだパイロットの根性と現場での修正能力には心の底から感心しました。あんな若者がいる東北はきっと立ち直るだろうと思いました。素晴らしい!!!本当に素晴らしい!!!

それから今朝の新聞の記事。我が家は産経新聞を取っています。理由は簡単、産経新聞からはテレビ等で知ることのできないニュースを知ることが出来るからです。報道が世の中のすべてを伝えてはいないという事実を知ることが出来ます。その書評欄『書評クラブ』に、平成17年から20年のNHK副会長永井多恵子さんの記事がありました。『昭和食堂楽』という本の紹介ですが、その一部を引用すると、

   七代目沢村宗十郎・・・・・・・・・・・が、「とんかつもいろいろ食べてみましたが、
   やっぱり豚がいちばんですな』と
   言っているのもおかしい。とんかつと言えば、普通、豚に決まっているとは思うのだが、
   本来はコートレット=衣をつけて揚げるだから、魚でも牛でもよいわけだ。

   ちなみに豚をトンと音読、とんかつという命名者は宮内省の元大膳職だったそうだ。・・・
   ・・・・・・
   ・・・・・・

何に興味をひかれたのかというと、その『トン』という音です。私達日本人は『豚』の音読みが『トン』だと思っていますが、その昔なぜアジア大陸の漢字圏の人々が『豚』という字に『トン』という音を当てたのか?ということです。これが『川崎真治先生』に関わる問題なので、ちょっと興味をひかれて今朝の記事にしています。『その昔』とは豚が家畜化された頃(?)の話です。あるいは『豚』という字を作りだした頃の話です。

野生の豚はイノシシで、漢字では、『豬(今では猪)』です。『豚』は食用の豬(イノシシ)を意味して作られた漢字です。『月』は『肉』で、月扁のことを『にくづき』といいます。神前にお供えする肉の意味といわれています。漢字の右側部分、つまり旁(つくり)は表音記号で、『豬』という字は『チョ』と読むということを表しています。ということはイノシシを表す部分は扁だったので、その扁に月をつけて新しく『豚』という字を作り、家畜化したイノシシの名にしました。『豬』の扁だった『豚』の旁がこの字を何と読むかを決めることになったのですが、ここにアジアから中近東にまたがる人類の大きな歴史が刻まれているのです。

豕は音を『シ』、扁の名を『いのこへん』といいます。これは、口をつきだして食べあさり太っている豬の形状から作られたとされています。それで豕心(シシン)と言えば、人間のいやしい欲張りの心を表しています。先年宮崎アニメでも人間が豚になるシーンがありましたよね。この漢字はもともとそんな意味合いを含んだ字です。その字がかの高句麗の時代、扶余という国を形成する四大部族(貴族)の一つに当てられていたのです。五色人の謎シリーズでご紹介した『豬加』です。

この豬加は『五色人の謎Ⅰ』でご紹介したとおり、鳥族のなれの果て(?)です。川崎先生は、鳥がなぜ豬になったかという問題に対して、『亥』が『豕』になったと言われています。『亥』が鳥の意を含んでいて、それに似た卑字を採用したらしいのです。誰が?・・・・・もちろん鳥族に勝った部族がです。そして『豬』が当てられました。なぜ扶余で貴族階級にとどまれたか?・・・・・それはもちろん支配する戦勝側の都合です。それに鳥族が“穏やか”だったのかもしれません???あるいは勇敢過ぎて、戦闘可能な男が戦死してしまったのかもしれません???かろうじて生き残った女子供と年寄りに部族をまとめる貴族最下位の地位を与えたのかもしれません???あるいは敗れたのが扶余ではなかったのかもしれません。何らかの理由があった事は確かです。

『豚』という漢字が出来上がった時この豬加部族が多分一番東側に住んでいたのだろうと思います。(こういう東西南北の呼び方はシュメール時代にも行われています。)それで東側の部族といわれて『豬』→『豚』=『東』、音で『トン(トウ)』となりました。あるいはまた『豕』は『口をつきだしているもの』ですから、『啄木鳥(キツツキ)』の『啄』となり、『タク』という音の字は『琢、・・・』など色々と出来ています。この『タク』という音も『豬』から出来ていると思われます。『チョカ(或いはチョガ)』の音が『鳥加(族)』が『豬加』になった理由かもしれません。そしてこの『チョカ』が現在の『ターク』、つまり『トルコ』の語源でもあるのです。

