遠野孫次郎、遠野史では阿曽沼広郷(伝・中世遠野領主阿曽沼氏第13代)と長らく語られ、先人郷土史家含めほとんど何の疑問もなく同一人物として伝えられてきた。
無論、小生もその中のひとりで、遠野孫次郎とは阿曽沼広郷であると今も信じてやまない・・・。
今回も、平成初めに郷土史料の口語訳を依頼され、また博物館講座での講師を務めた某文学博士の先生による論説の中で、どうしても気になる部分があり、またネット等を通じ郷土史関連の意見、情報交換する方とのやりとりの中で、この論説に関することが再浮上という場面で、今一度考えてみようということで、自問自答に近い内容で記してみたいと思います。
さて、過去エントリーでも何度か取り上げた経緯がある「遠野保事」関連にて、遠野保ではなく遠野係事の読み間違い、さらに遠野は福島県いわき地方の遠野であること、阿曽沼氏(姓)発祥は福島県阿沼郡であること、阿曽沼と浅沼は同意義にあらず・・・これらは江戸時代の遠野南部家臣、宇夫方広隆による「遠野古事記」「遠野旧事記」さらに「阿曽沼興廃記」は伝聞等による記録に過ぎず、また思い込み等による史実の捏造といった具合にかなり手厳しい批判が繰り広げられている。
また、後の郷土史家達もなんの批判もなくこれら古書を第一の資料と捉えたために疑うこともなくただ時を費やしてきたかのような内容でもある。
まっ、これはこれとして、本題は遠野孫次郎についてですので、話を先に進めます。
○信長公記での遠野孫次郎
天正7年(1579)7月25日 奥州の遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上したという内容が「信長公記」巻12に記されている。
このことに関して、某先生は、この頃の遠野領主は阿曽沼広郷と伝えられており、信長公記或いは「信長記」(小瀬甫庵・江戸期著)をみた遠野古事記の著者が奥州の遠野孫次郎とあったので、天正年間、現岩手県遠野地方を治めていたのは阿曽沼広郷であるので、遠野孫次郎を広郷と妄想したものとしている。
確かに遠野孫次郎と資料的に出てくる古いものは遠野古事記、旧事記等の江戸中期に編纂された古書が主で他は皆無等しいものかもしれません。
某先生は遠野孫次郎を伊達政宗と結論付けしている。
解説によると、「陸奥国遠い野の孫次郎」という意味らしいですが、政宗の字は孫次郎ともいわれとか?藤次郎は知っているが。
織田信長は奥州の遠国の情勢等理解していなかったこともあり、単に伊達政宗に関しても遠国の人間として思っただけ・・・という雰囲気でもある。
これに対する反論・・・
・伊達政宗は永禄10年(1567年)米沢で生まれている。
なれば天正7年(1579)は12歳であるが、天正5年(1577)に元服しているので、少年とはいえ、一廉の武将として内外には認められたものかもしれません。
ただし、まだ伊達家当主ではないにしろ、また東北の片田舎の武家である伊達家だったとしても、信長公記登場の他の武家のように○○(国)の何々(地名、姓名)と記するのではないのか?遠い野の孫次郎とはいささか疑問も感じられる。
・伊達家は当時出羽の米沢が本拠地である。
巻11.天正6年8月5日 奥州津軽の南部宮内少輔・・・等他の記述にもあるとおり、相手方の在地や名については案外きっちり書かれている。
何故出羽米沢とは記せず奥州としたのだろう・・・。
下記をご覧いただこう・・・。
遠野孫次郎より2年前の天正5年(1577)に伊達家から信長に鷹が進上されている。贈主は伊達政宗の父、輝宗となりそうですが、ここでは奥州伊達とあり、出羽も奥州も信長というよりその記録を残した文筆係やら文官達には奥州も出羽もどっちでも良かったものかもしれない、或いは伊達家はあえて奥州の・・・と書状に書き記したものかもしれません。
しかし、一度伊達家として進上している事実を考えると、次も伊達家としてもよかったような・・・?
余談になりますが、何かで遠野孫次郎は伊達政宗のことだとみた記憶が・・・さらに遠い野は今の宮城県のある部分を指した言い方とか?
