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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

東海林さん結論

2024-12-19 20:07:47 | 日本語・古事記・歴史・日本人

異説東海林さん』を記事にして、8年が経ちました。あれからも心の中でくすぶり続けていましたが、例によってフト結論を得ました。記事にしようと思いながらもぐずぐずしているうちに、その前記事でご紹介した憧れの伯母の訃報が届きました。102歳まで美しく生きた伯母を偲んで思い続けましたが、もしかするとこのフト得た結論を伯母が後押ししてくれたのかもしれないと思いました。それで短い結論だけのこの記事を書きました。

 

東海林さん・・・・・しょうじさん・・・・・とうかいりんさん・・・・・元の名は、とうかいりんさん。とうかいりん・・・・・とう・かい・りん・・・・・と・か・り・・・・・と・か・る・・・・・つ・か・る・・・・・

 

そうです、最初の『東海林さん2』でご紹介した結論通り、東海林さんはツカル一族、鳥族の一部族であの有名な東歌の主だったと思います。そして本当の最初の呼び名は、ツカルさんだったのではないかと思います。参考記事:『東海林さん1』 、『東海林さん2


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2024・11・3

2024-11-03 09:57:19 | 父の背負子3(雑記)

今回のご案内は格別です。そのわけは、父の背負子の最後に私の答えを付け加えることができたからです。私はこれを加えて、次の背中に渡すことにしました。どうかお読みいただけたらと願っています。日本人とは何かという次世代につなぎたい父の背負子の最後のパーツです。

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30        

        私の邪馬台国   2012‐10‐04       

        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05        

        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09        

        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12      

        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15       

        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

 

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17        

        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17        

        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24        

        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

 

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26        

        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27        

        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29        

        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02       

        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

 

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04

       

        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

      天帝とはツクヨミノミコト!!!    2024-10-17


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同窓生の近況

2024-10-21 15:47:06 | 教室情報

                                             

マクロビオティック教室に唐津から通ってきてくださった入江さん。まだご結婚前でしたが、今では二人のお母さん。ご主人は唐津焼の作陶家で岸田匡啓さんという方です。時々ご案内をいただいてのぞかせてもらっていますが、私は岸田さんの斑唐津がが好きです。春風を思わせるような作風です。そんな岸田さんが、日本橋高島屋で二度目の個展を開かれるとのご案内をいただきました。精進の賜物、ご成功をお祈りします。          そして、同級生の皆様にお知らせします。毎年春には唐津焼の陶器祭りでも発表していらっしゃいます。


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天帝とはツクヨミノミコト!!!

2024-10-17 19:34:17 | 父の背負子1(随想古事記)

東洋の歴史の始まり、そして東洋の精神の始まり・・・・・天帝によって示された人間の歩むべき道『天道』・お天道様!!私は意識的無意識的に探求し続けて、やっとここ記憶の始まりにたどり着きました。

天帝の娘である織姫様、天帝のお許しにならなかった牛飼いとの恋、周礼としてまとめられた天に対する天子としての王の正統性、東洋の歴史はここから始まりました。私達は何も知らずに、およそ三万年にわたる東洋の歴史を、天の川のカササギの橋によって潜在意識としてしのんできたような気がします。

 

随想古事記として私のアイデンティティ探訪は10年余り前に形となってブログでご紹介してきましたけれど、それからもずっと続いています。もうすぐ76歳になろうとしていますが、私の到達した最終結論は、私達の古事記から消えてしまったツクヨミノミコトの消息です。東洋の天帝はツクヨミノミコトで、ツクヨミから始まった王朝だったという結論です。

ツクヨミノミコトは伊弉諾尊のお産みになった三貴子のおひとりです。黄泉の国の汚れを祓われた時左目をすすがれてアマテラス、右目をすすがれてツクヨミ、最後に鼻をすすがれてスサノヲ・・・・・尊き子を持ったと喜ばれた伊弉諾尊は三人の御子にそれぞれ高天原、夜の食す国、海原の統治をお任せになります。それからツクヨミは消息不明になられます。私達の表向きの歴史から消えてしまいました。これは私の子供のころから心に引っかかった事件です。これをはっきりさせるために私の思索の旅はあったのだと思います。

