築城に行きました。中学三年の12月で、私は猶興館に入学するために祖父母と暮らすことになって平戸に帰省しました。父の東京転勤が決まっていたからです。その時以来実に60年・・・・・記憶の中では大きかった築城ですが、離れてもう60年も経っていたのですね。私にはどうしても確かめたい地が三つありました。一つは以前記事にしたかと思いますが、下関市吉田町。今回の築城町。そして残るは、静岡県浜松市鴨江町。宮城県の矢本は、大学生になった時の父の勤務地となり確かめることが出来たので、あまり心残りは感じません。ただあの大地震の時の映像が焼き付いています。
猶興館の私達の学年は仲が良いのか、東京と大阪で各一回、年に二回も同窓会があります。私も60歳を過ぎたころから参加させてもらうようになりました。平戸に戻ったころからは、大阪の会に行っています。昔の記憶の探訪は、大阪からの帰途の寄り道です。今回も小倉で新幹線を降りました。きれいな駅になっていました。私の知っている小倉や門司は、何しろコレラ騒動の時代です。バナナのたたき売り。福岡県が募集したコレラ撲滅のポスターに入選したこともあります。駅ビルで、高田屋でしたか、美味しいゴマそばをいただきました。ゴマそばって、福岡の裁判所の近くの『そば切りかんべえ』という美味しいお蕎麦屋さんで初めて食べさせてもらいましたが、難しいらしいのです。そこのご主人とおそばを思い出しながら、いただきました。
そして始めに日豊本線で宇島(うのしま)まで行きました。宇島は官舎の空きがなかったために、家を借りたところです。九電の宇島発電所があって栄えていました。駅を降りて交番で道を尋ねて、先ず『八屋小学校』を目指しました。道々確かめながらやっとたどり着きました。記憶も少なく面影はなく、周囲の状況もがらりと変わっています。今月に入って1、2、3日と暑い日続きです。やや冬支度の私は汗をかくほどです。それでも八屋小学校に何とかたどり着き、小学校の先生にいろいろうかがって、昔の通学路と思われるところを辿りました。通学路が一番記憶に残った頼りの綱です。道々行き会う方々にお尋ねしながら、ここら辺に消防署があったのでは???・・・・・昔お店が並んでいた十字路に来て、記憶が鮮明になり、お魚屋さんの看板も残っていました。公民館があって、三差路があり石屋さんがあったはず・・・・・外科の病院も・・・・・?????それから先は、住宅街に代わっていて、それらしき九電社宅跡の丘は住宅街に変わっており、そこの坂を上って行った先にため池があったはずのところも・・・・・昔ヒシの実をとってゆでて食べました。弟の釣りに付き合って、ミミズをつけるのが嫌でそのまま垂れていたら、鮒がかかりましたっけ!!!お祭りがあったお寺だかお宮だかの鬱蒼とした森も、みんな住宅地になっていました。暑くて喉は乾くは・・・・・お店もない・・・・・2、3時間も歩き疲れて、駅前で覚えておいたタクシーに迎えに来てもらうことにしました。
八屋時代は戦後のどさくさの奇妙な時代です。小学校に怪力の見世物・・・・・軽トラックに子供たちを乗れるだけ乗せて、ロープをつけてそのロープを口で引っ張るとか、ガラス瓶を割って敷き詰めてその上に横たわり、マットを体に乗せてその上をトラックが横切るとか・・・・・今では考えられないようないろいろなことがありました。記憶の彼方にかすむ様な思い出です。それでも懐かしい・・・・・校長先生のお顔もお名前も鮮明に思い出せます。
