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5月25日(土) 石巻・震災遺構 ②

2024年05月27日 23時30分00秒 | 2024年

 ①からの続き。

 

 石巻の中心部に戻り、大川小学校と同じく石巻市の震災遺構として保存されている「石巻市立門脇小学校」を見学する。ここは被災した校舎の一部を展示しており、隣接して建てられた観察棟から中の様子を見ることが出来る。

 石巻市の震災被害。

 体育館も展示スペースになっている。

 津波被害にあった消防車と市の公用車が展示されている。

 門脇小学校は1階に津波が押し寄せた。逆にいえば2階から上には届かなかったが、延焼した家屋が流されてきて1階の校長室に直撃し、そこから火が燃え移って校舎全体が炎に包まれた。津波火災である。そうか、ただ高いところへ避難(垂直避難)すれば安心というわけではないのかとハッとさせられる。

 1階の校長室。津波と火災両方の被害を受けている。2週間後に控える卒業式のために用意されていた卒業証書は金庫に保管されており、奇跡的に水にも火にも侵されることなく無事に卒業生へ手渡されたそうである。

 2階の教室。先述のとおり津波は届かなかったが、火災の影響で窓ガラスは割れ、天井まで黒焦げである。

 机と椅子は木の部分が燃えてなくなっている。

 右手の壁に掛かっていた黒板も燃え、剥がれて床に落ちている。

 

 海から門脇小学校までは1キロ足らず。地震発生が14時46分で、津波到来は約1時間後の15時45分だった。

 門脇小学校では、震災前から保護者も参加する形で地震・津波を想定した実践的な避難訓練を実施していた。

 また、1年生から6年生までを地区ごとに分けて学年を超えて一緒に活動する「たて割り活動」を実施しており、上級生が下級生の面倒を見る文化が醸成されていた。

 地震の揺れが収まった後、一旦校庭に避難した児童たちは、大津波警報の発令後、これまでの訓練通りに学校の裏にある日和山への避難を開始した。津波が小学校に到来したのは避難が完了した30分後。学校管理下にあった児童275名全員が助かった。

 当時の教職員の方々のインタビュー動画を見たが、やはり事前の計画・訓練の重要性と、子どもたちが共に助け合う習慣を持っていたことがポイントだったようだ。

 当時児童だった方々のインタビューからも、恐怖を感じながらもやるべきことはわかっていたことが伺える。児童同士が自主的に助け合う様子も随所に見られ、靴をなくし裸足で歩いていた下級生を6年生の女の子がおんぶして山を登っていたりしたそうだ。

 児童たちの避難完了後も、一部の住民は小学校に避難して来ていた。当初は津波を避けるために校舎の屋上へ避難していたが、燃えながら迫って来る家屋を見て方針転換し、児童たちと同じく裏山へ逃げるという選択をすることになる。

 先述のとおり、1階の校長室にぶつかった家屋から火が移り、防火扉が閉まっていた一部の区域を除き校舎全体に火の手が回った。

 実際に燃えた防火扉が展示されている。

 机も椅子も、木の部分は完全に燃えてなくなっている。

 黒板って燃えるの?というのが率直な感想だった。

 完全に燃え尽きた黒板は床に落ちた。

 津波と津波火災から逃れるため、住民たちは2階の窓から外へ出て裏山へ渡った。住民誘導のために残っていた学校関係者が教壇を持ってきて橋としたことで、お年寄りでも何とか渡ることが出来たそうだ。教壇を橋にすることを思い付いた方がインタビューで、「普段なら絶対に重くて持てなかったが、火事場の馬鹿力で何とかなった」と語られていた。

 1階から避難する方もおり、同じく教壇をハシゴ代わりにして壁を越えたそうだ。事前の準備とその場の機転により、多くの人の命が救われた。

 震災後に多くの被災者が暮らした仮設住宅も展示されていた。

 一見すると快適な居住空間のようにも思えるが、実態としては薄い壁で仕切られた長屋形式なのでプライバシーがそこまで確保されているというわけではなく、ストレスの溜まる環境だったそうである。

 実際に被災者の方が暮らしていた仮説住宅の壁が移設・展示されている。

 ここに「暮らし」があったという事実が急激に現実味を帯びてくる。

 この銀杏の木も津波と火災の被害を受けて焼け焦げた。しかし、その後根元から新しい木が生えてきてここまで大きくなったそうだ。

 最後に、『記憶を紡ぐ』という企画展示がとても印象に残ったので、少し長くなるが特に印象に残ったものをいくつか転機しておく。石巻市の学芸員さんが被災された方々から聞き取った話をまとめたものである。