夜の食(おす)国・・・・・これがそもそも分かりませんでした。一体どこのことなのか、何を言っておられるのか。実はこれは夜空のことだったのですね。日食・月食、月の満ち欠け、星の移転、ツクヨミは暦を支配されたのです。これが東洋における最初の王朝ツクヨミの天朝だったのです。この王朝の起源については、以前の記事『万世一系の天皇②』で取り上げた有巣氏、つまり鳳凰をシンボルに持ち姓は風、鳥族によって作られた世界最古の王朝です。これ以後が大陸の歴史になって、このブログで何度もご紹介している歴代王朝です。そして大陸では殷を最後に鳥族王朝はありません。(ちなみに高天原は、タカマの力が張っているところ。誤解を恐れずに言えば、太陽が照らしている世界。海原は常に何かを生みなしているところ。五穀豊穣の種の世界。そしてこの三者は表裏一体の関係です。)

 

この天帝王朝がどこに行ったかという結論が、これまで何度も記事にして発表してきたとおり、わが日本の大和王朝です。世界にも散らばって、主に『ツク』の類音を国名に持つ国々・・・・・歴史上から現代まで、突厥、チュルク、トルキスタン、トルコ・・・・・意外ですか、トルコは私達の遠い親族です。やっと私の『随想古事記』が始まりから今まで全部つながりました。それで天人の代表『かぐや姫』が月の国に帰り、天女は羽衣を持って飛び、ツルの恩返しの鶴が天女となって飛び去ったことも全部納得できました。ツクヨミの王朝が東洋最古、そして現在日本の王朝として続いているのです。これが柿本和子の生涯をかけた歴史の真実です。人生の満足を得た心持です。この真実の証明を若者に託します。そして、この記事をカテゴリー『父の背負子(随想古事記)』に加えます。


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続・玄米ご飯が食べたい

2024-06-28 15:02:35 | 鍋物語・楽老膳

今回は結論としての感想です。明快至極の感想は、単純に『失敗』です。まあ使った玄米がその炊き方に合わなかったのか、いろいろ条件はあると思いますが、あまり美味しくはできませんでした・・・・・それでもお粥やおじやを作る下処理としては十分だろうと思いますので、寒くなるまで待とうかと思います。

 

ただ思いがけぬ発見に驚いています。すぐに感じた心安さ・・・・・白米や分搗き米の素直さというか軽さというか・・・・・心のこだわりが消えるような・・・・・現代社会の抑鬱状態の原因が、まさか、ここにあったのではないかと思えてしまいます。社会が電化して便利さと美味しさを追求して失われたものがあったのかもしれないと思います。もし不安や心配に悩んでおられるなら、この圧力をかけない電気炊飯器を試してみられるのもよいと思います。私は特に悩みなどはなかったのですが、それでも気分がとても楽に自由になりました。なんでだろうと考えて末の結論が、圧力をかけない遠赤効果の炭窯にあったのではないかと思います。分厚いくりぬいたような炭の内釜・・・・・暖かい手触りです。優しい社会の基盤は、穏やかな精神状態だろうかと思います。


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あの日はどこに行ったのだろう!

2024-06-20 13:35:57 | 平戸

歯医者さんに通っています。80歳になるまではなんとか入れ歯を使わないでいきたい・・・・・というのが目標です。歯医者さんは海に面していて、高校時代に毎日お世話になった桟橋のすぐ横です。当時の桟橋の周囲とはずいぶん様変わりして、埋め立てられ波除堤防は長くなり・・・・・ずいぶん変わってしまいました。青い空に青い海・・・・・そんな風景を見ていると、ふと心に浮かんだこと・・・・・あの日はどこに行ったのだろう。

                               

 

この桟橋から対岸の平戸城の下の旧厩前につく朝の補習事業に間に合わせた便に乗るために、丘の上から手を振りながら駆け下りた高校時代をふと思い出しました。もう60年も前のあの懐かしい日々はどこに行ったのだろう。懐かしい人々はどこに行ったのだろう・・・・・?????