『チョ』=『タク』、『タルク』、『トルク』(、『トルコ』)・・・・・→『トン』で東の字に『トン』という音が当てられたのかもしれません。このように民族の歴史の中に言葉が今も生きていることを私は川崎先生から本を通してあらためて教えていただきました。私達の言葉一つ一つに歴史が息づいています。大陸の人々が『トン』と読む音を『トウ』と読む私達日本人の民族性、癖というか訛りというか、あるいはまた好みというか、そんな条件で言葉は変化していきます。思いもつかないような変化を遂げた言葉の象徴が、バベルの塔事件だと思います。

五色人の謎が分かってくると、色々な面白さが生まれてきます。私達になじみ深い『孫悟空』や『桃太郎』・・・・・こうした昔話の登場人物は三蔵玄奘に名馬白龍、猿の孫悟空に、豚の猪八戒、河童の沙吾浄、桃太郎に犬と猿と雉、そして鬼・・・・何となくその時々の人々の歴史と性格が見えてくるような気がします。そして今日は『トンカツ』という現代のメニューから広がった連想をもとに記事を書きました。




そして今日もまた:

     私達は早く横田めぐみさん達を取り返さなければならない!!!






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気仙沼

2011-08-17 08:37:59 | Weblog
初めて気仙沼に行ってきました。自衛隊のおかげでやっとここまで片付けられたという気仙沼は、焼け跡の残骸が無機質的に広がって人間の感覚を失わせる光景でした。ところどころ外観だけは残っている建物に、その瞬間まで機能していた人々の暮らしが思われて、涙があふれるばかりで、ひたすらお祈りだけをしてきました。


周囲の被災地は、もう夏草が一面を覆って異様な景色を隠しているところがたくさんありました。ただ市街地が何とも名状しがたい残骸を残しています。たくさんお話しすることがあるのですが、言葉にすればするほどうつろに響いてしまいます。ただただ鎮魂の祈りを捧げる以外にないような気がします。そしてやっと生き延びた人々が希望を見つけられるようお祈りするばかりです。

海岸を離れれば、所々に倒壊した建物、地盤の変化のために沈下したり隆起したりしている道路、曲がりくねったロードフェンス・・・・・それはそれなりにひどい災害ですが、そんな状況を見るたびに『津波』という言葉の重さを知りました。この悲惨さはまさしく途方もなく大規模の津波がもたらしたものです。揺れも未曽有のものでしたが、それだけなら被害もこんなに大きくは無かったことがよくわかりました。

東北も赤いむくげと百日紅があちこちで満開でした。亡くなった方、生き残った方、多くの魂の赤い涙のような風景でした。




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を早く取り戻さなければならない!!!

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あご風Ⅱ

2011-08-13 14:57:21 | 季節・週末散歩

          今日は北風です。
          厳しい暑さですが、秋の気配を感じます。
          猶興館の窓から見えた“あご舟”を思い出します!!!




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り返さなければならない!!!

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行ってみたい町

2011-08-12 10:14:37 | Weblog
年を取ってきたら“冥土の土産”の準備と思っているのか、主人が『どこか行ってみたいところは無いか?』とよく聞くようになりました。私はいたって出不精なので、いつも言われてみれば行ってもいいような気はするのですが、どこといってことさら行きたいようにも思えないのです。いつもそんな風なのですが、昨夜ふと行ってみたいと思うところがありました。