『耳が聞こえないということ』

ドンッ!と突き上げられて
次にグラグラグラッ!と3分近く大きく揺さぶられる
物が落ちてくる ガラスが割れる
何が起きたのか理解できないなかで恐怖心との闘い

音のない状態で
突然 そんな状況に置かれたら
あなたはどうしますか
避難しますか
避難できますか

想像してみてください

音が分からないと…
防災無線での避難のよびかけに気付かない
目からの情報が頼りなのに
地震の影響で停電し、テレビが映らないと…
全く情報がつかめない

だから、大津波がきていることも知らずに
家にいて犠牲となった 障がいを持つ人たちの存在を

あなたは知っていますか

 

『裸の人』

車が流されていくのを
ただ、呆然と見ているしかなかった

地面を這うように、スーッと流れてきたその液体は
次の瞬間 数メートルの高さの津波となった
咄嗟に、近くの建物に駆け込んだ
何が何だかわからなかった

命だけは助かった
生き残った者は
次の日から、生き抜くための日々が待っていた

津波に押しつぶされた家屋の残骸と泥の山を
棒を突き刺しながら地面を確認し
釘を踏まないように慎重に歩いた

途中、裸の男性が目に入った
亡くなっていた
この時は助けるとか、そんな気持ちの余裕は皆無で
心の中で手を合わせるのが精一杯
ただただ、目をそらした
なぜ裸だったのかとそれだけは心に引っかかっていた

津波にのまれた人は
洗濯機に入れられたようにかき回され
天地がわからなくなったと話していた
ある人の息子さんは
ご遺体がみつかったとき服を着ていなかったという

場所も表情も仰向けに亡くなっていた状況も
忘れることなどできない
人が死ぬとはそういうことなのだ

 

『長靴と歌』

その日 私は長靴をはいた

雨は降っていなかったけれど
きみどり色の長靴をはいて保育園に行った

保育園の近くには川があって
毎日のように土手を散歩した
川辺でカニをつかまえたり
木の実をつんでみんなで食べたり
そういう時間がずっと続くと思っていた

大きな地震が来た
お昼寝のときだった

天井から土埃が落ちてきて ぎゅっと目をつむった
隣にいた弟も目が痛いと言っていた

避難するために外にいたらお母さんがやって来た
私のたちの無事を確認すると
先生に「山に逃げて」「あとで行くから」と声をかけて
海沿いの仕事場に戻って行った

保育園のみんなと車で山の上の高校に避難した
山への道は渋滞していた

夜になってもお母さんは来なかった

次の日
泥だらけのお母さんが迎えにきた
津波にのまれそうになったことは後で知った

津波を見ることもなく 無邪気だった私たちは
卒園式で歌うために練習していたうたを歌った
お母さんは泣いていた
みんなのお母さんも泣いていた

何日かして 家まで歩いて帰ることになった
その時 あの朝に履いてきた
きみどり色の長靴が役に立った

不思議だね
どうして長靴を履いたんだろうねと
お母さんは優しくほほえんだ

 

 気付いたら閉館時間の17時だった。状況も大きく異なるので単純比較をするつもりはないが、震災遺構となっている2ヵ所の小学校を訪問し、事前の備えの重要性を痛感させられた。

 今日の宿泊先「石巻アパートメントホテル」にチェックイン。

 震災後、復興にあたって建設業従事者の宿泊先が不足していると知ったオーナーが建てた長期滞在用のアパートホテルである。現在は通常のホテルとして稼働している部屋と一般住宅として賃貸されている部屋が混在しているようである。一般的なアパートの造りで、バス・トイレ別だし寝室も3部屋あってかなり広い。ただ、私からすると他人のお宅にお邪魔しているようで、狭くても普通のホテルの部屋のほうが落ち着く。あと、シンプルに防音性が低い。

