「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

こんなこともあるさ

2009-08-16 11:14:57 | 遠野
 まずはとりあえずのアップです。
 続きは今夜となりますが、暑い一日となっている遠野地方・・・。


 そんな中、流行りの症状といいますか、帰省中の長女が昨日より40度の高熱にうなされている。
 これは・・・例の新なんとかなんとか・・・怪しいということで早朝に医療機関へ・・・どうやら白と判定とのことで、今後の当方の行動も規制されることなく予定通りとなりそうです・・・。

 


 予定通りになりそうです・・・と書きながら、実際は予定外となってしまった。
 
 夕方早くに送り火、お墓参りを済ませて某地区の舟っこ流しに赴いて過ぎゆく夏をカメラに収めようと色々と下準備をしていると、緊急招集が・・・・まっそれでも時間には間に合うものと考えていたが、これが予想以上の内容・・・人海戦術を余儀なくされ延々5時間・・・涙

 因果な商売と諦めながら、こんなこともあるさということで、本日のエントリーを閉めます・・・涙


 お盆の雰囲気もあまり感じないままお盆も終わってしまいました。
 
 
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盂蘭盆09

2009-08-14 18:27:04 | 遠野
 明番となった14日盆の入り、勤務地は抜けるような青空で一日がはじまりましたが、遠野は晴れてはいるものの雲が多いといったところ、それでも徐々に晴れ渡り気温も上昇し、好天といったお盆となりました。




 葉タバコ生産農家はまさに農繁期、さらに野菜農家もしかりといったところ・・・。



 さて非番ということで、家でのお盆準備に少し出遅れてしまった。
 母親や伯母は既に墓参りに出かけており、来客対応のために家で待機となる。


 父親が亡くなって既に8年、それでも知人や親戚の方が仏拝みに来宅ということもあって、それなりに御返しを準備する。




 午後一番、菩提寺の副住職さんの檀家廻り、我家が最初の家ということで、在方の檀家の家々を午後半日かけて廻ることになります。



 先代の二世住職、宥燃和尚の時代は我家は最後の訪問となり、家族は早めにお墓参りを済ませて和尚さんと共に夕食を食べることが普通であった。
 小生が社会人となってもこの習わしは続き、確か日航機が群馬の山中に墜落したあの大惨事があった年がお盆において宥燃和尚が我家で夕食を食べた最後の年となった記憶が・・・連日、航空機墜落事故の報道が続いていた頃、大惨事にも関わらず何人かの生存者がいて、和尚さんは生存者は何かによって守られたのだろう、何か良い行いがあったのだろう・・・それにしても便利となった見返りに必ずこんな悲惨な場面が付きまとう、人間とは愚かで小さいものだ・・・というようなことを仰っていたことを思い出します。
 宥然和尚はその後、高齢のせいもありますが体調を崩され、公の場への出番は極めて少なくなりました。


 午後は初盆の親戚宅を少し回り、夕方早く家族で迎火焚きにお墓へ・・・。






 遠野においては町方は13日から、在方は14日からが盂蘭盆となり、16日までお墓参りとなりますが、15日は勤務日で当直、小生は16日のみとなります。
 それにしても15日の遠野の花火、今年は観ること叶わず、しかも音すらも聞こえない場所柄、今年は職場でテレビ中継で我慢といったところです・・・涙
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盂蘭盆直前の景色

2009-08-12 19:42:19 | 遠野
 朝から青空が広がり、陽が高くなるにつれて青空がさらに広がり気温も上昇、しかしカラっとした気候で初秋の雰囲気も感じる盂蘭盆前の遠野でした。


 個人的には最近、早池峰山の姿をみていなかったが、ようやく見ることができました。




 駒木(馬の里付近)から物見山、遠野方面



 今が刈り取り盛んの葉タバコ









 お盆前後の1年でも一番暑い時期の刈り取り作業となる葉タバコ、年々葉タバコの作付面積や収穫量も減少傾向かと思います。
 しかし、米の値段が下降している昨今、農家にとってはまだまだ割と良い収入となる葉タバコなようです。





 観光客で賑わう伝承園



 レンタサイクルで来られる方々も結構おりますね。






 生ダラな奴もどんどん出てきております。



 そして盂蘭盆な風景・・・灯篭木(とろげ)