私が小学校2、3学年を過ごした、山口県下関市吉田町土肥(土井?)。商店街のT字路の角にあった上田(?迫田でしたっけ?豊前市八屋町と混同しています!!)商店。そこから小道に入って小さな林(??多分お社があったのだと思います)を抜けて、お醤油の醸造所だった岡田さんのお家の横を通り過ぎると、お寺に通じる道と交差しています。そのお寺の下の方にあった一番仲良しの“村田佳代ちゃん”のお家。佳代ちゃんも今では私と同じ還暦を過ぎたおばさん(おばあさん??)ですね。でも私の記憶の中ではいつまでもはにかみ屋の優しい佳代ちゃんです。

その交差した道を突っ切ってすぐのところが、私達の吉田でのお家でした。その道は川沿いの道で、小さなお庭が道と同じ高さ、お家はそうですね、4、50センチだったでしょうか、一段高いところにありました。柿の木があって大きな欅の木もあって、下の川には石段で降りて格好の遊び場でした。その川はいつも弟と鮒取りをしたりいろいろ楽しい思い出がありますが、その川が台風で氾濫したことがありました。2メートル以上は下を流れる川でしたが、大増水で一面水浸し、下段の庭はもちろん自宅も床下浸水でした。

子供だった私達は風が止んだ後も水浸しの家の周りが嬉しくて(?)縁側からカエル釣りをしました。夜中にケヤキの大木が折れて屋根に落ちたこともあって母は眠れぬ夜を過ごしたと後で聞きました。父は台風もあってか、小月基地どまりでしたから、心細かっただろうと思います。その台風は当時最大級のもので、家の前の小川も合流する本流は国道の橋が流され、同級生だった山口君(?)が自衛隊機で救助される写真が新聞に載ったほどでした。増水が落ち着いた川辺に降りて、私は初めて蛇が水面を泳ぐのを見ました。

自宅前をもっと先に進むと、私が“瓜泥棒”になった同級生のお家と畑がありました。同級生の名前は田中さんだったと思いますが(間違っていたら、お許しください)、彼女がいいと言うので半信半疑ラジオ体操帰りの朝の畑で瓜を食べていたら、お父さんから二人ともたいそう怒られて、お説教されました。その後はお母さんから瓜のおやつをいただいて、楽しく遊んで瓜をお土産に抱えて帰りました。生涯忘れられぬ思い出です。当時はまだまだ食糧難??というか、貧しい時代で農作物は今よりもっと大切なものだったと思います。

地理はそれくらいしか覚えていませんが、お醤油屋の岡田さんの道を挟んだ向かい側に、大きなお屋敷がありました。半分以上荒れていたように覚えていますが、土塀を張り巡らせた大きなお屋敷でした。確か『ニセンさん』(後記:弟の記憶によると、ニセンさんは彼の同級生のお医者さんだそうです。お屋敷との関連は覚えていないと連絡をくれました。)と呼んでいたように覚えています。そのニセンさんのお屋敷の横の一本道で、私と弟は父から駆け足の特訓を受けました。和服に下駄を履いた父を『待って~!!』と叫びながら追いかける弟と私!!!父は士官学校で『カモシカの足』と言われたんだそうです。足の遅い息子と娘は何とも我慢がならなかったんでしょうね。(後日談ながら私の4人の子供のうち中二人は駆け足が得意で、父は孫の運動会で何とか楽しみを見つけました。)

吉田町には高杉晋作を祀る東行庵という尼寺がありました。高杉晋作は西行法師に倣って号を東行としたので、東行庵というのです。当時庵主様は谷玉仙尼といわれる方でそれは素晴らしいお方でした。弟は東行庵の庵主様が園長先生を務められた幼稚園に行きました。菖蒲の季節、紅葉の季節、暇があると父は子供達を連れて東行先生の公園散歩をしました。とても懐かしく思い出します。記憶の中のここかしこ、今ではどんなふうになっているのでしょうか・・・・・・。




それでは今日も:

     私達は、早く横田めぐみさん達を取り返さなければならない!!!