 荷物を置き、夕食に出掛ける。ちょうど女川行きの石巻線気動車を見ることが出来た。

 夕食は、寿司屋「すし寳来」を予約しておいた。店頭には「本日予約で満席」と書かれている。

 飲み物はウーロン茶にして、まずはホヤ酢を頂く。三陸地方はホヤの名産地である。食感も味付けも絶妙でとても美味しい。

 くじらのお刺身。脂がのっていて馬肉のような美味しさである。

 お寿司はおまかせでお願いした。まずは真鯛。1貫目でこのお店は間違いないとわかる。

 あわび。コリコリしているイメージが強いが、ここのあわびは柔らかさもあって味がわかりやすい。

 幻の海老とも言われているぶどうえび。しっとりしていて噛むとじゅわっと甘さが広がる。

 お汁も美味しい。

 マグロ。これは娘が大喜びする味だ。

 アジ。旬の鯵は本当に美味しい。

 天然マスの酢〆。鱒を酢で締めるというイメージはあまりなかったが、サーモンにレモンをかける感覚だろうか。

 白魚。私の大好きなぷちぷち食感とかすかな苦みがたまらない。

 うには自分で盛り付ける。

 まずはそのままで食べてみる。濃厚で甘い。

 上手に盛り付けられた。単独で食べるよりも軍艦のほうがより味を濃く感じる。

 毛ガニの味噌和え。かにみその香りが味を引き立てている。

 しゃこ。今まで食べてもあまり印象に残らなかったネタだが、これは驚くほど美味しかった。

 穴子。ふんわりした舌触りと香ばしい味が絶妙である。

 鉄火巻きでおまかせコースは終了。せっかくなので、もう少しだけ追加する。

 ホシガレイ。幻のカレイと言われている高級魚である。日高地方で食べる松川カレイに匹敵する味だが、こちらのほうが若干身が締まっているように感じる。単なる個体差かもしれないが。

 最後に赤貝。最後の1貫まで圧巻だった。

 時刻はまだ18時半過ぎ。喫茶店でデザートでもと思ったが、このあたりの喫茶店は18時までに軒並み閉店してしまう。

 しばらく駅周辺をお散歩してから、スーパーで飲み物と夜おやつを購入。

 19時過ぎにホテルへ戻り、入浴を済ませてからおやつタイム。スーパーで買ってきたレモンパイ、クラフトジンジャエール、ずんだ豆乳はご当地を意識して。

 早めにベッドに入り、スマホで今日撮った写真を眺めながら防災について考える。石巻は沿岸部だけでなく、内陸の市街地でも至る所に「津波到達点」の印があった。震災時もその後も津波の映像は繰り返し目にしてきたが、現地に来ると圧倒的な現実感が襲ってくる。娘がもう少し大きくなったら、今日訪問した場所を一緒に回って防災についてしっかり話をしたい。

 23時前に就寝。


5月25日(土) 石巻・震災遺構 ①

2024年05月27日 15時35分00秒 | 2024年

 7時起床。

 朝食はソイプロテイン。

 明日、実家の菩提寺がある宮城県・石巻で行われる父方の祖母の本葬(と初七日・四十九日・百日法要)のため、私は今日から石巻に前乗りする。妻と娘は先月の家族葬(お別れ会)に参加しているので、今回は私ひとりで向かう。

 9時前に家を出る。

 東京9:48発の東北新幹線やまびこ177号に乗る。

 仙台までははやぶさ号のほうが30分近く早いのだが、やまびこ号は割引制度(トクだ値30%OFF)を利用すると普通車の定価以下でグリーン車に乗れる。安いし、空いているし、時間に余裕がある時はおすすめの方法である。唯一のネックは、現在やまびこ号では車内販売が行われていない(スジャータアイスが買えない)ことだろうか。

 仙台までの所要時間は2時間。

 好天に恵まれて良かった。

 仙台駅でレンタカーを借り、まずは「伊達の牛たん本舗」で昼食。

 芯たん定食を注文。

 分厚いが柔らかく、食べ応えがあってとても美味しい。

 仙台から車で約1時間半、宮城県石巻市釜谷にある「石巻市震災遺構 大川小学校」に到着。

 石巻市立大川小学校は、河口から約4キロ上流の北上川沿いに位置している。2011年3月11日の東日本大震災の際、14時46分の地震発生から約50分後の15時37分に津波が到来し、児童108名中74名・教員10名が亡くなった。欠席者や既に保護者に引き渡されて下校していた児童を除くと、学校管理下にあった児童は78名で、助かったのは4名だけだった。

 地域住民や学校関係者、被災者遺族などが話し合い、最終的には石巻市が小学校全体を震災遺構として保存することになった。おそらく当事者の皆さんにとっては思い出したくない記憶が喚起されてしまう建物だが、それ以上にあの日起こったことを後世に伝え、同じことを繰り返さないで欲しいという強い想いが保存という結論につながったそうだ。

