もう既に10日以上が経過してしまったが、去る2月11日、プロ野球の野村克也氏が亡くなった。享年84歳。死因は虚血性心不全とのことで、図らずも3年前に亡くなった沙知代夫人と同じだそうな。何というか、沙知代夫人を亡くしてからのノムさんは、見るからに気落ちして元気がなくなって、老け込んでしまった印象があったので、死因が同じと聞いて、さすがおしどり夫婦だな、となんとなく感じた。謹んでご冥福をお祈り致します。
以前に書いたり発言したりした事があると思うが、実は僕はノムさんを敬愛していた。もちろん、現役の頃は名前くらいしか知らなかった。僕が割と熱心にプロ野球を見始めたのは高校生の頃で、その時期“生涯一捕手”を掲げたノムさんは、西武ライオンズで現役を終えて、評論家として活動し始めていた。“野村スコープ”に代表される独特の野球理論を駆使しての評論やテレビ解説は、当時としては非常に斬新且つ論理的、実に的を得たもので、僕はすっかり魅せられてしまったのだ。スポーツ自体は下手だけど嫌いではなく、プレーはしないけど見るのは好きだった僕からすると、当時のスポーツ界というのは、根性とか気合とかが重要視されていて、ひたすら体力勝負で、上下関係もやかましい、という、とても馴染める世界ではなく、結果、10代の頃は観戦も含めてスポーツから遠ざかっていた。球が来たから打つ、調子が悪ければ走り込み、毎晩高級クラブで豪遊出来るようにならなければ一流とは言えない、という、僕がイメージする根性・気合・カネで成り立つプロ野球の印象を変えたのが、ノムさんだったのである。あ、それともう一人、江本孟紀も忘れちゃいかんな(笑)
という訳で、当時の僕はノムさんに心酔していたので、著書も結構買って読んだし、野球中継以外のスポーツ系番組にノムさんが出演する時も、かなり見てた。対戦成績に表れる“カモと苦手”に関する解説を聞いた時なんて、マジ目から鱗だった。ま、“落合博満はどうして松沼雅之を打てないのか”なんて命題を解き明かしてくれる訳だが、これが的確で分かりやすく且つ面白いときている。週刊誌としては面白いと思った事は一度もないけど、「野村克也の眼」という連載目当てで、週刊朝日を毎号買ってた時期もあった。こういう、自身の豊富な経験や知識に裏打ちされた独自の野球理論を持ち、弁もキャラも立つ、というタイプの解説者は、あの頃は少なくて、二言目には努力と根性、そして解説自体はありきたりか意味不明という人が大半だった。僕の知る限り、当時の理論派は、ノムさんと、中日・大洋・日ハムで監督を歴任した近藤貞雄氏くらいしかいなかったように思う。
80年代を野球解説者として活動したノムさんは、満を持して(笑)、1990年ヤクルトの監督に就任する。80年代半ばまでのヤクルトは、毎年ほぼ最下位というどん底のチームであったが、1987年に関根潤三氏が監督に就任してから、若返りと体質改善を進め、とても魅力的なチームに変貌を遂げた(あまり語られる事はないが、この関根潤三という人も、優れた監督だったと思う)。そんなヤクルトを解説者だったノムさんも評価していて、中継見てると、言葉の端々に「このチームの監督をオレにやらせてくれないかな」というのが感じられて、僕もなんとなく、ノムさんがヤクルトの監督になればいいのに、なんて思っていた。そしたら、本当に就任したもんで、野村理論を選手たちに注入して、ヤクルトを常勝チームにして欲しい、とマジで期待したもんです(笑)
ノムさんは、ヤクルトの監督を9シーズンつとめ、4回のリーグ優勝と3回の日本シリーズ制覇を成し遂げた。まさに、90年代はヤクルトの黄金期だった。面白いのは、3回日本一になってるけど、連覇はなく、日本一の翌シーズンはBクラスに沈んでいること。ヤクルトって、割とお調子者の集まり、という印象だったけど、ノムさんも例外ではなかったようだ(笑)
