我がネット友(しりとり友?)のジャスミンさんが、子供の頃どんな音楽環境にあったかをブログに綴っていた。それを読んで自分でもブログネタにしようと思った次第である(笑)
ただ、これから書く話は、なんとなく以前に書いた記憶がある。もしかすると誰かへのメールに書いたのかもしれない。なので、この話知ってる、と思う人もいるかもしれないが、そこは軽く流して下さい(笑)
信じられないかもしれないが(は?)、僕は全く音楽とは縁のない子供だった。あまり興味もなかったし(5歳くらいの時、母がピアノ習ってみるか?と訊ねたら、即座にイヤだ、と言ったらしい。勿体ない...)、小学校の頃は音楽の授業が苦痛だった。まず、つまづいたのはハーモニカである。何故、あんなややこしくて、高度な演奏技術を要する楽器を、小学校に入りたての子供にやらせるのだろう。ハーモニカが吹けなくて音楽自体が大嫌いになってしまった不幸な子供は、大勢いるのではないか。僕もそうだ。吸ったり吐いたりしながら吹く、というのがどうしても出来なかった。ドレミファソラシドすら吹けなかったのだ。もちろん、曲を演奏するなんてとんでもない。授業中にハーモニカの演奏テストがあったが、全く吹けない僕は、何度も追試を受けた。出来るまで帰さないと先生に言われ、誰もいない教室で先生とマンツーマンで、泣きながらハーモニカを吹き続けた事もある。毎日練習しろと言われ、家族の嘲笑と罵声に耐えながら家でも一所懸命ハーモニカを吹いた。でも、少しも上達しなかった。僕には向いてないと心底思った。その頃は、ほんと音楽が大嫌いだった。ハーモニカのテストがある日は、マジで学校に火をつけたいと思ったものだ。
断っておくが、僕の両親は音楽に理解がなかった訳ではない。前述したが、母は音楽好きで、子供にピアノやバイオリンを習わせたいという夢を持っていたようだ。今でも後悔してるが、僕はピアノを習う事を拒否したけど、妹はすんなりピアノを習って、家でよく練習していた。帰宅すると、母が何やらレコードを聴いていた事もある。常に音楽が溢れていた家庭とまではいかないが、音楽と無縁の家庭だった訳でもなかった。
ま、話を戻すと、そんな音楽嫌いの僕に少しづつ変化が現れたのが、小学校高学年の頃だ。それまで、学校の音楽の授業の「鑑賞」の時間に聴かされる物を一度もいいと思った事のない僕が、初めて「これいいな」と感じたのが、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』だった。馴染みのあるメロディが多かったので、聴きやすかったのだろう。また、丁度その頃テレビの歌番組の影響か、歌謡曲にも興味を持ち始めた。きっかけは沢田研二、麻丘めぐみ、南沙織といった歌手たち。そして映画に興味を持ち始めて、その音楽にも惹かれるようになった。徐々に音楽に接近していったのだ。正に10代初めの頃であった。
音楽に興味を持ち始めると、色々な物を聴いてみたくなる。で、家にあったLPレコードを物色してみた。今思うと色々なのがあった。クラシックが多かったけど(通販によくある「母と子のクラシック全集」の類とか)、それ以外にも、プレスリー、ビル・ヘイリーなどのロックンロール、ベニー・グッドマン、グレン・ミラーなどのスイングジャズ、なんてのがあった。それらを端から聴いてみて気に入ったのが、グレン・ミラーとビル・ヘイリーだったのである。あの頃、学校から帰ると毎日のようにグレン・ミラーのLPに針を落としていた。その頃から「イン・ザ・ムード」とか「真珠の首飾り」とか「ムーンライト・セレナーデ」とかを知ってたというヘンなガキだったのである(笑)
あとで聞いてみると、家にあったレコードのほとんどは母が買った物だった。特にスイングジャズが好きだったらしい。プレスリーは父が買ったものだそうで、おおっうちの親父は若い頃プレスリーが好きだったのか!と妙に感動したのだが、よくよく聞いてみたら、「みんなが聴いてるので買ってみた」とのことだったので、ちょっとがっくりした(笑) なんでも、買ってみたはいいけど、さっぱり分からなくて、それっきり聴かなかったらしい。ちなみに、母はプレスリーは嫌いだった(笑)
ただ、そろそろ中学に入ろうという頃になると、家にあるレコードだけでは満足出来なくなっていた。映画音楽にハマっていた、というのもあるが、巷で大人気のビートルズやカーペンターズが家にはなかったからだ。そういうのも聴いてみたい年頃になっていたのだね(笑) という訳で、中学入学と同時に買って貰ったラジカセを携え、僕は独自の音楽路線を歩み始めるのであった。そしてそれは、ハードロックが大嫌いな母との闘いの日々の幕開けでもあったのである(爆)
