「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

上じぇんご細越を行く

2007-07-14 14:25:30 | 遠野
 「遠野ブログ画像展」
 平成19年9月8日~24日  遠野ふるさと村肝煎の家土蔵
詳しくはこちら


 画像は7月12日のものです。

 前回エントリー、大峰鉱山を訪ねましたが、その後、上郷町の細越方面へ車を走らせました。


 青笹町沢田辺り・・・モグラの雨宿りか、ビッキ(蛙)の日傘か・・・?・・・笑



 何度か通りかかる度に気になる光景でしたが、遠野通いブロガーさん達なら、車を停めてデジカメにて「パシャリ」・・・かと思いますが、「おっと・・」と思わず気になるも、帰り道にでもとか、後でまた・・・なんて考えているうちに忘れてしまうんですよね、今回は、なんとか画像に収めました。


 今回のメインの場所・・・・

 トンノミ・・・詳しくは山猫さんがエントリーされてますのでこちらから

遠野物語拾遺36話
 上郷村字細越のあたりと思うが、トンノミという森の中に古池がある。故伊能先生は、鳥海と宛てるのだと言って、よくこの池の話をせられた。ここも昔から人の行くことを禁せられた場所で、ことに池の傍に行ってはならなかった。
 これを信ぜぬ者が森の中にはいって行ったところが、葦毛の駒にまたがり衣冠をつけた貴人が奥から現われて、その男はたちまち森の外に投げ出された。
 気がついて見れば、ずっと離れた田の中にうつぶせになっていたという。





 綺麗な湧き水、周囲は緑に覆われ、一種独特、というか神聖な雰囲気を醸し出しております。
 まさに貴人か白山姫神が水面にでも浮いて立っていそうな雰囲気でもあります。





 トンノミ・・・・鳥海(とりうみ)とも解説されますが、現在佐野山と呼ばれる山野は古くは鳥海山と呼ばれ、またかつては城館があった山とも口伝されている。
 
 「鳥海」とくれば安倍時代、安倍貞任の弟、安倍宗任は鳥海三郎と称し、宗任に縁ある柵、館は鳥海の名が付けられている。
 ここ、細越佐野の鳥海もそのひとつか?

 遠野の伝安倍時代の築といわれる館跡には沼や池という水に関わりある伝承が残されている。
 この伝承は「御前様」「沼の御前」「千手観音、荷渡観音、薬師観音」であり、遠野市内各地に残されている。
 そしてその山上には館跡と称する場所が語られているのです。
 ここ「トンノミ」もしかり・・・ですが、詳細は不明、要課題ということになります。



 余談ですが、嫁さんの同級生で綺麗な女性がおりましたが、旧姓を「鳥海」さんといいました。
 ここ佐野のご出身、トンノミの近所でもありますが、鳥海姓は一軒のみであったと記憶している。
 トンノミとの関わりは不明ですが、どこか気になります。



 和歌山ラーメン

 仙人道路が開通、旧国道の交通量はめっきり減りましたが、それでも新道開通直後よりは、旧道を利用される車も思ったよりあるようで、旧道沿いにある某ラーメン店、固定客といいますか、割と昼時間には食べに来られる方々もいるようです。



 曜日によって特典があるようですが・・・・ムーンとかマーズ、マーキュリー・・・とくれば・・・大汗



 こちらのアニメでしょう・・・・大汗

 娘達が小さい頃、レンタルビデオをよく借りさせられたり、私もイヤイヤ観ました・・・・結構はまりました・・・笑



 こってり味噌ラーメン

 暑い時期に汗を流しながら、しかもスープも熱くて、舌をヤケドしてしまった・・・まさに「月にかわってお仕置きよ」・・・・汗


 おまけ

紫陽花画像


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山の灯の跡(大峰鉱山)

2007-07-12 20:25:36 | 遠野
 梅雨空の一日、嫁さんが白樺の木が見たいと言い出したので、白樺樹液とかで少し話題にのぼる上郷町佐比内の大峰鉱山跡へ車を走らせる。