4回のリーグ優勝のうち、個人的に最も印象深いのが1992年のシーズンだ。ノムさん就任3年目、前年Aクラスと健闘した事もあり、今年は優勝との期待を背負ってスタートしたシーズンだったが、後半戦阪神・広島・巨人も絡んで4チームでの優勝争いとなり、毎日首位が変わり、終盤は各チームにマジック点灯したり消えたり、というスリリングな展開になった。ま、4強2弱状態だった訳だが、2弱の大洋と中日が、これまた後半になって力をつけてきたもんだから、上位4チームは大洋・中日相手に取りこぼすと、他チームに大きく離されてしまうという状況で、相手がどこでも負けられない訳で、見てる方は確かに面白かった。今にしてというか、当時も思ったけど、ヤクルトの戦いぶりは訳分からなくて、岡林がほとんど毎日投げてたり、優勝争いの終盤に9連敗したにもかかわらず、結局優勝してたり、とノムさんも正直どうしたらいいのか分からなかったのではなかろうか(笑)
ま、とにもかくにも、リーグ優勝したヤクルトは、日本シリーズで常勝軍団西武ライオンズと対戦する。偶然なのだが、先日NHK-BSで、1992年の日本シリーズを検証する、というドキュメンタリーを放送(野村克也追悼という事で、2016年に放送された番組の再放送)してて、ノムさんはじめ、当時西武の監督だった森祇晶氏や、元(当時)ヤクルトの広沢、飯田、元(当時)西武の石毛、石井といった人たちが出演して、当時のVTRを見ながら状況を語る、というもので、あの時シリーズを一喜一憂しながら見ていた者としては、非常に興味深い内容になっていた。
1992年の日本シリーズは、ヤクルトから見て○●●●○○●の3勝4敗で西武に敗れた訳だが、始まる前から、多分西武が勝つだろう、と予想してたので、特にショックはなかった。つーか、予想以上の健闘だったと言っていい。ヤクルト打線は、石井以外の西武投手陣を打ち込んでいたと思う。投手陣は西武打線に攻略されてたけど^^; ま、誰が見ても西武有利の中、7戦までもつれ込んだのだから、ほんと大健闘だ。この悔しさを胸に、翌シーズン、ヤクルトはセ・リーグを連覇し、2年連続で西武と日本シリーズで対戦し、前年の雪辱を果たして日本一になるのであった。
ヤクルトの黄金期を築いたノムさんは、1998年を最後にヤクルトを退団し、そのまま阪神の監督に就任する。結果は、3年連続最下位で退団。数年後、楽天の監督になるが、優勝出来ないまま退団。ヤクルトでの栄光を他チームで再び、という訳にはいかなかった。特に、阪神監督時代は黒歴史のようで、やらなきゃ良かった、と後年発言してたのを聞いた事がある。阪神なんて、さすがにヤクルトと同じようには出来なかったのだろう。ちなみに、阪神も楽天も、ノムさんが退団した後、星野仙一が引き継いで優勝させている。星野が凄いのか、下地を作ったノムさんが凄いのか?(笑)
という訳で、ひたすら野球人としての生涯を全うした人だった。監督をやってない時期も、テレビには出たけど、あくまで野球繋がりでの出演で、決して単なるタレントになってしまったのではない。僕がノムさんに心酔した理由は、そこにもある。
著書も多い。文才にも恵まれていた。失礼ながら、自分で書いてたのか聞き起こしだったのか、定かではないが、内容はもちろんのこと、名言も多かった。有名なのは「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というヤツだが、これは本人が著書の中で言っているが、とある政治家の発言らしく、ノムさんのオリジナルではないようだ。ただ、世間ではノムさんが言った、という事になっている(笑) 個人的に好きなのは「指導者の仕事は、見つける・育てる・生かす、である」
ノムさんの著書を読んだ事ない人は、この機会に是非読んでみて下さい。ただ、何でも野球に絡めてくるので、野球に興味ない人には、ちょっとキツいかも^^;
晩年、最愛の沙知代夫人をはじめ、かつての盟友やライバルたちが、次々と天に召されていくのを見て、かなり参っていたのだろうか、とも思う。前述したけど、特に沙知代夫人が亡くなってからは、目に見えて衰えたような感じがして、少々悲しかった。
そんなこんなで、長々と綴ってきたが、ノムさんのおかげで野球を面白く見る事が出来た。ノムさんがいなければ、ここまで野球を熱心に見る事はなかったであろう。まさに“師”である。
安らかにお眠り下さい。
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