 1階の教室。窓や壁がコンクリートごと破壊され、天井も崩壊している。

 2階の教室の天井も突き破られている。

 2階の天井をよく見ると、水に浸った跡がくっきり残っている。

 娘が小学校に入ったばかりということもあって、眺めているだけでもめまいがしてくる。この場所に限ったことではないが、ご遺族の悲しみは私なんかの想像をはるかに超えるものだろう。

 渡り廊下がコンクリートの根元から折れ、なぎ倒されている。

 2階の教室とプール、体育館を結んでいた渡り廊下だそうだ。

 反対側から見てみる。廊下が海側(私がいる方向)に倒れているのはなぜだろうと疑問に思ったが、当時の津波は海から直接陸を通ってやってきたものと北上川を遡上したものが氾濫して流れ込んできたものがあり、それらが小学校の校庭でぶつかって渦を巻き、この渡り廊下もねじれながら倒れたとのことであった。

 かつて屋外ステージだった外壁には、各年の卒業記念に描かれた壁画が残っている。

 絵の上手さに驚かされると同時に小学生だからこその純粋さも伝わってきて、心温まる一角になっている。

 とても素敵な屋外ステージであったことは今でもよくわかる。

 体育館は、一部の壁を残して床から何から流されてしまった。

 プールも原型がどういうものだったのかわからないほどの状態である。

 学校のすぐ裏は山になっている。当時、「校庭で待機」という指示を聞かず自らの判断でこの裏山を登って避難した子どもたちが助かった。

 津波到達点は想像をはるかに越えて高い場所にあった。

 津波到達点から小学校を振り返ってみる。

 更に登った高台から全体を眺める。右手から押し寄せる海からの津波、左手から流れ込む北上川からの津波、それらが校庭でぶつかる光景を想像してみる。背筋がゾッとする。

 私も当時の報道をかすかに覚えているが、大川小学校の津波被害は当初の学校・教育委員会側の対応にかなり問題があり、最終的には訴訟になった(遺族が宮城県と石巻市を提訴した)。結果としては1審も2審も学校側の過失が認められ(被告側の上告は棄却)、判決が確定している。

 過失というのは、地震発生後から津波到来までの50分間も校庭に留まり続けたことである。1審では、当日の「校庭での待機」という判断に過失があったと認められた。少なくとも大津波警報の発令を知った時点(14時52分頃の防災無線)で高台への避難を開始すべきだったという判断がなされた。この防災無線以降も、15時頃に児童を迎えに来た保護者が先生たちに「ラジオで6mの津波が来ると言っているから山へ逃げて」と呼び掛けており、15時10分には再び防災無線、15時25分には市の広報車が「津波が来ているから高台に避難して」と呼びかけながら学校の前を通っている。しかし、実際に校庭からの避難が始まったのは15時36分。しかも、行先は山や高台ではなく川沿いの場所だった。そして避難開始から1分後、小学校に津波が到来した。

 一方で、1審では小学校の場所がハザードマップで津波危険地域に指定されていなかったことから、事前に津波を想定した避難計画を立案・訓練していなかった(避難計画はあったが非現実的でかなり杜撰なものだった)ことは過失と認められなかった。しかし、2審ではこの点についても過失が認められ、最終的な判決では事前の備えの重要性が指摘された。

 小学校のすぐ先にあり、当時津波が遡上してきた北上川を見に行ってみる。

 平時では素晴らしい景色である。

 この大きくて穏やかな川を津波が遡上してくることを、3.11以前に想像できた人はどれだけいるだろうか。

 当日の判断が間違っていた。それはもちろん事実である。しかし、あの地震直後のパニック状態で正常性バイアスを振り払って正しい判断が出来ただろうか。3.11を経た今の私なら出来るかもしれないが、それ以前の私ならおそらく出来なかったと思う。

 この大川小学校が教えてくれるのは、事前の防災準備の重要性である。当日パニック状態になったとしても正しい判断が出来るよう事前に綿密な防災計画を立案し、日々それを見直しながら訓練して身に付けておくこと。この震災遺構を残すと決めた当事者の方々の想いを無駄にしないためにも、同じことを繰り返さないという意識を強く持ち、具体的な防災活動に取り組みたいと思う。

 

 ②へ続く。