 おっとその前に・・・・・

 遠野ブログ画像展・・・来る9月8日~24日 遠野ふるさと村にて開催
 こちら

 遠野ぶれんど代表である「おやびん」からポスター5枚が届けられた、早速、福泉寺インフォメーション・・・笑(受付)の特等席に掲示させていただきました。
 他に宮守の「大清水温泉」、附馬牛開催ということ「附馬牛地区センター」にも掲示いただきました。
 残り2枚はまた後日の依頼となりそうです。




 まぬけ節のポスターが妙に大きくみえますが、画像展ポスターの掲示場所は特等席でやんす・・・笑







 ラサ工業株式会社大峰工業所が正式名称

 天正年間(1573~1592)といわれますが、上郷の森下付近を開拓した近江弥右衛門が金を発見、金山としての歴史が語られておりますが、昭和3年、ラサ工業の所有となり、戦後一時休山。
 
 昭和27年再開、ラサ工業の姉妹会社である東洋鉱山の所有となるも、昭和30年ラサ工業が東洋鉱山を吸収合併して再びラサ工業の所有となる。

 鉱石の主力は黄銅鉱で、キューバ鉱、班鋼鉱で金、銀を含有。
 黄銅鉱は豊富な埋蔵量を誇り、設備も当時最新で鉱内条件も良好、しかも鉱石品位も良好で同規模の銅山としては日本一とまでいわれた。

 昭和46年10月、山の灯は消える・・・閉山










 当時を偲ぶ建物等が僅かに残されているが、何が何の建物であったかは私にはわからない、小学校の頃の遠足に鉱山見学に来たことがあった。
 ヘルメットに電灯をつけ、作業服姿の多くの男性達が坑道に入っていく姿、逆に出てくる姿をみた記憶があります。

 また野球グランドか?私の通っていた小学校の校庭の何倍もあるグランドもみた記憶があるも、夏草に覆われ、その姿を確認することはできない。



 神社はどこにあるのかは確認できませんでしたが、鳥居の直ぐ上の建物か?・・・往時は夏祭りなんかもあったのだろうか?

 最盛期には従業員は5百名以上、ほとんど遠野市内からの雇用で、市役所の初任給の3倍の給料だったともいわれます。
 閉山は当時の市内経済に大きな影響を及ぼしたといわれます。




 おまけ1

紫陽花





 今が見頃・・・かな?


おまけ2

 飼猫のネネの里、生家をたまたま通ったのですが、兄弟猫らしき猫が庭で遊んでいたので、思わずカメラを向けた。



 どうやらメスらしいが、ネネの妹ということになる。
 顔つきはネネそっくり、ただネネの兄弟は皆虎交じりの三毛猫達で、グレーの虎はネネだけであったといいます。

 他に親と兄弟が居るとのことですが、本日は会えず・・・・。
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福泉寺開祖「宥尊師」壱

2007-07-11 22:07:20 | 福泉寺・伝承等
 遠野ブログ画像展についてはこちらから

 また、当ブログの過去ログをご参照願います。


 我家の菩提寺である法門山福泉寺、その開祖である佐々木宥尊和尚について、簡略ながら、福泉寺開山に関わる概略をご紹介いたします。

 佐々木宥尊師は明治14年3月、上閉伊郡附馬牛村小出(遠野市附馬牛町小出)の佐々木戌松氏の長男として誕生し、本名を佐々木源吉という。

 佐々木家は、明治3年、廃仏毀釈の法令で由緒ある早池峰山妙泉寺は廃寺となり、早池峰神社となったが、その妙泉寺の最大権威者で世話役の任、小出地域の肝煎りで苗字帯刀を許された家柄で、早池峰信仰が盛んだった頃は、登山者の案内などもしていた。