ここで再び断っておくけど、僕の両親は別に演歌ファンではなかった。父は流行歌が好きな人で、歌番組をよく見てたけど、若い女性歌手の曲にも反応してたし、グループサウンズも好んでいた。母は歌謡曲は好きではなかったようだが、時々好きな曲はあったらしい。こういった点においては、割と両親と趣味のずれを感じる事はなかったけど、決定的に違う事があった。それは、二人ともロックは好きでなかった、という事だ。
忘れもしない、小学校の5年頃だったかな(しっかり忘れてるじゃん)、いつものようにテレビの歌番組を両親と見ていると、PYGというバンドが登場した。ご存知の人も多いだろう。元タイガースの沢田研二、井上堯之、大野克夫と元テンプターズのショーケンらが結成したバンドだ。今思うと、サイケなハードロックだったような気がするのだが、初めてPYGを見てその音を聴いた時、心底カッコいいと僕は思った。所が、両親の反応は正反対だったのである。「うるさい」「叫んでるだけじゃないの」「音楽じゃねぇ」ともう大顰蹙。あげくには、「もう聴いてられない」と曲の途中なのにチャンネルを変えられてしまった(笑) 両親との間に壁を感じた一瞬だった(爆)
と、またしても話が違う方向へ流れていっているが(爆)、一応まとめてみると(笑)、両親(特に母)は音楽に親しんでいたので、趣味の違いはあれど、子供が音楽好きになるのは自然な流れだったと思う。学校の音楽の授業さえなければ...母は後年、勉強もせずに毎日音楽を聴き、ギターの練習に精を出す息子に「あんたがこんなに音楽好きになるとは思わなかったよ」とのたまった。そりゃそうだろうね。泣きながら下手なハーモニカを練習するのを見ていれば、音楽に夢中になる日が来るなんて想像できんだろう。
という訳で、僕未だにハーモニカが吹けない。つーか、小学校以来触ってすらいない。でも、世の中にハーモニカ以外の楽器があって、本当に良かった。でなきゃ、今でも音楽嫌いのままだったろう。
と脱線続きだったけど結論:子供の頃の音楽環境については、恵まれていたほうだと思う。ハーモニカだけが唯一の汚点だけど(爆)
ただ、これから書く話は、なんとなく以前に書いた記憶がある。もしかすると誰かへのメールに書いたのかもしれない。なので、この話知ってる、と思う人もいるかもしれないが、そこは軽く流して下さい(笑)
信じられないかもしれないが(は?)、僕は全く音楽とは縁のない子供だった。あまり興味もなかったし(5歳くらいの時、母がピアノ習ってみるか?と訊ねたら、即座にイヤだ、と言ったらしい。勿体ない...)、小学校の頃は音楽の授業が苦痛だった。まず、つまづいたのはハーモニカである。何故、あんなややこしくて、高度な演奏技術を要する楽器を、小学校に入りたての子供にやらせるのだろう。ハーモニカが吹けなくて音楽自体が大嫌いになってしまった不幸な子供は、大勢いるのではないか。僕もそうだ。吸ったり吐いたりしながら吹く、というのがどうしても出来なかった。ドレミファソラシドすら吹けなかったのだ。もちろん、曲を演奏するなんてとんでもない。授業中にハーモニカの演奏テストがあったが、全く吹けない僕は、何度も追試を受けた。出来るまで帰さないと先生に言われ、誰もいない教室で先生とマンツーマンで、泣きながらハーモニカを吹き続けた事もある。毎日練習しろと言われ、家族の嘲笑と罵声に耐えながら家でも一所懸命ハーモニカを吹いた。でも、少しも上達しなかった。僕には向いてないと心底思った。その頃は、ほんと音楽が大嫌いだった。ハーモニカのテストがある日は、マジで学校に火をつけたいと思ったものだ。
断っておくが、僕の両親は音楽に理解がなかった訳ではない。前述したが、母は音楽好きで、子供にピアノやバイオリンを習わせたいという夢を持っていたようだ。今でも後悔してるが、僕はピアノを習う事を拒否したけど、妹はすんなりピアノを習って、家でよく練習していた。帰宅すると、母が何やらレコードを聴いていた事もある。常に音楽が溢れていた家庭とまではいかないが、音楽と無縁の家庭だった訳でもなかった。
