「さて、シルの事より初子さんの事だ。」
宇宙船の通路で、現在のミルはにこりと笑いました。彼は窓外に映る青い星を見詰めていました。その清涼な紺と青、そして動的な白のコントラストに魅せられて、落ち着いた彼は前向きに気持ちを切り替えました。彼は他の乗員には秘密になっている特殊任務と宇宙に浮かぶこの星の地表に住む1人の女性に心を馳せるのでした。彼は決意しました。この思いをきっと実らせてみせる、と。
5月、地球上の北半球、ここ日本の地に若葉の季節が訪れました。巷では清々しい薫風が吹く頃です。緑陰も日増しに濃くなって行きます。地表では様々に色とりどりの花が咲き乱れ、美しく香りのよい花の代表格、薔薇などもあちらの庭、こちらの庭と咲いているのでした。
「良い香りだなぁあ。」
紫苑さんは、ここ郷里に戻って来てから暇に任せて逍遥する事で、彼独自に発見し習い覚えた各お宅の、花の庭の名所を気持ちよく巡っていました。中でもここ、ホワイトクリスマスの白い薔薇が植えられた前庭のある、手入れの行届いた家は彼の大のお気に入りでした。家の傍に近付いただけで風に乗ってその香りを漂わせてくる、白く形の良い薔薇。この花は容姿も美しく清らかな純白の花弁です。この場所で紫苑さんは妻に先立たれたこの世の侘しさを忘れ、暫しこの高貴な花に目を留め香りを堪能するのでした。
「1本如何ですか?」
ふいに垣根の向こうからこの家の主らしい、白髪交じりで眼鏡をかけた中年の男性が現れました。紫苑さんよりは若干年が若そうに見える人でした。
「折られるよりは切った方が枝に良いですから。」
何だか意味ありげな物言いに、紫苑さんがその人の顔を見ると、その人の目は笑っていました。
「折る?」
「いや、あまりに美しい花なので見惚れていただけです。このまま咲かせておいてあげてください。」
紫苑さんはそう言って寂しそうに微笑むと、主の顔から目を逸らしその白い花をもう1度見詰め直しました。そして彼の言う事ももっともな事だと感じました。
この時、紫煙さんは薔薇の罪深い美しさに思いを馳せたのです。何しろ彼もこの年になるのです、世間の色々な出来事を見聞してきました。世の中には園芸愛好家を悩ませ、憤らせる花泥棒のいる事を百も承知していました。彼にはこの家の薔薇を折り取る人がきっといる事は、極めて容易に察しがついたのでした。