 

追記(6/21):今では平戸大橋でつながっていますが、当時は完全な離島だったので平戸に自宅がない者はみな船で高校に通いました。そして船長さんは毎日乗船する顔ぶれも把握していました。乗り遅れると帰宅できない高校生のために、出航した船をわざわざ戻してくれることもありました。あの長閑な優しい日々はどこに行ったのでしょう・・・・・


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玄米ご飯が食べたい!

2024-05-12 11:15:55 | 鍋物語・楽老膳

壮年期を過ぎ老年期を迎え、とうとう後期高齢者の烙印を押される境遇になりました。楽老膳なるものを思いついて2年になりますか、我が家の食卓も簡単単純メニューになりました。その中で一番困ったのは、玄米ご飯です。最近のガスコンロはみな感熱式になって、圧力鍋を使いにくくなりました。土鍋も具合が悪い・・・・・炭や豆炭も熾せない・・・・・ガスコンロを別に用意しなければなりませんでした。段々億劫になってきましたが、玄米ご飯程腸を快適に保つものは考え付きません。もう10年になりますが、すい臓がん騒ぎを起こして手術を受けた時も、入院中どれだけ玄米粥が恋しかったことか・・・・・

 

そんな事情になって電気炊飯器も随分進歩しているので、玄米を炊くのによい炊飯器を探してみました。希望は老人向けに圧力をかけない炊飯器・・・・・そうしたら、あったんです!!!三菱電機の炊飯器は、圧力をかけずに玄米も炊いてくれる!!!!!その上に内釜が炭でできているらしい!!!!!我が家は、以前からご紹介している自然食品和みさんのおかげで、電気に関して電磁波カットをしているので電気炊飯器で玄米を炊こうという気になったのですが、炭素の遠赤外線も電磁波中和に役に立つだろう・・・・・何とか美味しい玄米が食べたい!!!

 

そういうわけで、三菱電機の丸っこい炊飯器を買いました。美味しい玄米ご飯が炊けるかどうか、これから試行錯誤しなければなりません。思ったより柔らかく炊けましたが、これから様々な条件を試してみたいと思っています。同時に白米についても予想外の体験をしています。白米ご飯はこれまでの電気炊飯器メーカーの努力の賜物か、美味しく炊けているとは思います。だけど、

それよりもなお驚きの感覚を味わいました。気楽になったんです。心楽しいというか、安心というか・・・・・

このことはとても大事なことではないかと思います。心病める人が増えたのも、もしかするとあまりにも電気というものに頼りすぎている便利社会の現象ではと思いつきました。人間の肉体と精神に対する高周波の影響についてもっと研究がなされるべきではないかと思います。手遅れにならないうちに、竈は無理だとしても、この三菱電機の電気炊飯器に対する態度を評価したいと思います。


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2024・05・08

2024-05-08 12:28:45 | 父の背負子3(雑記)

また父の命日が巡ってきました。恒例のご案内です。主人とお墓参りに出かけたら、弟夫婦と会いました。両親亡き後の兄弟との交流は減ってしまいましたが、久しぶりの何気ない会話に懐かしく心温まるものを感じました。

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30        

        私の邪馬台国   2012‐10‐04       

        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05        

        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09        

        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12      

        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15       

        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

 

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17        

        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17        

        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24        

        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

 

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26        

        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27        

        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29        

        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02       

        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

 

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04

       

        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

最近ではユーチューブでも私の説によく似た説を見かけることが時々あって、喜んでいます。どうかご自分のアイデンティティを確かめて、日本人の歴史の最先端を生きていただきたいと思います。再先端をつなぐことが今を生きる私達の責務だと思います。

 


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インスピレーションとは何か!!