 亡くなられて3年以内の仏様がある家、白は男性、赤は女性を現します。
 気のせいかもしれませんが、地元の地域、例年より灯篭木が多いような・・・・。
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遠野孫次郎は広郷か?其の弐

2009-08-11 19:08:16 | 歴史関連コラム?
 前回は天正年間に織田信長に白鷹を進上(信長公記・巻12)したと記録される遠野孫次郎とは?遠野領主であった阿曽沼広郷なのか?それとも伊達政宗なのか?という疑問点を若干記してみましたが、今回は遠野と南境を接していた葛西氏との関係から私見として紐解いてみたいと思います。


○葛西晴信文書登場の遠野孫次郎

 葛西晴信文書という膨大な資料が存在するが、しかし葛西文書といわれるその9割は偽文書との見解が示され、その信憑性も極めて疑わしいといわれている。
 
 葛西氏は現在の宮城県北部から岩手県南部地方を領した武家で、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿の5郡、さらに本吉、桃生、登米の各郡を勢力下した奥州の大身でしたが、葛西晴信は葛西第17代、最後の当主といわれている。
 天正18年豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しなかった為に奥州仕置きにより所領没収の憂き目となり没落という歴史ではありますが、押し寄せる豊臣軍を迎撃し、華々しくその最後を飾ったとの如く伝えられるも史実では奥州を去り加賀前田家に庇護され彼の地で没したのが真相のようでもある。

 かつては中奥に君臨し、大身であった葛西晴信の没落があまりにもあっけなかったものなのか、その栄華を何かで誇示するかのように、勢力下の各郡主等の武家に宛てた文書が偽装され、その歴史を伝える価値ある古文書として売買の対象に成りうるということで、数多くの偽文書が世に出たものと考察されている。
 このことにより、文書の9割方が偽文書といわれる所以でもある。

 
 しかし、そんな中で、葛西晴信香炉印文書の存在があるという。
 葛西晴信から発せられた永禄2年(1556)から天正19年(1591)までの122通を数えるという。
 その中で南部寛政記録に収められ、遠野市史・住田町史にも引用記載されている遠野孫次郎への文書がある。




 天正15年(1587)10月26日付、葛西晴信から遠野孫次郎に宛てた手紙である。
 住田町史訳によると・・・
 「先日、どうされているのかと思い遣いの者をやりましたが、お返事もなく心許なく思っておりました。従って来る11月2日に信安を世田米まで下向させるので、大儀なことであるが、世田米まで来ていただきたい。鱒沢の件には油断なきようしてください。」


 世田米とは気仙郡の世田米、現在の住田町世田米のことだと認識できる。
 また、世田米に来てほしいということで、ここはやはり隣接する遠野へ手紙を送ったと見るべきだと思いますし、ほぼ間違いないように思える。
 すなわち、遠野孫次郎はその当時の遠野領主である阿曽沼広郷を指しているものと思われますし、鱒沢という名が登場、鱒沢は阿曽沼支族の鱒沢氏で、この時代、阿曽沼主家と分家である鱒沢氏の力関係が拮抗して互いに争いがあったと伝えられますので、この文書の内容はその時代に関して一部とはいえ、よく現しているのではとも思います。

 この手紙が葛西文書における偽文書でなければ、遠野孫次郎の名が登場する唯一の信頼できる史料となり得ますが、どうなんでしょうね・・・・。

 今少し、さらなる詰めも必要でもあり、他の資料での遠野孫次郎の発見もしなければと思うところです。

                         以上





 おまけ


 お盆の帰省で長女が帰ってきている。
 夏休みながらも、のんびりだらりと過ごしている末娘と愚娘の長女、とんでもない組み合わせとなり、暇を持て余しているのか、その矛先は飼猫ネネに・・・









 暑いだろう、汗を搔いただろうと・・・と大人しく寝ているネネを丸洗い、シャンプーの良い香りが漂うも、ネネにはその匂いはどう感じるのだろう・・・。
 たまにはシャンプーは必要ですが、いきなり濡れネズミならぬ濡れネコは可哀想ですよね。
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遠野孫次郎は広郷か?