 源吉の祖父は何よりも妙泉寺の再興を念願していたといわれる。


現早池峰神社参道


 明治24年、島根県出身といわれる真言行者、前川慶喜師(42歳)が早池峰山に修行入山していたが、人間の限界を超えたその苦行のことを父親に聞き、興味を覚えた少年源吉は早池峰山4合目で修行する前川慶喜師に会ったといいます。

 この出会いで、祖父から受け継がれた妙泉寺の再興のこと、仏門のこと、源吉少年には、さらに仏門への関心を強く印象付ける契機となったといいます。

 祖父の遺言、早池峰山妙泉寺の復興、父親である戌松氏は廃仏毀釈という世の移り変わりを感じ、寺の復興は現実的に難しいという考えでもあったらしいが、この意志は源吉少年の心奥深くに染み込んでいたとも語られております。

 明治27年、3年間の修行を終え、早池峰山を下りた前川慶喜師は、苦行の影響で途中で倒れているところを父親の戌松氏に保護され、駒木の宮洞の家(松崎町駒木)に担ぎ込まれたという。

 前川慶喜師が担ぎこまれた家、宮洞家・・・我家であります。
 この縁により我家と福泉寺との関わりが始まったことになります。


 附馬牛町小出地区・・・・ほとんどの御宅が福泉寺の檀家さんであり、佐々木姓が多い集落でもある。


 当時の宮洞家の当主は菊池清作で、私から数えて5代前の先祖になりますが、宮洞家は、駒木でも富裕の家であったいいますが、古に何かしらの謂れを持つ家で、病人が絶えず、男子が短命だったり、生まれなかったりと女系の一族であったようです。
 その謂れは私の口からは今は言えませんが、代々婿養子を迎えて家を継続させてきた経緯があったそうで、菊池清作もまた養子でもあります。

 前川慶喜師は、この異変を察知、日々のご祈祷で病人は治癒し、盲目に近かった主人の菊池清作の目も回復したといいますから、かなりの法力を兼ね備えた行者だったと亡き私の父はいいます。

 このことで石鳥谷の光勝寺に立ち寄り帰途に付くはずの前川師を清作は引き止め、宮洞の家への滞在は7年間といわれます。

 この滞在期間中に源吉少年と再会、度々宮洞の家での交流が再開し、仏門への道を希望するも父親の反対で、明治28年に遠野裁判所に就職、その後の明治35年書記官に昇格、この間、結婚をしております。

 しかし、仕事を終えた後、さらに休日には宮洞家を訪ね、前川師との交流を重ねるうち、ついに仏門の道へ入ることを決意、明治36年5月、妻と離縁し、石鳥谷の五大堂光勝寺に帰る前川慶喜師に従って、ともに光勝寺へと入ると同寺の住職、赤塚宥天師に弟子入りし、宥尊の法号を与えられ仏門の世界へと入った。

 宥尊の光勝寺での修行は6年に及び、その後、京都醍醐三宝院、さらに真言宗豊山派の本山である奈良の長谷寺で学び、真言密教を極め、さらにその実直さもあって、師である高木大僧正に嘱目され、下山にあっては江刺人首村(現奥州市江刺区)に名跡だけ残す法門山福泉寺の寺号をいただいて光勝寺に帰ってきた。
 その間、恩師である前川慶喜師は病状に伏せ、宥尊が修行に旅立った後に入滅したと伝えられております。

 光勝寺の師、赤塚宥天師からは寺の後継者を望まれたといいますが、強く辞退して、全国行脚の旅を経て、遠野へ帰ってきます。 


 福泉寺本堂・・・初代住職と開基に関わった人々の労苦の結晶ともいえます。


 遠野では宮洞の山野でさらに修行を積み、宮洞家に滞在、明治44年10月、祖父の念願であった妙泉寺の再興を併せ持ち、また宮洞の地(福泉寺)から北方早池峰山に連なる北上山地の山々に八十八ヶ所の霊場をつくり、早池峰山の頂上には高野山を模した大塔を建てるという壮大な構想だったといいますが、まずはその一歩たる寺の建立でありますが、もとより駒木の人々や生家がある小出の人々の力が頼りではありましたが、真言宗という一般には馴染みのない宗派であることもあり、有形無形の迫害、中傷、圧迫に苦しめられ、さらに新寺建立の申請は尽く却下され、折角完成しかけた堂宇が嵐により倒壊すること2度、幾多の苦難、辛酸を舐めたとはこのことであるが、その努力と不屈の精神の賜物である法門山福泉寺が大正元年に完成、開山。

