「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

北辺の城柵、志波城

2011-04-20 19:02:16 | 歴史・民俗

  寒の戻りが激しく降雪になるとの予報、19日の通勤時、国道396の小峠は雪が舞ってましたし、日中も寒い一日。

  明けて20日も冷え込んだ朝を迎え、雨が雪に変わったようです。

  県北や沿岸北部では20~30センチの積雪というところもあったとか、ここに来て桜前線も足踏みといったところですね。

 

 

 <北辺の城柵、志波城>

志波城跡・・・盛岡市太田

 延暦22年(803)造営といわれ、外郭は築地塀と大溝の二重で、それぞれ840m四方と930m四方の規模なようです。

 内部は中央から、やや南よりに150m四方の政庁が置かれ外郭とを結ぶ大路があったとされ、他に行政実務を執る官衙建物群や外郭沿いには兵舎とされる竪穴式住居群があったとのこと。

 

壕(堀)

 

築地塀と櫓

櫓と櫓の間隔は60mで当時の弓矢の射程距離を意識して配置されていたといわれる。

 

 

 大和朝廷による征夷、すなわち古代東北への侵略の拠点として造られたのが柵とよばれる城柵官衙である。

 対蝦夷(あまり好ましくない表現ですが)軍事、政治の拠点としての位置付けで、まずは日本海側が最初とされ、大化3年(647)越後の渟足柵(ぬたりさく)(新潟)が、そのはじめで後の和銅元年(709)に越後国に出羽郡が設けられ5年後に出羽国が誕生する。

 太平洋側、すなわち陸奥国は、ほぼ順に北へ進出し拠点の城柵を造営したことが伺われ、宝亀11年(780)、陸奥国に多賀城が造られ、奥州における中心的拠点の政庁となる。

 志波城に関しては、延暦7年(788)、征東大使、紀古佐美が5万4千余の大軍を率いて奥州に下向すると翌延暦8年、胆沢地方で阿弖流為に糾合された蝦夷軍に大敗を喫するが、延暦10年(791)さらなる征夷軍が送られ、10万の大軍と共に副使に坂上田村麻呂という陣容で、胆沢蝦夷の長、阿弖流為の軍と激突したのであった。

 そして延暦16年(797)、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が4万の兵を率いて奥州へ下向、延暦20年(801)には阿弖流為軍と鉾を交えたと推測され、その中にあって翌延暦21年(802)に多賀城から鎮守府の機能を移転させ阿弖流為達の拠点に大胆にも胆沢城を造営、ここに阿弖流為等の胆沢蝦夷達の抵抗は止み、阿弖流為、母禮を伴い上洛(阿弖流為、母禮は斬首)した後、再び陸奥へ下り延暦22年(803)志波城を造営、阿弖流為亡き後の不穏の蝦夷勢に対する最北端の城柵として機能することになる。

 しかし、陸奥国での最後の造営となった徳丹城(紫波郡矢巾町)が完成すると、北側を流れる雫石川の度重なる氾濫により、志波城は弘仁3年(812)に停廃(廃城)となり、その役目は徳丹城へ移ることになった。

 志波城は僅か10年でその役目を終えたことになる。

 

 

1,200年前も岩手山は同じ雄姿をみせていたものと思われますね。

 

 

 

あひるさん・・・白鳥さんか?

 

笑・・・

 

コメント (10)
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