2024-03-19 15:15:40 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

     インスピレーション・・・・・それは『フト』した思い付き、ひらめき

 

ブログ名を 『inspiration - macrobiotique(マクロビオティック・インスピレーション)』と決めた時、何をどう思ったのかというと、マクロビオティックという正しい暮らし方によってカタカムナという正しい生き方を感得したいと思ったからです。知りたいことはすべて、インスピレーションによってもたらされる・・・・・ことを実感しているからです。そのインスピレーションとは何か・・・・・『ひらめき』ですよね。そのひらめきはどうやって起こるのか・・・・・

 

それは、『フト』起こります。その『フト』がインスピレーションというものの本質です。『フト』という日本語の意味は、二つの力波動が共鳴する、あるいはぶつかり交わりあって一つに合力するというものです。『フト』するものと生み出されるものとは、二つの力波動の性質によります。だから毎日毎日修行しなければなりません。この世に物が存在するのは『フト』が起こるからです。私達は己の修養を積む以外にありません。身を慎み行いを慎み、ひたすら世のため人のため、国を思い同胞を思って祈り続け出来ることをする・・・・・そうすると『積善の家に余慶あり』、ふと閃いて余慶をいただけることになるのだと思います。(余慶とは思いがけない喜ばしいことです。願って、あるいは目論んで、手に入れる良いことではありません。)

思ったとき、あるいは問題をはっきり認識した時、答えは『フト』明らかになります。だから禅僧は座禅を組む以前に食の制限を自らに課します。振動する体細胞の質を変える以外に『フト』する波動の選択はできません。テレビやラジオのチュウニングと同じです。否応のないものです。正直でありがたいものです。万人に平等です。自分の波動以上のものは受け取ることができません。自分が向上する以外にありません。難行苦行をするのではありません。鍵は『食』にあります。

 

後期高齢者になりました。父が亡くなった年を超えてしまいました。来し方を振り返りしみじみと思います。


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春の味

2024-02-24 11:34:30 | 季節・週末散歩

  海岸の瀬戸市場で見つけました。セリとつわと大きなシイタケ・なば。嬉しくなる春の味です。

 

追記(2/25):本当のところ、私は田芹が好きです。私にとって田芹は母の味です。昨年11月の記事の築城探訪では触れませんでしたが、母と芹摘みをした田んぼをひそかに懐かしく思っていました。残念ながらあと影もなくなっていました。田芹は、今普通に手に入る芹とは違って、独特の風味を持っています。母から植え付けられた記憶の風味は消えることはありません。10年以上前に吉祥寺駅のロンロン市場で田芹を見つけたことがあります。その時の嬉しかったことは、今でも忘れません。


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立春を迎えました。

2024-02-05 14:43:53 | その時々2

あけましておめでとうございます。

昨年決心しておきながらなかなかお神輿が上がらなかったのをちょっと反省しました。主人が30年ぶり(?)にブログを更新しました。それで私もブログを開いてみましたら、なんと百名以上の方がのぞいていてくださったのを見つけました。ありがとうございました。また私も『折りたく柴の記』を続けようと思います。

 

申し上げたいことは山ほどあるのですが、追々にするとして、昨日桟橋のところの道の駅で見つけたオゴゼと打ち牡蠣の写真です。昨夜はご馳走でした。 

                      

三枚おろしにしてもらったあらです。このお味噌汁が本当に美味しく温かく心落ち着きました。コツは熱湯をかけて、皮の泥臭い幕を取り去ることです。

                       

それに春の風物詩、打ち牡蠣の酢の物。橙は残っていなかったので、酢ミカンとリンゴ酢にお醤油をかけていただきました。    

しばらくは春は名のみの状態で寒さも続くでしょうが、わかめの季節ももうすぐ。平戸名物のヒラメも出始めました。お元気でお過ごしください。


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60年ぶりの築城

2023-11-12 15:24:39 | 父の懐

築城に行きました。中学三年の12月で、私は猶興館に入学するために祖父母と暮らすことになって平戸に帰省しました。父の東京転勤が決まっていたからです。その時以来実に60年・・・・・記憶の中では大きかった築城ですが、離れてもう60年も経っていたのですね。私にはどうしても確かめたい地が三つありました。一つは以前記事にしたかと思いますが、下関市吉田町。今回の築城町。そして残るは、静岡県浜松市鴨江町。宮城県の矢本は、大学生になった時の父の勤務地となり確かめることが出来たので、あまり心残りは感じません。ただあの大地震の時の映像が焼き付いています。