 大正6年9月29日、新寺認可に係る出願、出頭が30数回に及ぶが、遂に認可が下りる。


夏至の頃の福泉寺庫裏付近

 昭和7年正月23日、53歳でその波乱の生涯を閉じる。
 
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涼を探して・・・Ⅰ

2007-07-09 20:11:49 | 遠野
 遠野ブログ画像展開催について・・・こちら

 画像募集要項はこちら

 さらにチラシ、ポスター、告知フラッシュはこちら

 




 附馬牛大洞から寺沢へと車を走らせる・・・スカイブルーな空と程ほどの雲、標高1千メートルの風はオヤジの肌にも心地良い・・・。
 展望台から綿菓子雲を手づかみできそう・・・・笑


 天ヶ森の後頭部・・・普段正面から見てる天ヶ森、裏もたいして変わりない・・・笑


 車は高原を下り上宮守方面へ・・・。


 行きやすい滝スポットナンバー1


 ここで、イチオシ画像2連発







 山を下りたら街が恋しくなる・・・・画像展予告を行なう「とぴあ」に出没・・・どうやら本日ではないらしい・・・汗






 とぴあ産直がんせ・・・「まがってみでがんせ」のがんせです。

 
 バジルⅡ世60円也・・・安い・・・というより全て100円以下だっ・・驚


 

 販売元は・・・納得でやんす・・懐に優しい○間果樹園さま、そして「がんせ」・・・一応、紫わらびとミニトマトを購入いたしやした。
 和服姿のお綺麗な女性もいて、また来たいと正直思いました。
 (ぶれんど仲間にならないかな・・・汗)


 そして、昼食・・・・。
 
 晩秋の頃の館跡探訪、特に青笹、上郷方面へ行った際は、蕎麦処「ジェストモアベ」をよく利用しておりましたが、本店である「ばんがり」へ移ってしまい、少し足が遠のいておりました。

 しかし、涼を求めて昼少し前のばんがりへ・・・・。


 ジェストモセット・・・五穀ご飯、サラダ、ひじき、きんぴらごぼう、そして天ざる、食後のコーヒー付きで・・八百八十万円也・・・笑

 さらにお店で昔懐かしい70年代のヒット曲が流れている、お店の息子さんかな?、とりあえず聞いてみると・・・「なんでしたら・・・・」・・・来週いただくことになりました・・・感謝


 と・・・そこへ・・・



 軽く会釈と手をさりげなくあげ、ご挨拶・・・。

 当方が食べ終わった後、どうも気になり声をかけてみた・・・「後ろから写真撮ってもいいか」

相手「最近、知り合い達によ、せがまれでよ、後ろがらの写真ばっかだじぇ」

 快く承諾もいただくも、ブログに掲載は教えていません・・・謝




 そう・・・彼なのです、ポスターにも広報にも取り上げられ、知り合いはおろか知らない人達からも声をかけられるとか・・・・笑・・・でもすばらしい。
 一応、同級生でがんす。




 どんどはれ・・・。



おまけ・・・

 本日のイチオシ画像2点


 色は悪いですが、我家のラズベリー


 くもの巣がなんともいえない我家のブルーベリー


 
 一応、800万画素の一眼デジ持っているもので、たまにはそれらしい画像も撮らなければなりませんよね・・・腕よりも機能頼みですが・・・汗
 
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慈覚大師と遠野

2007-07-08 21:01:06 | 歴史・民俗
 「遠野ブログ画像展開催について」は・・・
  こちら
  画像募集要項詳細はこちら

  遠野ブログ画像展告知フラッシュはこちら
 
 