ま、話を戻すと、そんな音楽嫌いの僕に少しづつ変化が現れたのが、小学校高学年の頃だ。それまで、学校の音楽の授業の「鑑賞」の時間に聴かされる物を一度もいいと思った事のない僕が、初めて「これいいな」と感じたのが、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』だった。馴染みのあるメロディが多かったので、聴きやすかったのだろう。また、丁度その頃テレビの歌番組の影響か、歌謡曲にも興味を持ち始めた。きっかけは沢田研二、麻丘めぐみ、南沙織といった歌手たち。そして映画に興味を持ち始めて、その音楽にも惹かれるようになった。徐々に音楽に接近していったのだ。正に10代初めの頃であった。
音楽に興味を持ち始めると、色々な物を聴いてみたくなる。で、家にあったLPレコードを物色してみた。今思うと色々なのがあった。クラシックが多かったけど(通販によくある「母と子のクラシック全集」の類とか)、それ以外にも、プレスリー、ビル・ヘイリーなどのロックンロール、ベニー・グッドマン、グレン・ミラーなどのスイングジャズ、なんてのがあった。それらを端から聴いてみて気に入ったのが、グレン・ミラーとビル・ヘイリーだったのである。あの頃、学校から帰ると毎日のようにグレン・ミラーのLPに針を落としていた。その頃から「イン・ザ・ムード」とか「真珠の首飾り」とか「ムーンライト・セレナーデ」とかを知ってたというヘンなガキだったのである(笑)
あとで聞いてみると、家にあったレコードのほとんどは母が買った物だった。特にスイングジャズが好きだったらしい。プレスリーは父が買ったものだそうで、おおっうちの親父は若い頃プレスリーが好きだったのか!と妙に感動したのだが、よくよく聞いてみたら、「みんなが聴いてるので買ってみた」とのことだったので、ちょっとがっくりした(笑) なんでも、買ってみたはいいけど、さっぱり分からなくて、それっきり聴かなかったらしい。ちなみに、母はプレスリーは嫌いだった(笑)
ただ、そろそろ中学に入ろうという頃になると、家にあるレコードだけでは満足出来なくなっていた。映画音楽にハマっていた、というのもあるが、巷で大人気のビートルズやカーペンターズが家にはなかったからだ。そういうのも聴いてみたい年頃になっていたのだね(笑) という訳で、中学入学と同時に買って貰ったラジカセを携え、僕は独自の音楽路線を歩み始めるのであった。そしてそれは、ハードロックが大嫌いな母との闘いの日々の幕開けでもあったのである(爆)
ここで再び断っておくけど、僕の両親は別に演歌ファンではなかった。父は流行歌が好きな人で、歌番組をよく見てたけど、若い女性歌手の曲にも反応してたし、グループサウンズも好んでいた。母は歌謡曲は好きではなかったようだが、時々好きな曲はあったらしい。こういった点においては、割と両親と趣味のずれを感じる事はなかったけど、決定的に違う事があった。それは、二人ともロックは好きでなかった、という事だ。
忘れもしない、小学校の5年頃だったかな(しっかり忘れてるじゃん)、いつものようにテレビの歌番組を両親と見ていると、PYGというバンドが登場した。ご存知の人も多いだろう。元タイガースの沢田研二、井上堯之、大野克夫と元テンプターズのショーケンらが結成したバンドだ。今思うと、サイケなハードロックだったような気がするのだが、初めてPYGを見てその音を聴いた時、心底カッコいいと僕は思った。所が、両親の反応は正反対だったのである。「うるさい」「叫んでるだけじゃないの」「音楽じゃねぇ」ともう大顰蹙。あげくには、「もう聴いてられない」と曲の途中なのにチャンネルを変えられてしまった(笑) 両親との間に壁を感じた一瞬だった(爆)
と、またしても話が違う方向へ流れていっているが(爆)、一応まとめてみると(笑)、両親(特に母)は音楽に親しんでいたので、趣味の違いはあれど、子供が音楽好きになるのは自然な流れだったと思う。学校の音楽の授業さえなければ...母は後年、勉強もせずに毎日音楽を聴き、ギターの練習に精を出す息子に「あんたがこんなに音楽好きになるとは思わなかったよ」とのたまった。そりゃそうだろうね。泣きながら下手なハーモニカを練習するのを見ていれば、音楽に夢中になる日が来るなんて想像できんだろう。
という訳で、僕未だにハーモニカが吹けない。つーか、小学校以来触ってすらいない。でも、世の中にハーモニカ以外の楽器があって、本当に良かった。でなきゃ、今でも音楽嫌いのままだったろう。
と脱線続きだったけど結論:子供の頃の音楽環境については、恵まれていたほうだと思う。ハーモニカだけが唯一の汚点だけど(爆)