「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

記録としての画像

2010-02-09 19:02:45 | その他

 ちょっと大袈裟なタイトルとしましたが、当ブログを開設して、今年8月で丸6年ということになります。

 おかげさまで、多くの方々にご覧いただき、自己満足的ではございますが、遠野プロガーの末席に加わることができ、さらに遠野発信、関連するブログとして少しは名の通ったブログになりつつあると感じているところでもあります。

 当初は、郷土史ホームページを開設しており、その補助的なことに利用という意味で開設した経緯がございますが、郷土史関連よりも遠野の事、そして自らの日記的な事柄が多くなり、本来の目的からはだいぶ逸れてはおります。

 しかし、ここ最近は、これで良いと考えるようになっておりまして、中でも小生が生まれ育ち、現在も暮らす遠野をキーワードに、遠野郷土史、民俗、遠野の今の風景、話題、出来事、思い出等・・・これらを主に今後もご紹介できれば考えているところです。

 

 ブログを始めた事により、多くの皆さまと知り合うことができました。

 これは大きな財産でもあり、特に「遠野ぶれんど」というブログ仲間を得たことは、知人、友人の少ない小生にとっては、たいへんありがたいことでもあります。

 また、ブログをしたことにより、カメラに目覚めたこと、これも大きな出来事でもありました。

 未だに知識、技術は初歩レベルですが、ブログを通じてご紹介する画像等、特にも遠野の風景等は、遠野はもとより岩手を故郷に持つ方々にとっては懐かしく、昔を思い出す内容も少しはあるのではないでしょうか。

 そんな意味では自分自身にとっても、変わり行く故郷遠野の動きなんかも画像を通じてわかる思いもあって、記録としての内容が含まれるブログも今後、若干ですが目指してもいいのかな・・・とも思ったりもいたします。

 

 ご覧いただく皆様、今後もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

昭和35年、福泉寺例大祭

 

 遠野郷しし踊り、駒木鹿子踊

 

 撮影者は、福泉寺檀家さんの方ですが、若い頃の小生の亡親父や親父と同年代の方々も写っている懐かしい写真でもある。

 また、観客の女性の方々のほとんどが和服姿でもあり、時代の流れも感じます。

 何よりも、最近の福泉寺のお祭りと比べれば、結構な人出でもあったということがわかりますし、場所は桜並木の参道で狛犬が居るところ、小生宅の直ぐ上方ということで、現在、塀があること以外は、ほとんど変わっていない。

 

 さらに・・・個人的なことですが・・・汗

 

飼猫ネネ

 

生後半年位ですかね。

 

子猫の頃は、やんちゃで障子は破くは、柱は傷だらけ・・・汗

でも、可愛い猫でもあります・・・汗

 

 

これも記録として残すべきか?・・・大汗

 

 

 

?・・・・爆

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鉄分補給・釜石線

2010-02-08 17:57:48 | 遠野

 本日は、午前中は青空もみえて、なんとか日中はプラスの気温となり、寒さも少し和らいだ遠野でもありました。

 

 そんな中、別ブログの城跡関係の最新画像をと思い綾織方面に行きますと、ちょうど釜石線下り列車が見えたので適当な場所で一応撮影しました。

 

下り・・・釜石行

 

 

目的のモノを撮った後、今度は花巻方面行の上り列車がやって来た。

 

 

先週も列車を撮ってますが、同じ時刻の列車ですね・・・汗

 

実は、この際と思い列車の流し撮りにでも挑戦と目論んだのですが・・・・汗

全て失敗・・・大汗

 

背景が流れなくて普通の画像となってしまった・・・。

 

 

画像処理ソフトで流し撮りのイメージを・・・・

 

こちらも・・・・

 

 

流し撮りも難しいですね・・・。

 

 

 

変わり行く風景・・・。

 

 釜石自動車道工事も着々と進行中といったところ・・・・。

 以前探訪した城館跡の遠景も随分と変わったといったところで、今後、城館跡関連の別ブログ掲載の画像の差し替えも必要と思い、少しだけ撮影といった場面でした。

 

 

西風館跡(綾織町新里(日影))

 

 叔父宅の背後の山野が館跡であるが、叔父宅裏の農地や山林も道路となる予定でただ今、重機等によって盛んに工事中でもある。

 西風館本郭は鉄塔が立つ山野ですが、直ぐ下まで工事範囲、しかもその中には地域で伝承される西風館合戦(弘治年間と伝えられる西風館襲撃事件)での縁の史跡も含まれている。