現在の地名は知らないけれど、60年前の説明でタクシーは迎えに来てくれました。駅まで連れて行ってもらいました。運転手さんの話によると、新しい国道ができて、私達の通学路の旧国道は大きく様変わりをしたことがわかりました。商店も無くなり病院も無くなり、官公庁舎も亡くなった。八屋は知っているものがほとんどありませんでした。日豊本線を戻って、築城に行きました。おぼろだった築城、椎田、豊前松江(ぶぜんしょうえ)の位置関係もはっきりとわかりました。無人駅になっていた築城駅、駅前で出会った方に旅館を教えてもらいました。それで、昔自転車で通った自衛隊基地の前の踏切が確認できて、土地勘を少し取り戻しました。駅前は本当にわかりません。『紀文』という割烹旅館で、本当に暖かい優しい旅館でした。父達も昔宴会で寄ったのではないかと思う旅館でした。八屋探訪でその日の予定はお終いにして、ゆっくり旅館の夕食をいただき、明日の築城探訪を楽しみに8時には眠ってしまいました。
翌日も快晴、旅館のきれいな朝食をいただいて、9時過ぎ探訪開始。築城での目当ては、自衛隊官舎と築城小学校。道路は幅が広くなって舗装されていたけれど、八屋よりはのどかな面影を残していました。小川のような側溝があったのですが、道路の下になっていました。ここら辺にお豆腐屋さんがあったでしょうという問いかけに、あったあったと言ってくださる私と同じ昔の方がおられて、昔を懐かしみました。衝撃は官舎です。二軒長屋だったんですよ。それが、コンクリートの団地になっていました。敷地も石垣があって、1メートルばかり高かったのですが、道路と変わりなくなっていました。上の堤から流れていた、へちまを晒した小川は汚くなっていました。もう昔はありませんでした。築城小学校はすぐ先にありました、途中の文房具とお菓子などを売っていたお店の跡らしきものはありました。小学校は祝日のお休みで、教頭先生のお許しをいただいて校庭に入らせていただきました。
昔をしのぶことができたのは、クスノキ。覚えているのは、クスノキと横に伸びた松の木があって、足洗い場でした。職員室の前にあった築山の残りかと思うような蘇鉄がありました。たぶん2回は建て替えが行われただろうと思いました。小学校を出て、昔サイクリングをした城井(きい)川の土手を見に行きました。これが意外に遠くて、住人もあまり知らないらしく、暑さを感じながら立派な住宅街を通り抜けました。こんなところに大きな道路ができたのかとトラックが行きかう道路を横切り、やっと城井川の土手道路にたどり着きました。途中で散歩中のご夫婦に会いましたが、城井川には降りることはできないと言われました。それから同窓生が雷に打たれて亡くなった悲しい橋らしき橋まで行き、折り返すことにしました。途中小学校の教頭先生に伺った市民センターでの小学生出展の文化祭をのぞくことにしました。立派な作品がいっぱいで、可愛らしい後輩の作品を楽しみました。幼稚園生のお習字もありました。とても上手で、よい指導だと思います。それからお茶席があって、お薄をいただきました。美味しくて、お代わりをしてしまいました。
そこからもう一つのお目当ての八築中学はすぐで、すっかり立派な中学校になっていました。部活の様子をちょっと見学して戻ることにしました。駅の方角を目指して、ぶらぶら眺めながら旅館に戻ることにしました。もう3時間以上も歩き回っているので、多少疲れ気味・・・・・町の人と短い会話をしながら・・・・・平戸は柿が不作のようですが、築城は鈴なりでした。気になったのは田んぼです。稲が育たずひょろっと生えたまま・・・・・旅館に戻って、お茶とおむすびを食べて、たっぷりのお湯を使わせてもらって、夕食まで一休みしました。
翌日築城を出ました。親しくなった旅館の女将さんらとお別れをして、待ち時間がたっぷりの築城駅のホームで両親を思い返しました。殆どが変わってしまった築城基地の町でしたが、それでも懐かしい両親と通い合う思い出を確かめました。吉田町と違って、何もなかったというのが感想ですが、満足です。ただ築城近辺には、私の知らない歴史があって、もう一度来たいなと思いました。博多駅で夫と待ち合わせて無事帰宅しました。