猶興館の私達の学年は仲が良いのか、東京と大阪で各一回、年に二回も同窓会があります。私も60歳を過ぎたころから参加させてもらうようになりました。平戸に戻ったころからは、大阪の会に行っています。昔の記憶の探訪は、大阪からの帰途の寄り道です。今回も小倉で新幹線を降りました。きれいな駅になっていました。私の知っている小倉や門司は、何しろコレラ騒動の時代です。バナナのたたき売り。福岡県が募集したコレラ撲滅のポスターに入選したこともあります。駅ビルで、高田屋でしたか、美味しいゴマそばをいただきました。ゴマそばって、福岡の裁判所の近くの『そば切りかんべえ』という美味しいお蕎麦屋さんで初めて食べさせてもらいましたが、難しいらしいのです。そこのご主人とおそばを思い出しながら、いただきました。

 

そして始めに日豊本線で宇島(うのしま)まで行きました。宇島は官舎の空きがなかったために、家を借りたところです。九電の宇島発電所があって栄えていました。駅を降りて交番で道を尋ねて、先ず『八屋小学校』を目指しました。道々確かめながらやっとたどり着きました。記憶も少なく面影はなく、周囲の状況もがらりと変わっています。今月に入って1、2、3日と暑い日続きです。やや冬支度の私は汗をかくほどです。それでも八屋小学校に何とかたどり着き、小学校の先生にいろいろうかがって、昔の通学路と思われるところを辿りました。通学路が一番記憶に残った頼りの綱です。道々行き会う方々にお尋ねしながら、ここら辺に消防署があったのでは???・・・・・昔お店が並んでいた十字路に来て、記憶が鮮明になり、お魚屋さんの看板も残っていました。公民館があって、三差路があり石屋さんがあったはず・・・・・外科の病院も・・・・・?????それから先は、住宅街に代わっていて、それらしき九電社宅跡の丘は住宅街に変わっており、そこの坂を上って行った先にため池があったはずのところも・・・・・昔ヒシの実をとってゆでて食べました。弟の釣りに付き合って、ミミズをつけるのが嫌でそのまま垂れていたら、鮒がかかりましたっけ!!!お祭りがあったお寺だかお宮だかの鬱蒼とした森も、みんな住宅地になっていました。暑くて喉は乾くは・・・・・お店もない・・・・・2、3時間も歩き疲れて、駅前で覚えておいたタクシーに迎えに来てもらうことにしました。

八屋時代は戦後のどさくさの奇妙な時代です。小学校に怪力の見世物・・・・・軽トラックに子供たちを乗れるだけ乗せて、ロープをつけてそのロープを口で引っ張るとか、ガラス瓶を割って敷き詰めてその上に横たわり、マットを体に乗せてその上をトラックが横切るとか・・・・・今では考えられないようないろいろなことがありました。記憶の彼方にかすむ様な思い出です。それでも懐かしい・・・・・校長先生のお顔もお名前も鮮明に思い出せます。

現在の地名は知らないけれど、60年前の説明でタクシーは迎えに来てくれました。駅まで連れて行ってもらいました。運転手さんの話によると、新しい国道ができて、私達の通学路の旧国道は大きく様変わりをしたことがわかりました。商店も無くなり病院も無くなり、官公庁舎も亡くなった。八屋は知っているものがほとんどありませんでした。日豊本線を戻って、築城に行きました。おぼろだった築城、椎田、豊前松江(ぶぜんしょうえ)の位置関係もはっきりとわかりました。無人駅になっていた築城駅、駅前で出会った方に旅館を教えてもらいました。それで、昔自転車で通った自衛隊基地の前の踏切が確認できて、土地勘を少し取り戻しました。駅前は本当にわかりません。『紀文』という割烹旅館で、本当に暖かい優しい旅館でした。父達も昔宴会で寄ったのではないかと思う旅館でした。八屋探訪でその日の予定はお終いにして、ゆっくり旅館の夕食をいただき、明日の築城探訪を楽しみに8時には眠ってしまいました。

