高松滞在二日目の夜、つまり金毘羅様の石段にノックダウンされた日、松見先生のご自宅で夕食をご一緒しました。私が瀬戸内の幸をお料理してご主人先生に食べていただこうかと・・・・・・そういう心づもりだったのですが、何しろノックダウンです。疲労困憊して(?)、石段下の有名な(らしい・・・・そこの小母さんの口上です)おうどん屋さんの『ワカメうどん』も喉を通りませんでしたし・・・・・。高松までの道中、車の中でうとうと眠らせて頂いてやっと生気がよみがえりましたが、お買い物は松見先生にお願いしてしまいました。それでもその日は生きている明石の(?・・・少なくとも瀬戸内海の)天然鯛とアワビがあったんです。
ご自宅についてお茶をいただいて、何とか“マックロ(真っ黒)ビオティック”料理人はよみがえりました。それでもお野菜のお料理を松見先生にお願いしてしまいました。そんな具合だったので、鯛は最も簡単な『お煮つけ』にしました。大きな鯛の頭をたたいて、松見先生の出刃の刃をこぼれさせてしまいました・・・・お許しください。私の魚の煮付けは、料亭のように煮含めたものではありません。照りのある美味しいお醤油が表面にだけ纏わり付いたような、そんなお煮つけです。松見先生の母君のお煮つけも同じだと伺いました。鰭のところはうしお汁にしました。これでちょっとお客料理のようになりました。瀬戸内の鯛は、平戸の鯛より身が柔らかく、イキモノでもお煮つけに向いています。平戸近海の鯛はイキモノを煮つけにすると、身が締まりすぎてしまいます。瀬戸内海と玄海灘の違いだろうと思いました。
さてアワビですが、一つは殻のまま酒蒸しにしました。残りを題名の『生月の浜幸彦(はまさちひこ)』直伝の“アワビの塩辛”にしました。塩辛と名前がつくものの中で、これが最高だろうと思います。松見先生ご夫妻にも喜んでいただけましたし、昨夜お集まりのご友人達も絶賛してくださったとか・・・・・・ご報告をいただきました。そう言って頂いて、とても嬉しく思いました。本当に色々とお世話になりました。
ところで生月(いきつき)は長崎県平戸市の生月町で島です。浜幸彦さんは生月の人で夫の父の幼馴染でした。私が嫁入りしたての頃は、どんな関係の人か本当に不思議でした。しょっちゅう父の所にいて、父と母の按摩をし、お台所でお料理をし、何日も居続けたかと思うと、ふいといなくなる・・・・・2,3カ月するとまたやって来て、お台所でお魚料理をする・・・・・浜幸彦専用のお布団もあるし、お湯呑みもある・・・・・子供達のお守りはしてくれる・・・・・ちょっとおかしな親戚のおじさんのように子供達には映っていたと思います。
そのうち色々と分かってきました。少し足が不自由だったので、漁師町の生月育ちでしたが漁師にはならず、賄い方として船に乗っていました。それで数カ月いなくなるのです。足は不自由でしたが、泳ぎは達人で素潜りでアワビやサザエを採って来ては私達に食べさせてくれました。お魚料理には、“腕に覚えあり”で一家言持っていました。私も色々と浜料理を教えてもらいました。垣根のない人で、自分と同じ方向に行く車を捕まえては、乗せて行ってもらう名人(?)でした。夫などは「『寅さんと浜』という映画が出来ればおもしろいのに・・・・」と言っていました。とにかく善きにつけ悪しきにつけ、色んな意味でユニークな人だったと思います。私が付けたニックネーム『生月の浜幸彦』、そしてその名の通りの本名を持っていたんです・・・・・『浜崎浜幸(はまさきはまゆき)』・・・・・。
この浜幸彦さん、夫の父を大層慕っていました。弟分でもあり、家来でもあり、友人でもあり・・・・・といったような振る舞い方をしていました。舅が入院した時は、青ざめて駆けつけて
くれました。でも舅が亡くなった時、本人も入院していて、訃報を受け取りませんでした。忌明けが近くなったころ夫がお見舞いに行って、初めて知ったのだったと思います。驚き魂消て、それから食事を受け付けなくなったそうです。忌明けの法事には病院から参列しました。そして、『はじめて料理を全部食べたばい。今まで何にも食べきらんやった・・・・』と言いながら、私達と舅の思い出話など談笑して帰りました。病院に帰ると、また食べられなくなって、数日後に亡くなりました。この浜幸彦さんほど、舅の死を悲しんだ人はいなかったのかもしれないと思います。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