2009-08-07 18:58:54 | 歴史関連コラム?
 遠野孫次郎、遠野史では阿曽沼広郷(伝・中世遠野領主阿曽沼氏第13代)と長らく語られ、先人郷土史家含めほとんど何の疑問もなく同一人物として伝えられてきた。
 無論、小生もその中のひとりで、遠野孫次郎とは阿曽沼広郷であると今も信じてやまない・・・。

 今回も、平成初めに郷土史料の口語訳を依頼され、また博物館講座での講師を務めた某文学博士の先生による論説の中で、どうしても気になる部分があり、またネット等を通じ郷土史関連の意見、情報交換する方とのやりとりの中で、この論説に関することが再浮上という場面で、今一度考えてみようということで、自問自答に近い内容で記してみたいと思います。

 さて、過去エントリーでも何度か取り上げた経緯がある「遠野保事」関連にて、遠野保ではなく遠野係事の読み間違い、さらに遠野は福島県いわき地方の遠野であること、阿曽沼氏(姓)発祥は福島県阿沼郡であること、阿曽沼と浅沼は同意義にあらず・・・これらは江戸時代の遠野南部家臣、宇夫方広隆による「遠野古事記」「遠野旧事記」さらに「阿曽沼興廃記」は伝聞等による記録に過ぎず、また思い込み等による史実の捏造といった具合にかなり手厳しい批判が繰り広げられている。
 また、後の郷土史家達もなんの批判もなくこれら古書を第一の資料と捉えたために疑うこともなくただ時を費やしてきたかのような内容でもある。
 まっ、これはこれとして、本題は遠野孫次郎についてですので、話を先に進めます。


○信長公記での遠野孫次郎



 天正7年(1579)7月25日 奥州の遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上したという内容が「信長公記」巻12に記されている。

 このことに関して、某先生は、この頃の遠野領主は阿曽沼広郷と伝えられており、信長公記或いは「信長記」(小瀬甫庵・江戸期著)をみた遠野古事記の著者が奥州の遠野孫次郎とあったので、天正年間、現岩手県遠野地方を治めていたのは阿曽沼広郷であるので、遠野孫次郎を広郷と妄想したものとしている。

 確かに遠野孫次郎と資料的に出てくる古いものは遠野古事記、旧事記等の江戸中期に編纂された古書が主で他は皆無等しいものかもしれません。

 某先生は遠野孫次郎を伊達政宗と結論付けしている。
 解説によると、「陸奥国遠い野の孫次郎」という意味らしいですが、政宗の字は孫次郎ともいわれとか?藤次郎は知っているが。
 織田信長は奥州の遠国の情勢等理解していなかったこともあり、単に伊達政宗に関しても遠国の人間として思っただけ・・・という雰囲気でもある。


 これに対する反論・・・
・伊達政宗は永禄10年(1567年)米沢で生まれている。
 なれば天正7年(1579)は12歳であるが、天正5年(1577)に元服しているので、少年とはいえ、一廉の武将として内外には認められたものかもしれません。
 ただし、まだ伊達家当主ではないにしろ、また東北の片田舎の武家である伊達家だったとしても、信長公記登場の他の武家のように○○(国)の何々(地名、姓名)と記するのではないのか?遠い野の孫次郎とはいささか疑問も感じられる。

・伊達家は当時出羽の米沢が本拠地である。
 巻11.天正6年8月5日 奥州津軽の南部宮内少輔・・・等他の記述にもあるとおり、相手方の在地や名については案外きっちり書かれている。
 何故出羽米沢とは記せず奥州としたのだろう・・・。

 下記をご覧いただこう・・・。



 遠野孫次郎より2年前の天正5年(1577)に伊達家から信長に鷹が進上されている。贈主は伊達政宗の父、輝宗となりそうですが、ここでは奥州伊達とあり、出羽も奥州も信長というよりその記録を残した文筆係やら文官達には奥州も出羽もどっちでも良かったものかもしれない、或いは伊達家はあえて奥州の・・・と書状に書き記したものかもしれません。

 しかし、一度伊達家として進上している事実を考えると、次も伊達家としてもよかったような・・・?

 余談になりますが、何かで遠野孫次郎は伊達政宗のことだとみた記憶が・・・さらに遠い野は今の宮城県のある部分を指した言い方とか?