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士農工商

2011-08-09 09:03:08 | Weblog
これは誰もが知っている徳川氏が創設した身分制度ですが、現代には心分制度として通用すると思います。


        士というものは義に生きるもの
       農というものは理に生きるもの
       工というものは誠に生きるもの
       商というものは欲に生きるもの



                 士というものはやせ我慢が出来る人
                 農というものはその日暮らしが出来る人
                 工というものは自分の腕が一番と思いたい人
                 商というものは他人(今)より良くなりたい人


武士は正しさに命をかける。農民はお天道様にしたがって生きる。職人は己の誇りに従って作る。商人は利得を追及する。要するにこれは政治をおこなってよい心構えの順序だったのです。士分のものが士の心構えに背かないように内心に持つべき『心分制度』だったのです。人間性の区分として私達が政治家に要求すべきものです。商人は国の政治を動かしてはいけないのです。欲得で政治に関与してはならないのです。

展転社の『ローマ・カルタゴ百年戦争』という血沸き肉踊る本があります。フェニキアの都市国家カルタゴがいかにしてローマに滅ぼされたかというお話で、私は父から貰いました。父の大好きな(従って私の大好きな、そして息子が大好きな)、かの偉大なハンニバルが登場します。フェニキア人は古代の海洋民族で通商が得意です。世界の富を最初に取り扱った人種です。商人国家です。欲得が国家運営の基本方針です。商人による国家最高機関は、最前線で一人踏ん張っているハンニバルの悲痛な要求に応えません。ハンニバルという自分達の盾に、その重要性にお金をかけることを渋ったのです。そしてハンニバルはローマに敗れ、カルタゴは滅亡に追い込まれるのです。

民主主義国家の国民は選挙という政治に参加します。選挙民は心分の『士』でなければなりません。現在の政治界を見渡すと、利得構造と経済界ばかりが見えてきます。政治家も心分の『士』でなければなりません。士農工商は己の心と行いを判断する最良の物差しだと思います。ひとりひとりがそれぞれ自分の中の士農工商を見つめて政治に参加したいものです。




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!




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スランプその後

2011-08-06 10:14:30 | 日本語・古事記・歴史・日本人
言語に関する考察・雑

先日の“スランプ”悲鳴より完全に立ち直ったとは言えないのですが、道筋が見えて光明がさしてきました。これはスランプの中間報告です。私は川崎先生のように言語の変遷をたどる知識がありません。仰ることはわからないではありませんが、それを全部正しいとしても、言語の変遷に歴史の変遷すべてを託すことが出来ません。それでも川崎先生のお考えは根本において正しいと思います。そのお考えを踏まえた現段階として私の結論を言うと、アジア地域はオリエントから極東にいたるまで、『五族の混在混血が進んだ!』という事です。そして言葉も混血し、神々も混血(?)したということです。それはつまるところ記憶と歴史が混血したということです。その上でその地域地域の条件を付与し加味して、混在する異民族(?)間の共通概念を形成していったはずです。

人類の“出アフリカ”の出口はエジプトとして間違いないだろうと思います。そして最初の人類社会の中心地はメソポタミアのシュメール、ウル・ウルク・・・・川崎先生はこの人々の部族としてのシンボルマークを牛だとおっしゃっています。確かにこの牛からシンボルマーク・トーテムは発展したに違いありません。このトーテムのマークが角を持った牛の抽象形である逆三角形なのです!!そしてそのウルクのトーテムマークを、遥か極東の地で私達日本人は『うろこ』(ウルク→ウロコ)と呼んでいるのです!!!魔除け模様だと言い伝えてきたのです!!!

最初の本で“ウル”が牛だと単純に教えていただいた時にはスッキリしていたのですが、どうもそうではないらしい・・・・次々に読む先生の本で混乱して頭の中はスランプ状態に陥りました。“ウル”はシュメール語で『動物』のことらしい・・・ウルの人々にとって大切な動物と言えば牛だったらしい・・・・それが派生した部族では犬になって“ウル”は犬の原語になったらしい・・・そしてそれが“イル・イリ・イン”と変化したらしい・・・・日本語の犬の起源もここにあるらしい・・・“最大の犬”という言葉が獅子や狼の原語らしい・・・

