「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

郷土芸能と小生・・・

2009-11-27 18:51:29 | その他

遠野郷しし踊・元祖角助駒木踊 

 

 

2009.11.3 駒木鹿子踊保存会結成50周年より

福泉寺五重塔

 

 小生は、地域では駒木鹿子踊りに、ほとんど携わってなくて、たまたま子供達が中学生になって踊りに参加するようになって関わっているに過ぎない。

 ですから、踊りの内容等もほとんどわからないが現状で、ただの付添人でもある。

 しかし、何を隠そう・・・笑・・・実は保育園の年長の頃から小学6年生まで、ふくべとして踊っていたのですよ・・・汗

 でも、踊りもほとんど忘れ、今は踊れない・・・。

 このことを知っている方々は少ないと思いますが、別に嫌いでもなければ好きでもない、そんなどうでも良い位置付けの鹿子踊りでした。

 

 小生には学年で二つ下の弟がおります。

 弟は小生と同じ頃に鹿子踊りを始めたので、少年時代に関してはキャリアは少しだけ小生より長い、弟が小学校に入る頃、親父に「しし頭被りたい」とねだったことがあった。

 親父は即反応して、大喜びで子供用のしし頭を作らせ、翌年から弟は、しし頭デビューとなった。

 今でこそ、子供ししはそれほど珍しくないですが、それでもカメラマンや観光客の人気の的、当時は珍しかったので、一気に話題となり、弟の周りは人だかりだったと記憶しております。

 兄としては、こんな悔しいことはない、本音は自分も親父に頼んで、しし頭被りたいと言いたかった・・・。

 しかし、弟がもてはやされ、口に出すこともできず仕舞い、小生はふくべの子供達のその他大勢の一人と化していた。

 親父も鼻高々で、地域でも弟は親父の芸能のDNAを受け継ぐ逸材と認知していたようだ・・・。

 比べられる兄の小生は、たまったものではない、それでもなんとか小学6年生まで駒木鹿子踊りに加わってお祭り等には参加しておりました。

 弟も小学3年生か4年生になると、身体も大きくなって、子供用のしし頭を被ることができず、また新規に作成も少しお金がかかるので、親父も我慢して、ふくべをさせていた。

 小生も弟も中学へ進むと、鹿子踊りから遠ざかり、その後は踊ることはなかったのですが、社会人となった弟は、駒木鹿子踊りに加わって、再び踊りはじめる。

 地域の知り合い等が家にくれば、「弟は踊りが昔から好きだったもんな、兄貴のおまえはやらないのか」と時折聞かれた。

 親父は決まって「親方(兄)の方は、しし踊り、まんてダメで(まるでダメ)おんず(弟)とは違う」といつも言っていた・・・この言葉を聞くと、無性に腹がたったことを思い出す。

 以来、鹿子踊りなんて、絶対関わらないぞと思ったものでした。

 

 

 弟は成人になるや、付き合っていた彼女と結婚して婿養子となって地元から離れるも、駒木鹿子踊りを続けておりました、しかし数年後には地元の早池峰しし踊・上柳しし踊りに加わり現在もしし頭として踊っている。

 

 郷土芸能は、からっきしダメと小生に烙印を押した親父ですが、親父は若い時から駒木鹿子踊りの太夫(太鼓)をしていた。

 自慢するものではないが、稀にみる天才太夫といわれ、常に駒木鹿子踊りでの太夫では中心的な役割を長年担っていたらしい。

 現在の保存会の師匠格の方々からは現役時代の親父の話は、ほとんど出ないが、40代50代で引退した踊り手のOB達からは、あれほど踊りやすい太鼓はなかったとよく言われる。

 踊りが太鼓に合せるのではなく、太鼓が踊りに合わせる、これができる数少ない太夫であったこと、そして喉が自慢の親父で、澄みきった高音が持味で歌詞もよく通った声でもあった。

 そんな親父も、57歳の頃ですかね、小生が結婚する辺りに、遠野郷八幡宮例大祭を一週間後に控えた練習の夜、突然と早く帰宅して「鹿子踊り引退」と宣言した。

 仲間内で何かあったとは察しがついたが、詳しい内容は今もわからない。

 時間を空けず、当時の保存会長が家に来て説得を試みるも親父は頑として受け付けなかった。

 会長さんは毎日、我家に通って親父を説得していた。

 また仲間の方々も変わるがわる来ては、なだめるように説得したが、遂に親父は鹿子踊りの太鼓を叩くことはなかった。

 でも根っからの鹿子踊り好き、若い時に歌詞の本を書き残す程、この分野には心血を注いだはず、祭り当日には半纏を着て出かけて行きましたが、太鼓は最後まで持って行きませんでした。

 

親父が残した駒木鹿子踊りの教本

 

 

 

 

 翌年には完全に駒木鹿子踊から引退、地域の同年代で鹿子踊も神楽も若い頃に共にやった人達と駒木神楽の復活を目指すことに己の道を据えたようでもありました。

 親父は鹿子踊りの太夫と並行して若い頃は神楽の太夫もしていた。

 駒木神楽が昭和40年代前半で一時活動休止してから20年余り、初代会長に推されて復活となった。

 36の演目があるという駒木神楽、親父は21の演目を即叩けたらしい・・・ここでも天才的な太夫と言われていた。

 当時、よく我家に出入りしていた新張だったか八幡に住むという親父と同年代で酒好きのオヤジさんがいた。

 親父とはウマが合うらしく、よく家に来ては大五郎を昼から飲んでいた。

 名前は忘れてしまったが、親父が絶賛する笛の名手らしい・・・神楽の笛を吹かせたら天下逸品と酔ってるとはいえ互いに誉め称え合っていた・・・笑

 一時期、助っ人として駒木神楽の笛を吹いていた。

 以前は、やはり土淵の柏崎から笛の名人をお願いしていたのですが、この方が体調を崩されて、その代役にお願いした人らしい・・・どうしても思い出せない・・・笑

 

 結局、駒木神楽も太夫は親父ひとりであった為、親父が亡くなると、そのまま休止、そして途絶える運命となってしまった。

 後継者を育てなかった親父というイメージがある。

 無論、子である小生さえしっかりしていれば・・・との声も確かにあった・・・汗

 親父への反発もあった、郷土芸能は好きでも嫌いでもなかったが、弟と比べられた他に、この分野で期待もされなかったので、途絶えるとかそんなことも考えたこともなかった、今となっては難しい内容だと痛感しているところです。

 

 

コメント (8)
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