 
 ということで、まだまだ精度の足りない考察といいますか、疑問点含めまして記してみましたが、何せ、遠野孫次郎は阿曽沼広郷だと信じてきましたので、いきなりをこれを覆すとか、また反対に、遠野孫次郎は広郷で間違いないを証明するには今の小生の手持資料や知識では到底太刀打ちできません。
 また難解でもあります。

 この内容等の説が出されて15年以上か?後の展開が分かりませんので、これ以上の調べはその展開、行方を御存知の方々からのお聞きしてから改めて望みたいと考えております。
 何か御存知の方、ご意見、ご見解がありましたら、コメント下されば助かります。


 なお、遠野孫次郎其の弐も近くエントリー予定です。




 阿曽沼歴代公碑・・・松崎町光興寺

 
 遠野孫次郎は阿曽沼広郷公ですよね、歴代の殿様方・・・汗
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水辺・・・宮代橋から

2009-08-06 16:54:15 | 遠野
 ここ数日、夏の暑さが戻って30度超え、それでも燦々と輝く太陽には少しばかり足りない雰囲気、青空もかなり薄いといった具合ですが、春夏秋冬、我家からみた東の空、不定期ながらも午後の一時に青空が濃くなる場面があって、すかさず其処を狙ってシャッターを切る。







 澄み切った青色は秋から冬といった季節がよりいっそう目立ちますが、それでもそれと遜色ない色合いでもあります。

 カメラを持ち出したついでに、レンズを付け替えて愛車で町内を流す・・・図書館で調べものでもしながら涼もうという目論見もありましたが、只今図書館は工事中、2階展示の図書は向いの別棟(老人憩いの家?)で閲覧可能という情報も得ておりますが、今回はパス・・・。

 涼しい雰囲気ということで川辺でカメラを構える・・・。










 宮代橋の下流を覗くと・・・・

 
 誰か川遊びといいますか何か採っている雰囲気・・・・。



 なんかよく見ると女の子?・・・若い女性のような・・・?


 近くには車が・・・其処には網を持ったこれまた若い女性が・・・・。




 いったい何を採っていたのだろう・・・?
 まさか釣り餌の川虫・・・?
 いずれ暑い日ですので川遊びは最高だと思いました・・・笑



 こんな日はエアコンのない我家より燃料代は少し嵩みますが愛車の中が一番・・・程良く涼んで家の中に入りますと・・・・。


 またまた、チミは何をしてるんですか?
 暑いのに狭い所に入って・・・笑









 お帰りニャー・・・笑
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消えゆく遺構?花館

2009-08-04 18:39:50 | 遠野
 まずは、前回エントリー、蓮池の丘に新たに加わった観音様、滑車に釣られての準備段階を解かれ、いよいよ本お見えとなったようです。





 さて、本題エントリー・・・

 久しぶりに飯豊、沢田方面を走行していると・・・・。


 花館跡が残される山野







 杉林の伐採作業がされている。
 それも結構前から作業がされている雰囲気・・・・。

 ちょっとだけ、危惧される内容が・・・・


 郷土史分野、特に史跡に位置づけられると小生は考えているが、城館跡にもの凄く興味があって、以前より市内はもちろん、周囲地域の城館跡と探訪を趣味としております。
 城館マニアと呼ぶ方々もおりますが、それで結構・・・専門的知識は下等であり、郷土史家でもありませんから・・・・。

 こんな位置付けの小生が声を大にするものでもありませんし、山林所有者が居て、自己所有等の山林をどうしようと無関係でもあり、またこれによりトラブルやら反感を招くといったことは極力避けたいが本心でもあります。

 ただ、危惧されるのは花館の場合、西側斜面に遠野でも有数な空堀跡が幾重にも残されている点、木材搬出に係る道が重機等によって開かれ、堀跡が利用されたり、関係なく破壊される恐れがあること、このことがかなり心配でもあります。




 ちょうど林が残されている上部に空堀跡が数本残されているはず・・・伐採箇所が其処で終わってくれ・・・と願うもこれはわからない・・・ただ、なんとか地権者や作業員が堀跡とわかって少しでも破壊を最小限に留めること、或いは避けることを祈るのみでもあります。