 弘治(こうじ)年間の事件も工事で消滅・・・・あっ・・・汗・・・失礼しました・・・笑

 笑い事ではないのですが、なんともならずやりきれない思いです・・・。

 

 

 続いて、鳴沢館跡(宮守町上鱒沢)

 鳴沢館跡は、本格的な工事が開始される前、木々の伐採が始まったら頃に探訪しております。

 今はご覧の通り、木々がない上方の斜面の直ぐ上が主郭部分となりますが、辛うじて数段の階段状の平場等は残されている雰囲気、なんとかセーフといったところですが、それでも時代の流れとはいえ、その風景の変わりようは何処か寂しい思いでもあります。

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遠野学会&フォト展示

2010-02-06 18:57:32 | 遠野

 今朝の勤務地、前回の当直に引き続き10センチの新雪が積もり、朝から除雪作業に追われる。

 帰宅すると一応、自宅の除雪作業は終了していましたが、吹雪模様で吹き溜まりなんかもできて、明朝も雪掻きを覚悟といったところです。

 いずれ、ここ数日、毎日のように除雪やら冷え込む気候で参ったといったところですね・・・汗

 

 そんな中、この時期、恒例の遠野物語研究所主催の「遠野学会」がありましたので、参加して参りました。

 場所は、遠野市立図書館視聴覚ホール

 

 

 今年の開催について情報を得るのが少し遅くて、今回の発表内容等もわからないままでの参加でもありました。

 受付を済ませてプログラムを見ると、高校生の研究発表が3つ、松茸採り名人のお話、遠野銘菓明がらすのお話、そしてアツモリ草の研究と保護についての発表の6件という内容でした。

 正直言って、プログラムを見た際は、ちょっとガッカリが本音でして、ひとつでも郷土史関連やら遠野物語発刊百年にちなむ民俗学的な内容も期待していたんですが皆無に等しい内容でもありました。

 

 サブタイトルといいますか、今回の目的のひとつが「遠野の文化・・・」とありますが、それでも遠野学という点では、理科系?の研究発表もその範疇かもしれませんね。

 聴いてみると高校生の発表は、内容も濃く、よく此処まで研究し、頑張っているんだな・・・と思うすばらしい内容でもありました。

・米粉菓子の商品化を目指して~  県立遠野緑峰高校

・遠野の観光について  県立遠野緑峰高校

・植物と光に関する研究  県立遠野高校

 

 特に遠野の観光については、よく調べた内容で遠野観光の弱点なんかも衝いた内容で皆さん頷く場面もしばしば・・・という感じでした。

 ここ数年、遠野を訪れる観光客は年間約60万人、なかなかの数字だと思いますが、以前から指摘されてますが通過型観光で遠野市内への宿泊は全体の1割とのこと。

 ちなみに福泉寺は年間10万人といわれいましたが、ここ数年は2万人にも満たない参拝客数となっている。

 しかし、たまたま木彫観音が日本一の大きさということで、観光化した寺院となりましたが本来はお寺さんであり、参拝客の数がどうとか、そんな思いは今はありません。

 

 今回の発表で、少し期待したのが、遠野銘菓、明がらすの元祖、某菓子店の女将さんのお話・・・・。

・明からすの歴史

 

 明からすは、明治維新間もなく大規模な百姓一揆が起こり、それを鎮圧の為に遠野に進駐した官軍に残り物の菓子を混ぜ、胡桃を入れて出したのが初まりと、何かの書物でみた記憶がありましたが、女将さんのお話では、明治時代末に2代目当主の方が編み出した菓子であるということ、また、切った際に中の胡桃が夜明けのカラスに似ていたので「明からす」と命名したとのお話でもありました。

 こちらもよく言われる由来でもありますね。

 

 他に・・・

・松茸に魅せられて

・遠野のアツモリ草

 

 内容的には、参加して良かった、聴いて良かったが感想で結果オーライですが、例年は遠野物語研究所からご案内が来ていたのに今回は来なかった・・・。

 一応、遠野物語研究所の会員でもあり、年会費も納めているんですがね・・・笑

 

 まっ、来年は、また違った意味で期待して勤務が休みであったら参加したいと思います。

  

 

 

 ということで・・・・

 

 以前の当ブログ記事で、行くつもりはないと言っておりましたが・・・・大汗

 やはり気になって覗いて来ました・・・汗

 

 

 

 グランプリ含め入賞作品13点と最終選考20点

 

