岩崎城跡
岩手県北上市岩崎
模擬天守閣がありますが、城が機能していた時代にこのような姿の城が建っていたわけではありません。(天守閣を模した建物は岩崎公民館(公民館閉鎖))
☆実録、岩崎の陣・・・南部、伊達、直接対決
○奥州仕置
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めに参陣しなかった和賀氏惣領、和賀義忠は奥州仕置によって改易となった。
今の北上地方を主に、西和賀、現花巻の東和町をも含む広大な地域を領有する和賀一族は没落、また近隣地域でも現花巻市を治めていた稗貫氏、岩手県南から宮城県北に威勢を奮っていた葛西氏も没落し、現岩手県の北上川流域地域の勢力地図が塗り替えられた瞬間でもあった。
旧和賀、稗貫の各郡は浅野長政(豊臣秀吉の義兄弟)の管理下に置かれ、南部信直に新領地として与えられた。
同年8月、奥州仕置軍が上方へ帰陣となると、旧大崎、葛西領(宮城県北~岩手県南)で大崎、葛西旧臣による一揆が勃発する。
新領主の木村氏は窮地に陥り、後に没収・・・裏で伊達政宗の一揆扇動という内容も囁かれますが、この一揆は和賀、稗貫にも飛び火し、和賀旧領主、和賀義忠等、和賀、稗貫旧臣が蜂起して、二子城を奪還、花巻の鳥谷崎城も稗貫勢に攻められるも、南部信直が軍勢を率いて救援に赴いてなんとか稗貫勢を撃退するも、鳥谷崎城は後に稗貫勢に奪われ、和賀、稗貫は旧勢力が奪還という場面となった。
翌天正19年2月、九戸政実(二戸)が南部信直に対して一揆を企てると、南部勢は劣性となり、南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請、豊臣秀次(秀吉の甥)率いる中央の大軍が奥州に下って来たのである。
先の大崎、葛西一揆は会津の蒲生氏郷や米沢の伊達政宗が鎮圧、和賀、稗貫一揆は浅野長政等の中央軍が鎮圧、和賀義忠は二子城から逃れた後に非業の最期を遂げたともいわれ、ここに北上川流域の争乱は沈静化する。
また九戸の乱も中央軍によって鎮められ、豊臣時代が本格的に始まった時代でもあった。
※一揆という表現ですが、単なる農民等の蜂起とは異なり、かつては武士であった者たちが蜂起と内容で、まさに武装蜂起であり戦(いくさ)でもある。
さて、本題の岩崎の陣、岩崎の戦いは、またの機会に記したいと思います・・・汗
実はまだ詳細に把握した内容ではなく、また語れるほど勉強しているものでもないもので・・・・汗
陽が沈む光景ですが、また陽が昇る時がやってくるという意味合いで気長にお待ちください・・・笑
伊達といえば、伊達者といわれるように煌びやかで、何処かカッコいいというイメージがあると思います。
南部は、百姓一揆が多発し、飢饉に度々襲われ、貧しいというイメージが一般的かもしれません。
さらに人が良く、鈍くさいというイメージも少なからずあるかもしれません。
皆さんも何処かで聞いたことがあるかもしれませんが・・・・
伊達の殿様と南部の殿様が国境を決めるということで、お互い、日の出と共に城を出て、出会った所を境界にしようと・・・ということだったらしい。
伊達の殿様は午(馬)に乗ってとの条件を出したそうですが、南部の殿様は、午(馬)を牛に読み間違えしまって、牛にのって出発、お互いは今の北上市の相去というところで出会ったということで、此処を境と定めて、互いに相去ったという由来だともいわれます・・・笑
馬に乗った伊達の殿様は仙台から遠く離れた北上まで・・・一方、南部の殿様は盛岡から北上まで・・・・南部の人達は、伊達の人達のずる賢さに憤慨して、伊達者は油断するな・・・が教訓となったとのこと。
まっ・・・笑い話的な内容でもありますが、実際は伊達、南部の境は天正末期、上で記した大崎、葛西そして和賀、稗貫一揆の後、伊達政宗が和賀郡や遠野と境を接する旧葛西領を豊臣秀吉から拝領した時からはじまりますが江戸時代になると藩境争いが深刻となり、藩境塚が各地設けられたようでもあります。
かつては南奥州の覇者といわれた伊達氏、一方、南部氏は三日月が丸くなるまで南部領といわれるほど、広大な地域、北奥羽に君臨していたことが窺われ、南部氏の南下、伊達氏の中奥からの北進といったこともありますが、戦国時代に両者による直接的な戦い等は皆無でもあった。
豊臣秀吉が死去し、関ヶ原の戦いの余波による慶長6年、7年に遂に岩崎の戦いで両雄が鉾を交えることになる。
ということで、本日は嫁さんが奥州市水沢に用向きがあるということで、アッシー君となって行っておりました。
夕方近くまで、用向きは終わらないということで、小生は何処かの温泉にでも浸かって時間潰しを目論んでのことでもあります・・・汗
近辺では「さくらの湯」「薬師堂温泉」・・・と候補はありましたが、時間があるということで北上まで移動、かなり久しぶりの「逢坂温泉、宝珠の湯」に行って参りました。
ちょうど良い湯加減で、またまた表向きだけは、サッパリ・・・笑
夏油方面に来たということで、岩崎城が目に止り、写真を数枚、こういったところから岩崎の陣となった次第です。
城域はかなり広大といった雰囲気で、遠くからも斜面に階段状の平場が確認できましたが積雪が結構あって、探訪はもう少し先になりそうです。
そして昼は・・・・大汗
今年2度目の盛岡冷麺・・・。
ミニビビンバと共にいただく・・・。
やはり美味かった・・・笑