川崎先生の字面を追うのをやめて棚上げにし、マクロビオティック・インスピレーションによって考えることにしました。イチロー選手や石川選手が、イメージと動きの間にあるちぐはぐ感覚を体で確かめる期間を過ごしているに違いないと勝手に思い決めて、私もそうすることにしました。そしてこのところ一里塚のような道標を見つけることが出来ました。スポーツ界の二人が大選手であればある程、私のように簡単ではないと思いますが、早く道標に辿り着けるよう祈っています。


メソポタミアでウル(動物)がトーテムとしてのウル(牛)とイル(犬)に分かれたのだと思います。農耕族と狩猟族と・・・・菜食族と肉食族と・・・・そしてイル系の人々が遠征をした・・・・農耕は遠征には不向きです。今回のスランプの発端ギルガメッシュはウルの王でありながらイルだったんだろうと思います。子供のころ読んだギリシア神話で疑問に思ったことがあります。『どうしてゼウスが牛になって美女をさらわなければならないのか?』という素朴な疑問です。どうしてペガサスのようにもっと格好の良いものでないのだろうかと、長年疑問でした。ヨーロッパに住みついた犬族の人々の心の奥底にも牛が残っているんだろうと思います。それでスペインでは闘牛があるのではと思います。牛を食べることにした人々の深層心理に牛と闘うことの意味があるのではと思ってしまいます。

トーテムとは何でしょうか。川崎先生の本を読んで行くうちにあらためて思ったのですが、人間の力の及ばない自然現象に対する人間の態度には二通りあると思います。『感謝』と『畏怖』・・・・日月は変わらずそこにあり、その恵みを左右する風雨・・・・慰め願い祈らねばならないものは恐れるべき風神雷神(洪水・干ばつ・暴風雨をつかさどる神)だったのだろうと思います。その暴力性の象徴がシュメールの人々には大きな角を持った荒れ狂う牡牛だったのでしょうか。牛はメソポタミア原産だそうです。野生の牡牛の猛々しさは風神雷神そのものだったのだろうと思います。トーテムは基本的に風神雷神の性格の象徴、それを持って人間の前に現れるものだろうと思います。

それが風の使い『鳥』、風雨・雷雨の使い『蛇』、暴力の象徴角を持つ『牛』・牙を持つ『犬』、旋風のように現れる『馬』に集約されたのだと思います。そして民族の最初の混血は海を行く海洋族としての代表『蛇』と陸を行く狩猟民族の代表『犬』によってなされたのだと思います。ある時は追われる形で、ある時は追い込んで・・・・・決して平和的になされたのではないと思います。その証拠に古代から近代にいたるまで、私達のエネルギーは人力でした。社会は多かれ少なかれ奴隷制に依っていたのです。

奴隷という言葉に対する解答で最も鮮明だったのは、父が言った『奴隷や差別を受けている人々は昔の支配階級、およびその一族だ』というものです。私は差別に大して殆ど知識を持っていませんでした。大学入試で上京した時年子の弟から『姉さんは“山窩”を知らないの?』と呆れられたことを思い出します。それ以後も大して進歩はありませんでしたが、山窩が伝えてきたらしい『カタカムナ』によって私は『言葉』というものの持つ意味を知りました。そしてその言語の歴史から人類の歴史を探ろうとしています。そして自分の生きている『日本の歴史』の真実を知ろうとしています。

私達の日本だけが特殊であることは絶対にありません。ただ私達の日本の地理的状況はかなり特殊です。人類の吹き溜まり・極東の果て私達の日本では、もう海に飛び込むしかない人々の間で、日本人の意識を作り上げようとしたはずです。その始まりがいつなのか?????平城京に異国の臭いを感じる・・・・・のは、その辺も混血が現実に進行している問題だったのかもしれません。近江の大津京を歌った人麻呂の“ささなみの滋賀のみやこ・・・・・”に、いつも天智天皇と天武天皇の激しい断裂を思ってしまいます。桓武天皇の平安京にだって、まだ内心に???を禁じえません。・・・・・ですが遣唐使の廃止には強い一体感の志向を感じます。