ということで、まだまだ精度の足りない考察といいますか、疑問点含めまして記してみましたが、何せ、遠野孫次郎は阿曽沼広郷だと信じてきましたので、いきなりをこれを覆すとか、また反対に、遠野孫次郎は広郷で間違いないを証明するには今の小生の手持資料や知識では到底太刀打ちできません。
また難解でもあります。
この内容等の説が出されて15年以上か?後の展開が分かりませんので、これ以上の調べはその展開、行方を御存知の方々からのお聞きしてから改めて望みたいと考えております。
何か御存知の方、ご意見、ご見解がありましたら、コメント下されば助かります。
なお、遠野孫次郎其の弐も近くエントリー予定です。
阿曽沼歴代公碑・・・松崎町光興寺
遠野孫次郎は阿曽沼広郷公ですよね、歴代の殿様方・・・汗
無論、小生もその中のひとりで、遠野孫次郎とは阿曽沼広郷であると今も信じてやまない・・・。
今回も、平成初めに郷土史料の口語訳を依頼され、また博物館講座での講師を務めた某文学博士の先生による論説の中で、どうしても気になる部分があり、またネット等を通じ郷土史関連の意見、情報交換する方とのやりとりの中で、この論説に関することが再浮上という場面で、今一度考えてみようということで、自問自答に近い内容で記してみたいと思います。
さて、過去エントリーでも何度か取り上げた経緯がある「遠野保事」関連にて、遠野保ではなく遠野係事の読み間違い、さらに遠野は福島県いわき地方の遠野であること、阿曽沼氏(姓)発祥は福島県阿沼郡であること、阿曽沼と浅沼は同意義にあらず・・・これらは江戸時代の遠野南部家臣、宇夫方広隆による「遠野古事記」「遠野旧事記」さらに「阿曽沼興廃記」は伝聞等による記録に過ぎず、また思い込み等による史実の捏造といった具合にかなり手厳しい批判が繰り広げられている。
また、後の郷土史家達もなんの批判もなくこれら古書を第一の資料と捉えたために疑うこともなくただ時を費やしてきたかのような内容でもある。
まっ、これはこれとして、本題は遠野孫次郎についてですので、話を先に進めます。
○信長公記での遠野孫次郎
天正7年(1579)7月25日 奥州の遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上したという内容が「信長公記」巻12に記されている。
このことに関して、某先生は、この頃の遠野領主は阿曽沼広郷と伝えられており、信長公記或いは「信長記」(小瀬甫庵・江戸期著)をみた遠野古事記の著者が奥州の遠野孫次郎とあったので、天正年間、現岩手県遠野地方を治めていたのは阿曽沼広郷であるので、遠野孫次郎を広郷と妄想したものとしている。
確かに遠野孫次郎と資料的に出てくる古いものは遠野古事記、旧事記等の江戸中期に編纂された古書が主で他は皆無等しいものかもしれません。
某先生は遠野孫次郎を伊達政宗と結論付けしている。
解説によると、「陸奥国遠い野の孫次郎」という意味らしいですが、政宗の字は孫次郎ともいわれとか?藤次郎は知っているが。
織田信長は奥州の遠国の情勢等理解していなかったこともあり、単に伊達政宗に関しても遠国の人間として思っただけ・・・という雰囲気でもある。
これに対する反論・・・
・伊達政宗は永禄10年(1567年)米沢で生まれている。
なれば天正7年(1579)は12歳であるが、天正5年(1577)に元服しているので、少年とはいえ、一廉の武将として内外には認められたものかもしれません。
ただし、まだ伊達家当主ではないにしろ、また東北の片田舎の武家である伊達家だったとしても、信長公記登場の他の武家のように○○(国)の何々(地名、姓名)と記するのではないのか?遠い野の孫次郎とはいささか疑問も感じられる。
・伊達家は当時出羽の米沢が本拠地である。
巻11.天正6年8月5日 奥州津軽の南部宮内少輔・・・等他の記述にもあるとおり、相手方の在地や名については案外きっちり書かれている。
何故出羽米沢とは記せず奥州としたのだろう・・・。
下記をご覧いただこう・・・。
遠野孫次郎より2年前の天正5年(1577)に伊達家から信長に鷹が進上されている。贈主は伊達政宗の父、輝宗となりそうですが、ここでは奥州伊達とあり、出羽も奥州も信長というよりその記録を残した文筆係やら文官達には奥州も出羽もどっちでも良かったものかもしれない、或いは伊達家はあえて奥州の・・・と書状に書き記したものかもしれません。
しかし、一度伊達家として進上している事実を考えると、次も伊達家としてもよかったような・・・?
余談になりますが、何かで遠野孫次郎は伊達政宗のことだとみた記憶が・・・さらに遠い野は今の宮城県のある部分を指した言い方とか?
ということで、まだまだ精度の足りない考察といいますか、疑問点含めまして記してみましたが、何せ、遠野孫次郎は阿曽沼広郷だと信じてきましたので、いきなりをこれを覆すとか、また反対に、遠野孫次郎は広郷で間違いないを証明するには今の小生の手持資料や知識では到底太刀打ちできません。
また難解でもあります。
この内容等の説が出されて15年以上か?後の展開が分かりませんので、これ以上の調べはその展開、行方を御存知の方々からのお聞きしてから改めて望みたいと考えております。
何か御存知の方、ご意見、ご見解がありましたら、コメント下されば助かります。
なお、遠野孫次郎其の弐も近くエントリー予定です。
阿曽沼歴代公碑・・・松崎町光興寺
遠野孫次郎は阿曽沼広郷公ですよね、歴代の殿様方・・・汗