 

 応募作品400点余り、応募者は80数名ということで、ひとりで複数応募ということで、最低一人1点は最終選考という形で展示かな・・・と思ってましたが、最終選考は30数点とかで、案外厳しい内容だったことがわかりました。

 また、入選された方々は、流石といった思いも感じ、入選の他にも複数最終選考に残る作品もあったりと、やはり写真が上手い人は、それなりの高い評価を得るんだな・・・と感心したりもいたしました。

 

 

 それと小生、ちょっと勘違いをしておりました・・・汗

 応募した雲海の写真、別な写真と勘違いしており、応募した写真は考えていたものとは少し違っていたみたいです・・・汗

 いずれ、何度も秋の早朝、早起きして高清水に通った思いもあり、入選はしませんでしたが、少しは報われた気持ちになりましたし、居並ぶ力作に加えていただいたという思いで、もっと精進しなければ・・・という思いも込み上げてきたのも正直な気持ちです。

 

 

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岩崎の陣・南部対伊達

2010-02-04 17:42:58 | 歴史・民俗

岩崎城跡

岩手県北上市岩崎

 模擬天守閣がありますが、城が機能していた時代にこのような姿の城が建っていたわけではありません。(天守閣を模した建物は岩崎公民館(公民館閉鎖))

 

☆実録、岩崎の陣・・・南部、伊達、直接対決

○奥州仕置

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めに参陣しなかった和賀氏惣領、和賀義忠は奥州仕置によって改易となった。

 今の北上地方を主に、西和賀、現花巻の東和町をも含む広大な地域を領有する和賀一族は没落、また近隣地域でも現花巻市を治めていた稗貫氏、岩手県南から宮城県北に威勢を奮っていた葛西氏も没落し、現岩手県の北上川流域地域の勢力地図が塗り替えられた瞬間でもあった。

 旧和賀、稗貫の各郡は浅野長政(豊臣秀吉の義兄弟)の管理下に置かれ、南部信直に新領地として与えられた。

 同年8月、奥州仕置軍が上方へ帰陣となると、旧大崎、葛西領(宮城県北~岩手県南)で大崎、葛西旧臣による一揆が勃発する。

 新領主の木村氏は窮地に陥り、後に没収・・・裏で伊達政宗の一揆扇動という内容も囁かれますが、この一揆は和賀、稗貫にも飛び火し、和賀旧領主、和賀義忠等、和賀、稗貫旧臣が蜂起して、二子城を奪還、花巻の鳥谷崎城も稗貫勢に攻められるも、南部信直が軍勢を率いて救援に赴いてなんとか稗貫勢を撃退するも、鳥谷崎城は後に稗貫勢に奪われ、和賀、稗貫は旧勢力が奪還という場面となった。

 翌天正19年2月、九戸政実(二戸)が南部信直に対して一揆を企てると、南部勢は劣性となり、南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請、豊臣秀次(秀吉の甥)率いる中央の大軍が奥州に下って来たのである。

 先の大崎、葛西一揆は会津の蒲生氏郷や米沢の伊達政宗が鎮圧、和賀、稗貫一揆は浅野長政等の中央軍が鎮圧、和賀義忠は二子城から逃れた後に非業の最期を遂げたともいわれ、ここに北上川流域の争乱は沈静化する。

 また九戸の乱も中央軍によって鎮められ、豊臣時代が本格的に始まった時代でもあった。

※一揆という表現ですが、単なる農民等の蜂起とは異なり、かつては武士であった者たちが蜂起と内容で、まさに武装蜂起であり戦(いくさ)でもある。

 

 さて、本題の岩崎の陣、岩崎の戦いは、またの機会に記したいと思います・・・汗

 実はまだ詳細に把握した内容ではなく、また語れるほど勉強しているものでもないもので・・・・汗

 

 陽が沈む光景ですが、また陽が昇る時がやってくるという意味合いで気長にお待ちください・・・笑

 

 伊達といえば、伊達者といわれるように煌びやかで、何処かカッコいいというイメージがあると思います。

 南部は、百姓一揆が多発し、飢饉に度々襲われ、貧しいというイメージが一般的かもしれません。

 さらに人が良く、鈍くさいというイメージも少なからずあるかもしれません。

 

