調べものがあったので市立図書館へ・・・・がびょ~ん・・休館日。
そういえば月曜日は休館日、調べものは諦めて、久しぶりに鍋倉城にでも行くか・・ということで、三の丸へ・・・・。
天ヶ森方向・・・三の丸展望台から
朝、霧が晴れると天は青空、しかし私が出かけた時は、青空は消え、雲が空を覆いだしていた。
遠野駅前付近
下界の庶民の暮らしを覗き見る城主の気分・・・汗
三の丸跡に建つ、展望施設・・・ふるさと創生事業で建立とある。
駅前から図書館、博物館まで彫刻の像等があるが、竹下内閣時に各自治体に配当された一億円、あのお金で整備されたようですが、こちらの展望台もそのひとつか?
上階からの眺めは仮想天守からの殿様気分・・・遠野を紹介するアナウンスが流れるというスイッチを入れたが、何も応答なし・・・汗・・・表に出たところで遠野三山関連のアナウンスが流れ始めた・・・アナウンスがむなしく周囲に響き渡る。
ちなみに三の丸は遠野南部家時代は家老加判の中館氏、福田氏の屋敷があったそうです。
二の丸
かつては城代であり遠野南部家一族の新田氏の屋敷があったところ。
現在は遠野南部氏歴代公、奥方やご家族の菩提所となっている。
南部弥六郎公之墓
遠野歴代でも英傑とされた幕末の頃の遠野領主、盛岡藩大老を務め三閉伊大一揆や戊辰戦争での事後処理に尽力。(遠野第11代・南部済賢公(ただかた)・明治12年没)
墓碑には南部弥六郎のみでよいと遺言したと伝えられ、墓石には確かに南部弥六郎墓のみ刻まれている。
なお、遠野歴代公は盛岡遠野屋敷住まいで、鍋倉城に住んでいたわけではない。
婚姻やら特別な行事のみお国入り(遠野入り)が主であったらしい。
歴代公、そして歴代の奥方、姫様達の名も刻まれ、世が世であれば、私のようなものは土下座をして奥方様やお姫様方のご尊顔を拝することはできない、また遠くから指をくわえて見ているだけ・・・となり得たものと思います。
奥方様やお姫様は、どんな方々だったのだろう・・・とオヤジ心が少しだけときめく思いです・・・大汗
いずれ、この二の丸の墓所に来ますと、もっとしっかり遠野南部氏の歴史やら事績を調べなければと心も洗われる心境となるのです。
そういえば月曜日は休館日、調べものは諦めて、久しぶりに鍋倉城にでも行くか・・ということで、三の丸へ・・・・。
天ヶ森方向・・・三の丸展望台から
朝、霧が晴れると天は青空、しかし私が出かけた時は、青空は消え、雲が空を覆いだしていた。
遠野駅前付近
下界の庶民の暮らしを覗き見る城主の気分・・・汗
三の丸跡に建つ、展望施設・・・ふるさと創生事業で建立とある。
駅前から図書館、博物館まで彫刻の像等があるが、竹下内閣時に各自治体に配当された一億円、あのお金で整備されたようですが、こちらの展望台もそのひとつか?
上階からの眺めは仮想天守からの殿様気分・・・遠野を紹介するアナウンスが流れるというスイッチを入れたが、何も応答なし・・・汗・・・表に出たところで遠野三山関連のアナウンスが流れ始めた・・・アナウンスがむなしく周囲に響き渡る。
ちなみに三の丸は遠野南部家時代は家老加判の中館氏、福田氏の屋敷があったそうです。
二の丸
かつては城代であり遠野南部家一族の新田氏の屋敷があったところ。
現在は遠野南部氏歴代公、奥方やご家族の菩提所となっている。
南部弥六郎公之墓
遠野歴代でも英傑とされた幕末の頃の遠野領主、盛岡藩大老を務め三閉伊大一揆や戊辰戦争での事後処理に尽力。(遠野第11代・南部済賢公(ただかた)・明治12年没)
墓碑には南部弥六郎のみでよいと遺言したと伝えられ、墓石には確かに南部弥六郎墓のみ刻まれている。
なお、遠野歴代公は盛岡遠野屋敷住まいで、鍋倉城に住んでいたわけではない。
婚姻やら特別な行事のみお国入り(遠野入り)が主であったらしい。
歴代公、そして歴代の奥方、姫様達の名も刻まれ、世が世であれば、私のようなものは土下座をして奥方様やお姫様方のご尊顔を拝することはできない、また遠くから指をくわえて見ているだけ・・・となり得たものと思います。
奥方様やお姫様は、どんな方々だったのだろう・・・とオヤジ心が少しだけときめく思いです・・・大汗
いずれ、この二の丸の墓所に来ますと、もっとしっかり遠野南部氏の歴史やら事績を調べなければと心も洗われる心境となるのです。
そこっと後でお知らせに伺がおうと思ってましたが、知識不足で鍋倉の由来はわかりません。
昔は横田城であり、鍋倉山に城があったから後の時代に鍋倉城になったものと思います。
武家政治の様子
実は意外とテレビの時代劇のシーンを元に勝手に構築しているのが現実。
じゃあ、実体は?
というと意外と判っていないのですね。
山猫は本当の武家政治が見とうございます。(笑)
ふむふむ、チコウ寄れ・・・笑
私も経験したことがないので武士の生活はわかりませんが・・・笑・・・武士は割りと生活苦だったらしいですよ。
でも殿様ではまた違っていたと思います。何よりも御めかけさんを沢山持てたとのこと・・・不謹慎ながらうらやましい・・・大汗・・・ゲッソリ・・笑
見渡す限りが自分の支配地と考えれば気分も壮大になるもの。
平城の多い八戸周辺ではそういう気分は味わえません。
世が世であれば、私なんぞは鍋倉城の三の丸にすら立てない身分だったと思います。
母方が工藤氏の末裔ということで一応遠野士族の血脈は繋がっているとはいえ、それも親父方の縁ではないこと、今は良い時代だったことに感謝仕切りです。
カリスマ性がない自分、一時の幸せのみで城は乗っ取られたものと思います・・汗