松崎町宮代・・・行政区では松崎町第3区(光興寺)に組み入れられているが、江戸藩政期も光興寺村の一部だったのだろうか?
松崎町宮代
遠野八戸氏(遠野南部氏)が八戸から寛永4年遠野へ転封、昨今話題となった南部藩主南部利直から八戸直義(八戸弥六郎)に与えられた新領地遠野の知行地、知行高の目録(黒印状)・・・寛永4年(1627)3月19日によると・・・。
松崎関連だけをみますと・・・
駒木村・390石531合 松崎村・419石716合
興光村・112石865合 畑中村・95石387合
白岩村・57石56合 護摩堂村・86石263合
小平村(バイパス泉スタンド裏付近)・14石937合
ということで、宮代村という表示はない、しからば隣接の興光村か松崎村か、さらに護摩堂村というのもありますが、この3つの村のいずれかに含まれるものと思います。
以前、名梨さんからいただいた古名や小字名を調べ上げた資料をいただいておりますが、その中に松崎町に護摩堂という地名、宮代とあるのが気にかかっておりますが、護摩堂村とは宮代のことなのか?・・・。(護摩堂とは旧横田城廻りも考えられる。)
ところが、「三翁昔語」に収録の寛永11年、遠野八戸家諸士の知行地に・・
小笠原治左衛門・・板沢村、中太田、宮代村、畑中村、横田村に20石とあり、宮代村が存在していたことも示唆する内容ながら、おそらく先に示した村内の一集落といった地名で呼ばれていたものと考えられます。
まっ、古地名については、折をみて今後も調査研究、また南部氏時代の村の変革なども今後の課題ということで・・・・。
ちなみに宮代は明治時代初期には既に光興寺村内の地域であったことが資料でも伺えますが、八幡宮というお宮さんがあったから宮代なのかもしれません。
宮代橋
宮代ゴミ集積場
萱葺と木造のコントラスト、さらに屋根の天辺の草がなんともいえません。
確か、地元の方々と東洋大の学生さん達が萱の刈り取り等を行なったと記憶している。
宮代といえば東洋大学の学生さん達との交流が毎年行なわれておりますが、その中で、元八幡の例大祭に地元の方々と共にお祭りに協力する姿が毎年見られます。
すばらしいことだと私は考えてますが、それまで宮代の元八幡って機能しているのか、祭りがあったことすら気が付かないといいますか、知りませんでした。
なかなか良い試みといいますか、松崎でもかなり伝承やら今流行のグリーンツーリズムといいますか、都市間との交流が進んだ地域かと思います。
宮代の方々の苗字といえば・・・菊池姓も多いですが、糠森さん、昆野さん、小黒沢さん、阿部さん・・・が思い起こされます・・・。
さて・・・元八幡宮
元八幡は、現在の遠野八幡宮が白岩の八幡(踊鹿山)に移る前の八幡ということになります。
現在の地、白岩の八幡に遷されたのは、寛文3年(寛文元年、2年説有り)であるが、通説では遠野中世領主、阿曽沼氏時代の建保年間に阿曽沼氏の居城、横田城の鎮守として城の東北たる鬼門に勧請したといわれている。
白岩の地に遷ってからは、宮代の元八幡は荒れるにまかせていたが、明治になり復興、現在に至っている。
建保年間といいますと鎌倉時代、この時代の勧請ということには少し疑問も感じられ、遠野阿曽沼氏そのものの歴史等もかなり踏み込んで考察等をしなければならないことながら、祭りが盛大に伝えられ行なわれている現在、このことに水を差すつもりは毛頭ございません。
私としては郷土史の分野にて、この元八幡の歴史含み、徐々に明らかになっていけばと考えているところです。
元八幡界隈のストリート
9月末に例大祭が予定されておりますので、機会がありましたらお出かけください。
松崎町宮代
遠野八戸氏(遠野南部氏)が八戸から寛永4年遠野へ転封、昨今話題となった南部藩主南部利直から八戸直義(八戸弥六郎)に与えられた新領地遠野の知行地、知行高の目録(黒印状)・・・寛永4年(1627)3月19日によると・・・。
松崎関連だけをみますと・・・
駒木村・390石531合 松崎村・419石716合
興光村・112石865合 畑中村・95石387合
白岩村・57石56合 護摩堂村・86石263合
小平村(バイパス泉スタンド裏付近)・14石937合
ということで、宮代村という表示はない、しからば隣接の興光村か松崎村か、さらに護摩堂村というのもありますが、この3つの村のいずれかに含まれるものと思います。
以前、名梨さんからいただいた古名や小字名を調べ上げた資料をいただいておりますが、その中に松崎町に護摩堂という地名、宮代とあるのが気にかかっておりますが、護摩堂村とは宮代のことなのか?・・・。(護摩堂とは旧横田城廻りも考えられる。)
ところが、「三翁昔語」に収録の寛永11年、遠野八戸家諸士の知行地に・・
小笠原治左衛門・・板沢村、中太田、宮代村、畑中村、横田村に20石とあり、宮代村が存在していたことも示唆する内容ながら、おそらく先に示した村内の一集落といった地名で呼ばれていたものと考えられます。
まっ、古地名については、折をみて今後も調査研究、また南部氏時代の村の変革なども今後の課題ということで・・・・。
ちなみに宮代は明治時代初期には既に光興寺村内の地域であったことが資料でも伺えますが、八幡宮というお宮さんがあったから宮代なのかもしれません。
宮代橋
宮代ゴミ集積場
萱葺と木造のコントラスト、さらに屋根の天辺の草がなんともいえません。
確か、地元の方々と東洋大の学生さん達が萱の刈り取り等を行なったと記憶している。
宮代といえば東洋大学の学生さん達との交流が毎年行なわれておりますが、その中で、元八幡の例大祭に地元の方々と共にお祭りに協力する姿が毎年見られます。
すばらしいことだと私は考えてますが、それまで宮代の元八幡って機能しているのか、祭りがあったことすら気が付かないといいますか、知りませんでした。
なかなか良い試みといいますか、松崎でもかなり伝承やら今流行のグリーンツーリズムといいますか、都市間との交流が進んだ地域かと思います。
宮代の方々の苗字といえば・・・菊池姓も多いですが、糠森さん、昆野さん、小黒沢さん、阿部さん・・・が思い起こされます・・・。
さて・・・元八幡宮
元八幡は、現在の遠野八幡宮が白岩の八幡(踊鹿山)に移る前の八幡ということになります。
現在の地、白岩の八幡に遷されたのは、寛文3年(寛文元年、2年説有り)であるが、通説では遠野中世領主、阿曽沼氏時代の建保年間に阿曽沼氏の居城、横田城の鎮守として城の東北たる鬼門に勧請したといわれている。
白岩の地に遷ってからは、宮代の元八幡は荒れるにまかせていたが、明治になり復興、現在に至っている。
建保年間といいますと鎌倉時代、この時代の勧請ということには少し疑問も感じられ、遠野阿曽沼氏そのものの歴史等もかなり踏み込んで考察等をしなければならないことながら、祭りが盛大に伝えられ行なわれている現在、このことに水を差すつもりは毛頭ございません。
私としては郷土史の分野にて、この元八幡の歴史含み、徐々に明らかになっていけばと考えているところです。
元八幡界隈のストリート
9月末に例大祭が予定されておりますので、機会がありましたらお出かけください。