 皆さんも何処かで聞いたことがあるかもしれませんが・・・・

 伊達の殿様と南部の殿様が国境を決めるということで、お互い、日の出と共に城を出て、出会った所を境界にしようと・・・ということだったらしい。

 伊達の殿様は午(馬)に乗ってとの条件を出したそうですが、南部の殿様は、午(馬)を牛に読み間違えしまって、牛にのって出発、お互いは今の北上市の相去というところで出会ったということで、此処を境と定めて、互いに相去ったという由来だともいわれます・・・笑

 馬に乗った伊達の殿様は仙台から遠く離れた北上まで・・・一方、南部の殿様は盛岡から北上まで・・・・南部の人達は、伊達の人達のずる賢さに憤慨して、伊達者は油断するな・・・が教訓となったとのこと。

 

 まっ・・・笑い話的な内容でもありますが、実際は伊達、南部の境は天正末期、上で記した大崎、葛西そして和賀、稗貫一揆の後、伊達政宗が和賀郡や遠野と境を接する旧葛西領を豊臣秀吉から拝領した時からはじまりますが江戸時代になると藩境争いが深刻となり、藩境塚が各地設けられたようでもあります。

 

 かつては南奥州の覇者といわれた伊達氏、一方、南部氏は三日月が丸くなるまで南部領といわれるほど、広大な地域、北奥羽に君臨していたことが窺われ、南部氏の南下、伊達氏の中奥からの北進といったこともありますが、戦国時代に両者による直接的な戦い等は皆無でもあった。

 豊臣秀吉が死去し、関ヶ原の戦いの余波による慶長6年、7年に遂に岩崎の戦いで両雄が鉾を交えることになる。

 

 

 ということで、本日は嫁さんが奥州市水沢に用向きがあるということで、アッシー君となって行っておりました。

 夕方近くまで、用向きは終わらないということで、小生は何処かの温泉にでも浸かって時間潰しを目論んでのことでもあります・・・汗

 近辺では「さくらの湯」「薬師堂温泉」・・・と候補はありましたが、時間があるということで北上まで移動、かなり久しぶりの「逢坂温泉、宝珠の湯」に行って参りました。

 

 

ちょうど良い湯加減で、またまた表向きだけは、サッパリ・・・笑

 

 夏油方面に来たということで、岩崎城が目に止り、写真を数枚、こういったところから岩崎の陣となった次第です。

 城域はかなり広大といった雰囲気で、遠くからも斜面に階段状の平場が確認できましたが積雪が結構あって、探訪はもう少し先になりそうです。

 

 そして昼は・・・・大汗

 

今年2度目の盛岡冷麺・・・。

ミニビビンバと共にいただく・・・。

 

やはり美味かった・・・笑

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節分2010

2010-02-03 18:14:45 | 福泉寺・伝承等

福泉寺

 

 

 今朝の勤務地は、約10センチの新雪が積もり朝から除雪作業、しかも氷点下11度と冷え込み、厚手の手袋をしても指先が痛いほど・・・。

 既に氷点下14度の冷え込みを一度経験しているとはいえ、顔に感じる冷たさも半端なものではなく、感覚的には今季一番寒かったのではないのか・・・と思ってます。

 遠野から通う同僚達が出勤すると口々に遠野方面はこの倍の積雪で、道路は全区間圧雪凍結で「デロデロ」で滑りやすいとのこと、勤務交代の後、家路に着くと情報通り、滑りやすい道路状況で慎重に車の運転をして帰宅いたしました。

 

 さて、本日は・・・・

 

 菩提寺福泉寺の行事で節分会。

 遅くても午前10時までには、受付の任に就かなくてはならず、この道路状況の中、なんとか安全運転に気を付けつつも時間に間に合うよう帰宅したところです。

 

 今日は平日ということもありますが。壇信徒及び厄年の方々、約70名。

 受付係は、最近檀家役員の事務局長的役割となっている親戚の小父さん、そして市内の檀家さんで、やはり受付係専属の男性の方と小生の3名でした。

 檀家役員に名を連ねる方々は、ほとんどご年配で、ここ数年、このような菩提寺の行事の度に記してますが、世代交代が進まず、しかも平日ということもあって仕事を休んでまでもということで、人出不足気味でもあります。

 悲しいかな、毎年のことでご年配の役員さんが体調不良やらご高齢となったり、鬼籍に入られたりと、顔触れもかなり寂しいものとなっており、10年先はどうなっているのか?定年退職された次世代の方々が役員の任に就いてくれるのか、こちらも心配でもあります。

 無論、今回も男性の檀家では小生が最年少でありました・・・汗

 