 仙台の東北歴史博物館で「慈覚大師円仁とその名宝」と題しての特別展が開催中である。
 機会は自らつくるものとネット仲間から指摘されたことがありましたが、それでもなかなか機会は、つくることはできない・・・・涙
 どうやら今回は見学できそうにない。

 
 さて、慈覚大師といえば、遠野でもその足跡が語られる伝承があり、馴染みのある人物でもあります。
 遠野というよりも東日本、さらに東北に最も縁ある高徳で、立石寺(山形県)、中尊寺、毛越寺、黒石寺(岩手県)をはじめ、ゆかりの寺社が数多くあり、東北は円仁への思いが特に強く残る地域といえます。

 遠野では早池峰山妙泉寺の開基や遠野七観音の草創に関わったことになっており、遠野のかつての信仰の根底といっても過言はないと私は考えてます。


 大出早池峰山妙泉寺跡(現早池峰神社)

 
 慈覚大師円仁は・・・・

 延暦13年(794年) ~ 貞観6年1月14日(864年)
 下野国(栃木県)で生まれ、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となり、最澄のもとで天台教学を学び始め、その後、遣唐僧となって最新の密教や法華経と阿弥陀信仰などを持ち帰り、世に広めた。
 その業績は高く評価され、わが国最初の大師号である「慈覚大師」を贈られた。







 ということで、慈覚大師の遠野での足跡をみると斉衡年間(854~856)の間に慈覚大師が遠野に至り、高弟持福院を早池峰山に据え、山号早池峰山、寺号妙泉寺、院号持福院、坊号大黒坊のはじまりとされる。

 さらに大出妙泉寺との関わりを伝え、後に遠野七観音と呼ばれる寺院等の創建も嘉祥年間(848~850)とも斉衡年間(854~856)と伝承されている。



 慈覚大師円仁が遠野へ来たのだろうか?、東北に関わる寺だけでも300以上とされる伝承を持つ慈覚大師、これだけ大きな足跡を残し、今日まで語られる慈覚大師ながらも、後の時代、おそらく慈覚大師の弟子達やら天台の教えを広めるためにやってきた天台の僧達の活発的な布教活動によるものなのではと私は考えている。

 ここで根拠を詳しく語る知識は持ち合わせていないが、遠野へは来なかった・・・だろうということで、今後、この方面の研究も行ないたいと思っております。

 しかしながら、遠野における天台の寺院は古きに廃れたという経緯が認められるも、現在の七観音の中には、天台の寺院と伝えられるものもあり、また天台の寺院があったとされる寺跡伝承も残されていることから、この方面の調べも課題として取り組みたいと思っております。



 ついでに・・・・・

重端渓







 さらについでに・・・・旧大出小中学校





 今年3月(2007)をもって統合され、廃校となりましたが、今でも校舎から子供達が飛び出してきそうな雰囲気が感じられます。

 私も複式学級の小さな小学校を卒業した経緯がございますが、そこに母校がない、後輩たる子供達が居ない寂しさは経験済みでもありますし、大人となった今、当時大人達が言っていた子供達の歓声が聞こえない学校、その気持ちがようやくわかった思いもいたします。

 スローライフをうたう遠野、確かに生活やら雰囲気はゆったり流れていると都会に比べれば感じられるも、時代の流れは容赦なく押し寄せている、そんな雰囲気も感じられる昨今でもあります。


おまけ・・・・今日の一枚・・・。


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遠野ブログ画像展開催について

2007-07-06 23:05:33 | 遠野
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古老に聞く

2007-07-06 18:28:52 | 歴史・民俗
 5月中頃、亡くなられた総本家のご当主の四十九日、百ヶ日法要に出かけて来ました。



 あまりキレイではないけど、我家の紫陽花も咲き始めております。
 (確か、秋も咲くんですよね・・・?・・それも結構遅くまで・・・)