ご自宅についてお茶をいただいて、何とか“マックロ(真っ黒)ビオティック”料理人はよみがえりました。それでもお野菜のお料理を松見先生にお願いしてしまいました。そんな具合だったので、鯛は最も簡単な『お煮つけ』にしました。大きな鯛の頭をたたいて、松見先生の出刃の刃をこぼれさせてしまいました・・・・お許しください。私の魚の煮付けは、料亭のように煮含めたものではありません。照りのある美味しいお醤油が表面にだけ纏わり付いたような、そんなお煮つけです。松見先生の母君のお煮つけも同じだと伺いました。鰭のところはうしお汁にしました。これでちょっとお客料理のようになりました。瀬戸内の鯛は、平戸の鯛より身が柔らかく、イキモノでもお煮つけに向いています。平戸近海の鯛はイキモノを煮つけにすると、身が締まりすぎてしまいます。瀬戸内海と玄海灘の違いだろうと思いました。
さてアワビですが、一つは殻のまま酒蒸しにしました。残りを題名の『生月の浜幸彦(はまさちひこ)』直伝の“アワビの塩辛”にしました。塩辛と名前がつくものの中で、これが最高だろうと思います。松見先生ご夫妻にも喜んでいただけましたし、昨夜お集まりのご友人達も絶賛してくださったとか・・・・・・ご報告をいただきました。そう言って頂いて、とても嬉しく思いました。本当に色々とお世話になりました。
ところで生月(いきつき)は長崎県平戸市の生月町で島です。浜幸彦さんは生月の人で夫の父の幼馴染でした。私が嫁入りしたての頃は、どんな関係の人か本当に不思議でした。しょっちゅう父の所にいて、父と母の按摩をし、お台所でお料理をし、何日も居続けたかと思うと、ふいといなくなる・・・・・2,3カ月するとまたやって来て、お台所でお魚料理をする・・・・・浜幸彦専用のお布団もあるし、お湯呑みもある・・・・・子供達のお守りはしてくれる・・・・・ちょっとおかしな親戚のおじさんのように子供達には映っていたと思います。
そのうち色々と分かってきました。少し足が不自由だったので、漁師町の生月育ちでしたが漁師にはならず、賄い方として船に乗っていました。それで数カ月いなくなるのです。足は不自由でしたが、泳ぎは達人で素潜りでアワビやサザエを採って来ては私達に食べさせてくれました。お魚料理には、“腕に覚えあり”で一家言持っていました。私も色々と浜料理を教えてもらいました。垣根のない人で、自分と同じ方向に行く車を捕まえては、乗せて行ってもらう名人(?)でした。夫などは「『寅さんと浜』という映画が出来ればおもしろいのに・・・・」と言っていました。とにかく善きにつけ悪しきにつけ、色んな意味でユニークな人だったと思います。私が付けたニックネーム『生月の浜幸彦』、そしてその名の通りの本名を持っていたんです・・・・・『浜崎浜幸(はまさきはまゆき)』・・・・・。
この浜幸彦さん、夫の父を大層慕っていました。弟分でもあり、家来でもあり、友人でもあり・・・・・といったような振る舞い方をしていました。舅が入院した時は、青ざめて駆けつけて
くれました。でも舅が亡くなった時、本人も入院していて、訃報を受け取りませんでした。忌明けが近くなったころ夫がお見舞いに行って、初めて知ったのだったと思います。驚き魂消て、それから食事を受け付けなくなったそうです。忌明けの法事には病院から参列しました。そして、『はじめて料理を全部食べたばい。今まで何にも食べきらんやった・・・・』と言いながら、私達と舅の思い出話など談笑して帰りました。病院に帰ると、また食べられなくなって、数日後に亡くなりました。この浜幸彦さんほど、舅の死を悲しんだ人はいなかったのかもしれないと思います。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!