inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

導引

2006-11-26 15:41:13 | 出版記事
先日から何回かご紹介した久司先生の「導引」の校正が、やっと八分方出来上がりました.まもなく皆様のお目に触れると思いますが、この本は本当に素晴らしい本です.導引の実習そのものは、先生がおっしゃっておられるとおり、色々工夫の余地も他の種類もたくさんあると思います.でも人間とは何かという根本問題に、この本ほど明確に答えている本はありません.マクロビオティックが何のためにあるのか、はっきりとお分かりになると思います.この理解の上に、何を食べるかと言う選択の自由があると思います.

マクロビオティックと一般的に言っている食事法や料理法も、一般に広まっている料理法も、私達の経験による工夫であって規則ではありません.ですがそマクロビオティックの料理法が何に立脚しているかと言うと、宇宙の法則と私達がマクロビオティックで言い慣らしている物理です.物理と言うのは何も難しい学校の教科ではありません.確かに理科の物理は宇宙の物理の学問で難しく考えがちですが、物理は宇宙にあるもの全ての変化の法則性です.その統一原理が陰陽の法則です.食事法も料理法も私達の命と同じ法則によっており、何物もその法則から逃れることは出来ないので、陰陽を習い調理することをマクロビオティックでは推奨しているのです.

宇宙の展開法則に従うと自由になり、それに逆らうと不自由になります.従えば宇宙は同じ様に動き、逆らえば宇宙に生きることは出来ません.完全に逆らえば一刻も生きてはいけませんし、そもそもそのようなものは存在しません.存在しているということは既にその法則性の中に生きていることですから、従うという選択しかないのです.私達は宇宙のミニチュアなのですから従うも従わないもそれが自分の法則なのです.それで残る道は、ただ「そのことを知るか知らないか」ということだけです.それで孔子様の『朝に道を聞かば、夕べに死するとも可也』、そしてあの親鸞上人『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』という有名なお言葉やお歌が生きてきます.本当に死んだっていいくらいありがたい事なのです.

マクロビオティックの根本課題は宇宙の道を知ることです.その道を知って変化していくことです.でもそれは食べることと裏表です.食べることが変化の道であると同時に、正しく食べないと何も知ることは出来ません.正しく食べれば、全てはインスピレーション、なんでも宇宙にあります.宇宙は全知全能です.ですからマクロビオティックの調理法を皆学ぶのであり、その食事法に従って食べるのです.それぞれ自分の段階で学びつづけること、学んだことと行いを一つにすること、それがマクロビオティックの実践です.それがマクロビオティックの道であり、私のマクロビオティック登山であり奥の細道紀行です.あちこちの道連れさん、ご一緒していただいて有難うございます!
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奥出雲

2006-11-23 08:46:54 | Weblog
昨日帰ってきました.今は亡きアヴェリーヌ先生の故里・奥出雲で町主催の久司先生の講演会が開かれました.奥出雲って、奥日光や奥松島などと並んで何かしら秘めたものを感じさせる名前ですが、近年の市町村合併で仁多町と横田町(此方がアヴェリーヌ先生のご出身地)が合併して奥出雲町になったのだそうです.「なあ~んだ」というところですが、確かに奥出雲でした.出雲空港から車で一時間半、遠いところでした.それでも空港から一時間半くらいの所ですから、我が平戸よりは随分と便利です.平戸からは電車やバスに乗り継いで空港まで、どんなにしても三時間はかかるのですから.

奥出雲では稲田姫神社や湯野神社にお参りしてきました.特に湯野神社の参道は杉並木で、気持ちの良いイヤシロの境内でした.奥出雲に二泊して松江に一泊しました.出雲に来たからには出雲大社にお参りしなければ・・・・松江のマクロビオティックのお友達に案内して頂きました.出雲大社は壮大なお社でした.参道は松の並木で素晴らしい道でした.「だけれども、だけれども・・・」というのが感想です.どうしてだか分かりませんが、きっと混雑していたからだと思います.

そのお友達が是非と言って連れて行って下さった「神魂(カモス)神社」.此方は出雲大社の前身で大庭大社ともお呼びするそうですが、大物主のお社はさぞやこのような形であったろうという涼しい威厳に溢れ、イヤシロの御神域でした.「今一度・・」と願わずにはおられない神社です.今回は松江で過ごす時間が少なかったので、心ゆかしい古代の文化に触れることが出来ませんでした.今一度是非に訪ねてみたいと思います.

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Credo et Non Credo!

2006-11-07 10:48:48 | 出版記事
マクロビオティックに初めて触れて、乾いた土に水が染み込むようなインスピレーションを受け取ったマクロビオティック同志の皆さん!私達には先ず「Credo!」がありました.「これは真実への道だ!」というインスピレーション.私達の永遠の記憶にチャンネルが合ったときに受けるひらめき、真実の響き合いに誘導されるようにマクロビオティックの道に足を踏み入れて、とにもかくにもやって見ようとの固い決意で始めたものです.マクロビオティックで知る宇宙は感情抜きの秩序の世界ですが、私達日本人に慣れ親しんだ「行」の世界でもあります.考えていても何も分からない、生身の人間としての実体験の世界です.