翌日も快晴、旅館のきれいな朝食をいただいて、9時過ぎ探訪開始。築城での目当ては、自衛隊官舎と築城小学校。道路は幅が広くなって舗装されていたけれど、八屋よりはのどかな面影を残していました。小川のような側溝があったのですが、道路の下になっていました。ここら辺にお豆腐屋さんがあったでしょうという問いかけに、あったあったと言ってくださる私と同じ昔の方がおられて、昔を懐かしみました。衝撃は官舎です。二軒長屋だったんですよ。それが、コンクリートの団地になっていました。敷地も石垣があって、1メートルばかり高かったのですが、道路と変わりなくなっていました。上の堤から流れていた、へちまを晒した小川は汚くなっていました。もう昔はありませんでした。築城小学校はすぐ先にありました、途中の文房具とお菓子などを売っていたお店の跡らしきものはありました。小学校は祝日のお休みで、教頭先生のお許しをいただいて校庭に入らせていただきました。

昔をしのぶことができたのは、クスノキ。覚えているのは、クスノキと横に伸びた松の木があって、足洗い場でした。職員室の前にあった築山の残りかと思うような蘇鉄がありました。たぶん2回は建て替えが行われただろうと思いました。小学校を出て、昔サイクリングをした城井(きい)川の土手を見に行きました。これが意外に遠くて、住人もあまり知らないらしく、暑さを感じながら立派な住宅街を通り抜けました。こんなところに大きな道路ができたのかとトラックが行きかう道路を横切り、やっと城井川の土手道路にたどり着きました。途中で散歩中のご夫婦に会いましたが、城井川には降りることはできないと言われました。それから同窓生が雷に打たれて亡くなった悲しい橋らしき橋まで行き、折り返すことにしました。途中小学校の教頭先生に伺った市民センターでの小学生出展の文化祭をのぞくことにしました。立派な作品がいっぱいで、可愛らしい後輩の作品を楽しみました。幼稚園生のお習字もありました。とても上手で、よい指導だと思います。それからお茶席があって、お薄をいただきました。美味しくて、お代わりをしてしまいました。

そこからもう一つのお目当ての八築中学はすぐで、すっかり立派な中学校になっていました。部活の様子をちょっと見学して戻ることにしました。駅の方角を目指して、ぶらぶら眺めながら旅館に戻ることにしました。もう3時間以上も歩き回っているので、多少疲れ気味・・・・・町の人と短い会話をしながら・・・・・平戸は柿が不作のようですが、築城は鈴なりでした。気になったのは田んぼです。稲が育たずひょろっと生えたまま・・・・・旅館に戻って、お茶とおむすびを食べて、たっぷりのお湯を使わせてもらって、夕食まで一休みしました。

 

翌日築城を出ました。親しくなった旅館の女将さんらとお別れをして、待ち時間がたっぷりの築城駅のホームで両親を思い返しました。殆どが変わってしまった築城基地の町でしたが、それでも懐かしい両親と通い合う思い出を確かめました。吉田町と違って、何もなかったというのが感想ですが、満足です。ただ築城近辺には、私の知らない歴史があって、もう一度来たいなと思いました。博多駅で夫と待ち合わせて無事帰宅しました。


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2023・11・3 恒例のご案内

2023-10-31 22:24:50 | 父の背負子3(雑記)

私にとっての恒例行事の日が巡ってきました。『もう』という気持ちがします。時が経つのは早いものですが、最近急に記事を書く意欲がなくなりかけてきました。反省して最後まで頑張ろうと思います。今年は恒例の『父の背負子・随想古事記』のご案内の日に留守をしますので、早めに記事を上げることにしました。少しでも多くの若者の目に触れて、自分の考えを作り上げて欲しいと思います。どうかお読みいただけたらと思います。