 午前11時、護摩焚き祈祷が開始され、後に住職さんによるご挨拶、軽い法話、続いて、お加持、お祓いと続く・・・。

 

 

 

そして・・・厄年の老若男女による豆まきが行われた。

 

福は内・・・・福は内・・・。

 

 平日ということもあって例年よりは、かなり少ない人数・・・準備した豆等も余りそうな雰囲気でしたが、準備したモノは全てまきました。

 

 

皆さん、一人ひとり、こんな感じの戦利品の量です・・・笑

 

 

次の菩提寺行事は3月6日の初太師となります。

 

 

 

皆さんが帰られて、檀家さんや下回りの女の方々と、昼食をいただく・・・。

 

 誰が持ってきたのか、差し入れなのかは不明ですが、誰かが「寒仕込みで良い塩梅だとか・・・」と言いながらテーブル前に置かれたモノは・・・・汗

 

 そう・・・カルピスウォーター・・・・汗

 

 

 あまり振らないように・・・・軽く上と下を混ぜてくれ・・・とか・・・・?

 

 そう・・・何度も言いますがカルピスウォーターです・・・・笑

 

 

 小生は、夕方に車を運転しなければならなかったので、少し悔しかったですが、ご遠慮いたしました・・・。

 誰かが・・・・「すっけ・・・」「これ、失敗したんでねがっ・・」との声・・・。

 別な人・・・「いやっ、甘みもあって、うんめ・・・」

 

 これは何だと思います・・・・遠野の特区なもの・・・?

 一般のお宅で造られたのであれば・・・・密造・・・です・・・・大汗

 

 

 ところが・・・・実は・・・・

 

飲むヨーグルトだったとのこと・・・・笑

 

それを聞いて皆で大笑いとなりました・・・・

 

どんどはれっ

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氷筍2010

2010-02-01 18:19:28 | 遠野

 ここ3年ほどになりますかね、毎年この時期に見学に行っております、氷の造形・・・氷筍を撮りに行って参りました。

 

まずは氷柱

 

いつもより迫力に欠けるような・・・・。

 昨年はサメの歯?龍の牙?・・・牢獄の鉄格子みたいにビッシリと垂れ下がってましたが、今年はやはり少し少ないような感じがしました。

 

 ということで、今年も先月10日過ぎから、まだ小さいかな、もう少し成長を待とうとか、2月まで我慢しようとか、その日が来るのを待っておりましたが2月の声を聞いたということで、例の場所へ行ってきたところです。

 先行者は2~3名ですかね?固まった雪に最近の足跡が一人分、古い足跡と思われる窪みが2名分?まだそんなに見学には訪れていない雰囲気。

 

氷筍

 

ちょっとピンボケ気味ですが・・・汗

 

 

 

 ひょっとして、まだ小さいのかな?とも思いましたが、案外それなりの大きさになっておりました。

 でも、ここ最近、雨が降ったりと気温が上がった日もありましたので、融けて倒れたり、途中が細くなった氷筍も見られます。

 また、氷柱も結構落ちたという雰囲気もみられました。

 

 

 さて、最奥部の小さな洞窟へは、新しい足跡はみられなかった。

 こちらは知らない人も多いのかな?数は少ないけど、形的にはこちらの方がお薦めなんですがね・・・笑

 

 

 

こちらもまずまずといったところ・・・。

 

 

ついでに・・・・

謎の洋館跡・・・笑

 

 

いつみても不思議な光景です・・・笑

 

 ところで、数年前から色々と物議がありましたが、結局、これはなんであったと結論付けがされたのでしたっけ・・・?

 石灰石採掘のための発破用火薬格納施設、それとも軽便鉄道時代の石炭置場?

 忘れてしまった・・・汗

 

 

 ところで・・・・

 

さるお方のご配慮で、すばらしいものが手に入りました。

 

これです・・・笑

 

 

 ゲゲゲの鬼太郎でお馴染みの水木しげる先生の「遠野物語」

 読み物としての遠野物語が難しいという方、初心者の方には特にお薦めです。

 漫画ですから・・・・。

 

 遠野物語という摩訶不思議な世界と水木しげるワールドが見事融合といっと雰囲気抜群の一冊、これはすばらしいです。

 

 

遠野物語68話

安部屋敷・・・・

 

 地域の伝承としても源義家と安倍貞任との土淵町似田貝伝承、八幡座の戦い、足洗川の話等、なかなか詳しいです。

 是非にこれを機会に遠野物語の世界へ・・・・。

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