 さて、駒木菊池氏総本家、伝承によると亡くなられた方で第24代、現当主の方で25代目と本日聞かされた・・・驚・・・。
 そうしますと、一代30年と計算しても、大よそ7百年は続いている旧家、或いは代々がはっきりしている家となりますが、残念ながら古い系図は無いとのこと。

 地元在住で、松崎町限定の小冊子「松崎歴史がたり」の編集に携わり、駒木編を担当された古老の方と一緒でしたので、色々とご教授いただきましたが、この菊池家の話もご当主を交えての内容、確かに由緒ある家柄ではあるが、どこか無理もありそうな雰囲気・・・・とかく郷土史を長年している古老の方々は、どこかで話を大きくしたり、私論を史実に見立てる傾向がありますが、私も人の事はいえる立場ではありません・・・笑


 しかし、地元の伝承とか、縁の場所なんかは、流石と思わせる知識を持ち合わせているのも古老でもある。


 駒木駒形神社(蒼前神社)

 蒼前神社の創始については、前九年合戦での源義家の伝説やら地元長者に関わる口伝が伝えられるが、この場所は近年に移されてきた場所でもある。

 このことは知ってはいたが、かつての場所は・・・・法要の席で親戚が自分の裏山にあったものだと聞かされ少し驚いた、しかも古老達も実は知らない石碑が残されているとか、川石と同化しているそうですが、明治時代か?当時の人々が寄進した名が刻まれているそうです。
 土淵の栃内の人達らしい・・・・。


 かつての神社があった場所。

 そのうちに石碑の発見と画像でも撮りに行く予定です・・・が・・・ヤマゲスが沢山いるそうです・・・・汗


 それともうひとつ、遠野遺産の話となりましたが、今回は館跡の申請はしなかったそうだ。
 横田城絡みにての遠野阿曾沼氏関連、あくまでも市指定史跡を視野にいれているとか・・・・まっ、それは良いことであるが、松崎館に隣接の真立館の話となりましたが、真立館は新館といって松崎氏の本館か?の話をされた。
 
 


 しかし、私の調べでは規模も構造も松崎館に比べれば劣ると判断しておりますが、少し悔しいので、家から私が描いた要図を持参、見ていただいたが、真立館は南端の山野なはず・・・とご教授を受ける。
 確かに「沼の御前」の話が残る沼跡の山野も館跡と聞いていたし、真立館とも聞いたことがあった。
 
 が、私が記載した真立館のある場所も通称「真立・まったず」と呼ばれているところでもある。

 


 どちらが新館なのか、頭が混乱してしまった。

 指摘した本人も、混乱したようで、いずれ歴史仲間(ほぼ全員古老)で探訪調査するので、一緒に行こうと誘われている。
 当然、同行するつもりでもあります。



 いずれ、わずか1キロの間の山野に3つの館跡が、夏でなければ直ぐにでも調べたいところであるが、こちらも晩秋以降の楽しみに取って置くことにいたします。
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上京

2007-07-04 20:19:35 | その他
 7月2日、その日は勤務日でしたが、お昼前に急用が発生、職場のご理解をいただき、早退。
 なんとか夕方の新幹線に飛び乗り、一路東京へ・・・・。



