遠野では3度六角牛山が雪化粧すれば、里も本格的な降雪シーズンとなり冬の季節となるといわれている。
本日、自分では2度目の雪化粧と思うが、他人によっては3度目だという方もおりますが、どちらにしても暦では11月も半ばを過ぎ、いつ積雪があってもおかしくない季節でもあります。
17日の六角牛
早池峰山は厚い雲で確認できなかったが石上山も雪化粧、貞任高原の奥の方も白くなっているのが視認できました。
六角牛山をみると標高7~800メートル辺りから白くなっているようにみえますが、高清水、物見山は白くなっていなかったようです。
さて、職場の後輩と予てから同行を約していた館跡探訪を午前中行いました。
本来は上郷町の板沢館跡の予定でしたが、折角だから遠野でも大型城館で遺構も大きめで見応えのある館跡ということで上鱒沢の鱒沢館跡に急きょ変更して探訪いたしました。
西側の空堀跡
ちょっとサブ機で史跡めぐり専門のE-500の調子がイマイチ、暗かったせいもありますが、なかなかピントが定まらず、こんな調子の画像連発・・・汗
主郭(本丸跡)に祀られる館神様
今回で4度目の探訪、今までの画像データを小さくしてしまい、元画像がないということで画像取材も含めての今回の探訪、ここでもE500君はピンぽけ連発・・・汗
この後、脇差的なコンデジに切り替えて画像取材、コンデジの方が広角も狙えてピンボケもなし・・・汗・・・一眼デジE500は軽い方なので館跡探訪にはうってつけながらも、この分野専用のコンデジのちょっと大きいカメラも必要か?・・・なんてまた金のかかる考えが頭をもたげる・・・マイクロフォーサーズが欲しいなんて一言も言ってませんよ・・・大汗
ということで館神様の社に覆いが作られておりました。
2年前はなかったような?・・・。
東側の空堀跡
館跡は猿ヶ石川流域では随一といわれ館域面積1万平方メートル、遠野を代表する山城で大規模な土木工事が施され、館主一族の鱒沢氏の隆盛が偲ばれます。
館や鱒沢氏の歴史、事績等は分家ブログ「遠野郷中世城館録」(ブックマークにリンク)にて後日、掲載予定ですが、久し振りにその威容をみて、心躍る思いでもありました。
遠野阿曽沼氏分家鱒沢殿と呼ばれ、上下鱒沢、小友半分の1千石を領有、後に本家である横田城の阿曽沼氏を凌駕する勢いがあって、度々本家と争い事なとがあり、合戦に及ぶ場面もあったと伝承されております。
その名は遠野領域外にも知られ、葛西氏、大崎氏等の内紛等にも出兵を主家阿曽沼氏と共に催促される内容もあったとされております。
慶長5年(1600)の遠野騒動では主家の阿曽沼広長を気仙郡へ走らせる謀反の立役者で南部利直より遠野盟主と大封を得た鱒沢広勝(左馬助)が有名でもありますが、間もなく広勝は気仙平田の戦いで戦死、後を受けた鱒沢広恒、後の浅沼忠次郎(忠右衛門)は南部家の策謀で御家断絶の憂き目となった歴史でもあります。
忠次郎の愛妾おなべの方や忠次郎の嫡子、千代松の悲話等も残され、非業の一族でもあります。
八坂神社
館跡の南端部分、一部空堀が見られる箇所に八坂神社が祀られている。
社の由来等は調べてないので不明・・・。
牛頭天王
竜興山長泉寺(臨済宗)
天正2年(1574)、時の鱒沢館主の鱒沢広勝によって開基と伝えられる。
当初は高館(下鱒沢)に長泉寺は建てられたそうですが、現在の場所に寺院が移されたのは江戸中期頃とされている。
鱒沢館跡は長泉寺の裏山であり、鱒沢氏縁の場所に寺院が移され鱒沢歴代も心安らぐ思いではないでしょうか?
おまけ
館跡探訪、同行した後輩の反応はイマイチといった雰囲気でしたが、それでも大がかりな土木工事の跡をみて、数百年も前の昔、人力だけでこれだけのものを作り上げたこと、さらに単なる山にこのような遺構が残されていること自体、驚いておりました。
今回の同行のお礼としてお昼を御馳走という条件でしたので、鱒沢駅に移動して、某ラーメン店にて昼食といたしました。
濃厚しょうゆラーメン(じょう吉ラーメン)
なかなか美味いラーメンでした・・・ホント・・・癖になりそう・・・笑
濃厚ということ、こってり系ということですが、検診も終わったので少しこういったものも良いのではないのか・・・汗
ところで、いつも目にしながら来店することはなかったのですが、嫁さんにもし行ったら長渕 剛のポスター貼ってあるか見て来い・・・と指令されておりました。
なんでも店主は長渕ファンとか?・・・嫁さんは長渕ファンなので長渕に関係あるものは気になるようです・・・笑
今回、食べるのに夢中で確かめて来なかった・・・笑