西部さんが亡くなった・・・・・と最初に聞いたときは、ひどく寂しい気持ちに襲われました。だけど、自分で死ぬことに決められたと聞いて、悲しまないことにしました。死に関する私たちの置かれた現状について、西部さんは多くの場合『自然死』ではなく、『病院死』だとおっしゃっています。そうですよね、そして幸いにもうっかり『自然死』でもしようものなら、事故死扱いになって警察沙汰になるのです。西部さんの頭で考えてさへ、自然死に近い死に方をするためには、意識のはっきりしているうちに体の自由が利くうちに、水死するしか無かったというこの事実・・・・・これは『警鐘』だと思います。三島由紀夫以来の第二の『警鐘』です。
もう30年以上前になるのだろうと思いますが、新聞紙上に西部さんの広告が出ました。『発言者』の出版予告です。私はいくらかでも支持を表明しようと2部の配布申し込みをしました。毎月届く表書きに4番の番号が振られましたから、4番目の申し込みだったのだろうと思います。そして1部は私たち夫婦の手元に、もう1部を父に持って行って論議をしたものです。この『発言者』に引き続く『表現者』になって、その後の発行継続断念に至るまで西部さんが財産をなげうって頑張られたことを知っています。この小気味の良い西部さんに私は(失礼ながら)『ライオン丸』とニックネームを付けました。風貌も行動もライオンのリーダーのようでしたから・・・・・父が亡くなって、『発言者』を引き取り、また手元に戻っています。その中には、西部さんの家屋敷を売り払っても守るべき『伝統』の認識が語られていると思います。言葉というものの意味が語られていると思います。
私は身近な人の死を、4歳か5歳の時に初めて体験しました(厳密にいえば、生後40日くらいで実の祖母が亡くなりましたが、記憶はありません。)生後半年の二番目の弟が死にました。その時のことは切れ切れに覚えています。茶の間の隣の部屋に青い着物を着せられ白い涎掛けをかけられて寝かされた小さな弟・・・・・小さなお棺に入れられて、黒い紋付の晴れ着をかけられた弟・・・・・墓地に穴が掘られていて、小さなお棺が下げられて、上に土がかけられ始めたその時、泣きわめいて私はどこかに連れていかれました。その次は生後三か月の四番目の弟が死にました。この弟は腸重積の発見が遅れて死にました。緑色の便をして緑色のものを吐きました。手術をして成功したと聞かされ、病室のベッドに寝ている弟を見ました。そして弟は術後一週間でなくなりました。この時は小学5年生だったか、6年生だったか・・・・・母はそれから数か月瞼が腫れていました。お乳が張るたび、夜になるたび、泣いたので、瞼の腫れがひかなかったんだと思います。
このころから私は思索的(まあ、生意気)になりました。死について考えたり、広大な宇宙について考えてみたり・・・・・歴史上の人物の言動について考えてみたり・・・・・。それで最終的に歴史とマクロビオティックとカタカムナにつながることになるのですが、死の床についた伯母を見て、人間には最後に『死ぬ以外に仕事がない時が来る』ということを直に感じました。父を見取り、姑を見取り、舅を見取り・・・・・そして母の最期を迎えるにあたって、私は母と『死』について語り合うという実験をしました。死んでゆく人に『大丈夫よ(いったい何が大丈夫なのか?)』としか言えない事態がたまらなく嫌だったからです。このころから死を明らかにして死んでいくべきだと思うようになりました。これが『ヒレフリ山教室』へと続いているのですが、今のところ頓挫しています。誰もあんまり聞きたくなさそうなのです。
西部先生、ご自分の片をお付けになったのですか。それについて、しばらく考えてみるつもりです。父の後は背負子にしょっていますが、先生の後は文字をたどってみるつもりです。