「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

大梵天館跡・川井村小国

2009-11-25 18:00:45 | 歴史・民俗

 いつもよりは暖かい朝を迎えましたが、未明には雨が降った模様・・・。

 午前中も早くから曇り空が一転、青空に変わり小春日和な雰囲気でしたので、以前からいつかは探訪したいと考えていた下閉伊郡川井村の小国館跡(大梵天館)を探訪して参りました。

 国道340号線立丸峠は積雪となると、やっかいな峠道と化し、春先でも凍結路となったりとかなり怖い峠道でもありますので、本格的な雪のシーズン前でなければ安心して小国にも行けないと考えておりました。

 本日はいいお天気で気温も高め・・・一応、絶好の館跡探訪日和でもありました。

 

 しかし・・・・流石、天下の難所、立丸峠

 

川井村側

 

 さほどの積雪ではないですし、道路も融けているのですが、それでも川井村側は一部シャーベット状の圧雪箇所もあったりと、なかなか気を抜けない場面も・・・・。

 

 それと、恩徳の心霊スポットの空家は、解体されて古材が積まれているだけとなっておりました。

 

 

 ということで、小国館、別名・大梵天館

下閉伊郡川井村小国

 

 

帯郭(西側)

 

山頂平場・・・本丸

 

堀切跡

 

 標高が約400m・比高約100m

 南北に長い館跡で、北側尾根に砦風の小さな郭、本丸までの尾根にふたつの堀切を配し、本丸下の西斜面には5段程度の帯郭、南部分の尾根の山頂には見張場的な二の郭があり、本丸と二の郭との間は、大きめの堀切で区切られている。

 

 砦的な小規模な城館跡という内容を見聞していたが、遠野の館跡の標準クラス並みの規模で、帯郭的な平場は広めで、しっかりと斜面が切岸されて完成度といいますか、残存度はかなり良好でした。

 また二の郭とを隔てる堀切は深さ、幅とも十分で遠野地方であれば大型に属する造りで、少し驚いております。

 東、西斜面は断崖といっても良いくらい急な斜面で、北側の尾根は幅1メートルにも満たない小道風で、立ちくらみでも起して、「くらっと」とでもなれば断崖を転げ落ちそうな恐怖がありました。

 もちろん、つまずいたとか、足を滑らしたとかでも同様ですがね・・・汗

 ですから北側方面は、ほどほどの探訪にして本丸跡へ・・・こちらは東西25m程、南北約80m程の比較的広い平場となっておりました。

 

 2008年に麓と本丸に説明板が設置されたようで、簡単な縄張図と館の歴史が記述されております。

 またその際に、かつての大手口に通じる小道が少し拡張され、遊歩道として整備されたようで、本丸への道があります。

 ただ、かつての道を表しただけの小道で、遊歩道とはいえる内容ではありません・・・笑

 でも麓のお寺さん裏の斜面を直登するよりは、遥かに楽です・・・笑

 

本丸北側の尾根にある秋葉、愛宕権現の石碑

 

 館を築いたのは武田彦十郎忠直といわれる。

 当初は小国川を挟んだ向かいの末角集落後方の末角館に居たと伝承されている。

 武田氏の出目に関しては不明であるが、閉伊郡は閉伊氏が広く浸透していた地域で、その中でも惣領は宮古地方にいた田鎖氏とされている。

 武田氏は閉伊氏の影響下であったかは、こちらも不明ですが、小国館は文亀2年(1502)に築館されたと伝聞されている。

 その後、小国館の武田氏は、同地域の江繋氏の攻撃で館は陥落、武田氏は滅んだともいわれますが、麓の説明板には、三戸南部第22代、南部政康の家臣であったと記載されている。

 遠野へ通じる街道沿い交通、軍事の要衝との位置付けで、極めて重要な地域の要であったともいわれますが、当時の遠野は阿曽沼氏の治世、険阻な北上山地で遠野と小国は阻まれていたとはいえ、歴史的な伝えは遠野と閉伊地方との攻防等は語られていない。

 遠野では気仙郡や江刺郡との争いは度々あったと伝えられのに対して、この方面は平穏であったこと、これも少し不思議な思いでもある。

 武田氏第3代、武田彦右衛門重直の時に豊臣秀吉の天下となり武田氏は下北半島の田名部へ移封したといわれる。

 小国館すなわち大梵天館は廃城となったと伝えられる。

 なお、説明板には、武田一族が建てた石碑があったと伝えられるも、南部氏の命で土中に埋められたと伝えられ、その後、地域で何度も発掘を試みたが未だ発見に至らずとしている。

 武田氏の家臣の一部は岩泉小本に流浪した人々もいて、後に中里姓となったともいわれ、さらに武田姓が多い地域ともいわれる。

 

 大梵天館跡は別家ブログ「遠野郷中世城館録」で詳しく掲載予定です。

 

 

 鶏頭山大円寺(曹洞宗)

 

 開基は応永元年(1394)江刺郡黒石の正法寺二世月泉良印の開基と伝えられる古刹とされる。

 その後、無住寺となり荒廃したが初代武田彦十郎忠直によって再興と伝えられる。

 

 

古い狛犬

 

対の狛犬、よくみると、どちらも顔だけ欠損といいますか、無くなっている?

地震とかで落ちたとか?

歴史的何かではないですよね・・・?

 

 

かつてのメインストリート

 

歌声喫茶?

 

 遠野と川井村小国地区は、人々の往来が結構あって、遠野の土淵辺りでは小国から嫁いで来たという方々も案外多いようにも思えますし、土淵ばかりではなく松崎や遠野の街中でも結構いるのではないでしょうか。

 今や遠野を代表する郷土芸能で、遠野まつり等では、カメラ親父達が群がる大人気の土淵町「山口さんさ」は、大正時代に小国村尻石から山口の厚楽家に婿養子と入った尻石磯吉が生家の兄嫁を連れて来て、さんさを伝えたといわれる。

 

山口さんさ・・・遠野まつりより(2009.9.19)

 

 小国の尻石とくれば、我菩提寺、福泉寺の先代住職、宥燃和尚と現住職正全和尚は小国の尻石地区のご出身である。

 尻石姓でもありますし、何を隠そう・・・我祖父は小国関根の中野家が実家で、祖母に婿として入った人でもあります。

 なんの因果かわかりませんが、従妹が祖父の生家に嫁いでいるというおまけ付きで、完全なる親戚状態が継続中でもあります・・・笑

 

 車社会となる以前、昭和30年代までは、鉄道の沿線以外、人々の移動手段は徒歩で、小国の祖父の実家へ行く際は早朝に自宅を出発して、到着はお昼もだいぶ過ぎてのことだと聞いたことがあります。

 昭和の初め頃まで、駒木妻の神奥の大沢不動宵宮では遠く小国からも峠道をいくつも越えて参拝した人達もあったといわれ、祖父、祖母もこの妻の神から土淵西内へ出るルートで立丸峠を越えて小国へ行った時代もあったそうです。

 

 現代でも、婚姻等で交流がみられる小国地区、青年層の各種団体なんかも、わざわざ夜の遠野へ来て飲会をする方々もいたり、スーパーに買物に来たりする人々も沢山おられるようです。

 難所である立丸峠にトンネルを・・・・早期実現してほしいところでもありますね・・・。

 

小国川対岸の地域

コメント (21)
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