 

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30        

        私の邪馬台国   2012‐10‐04       

        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05        

        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09        

        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12      

        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15       

        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

 

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17        

        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17        

        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24        

        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

 

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26        

        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27        

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        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02       

        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

 

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04

       

        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

 

 

それから決意をもうひとつ。現代人の歴史の断絶を何とかしたいとずっと思ってこんなブログを続けてきたのですが、思いついたヒントが、父から教わった昔の人をしのぶやり方、和歌の本歌取り・・・・・、これは長い時間をさかのぼって昔の人と対話できるやり方のように思います。きっかけは、テレビで流れた与謝野鉄幹の『人を恋うる歌』・・・・・名を惜しむかなおのこゆえ・・・・・を聞いた途端に以前このブログの記事でご紹介した大伴旅人家持親子の歌を思い出しました。言葉の連想は千数百年を飛び越えて、昔の人を懐かしむことができる・・・・・私たち日本人は昔の人の心の発露の歌というものを持っている!!!そうして時を隔てても重ねて自分の心の歌を発することができる!!!これはなんと素晴らしいことではないでしょうか。それで、和歌をご紹介するカテゴリーを作って、好きな歌の記事を書くことにします。言葉というものをテーマにした私にとって最後のご奉公のような気もしています。


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しその実の塩漬け

2023-10-13 13:46:16 | 母から娘へ

母が得意だったしその穂のみそ漬け、懐かしい味です。私は穂をしごいて実だけにして、塩漬けにしています。イキな塩に出合ってからは、美味しいのでなんでも大体塩漬けにしています。先日ご紹介した茄子の塩麹漬けのように、今年は塩麹漬けです。気候の所為か、今年の茄子は傷が多いのですが、そこをむきとって使います。本当においしいご飯の友です。それで、シソの実も塩麹漬けにしてみることにしました。収穫がちょっと遅くなった気がしますが、しその穂をしごくと清冽な香りがいっぱいです。指先は真っ黒になりましたが、楽しみができました。


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秋ナスの季節になりました。

2023-09-29 11:21:10 | 自然食品和みさん

九州育ちにはお馴染みのこの長いお茄子・・・・・今日は最近はまっている簡単お漬物をご紹介したいと思います。以前お料理教室で作った『和み』さんの『イキな塩』で作った塩麹で和えるだけです。ただお茄子にはいくつかコツがありますので、それをご紹介します。

1.茄子は圧倒的になりつきの蔕の部分がおいしい(特にお漬物)。

2.かさついた実をしているが、水分が多い。

3.環境条件によって、皮が硬くなることがある。

 

というわけで、蔕の部分をきれいにむしって、なるべく残して細長めの乱切りにします。皮が硬いところは剥き取ってください。押しをかけられる容器に入れて、塩麹を多めに入れて混ぜます。私は30センチくらいの茄子に、塩麹を小匙3杯くらいにします。茄子は塩気をたっぷり入れないと、水が出てきません。蓋をして押しをかけます。一晩くらいで食べられます。驚くほど水が上がります。蓋を取って、そのまま水洗いして笊にあげ絞ってちょうどよい塩加減です。何のことはない『あちゃら漬け』の塩麹版ですが、これが絶妙な味のご飯のお供です。

 

きうりでも出来ます。きうりはすぐ水が出るので、塩麹は小さじ1にして、水洗いはしないで絞るだけで食べられます。最近のきうりは皮の青みが臭いので、なりつきの部分は多めに皮をむいたほうがおいしいようです。きうりは断然なりしもの色が薄いところが美味しいと思います。きうりは30分もすれば食べられますが、一晩置くとカリカリして違った味になります。

 

塩麹ですが、和みさんで塩麹キットを買えます。作ったものもありますが、簡単ですから自家製にすると毎日食べたにしても、一回分で三月はあると思います。お試しください。


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