そうこうしているうちにスパイラルのこの世の常、必ず行き詰まる時がやってきます.行き詰まりの種類はその人によってそれぞれです.そんな時にどうするか.遮二無二突き抜けるという修行型の人もいるでしょう.どこか外の学校や教室に出てみるという気分転換型、武者修行(?)型の人もいるでしょう.なんとなくだれていって元の木阿弥型の人もいるでしょう.病気がきっかけで始めた方も、ある程度満足の行く結果が出て目的を無くしたり、なかなか思い通りにならなくて諦めてしまったり・・・・・・

このときこそが出番です.Non Credo! 自分で確かめてみましょう.私達が鵜呑みにしてきたマクロビオティックの考えを. それがマクロビオティックを自分の身に出来るかどうかのチャンスです.自分の身の丈に合った自分のマクロビオティックを組み立てられるかどうか.陰陽について.命について.この世について.食べ物について.お料理の仕方について.玄米の炊き方について.食材の選び方について.当たり前として取り入れていた理論に疑問を投げかけて、自分の答えを模索する.それが Non Credo! 本当のマクロビオティックの門です.そのドアの向こうに真実はあります.皆さん これが選択の自由というたった一つ人間の持つ自由です.

私達は自由です.どの局面においてもどちらを選ぶかという選択をしています.食べる時も食べるか食べないか、どれをどの位食べるか.これがいわゆる自由意思というものです.人生の真実を知るかどうかの選択の時期を迎えているのです.中だるみの時期にどう発奮するか、この時こそ自分のマクロビオティックに基盤を構築出来ます.どちらも選ばないという自由はありません.たとえ結果的にでもマクロビオティックを捨てるか拾うか、その都度選択して生きています.その第二のスタートに宣言するのです.「Non Credo!」

次に何が来るか.もちろん 「Credo!」 です.一段づつ「安心」の階段を上るのです.そして自分の位置を宇宙規模で納得し、人間というものを考え、父母の死に自分の死を重ねていかに手伝うことが出来るか、その反省を元に世間に貢献をし、自分の死を設計する.これは最後の楽しみです.その前に十分楽しんで貢献をしないといけません.自分の生き方そのものが、世間のお役に立つ.桜沢先生も楽しんで生きられました.久司先生もそう言っておられます.私達も楽しみたいと思います.

一回ごとの食事もCredo et Non Credo.食事を終えるとき、自分の作り出したご飯椀の中の世界を確かめましょう.お椀の中の世界が私の世界です.生物は食べた後を残しているのですから、私達の外見は、自分の食べたご飯椀の中の姿だと思ってよいでしょう.食事の後感謝の思いをもう一度空になったご飯椀に注ぎましょう.自分の身の内になったものの移り変わりがよく分かります.同じ心になったのです.そうして幾重ものスパイラルを辿って無為自然になった時、私は次のステップに行きたいと思います.湿っぽい記事を書きました?でも孔子様の世界から老子様の世界へ行くのが永遠の理想です.かなうように努力します!

コメント (10)
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三度咲きの金木犀

2006-11-03 09:34:44 | Weblog
金木犀が香気を放っています.南東から南面にかけて黄色い小さな花が咲いています.今日は11月3日、20年位前我が家の完成引渡しの日です.その日も金木犀が咲いていました.その頃は一回にまとめて咲いていましたが、あれから金木犀は2倍以上に大きくなりました.金木犀がこれほど大きくなったのは見たことが無いと誰しもが言います.そんなに大きくなったものですから、南面と北面では日照も違うし、大気の流れも違うというわけで、一月かけた咲き分けになるのかもしれません.

今年は特に気象状況が違ったのか、微かに北面が咲いて、次に南面を主体に全体的にバラバラと咲いて、最後に南面で締めくくりということになりました.その脇には枝垂桜が3輪ほど花を咲かせています.どうしたのでしょうか.雨が殆んど降らないから?とうとう雨季と乾季とが分かれてきたのかとも思います.庭のどうだんつつじを植え替えたものですから水遣りが欠かせませんが、水道の栓を開きに行って不覚にも引っ掛かる蜘蛛の巣が子供の頃と比べてべとべとしていないのは何故でしょうか.朝一番に通る道は、玄関先であろうと何処であろうと巣を払わないと進めないのは同じですが、あのべたつきが無いのは助かります.蜘蛛も種類が違ってきているのでしょうか.

今年は柿がなりませんでした.11月3日はその柿の思い出の父の誕生日でもありました.柿があればあったで父を懐かしく思い出し、ならなければならないで父を恋う娘の心は変わることがありません.両親を亡くすと特に、自分を境に此の世と彼の世があることを実感します.師と仰ぐ方々の多くは亡くなられました.どのように死のうかという人の身の最終課題を思うと、死を迎える時期を希望で先延ばししてはいけないのだなと思います.いつ死んでもいいように毎日を過ごす、これが昔の武家の心得でありました.その心得を思い出し物を片付けているこのごろですが、なかなか物の落ち着く先を見つけられません.還暦までにはユーターンの準備をすっかり終わりたいものだと思います.

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