 翌日の夕方には、嫁さんも到着、東京駅まで迎えに行き、合流・・・・。


 急用もなんとか一段落、プチ旅行ではありませんが、夫婦で水入らずの時を少しだけ過ごすことができました。
 
 災い転じて福と成す・・・・これほど大袈裟なことではありませんが、それでもしばらく無かった夫婦での旅行気分、急用様サマかもしれません。





 本格的な酔いは出来なかったが、久しぶりに夫婦でほろ酔い気分。


 先月頭に上京、今月も上京、1ケ月で2度の上京、しかも今月中か来月初め辺りにも再度の上京の可能性有りで、少しばかり気も重い・・・・。



 おまけ・・・

 遠野ブログ画像展も始動・・・その動きも活発になっているようでもあります。

 都内某総合病院の廊下に飾られた写真の数々・・・ちょうどA4サイズ。

 我々の画像展の何かの参考になればと思い、撮って参りました。
 雰囲気だけでもどうぞ・・・・・。









 遠野ブログ画像展、画像募集要項はこちら

 または、リンク先の各ブログトップにもご案内しております。
 よろしくお願いします。
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遠野ブログ画像展・画像募集

2007-07-01 20:53:46 | 遠野
 予てから、遠野ブロガー(遠野ぶれんど会)にて、企画を練っておりました「遠野ブログ画像(写真)展」を開催することになりました。
 
 とりあえずは、参加ブロガーによる画像の応募要項を定めましたので、お知らせいたします。

 なお、後日、募集要項についてはPDFによる様式に差し替え予定でもあります。
 また、画像展開催については、2007年9月8日~24日までの開催予定で調整中であり、開催要項につきましては、こちらも後日、お知らせいたします。

 ご出展よろしくお願いします。

 なお、画像(写真の)優劣を競うものではございません。
 




 お問い合わせは・・・・

 「ブログくさぐさ」 info@asplan.jp
「じぇんごたれ徒然草」 jengo2@mail.goo.ne.jp
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前沢牛

2007-07-01 17:13:42 | その他
 2007年も半年が過ぎ、7月に突入、気仙川をはじめとして、県内の河川では鮎釣りが解禁、いよいよ夏の季節が到来ですが、それにしても1年といいますか、半年、早いものですね。



 法門山福泉寺
 蝉の声、そして間もなく紫陽花と、白く可憐に咲き誇る山百合の季節が到来となります。



 さて、30日、東京からお客人が来遠、東北自動車道を途中で降りて、前沢にて国内最高級牛肉ブランド「前沢牛」を購入といったことで、本来ならば我々がご馳走するはずが、逆にご馳走になってしまいました・・・・汗

 しかし、国内有数の高級ブランド「前沢牛」をお腹一杯、もう勘弁してくださいと言えるまで、食べれた幸せ・・・贅沢極まりないと思われますが、一生のうち、何度、食べることができるのだろう・・・それもお腹一杯・・・通常なら皆無に近いと思われます。

 でも食べたんです・・・美味かった、とにかく美味かった・・・これしか言い様がございません。


 牛刺・・・県内の回転寿司で2貫500円位か、東京の寿司店では2千円はするだろうと思われます。






 鍋の季節ではないのですが、すき焼きもご馳走になりました。
 肉多めのすき焼き・・・・まさに至福のとき・・・・Yさん、ご馳走様でした。


 金額的には、まさにセコイ内容となりましたが、私が買ってきた黒糖焼酎・・・これでも私としては、奮発した方なんですが、まさに前沢牛の前では、色あせも良いところで、存在感も薄れます・・・汗

 ニ連荘の夜、前日の26時帰宅の疲れも一気に吹っ飛んだ夜でした。


 

 おまけ・・・

 一夜明けて、家族で花巻へ・・・・


 花巻城址

 南部氏重臣、北松斎(北信愛)城代として入城、それ以前は稗貫氏の鳥谷ヶ崎城といわれる。
 後に太守南部利直の子(政直)等が城主として置かれるも、やがて城代が置かれ、伊達藩との南境を守る遠野鍋倉城と共に最重要拠点の位置付けであった。


 某大型店内で懐かしのCDを発見、2組で3千円、買いたいけど少し高い、いや高いとは思わないけど、別の欲しいモノを買った方が良いのではないのか、かれこれ30分程悩むも、天の声が・・・「そったなもの、ネットで買えば、もっとやすぐなるべ」・・・仰せのとおりにしまして撤退いたしました。


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