 その時々で自然災害やら開発で昔からの姿は若干変わった城館跡もかなりあったと思います。
 しかし、その中には長い年月、静かに山中で眠り、地域でも館山と呼ばれはすれど生活に溶け込んだ単なるいつもの山、見なれた風景といったところだと思っている。
 いつしかこれらを知る古老達は世を去り、ただの伝承としての館跡が次世代に伝えられるだけ・・・とんな遺構があるのか、それはどんなものかは多くの人達にはわからないのだろう・・・いつかはその遺構も風化して判別不能となる時代は来ると思いますし、知らずに開発されたり、或いは自然災害で消滅もあるだろう・・・そんな運命を辿る可能性がある史跡ではありますが、なんとか地域で見守って残すべきものとして考えてほしい・・・。

 でも木々が全て伐採されれば、花館跡の全貌が見えそうで、これも興味がありますね・・・汗



 こちらは本宿館がある山野(土淵町)






 伐採箇所の手前の峰が館跡で、なんとか難は逃れた模様・・・。




 山城探訪は危険が附きもの・・・・汗

 その代表・・・・。



 熊に注意はわかるが、なんか可愛過ぎ・・・笑・・・市外からお越しの方々や小学生児童が熊は可愛いものと誤解しなければよいのですが・・・。



 こちらは熊よりは、かなり大人しいです・・・笑


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蓮池之丘観音

2009-08-03 13:50:12 | 遠野
 今や遠野トップクラスの注目箇所で、しかもプロガーの間ではあまりにも有名である通称「ぶっきみーワンダーランド」・・・ちなみに作者は「蓮池の丘」と名付けております。

 そんな面白ランドに、さらなるお仲間が・・・いえいえ、「ありがたや・ありがたや」・・・汗


2009.8.3 お見え・・・おそらく仮のお姿かと、お盆に併せて正式にお披露目かと?












 そして・・・・・・


 お顔部分・・・・







 土台部分には・・・・






 この観音様は、おそらく白衣観音様であろう・・・。






 このワンダーランド、若干ふざけながらも、どこかほのぼのしたり、楽しめたり・・・しかし、ぶっきみ~・・・には変わりない・・・笑


 その証拠に・・・・・↓








 蓮池之丘観音と呼ばれるのか?それとも河童淵観音?はたまた仏木身観音(ぶつきみかんのん)・・・笑・・・新たなキャラクター追加で勢いを感じるのは私だけでしょうか?・・・汗
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8月ですが・・・

2009-08-01 18:41:51 | 遠野
 ようやくそれなりの夏空が広がった8月1日、まだまだ夏空はこんなもんではないはずですが、久し振りに雲より青空が多い空ということで、今回も少しですが試し撮りに・・・・。


松崎より



 お昼近く、ご不幸があったお宅へ顔出しに・・・その帰り、街場では夏のイベント、七夕祭り開催中ということで、昼の素顔を少しだけ・・・・夜になるとそれなりに飾り付けがされ、通りも賑やかになるはず・・・・。


遠野銘菓「あけがらす」の元祖のお店


 お隣は遠野名物ジンギスカン専門店・・・一日市(中央通り)





 子供の頃は街場の七夕祭りには縁がなかった。
 まずは家に自家用車がない、交通機関はバス、帰りはタクシーとなりますが高くついて家計に影響が・・・おそらく・・・汗

 七夕に出かけたのは結婚して子供達が保育園や小学校に入学してから、最近は「遠野まぬけ節」がこの時期に開催ということで、子供達が踊りに参加ということで、その附き添いついでに七夕等のイベントを楽しむといったところでもありました。

 しかし、ここ数年は子供達も大きくなって親とは七夕等のイベントに行くことを嫌い、友達と楽しむという年頃、嫁さんは面倒臭がって出かけることに難色を示すようになったり、じゃぁ~カメラぶら下げて一人出かけようと思うも、某沼に嵌ってジョッキひとつ飲む手持ち金も不足気味・・・涙
 まっ、翌朝は地区内一斉の河川清掃(草刈)でもありますから、家でゆっくり過ごして明朝に備えようということで・・・・汗



桜木橋

列車が入っていれば、なお結構という構図ですが、このことはいずれまた・・・。

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