探訪による画像は11月27日のものです。
奥友館全景(小友町)
今回で2回目の探訪、やはり前回探訪での画像を縮小してしまい原画像が無いということで、画像取材含めて探訪いたしました。
前回と同じく保育園の南側斜面から進入、前回より笹竹が生い茂り、細かな木々も増え、僅か30メートル足らずの斜面であるが登り難い場面も・・・
及川館跡
斜面を登り切ると3段程度の平場の一番広い場所に行きつく。
奥友館跡の麓部分は、かつて遠野南部家臣の及川氏の屋敷があった場所と言われている。
保育園、小中学校の南側部分の山麓一帯がその敷地であったそうですが、学校等公共施設建設の際に平場は削られ、法面となったとか。
僅かに屋敷跡の名残として、稲荷社が鎮座する画像付近が残されるのみといわれている。
葛西氏遺臣の及川善右衛門恒吉が遠野に流浪し、後に八戸弥六郎直義(遠野南部家)に仕えたのがはじまりといわれる。
小友の金山開発に関係した一族とも考察されている。
さて、前回の探訪では、及川館跡の平場から上部の山野目指して斜面を直登して、もの凄く辛い思いをしただけに、本音はできれば来たくなかった・・・汗
しかし、画像取材も上郷の板沢館と青笹町の丑館(臼館)、そしてこの奥友館を残すのみでしたので、まずは辛いと思われるところから早目に片付けようということで、意を決して再訪したわけです。
ところが、現地でよくよく斜面を見渡すと、細い道風の跡が斜面にビッシリ張り付いた階段状の平場を結ぶようにジクザグに付いているようにみえる。
この跡を辿って登ってみることに・・・・これが案外楽で、あっという間に山頂近く南東側の帯郭に行きついたのでした。
そしてその場所には、きちんと一段上の館内では一番広い平場への道跡がさらに残されている。
おそらくこの部分が大手口だろうと思われる。
その平場に行きつけば、この館跡は攻め落としたも同じこと、館跡探訪のコツばかりではなく、身体も山登りに慣れたのか、今回は汗こそ搔きましたが、楽勝といっても過言ではありませんでした・・・。
二の郭(館跡内では一番広い平場)
二の郭北側の土塁
東側斜面の平場(帯郭)
奥友館跡は南北に長い館で、北側からの尾根を3本の堀切で山野を断ち切り、主郭(本丸)は内側から1本目と2本目の堀切跡の間の平場であると思われる。
それぞれの郭には土塁が施され、東側は急な斜面であるが6段の平場が整然と配置されている。
西側は空堀二重が下り、下部付近には小さめの階段状の平場がみられる。
小友町内の館跡としては造りも吟味され、まさに山城としては当地方でも大型城館に属する館跡でもある。
最近、北側部分から西側斜面の木々が伐採され、奥部の尾根付近が禿山となって、遺構等が見やすくなっております。
主郭
北側尾根から堀切(館内)
外側の堀切跡
伐採された斜面
館主を本姓菊池氏の奥友喜左衛門(小友喜左衛門)と伝えられる。
館主及び館の概要は別家ブログ「遠野郷中世城館録」で取り上げる予定です。
巌龍神社
鷹鳥屋川を挟む位置に鎮座する
かつての宿場町の色合いを残す通り
宿場町小友
応永24年(1417)創建と伝えられる巌龍神社から小友川沿いに東に宿場町が形成されている。
小友地区は古くから金山地帯であり産金が盛んな地域でもあった。
戦国末期頃から江戸初期にかけてゴールドラッシュに沸いたとも語られ、この時に宿場町としての基礎が作られたとも考察されている。
また気仙郡への交通の要所でもあり、残される町並をみると、かつての隆盛を彷彿させる雰囲気が十分に感じられる処でもあります。
おまけ
小友町方面の館跡や史跡めぐりでの昼食や休憩は・・・・
産直ともちゃん
中華そばセット
数年前までは、隠しメニューであった中華そば・・・知らないものですから、いつもは天ぷらそばセットをいただいておりました。
いつしか表に登場、あっさり系の美味しいラーメンでした。
セットに付く味噌おにぎりとの相性はgoo・・・・。
それと小友町の某工場で開発された「カッパン」
一人用のジンギスカン鍋セット
遠野らしいデザイン・・・