わたしは時代小説があまり好きではない。たまたま江戸の庶民を登場人物とした
宇江佐真理の作品群を発見して、彼女の作品はすでにかなりの数を読んでいるが、
今でも実在の武将の伝記はどうもおもしろくない。それなのにこの『光圀伝』を
読もうと思ったのは、『マルドクック・スクランブル』と『天地明察』という
まったく違う分野の作品をものしている上に、どちらもすごくおもしろかった
冲方丁が作者だからだ。じっさい750ページもの大部ながら、
おもしろくてどんどん読み進んだ。
物語の冒頭から、そこにはドラマなどでおなじみの黄門様とは
まったく別の人物が立ち現われてくる。ドラマの黄門様はもちろん
フィクションだが、この小説の光圀もどこまでがほんとうで、
どこからがフィクションなのか、歴史に明るくないわたしにはわからない。
だが、ここに登場する水戸光圀は体格に恵まれて腕っぷしも強いが、
文学的才能にもあふれ、おまけに水戸藩いちの美女である母に似て美男
――というスーパーマン的キャラクターなのだ。
けれど物語の魅力はものすごく個性的な周囲の人物に依るところが大きい。
ひとつ間違えば骨肉の争いになりかねない状況で、どこまでも賢明で頼れる兄。、
政略結婚で17歳で嫁いできた公家のお姫さまながら、柔軟な思考ができ、
賢く、光圀とラブラブになってしまう泰姫。
光圀が偉くなってもずけずけと言いたいことを言う林羅山の息子の林読耕斎。
少し登場するだけの宮本武蔵や、山鹿素行すらも強烈な印象を残す。
もちろん安井算哲も『天地明察』とは逆に、光圀の立場から見て描かれている。
なかでも、わたしが一番ほれてしまったのは、泰姫がもっとも信頼する側近として
泰姫について京からやってきた左近。このクール・ビューティーが光圀に
ぽろっと本音を洩らすところなど、もうたまりません。
光圀が「義」を重んじて、「不義」に悩むところなど、現代の考え方からすると、
そこまで悩まなくてもいいんじゃないか……などと思ってしまうのだが、
この時代に武士として生まれたからには、しかたのないことかもしれない。
それと、これはわたしだけの感想かもしれないが、冒頭に67歳になった光圀が
信頼していた家老を殺害する場面を持ってきて、なぜそこへ行きついたかという形で
光圀の人生を物語るという体裁ではなかったほうがいいように思った。
かなり前から、殺されることになる人物がわかってしまって、彼を偏った目で
見てしまいがちだった。それよりは、ずっと信頼していたのに、とつぜん殺さねば
ならなくなったという驚きがあったほうがよかった。わたしとしては。