もうすぐ私は日本の古代史に自分なりの解答を見つけるだろうと思います。そしてやっと楢崎先生・宇野先生の言語に関する課題『日本語は人類最初の原語である??』というテーマに取り組めると思います。田植えに当たって種籾の準備、苗代、田んぼの代掻きなど様々な仕事があるように、一つづつ進めて死ぬ間際には全部知りたいと願っています。死ぬ間際は刈り取りですが、刈り取りには次の種籾の保存が付帯しています。それで私は死ぬ間際では間に合わない種籾の選別のために、」その時その時の解答をこうやって発表することにしました。種籾は次世代のためですよね。こうして残しておけばお会いしたこともない何方かのお役にたてるかもしれません。ブログの記事が種籾にはなれないにしても、田植えをするエネルギー奴隷の一人くらいにはなりますようにと願っています。

結局世代を継ぐってそういうことなのですよね。今回の大震災の記憶も受け継がれて次世代の人々の種籾にならねばなりませんよね。歴史ってそういうものですよね。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!!





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平戸レポート

2011-08-03 10:48:53 | 平戸
毎年気象異変や自然の変化が圧縮されているような気がして心配になります。それは蝉の声や虫の声の変化、何時も必ず蛇やトカゲが急に立てる物音に驚かされていたのがめっきり少なくなったこと・・・・・モグラの土盛りも減ってきた・・・・これはイノシシのせいだという声もありますが、そのイノシシだって近年農作物に被害を与えている鹿や猿と同じく、食べ物が無いところを捨ててあるところに現れるのでしょうから・・・・

平戸の我が家では7月にも蝉の声に混じって鶯の声を聞きました。虫の声もヒグラシの甲高い声も聞きました。何もかも一緒です。6月には道路沿いに山萩が咲いていました。赤いカンナと夾竹桃、それに萩は似合いません。それにそれにあの夏の美しい芙蓉の花、我が家の濃いピンクのコノハナノサクヤ姫の姿が無かったのです!!!むくげは咲いていましたが、これはどう考えても変です!!!

そんな平戸の風景の変化でしたが帰省時の主人の定例行事・野外バーベキュー大会!!(毎年夏冬2回開いています)は例年通り。冬はご紹介したこともある忘年野外バーベキュー大会、寒さもなんのその、雪また楽しというつわものどものパーティーですが、夏は蚊遣を焚きながら暑さの中ドラム缶暖炉という異例の火遊び(?)も花火のように火の粉が舞いあがりきれいです。冬のように星が落ちてくるような感じはありませんが、それでも天の河を見上げれば織姫彦星とかささぎの橋がきれいです。

とにかく半年ぶりに集まってくださった皆様と談笑するという何にも代えがたい楽しみを満喫していたところに、今年はカブトムシが闖入しました。初老を過ぎた若者(?)から米寿の恩師まで、心は少年に豹変して飛んでいるカブトムシを捕まえました!!!何と大きな角を持つオスも6匹いました。カブトムシ談義が始まります。

冬には牡蠣焼名人のTさん、カブトムシ博士でした!!!冑の毛の色で『これは3日前に孵化したものです!』『これは昨日・・・・!』・・・・・何とカブトムシ界では論文数も多分日本一では・・・といつも控えめなTさんが言いました。知る人ぞ知るすごい人というのは、こうして市井にひっそりと控えめに暮らしているんでしょうね!!!私たちの驚嘆と賛辞の前にはにかんで、それでも質問に応えてもらいました。

Tさんは水産学部卒の博士なんです。いくら少し白っぽいだろうと言われても2日前と3日前に孵化した違いが分からないだめな生徒たちでしたが、それでも楽しい講義を聞きました。昔息子達が小学生だった頃、朝4時前に起きて大きなクヌギの木を足で蹴りに出かけました。何をするかって???もちろん寝惚けているカブトムシやクワガタ虫を捕まえるためです!!!夜明け前にクヌギの木を蹴るとボタボタと落ちてくるのです!!!そんな懐かしい昔を思い出しました。

夜も更けて明日になる頃また年末の再開を約束しながらお開きになりました。またお目にかかります!!




それでは今日もまた:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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